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【東方SS】古明地さん家の灰かぶり

2010/9/26に東方創想話に投稿したSSです。
 


『古明地さん家の灰かぶり』



 子猫の燐と子鴉の空は、四本足と二枚の翼で旧灼熱地獄上層を必死に逃げ回っていた。

『マァァァァァァァテェェェェェェェェェ!!』

 恨みに満ちた恐ろしい声が、背後から追いかけてくる。燐と空は悲鳴を上げて逃げながら、ちらりと後ろを見る。

『シネェェェェェェ、シネェェェェェェッ!!』

 理性の欠片も感じられない絶叫を上げているのは、ドス黒い光の玉、灼熱地獄の浮かばれぬ怨霊だ。前面に恐ろしく醜い顔がついていて、燐と空を食らおうとしているかのようにガバリと顎を開けている。
 その口から吐き出される憎しみの叫びは、

『オレヨリカオノイイヤツハミンナシネェェェェェェェッ!!』
『ひぇぇぇぇぇぇぇっ!』
『くんなくんな、こっちくんな、このアホ、アホーッ!』

 醜すぎる怨霊に向かって、燐と空は必死に叫ぶ。無論彼女らは動物であるから、端から見ればにゃあにゃあカァカァ鳴いているようにしか見えなかっただろうが。
 一匹と一羽は小さな体で必死に逃げ回ったが、やがて終わりが来た。
 進む先に高い高い崖が現れ、行く手を塞いだのだ。

『うわぁ、行き止まりだぁ!』
『お燐、お燐!』

 空の悲鳴に燐が振り返ってみれば、あの怨霊がまっしぐらに向かってくるのが見えた。見苦しいほど醜い顔に、それはもう嬉しそうな笑みを浮かべている。

『うわぁん、キモイよーっ!』
『どどど、どうしよう、お燐!』
『うぅ……仕方ない。おくう、あんただけでも逃げな! あたいは飛べないけどあんたなら飛べるし』
『ヤダ、お燐のこと置いてくなんてヤダ!』
『そんなこと言ってる場合じゃあ』

 にゃあにゃあカァカァ言い争いしている内に、燐たちは逃げる機会を完全に逃してしまった。みすぼらしいほど醜い怨霊がニタニタと笑いながら、ゆらりゆらりと周囲を飛び回る。
 燐と空はもはや悲鳴を上げることすら出来ずに身を寄せ合って震え上がり、同時に叫んだ。

『助けて、さとりさまぁーっ!』
「……こんなところで何をしているの、あなたたち」

 草木も生えぬ灼熱地獄に、静かな声が響きわたる。怨霊が驚きながら振り返り、燐と空が歓声を上げた。

『さとりさま!』

 怨霊の向こうからやってきたのは、小柄な少女であった。色素の薄い紫の癖毛と、どことなく眠たげにも見える半眼。

『オオオオオ、オンナァァァァァ!!』

 耳を塞ぎたくなるような怨霊の声に眉一つ動かさず、彼女は静かな足取りで歩いてくる。
 そして燐たちと怨霊の間に立ち塞がると、いっそ哀れなほどに醜い怨霊をじっとりと見つめ始めた。

「……」
『ナナナ、ナンダ、ナンカモンクアンノカ!』
「……」
『ヤヤ、ヤメロ、ソノメ、ヤメロ!』
「……」
『ウゥ……ジトメノオンナノヒトコワイヨォーッ!』

 さとりの無言の圧力に、怨霊は情けない悲鳴を上げて泣きながら逃げ出した。
 燐と空はぽかんとしていたが、さとりがおもむろに振り返ったのでびくりと震えた。

『ど、どうしようお燐、灼熱地獄には入っちゃいけない約束なのに……!』
『うぅ……さ、さとり様怒ってるかな……』

 びくびくしながら待つ二人を、さとりはじっと見つめていた。
 が、やがてふっと頬を緩ませると、仕方ないなあ、と言いたげな微笑を浮かべてちょっと首を傾げた。

「二人とも。危ないからここには入ってはいけないと言ったでしょう。本当にやんちゃな子たちね」

 叱りつけるような口調ではなかった。
 燐と空はお互い見合って、パッと顔を輝かせる。

『さとりさま!』
『さとりさまぁーっ!』
「あ、ちょっと待って」

 飛びつこうとする燐たちを、さとりは慌てて止めた。ぴたりと停止する二人の前で、首にかけた手ぬぐいを取ってゴシゴシと手を拭う。しばらくそうやってからおもむろに手の平を見て、ちょっとため息を吐いた。
 さとりは手ぬぐいを首にかけ直すと、飛びつきたくてうずうずしている燐たちにくすりと微笑み、その場に膝を突いて両手を広げた。

「おいで」
『さとりさま!』
『さとりさまぁーっ!』

 今度こそ躊躇なく、燐と空は体当たりするようにさとりの胸に飛び込む。さとりは「げふっ」と小さく息を漏らしてちょっと顔をひきつらせながらも、優しい微笑を浮かべて燐たちに語りかけた。

「遊ぶなら他の場所にしなさい。この灼熱地獄には浮かばれぬ怨霊がたくさんうろついているのだから。今のような怖い目に遭うのはもう嫌でしょう?」
『はい。ごめんなさい、さとりさま』
『怖い目に遭ってもさとりさまが助けてくれるから大丈夫だもん!』
『こ、こら、おくう!』

 嬉しそうに馬鹿なことを言い出す空を、燐は慌てて咎める。
 さとりは気にした様子もなくクスクス笑うと、灼熱地獄の天井を見上げて「さて」と小さく息を吐いた。

「それじゃ、帰りましょうか。他の子たちもお腹を空かせているでしょうし、あなたたちも疲れたでしょう?」
『はい、さとりさま!』
『おなかすいたーっ!』

 元気よく返事をする燐たちに微笑み、さとりはゆっくりと歩き出す。
 燐と空はさとりの腕の中で、じゃれるように身じろぎした。大好きな主に少しでも密着しようと争っているのだ。
 さとりが苦笑する。

「二人とも、あまりくっつかないの。わたしは今煤まみれだから、あなたたちまで汚れてしまうわよ」
『そうだよおくう、あんたはその辺飛んでなよ!』
『お燐こそ下歩いたらいいじゃん!』

 にゃあにゃあカァカァ鳴き合って、燐と空は再び熾烈な場所取りを始めた。さとりは迷惑がることもなく腕の中のペットたちを見下ろし、幸せそうにそっと微笑む。
 ところで、実際彼女は煤まみれだった。やや丈が余っている地味な色合いの作業着(胸には「是非曲直庁」の文字が縫いつけられている)も、首にかけた手ぬぐいも、そして彼女自身のほっそりした顔も、どこもかしこも煤と埃だらけ。
 あなたたちまで汚れてしまうでしょう、と、昔は汚れたままペットと触れ合うのを拒んでいたものだ。しかしペットたちが構わずじゃれついてくるため、最近は割と諦め気味である。それでも必ず、首にかけた手ぬぐいで手だけは拭うようにしているようだったが。
 さとりは毎日こんな風に、薄汚れた作業服に身を包んで煤まみれの汗まみれになって働いている。この灼熱地獄の上に建つ地霊殿への居住と引き替えに、ここの管理を任されているのだ。仕事の内容は死体運びに怨霊の監視、灼熱地獄の温度調節など、多岐に渡る。
 燐はただの黒猫であり、さとりのペットの中の一匹に過ぎない。だから主の仕事がどんなものなのか、具体的なことはあまり知らなかった。
 ただ他のペットたちよりは幾分か利口だったので、毎日疲れ果てて帰ってくる主を見て「大変そうだなあ」と気にしてはいたのだ。今日言いつけを破って灼熱地獄に降りてきたのだって、遊びに来たというよりはさとりのことが気になったから、という理由の方が大きい。

「……そうだったの。ありがとう、お燐。でもわたしは大丈夫よ」

 こちらの心を読んだらしく、さとりは温かな笑みを浮かべて燐の頭を優しく撫でた。その手は先ほど手ぬぐいで拭ったばかりだったが、汚れは完全には落ちきっていなかった。手の平の細かい皺や爪の先などに、黒い煤がこびりついている。それだけでなく、仕事のために刻まれた細かい擦り傷切り傷もたくさんあった。
 けれども燐は全く気にしなかったし、空も空で『あーっ、お燐ばっかりズルい!』とカァカァ騒ぎ立てる。さとりは苦笑して、空の頭も撫でてやる。
 さとりは他者の心が読める覚り妖怪だったため、声を持たぬペットたちには人気のある主だった。だから地霊殿はいつも、たくさんの動物たちで溢れている。
 その代わり、地霊殿の外……旧都と呼ばれる町や、地底と呼ばれるこの世界の他の住民たちからは、避けられているらしい。燐にはよく分からないが、声を持つ者にとって心を読まれることは嫌なことらしい。
 だからさとりには獣以外の友達がいない。
 人間のような姿をした者は、皆彼女から離れていくからだ。

(……一人だけ、いてもいいはずなんだけどなあ)

 燐がその少女のことを頭に思い浮かべたら、さとりは少し寂しげに微笑んで、

「お燐。こいしのことは……」
『あーっ!』

 と、突然、空が甲高い鳴き声を上げた。バサバサと羽をばたつかせて、さとりの腕の中から無理矢理飛び出す。
 小さく悲鳴を漏らす主の横で、燐も相棒ににゃあにゃあと抗議した。

『ちょっとおくう、危ないじゃないのさ!』
『こいしさまがいた!』

 出し抜けに鴉が鳴いたので、燐とさとりは思わず顔を見合わせてしまった。

『こいしさま、って』
「おくう。こいしがいたの? どこ?」
『あっち、あっちの岩の辺りにいた!』

 空が羽をばたつかせて、ちょっと離れた岩場を指した。灼熱地獄と言っても、ここは最上層。かなり暑くはあるが下層のように溶岩が煮えたぎっているわけでもなく、周囲には草木一本生えぬ荒れ地とゴツゴツした岩場が広がっている。
 そんな荒涼とした景色に、燐とさとりは目を凝らす。

「……いないみたいね」
『ちょっとおくう、本当にいたんだろうね?』
『本当だよ! ぜったいこいしさまだよ! こいしさまーっ!』

 名を叫びながら、空がばたばたと飛んでいく。燐も慌てて地面に降り立ち、主と共に鴉を追った。
 そうして彼女らはしばらくの間周囲を探し回ったが、お目当ての少女を見つけることはどうしてもできなかった。

