【東方SS】メディスンが人を毒殺した話

2009/1/5に東方創想話に投稿したSSです。
 


『メディスンが人を毒殺した話』



 かすかに羽音が聞こえてきて、幽香は頭上を振り仰いだ。青く晴れ渡った空の一隅を、一人の鴉天狗が飛び去っていくのが見える。最近、こういうことが増えた。わざとらしくこちらに存在を知らせているのは、一種の警告のつもりなのかもしれない。そんなことを考えながら、今度は下に目を向ける。
 足下の草花が、赤黒く変色していた。幽香はため息をつきながら、いつものようにゆったりとした足取りで歩き出す。草花の変色、というか腐敗は帯状に伸びていて、それが誰かの通った跡であるのは一目瞭然だ。そして幽香には、この傍迷惑な足跡の主が誰なのかよく分かっていた。
 しばらく歩くと、予想通り楽しそうな笑い声が聞こえてきた。人間の子供と同じぐらいの背丈の毒人形が、花畑の真ん中で嬉しそうに跳ね回っている。それだけならば微笑ましい光景と笑って済ませることもできようが、その人形の体から絶え間なくどす黒い霧状の物質が漏れ出しており、それを浴びた草花が見る間に腐り落ちていく、となれば話は別である。

「メディスン!」

 幽香は努めて大声を張り上げ、人形の名前を呼ぶ。毒人形メディスン・メランコリーが、驚いたようにこちらを向き、満面の笑みを浮かべた。

「あ、幽香だ!」

 相変わらず無頓着に毒を撒き散らしながら駆け出そうとするメディスンを、幽香は「待て!」という一喝で押し止めた。人形が目を丸くして立ち止まる。

「え、なに?」
「なに、じゃないでしょ。毒」

 歩み寄りながら言うと、メディスンはたった今気づいたとばかりに「ありゃ」と間抜けな声を漏らした。

「またやっちゃった」
「やっちゃった、じゃないでしょうが!」

 幽香は畳んだ傘を振り上げ、メディスンの頭を遠慮なくぶっ叩く。中身が入っていないのではないかと疑ってしまうぐらい小気味のいい音がした。人形が頭を押さえながら悲鳴を上げて蹲る。

「いったぁーいっ! 何するのよー!」
「うっさい! っていうか、ほら、毒、毒!」

 メディスンの体から、またどす黒い毒の霧が漏れ始めていた。幽香が口元を押さえながら指摘してやると、人形は慌てた様子で「あ、まずっ」と口走る。毒の霧はすぐに止まった。

「あんたねえ」

 自分の周囲を軽く手で扇ぎながら、幽香は呆れ混じりに言う。彼女とて大妖怪の一人に数えられる実力者であるから、メディスンが撒き散らす毒を吸い込んだところで即死したりはしない。だが、それでも吸っていて気分のいいものではなかった。

「こっちに来るときは毒を一切外に出すなって、何度も何度も言ってるでしょうが」
「だって」
「だってじゃない」

 幽香がもう一発傘で殴ると、メディスンは悲鳴を上げながら頭を押さえた。

「いたいってば! なんで何度も叩くのよ!」
「言って分からない奴には、殴って聞かせるのが一番」
「なにさ、幽香のドS!」
「どこでそんな言葉を覚えてくるの、あんたは」
「てゐが教えてくれた」
「あの詐欺兎……!」

 今度会ったら兎鍋にしてやろう、と幽香は固く決意する。そんな彼女の目の前で、痛みに呻くメディスンの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。それは一見すると単なる水滴に過ぎないが、実際はもっと危険な代物だ。メディスンの足下で涙を浴びた雑草が、泡立ちながら融け始める。血の代わりに毒が流れているというこの人形、涙ですらも周囲に害を与えずにはいられないらしい。

「泣くな!」
「だって痛いんだもん」
「我慢しなさい」
「できない」

 幼子そのままに首を振って、メディスンはお構いなしに泣き続ける。幽香はしばらくの間歯噛みしていたが、周囲の草花が次々と腐り落ちていくのを見て、とうとう観念することにした。

「しょうがない子ね」

 舌打ち混じりに吐き捨てながらメディスンを抱き上げて、彼女の涙を自分の体で受け止めてやる。幽香にとっても人形の涙は有害だが、せいぜい服に小さな穴が開いて肌がひりひりしてくる程度である。自分の縄張りの草花が腐るのを黙って見ているよりはずっとましだ、と心に言い聞かせる。
 こんなことをするのは、これが初めてではない。メディスンが太陽の畑に姿を現すようになってから、ほとんど毎回である。

(風見幽香ともあろう者が、何をやっているんだか)

 メディスンの背中をぎこちない手つきで擦ってやりながら、こんなところ誰かに見られたら一生の恥だなー、と幽香がぼんやり考えていると、突然目の前の空間に裂け目ができて、金髪の美女がニヤニヤ笑いながら顔を出した。

「ハァイ。心温まる光景ですわねえ、幽香お婆ちゃん」
「死ねよババァ」

 両手が塞がっているこの状況で出来ることと言ったら、頬を引きつらせながら悪態を吐く程度のものであった。



 フラワーマスター風見幽香が毒人形メディスン・メランコリーと出会ったのは、少し前の異変のときである。幻想郷の花々が季節も無視して一斉に開花した異変だ。
 メディスンの住処は鈴蘭の群生地でもある無名の丘である。そこに捨てられた人形が鈴蘭の毒を吸い取って妖怪化したのだそうで、あの異変までは丘の外に出たことすらなかったらしい。
 そんな彼女がむせ返る花の香に誘われるようにして太陽の畑に姿を現したとき、幽香はすぐにその危険性に気がついた。人も妖怪もほとんど近寄らぬ無名の丘で暮らしてきたせいか、メディスンは無頓着に毒を撒き散らしすぎるのである。当然、幽香の愛する向日葵の花も何十本の単位で、毒を浴びて無残に腐り落ちていた。
 本来ならばその時点で躊躇なく消し飛ばしているところだが、幽香とて長い間生きてきた大妖怪、思考は冷静である。下手に彼女を傷つけて体内の毒が周囲に飛び散ったら、という懸念が、激しい怒りに勝った。だからそのときはわざと負けて、メディスンを通してやったのである。
 あの毒人形も花の香に浮かれていただけのようだし、この異変が終わったら元通り丘に引っ込むだろう、と幽香は考えていたのだが、実際そうはならなかった。異変の最中に竹林の連中と知り合ったらしいメディスンが、永遠亭に通う途上でたびたび太陽の畑を通過するようになったのである。
 しかもこの毒人形、生まれてから数年しか経っていないらしく、人間の子供のように……いや、下手をすればそれ以上に無邪気だ。誰もが恐れる風見幽香にも、遠慮なく話しかけてくるのである。もちろん毒を撒き散らしながら。当然ながら幽香はそのたびメディスンを怒鳴りつけ殴りつけ、「ここに来るなら毒を撒き散らすな」と注意する。人形の方もその都度反省し、毒が周囲に飛び散らないように気をつけるようになるのだが、次に来るときにはまた無分別に毒を撒き散らすのであった。



「要するに学習能力がないのよね、あの子」

 今は毒を撒き散らすこともなく向日葵畑の中を走り回っているメディスンを遠くに眺めながら、幽香はため息を吐きだした。
 太陽の畑の外れには、幽香が別荘として使っている小さな家が建っている。本宅はまた別にあるのだが、最近は四季を通して花に囲まれる生活を送っているため、あまり帰っていない。多分館の連中は思う存分だらけているだろうから、その内連絡も入れずに帰ってしばき倒してやる予定である。
 とは言え、今の幽香は別荘住まい。ここに寝泊まりして、一日中お花さんに囲まれて過ごす幸せな生活を送っているのだ。

「メルヘンババァらしい根暗な幸せよね」
「覗き見が趣味のスキマババァよりはマシでしょ」

 別荘の庭先に設置されているパラソルつきのテーブルを挟んで向かい合いながら、大妖怪八雲紫と風見幽香がにっこり微笑む。もちろん、二人ともこめかみに青筋を立てながらだ。幻想郷の住人のほとんどが、顔を青くして裸足で逃げ出す光景だ。
 紫も幽香も長い間幻想郷で生きてきた大妖怪で、もちろん顔見知りである。とは言えお互い良き思い出などそれほどないし、妖怪の賢者として知られる紫とあくまでも自由な一妖怪でしかない幽香とでは立場が違いすぎる。仲の良い友人とはとても言い難い。それでも、口も利かないほど険悪というわけでもなかった。

「で、さっきの話だけれど」

 目を細めて遠くのメディスンを見つめながら、紫が言う。

「あの子、別に学習能力がないってわけじゃないわよ」
「どうしてよ」
「だって、永遠亭では少しも粗相しないもの」

 また覗き見かババァ、と思いつつ、幽香は少し驚いた。

「本当? ここでは気を抜くとすぐ漏らしちゃうんだけど」
「……どうでもいいけど傍から聞くとちょっと危ない会話ですわね、これ」
「黙れ耳年増。で、どういうことなの」
「どういうこともなにも」

 紫は澄まして言う。

「永遠亭では割と礼儀正しく振舞っているということよ。場を弁えていると言うべきかしら。もちろんまだ子供だから、若干ぎこちなくはあるけれど。少なくとも暴れたり、毒を撒き散らしたりはしていませんわね」
「なによそれは」

 テーブルに頬杖を突きながら、幽香は文句を垂れる。

「じゃあなんでここでは遠慮なく漏らしまくりなわけ? わたしだって毎回毎回ぶっ叩いて叱りつけてるわよ?」
「まあ野蛮ですこと。歳を取ると気が短くなっていけませんわね」
「あんたみたいに言動の端々が年寄りくさくなるよりはマシよ」

 再びこめかみに青筋が立つ、と思いきや、紫はふっと息を吐きだして、表情を改めた。

「冗談はこのぐらいにしておきましょうか」
「言動の全部が冗談みたいなものでしょ、あんたは」
「お花さんとお話しするあなたに言われたくありませんわ。それで、あの子がここでは気を抜いている理由だけれど」
「分かるの?」
「もちろん。きっと、あなたに構ってほしいからね」
「は?」