『見間違いだったんじゃないの?』
『違うよ! ふわふわで銀色の髪の人がふらーって飛んでったんだもん、ぜったいこいしさまだよ!』

 空は羽をばたつかせて主張する。
 さとりがそっと鴉を抱いて語りかけた。

「おくう。そのときのこと、もう一度思い出してくれるかしら?」
『はい、さとりさま』

 空が目を閉じて、小さく喉を震わせる。さとりも空を抱いたまま目を閉じた。心を読みとっているらしい。
 ややあって、ゆっくりと目を開き、

「……本当に、いたみたいね。ありがとう、おくう」

 さとりが小さく息を吐いて、空を離してやる。じっと荒野を見つめている主に、燐はおそるおそる問いかけた。

『それで、今はどこに……』
「分からないわ。どこにも見あたらないし、、もうどこかに行ってしまったんでしょう」

 さとりはこちらに背を向けて、小さな声でぽつりと呟いた。

「仕方のない子ね。家にも帰らず、ふらふらしてばっかりで」
『さとりさま……』

 見上げる燐の前で、さとりは小さく首を振った。
 こちらに振り返り、気を取り直すように言う。

「さ、お家に帰りましょう。二人とも、お腹空いてるでしょ?」
『あ、忘れてた!』
「おくうったら」

 くすくす笑うさとりのことを、燐は足下からじっと見上げる。煤に汚れた笑顔の裏側に、拭いきれない寂しさと疲れが見えるような気がした。



 翌日、燐は地霊殿の前に丸くなりながら、小さく喉を鳴らしていた。喜んでいるのではなくて、悩んでいるのだ。
 悩みの種は、もちろん昨日のこと。いや、昨日の出来事から考えたこと、と言った方が正しいだろうか。

(……何か、わたしにも出来ること、ないかなあ)

 さとりは今日も、地霊殿の下に広がる灼熱地獄へ出かけている。ペットたちと一緒に朝ご飯を食べた後、慌ただしく仕事に出て行った。
 今はもう、いつものように煤まみれになって働いていることだろう。洗濯しても汚れが落ちきらない作業服に身を包み、首にかけた手ぬぐいで時折汗を拭いながら。
 燐はそんなさとりのために、自分も何かしたいと思っていた。似たようなことはずっと前から漠然と考えていたのだが、昨日のことがあって、ようやく本気で何かしようと決心したのだ。
 しかし、何をしたらいいのかはよく分からない。
 そもそも、何の変哲もない猫の身では出来ることは限られていた。

(お仕事手伝う、ってわけにもいかないしなあ……)

 以前似たようなことをさとりに言ってみたことがあったが、やんわり断られてしまった。
 燐や空の体で灼熱地獄の仕事をするのは難しい、というのもあったが、それ以上に怨霊蠢くあの場所で、さとり以外が働くのは危険なのだそうだ。
 それが何故なのか、理由も説明してもらった気がするが、話が難しくてあまり覚えていない。
 ともかく、さとりの仕事を手伝うのは難しいらしい。
 そもそもお燐は生来慎重というか臆病な性質で、死体やら怨霊やらの類は大の苦手であった。

(でもなあ。他にできることって言ったら……あたいら以外の連中の世話、とか……だけどみんな割と気ままにやってるし、世話する必要なんてほとんどないんだよねえ……)

 地霊殿のペットたちは、自分たちの意志をくみ取ってくれるさとりを慕って集まっているだけだ。元々は野良だった連中ばかりなので、餌がなくなれば自分で取ってくるだろう。
 本来、主の世話など必要しない動物たちなのである。

(となると、他にできることは……)

 遠く寂れた旧都の景色を見つめ、地霊殿正門の前に丸まったまま、燐は悩み続ける。
 そこへ、慌ただしい羽音が降ってきた。

『お燐、お燐』
『やあ、おくうじゃないの。どこ行ってたのさ、あんた』

 空を見上げて、燐は呆れて言う。
 今日の空は何だかいつも以上にぼけっとしていて、散々ぼろぼろ零しながら朝食を食べた後、ふらふらとどこかへ飛んで行ってしまったのだ。

『まったく。こいしさまじゃないんだからさ』
『えっ、こいしさま、いるの!?』

 慌てて周囲を飛び回る空に、燐はため息を吐く。

『違うよ。そういう意味じゃないって』
『……そっかー。こいしさま、はやく帰ってくればいいのにね。そしたらさとりさまもさびしくないのに』
『……そうだねえ』

 猫と鴉が揃ってうなだれ、なんだかしんみりとしてしまった。
 いかんいかん、と燐は首を振る。寂しいのはさとりであって、自分たちではないのだから。

『で、おくう。あたいに何か用かい?』
『あ、そうだった。忘れてた』
『相変わらず鳥頭だね。で、何?』
『うん。えっとね、えっとね……』

 空は首を傾げて言う。

『こいしさまみたいになるのって、どうやったらいいの?』
『……? どういう意味よ?』
『だからさー。ほら、長い手足と胴があって、人間みたいな顔がついてて』
『ああ。要するに人化の術が使いたいわけね』

 妖怪の中には、そういう術を用いて人の姿を取る者も数多い。あの生き物の姿は何かと便利なものらしい。姿を変えて人を欺く、という意味でもそうだが、単純に、獣の姿よりも器用なことが出来るという利点が大きいらしい。

(……ん? 待てよ?)

 ふと、燐は気がついた。
 人化の術、というのは、なかなかいい手なのではないだろうか、と。

(そうだよ。あの大きな体に五本の指があれば、猫の姿でいるよりももっといろんなことが出来る。そしたら……仕事の手伝いは無理でも、疲れてるさとり様にご飯作ってあげたり、お風呂湧かしてあげたりできるかも……!)

 広がる夢に興奮し、燐は尊敬の眼差しで空を見る。『なに、どうしたの』とカァカァ鳴いて首を傾げている、旧来の友人。間抜けな鴉だと思っていたが、なかなかいいことを思いつくではないか。
 いや、空だってさとりのペットで、主のことが大好きなのだ。自分と同じように、昨日の夜からあれこれ悩んでいたに違いない。

『いや見直したよ、おくう!』
『うにゅ? 何が?』
『あんたの考え! 人化の術ってのは、すっごくいい手だと思う!』
『本当!?』
『本当、本当!』
『さとりさまよろこんでくれる!?』
『ああ、うまくやればきっと大喜びさ!』
『わぁい、やったぁ!』

 喜びのあまり周囲を飛び回る空につられて、燐も辺りを駆け回る。
 そんな風にひとしきり喜びを表現した後、

『……ところで、人化の術ってどうやるんだろうね?』
『わかんない』

 燐たちは顔を見合わせて首を傾げた。
 人化の術、というのはそれなりに高度な術だ。ただの猫と鴉がすぐに使えるものではない。
 長年生きた動物には妖力が備わって、そういった術もほとんど自然に身に付くという噂だが、残念ながら燐たちはまだその域に達してはいなかった。
 早速行き詰まってしまって、燐と空はうむむ、と唸る。

『……まあ、実際わかんないもんはしょうがないよね』

 燐はため息を吐いて言う。

『誰かに教えてもらおうよ』
『誰かって、誰に?』
『そりゃ、術を知ってる妖怪だよ』
『……どうやって教えてもらうの?』
『……さあ』

 相手がさとりでもなければ、自分たちの声を伝えるのは難しいだろう。
 人化の術を修得している獣であれば言葉は通じるかもしれないが、指導してくれるほど親切な者がいるかどうか。少なくとも、知り合いにはいなかった。

『街は物騒だから近づかない方がいいってさとりさまに言われてるしなあ』

 お燐が呟いた瞬間、突如として旧都の方から物凄い轟音が聞こえてきた。ぎょっとしてそちらを向くと、遠くの方でもうもうと土煙が上がっているのが見える。
 同時に、怒声と剣戟がかすかに流れてきた。
 静かな地霊殿ではとんと聞いたことのない、戦の騒乱。
 遠く離れていても空気を通じてびりびりと肌に伝わる、剣呑な気配。
 燐と空は自然と身を寄せ合い、息を飲んで音が収まるのを見守った。
 やがて、先ほど土煙が上がった辺りから無数の影が飛び出して街外れの方に向かっていき、危険な気配も遠ざかっていった。

『……ああ、びっくりした』
『こわかったねえ』

 二人は体を離してほっと息を吐く。
 朽ち果てた廃屋ばかりが立ち並ぶ旧都でああいった騒乱が巻き起こるのは、さして珍しい話ではない。
 他のペットたちから聞いた噂話によると、大抵は鬼族と悪党妖怪たちの戦だそうな。まだ子猫で世情をよく知らぬ燐には、彼らが何故戦っているのかはよく分からない。
 ただ、今あそこに行ったらきっと怖ろしい光景が広がっているのだろう、ということは容易に想像できた。
 きっと燐が苦手な惨たらしい死体がたくさん積み重なって、廃墟の中に苦しげなうめき声が満ちているに違いない。

(やだなあ。戦なんて怖いなあ。こっちに来ないといいなあ)

 不安に怯える燐の横で、空が心配そうに呟いた。

『こいしさま、大丈夫かなあ』
『……大丈夫だよ。こいしさまは誰にも見つけられないし、巻き込まれてるわけないって』
『うん……』

 空がなんだかしょんぼりしているので、燐も少し気持ちが沈んでくる。

『……あー、ダメだダメだ』

 燐は思い切り体を振るって、暗い気持ちを無理矢理追い出した。横できょとんとしている空に向かって、努めて明るい声で言う。

『あんな調子じゃ、街で誰かに術を教えてもらうのは難しそうだね』
『どうするの?』
『うーん……そうなると、街の外で暮らしてる妖怪しか当てがないけど』

 それはそれで難しいだろうな、と燐は思う。
 街があんな状態だから、旧都外の岩場で暮らしている妖怪もそれなりにいるという話だ。
 だが彼らは互いに警戒し合って見つかりにくい場所に隠れ住んでいることが多いらしく、住処を見つけるのにも苦労しそうだ。そもそも地底に来た経緯からして内気な性質の者が大半だというし、見つけたところで術を教えてもらえるとは限らない。

『さとりさまに教えてもらうのは?』
『知ってるかなあ……いや、知ってたとしても、仕事の邪魔はしたくないし……それに、どうせだったらいきなり人型に変身してびっくりさせたいじゃない』

 そう考えると、しばらくさとりの前には出ないようにしなければならない。
 心を読める主の前では、自分たちの企みなどすぐにバレてしまうから。

(……冷静に考えたら、難しいことだらけじゃん……)

 思った以上の困難さに、頭が痛くなってきそうだ。
 だが燐は諦めるつもりなどなかった。必ずや人化の術を修得して、主の役に立ってみせよう。
 そんな風に闘志を燃やしていると、不意に空がブスブスと頭をつついてきた。

『って、痛い痛い、クチバシ痛い! なにすんのさ、急に!』
『お燐、あれ、あれ』

 と、空が指す方を向くと、暗い地底の天井から誰かが降りてくるのが見えた。ただの猫に過ぎない燐にも分かるほど、神々しい気配を放っている。
 立派な帽子と衣装を身につけた女性だ。さほど大きな体格ではないはずなのに、実際の何倍も背が高く見える。

(閻魔様だ)

 燐と空は自然と姿勢を正していた。世情の分からぬ子猫と子鴉にすらそういった態度を取らせるほど、閻魔様が纏う気配は威厳に満ちている。
 どことなく不機嫌に見えるほど堅い表情で正門前に降り立った彼女は、燐たちの横を通りかけてふと立ち止まった。びくっとする子猫と子鴉をちらりと一瞥したあと、何も言わずに地霊殿の中へと入っていく。
 その背を見送り、燐と空はぶはぁっと大きく息を吐き出した。

『あー、こわかった』
『そうだね、やっぱりこわいね、えんま様』

 いつも脳天気で鳥頭な空ですら、閻魔様には畏敬の念を抱かずにはいられないらしい。
 それも仕方のないことだろう。閻魔様と言えば大妖怪もひれ伏すほど強くて偉いお方である。
 たまにここに来るのだって、灼熱地獄の管理状況についてさとりの報告を聞きにくるためだと言う。それはつまり、閻魔様がさとりよりもずっと偉いお方だという意味でもあった。

(……ん、待てよ?)

 と、燐は不意に名案を思いつき、明るい声を上げた。

『そうだ、これだ!』
『わぁ、びっくりした。急にどうしたの、お燐』
『人化の術だよ、人化の術! 閻魔様に教えてもらえばいいじゃん!』

 興奮しながら燐が言うと、空は「えーっ」と驚いて羽をばたつかせた。

『そんなことしてだいじょうぶ? おこられない?』
『大丈夫だよ、あたいたちいいことしようとしてるもん! 怒られるはずないって!』

 それに、閻魔様ならきっと秘密を守って下さるだろう。ああいった強い存在の心はさとりでも読めないときがある、と聞いたことがあるし。

『ようし、そうと決まれば早速準備だ! 閻魔様が出てくるまでに、出来る限りきれいにするよ!』
『うん、わかった!』

 二人は急いで互いの体に触れ合い、身だしなみを整え始めた。



 古明地さとりからの報告を聞き終えた閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥは、重いため息を吐き出しながら地霊殿の外へと出てきた。
 今回の視察でも、管理状況に問題はなかった。放置された死体の整理も怨霊の監視も灼熱地獄の温度調節も、予定通り、規定通りに行われている。
 古明地さとりがほとんど一人で作業していることから考えれば、実に驚くべきことだ。

(……もっとも、今の是非曲直庁には、それを評価してくれる者はほとんどいないでしょうけど)

 舌打ちしたい気持ちを抑えながら、映姫は正門へと続く石畳の道を黙々と歩く。
 この地霊殿も、旧都を含む地底世界が彼岸にあった頃とは大分雰囲気が変わっている。
 ここはかつて、是非曲直庁の施設として利用されていた建物だ。往時はたくさんの者が行き交い、庭園は慎ましいながらも美しく整えられていたものだが、今は見る影もない。屋敷も庭園も荒れ放題で雑草が生い茂り、手入れされている様子が全く見られない。
 と言っても、これは現在の主が怠惰だからではない。現に先ほどさとりの報告を聞いていた応接室は、客に不快感を与えないようきちんと掃除され、落ち着いた色合いの調度で整えられていた。
 それは逆に言うなら、応接室以外の場所をきれいに整えている余裕がないということでもある。さとり一人で灼熱地獄を管理しているような忙しい状況では、それも仕方のないことだ。

(……なんとかして手を貸してやれないものだろうか)

 映姫はそう考えて、力なく首を振る。
 今までだって何度も同じことを考えたものだが、そのたび諦めざるを得なかったのだ。
 彼女の補佐につけるならば当然地底世界の住人の誰か、ということになるが、現在の所候補になりそうな者はほとんどいない。
 義理に厚い鬼たちであれば協力してくれるかもしれないが、彼らだってさとりと同じぐらい余裕がない状況に置かれている。地底世界で悪行の限りを尽くしている無法者の妖怪たちのせいだ。
 昔、地底世界は彼岸の地獄に含まれていて、旧都も地獄の繁華街として栄えていた。しかし近年、財政難などによる地獄のスリム化政策によって彼岸から切り離され、管理する者もなく打ち捨てられた。
 問題なのは、灼熱地獄も死体も怨霊もそのままだったということだ。何とかしなければならなかったのに、誰もが財政難を理由に見て見ぬ振りをしていたのである。
 そんな状況下で地底世界に移ってきたのが、忌み嫌われて地上を追われてきた幾多の妖怪たちだ。その中には、人間たちによる凄絶で卑劣な鬼狩りを嫌って地上を去った、鬼たちも混じっていた。
 当時から今に至るまで鬼たちのリーダー格に収まっている星熊勇儀は、是非曲直庁に取引を持ちかけてきた。彼らに代わって旧地獄を管理する見返りとして、妖怪たちによる地底世界の自治を認めさせたのである。
 そうして地上を追われた妖怪たちを励まし、打ち捨てられた旧都を作り直して誰もが安寧に暮らせる明るい街にしようと呼びかけた。
 しかし、心に傷を負った妖怪たちは大半が無気力状態に陥っており、勇儀の前向きな言葉に耳を傾ける者はほとんどいなかった。
 それだけならまだしも、心根の歪んだ悪党妖怪たちはそんな状況を好機と見て、自らが地底世界の支配者となるべく徒党を組んで鬼族に反旗を翻した。本来であれば妖怪最強の種である鬼族に敵う者などいるはずもないが、当時の鬼たちは人間たちによる鬼狩りによって酷く疲弊しており、悪知恵の働く無法妖怪たちはその弱点を的確に突いて大いに暴れ回った。
 かくして地底世界は鬼と無法妖怪たちとの血で血を洗う戦の舞台と化し、今なお争乱は収まっていない。地上を追われて心に傷を負った妖怪たちは立ち向かう力どころか逃げる気力すらなく、戦に巻き込まれて折角拾った命を落とす者も数多いという。
 そんな状況の傍ら、かつて地底世界を管理していた彼岸の是非曲直庁は「妖怪たちの自治を尊重する」の一点張りで徹底した不干渉を貫いていた。
 自治を尊重、などと言えば聞こえはいいが、実際の所はただでさえ財政難に苦しみ疲弊している自分たちの力を他所のもめ事に割きたくない、というのが本音である。
 当然ながら四季映姫にも不干渉の命令は下されている。出来ることと言えばさとりの報告を聞いて彼女を励ますことぐらいのものだ。
 映姫としてはもちろん不本意だが、死者を裁く閻魔と言っても、せいぜい幻想郷という狭い地域の裁判官でしかない身の上。その上人手不足のために地蔵から取り立てられた閻魔であるため、庁内での立場もさほど高くない。是非曲直庁上層部の命令には逆らえない立場である。
 本心を言えば自ら出向いて地底世界の状況を正したいぐらいだったが、そうすれば自分は上の命令に逆らった罪で閻魔を解任されることとなるだろう。
 それ自体は少しも構わないが、後任がどんな人物になるか分からないということを考えれば、迂闊な行動を取るわけにはいかなかった。下手をすれば状況がもっと悪くなることもあり得るからだ。

(せめて死体運びの火車や火力調節役の地獄鴉ぐらいは派遣してやりたいものだけど)

 無論、そういった妖怪たちも是非曲直庁の所属であり、あくまでも裁きの場の責任者でしかない映姫には彼らを動かす権限がない。
 せめて一人でいいから旧地獄に派遣してくれと何度も上申しているのだが、上からの返事は決まって「その必要を認めず」の一点張りだ。さとりがぎりぎりの状況で旧地獄の管理をこなしているのが、皮肉にも不干渉の口実を与える結果となってしまっているのだ。
 もっとも、現在の庁の体質からして、さとりの仕事振りなど関係なく返事は同じだったに違いないが。
 彼女の働き振りを高く評価している映姫にとって、この現実は非常に納得しがたく、腹立たしいものである。いっそ何か非合法な手を使ってでも彼女に助力してやろうか、と考えることもあるほどだ。

(……そんなことをしたところで、あまりいい結果にはならないでしょうが)

 またも今までと同じ結論に至り、映姫はため息を吐く。
 誰かが派遣されれば確かに仕事の負担は減るだろうが、逆にさとりの精神的な負担を増やすことになるだろう。
 そもそもさとりが地霊殿の管理者となっているのは、自分こそが適任だ、と自ら名乗り出たためである。

「わたしならば怨霊の念に心を乱されることはありません。それに、地霊殿は旧都市街とは離れた場所にありますから、わたしが閉じこもってさえいれば、他の方々に敵意や嫌悪の情を向けられて嫌な気持ちになることもないでしょう? つまりこれは、私にとっても利のある取引というわけです」

 さとりはそう言って、どことなく寂しそうに笑っていたものだ。
 実際、その言葉は正しい。元々そういった仕事に適した精神構造を持っている彼岸の者たちを除くと、覚り妖怪というのは怨霊の相手をするのにもっともふさわしい種族とすら言える。
 彼の妖怪は、基本的に強い自我を持っているものだ。他者の心を読むが故、他者の精神と自分の精神が混じり合わないよう自然と自我が鍛えられる、というのがその理由。
 第三の目を閉ざした古明地こいしを見れば分かる通り、それは決して精神的に強いという意味ではない。ただ、自分の精神と他人の精神との区別は他のどんな生き物よりもハッキリしている。普通の生者のように、怨霊の持つ恨みの念に引きずり込まれて錯乱してしまうこともないわけだ。
 そしてもう一つ、さとりが挙げた理由……他者に敵意や嫌悪感を向けられて傷つきたくない、というのも、一応本心ではあるのだろう。
 ただ彼女の場合、どちらかと言えば覚り妖怪である自分の存在によって他者に不快感を与えたくない、という理由の方が大きいように見えた。
 嫌われるのが嫌だから閉じこもる、というのが本心であれば、さとりだってとっくの昔に妹と同じく第三の目を閉ざしていただろうから。
 ここで一人泣き言も言わずに黙々と役目を果たしていることからも分かるように、古明地さとりはとても我慢強く理性的で、芯の強い女性なのだ。
 何にしろ、自分に気を許してくれない他者の存在は、さとりにとってはただ苦しみの種となるだけだろう。気を遣いすぎて逆に仕事の効率が落ちてしまう可能性だってある。

(言葉を持たぬペットたちは彼女の心を少なからず癒してくれているようだけど、仕事の手伝いまでは出来ないし)

 結局今日も、彼女の手助けをする手段はないという結論に至り、映姫はため息を吐く。
 公明正大を良しとする閻魔にしては一個人に肩入れしすぎなのかもしれないが、そもそも地底世界に対する是非曲直庁の態度からして公正ではないのだ。財政難や人手不足という窮状も分からないではないが、それでももう少しやりようがあるのではないか、と思う。

(……旧地獄に関することだけではない。たとえば天界の飽和による成仏の規制、というのだって、どうも真実味に欠けるところがある。庁の上層部と天人たちとの間で、何かしら不正な取引があるのではないのか)

 ついそんな風に疑ってしまう自分を省みて、映姫は自嘲の笑みを漏らす。

(人間の幻想離れや信仰の弱化によって、我々も高潔な精神を失いつつあるのかもしれないわね)

 そんな状況下で、自分はどう動くべきなのか。そもそも一閻魔の身の上で大きな流れを変えようなどと考えること自体が、罪深い行いなのだろうか。
 あれこれと考えているうちに、映姫は地霊殿の正門にたどり着いた。小さく息を吐き、一旦気持ちを切り替える。
 是非曲直庁の方針に疑問があるとは言え、人手不足は事実なのだ。映姫の仕事は死者に裁きを下すこと。残念ながら、旧地獄のことばかりに心を割いてはいられない。

(覚り妖怪を恐れるが故、無法妖怪たちの中にすら彼女に狼藉を働こうとする者がいない、というのは、皮肉ながらも幸いか。せめて彼女が心静かに役目を果たせればいいのですが)

 そんなことを考えながらふと顔を上げて、映姫は目を見張った。
 正門のすぐそばに、何か小さな影が二つ、ちょこんと並んでいる。黒い毛並みの猫と、黒い翼の鴉だった。どちらもまだ子供であるらしく、その体躯はごく小さい。
 そんな小さな生き物が、やけにびしっとした姿勢で並んでいるのである。
 映姫は門に手をかけたまま硬直し、

(な……)

 と、わずかに息を飲む。

(なんですか、この愛らしい生き物たちは……!)