 聞き慣れない言葉であった。

「……構ってほしいって、わたしに? この風見幽香に?」
「ええ……なにその顔」

 紫が可笑しそうに笑う。

「なんだか、信じられないことを聞いた、みたいな表情よ、あなた」
「実際信じられないもの」

 風見幽香は幻想郷でも最強クラスの力を持ち、怒らせたら塵一つ残さず消し飛ばされるような危険な妖怪である、というのが一般的な認識だ。幻想郷縁起にもそんな風に書かれるぐらいで、幽香としてもその認識は別段間違っていないと思っている。誰にも気を許さず、誰からも気を許されぬ孤高の妖怪。それが風見幽香だ。
 そんな自分に構ってもらいたいと思っている存在がいるなど、そもそも発想からして存在しないのであった。
 ひょっとしてからかわれているのでは、と思って目の前の隙間妖怪を睨んでみるが、彼女の顔に浮かんでいるのはただ微笑みだけである。それも、割と温かい感じの。

「その笑い方、気持ち悪いんだけど」
「お花さんと話してる時のあなたほどじゃありませんわ。いいこと、幽香」

 紫は立てた人差し指を振りながら講釈を垂れ始める。

「あの子が永遠亭で大人しくしているのは、それが求められているということを子供なりに理解しているからよ。あの屋敷でのあの子はあくまでも八意永琳の研究対象だから、毒を撒き散らしたりして迷惑をかけたら追い出されてしまう……と、少なくとも本人は考えているようね。もっとも、屋敷の兎やお姫様たちは、あの子に対してもっと親しみのある感情を持っているようだけれど」
「それを言ったら、わたしだってあの子に毒を撒き散らすなと要求してるけど?」
「でも実際そうしたら、あなたはあの子を無視するでしょう?」
「当たり前じゃない。こっちから声かける用事なんてないし」
「あの子も心のどこかでそれを分かっているのね。だから無意識の内に気を緩めてしまうんだわ」

 つまり、構ってほしいから幽香に迷惑をかけている、ということか。

「丸きり子供の理屈じゃないの」
「子供だもの。それに、もともとお人形さんだものね。抱きしめてあやしてもらいたがっているのよ。実際、さっきのあなたはそうしてたじゃない?」
「あれは、あの子の涙が花を腐らせないように」

 言い訳しつつも、認めないわけにはいかなかった。どうも、自分は知らない内にメディスンの母親のようなことをやっていたらしい。あの風見幽香が。悪鬼も避けて通る花の大妖怪が。

「不覚だわ……!」

 呻く幽香の対面で、紫がからかうように笑う。

「ああ、でもなかなか絵にはなっていたわね。あなたって外見だけはお淑やかですものねえ。まるでお婆ちゃんと孫みたいでしたわ」

 せめて母親と子供と言え、と言い返す気力すらなく、幽香はがっくりと肩を落とす。自分が知らぬ間にそんな気色悪いことをやっていたというだけでも寒気がしてくるが、状況から考えると、今後も似たようなことを続けていかなくてはならないと見て間違いない。メディスンが二度とここに来ないように別の場所で徹底的に叩きのめす、という手もなくはないが、弱い者イジメは趣味ではないからあまり気が進まないのだ。
 そんな風に苦悩する幽香を、紫はあくまでも楽しそうに眺めている。

「私個人としては、幽香お婆ちゃんとメディちゃんの愛の劇場を見守りたいところではあるのだけれど」

 不意に、紫の目が細くなった。

「そうも言っていられなくなってきて、ね」

 先ほどまでと比べて、少し重々しい口調だった。幽香は鼻を鳴らす。

「ようやく本題ってわけ」
「察しがよろしいですこと」
「ついでに話の内容も当ててみせましょうか」
「どうぞ」
「メディスンを排除しようっていう動きがあるのね?」

 答えの代わりに沈黙が返ってきた。花々を揺らす風が、遠くではしゃぐメディスンの笑い声を運んでくる。

「どこまでご存じなのかしら」
「どこまでもなにも」

 紫の静かな問いかけに、幽香は呆れて首を振った。

「ああもあからさまに天狗が飛び回っているんだから、気付かない方がおかしいわよ」
「そう。姿を見せずに監視する手段もあるでしょうに……ある種の心の準備をさせておくつもりだったのね、きっと」

 周囲に鴉天狗の姿を探すかのように、紫は空に向かって目を凝らす。今は鳥一匹飛んでいないが。

「それで?」

 幽香はテーブルに頬杖を突きながら問いかけた。

「なんだって、そんな話になってるわけ?」
「そうね。では説明しましょうか」

 紫は淡々とした口調で説明し始めた。

 よく誤解されがちなことだが、妖怪の賢者と呼ばれて幻想郷のバランスを維持すべく活動しているのは、八雲紫だけではない。幻想郷縁起にも記されている通り、博麗大結界が張られたとき己の存在を賭けて龍神に永遠の平和を誓ったのは、妖怪の賢者「たち」である。彼女以外にも多数の賢者が存在し、それぞれ違った形で幻想郷の平和を守っているのだ。
 それはたとえば妖怪間で無用な殺傷沙汰が起きぬよう監視することであったり、ルールを無視して無闇に人間を喰らう輩が出ないように睨みを利かせることであったりする。あまりに大きすぎる自然災害が起きないように、神々を祀る役目を担っている者もいる。
 そんな中、紫の担当は主に結界の管理と深刻な異変の調査及び解決、そして妖怪の賢者=八雲紫というイメージを、人間や下級の妖怪に印象づけることである。紫以外の賢者たちは、それぞれが属する種族でも上の立場にいる者がほとんどで、自由に動くことが難しいからだ。表立って活動できるのは紫ぐらいのものである。妖怪の賢者と言えば真っ先に八雲紫が浮かぶ、という状況の方が、何かと都合がいいのだ。
 多数いる賢者たちの中では、紫は穏健派とでも言うべき態度を取っている。幻想郷に流れ着いたものは、可能な限り収めるところに収めて、事を荒立てないようにしよう、という立場だ。逆に過激派とでも言うべき態度を取る者もいて、こちらは幻想郷のバランスを壊すような存在は即刻排除すべきだ、と主張する輩である。賢者たちは並の妖怪では太刀打ちできないほどの大妖怪揃いであるから、そうすることも決して不可能ではない。
 たとえば吸血鬼異変のような大きな異変が起きるたび、連中を結界の外に放り出せと主張する賢者も確かに存在したのだ。にも関わらず何事もなく済んでいるのは、紫を始めとする穏健派が過激派を抑え込んでいるからであり、異変の当事者たちがその後そこそこ自重してくれているからでもある。もっとも、実際に武力により激突したらどちらが勝つのか、というのはまた別の話だが。

 ともかく、幻想郷という狭い世界の維持にも様々な思惑が絡んでいるわけである。幽香自身はそこに属していないが、長く生きてきた妖怪であるから、その辺の連中よりは多少そういった事情を理解している。
 無論、賢者たちとてあらゆる物事に干渉して口うるさく指導する、というわけではない。どちらかと言えば大きな問題にならぬ限りは極力放置しておく方針で、それ故に幻想郷は自由で大らかな雰囲気に包まれているのである。

「花の異変のとき、あの子が丘の外を飛び回っていたでしょう?」
「ええ、そうね」
「あのときあの子が無分別に毒を撒き散らしていた様子や、後で届いた『人間に強い憎しみを抱いている』っていう調査報告を見て、過激派のお歴々がちょっとピリピリしているみたいでね」
「あんな子供相手に? 大げさなジジイどもね」

 幽香が鼻を鳴らすと、紫はかすかに眉根を寄せた。

「それが、あながち大げさな話でもなくってね」
「というと?」
「実際、あの子の力は危険だわ。今はまだそれほどでもないけれど、歳を経て力が強まって、それでも中身が今のままであれば、人的な被害が出るかもしれない」
「あの子の毒で二、三人死んだって、大した問題にはならないでしょう?」
「ここが外の世界ならね。けれど、ここは幻想郷だから……分かるでしょう?」

 紫の瞳はあくまでも真剣だ。無論、幽香とて分かっているつもりではある。こんな狭い世界では、あらゆることが大事になり得る。あの小さな人形の吐き出す毒が、この世界にとって致命的なものでないとは誰にも言いきれないのだ。
 そして、わざわざ紫がこのことを知らせに来たということは、メディスンの存在と行動を危険視している誰かがいる、ということである。

「具体的には、誰? 天狗がかぎ回ってるってことは、やっぱり天魔のジジイかしら?」
「そう。もっとも、天ちゃんは慎重に調査して見極めるべきだって立場だから、今のところはこちらの味方だけど。具体的なアクションを起こすことで、もっと過激な考えを持ってる連中が先走って物騒なことやらかさないように、牽制してくださっているのよ」

 天魔、というのは妖怪の山を根城とする天狗たちの頭領であり、やはりあまり知られていないが妖怪の賢者の中の一人でもある。あらゆる妖術に長けた大天狗で、歳もそれ相応だ。幽香も彼が若い時分に何度かやりあったことがあるが、天狗らしく飄々としていて喰えない奴だったと記憶している。
 そんな天魔は、妖怪の賢者たちの中でも髄一の情報収集力を持っている。幻想郷内を縦横無尽に飛び回る鴉天狗たちから届けられる膨大な情報を取捨選択し、何か問題が起きていないかと日々目を光らせているのだ。

「最初はわたしのことを監視しているのかと思っていたけど、まさかメディスンの方だったとはね」
「あなたは案外信頼されていますわ。余程の愚か者が馬鹿な挑発でもしない限り、深刻な問題を起こさないだろう、と」
「それは光栄ね」
「ともかく、メディスン・メランコリーは監視されているわ。彼女が無名の丘から動かなかったのなら、特に問題はなかったんでしょうけど。今後も幻想郷の中を自由に飛び回るのなら、もう少し分別をつけてもらわなくてはならないわ」
「永遠亭では大人しくしているんでしょう?」
「特別に気を張って、ね。どんなときでも自然と自分を制御できるレベルになれなければ、排除すべきだという意見が力を増すばかりよ」
「そして最後には、大の大人が寄ってたかって子供を殺す、と」