 そう思ってしまうのも無理もない。
 子猫と子鴉は、今まで一生懸命身支度を整えていたらしい。おそらくお互いに毛づくろいし、羽づくろいし合ったのだろう。
 が、猫が鴉を鴉が猫を、では、上手くいくわけもない。両方とも、毛と羽毛があちこちから飛び出てしまっている。しかも本人たちはそういう自分の姿に全く気が付いていないらしく、あくまでも真面目な顔でびしっとした姿勢を取っているのである。
 ああ、その姿の何と愛らしいことか。

(今すぐ抱きしめてわしゃわしゃ撫で回して上げたい……!)

 映姫の胸がざわつく。
 彼女は誰にでも厳しく平等、かつ説教臭い態度で接するが、心の奥の奥までそういう性格なのではない。説教好きなのは確かだが。
 彼女は元々地蔵菩薩出身の閻魔であり、地蔵菩薩は基本的に子供を守護する存在だ。
 であるから、子供や小さな者に対しては格別深い愛着を持っている。そういった私情を仕事に挟むことは一切ないから、知っているのは同じく地蔵菩薩出身の閻魔仲間ぐらいのものだが。

(……いや、いかんいかん)

 硬直していた映姫は、二、三秒ほどで正気に立ち返った。
 目の前の動物たちは、何やら真剣な目をしている。その目指すところは猫と鴉とで微妙に違っているようにも見えたが、両方とも真摯な色を浮かべていることに違いはない。
 おそらく、自分を待っていたのだろう。
 であれば、閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥとして真剣に接しなければいけない。
 どうしたんですニャー? とか、お元気ですカァー? とか、やっている場合ではない。
 ないのだ。

「……こんにちは、小さな方々」

 映姫は努めてキリッとした表情を浮かべつつ、正門を開いて外に出る。
 猫の方が一瞬鳴き声を上げかけて、戸惑ったように鴉の方を見た。

「大丈夫ですよ。あなた方の言葉は分かりますから」
『本当ですか?』

 猫の方がびっくりしたように言う。映姫は静かに頷いてみせた。
 動物と意志疎通を交わすのは、何も覚り妖怪だけの特権ではない。彼の種族ほど自然には出来ないが、動物の意志を人間の言葉のように変換して受け取る術はいくつか存在するのだ。
 ちなみに語尾に「ニャー」とか「カァー」とかつけて翻訳する素晴らしい術もあるが、今はそれどころではないので止めておく。今後機会があったら是非ともやりたいが。

「あなた方は古明地さとりのペットですね。私に何かご用ですか?」
『は、はい。あのう』
「急がなくても大丈夫ですから、ゆっくりお話しなさい」

 映姫がそう言ってやると、小猫はちょっと安堵した様子でゆっくりと話し始めた。
 彼女たちの話を聞いて、映姫は頬が緩むのを堪えるのに苦労した。
 要するに、彼女は古明地さとりの手伝いをするために人化の術を修得したいらしい。
 なんとも健気なことではないか。何よりもこの子猫のような存在があのさとり妖怪のそばにいてくれるという事実に、心底ほっとする。
 いや、この子だけではない。きっと他のペットだって似たような気持ちでさとりを慕っているのだろう。
 案外、ペットたちの存在は、映姫が思った以上にさとりの心を癒してくれているのかもしれない。

『……だからあたい、頑張って手足を手に入れて、さとりさまをお助けしたいんです!』
「そうニャのですか」
『え?』
「ああ、いえいえ」

 ゴホン、と映姫は咳払いをする。真剣に話を聞くあまり、ついつい精神のバランスを欠いてしまったらしい。
 これ以上、いけない。

「そうですか……人化の術を」

 映姫は少し考える。
 人化の術を猫や鴉が修得すること自体は、別段罪深いことではない。妖怪変化の存在意義は人を襲うことであり、そのために全力を尽くすというのは生き物として正しい行いであるからだ。

「……ところで、仕事の手伝い、というのは具体的にどのようなことを?」
『えっと。地霊殿のお掃除とか、お風呂沸かしたりとか、さとりさまに料理を作ってあげるとか、です』

 たどたどしい答えは、映姫にとって少し意外だった。
 てっきり、死体運びの火車になって、灼熱地獄の仕事を手伝いたいと言っているのかと思っていたのだが。
 そう考えて隣の鴉を見ると、こちらはどことなく釈然としない様子に見えた。猫の言葉を聞いて、何か言いたいがどう言っていいのか分からず戸惑っている。そんな雰囲気だ。
 それでも口を挟まないところを見ると、鴉の方にしても人化の術を修得したいという想いに変わりはないらしい。
 もしかしたら彼女は、何か別の事……それこそ灼熱地獄の仕事などで役に立ちたい、と考えているのかもしれないが。

(もっとも、古明地さとりがそんなことを望むとは思えないけれど)

 灼熱地獄の管理はなかなか過酷な仕事である。
 古明地さとりがこんな小さな生き物たちにそれを押しつけるとは思えなかったし、それを望んでも許しはしないだろう。

(何にしても特に問題はなし、か)

 この猫と鴉は、さとりの近くにいたせいか並の動物よりも知恵や力が強いようだ。自然に妖怪変化と化すにはまだ少しの時間が必要かもしれないが、術を教えてその時期を多少早めたところで、さほど問題はあるまい。

(地霊殿の人手を増やしてやることは、古明地さとりへの支援にもなる。是非曲直庁が怠っていた後任の指導責任を果たす機会にもなるでしょう)

 無論、映姫自ら指導している暇はないから、誰か是非曲直庁の職員を派遣する形になるだろう。猫と鴉であるから、火車か地獄鴉がいいだろうか。
 上層部はいい顔をしないかもしれないが、一定期間のみという条件をつければ恐らく許可は得られるはずだ。

(……理想的な形とは到底言えませんが)

 映姫は心の中でため息を吐きながら、猫に向かって頷きかけた。

「分かりました、なんとかしましょう」
『本当ですか!』
「ええ。ただし、指導してあげられる期間は限られています。その期間内にあなたたちが術を修得できなければ、それ以上は教えられませんよ」
『大丈夫です。あたい、頑張ります! ありがとうございます、閻魔様!』

 ピンと尻尾を伸ばした子猫の礼に、映姫は思わず口を開きかける。
 だが、寸でのところでグッと言葉を飲み込んだ。言葉は罪悪感となって、胸の底に重く落ちてくる。

(この子らに礼を言われる資格など、今の私にはないというのに)

 むしろ自分が無力なばかりに、要らぬ苦労を強いているのだ。是非曲直庁が下手を打っていなければ、この子らにもさとりにも地上を追われてきた妖怪たちにも、もっと安穏とした暮らしを用意してやれただろうに。
 だが、そんな想いをこの子らに吐露したところでどうなる。今彼女らに必要なのは具体的な支援であって、抽象的で役に立たない謝罪の言葉などではない。
 何より、今の自分は地蔵菩薩ではなく閻魔なのだ。内心がどうであれ、毅然とした態度を取らねばならぬ。

「……今の気持ちを忘れず、苦しくても必ずやり遂げるように。それがあなたに積める善行よ。では」

 励ますように言い置いて、映姫は小猫たちに背を向ける。背後から嬉しそうな鳴き声が聞こえてきて、つい頬が緩みそうになる。
 しかし、映姫の胸には言いようのないもどかしさがあった。もっと何か、してやれることがあるのではないか。

(……百年先二百年先の状況を変えるためにも、庁内で力をつける必要があるのかもしれない。あまり愉快な話ではないけれど)

 それでもやらねばなるまい、と映姫は思う。
 公明正大が閻魔のあるべき姿ならば、そう在るために努力を重ねるのが、今の自分に積める善行なのだろうから。
 決意と共に顔を上げたとき、映姫はかすかに眉根を寄せた。
 暗く閉ざされた旧都の空、天蓋の辺りを、何か白いものが横切っていくのが見える。やけに虚ろで頼りない、小さな小さな人影だ。

(古明地こいし……?)

 そう思ったときには、こいしの姿はフッとかき消えていた。
 読心の能力によって他者に嫌われるのを悲しみ、自ら第三の目を閉ざしたという少女。その後は他者の意識に捉えられずに行動する術を得て、それこそ路傍の小石のような存在になり果てたらしい。
 今ではほとんど地霊殿に帰ることもなく、あちこちふらふらさまよい歩いている、と聞いている。

(姉の手伝いもせずに、逃げ回ってばかりか)

 僅かな嫌悪感が湧き上がる。
 こいしの行為……第三の目を閉ざす、というのは、自ら生まれ持った宿命と向き合わずに逃げる行為であり、閻魔の目からすれば罪深いことである。
 本人の心の弱さ故、という事情を鑑みれば同情の余地はあるが、それならばなおのこと、少しずつでも向き合うべきだろう。

(……いずれ、彼女とも話をする必要がありそうね。捕まえるのに苦労しそうだけど)

 映姫は小さくため息を吐いた。



 是非曲直庁からの使者だというその老婆は、閻魔様と約束を交わしてから三日ほど後にやってきた。
 腰の曲がった、年老いた化猫である。白髪で皺だらけだったが、頭には猫の妖怪変化らしい萎れた耳がついていた。
 彼女は地霊殿にやってくるなり荒れ果てた庭園を見回し、皺に埋もれた小さな目を細めて微笑んだ。

「懐かしいねえ。昔とは随分様子が変わっちまったけれど」
『おばーちゃんは、ここに住んでたことがあるの?』

 燐が聞くと、老婆は小さく頷いた。

「ああ、そうとも。あたしはね、火車だったんだ。ここが地獄から切り離されるまで、灼熱地獄で死体を運んでいたのさ」
『うえぇ、死体を? おっかないなあ。すごいね、おばーちゃん』
「慣れればどうってことはないさ。怨霊の恨み節だって、その内心地よい子守歌みたいに聞こえてくる。火車の仲間は、連中の声を『煉獄ララバイ』なんて呼んだものさ」
『ララバイってなぁに?』
「子守歌のこと。南蛮だとそんな風に言うんだとさ」

 老婆はそう言ったあと、蔦の這う地霊殿を見つめてぽつりと呟いた。

「……今は『廃獄ララバイ』の方がふさわしいかね。本当に変わっちまったもんだよ、ここも」

 火車の顔には、何かを置き忘れてきてしまったような寂しさが漂っていた。
 どうにも話しかけづらい雰囲気だったが、何分時間がない。燐は前足で火車を突く。

『ねえおばーちゃん、人化の術って難しい? あたいらでもできる?』
「できるともさ」

 老婆はにっこりと微笑んだ。

「あんたらはそれなりに頭がいいみたいだからね。そんなに時間はかからないと思うよ」
『そっかー、良かった。あ、でもね、さとりさまにばれないようにやんなくちゃいけなくってね』
「はいはい。とりあえず場所を移そうか。街の外の方がいいだろうね」
『ねえねえ』

 ゆったりと歩き出そうとした火車の頭に、空がちょこんと乗っかった。

『おばーちゃん、聞いてもいい?』
「なんだい、鴉ちゃん?」
『えっと……人化の術? って、好きな姿になれるの?』
『ちょっとおくう、あんた何聞いてんのさ』

 火車の足下で、燐はにゃあと鳴く。

『見かけなんかどうでもいいだろ。とりあえず手足さえあれば、いろんなことやってさとりさまのお手伝いができるんだからさ』
『えー』

 何か不満げな空の下で、老婆が「あっはっは」と愉快そうに笑った。

「いやいや、いいじゃないか。あんたたちも女の子なんだし、見てくれが気になるのは当たり前だよ。だが……」

 と、老婆は少し難しい顔をする。

「好きな姿に、ってのはちょっと難しいだろうね。動物の妖怪変化が扱う人化の術ってのは、狸なんかが人を化かすときの『変化の術』ってのとはちょいと違うんだ」
『そーなの?』
「ああ。変化の術はそれこそ好きな姿になるための術で、人化の術はあくまでも『人の姿になる術』だからね」

 そう言って老婆が解説したところによると、人化の術は術者の精神の在り様などによって、変化後の姿がある程度固定されるものらしい。
 妖怪変化にとっては、己の精神に見合った姿になるのが最も自然で、負担も少ないからなのだそうだ。

「だから、お前さんたちだったら……多分、子供の姿になるんじゃないかねえ」
『えー、子供ー?』

 燐はちょっと不満に思った。

『子供の手足じゃ短すぎて、大したことできないじゃん』
「そんなことはないさ。なんだってやり方次第だよ。それが嫌だったら、さっさと大人になるこったね」
『大人になるって、どうやるの?』
「……そりゃ、難しい質問だね」

 老婆はため息を吐くように言った。

「まあ、なんだね。大人らしくなりたかったら、大人らしく振る舞うしかないさ。そうすれば自然と、精神も成熟してくるよ」
『よく分かんない』
「だったらお前さんは、やっぱりまだまだ子供だってことさ。さ、そろそろ行くよ。時間がないんだろ?」
『……うん』

 釈然としない気持ちではあったが、燐は老婆について歩き出す。
 まだ火車の頭に陣取っている空が、不満そうに騒ぎ立てた。

『ねーねー、だったら、顔とか髪とかも自分の好きにはならないの?』
「そりゃそうさね。まああんたらだったら、両方とも黒髪の子供になるんじゃないのかね」
『えー、そんなのヤダー!』
『おくう、さっきからうるさいよあんた!』

 老婆の足下で、燐はうなり声を上げる。

『格好なんかどうでもいいって言ったろ! 目的忘れてどうすんの!』
『忘れてないもん!』
『見事に忘れてるじゃないか、この鳥頭! さとりさまを喜ばせるのが目的だろ!』
『だから、忘れてないもん!』
『このっ……!』
「はいはい、喧嘩はそこまで」

 足下と頭上で喧嘩をする燐たちに、老婆が穏やかな声で割って入った。

「時間がないんだろ。イライラした気持ちじゃ、何だって上手くやれなくなっちまうよ」
『でも……』
「それに、年寄りはいたわるもんさ。そんな風に耳元で喧嘩されたんじゃ、このババァの耳が取れちまうよ」
『……ごめん、おばーちゃん』
『ごめんなさい』

 燐も空もしゅんとなって、小さく詫びる。
 まだ空の態度には納得いかないところもあるが、実際老婆の言うとおりだ。まずは人化の術を修得するのが第一だろう。

(……そういえば)

 また歩き始めた老婆の背中を見て、燐はふと疑問に思う。

(精神によって変化後の姿が固定されるっていうんなら、おばーちゃんはなんでおばーちゃんなんだろ?)

 気にはなったが何となく問えず、燐は結局聞きそびれてしまった。



 さとりに見つからないように、あるいは邪魔が入らないように、という条件を考慮して、術を使うための特訓は旧都外の岩場で行うことになった。
 以前聞いた噂は本当だったようで、荒涼とした岩場からは人の気配が感じられない。あるいは誰か、岩陰に隠れて見つめている者がいるのかもしれないが、少なくとも姿は見えなかった。

「やれやれ、実際酷い寂れようだよねえ」

 特訓の合間に挟まれる休憩時間中、岩に腰掛けた老婆はよくそんな風に嘆いたものだった。

「花の都に地獄街道が、まさかこんな風になっちまうとは。千年前なら、誰も予想はしなかったろうさ」
『そうなの?』

 半ば廃墟と化した旧都しか知らない燐は、不思議に思って首を傾げる。
 老婆は深く頷き、

「そうだよ。昔はこの辺りにだって茶店や旅籠ぐらいはあったもんさ。ここが彼岸だった頃は、地底世界だってそりゃもう賑やかで広々としたもんだったからね」
『ふうん、そうなんだ』
「それがねえ。まさか、こんな風にねえ」

 痛みを堪えているような声。

「……火車仲間にも、辛い報告をしなくちゃならないようだ。あの頃とは様変わりしちまったと聞いちゃいたが、まさか、こんな風に」

 小さなため息。顔の皺が、さっきよりも深くなったように見えた。

「やっぱり戻れないものなんだね。あの場所にも、あの時代にも」
『おばーちゃん……』

 燐が小さく呼びかけると、老婆はハッとしたように顔を上げた。

「ああ、すまないね。さ、そろそろ特訓再開といこうか。鴉の嬢ちゃんも、やる気はたっぷりあるみたいだし」
『え?』

 燐が驚いて振り向くと、すでに空は特訓を再開していた。身じろぎ一つせず立ち、妖力を高めるために精神を集中している。

「あの子も頑張り屋だねえ。ちょいと間の抜けたところはあるが、いい子じゃないか。これからも仲良くおやりよ」
『……うん』

 燐は頷きながら駆け出したが、やはり釈然としない気持ちだった。
 実際、空は相当頑張っている。さとりさまのために、と言った気持ちは嘘ではなかったようだ。

(……なのになんで、あんなに見かけのことにこだわってたんだろ)

 どうもよく分からなかったが、まずは訓練に集中しなければならぬと思って、燐は何も言わずに空の隣に立った。
 間近で見る親友の横顔はやはり真剣そのもので、ますます訳が分からなかった。



 訓練の期間は、一週間という非常に短いものだった。燐と空、それに老婆は、それこそ寝る間も惜しんで人化の術のための訓練に没頭した。

「時間があれば、もっと丁寧に教えてやれるんだがね。お上のご命令にゃ逆らえないんだ。すまないね」

 老婆はそう言ってしきりに詫びたが、燐と空はそのたび『大丈夫』と首を振った。
 老婆の指導は非常に丁寧で分かりやすく熱の入ったものだったし、燐としては最初から、長期間訓練する気など毛頭になかったのだ。

(早くさとりさまのお手伝いしたいし、あんまり長く留守にしてると心配かけちゃうし)

 こいしのことを語るさとりの横顔を思い出すと、その気持ちが一層強くなる。
 燐と空は必死に修行に励み、自分たちでも驚くほどの速度で成長していった。



「……ようし、いいよ。二人とも目を開けてごらん」

 労るような老婆の声が響き、燐はおそるおそる目を開ける。
 そうして最初に驚いたのは、視線が妙に高いことだった。猫のときは老婆の足しか見えていなかったのに、今は曲がった腰が目の前にある。

『ってことは……』
「ああ、成功だよ。ほとんどぶっつけ本番だったのに、大したもんだ」
『ほんと!?』

 燐は慌てて下に目を向ける。すると、簡素な衣服を纏った人間の体が見えた。
 前足を動かそうと意識すると、短い腕が動いた。猫の姿のときとはどうも勝手が違って慣れないが、間違いない。
 自分は今、人間の姿になっている。

『おくう……!』
『ひゃあ!』

 隣を向いたら、そこに立っていた小さな子供が驚いてすっ転んだ。
 これが空だろうか。多分そうだろうと思う。
 尻餅を突いたまま驚いたようにこちらを見上げている少女はボサボサの長い黒髪をしていて、それが容易にあの黒い子鴉を連想させてくれるのだ。

(おくうも成功したんだ……!)

 嬉しくなってきて、にゃあと鳴きながら一杯に手足を伸ばす。上手くバランスが取れなくてすっ転んだが、それもまた人の姿になっているということを実感させてくれて、ますます楽しくなってくる。
 燐は尻餅を突いたまま、改めて自分の体を見下ろした。小さな体に小さな手足。けれどもただの猫よりは、ずっと大きな力を秘めている体。
 特に手が気に入った。真っ白で、きれいな手。握ったり開いたりしていると、体の奥から力が湧いてくる気がする。

(この手足で、たくさんさとりさまのお手伝いをするんだ!)

 老婆はそんな二人を見下ろして、目を細めて頷いた。

「うん、二人とも見事なもんだ。本当に一週間で成し遂げちまうとはねえ。正直、びっくりしたよ」
「……ば、ちゃん。あり、がと」

 燐は人の言葉でお礼を言おうとしたが、どうも上手く喋れなかった。こちらも、猫の鳴き声で意志を表現していたときとはどうも勝手が違う。
 顔をしかめる燐を見て、老婆は愉快そうに笑った。

「なんともまあ、可愛らしい声だねえ。大丈夫、それもその内慣れてきて、上手に喋れるようになるよ」
『本当?』

 こっちの方が楽だったので、にゃあ、と鳴く。
 老婆は深く頷いた。

「本当さ。慣れればなんだって人間みたいにできるようになる。お前さんがやりたがってた掃除や料理や洗濯や、それに……」

 老婆は少し俯いて、

「……猫車操って死体を運んだり、とかね」
『……おばーちゃん』
「ねえ、お燐」

 老婆はじっと燐を見つめた。

「あんた、火車をやってみる気はないかい?」
『え……』
「死体運びの仕事さ。あんたならきっとできると思うんだがね」
『でも……』

 燐は答えられなかった。
 それをやれたらさとりの負担を減らせるし、きっといいことなのだろうとは思う。
 けれど燐は、死体も怨霊も苦手だ。人間の手足を手に入られたところで、上手くやれる気は全くしない。
 そんな風に嫌々渋々やっていたら、さとりはきっとよく思わないだろう。もう辛いことはしなくていいから、と言って、自分を灼熱地獄から追い出してしまうに違いない。

「……そうかい。気が進まないかい」

 燐の表情をどう解釈したものか、老婆はため息混じりに言った。
 燐は服を握りしめて頭を下げる。

『ごめん、おばーちゃん』
「いやいや、いいんだよ。あたしの方こそ、無理を言ってすまなかったねえ』

 老婆は苦笑し、「さて」と呟くと、重そうに体を持ち上げた。

「それじゃ、あたしは帰るとするかね。お前たち、頑張ってご主人様を助けて差し上げるんだよ」
『え……ま、待って、おばーちゃん!』

 そのまま歩き去ろうとする老婆を、燐は必死に呼び止めた。

「なんだい、お燐?」
『ま、まだ帰らなくてもいいじゃん! あたいたち何のお礼もしてないしさ。地霊殿でちょっとゆっくりしていってもいいじゃない。さとりさまにも紹介したいし……』