 気に入らない話だな、と幽香は鼻を鳴らした。人格者を気取る気など毛頭にない。だが、弱い者イジメに嫌悪感を抱く程度には、彼女は誇り高き強者であった。
 他にも協力する理由はいくつかある。幽香とてあんな何も知らない子供を嬲るのは趣味ではないし、メディスンが毒を漏らさないようになるなら万々歳だ。最近よく飛んでくる鴉天狗もそろそろ目障りになってきたし、と。

「まあ、いいわ」

 ふっ、と息を吐く。

「退屈しのぎにはなるでしょうし、協力してあげる」
「あら、そう?」

 どこか拍子抜けしたように、紫が目を瞬いた。幽香は眉をひそめる。

「なによ」
「いえね、もっと渋ると思ったから、いろいろと説得の言葉を考えてきていたんだけど」

 その言葉を聞いて、幽香自身も確かにおかしいな、と思った。あまり自分らしい選択ではない、と。
 だがそれを認めるのも何となく悔しいので、肩をすくめながら適当な理屈をでっちあげることにした。

「そういうのを聞きたくないって理由も大きいわね。あんたのおべんちゃらは聞いててうんざりするのよ」
「なるほど、つまり私の人徳ということね」
「ボケ老人らしい勘違いした科白だわ」
「オホホホホ、歳を取ると言葉が刺々しくなっていやぁね」

 と、二人が再びいつもの調子に戻りかけたところで、

「ねーねー」

 横から無邪気な声がした。見ると、いつの間にやらメディスンがテーブルのそばにいて、紫と幽香の顔を不思議そうに見比べている。さっき幽香に叱りつけられたからか、今は毒を撒き散らしてはいないようだ。

「二人とも、難しい顔でなに話してたの」
「別に、なんでもないわよ」

 幽香は素っ気なく答えたが、メディスンは納得いかないと言わんばかりに「うー」と眉根を寄せる。

「嘘だー。さっき幽香、こーんな顔してたもん」

 指で眉間に皺を作ってみせるメディスンのおでこを、優香は指で軽く弾いた。

「盗み見なんて行儀が悪いわよ」

 言ってしまってから、わたしは何をやってるんだ、と少し後悔する。これでは本当に母親のようではないか。

「ところで」

 助け船を出すように、紫がにっこり笑いながら割って入った。

「あなたは、わたしのことご存じなのかしら」
「うん、知ってるよ」

 メディスンは満面の笑みで頷きながら、

「妖怪スキマババァ!」
「幽香、ちょっと来てもらえるかしら」
「なによ、ここでいいでしょ」
「あなた、この子にいったいどういう教育を」
「ちょっと、母親扱いするのは止めてもらえない?」
「母親じゃないわ、ババァ扱いしているのよ」
「あんたと一緒にしないでもらえる?」

 ぎゃーぎゃーと喚き合う二人の横で、メディスンが楽しそうにケラケラと笑っている。何も考えていないような馬鹿面は、どこぞの氷の妖精といい勝負だ。そんな子供を危険視だの排除だの、全く馬鹿らしいと幽香は思う。たとえ彼女の力がどれほどのものだとしても、だ。

「それで」

 笑っているメディスンから紫に目を戻し、幽香は問う。

「具体的にはどう拷問したらいいのかしら」
「ちょっと待って」

 紫が手の平を突き出してきた。

「どこから拷問なんて言葉が出てきたの、今」
「だって躾けるんでしょう、この毒人形を」
「なんで躾の手段が拷問一択なの?」
「それ以外に何があるの?」

 心底不思議に思って幽香が首を傾げると、紫が頭痛でも感じているかのように、こめかみを指で押さえた。

「……弱い者イジメは嫌いなんじゃないの?」
「躾とイジメは別でしょ」
「あ、そういう線引きなんだ」
「安心しなさいよ、これでも出来の悪い門番を躾けた実績があるのだから。具体的にはね」
「いや話されても」
「ねーねー」

 メディスンがちょっと不機嫌そうに割って入ってきた。

「二人とも、なんの話してるのー」

 大きな瞳をくりくりと動かして二人を見比べるメディスンの顔を見て、紫が悩ましげな吐息を漏らした。

「ああ幽香、見なさいこの汚れなき瞳。拷問とかなんとか少しも理解してない顔だわこれ」
「そうね、あんたみたいなヨゴレにはさぞかし眩しいことでしょうよ」

 皮肉を交えてそう言ってやると、紫は数秒ほど黙ったあと、おもむろにメディスンに顔を寄せた。

「ねえメディちゃん」
「なにスキマババァ。なんかお顔怖いよ」
「気のせいよ気のせい。あとわたしはスキマババァじゃなくて八雲紫だから。八雲、紫。それでね、わたしたちが今話していたことだけれど」

 ちらり、と意味ありげな視線を幽香に向けてから、

「幽香ったらね、一人ぼっちで寝るのが寂しくてたまらないんですって」
「ちょっ」

 幽香は思わず立ち上がりかける。一体このスキマは何をほざきやがったのか、と。一方ババァは「いいから黙ってなさい」とでも言いたげな視線を向けてくる。
 メディスンは少しぽかんとしていたが、やがて「えぇぇー」と、驚いたように口元を両手で押さえた。

「ホント? ホントにホント?」
「ええ本当よ。それで私に『今日から一緒に寝てくれないか』って頼んできたのだけれど、私も忙しくってねえ」
「そうなんだー。幽香ってさびしんぼうだったんだー」

 馬鹿にしているというよりは何やら感心しているらしいメディスンを前に、幽香は頬を引きつらせるしかない。いや、これも恐らく紫の策略の一部なのだろう、と分かってはいるのだが。

(このわたしが寂しがり屋ですって……!? なんという侮辱……!)

 本来なら速攻で紫に殴りかかっているところであるが、幽香は寸でのところで怒りを抑える。大妖怪たるもの、自分の感情一つ制御できないようではやっていられないのだ。
 そんな風に拳を震わせる幽香を横目に、紫とメディスンの会話は弾みつつあった。

「……だけどね、私も幽香のお友達だから、できればなんとかしてあげたいのよ」
「そうなの?」
「ええ。だから、私の代わりに幽香と一緒に寝てくれる人がいないかなー、と思っているのだけれど」
「わたし、わたしが一緒に寝てあげる!」
「あらそう? メディちゃんは偉いのねえ」

 メディスンの頭を軽く撫でながら、紫はちらりとこちらに目を向ける。

 ――交渉成立よ。
 ――あとで殴る。

 絶妙のアイコンタクトを交わしたあと、紫はおもむろに別荘の方を手で示した。

「じゃあ、あなたには今日からあの小屋で寝泊まりしてもらうことになりますわ。幽香のこと、お願いね」
「うん、任せて!」

 張り切って胸を叩いたあと、メディスンは興奮を抑え切れない足取りで小屋の方に向かっていく。彼女の姿が見えなくなってから、幽香はおもむろに声を絞り出した。

「……説明してもらいましょうか」
「あら、怖いわねえ」

 紫は椅子に座り直しながら、じっと幽香を見つめる。瞳の色はあくまで真剣であった。

「要するに、あの子をきちんと教育するということよ」
「わざわざ一緒に寝起きする意味は?」
「一挙手一投足に注意を払ってもらいたいの。あなたの目から見てメディスンがどういう存在であるか、じっくり観察してほしいのよ」
「どうしてわたしなの?」
「あの子があなたに懐いているから。あとはあなたの頑丈さを見込んで、ね。並の妖怪では万一ということもあり得るし」
「つまりわたしにモルモットかサンドバッグになれってことね」
「悪い言い方をすれば、そうなるかもしれないわね」

 紫はあえて否定することなく、ただ真摯な瞳でじっとこちらを見つめてくる。
 もしここで自分が断ったとしても特に悪いことにはならないだろう、と幽香は思う。紫ならば何か別の手段を見つけるだろうし、そもそもメディスンがどうなろうとも、本来幽香には何の関係もない話のはずなのである。
 だが、何か引っかかるものがあった。メディスンが己の持つ力故に排除されかかっている、というこの状況を見ると、奇妙に胸がざわつくのだ。

「……わたしも、毒にやられたのかしらね」
「なに?」
「なんでもない」

 首を振ってから、軽く息を吐く。

「分かったわ。協力してあげる」
「今日はやけに素直なのね」
「ただし、条件があるわ」

 幽香は咄嗟にそう言っていた。もちろん、そんなものなど今まで考えてもいなかった。ほとんど面子を保つための単なるポーズである。だが紫はその辺りに気づく素振りも見せず、「そう来ると思ったわ」と妖しげに微笑んでみせた。

「で、条件というのは?」
「そうね、まず……花の種でももらおうかしら」
「花の種?」
「そう。外の世界の、とびきり珍しいやつをね。あんたなら調達も簡単でしょう?」
「ええ。それだけでよろしいかしら?」
「まさか。あと、あんたがこの辺覗き見するのも禁止。下品な隙間妖怪に見張られてると思うとうんざりするもの」
「……まあいいでしょう。じゃあ次は一か月後に会いにくるわ。それまでは全部あなたにお任せする」
「それと……」

 ふと羽音が聞こえたような気がして、幽香は空に目を向ける。だがやはり、鳥一匹飛んではいない。

「……この辺に鴉天狗が来ないようにしてもらおうかしら。最近鬱陶しくなってきたから」
「いいでしょう」
「あっさり引き受けるのね」
「それほど難しいことではなさそうですもの。天狗は縦社会の生き物だから、上の命令があれば誰も近づかなくなるわ。天ちゃんも『あの人形ちゃんもなかなか可愛いから、できれば穏便に事を済ませたいよね』とか言ってたし、快諾してくれるでしょう」
「……天魔のジジイってロリコンだったの?」

 紫は少し気まずげに目をそらした。

「……いや、その……ちょっと、入ってるとは……」

 なんだか薄ら寒いものを感じて身震いする幽香の前で、紫は静かに目を伏せた。

「慣れないことをさせるわね」
「別にいいわよ。今後もこの件をダシにいろいろ強請るつもりだし」

 さらりと言うと、紫はむしろ楽しそうに微笑んだ。

「いいわね、それでこそ風見幽香さんだわ」
「その笑い方気持ち悪いって言ってるでしょうが」
「……ごめんなさいね」

 やけに沈んだ声でそう言い残して、紫はいつものように唐突に去った。空っぽになった椅子を見つめて、幽香は唇をむずむずさせる。
 どうも、慣れないことばかりが続くようだった。紫の態度といい、自分がこれからしようとしていることといい。