 燐の言葉に、老婆は返事をしなかった。ただ嬉しそうに微笑むだけで、首を縦には振ってくれない。
 燐はもどかしくなったが、すぐにいい誘いの言葉を思いついた。

『そうだ、灼熱地獄! 灼熱地獄、見ていきなよ! おばーちゃんだって、懐かしいでしょ!?』
「……灼熱地獄、か」

 老婆は懐かしむように目を細めて、ふと旧都の方を……いや、地霊殿の方を見つめた。

「そうだね。確かに、懐かしいねえ」
『でしょ。だったらさ』
「でも、いいよ。行かない」
『ど、どうして……?』
「何にもないからさ」

 老婆はくたびれたように言った。

「あたしが大事にしてたものは、もうあそこには何にもなくなっちまった。仲間と一緒に笑いながら死体を運んだ日々、いつだって聞こえていた、灼熱地獄の子守歌……もうすっかり遠い話さ。絶対に手放してはならなかったのに、愚かにも置き去りにしちまって……もう二度と、この手に戻ることはない」
『……今だって、そんなには変わらないよ。死体だって山ほどあるし、怨霊は鬱陶しいほどたくさんいるし』
「そういうことじゃないんだよ。あんたにはまだ分からないかもしれないがね」

 老婆は寂しそうに微笑むと、皺だらけの手で燐の頭をそっと撫でた。

「お燐。あんた、大人になる方法を聞いてたね。教えてやろうか」
『え……?』
「それはね、どんな事情があろうとも、やるべきだと思ったことをやることさ。嫌なことだろうが大変なことだろうが、逃げずにしっかり、最後まで義務を果たすこと。そしたらその内そういう意志が体に染み着いてきて、あんたの精神を大きくて立派なものにしてくれるんだよ。そして」

 と、老婆は自嘲の笑みを漏らした。

「……そしてそれを奪われちまうと、すっかり気力がなくなって精神が萎んで……あたしみたいになるのさ。干からびて力のない、くたびれ果てた老人にね。よく覚えておくこった」
『おばーちゃん……』

 燐が何とも言えずにいると、老婆はそっと微笑んで手を引っ込めた。
 そのときになって、初めて気がついた。老婆の手は干からびて皺だらけだったが、そこに刻まれているのは皺だけではない。無数の細かい傷と、そこに埋もれた黒い汚れ。

(さとりさまの手と同じだ……!)

 驚く燐に背を向けて、老婆はゆっくりと歩き出す。
 トボトボと足を運ぶその背中は、なんだかとても疲れて見えた。

「おばー、ちゃん!」

 燐は人の言葉でたどたどしく叫んだ。
 何を言いたいのか自分でもよく分からないまま、ただ言葉だけが流れ出す。

「いつか、こもりうた、またきかせるから! そしたら、もどってきて! こんどは、あそこで、あおう! ぜったい、だよ!」

 老婆は振り返らなかったが、一度ぴたりと立ち止まって、また歩きだした。
 かすかに頷いてくれたように見えたのは、燐の気のせいだっただろうか。

「ぜったい、だよ……」

 ぎゅっと手を握りしめて、燐は呟く。
 老婆の姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立ち尽くしていた。

(……いつまでもこうしてたって、仕方がないや)

 燐は慣れない手つきで目元を拭って、大きく息を吐いた。
 そう、肝心なのはこれからだ。人化の術を修得するというのは、あくまでもスタートラインに立つ程度の意味しか持っていない。
 この姿で、どれだけ主のために働けるのかが重要なのだ。

『よっし。がんばるよ、おくう……おくう?』

 ふと気づくと、周囲にあの黒髪の子供の姿が見えなくなっていた。
 どこ行ったんだろ……と周囲を見回して、遠くの方にその姿を発見する。
 空は、川のそばにしゃがみ込んでいた。
 地底を流れる、いくつもの小川の中の一本だ。

『なにやってんのさ、おくう』

 足がもつれて転びそうになりながら、燐は空のそばに歩いていく。
 空はしゃがみ込んで、じっと川を見下ろしていた。
 何をやっているのか、と思って、気づく。
 まるで鏡のように、自分たちの姿が川面に写し出されていた。

『わぁ、本当に人間になってる!』

 もう分かっていたことではあったが、実際に見てみると感慨もひとしおだ。
 白くきれいな手で、燐はペタペタと自分の顔を触ってみる。
 人間の子供らしい、小さな顔。ちょっと目がつり気味だが、さほどきつくはない。
 自分の顔だからではないが、割とかわいいのではないかと思った。

(あ、髪は赤色なんだ……どうしてだろ。これも精神が影響してるのかな。そういえば服着てる……当たり前か、人間ってみんな、はだかんぼじゃないもんね)

 いろいろと確かめながら、あれこれと考える。
 燐としては、術の成果にはそれなりに満足だった。元々外見にはさして執着はなかったが、変化後の姿はそこそこ気に入った。これならさとりにも安心して見せられそうだ。

(……あ、そういえば)

 燐はふと、数日前のことを思い出す。
 自分と違って、えらく見てくれにこだわっていた奴がいたのだ。
 嫌な予感を覚えつつ、燐が隣を見た瞬間、

『……こんなのじゃ、だめ』

 ひどく不満そうに、空が呟いた。
 ああやっぱりか、と思いつつ、燐は言う。

『なに、やっぱあんたの好きな姿じゃなかったの? 別にいいじゃん、そんなの。手足さえありゃ仕事はできるんだしさ』
『良くない!』

 空は眉をつり上げて立ち上がり、それからバランスを崩してひっくり返った。
 燐が慌てて助け起こしてやると、なおも不満そうに、

『……こんなんじゃ、ダメだもん。こんなんじゃ意味ないもん』
『……おくう。あんた、いい加減にしなよ』

 燐はため息を吐いて言う。

『よく分かんないけど、別にいいじゃん。十分かわいいし、おくうらしくていいと思うよ。さとりさまだって気にしないと思うし』
『ダメーッ!』

 空はブンブンと首を振る。ボサボサの長い黒髪が、首の動きに合わせて大きく揺れた。

『こんなんじゃダメだもん! 顔だって違うし髪だって黒くてボサボサだもん!』
『だから、それがなんだって……』
『ダメだもん! こんなんじゃ全然ダメだもん!』
『あ、ちょっと、おくう……!』

 呼び止める燐の声も聞こえないように、空は二本の足でタッと駆け出した。が、やはり慣れないらしくすぐにすっ転ぶ。
 泣くかな、と思いきや、空は予想外の行動に出た。
 むくりと起き上がって震えだしたかと思ったら、何と背から黒い鴉の翼を出してバサバサと飛び始めたのだ。
 思わず立ち止まってポカンとしてしまう燐の前で、空はドンドン飛んでいく。姿が変わったせいかややぎこちないが、それなりに様になっている飛行だ。目指す方向には、地霊殿がある。

『……えー……』

 一人取り残された燐は、納得いかない気持ちで立ち尽くす。まだ術を修得したばかりだというのに、この差はなんだろう。
 空なんか見てくれにこだわってばかりで、動機も不純だというのに。

『……っていうかちょっと、あたいを置いてかないでよ! あんたと違って飛べないのに……ふぎゃっ』

 慌てて駆けだした燐は、やっぱり足がもつれてすっ転んでしまう。
 そうして地霊殿へと帰る道すがら、数えるのも嫌になるぐらい転ぶ羽目になった。



『……や、やっと着いた……』

 燐は息も絶え絶えに、地霊殿の正門に寄りかかっていた。
 二本の足で歩くのは、なかなかの重労働だった。猫の姿のときよりも、かなり時間がかかったように思う。

(……っていうか、一度猫の姿に戻れば良かったんじゃん……なにやってんだろ、あたい)

 ため息を吐きつつ、二本の足で立ち上がる。
 なんだか無駄に苦労してしまった気もするが、まあ良しとしておくことにした。おかげで、二本の足で動くのにもかなり慣れたからだ。もう全力で走ったって、転びはしないだろう。

(よっし、いよいよさとりさまのお手伝いだ!)

 そう思うと、疲れた体にまた力が戻ってきた。
 燐は蔦の這う地霊殿に向かって駆け出し、今度はすっ転ぶこともなく、入り口の扉にたどり着く。

(どうだ、見たか!)

 一人得意になりながら、一度猫に戻ってペット用の小さな扉をくぐる。
 荒れ果てたままの地霊殿エントランスは、いつものようにひっそりと静まり返っていた。おそらく、さとりはまだ仕事中なのだろう。
 早く会いたいなあ、と思いながら、燐は大きく口を開けて鳴き声を上げる。

『たっだいまー!』

 にゃーん、という鳴き声が地霊殿中に響きわたり、一拍遅れてそこら中から無数のペットたちが姿を現した。

『なんだ、なんだ』
『あ、お燐ちゃんだ』
『どこ行ってたのー』
『さとりさま心配してたよー』

 近寄ってくる猫やら犬やら鳥を前に、燐は得意になってピンとしっぽを伸ばす。

『フッフッフ。あんたら、よーく見てな!』
『なになに』
『どうしたの』
『じゃじゃーん!』

 景気のいいかけ声を上げながら、燐は人化の術を披露する。
 一瞬で人の子の姿を取り、驚くペットたちの前で大きく胸を張った。

『へっへー、どうだい、あんたたち。びっくりしたろ!』
『びっくりしたー!』
『すごーい!』

 他のペットたちが興奮した様子で騒ぎ立てるのを聞いて、燐はますます得意になる。
 さて、まずはどうしようか。もうすぐ帰ってくるであろう主人のために、少しでも地霊殿の中を整えておきたいところだが。

(ご飯……はさすがに難しいか。掃除にしよっと)

 となると、まずは掃除用具の確保だ。箒も雑巾も使ったことはないが、さとりがやっているのを見たことはある。見よう見まねでも、きっとなんとかなるだろう。
 そうと決まれば善は急げ、燐はペットたちにも手伝わせて、掃除用具をかき集めることにする。
 しかし号令をかけようとしたところで、ふと彼らの様子がおかしいことに気がついた。
 なにやら互いに身を寄せて、ひそひそと囁き合っているのだ。

『……じゃあ、やっぱり』
『うん。そうだったんだよ、きっと』
『ちょいと、あんたたち』

 燐は首を傾げて問いかける。

『どうしたんだい。何か、おかしなことでもあったのかい?』
『うん。あのね』
『さっきもね、人間みたいな子が入ってきたの』
『背中から真っ黒な羽生やしてた』
『ああ、そりゃおくうだよ』

 やはり先に帰ってきていたらしい。

『あいつ、今どこ? あいつにも手伝わせないと』
『んとねー、さっきザル持って中庭行ったよ』
『ザル……? 中庭……?』

 中庭と言えば、灼熱地獄に降りるための階段がある場所である。
 そんな場所に、何をしに行ったのだろう。

(……まさかあいつ、一足先にさとりさまに会おうって腹じゃ……!)