「あれー」

 別荘の方から駆けてきたメディスンが、テーブルの前で立ち止まってきょろきょろと周囲を見回した。

「紫はどうしたの?」
「帰ったわ。忙しいとかなんとか言って」
「そうなんだ。残念だなー」
「メディ」

 幽香はメディスンを見下ろしながら、噛んで含めるように言い聞かせた。

「あんたにはこれからわたしと生活してもらうわけだけど、そうなると絶対に守ってもらわなくちゃならないルールがあるわ」
「なに?」
「いついかなるときでも、絶対に毒を撒き散らさないこと。もしもこの約束を破ったら、この家から追い出」

 そこまで言いかけて、幽香は一度口を噤んだ。少し考えて、言い直す。

「……約束を破ったら、そのたびに何発かぶっ叩くからね。わたしの傘の痛さは、もう知ってるでしょ?」

 メディスンは幽香の顔と彼女の手元の傘とを見比べて、何度も何度も真剣な顔で頷いた。

「うん、分かった、約束する。わたし毒撒き散らさない」
「絶対だからね」
「うん、絶対」

 そう言うメディスンの顔は神妙だったが、やはりいまいち信用できないような気がした。

「……まあいいか」

 一つ息を吐いてから、幽香は手で椅子を指した。

「そっちに座りなさい。いろいろと聞いておかなくちゃならないことがあるから」
「うん。あ、でもその前にさ」

 メディスンは不意にその場に座りこむと、驚く幽香の前で三つ指ついて頭を下げた。舌足らずな声で一生懸命言う。

「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」
「……だからあんたはどこでそんな言葉を覚えてくるの」

 呆れ声で言いつつも、メディスンから顔を背ける。なんだか頬が熱い。
 ちょっと可愛いな、と思ってしまった自分を、絞め殺してやりたい幽香であった。



 こうして始まった幽香とメディスンの奇妙な共同生活は、予想通り騒がしいものとなった。
 幽香にしても誰かと二人きりで生活するというのは初めての経験だったが、メディスンにとってもそれは同様だったらしい。そもそも屋根の下で寝起きするということ自体、妖怪になってからは初めてだとか。
 そんなわけで、メディスンは一時たりともじっとしてはおらず、そう広いとは言えない幽香の別荘の中を好き勝手に走り回ってはいろんな物を引っかき回した。何か珍しいものがあれば「ねー幽香、これなにー?」だのといちいち引っ張り出してくるのである。そういうわけで、幽香なりの美的センスによって配置されていた様々な調度品などは一日も経たない内に無残な状態と成り果てたのであった。もちろん幽香はメディスンをしこたまぶん殴ってまた毒の涙を流させたが、本人は翌日にはケロッとしていて、また「ねー幽香ー」と問題を起こしてくれるのである。
 食事もまた問題の種であった。

「あんたご飯なんか食べるの?」
「生き物はみんなそうするんでしょ?」
「そうだけど……だって、あんた元々人形でしょ」
「でも今は妖怪だよ」

 何となく納得いかない理屈であったが、とにかくメディスンが食事を取るのは事実らしい。人間が食べた物から血液などを作るように、この人形も食物から体内の毒を生成するのかもしれない。

「なんでわたしがこんなこと」

 ぶちぶち文句を漏らしつつも、幽香は台所に向かった。お腹がすいたと喚くメディスンを無視しても良かったのだが、自分で彼女を預かることを承諾した以上、途中で放り出すのはプライドが許さないのである。ついでに「飽きた」だのと言われるのもやっぱり屈辱的なので、幽香は毎食毎食あれこれと工夫をこらした料理をこしらえて、メディスンに食べさせてやった。
 幸いこの人形は味には文句を言わずになんでも食べたので、その点でイライラさせられることはなかった。小さなテーブル越しに手を伸ばしてメディスンの口元を拭ってやる動作もすっかり慣れたものである。
 だが一番問題となったのは、やはりメディスンが漏らす毒であった。この人形、気を抜くと体の節々から様々な毒を垂れ流し、そのたび殴って叱りつけて泣かせて抱きしめて慰めて、ということになるのである。これをほとんど毎日のように繰り返している。紫の言うとおり、これがメディスン流の甘えたいというサインならば、幽香は見事な悪循環にはまっている。それを自覚しつつも、幽香はこのサイクルからなかなか抜け出せずにいた。
 だが、仕方のないことだろう。大妖怪風見幽香とて、子育てなど初めての経験なのだから。



「……で、説明してもらいましょうか」

 未だ闇の中にある深夜の別荘内、さっきまで自分たちが寝ていたベッドをランプで照らし出して、幽香は頬を引きつらせていた。隣にはしょんぼりした様子のメディスンが立っている。
 ベッドは酷い有様であった。なにせ、シーツやら掛け布団やらがドロドロに融けているのである。ちなみに幽香とメディスンも、裸にタオル一枚巻いただけの姿だ。これも、メディスンが漏らした毒の効力らしい。

「一体どんな毒なのよこれは……」

 寝ている最中何か肌寒いことに気がついた幽香が起きてみると、この惨状だったのである。慌てて毒人形を叩き起こし、即座に毒を止めさせて、今に至るのだ。

「うーんとね、夢を見てたのよ」

 小さく首を傾げながら、メディスンが言う。

「夢?」
「そう。物凄い毒が出来て、ばんざーいって喜んでる夢。だけど、夢の中ではこんな効力じゃなかったんだけどなあ。なんで服とかが融けたんだろう」

 メディスンがぼやいているの聞いて、要するに寝小便のようなものか、と幽香は思った。寝小便でこんなへんてこりんな毒を垂れ流されてはたまらないが。

「あーあ、でもこの毒は使えないなあ。服なんか融かしたって何の意味もないし」
「そりゃそうでしょうけど」

 メディスンの言葉に、幽香は少し引っかかりを覚えた。何の意味もない、という言い回し。つまり、作る意味がある毒と、作る意味がない毒、という線引きが、彼女の中に存在するのだ。二つを分ける境界線は、いったいなんなのか、と。

「メディ」
「なに」
「あんた、夢の中で物凄い毒が出来たって言ってたけど……それってつまり、夢に見るぐらい、いつも新しい毒の生成について考えているってこと?」
「うん、そうだよ」

 メディスンはあっさりと頷いた。

「なんのために、新しい毒を作ろうとしてるの?」
「もちろん、効率よく確実に人間を殺すため」

 答えた顔には無邪気な笑みが浮かんでいる。予想していた答えではあった。だというのに、何故か幽香の胸は激しくざわついた。

「そう。人間を殺すために、ね」
「そうだよ。ああでも、ちょっと迷ってるの」

 メディスンは大げさに首を傾げてみせた。

「この間、人間を自由に操れる毒を作れるようになったのよね。それ使って人間を支配して殺し合わせたりする方がいいのか、それとももっと確実に殺せる毒を作ってそれを撒き散らした方がいいのか。ねえ幽香、どっちがいいと思う?」

 幽香は答えられなかった。彼女自身の考えを言えば、どちらも当然不許可である。メディスンは自分の立場というものが分かっていない。もしも実際にそんなことをしたら、彼女は確実に消されてしまうだろう。

「どうしたの?」

 ふと気づくと、メディスンが不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。いつまで経っても答えが返ってこないことに焦れたのだろう。幽香は小さく首を振る。

「なんでもないわ」
「そう? えへ、でも、楽しみだなあ」
「何が?」
「人間を操れる毒ね、まだ実際に試してみたことはないの。丘に迷い込んできた動物を操ったことはあるんだけど。だから今度、人里の近くに行って人間が通りかかるのを待って、そいつを操ってみようと」
「メディスン!」

 自分でも驚くほどの大声が出た。目の前のメディスンも吃驚したように目を見開いている。

「ど、どうしたの、幽香?」
「メディスン、それは、駄目よ。絶対に、そんなことをしては駄目」

 メディスンの肩を掴む手に、力がこもった。人形の顔が少し歪む。

「痛いよ、幽香」
「いいから。約束しなさい、今後しばらくの間、人里には絶対に近づかないって」

 幽香が脅しつけるように言うと、メディスンは不満げに頬を膨らませた。

「えー、どうしてさ。幽香だって人間は嫌いでしょ?」
「ええ、それはもちろんそうだけど」
「じゃあなんで止めるの?」

 問われて、幽香は返答に窮する。今メディスンを取り巻いている状況について正直に話すわけにはいかないし、仮に説明したとしてもこの幼い妖怪には理解できない部分が多いだろう。それに、彼女の行動原理は実に単純なのだ。自分に不利な説明を受けた結果幽香への不信感を募らせ、一人で暴走してしまう可能性もなくはない。
 だから、少し嘘をついておくことにした。

「あなたが心配だからよ」
「心配? どうして?」
「人間に手を出すのは、もっと力をつけてからにした方がいいわ。幻想郷には油断のならない人間が多いから……たとえば神社の巫女とか、ああいうのね。あなたはまだそれほど力が強くないのだから、報復を受けたら壊されてしまうかもしれないわよ?」

 メディスンが怯えたように肩を震わせた。

「神社の巫女って、そんなに強いの?」
「ええ、かなりね」
「幽香よりも?」
「そうね、わたしでも危ないかもしれないわね」
「じゃあ、止めておく」

 メディスンが真剣な表情で言ったので、幽香はほっと胸を撫で下ろした。同時に、自分がここまでこの人形に信頼されているというこの状況に、奇妙な居心地の悪さを覚える。

「ね、ね、幽香」

 メディスンが幽香の腕を引っ張った。

「なに、メディ」
「あのね。わたし、幽香のこと好きだよ」

 急に耳慣れないことを言われたので、返事をするのが一瞬遅れてしまった。どういう表情を作ったらいいのか分からない微妙な顔のまま、優香はぎこちなく言い返す。

「どうしたの、急に」
「だって、幽香はわたしのこと心配してくれるし、優しくしてくれるから。だから好き。ね、幽香はわたしのこと好き?」
「ええ、と」

 一瞬素直に頷きかけてから、幽香は首を振った。からかうような笑みを浮かべて、メディスンの瞳をじっと覗き込む。

「そうね。あんたが今後一切毒を撒き散らさないと約束出来るのなら、好きになれるかもしれないわね」
「えー」

 メディスンは不満げに唇を尖らせる。

「それは困るよー」
「どうして困るの」
「だって、毒撒けなかったら人間と戦えないもん」

 分かりやすい答えだった。幽香はため息をつき、一度この話題を打ち切ることにした。

「ま、いいわ。とりあえず寝直しましょうか」
「うん、そうしよ」

 駄目になった寝具と服を取り換えて、二人はまた一緒にベッドに収まる。「幽香が寂しがってるから一緒に寝てあげる」という理由で同居を始めたため、二人はずっと同じベッドで寝ていた。床についてからもあれこれとお喋りしたがるメディスンのことを、幽香は最初こそ鬱陶しく思っていたが、最近ではそこそこ楽しんだりしている。

「ねえメディ」
「なに幽香」
「あなた、わたしのことは好きだって言ったけど、人間は嫌いなのよね」
「当たり前じゃない。大嫌いよ」
「どうして」
「だって、人間はわたしのこと捨てたんだもの。わたしだけじゃなくて、自分たちが不要だって思った人形はあっさり捨てちゃうし。こっちの声なんか少しも聞いてくれないんだよ? あんな自分勝手な連中のことなんか、好きになれるわけないじゃない。だからわたしは人間を殺すの。人間を殺して、哀れな人形たちを解放してあげるのよ」

 またも、分かりやすい答えだった。だからこそ、メディスンの憎しみが幼いながらも本物で、一貫したものであることがよく分かる。この感情が今後も育ち続けるとどうなるのか、と考えると、少し憂鬱である。

「ああでも、なんだっけ」

 不意に、メディスンが眠たげな声で言った。

「同じような話、ちょっと前に誰かとしたような」
「誰?」
「誰だろ。なんか、凄く偉そうな奴。前に花がたくさん咲いてたときに、紫の桜の下で……」
「どんなことを話したの?」
「なんだったかな。確か、わたしが人形たちを解放しようとしても誰もついてきてくれない、とか……おかしいよね、だって、わたしは人形たちにとっていいことをしようとしてるんだもの。みんなきっと、喜んでくれるはず……」

 話し疲れたのか、メディスンの声はじょじょに小さくなっていき、最後には寝息に取って代わられてしまった。
 人形の健やかな寝顔を見つめながら、幽香は考える。彼女と話をした人物、というのは、幻想郷担当の閻魔である四季映姫・ヤマザナドゥだろう。あの花の異変のときは幽香も彼女に遭遇して、うんざりするほど説教を喰らったものである。彼女とメディスンが一緒にいるところを一度見かけたことがあるし、多分間違いない。

(閻魔は死後の魂の行方を判定する楽園の裁判長。あれが言うことはほぼ絶対と言っても過言ではないほどの正しさを持つ、か)

 無論幽香はあの裁判長の言うことに従う気などさらさらないが、その正しさは一応認めてはいるのである。彼女がメディスンにそんな説教をしたということは、やはりこの人形がしようとしていることは正しくないのだろう。
 しかし、と幽香は考える。この一か月ほど一緒に過ごしてきて、メディスンの頭の程度も多少は理解できたつもりである。精神的にはずいぶん幼いが、頭は決して悪くないということも分かっている。おそらく閻魔の説教も、その場では大方理解できたはずなのだ。にも関わらず、彼女の言動が改善されていないのは何故なのか。

(まあ、説教だけで生き方を改められる奴なんて、妖怪にも人間にもそうはいないでしょうけど)

 そう思いつつも、何か納得できない気がする幽香であった。



 そうやってなんだかんだとやっている内に、メディスンと生活し始めてから1か月ほどの月日が流れた。
 その日はメディスンが永遠亭に赴く日で、幽香は出立前の人形の肩を掴んで細々とした注意を言い聞かせていた。これもまたすっかり恒例化したやり取りである。

「いい、寄り道しちゃダメよ? 向こうでも道端でも、毒を撒き散らさないように。人里には絶対に近づかないこと、紅白の巫女を見かけたら全力で逃げること、誰かに挑発されても無視すること。あとそれから」
「もう、分かってるわよ。幽香ったら口うるさいんだから」
「あんたがいつも無分別に毒撒き散らしてばっかりいるからでしょうが」
「大丈夫だって。ね、お土産は何がいい?」
「兎の肉がいいわ」
「えー、竹林で兎狩りしたら怒られるよー」
「冗談に決まってるでしょ。とにかく、いろんなことに気をつけるのよ。行ってらっしゃい」
「うん。それじゃあ、行ってきまーす!」

 元気に腕を振りながら飛んでいくメディスンを苦笑混じりに見送ったあと、幽香は「さて」と呟いて別荘の裏手に回った。そこには洗濯籠が置いてあって、中にはメディスンが汚した服などが詰まっている。

(そう言えばあの子、今まで洗濯とかどうしてたのかしら)

 首を傾げつつも、幽香は洗濯に取り掛かる。石鹸はある種の花の成分を抽出して作った特別製だ。どんな頑固な汚れでもたちどころに落とすことができる、主婦垂涎の代物である。当然ながら、幽香にしか作れない品だ。
 彼女とて大妖怪だから、少し前までこういった雑事は従者にやらせたり妖術で適当に片づけたりするのが常であった。だが今は自分の手で直接こなしている。何もかも早く片付けすぎて手持無沙汰になると、出かけているメディスンのことが気になって仕方がなくなるのだ。
 要するに気を紛らわせるために始めたことなのだが、やってみるとこれがなかなか楽しかったりする。鼻歌混じりにジャブジャブやって、洗い終わった後は妖術により石鹸や汚れと水とを完全に分離する。水の方は草花の希望に応じて水撒きに用い、石鹸の方はまた固めて再利用するのだ。花の妖怪らしく環境にも気を配る幽香であった。

「これでよし、と」

 洗い終わった衣服を庭先の物干し竿に干したあと、幽香は花柄のエプロンで手を拭った。晴れた空に目を細めながら、さて今日の夕飯は何にしようか、と考える。最近ではメディスンに料理を作ってやるのも慣れたもので、こちらも洗濯同様なかなか楽しい作業になっているのである。
 そうして上機嫌に振り返った幽香は、小屋の玄関先に八雲紫の姿を見つけて硬直した。幽香との約束通り、この一ヶ月間ほど姿を現さなかった隙間妖怪は、何やら気まずげに両手の指を絡めさせながら、ぎこちない笑みを浮かべて首を傾げた。

「……エプロン、よくお似合いですわ」

 悲鳴と共に投げつけた傘のせいで、小屋の扉が半壊した。



「いや、別におかしなことではないと思うのよ。あなたってほら、花の妖怪らしく小さな花も愛でるじゃない。要するにある種母性本能みたいなものは今までもあったわけだし、あんな小さな子をそばに置いて一緒に生活してればそりゃもう所帯じみてくるのが自然というもので」
「いいから。分析しなくていいから」

 別荘の中に通された紫は、席についた端からどことなく必死な口調で幽香のフォローを始めた。対する幽香はあまりの気恥ずかしさに俯いて黙り込むしかない。これなら思い切り笑い飛ばされた方がまだましというものである。

「それにしても」

 テーブルの向こうで、紫が感心したように頷いている。

「本当に、よくお似合いねえ」
「殴るわよ」
「褒めてるのに」
「だからこそよ」

 実際紫の言葉にはからかいの意図など微塵も感じられず、余計に幽香の羞恥心を刺激してくれるのであった。

「ちなみにどの辺から見てたの、あんた」
「あなたがメディちゃんを送り出してたところ辺り?」
「なら声かけなさいよ!」
「だって、あんまり楽しそうだったものだから」

 そう言われると言葉に詰まってしまう幽香である。実際鼻歌混じりに洗濯なんぞしていた立場上、反論しようにも出来ないのであった。それを一部始終目撃されていたとなると尚更だ。
 しかし、テーブルの対面の紫は、やはりそれをからかう気配など微塵もない。ただ何かを懐かしむような穏やかな表情で微笑むばかりだ。気色悪いな、と幽香は思う。

「らしくないわね」
「何が?」
「わたしの知る八雲紫ってババァは、こういうときうんざりするぐらいしつこくからかうものなんだけど」
「そうねえ、そうかもしれないけど」

 うふ、と笑いながら、紫は頬に手を添える。

「お洗濯してるあなたを見てたら、ちょっと思い出しちゃってねえ」
「何をよ」
「私も藍がちっちゃかった頃は似たようなものだったもの。もうあの子は本当に手のかかる子でね」
「いや思い出話されても困るから。っていうか鬱陶しいから」

 幽香が容赦なく切り捨てると、紫は露骨に残念そうな顔をした。こういう話題で盛り上がれる相手が今まで身近にいなかったのかもしれない。そう推測しつつ、自分がいままさにそういう相手になりかけているという事実に、幽香は少し寒気を感じるのであった。

(いや違うのよ。そりゃ確かにメディは可愛いし、あの子の世話をするとき今までないタイプの喜びを感じているのは事実だけどね。でもそういうのとはなんていうか、その……違うのよ)

 心の中で誰かに言い訳する幽香を、紫はしばらくの間楽しそうに眺めていたが、やがて「さて、と」と呟き、鋭く目を細めた。

「まあその辺の話はまた後のお楽しみにするとして、そろそろ本題に入りましょうか」
「……そうね」

 紫の真面目な口調に頷きながら、幽香はエプロンを外して椅子の背もたれに掛けた。

「なんで今脱いだの?」
「いいでしょ別に。どうも、これを着ていると気が抜けるのよ」
「ああ、お母さんモードになるわけね」
「変な言葉を作らない」

 言いつつ、幽香は椅子に座り直す。メディスンとの生活が思っていたよりも楽しいものであることは認めざるを得ないが、目的は別の所にあるのだ。それを忘れてしまうほど、愚かではないつもりだった。

「この一か月ほど、あの子を観察してみたけど」

 そう前置いて、幽香から見たメディスン・メランコリーという存在のことを、事細かに報告していく。妖怪の賢者たちとのパイプを持っているのが紫である以上、隠し事は極力しないつもりであった。紫の方もそういう幽香の考え方は理解しているようで、ほとんど口を挟まず黙って報告に耳を傾けてくれている。