 燐の予定では、仕事帰りのさとりを二人揃ってお出迎えして、挨拶するつもりだった。
 これでは計画が台無しだ、と怒りかけたところで、

『あ、おくうだ』

 誰かが言った。
 見ると確かに、中庭に続く廊下の向こうから、誰かがフラフラとやってくるところだった。
 それは背中から翼を生やした子供で、間違いなく人化の術を使った空、だったのだが。

(……なにやってんだ、あいつ)

 奇妙なことに、空は両手に大きなザルを持っていた。そのザルには、何か灰色の物体が山盛りになっている。
 一体なんなんだろう、と訝る燐の前で、空は廊下の途中にある部屋に入っていった。

『あの部屋、なんだっけ?』
『今は使われてないとこだよね』
『確かね、おっきな鏡があるとこだよ』
『鏡……?』

 燐が呟いた瞬間、異変が起きた。
 先ほど空が入っていった部屋から、ザァッと砂の山が崩れるような音が聞こえ、次いで中から真っ白い煙がもうもうと流れ出してきたのだ。
 ぎょっとする燐たちの前で、煙はすぐに消えていった。いや、消えたというよりは、床に降り落ちたと言うべきか。煙が晴れたところの床が、ところどころ灰色に染まっている。
 一匹の猫がそこに歩み寄って、おそるおそる床を舐めた。
 そして、ぺっぺっとやりながら、

『うえぇ、灰だよ、これ!』
『灰……って、まさか!』

 嫌な予感を覚えて、燐はタッと駆け出す。

『おくう!』

 叫びながらさっきの部屋に入ると、案の定中は酷い状態だった。
 多分、さっきのザルに山盛りになっていた灰を、残らずぶちまけたのだろう。部屋中が真っ白に染まってしまっている。

(一体何のつもりだい……!)

 怒りながら、燐は中に踏み込む。
 部屋の奥、大きな鏡の前で灰まみれになったまま座り込んでいる空のそばに行き、大声で怒鳴りつける。

『ちょっとおくう、あんたなにやってんの! これから掃除しようとしてたのに、これじゃ全く逆じゃないのさ!』

 耳元で怒鳴ったつもりだったのだが、空は無反応だった。
 頭から灰を被ったのだろう、黒かったはずの髪は真っ白になってしまって、まるで老人のようだった。
 そんな酷い有様のまま、空は目の前の鏡をじっと見つめ、

『ちがう……』
『は? なに……』
『これじゃ、ダメ……!』

 何か追いつめられたような切羽詰まった声で呟いたかと思うと、灰まみれになった頭を二本の手でグシャグシャとかき回す。飛び散った灰をモロに喰らって、燐はたまらずせき込んだ。

『ちょ、ちょっとおくう、あんたいい加減に……!』
『これじゃ、ダメ! 全然意味ない!』
『あんたね、本気で怒るよ!?』

 怒鳴る燐の前で、ようやく空が振り向く。
 今の親友は、酷いなりだった。全身灰まみれで真っ白だし、思いっ切りかき回したせいで、ボサボサだった髪がさらに荒れ放題になっている。
 だがそんなあれこれよりも、もっと燐の気を引いたものがある。
 空の表情だ。いつも脳天気な鳥頭が、これ以上ないほど顔を歪めている。
 目が潤み口が半開きになり、鼻からは透明な汁が。

(……えっと。これは、どんな顔だっけ)

 人間の顔は、あまり見たことがない。
 けれども、考えたらすぐに分かった。

(そうだ。これ、泣き出す直前の……!)

 燐が気づくとほぼ同時に、空は火がついたように泣き出した。
 耳が痛くなるほどの甲高い声で、わんわんわんわん泣きじゃくる。

『ちょ、ちょっと、おくう……!』
『これじゃダメ、これじゃダメ……!』

 もはや鴉の声とも拙い人語ともつかない声を、ただただ悲しげに響かせる。
 そのあまりの声量に顔をしかめながら、燐は空の泣き声に負けない大声で問いかけた。

『ちょっと、おくう! 一体なんなの、なにがダメなの!?』
『ダメだもん、これじゃ意味ないもん!』
『だから、一体なにが……!』
『だって、だって……』

 空はようやく、ほんの少しだけ泣き声を引っ込めた。
 苦しげにしゃくり上げながら、途切れ途切れに言う。

『これ、髪は真っ黒で、ボサボサだし……顔も違うし……』
『え……?』
『髪はふわふわで、銀みたいな色じゃないと……顔だって、こんなんじゃ……』

 ぐっと息を飲み込み、

『こんなんじゃ、ちっともこいしさまに似てないもん!』

 そうして、また堪えきれないように泣き出してしまう。
 再び響きわたる甲高い泣き声を聞きながら、燐は耳を塞ぐのも忘れて呆然としていた。
 親友の泣き声が胸に突き刺さり、傷跡から後悔の念が溢れだしてくる。

(……あたいは、バカだ……!)

 今になってようやく、空がやりたがっていたことが分かった。
 思い返してみれば、空は最初からその願いを口にしていたではないか。
 なぜ気づいてやれなかったのか。
 ずっとそばにいたくせに、空の気持ちがちっとも分かっていなかった。
 この鴉の親友は、自分などよりよっぽど、さとりのためになることを考えていたというのに。

「一体どうしたの。泣いているのは誰?」

 不意に、懐かしい主の声が聞こえてきた。
 仕事が終わって帰ってきて、この騒ぎを聞きつけたのだろう。ペットたちの間を通って部屋の戸口に現れたさとりは、まだ薄汚れた作業服姿のままだった。
 さとりは、部屋の惨状にひどく驚いた様子だった。
 だが、鏡の前で泣いている空と、そのそばの燐を見つけるともっと驚いたように目を見開き、

「誰……ああ、お燐。それに、おくうなの……? あなたたち、今までどこに……ううん、それよりも、その姿は……?」
『さとりさま……』

 燐は戸惑ったが、答える必要はなかった。
 小さなペットたちの心を読み取ったのだろう。
 煤に汚れたさとりの表情が、次々に変化していった。
 困惑から驚きへ、そして、涙を堪えている表情へと。

「お燐、おくう……!」

 さとりはたまらなくなったように駆け出し、汚れた手を拭うこともなく二人の体を抱きしめた。
 まだ泣き続けている空と、何も言えずにいる燐を強く強く抱きしめながら、涙声で呼びかける。

「そう、おくう……あなた、こいしの代わりをやろうとしてくれたの。ありがとう……ごめんね」

 久方ぶりの主の温もりを感じながら、しかし燐はひどく惨めな気分を味わっていた。
 泣かせるつもりも謝らせるつもりもなかったのに、この様だ。
 全部自分が悪い。自分が考えなしだったせいだ。

(あたいは最低の大馬鹿野郎だ……!)

 自分を罵りながら、燐はさとりの腕の中で身をよじる。
 それはいつものように主の体に密着するのではなく、むしろそこから逃れるための動作だった。
 だが当のさとりがちっとも離してくれないので、燐はほとほと困り果ててしまう。そんな資格自分にはない、などと考えれば考えるほど、主は尚更強く燐の体を抱きしめるのだ。
 そうしてふと、燐は空の頭を撫でているさとりの手を見やった。
 自分たちを労るように、守るように包んでくれる細い手は、仕事のために黒く汚れ、切り傷や擦り傷もたくさん刻まれている。
 白くてきれいな手を喜んでいた自分のことを思い出すと、燐はなんだか恥ずかしくてたまらなくなった。



 翌日、燐と空は黙ったまま、灼熱地獄上層の地面に座り込んでいた。二人とも、練習も兼ねて人化の術で人の姿を取っている。
 そうして座っていると、尻の辺りがほのかに温かいのが分かった。下層で煮えたぎる溶岩の影響か、ここの岩盤はほんのりと熱を持っているのだ。
 昔は仕事帰りにみんなで岩盤浴なんかしたもんさ、と懐かしそうに笑っていた老婆の顔が、何となく思い出された。

『……さとりさま』

 不意に、ぽつりと空が呟いた。

『どうしてるかな』
『そりゃ、仕事中だろうね』
『……こいしさまは?』
『……わかんない。どこにいらっしゃるんだろう』

 二人は揃って、ため息を吐いた。

『ねえ、お燐』
『なんだい』

 空はきゅっと唇を噛んで、

『わたし、ばかなこと考えてたのかなあ』
『……そんなことはないよ』

 すっかり気落ちした様子の空に、燐は小さく苦笑する。

『ただ、やっぱり……どれだけ姿を真似てもさ、やっぱりあたいたちじゃ、こいしさまの代わりにはなれないんだよ。ううん、あたいたちだけじゃない。こいしさまの代わりなんて、世界のどこにもいやしないんだ』



 昨日、空が泣きつかれて眠ってしまったあと。

「……ごめんなさいね」

 と、さとりは膝の上で眠っている空の頭を撫でながら、申し訳なさそうに言ったものだ。

「わたしが、寂しそうな顔を見せてしまっていたのね。それであなたたちに心配をかけてしまった」
『そんなこと、ないです』
「ありがとう、お燐」

 さとりはくすりと微笑み、また空の頭を撫でる。
 そうしながら、ふと、

「ねえ、お燐」
『なんですか?』
「わたしね、ここでこうして働いているのは、別に地底世界のためだとか、これがわたしにとって果たすべき義務だからとか……そんな立派なことを考えているからではないの」

 突然の告白に、燐は困惑する。
 じゃあ一体、何のためにあんな辛い仕事を毎日やっているのだろう。

「こいしのためよ」

 さとりは小さく苦笑し、首を振る。

「ううん。結局は自分のためなのかしら。他人に嫌われることを……傷つけられることを恐れて第三の目を閉ざしてしまったあの子が、安心して暮らせる場所を用意してあげたかった。誰の邪魔も入らず、誰もわたしたちを傷つけることがない。そんな場所があれば、こいしもまた戻ってきて、昔みたいに目を開いてくれると思ったから」
『さとりさま……』

 寂しげな横顔に胸を痛めながら、燐はやっぱり空が正しかったんだ、と思っていた。
 さとりにとって一番喜ばしいのは、こいしが自分のところに帰ってきてくれることなのだ。
 仕事が楽になろうが地霊殿が整えられていようが、そこにこいしがいないのでは何の意味もない。
 親友のやり方は愚かで馬鹿げていたのかもしれないが、ある意味では真実を突いていたということだろう。

「……いいえ、愚かだったのはわたしなのよ」

 不意に、さとりがため息を吐いた。
 驚く燐の前で、懺悔するように言う。

「あの子が……こいしが苦しんでいたのは分かっていたのに、心の声が聞こえない振りをしていた。あの子が第三の目を閉ざしてしまってからも、それは悪いことだ、早くまた目を開けって言うばかりで……あの子の話を聞こうともしなかった。これでは、出ていってしまうのも当然ね」
『そんなこと……!』
「いいのよ、お燐」

 さとりは燐の頭を優しく撫でた。

「正しいことは正しいし、間違ったことは間違っているの。あの子は繊細で弱すぎたし、わたしは意固地で、焦りすぎていた。本当はゆっくりと、待ってあげるべきだったのね」
『待つ……?』
「そう」

 さとりは頷き、遠くにある何かを見据えるように目を細める。

「わたしね、やっぱり今のあの子の状態は良くないと思っているの。たとえ辛くて苦しかったとしても、覚り妖怪が第三の目を閉ざすだなんて、自分で自分を否定する行為だわ。あの子にはいつかまた、目を開いてほしいと思っている。この気持ちは、絶対に変わらない」
『さとりさま……』
「けれど」