「……つまり、現状には特に変化がない、ということでよろしいのかしら」
「そうなるわね」

 紫の問いかけに、幽香は憂鬱な気分で頷く。

「相変わらずよく毒は撒き散らすし、叱っても次の日にはまたやるし……永遠亭の方では、特に問題なく過ごしているみたいだけど」
「そう。あなたとの仲は良好なのよね?」
「と、思うわよ? 自分でもなんでこんなに懐かれてるんだか不思議なくらいだもの」
「でも」

 と、紫は鋭く目を細める。

「人間への憎しみは未だ衰えていない、と」
「そうね」

 少し前の夜のことを思い出し、幽香は重々しく頷く。紫がため息をついた。

「残念ね。あなたと生活させることで、その辺にも改善が見られないかと思ったのだけれど」
「どういう意味?」
「あの子は妖怪化して以降、他者と触れ合ったことがほとんどなかったから。あなたと寝食を共にすることで他者への労わりだとか愛情だとか、そういう感情が育たないかと期待していたのよ」
「そういうこと。それは、多少効果があったとは思うけど」

 好きだよ、と言ってくれたメディスンの笑顔を思い出しながら、しかし幽香は首を横に振る。

「駄目でしょうね。こんなことをずっと続けていても、人間への憎しみは解消されないわ。だって、わたしは人間じゃないんだもの」
「そう、ね。予想していたことではあったけれど」

 幽香がこの一ヶ月間観察した限り、メディスンの中で人間という存在と他のものとの線引きはかなり明確になされているようだった。たとえ彼女がどれほど風見幽香への愛情を育てたとしても、人間への殺意や憎しみが消えることはないだろう。

「……そもそも、毒を撒き散らしたり新しい毒を生成したりっていう行動の根本には、人間に復讐したいっていう強い感情があるみたいだから」
「逆に言えば、その辺りがなんとかなりさえすれば、何の問題もなくなるってことなんでしょうけどねえ」

 紫が悩ましげにため息をつく。自分で注いだハーブティーに口をつけながら、幽香は問うた。

「それは、どうしても必要なことなのかしら。今みたいに、あの子をずっと人里から遠ざけておけばいいだけなんじゃないの?」
「あまりいい考えとは思えませんわね。確かに妖怪が人間に憎しみを抱くことはさほど珍しいことではないし、それ自体はおそらく罪にはなりえないでしょうけど、あの子の場合は特別だから」
「特別っていうと?」
「あなた、さっき自分で言ったでしょう。あの子の憎しみは心の奥底にまで根を張って、あらゆる行動の原動力になっていると。あのまま放置しておいたら、その感情はどんどん育って、いつか毒と一緒に外に溢れ出してしまう。ルールも警告もなにもかも無視して、自分の住める場所がなくなろうが存在を抹消されようが、構わずに人間を滅ぼそうとする、そんな危険な化け物に成り果てる可能性を秘めているのよ、あの小さな毒人形は。今はまだあなたの言うことにも従っているけど、精神的に成長して知恵と力を身につけたら、幻想郷にとってはかなり危険な存在となるかもしれない」

 幻想郷の平和が保たれている大きな理由の一つに、力ある妖怪たちが「ここ以外には行き場がいない」ということをよく理解して、なるべくこの狭い世界を壊さないように自重している、というものが挙げられる。
 たとえば信仰を得るために奔走している山の神ですら、妖怪の山ばかりに神徳を与え過ぎたことに気がついて、麓でも信仰を得てバランスを保とうと努力しているほどなのだ。絶大な力を持つ神々も、この郷以外に行き場がないのは同様なのである。彼女とても、その辺りの事情はよく理解している。だからこそ地下の異変の際も、事前に連絡を入れなかったこと以外はさほど問題視されなかったわけだ。
 逆に言えば、その辺りに全く頓着しない存在というのは、それだけで危険視されて当然とも言える。ならばいっそ力のない内に、と物騒なことを考える輩が出るのも無理のないことだ。
 メディスン・メランコリーの存在がこうも問題視されている理由には、そういった背景があるのだ。

「ならどうするっていうの」

 幽香は苛立ち紛れに指でテーブルを叩いた。「落ち着きなさいな」と言いつつ、紫は渋面で呟く。

「あの子が元々人形なのに食事をしたり眠ったり涙を流したり、っていうのは、間違いなく人間の模倣で、執着心の象徴でもあるわ。だから、その辺りに解決の糸口があるとは思っているわ」
「どういうこと?」
「あの子にだって、人形として大切にされていた思い出はあるはずなのよ。そもそも強い憎しみというもの自体、愛していた人間に捨てられたことへの反動みたいなものでしょうし。だから、人と共にあることの幸せや安らぎをあの子が思い出しさえすれば、それが憎しみを抑え込んでくれるかもしれない」

 なるほど、納得できる答えではあった。ほとんど理想的とすら言える。しかし、

「具体的には、どうやって思い出してもらおうっての? 子供が人形と遊んでるところを遠くから見せるとか?」
「多分それでは弱いでしょう。中途半端な手段では、あの子の葛藤を増やしてしまうだけ。現状で最良と言えるのは、心の優しい人間とあの子を直接触れ合わせる……出来れば今のあなたたちのように、一緒に生活させるのが望ましい、かしら」
「馬鹿じゃないの」

 幽香は鼻で笑った。

「そんな生活、一日も持たないわよ。わたしがメディスンと暮らせているのは、わたしの体が人間なんかより遥かに頑丈だからよ。これが人間だったら、あの子がちょっと毒を撒き散らした時点でもうお終い。あの子が人間の良さを思い出すまで、そんな生活が続けられるとは到底思えないわね」
「それに関しても、一応、考えはあるのだけど」

 紫は歯切れ悪く言う。幽香は眉をひそめた。

「なに。言ってみなさいよ」
「……忘れてちょうだい。ほとんど博打みたいな方法だから」

 そう言いつつも、他にはいい案が思い浮かばないのだろう。紫は気難しげな表情で黙り込んでしまう。
 幽香はすっかり冷めてしまったハーブティを無理矢理飲み下し、窓の外に目を向けた。夕暮れの光が、太陽の畑を淡く包み込んでいる。そろそろメディスンが帰ってくる時間だ。何の悩みもないような能天気な顔で、しかし小さな体に様々な問題を抱えて。

(大妖怪が二人も雁首そろえて何やってるんだか。まったく、情けない)

 幽香は自嘲の笑みを浮かべた。大妖怪と恐れられ、山を抉り空間を歪めるほどの力を持っていたとしても、現実はこんなものだ。この狭い世界に小さな毒人形が問題なく収まる場所を探してやることすら、満足に出来やしない。

「あー、あ」

 椅子の背もたれにだらしなく寄りかかりながら、幽香は気を紛らわせるように声を絞り出した。

「人間への憎しみを消す、なんてねえ。閻魔の説教みたいなお寒い話になってきたわ」
「そうね……待って」

 紫が眉をひそめた。

「今の、どういう意味かしら?」
「なにが?」
「閻魔の説教、とか」
「ああ、それね」

 幽香は前に目撃した光景を、紫に話して聞かせた。
 花の異変の終盤に、閻魔が幻想郷中を飛び回っていたのである。彼女にどういう意図があったのかは知らないが、太陽の畑にも降り立ったので、幽香は二度目の説教を喰らう羽目になったのだ。
 そのとき、閻魔とメディスンが話しているところを偶然目撃したのであった。

「……『人間への憎しみを消すこと。それがあなたに出来る善行よ』とか言ってたのよ。笑っちゃうわよね」

 しかし、紫は笑わなかった。真剣な顔で何やら考え込み、ふっと吐息を漏らす。

「そう。あの方までもが同じことを……やはり、道はこれしかないということね」
「なに、どうしたのよ」
「幽香」

 不意に、紫が表情を改めた。瞳に揺るぎなき決意が宿っている。先ほどまでの逡巡するような色はもはや欠片も見当たらなかった。よく分からないが、閻魔の言葉に背中を後押しされたようだった。

「近い内にまた来るわ。それまで、メディちゃんに仕込んでおいてもらいたいことがあるんだけれど」
「なによ」
「家事全般、かしら。特にお料理とか。お味噌汁とか、和食がいいわね」

 紫の言葉の意味が理解できず、幽香は首を傾げた。

「なに言ってんの、あんた」
「いいから、言うとおりにしてちょうだい。それと、今の内に謝っておくわ」
「は、謝るって」
「多分、あなたにもメディちゃんにも、辛い想いをさせると思う。だから、ごめんなさい」

 紫は目を伏せ、静かに頭を下げる。胡散臭い隙間妖怪には少しも似合わぬ、誠実な態度であった。あまりに予想外のことが続くものだから目を白黒させていた幽香だったが、ここに来てようやく頭が追いついてきた。
 そうして、黙って頭を下げている紫を見ると、辛いのはむしろあんたの方なんじゃないの、という気がしてきて、

「ねえ紫」

 気付けば、問いかけていた。

「最初からずっと疑問だったんだけど」
「なにかしら」
「あんた、なんであの子のためにここまでしてやってるの? そりゃ、あの子の危険性が無視できないレベルのものだってことは理解できるけど、あんたなら他にもやりようがあるんじゃないの」

 排除するまで行かなくとも、紫ほどの妖怪ならば、妖術でメディスンの力を封印するなり、他にもやりようはある気がするのだ。

「そうね、そうかもしれないけど」

 そっと触れただけでも壊れてしまいそうな、弱々しい微笑。

「できれば、そんな風に力で無理矢理押さえつけるような手段は取りたくないの」
「だから、どうして」
「私たちもあの子と同じだからよ」
「どういう」

 最後まで言い切ることは出来なかった。何かに気づいたように顔を上げた紫が、「とにかく、よろしくね」と口早に言い残して姿を消したのだ。ほとんど同時に、別荘の扉が勢いよく開かれる。

「ただいまー」

 と、能天気な声とともに、メディスンが笑顔で飛び込んできた。

「あー、疲れたー。あ、幽香、これお土産。鈴仙特製のハンバーグね。あと永琳から、試作の植物用栄養剤だって。副作用なしに見る見る植物が育つって……ところでなんでドア壊れてるの?」
「メディ」