 声が少し柔らかくなる。

「けれど、焦るのは止めることにしたわ。今度あの子が帰ってきてくれたら、何も言わずに笑顔で迎えてあげるつもり。そしてもう一度、話をするの。今までちゃんと聞いてあげられなかった分、悲しかったことも苦しかったことも……あの子の弱音を全部、受け止めてみせる。だって、あの子が弱かったのも、目を開けていられないほど苦しかったのも事実なんだもの」

 さとりは悔いるように目を伏せる。

「……まずは、それを認めてあげることから始めないといけなかったんだわ。たとえ世界中の誰もがあの子の弱さを責めたとしても、わたしだけは理解して、受け入れてあげなくてはならなかった」

 何も言えずにいる燐に、さとりはくすりと微笑みかける。

「……そう思えるようになったのはあなたたちのおかげよ。お燐」
『え?』

 驚く燐の前で、さとりは気恥ずかしそうに言う。

「だってわたしったら、心が読めるくせに、あなたたちがしようとしてくれていたことに少しも気づいていなかったんだもの。あなたたちはペットで、子供で……守ってあげなくちゃいけないって、そんなことばかり考えてた」

 一度言葉を切り、また微笑んで燐の頭を撫でる。

「でも、違ったのね。誰だって成長するし、子供は大人になるものだわ。こいしだってそう。今はしばらく休んで、傷を癒して……また何か、誰かの心の声を聞きたいって思えるほど素敵なことに出会えれば、いつか、きっと」

 さとりは顔を上げ、吹っ切れたように笑った。
 燐も初めて見る、力強い微笑だった。

「そう信じて、落ち着いて待つわ。姉のわたしが怒った顔をしていたら、あの恐がり屋さんはまた怯えて逃げちゃうでしょうからね」
『さとりさま……』

 つい涙ぐんでしまう燐に、さとりは明るく声をかける。

「さあお燐、今日はもう休みなさい。明日からは地霊殿の掃除をしてくれるんでしょう? そしたらわたしも助かるわ。いつもいつも汚れた家で閻魔様をお出迎えして、いつ叱られるんだろうってびくびくしていたから」
『……それで、いいんですか?』
「ん? なあに?」

 きょとんとするさとりに、燐はぎゅっと拳を握りながら聞く。

『本当に、それでいいんですか? あたいたち、それでさとりさまのお役に立てますか?』
「……当たり前でしょう」

 眠ったままの空を抱き上げながら、さとりは言う。

「わたしにとっては、あなたたちがそばにいてくれるだけで十分に嬉しいの。それ以上のことをしてもらいたいなんて思ったら、それこそ閻魔様に叱られてしまうわ」
『でも』
「さ、早くおくうを部屋に運んであげましょう。この子ったら涎まで垂らしちゃって……すっかり人型に慣れちゃってるみたいね。どんな夢を見ているのやら」

 楽しそうに言いながら、さとりが歩き出す。
 作業服を着たままの主の背中を、燐はいつまでも見つめていた。



『あたいねえ、おくう』
『なあに?』

 昨日のさとりの言葉を一つ一つ思い返しながら、燐は決意と共に言う。

『火車に、なろうと思うんだ』
『火車……!?』

 驚いたように言ったあと、空は小さく首を傾げる。

『って、なんだっけ?』
『あんたねえ』

 燐は苦笑しながら立ち上がった。

『ほら、死体運びをする化け猫のことだよ。さとりさまがいつもやってるじゃない、死体運び』
『おー……じゃあ、仕事のお手伝いするんだ』
『そ。……修行次第じゃ単なる化け猫にも火車にもなれる……と思うし。多分』

 言葉は曖昧だったが、燐の決意は本物だった。
 昨日、一晩中考えたのだ。本当にさとりのためになることは何のなのか、と。

『……こいしさまを連れ戻すのが一番なんだろうけど、あたいたちじゃそれはできないしね。第一無理に連れ戻したって、こいしさまが逃げちゃったんじゃ意味ないし』
『うん……』
『だからさ、やっぱりさとりさまのお手伝いをして、負担を減らすのが一番いいんだよ』
『どうして?』
『仕事の負担が減れば、さとりさまは灰なんか被らなくても済むようになる。そんで、きれいな服着て地霊殿を昔みたいな素敵な場所にして……そうだ、おいしい料理や温かいお風呂に、紅茶なんかも用意してさ。そしたらこいしさまだって、すぐに帰ってきたくなるはずだよ』
『あー、そっかー!』

 空が興奮したように目を輝かせる。

『お燐、頭いいー!』
『フフン。ま、あんたとはここが違うよ、ここが』

 おどけて頭を指差しながら、燐は考える。その内、他のペットたちにも人化の術を教えてやろう。さとりの役に立ちたいと思っているのは、自分たちだけではないだろうから。

(地霊殿の掃除とかはあいつらに任せるのがいいかな……それだって必要なことではあるしね。猫の何匹かはあたいと一緒に火車やってくれたら、負担が減ってやりやすくなるかな)

 あれこれ考えていると、肩を突かれた。
 振り向くと、やけに興奮している空の顔が。

『ね、ね、わたしは!? わたしは何したらいい!?』
『んー……あんたね。どうしようかね……』
『あ、じゃあわたしも火車やる! 死体運ぶ!』
『いや、それは多分無理じゃないのかな……あんた鴉だし』
『そんなの関係あるの?』
『多分……いや、よく分かんないけど。あ、そうだ!』

 名案を思いついて、燐は手を打った。

『じゃあさ、あんたは地獄鴉やりなよ! 火力調節役の!』
『地獄鴉?』
『そう。そいつの代わりも、今はさとりさまがやってるらしいからね。地獄が熱くなりすぎないようにするんだってさ』
『それやったら、さとりさま喜んでくれる?』
『ああ。もちろん、大喜びさ!』
『分かった。じゃあわたし、それやる!』

 万歳するように両手を上げる空を見て、燐は苦笑する。

『本当に大丈夫? 結構難しそうな仕事だし……あんた、大雑把だから心配だね』
『じゃあお燐も一緒に見ててよ! そしたらできるよ!』
『最初から人頼り……まあいいか、その方があたいとしても安心だし』

 無邪気にはしゃいでいる空を見て、燐はかすかな罪悪感を覚える。
 実際、さとりがこういう考えを喜んでくれるかどうかは分からなかった。
 旧地獄の管理は人手が足りないし、内容自体もかなり辛い仕事だ。燐が怨霊や死体を苦手としているとあっては尚更である。

(嫌々やってたらすぐバレるし、絶対止められるだろうな……となれば、心の中まで変えなくちゃならないんだ、あたいは)

 そこでふと、燐はあの火車の老婆の言葉の思い出した。
 笑いながら死体を運び、怨霊の嘆きを子守歌のように聞く、と。
 要するに、そんな風になればいいのだろうか。

(よし。あたいはこれから、この仕事を心底楽しめる妖怪になろう)

 耳をつんざく怨霊の声に微笑み、死体の腐臭と焼ける臭いを嗅いでうっとりするような、そんな妖怪へと心を変えていくのだ。

(……道は険しそうだねえ、どうも)

 だが、やらなくてはならない。
 主のためにも、自分のためにも。

『よっし、そうと決まれば善は急げだ。まずは仕事の道具を見つけよう』
『どこで?』
『多分、昔おばーちゃんたちが使ってた物置かなんかがどっかにあるだろ。そこ行けばきっと、昔の道具が残されてるはずさ』
『分かった! 頑張ろうね、お燐!』
『もちろん!』

 燐は親友相手に、音高く手を打ち合わせた。



 燐の読み通り、物置は灼熱地獄上層部の片隅にひっそりと佇んでいた。休憩所も兼ねていたらしく、中は存外広い。
 その物置の隅っこに、ところどころ焦げた古い猫車が、灰を被ったまま放置されていた。

『おばーちゃんが使ってたやつかな』
『そうかもしれないね』

 そうだといいな、と思った。
 きっとあの老婆は、やりかけで放り出してしまった、自分にはもう出来ない仕事を、誰かに引き継いで欲しかったのだろう。
 古びた猫車を前にすると、そういう気持ちが何となく理解できる気がした。

(……おばーちゃんたちみたいに、立派にやれるかな)

 老婆の手を思い出すと、緊張で体が強張ってくるのが分かる。
 自分には仲間がいないし、あの老婆ほど楽しい気持ちで向かって行くわけでもない。
 それでも、やってみたいと思った。
 ひょっとしたら、老婆に会ったときからずっとそう思っていたのかもしれない。
 人の姿になった自分は、元が黒猫なのに赤い髪をしている。
 赤は煮えたぎる溶岩の色。灼熱地獄の色だ。

(……正確にはちょっと違うかな。溶岩って赤ってよりは橙だし……まあいいや。これは灼熱地獄の色。そういうことにしとこ)

 その方が気合入るし、と思いながら、

『さて、と』

 燐は小さく息を吐き、猫車の取っ手に向かってそっと手を伸ばす。
 ぎゅっと握って離してみると、白い手が真っ黒に汚れていた。
 湧き上がってくる嫌悪感を、燐は無理矢理押さえつける。
 これでいい、と思った。

(これからは、あたいが代わりに手を汚そう。それがあたいの役目。さとりさまの手は、いつだってきれいでなくちゃいけないんだから)

 いつかこいしが帰ってきたとき、何の気兼ねもなく抱きしめてやるために。

「……よし」

 改めてぎゅっと取っ手を握り締めたとき、燐は不思議なことに気がついた。
 取っ手を握る手……いや、それだけではなく、術によって人の身を取っている体全体が、ほんの少しだけ大きくなった気がしたのだ。

『どうしたの、お燐』
『ん……あ、いや』

 隣できょとんとしている空もそうだ。
 改めて見ると、昨日変化した直後よりもちょっと背が伸びたように感じる。

(……不思議なこともあるもんだなあ)

 ちょっと首を傾げながら、まあいいや、と燐は気を取り直した。
 猫車を押して外に出て、ふと頭上を見上げてみれば、薄汚れた廃獄の天井が広がっている。
 今は虚ろな風が吹き、怨霊の嘆きがかすかに木霊するだけの、寂しい廃獄。

(いつか……)

 いつか、この場所に笑い声と子守歌が混じり合って響くようになる日。
 その音が自分の耳にも聞こえ始める頃には、全てのことがもっと良い方向に変わっているのだろうか。
 さとりもこいしも自分も燐も。ペットたちも閻魔様も、火車の老婆も。
 みんなが地霊殿に集まって、賑やかで楽しいパーティなんか開いて。
 そんな風に、変わっているだろうか。

(いや。変えていかなくちゃいけないんだ)

 決意と共に前方を睨み、燐は猫車の取っ手を握りしめる。
 巡る血流や心臓の鼓動に乗って、胸の奥から力が沸き上がってくるようだった。
 今なら怨霊も死体も怖くないと、心の底から思う。

『お燐、どうしたの?』
『別に、なんでもないよ』

 不思議そうな親友に、燐は力強く笑いかける。

『頑張るよ、おくう。二人で一緒に、少しでもさとりさまのお役に立つんだ』
『うん、頑張る!』

 歯を見せて笑う親友に、自らも笑い返して。
 小さな新人火車は己の役目を果たすべく、猫車を押してまっしぐらに駆け出していった。



 <了>
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