 元気よく捲し立てるメディスンに、幽香は一言だけ声をかけた。「なに?」と不思議そうに見上げる小さな毒人形を、ただ黙ってじっと見下ろす。この人形は、自分が幻想郷にとってどれほど危険な存在であるか、少しも分かってはいまい。教えられても実感が湧かないかもしれない。そのぐらい無邪気で幼い毒人形は、しかし確かに危いのだ。本人は無自覚なまま、そんな風になってしまった。
 幽香は長く息をついて胸のざわつきを追い出しながら、椅子の背もたれにかけてあったエプロンを手に取った。

「なんでもないわ。ところで、今日から料理を手伝ってほしいんだけど」
「え、いいの!?」

 メディスンが目を輝かせるのを見て、幽香は苦笑した。

「いいわよ。ただし、分かっているとは思うけど」
「大丈夫、絶対に毒はいれないよ!」

 胸を叩いて、メディスンは自信満々に断言する。幽香は意地悪く言った。

「本当に大丈夫かしら?」
「あ、信用してないなー。大丈夫だよ、お肌の毒は他の毒で中和してるし」
「それは分かってるけどね」

 でなければ、毎晩幽香と同じベッドで寝ることなどできはしないだろう。メディスンはメディスンなりに、他者との触れあい方を考えているのである。

(この気遣いが、あらゆるものに向かっているのなら何の問題もなかったんでしょうけど)

 エプロンを身につけながらそんなことを考えていると、メディスンが心配そうに幽香の顔を覗き込んできた。

「大丈夫、幽香? なんか嫌なことでもあった?」
「何もないわよ、嫌なことなんて」

 穏やかな声で答えながら、本当にそうだったらいいのにな、と思わずにはいられなかった。



 次に八雲紫がやって来たのは、それから二週間ほどたった日のことである。それは幽香が人里に買い物に行っている間のことで、隙間妖怪は相変わらず外で走り回っていたメディスンに、優しく声をかけたそうだ。

「こんにちは、メディちゃん。わたしのことは覚えているかしら」
「うん、スキマバ……八雲紫!」
「はい、よくできました」

 そしてメディスンの頭を撫でながら、優しい口調のままで言った。

「ところで、あなたは毒を操る程度の能力を持っていらっしゃるのよね」
「そうよ」
「その能力を見込んで、一つお願いしたいことがありますのよ」
「なに?」

 紫はにっこり笑って、

「ある人間を、毒殺してほしいの」



「どういうことなの……!」

 夜の闇の中一人テーブルの上にランプを灯し、幽香は苛立ち紛れに呟いていた。静寂の中、聞こえてくるのはメディスンの健やかな寝息だけである。「明日に備えて早く寝る」と人間のようなことを言って、さっさと床についてしまったのだ。ずいぶん、興奮している様子だった。

「紫が人間を毒殺してほしいって頼んできたの! 殺しても何の問題もない人間なんだって!」

 心底嬉しそうにメディスンが言ったとき、幽香は目眩を覚えてしまった。一体どういうつもりなのか紫に問い正したかったが、彼女の姿はどこにも見えなかったし呼んでも出てこなかったので、歯軋りしながらただ時を待つしかなかった。
 これが、紫の言っていた「博打のような方法」なのだろうか。一体何が狙いなのか、さっぱり分からない。そもそも、たとえば大勢の恨みを買っているような人間のクズだとしても、幻想郷のバランスという観点から考えれば殺していいはずがないのである。なのに毒殺してほしい、とはどういう意味なのか。何かの比喩だとも思えないし、それでどうやってメディスンの人間への憎しみが消えるというのだろう。

(その毒殺してほしい人間ってのが、実はメディスンを捨てた人間と同じ奴だから、殺せばあの子の気が晴れるだろう、とか……いや違うわよね)

 あれこれと考えてはみるものの、やはり理解は出来なかった。
 その内、ようやく考えても無駄だという結論を出すことが出来たので、幽香はため息でランプを吹き消し、ベッドにもぐりこんだ。布団にくるまってみれば、目と鼻の先にメディスンの無邪気な寝顔がある。この子供が、明日誰かを毒殺しに行くのだ。先行きが不安すぎて、とても眠れそうにない。

(ああ、心配、心配だわ)

 自分には関係ないし、だのと心を偽ることはもう出来なかった。メディスンがこの一か月ですっかり幽香に懐いてしまったのと同様に、幽香もまたメディスンに深い愛着を抱いてしまっていたのだ。今こんなにも不安に駆られている自分に気づいて、ようやくそれを認めることが出来た。
 幽香は闇の中で手を伸ばして、メディスンの頬に触れた。人間や妖怪のものと比べると少々冷たい肌を、そっと撫でてやる。そのとき、不意にメディスンが顔をしかめ、苦しげな吐息を漏らした。

「やだ……」

 閉じられた瞼から、涙が溢れ出して来た。

「どうして、やだよ、行かないで……」

 絞り出すような呟きと共に涙がぽろぽろ零れて、頬に添えられた幽香の手の甲を流れ落ちる。涙の跡にひりひりとした痛みを感じて、ああこの子は涙ですらも毒になるのだったな、と幽香は思い出した。
 多分、人間に捨てられたときのことを夢に見ているのだろう。メディスンが流した涙を、幽香は黙ったまま指で拭ってやった。寝息はすぐに穏やかなものとなる。指にひりつくような痛みを感じながら、幽香は深く息を吐き出した。

(とにかく、事の成り行きを見守るしかない、か)

 紫の考えはよく分からないが、彼女が今までメディスンのことを考えて行動してきたのは確かなのだ。ならば、とりあえずは彼女を信頼して、事態がいい方向に向かっていくことを祈るしかない。
 それでも万一、と幽香は考える。

(もしも誰かがこの子を排除しようとしたら……幽香、あんたはどうするの? この子のために、幻想郷全体を敵に回して戦う? 戦えるの?)

 心の中で誰かが嘲笑し、他の誰かが力強く頷いた。
 どちらに従うべきなのか自分でも分からぬまま、幽香は眠り続けるメディスンに黙って身を寄せた。



 よく眠れぬままに夜が明けた。メディスンは軽く朝食を食べたあと、いつものように元気よく別荘を出た。紫とは別の場所で待ち合わせをしている、とのことだ。幽香も当然のようについていく。

「わたし一人でも大丈夫だよ」

 メディスンは不満げに頬を膨らませたが、幽香は「駄目よ」と首を横に振った。

「あんただけじゃどうも不安なのよ。上手くやれるか、そばで見ててあげるわ」

 もちろん、本当は今日確実に紫を捕まえて、彼女の考えを確かめるためである。確かめてそれからどうするのかは、今の時点ではまだよく分からない。
 少し緊張しながら飛んでいた幽香は、隣のメディスンが何やら嬉しそうな顔をしているのに気がついた。興奮しているためか、久方ぶりにどす黒い毒の霧を撒き散らしている。幽香が無言で頭を叩くと、「いたっ」と声を上げて恨めしげに振り返った。

「ちょっと幽香、何するのよ」
「何するのよ、じゃないでしょ。毒」
「あ、やっちゃった」

 メディスンが慌てて言うのと同時に、毒の霧が止む。誤魔化すように照れ笑いを浮かべる毒人形に、幽香は呆れ混じりに言った。

「いくら紫に頼まれたからって、無関係な人間巻き込むと面倒なことになるんだからね」
「分かってるってば。言いつけはちゃんと守ります。今のはほら、興奮しすぎてつい気を抜いちゃったっていうか」

 言い訳するメディスンをじっと見つめて、幽香は訊いた。

「人間を殺せるのが、そんなに嬉しいの?」
「ん。えーとね、それももちろん嬉しいけど」

 メディスンははにかむように笑った。

「幽香と一緒にお出かけするのって初めてだから、なんか楽しいなーって」
「……ああ、そういうことね」

 幽香は無理に笑い返した。これで目的が毒殺でなければ本当に楽しかったろうに、と思いながら。
 そうして人里付近の上空に差し掛かったとき、「あ、あそこだ」と呟いたメディスンが、道端に生えている一本の木に向かって降下した。幽香もそれについて地に降り立つ。木のそばには予想通り八雲紫が立っていた。

「こんにちは、メディちゃん」

 メディスンに愛想よく微笑みかけたあと、紫はなんとも言えぬ微妙な面持ちで幽香を見た。

「あら、あなたもいらっしゃったのね」
「当然でしょ。紫、あんた一体」

 口を開きかけた幽香の眼前に、紫は緩やかに手の平を突き出してきた。

「悪いんだけど、あなたとのお喋りはあとにしてもらいたいのよ」
「どういう」
「いいからいいから。さ、メディちゃん、ちょっとあっちで仕事のお話をしましょうか」
「はーい」

 紫がメディスンの手を引いて歩いていこうとしたので、幽香は慌ててそれを止めた。

「ちょっと、紫」
「いいから、黙ってなさいって。いちいちあなたに横から口を出されたら、話が進まなくなるの。それとも何も言わずに最後まで黙って聞いてるって約束できる?」
「……できるわけないでしょう」

 納得いかないことがあれば即刻メディスンを連れて帰るつもりの幽香である。紫は呆れたように首を振った。

「それじゃあ、ここで一人で待ってなさいな。話の邪魔だから」
「だけど」
「大丈夫よ。悪いようにはしないから」

 最後の言葉は、真摯な眼差しと共に送られてきた。幽香は開きかけた口をぐっと噤み、文句の代わりにため息を吐きだした。紫に手を引かれているメディスンのそばに屈みこみ、彼女と視線を合わせながら言い聞かせる。

「じゃあ、わたしはここで待ってるけど。紫の言うこと、ちゃんと聞くのよ。自分勝手に動いちゃ駄目だからね」
「もう、大丈夫だったら。わたしだって今日からは一人前の妖怪だもんね」
「さっきも毒撒き散らしてたくせに、よく言うわ。口ばっかり達者なんだからこの子は」
「ゆ、紫の前で恥ずかしいこと言わないでよ! 幽香のいじわる! 行こっ、紫!」
「ええ、行きましょう。じゃあまた後でね、幽香」

 人里の方に向かって歩き去っていく二人を、幽香はただじっと見送った。メディスンの背が遠のくにつれて気が気でなくなってきて、何度か追いかけようと駆け出しかけたぐらいだったが、鋼の自制心で無理矢理自分を抑え込んだ。

(……大丈夫よ。むしろわたしがついていった方が上手くいかなくなるみたいだったし、待ってた方がいいに決まってるんだから)

 高鳴る胸を服の上から押さえて、何度か深呼吸する。そうやって気を落ちつけながら、幽香は待ち合わせ場所でもあった木に寄りかかり、苛立ちながら時が過ぎるのを待った。
 まだ昼前という時刻のため、目の前に伸びている道を時折人が通りかかることがあった。大抵の人間は木に寄りかかって渋面を作っている幽香を見ると「ひっ」と短い悲鳴を漏らして一目散に駆けていくか、もしくは泡を食って人里の中に逃げ帰って行く。

(失礼な連中ね。別に取って喰いやしないわよ)

 そう思いつつも尚更苛立ちが募り、幽香の顔は抑えようもなく歪んでいく。迷惑度急上昇だ。このまま悪化すると誰も近寄れなくなって、異変認定された挙句に巫女が飛んでくるかもしれない。

(なんて、ね)

 ふっ、と幽香は息を吐きだした。
 この辺りの迷惑さ加減は自分もメディスンも大して変わりないな、と思う。誰もが避けて通る存在。どこへ行っても疎まれる、一人ぼっちのはぐれ者。危険な力を持った者には誰も近寄りたがらないのだから、当然である。
 そんなことを考えていると、ふと頭の隅に引っかかるものがあった。何か、ずっと疑問に思っていたことにようやく答えが出そうな気配がして、

「どうしたの、怖い顔しちゃって」

 突然声をかけられたために、幽香は悲鳴をあげそうになった。見ると、すぐ目の前に隙間妖怪がいて、こちらの顔を不思議そうに見つめている。

「いきなり声かけないでよ! びっくりするじゃない!」
「え、ああ、えっと、ごめんなさいね。まさか、目の前に出たのに気付いてないとは思わなくて」

 紫はどことなく釈然としない様子で詫びた。幽香は一瞬言葉に詰まり、「そんなことより」と無理に話題を変える。

「どうなったの、メディは。毒殺……は、上手くいったの?」
「あら、上手くいってほしかったのかしら?」
「それは」

 何とも言えずに幽香が押し黙ると、紫は複雑な微笑みを浮かべた。

「まあとりあえず、ファーストコンタクトは成功、というところね」
「……ファーストコンタクト?」

 妙な単語が出てきたな、と思う幽香に、紫は小さく頷いてみせた。

「ええ、そうよ。あなたが大人しくしていてくれたおかげで、メディちゃんへの説明も滞りなく終わったし……あの子もかなり落ち着いているようだから、あの分なら多分こちらの思惑通りに事が運ぶでしょう」

 そう言いつつも、紫はあまり嬉しそうな顔をしていない。口調もどちらかと言えば淡々としていて、無理に自分を抑えているような感じだった。幽香の胸がざわついた。

「今度こそ、説明してもらえるんでしょうね?」
「ええ、もちろんよ。行きましょうか」

 紫はこちらを先導するように空に飛び立った。慌ててそれに倣いながら、幽香は抗議の声を上げる。

「ちょっと、どこに行くのよ?」
「もちろん、あの子のところよ」
「あの子って、メディよね?」
「ええ。正確には」

 紫は一瞬言い淀んだ。

「正確には、あの子と、あの子が毒殺する人間のところへ、かしら」



 紫の案内に従って辿りついた場所は、人間の里の中でもかなり外れの方に位置する小さな高台であった。そこに、一件の人家が建っている。少々古めかしいながらもよく掃除が行き届いている日本家屋である。隙間妖怪曰く、幽香の愛しい毒人形はこの家の中にいるとのことだった。

「で、結局どういうことなの。メディの仕事っていうのはもう終わってるの? まさか今死体処理してる最中、とかじゃないでしょうね」

 紫について家の正面に降り立ちながら、幽香は口早に問いかけた。もちろん、不安な気持ちをごまかす意味合いが大きい。一方紫は返事をしない。玄関の戸には手をかけることもなく、敷地内を横切って庭の方へ向かう。幽香は苛々しながらその背を追いかけた。

「ちょっと紫、聞いて」
「しっ。声を落として」

 紫は幽香に警告しながら、家の壁に背を張りつかせた。角になっている部分からわずかに顔を出し、向こう側を覗き込む。そして、小さく息をついた。

「良かった。どうやら上手くいっているみたいね」
「一体」
「あなたも覗いてごらんなさいな」

 紫がどけたので、幽香は先ほどの彼女に倣って壁に背を張りつける。角から顔を出してみると、向こう側は小さな庭になっていた。隅の方には小さな菜園があり、もう一隅にはやはり小さな花壇がある。そんな穏やかな庭先に、楽しげな談笑が響いていた。

「えー、嘘だー」
「いや、本当だとも。あのとき機転を利かせなけりゃ、俺はここにはいなかったろうよ」

 一方は聞き慣れたメディスンの声で、もう一方はしわがれた老人の声だった。状況がいまいち把握できず、幽香はさらに身を乗り出す。
 庭の縁側に、小さな毒人形と小柄な老人が並んで座っていた。老人は皺だらけの顔に得意げな笑みを浮かべ、身ぶり手ぶりも交えてメディスンに何かを語り聞かせているようだった。

「あれは確か今ぐらいの時期だったな。俺が道を歩いてたらよ、金色の髪した女の子が空から降りてきて言うわけだよ。『あなたは食べてもいい人類?』ってな」
「そんでジジイはどうしたの? 逃げたの?」
「いやいや、逃げたってあっちは空飛べるんだ、捕まるのは目に見えてたさ。だから俺は言ってやったのよ、『おおとも、俺は喰ってもいい人類だぞ、さあガブリといきやがれ』ってな」
「えー、それじゃあ食べられちゃうじゃん」
「そこで一計案じたわけよ。俺はな、こうやって思いっきり尻を突き出したのさ。そうすると当然、妖怪はそこに顔近付けてくるわけだ。そこで俺は」
「ジジイは?」
「大口開けたその妖怪に、思いっきり屁をぶっかけてやったのさ!」

 何がそんなに可笑しいのか、メディスンが腹を抱えて笑い出す。老人はそれを満足げに眺めて、

「あの妖怪め、顔を押さえて転げ回り始めてな。おかげで俺はまんまと逃げ出せたってわけよ。いやー、あんときばかりは自分の屁の臭さに感謝したぜ」
「なにやってんの、もー。ジジイ馬鹿すぎー」
「へっへっへ、こんな話ならいくらでもあるぜ。そう、あれは湖に釣りに出かけたときだったな。氷の妖精が出てきて」

 幽香は無言で顔を引っ込めた。いまいち状況が飲み込めない。無表情で待っていた紫に向かって、首を傾げる。

「どういうこと? 毒殺対象って、あのジジイよね?」
「ええ、そうよ」
「……死んでないじゃない。しかもなんか仲良くなってるし。何がどうなってるの?」
「毒殺計画は実にうまくいっているということよ。ちょっと待ってなさい、その内メディちゃんが自分で説明してくれると思うから」

 庭の方からは相変わらず楽しそうな笑い声が聞こえてくる。にも関わらず紫の表情が暗かったので、幽香はますますわけが分からなくなった。
 と、そのとき、不意に話声が途切れた。代わりに、誰かが咳き込む音が聞こえてくる。幽香が慌てて覗き込むと、身を丸めて激しく咳き込む老人の背中を、メディスンが擦ってやっているところであった。

「ジジイ大丈夫?」
「げほっ、げほっ……おー、大丈夫だ。ま、この歳になりゃあ大して珍しいことでもないわな」
「人間ってよわっちいのね」
「お前さんらに比べりゃあな。悪いが、肩貸してくれるか。ちょっと横になって休むとするわ」
「うん、分かった」

 メディスンが飛びあがって、老人に肩を貸す。二人は連れ立って家の奥へ消えた。寝室はまた別にあるのだろう。こっそり庭に抜け出た幽香は、縁側から身を乗り出して家の中を覗いてみた。二人はちょうど廊下の角を曲がるところで、老人の背中がよく見えた。先ほど楽しそうに嘘臭い武勇伝を語っていた人物とは思えないぐらい、生気の乏しい背中であった。

(死にかけ、みたいな感じ。あれが毒の効果……? 遅効性の毒とかかしら)

 首を傾げる幽香の隣に、紫がそっと腰かけた。

「あなたも座ったら? あの人を寝かしつけたら、メディちゃんも戻ってくると思うし」
「紫」
「話はあとよ。ああ、そうそう」

 紫は横目で幽香を見て、警告するように言った。

「あなた、ここまでついてきたのだから、ちゃんと話を合わせてちょうだいね。余計なことは言わないように」

 有無を言わさぬ強い口調である。何の説明もなしに話を合わせろも何もないだろう、と幽香は文句を言おうとしたが、口を開きかけたところで「あれーっ!?」と、メディスンの声が響いた。

「紫、帰ったんじゃなかったの? 幽香まで、どうしてここに」

 目を丸くした毒人形が、廊下の向こうからぱたぱたと走ってくる。どう答えていいか分からぬ幽香の隣で、紫がにっこり笑って頷いた。

「失礼かとは思ったけど、心配になっちゃってね。でも、上手くいってるみたいで安心したわ」
「当ったり前じゃない。わたしだって一人前の妖怪ですからね」

 メディスンが腰に両手を当てて胸を張る。その得意げな顔を見て、幽香はほとんど反射的に問いかけていた。

「じゃああなた、さっきのジジイを毒殺したの?」
「ううん、まだ死んでないよ」

 メディスンはあっさり首を横に振ってから、おかしくてたまらないと言うようにくすくす笑い始めた。

「でも見たでしょ、さっきのあのジジイの顔。あんなに咳き込んでるのに『歳を取ればよくあることだ』なんて、食事に毒盛られてるのに全然気づいてないの。おかしいったらないわもう。安心してよ紫、あれの効き目はばっちりよ。あれならあのジジイ、きっと長い間苦しみ抜いてから死ぬと思うわ」
「そう、さすがポイズンマスターさんね。あなたにお願いして良かったわ」
「そうでしょそうでしょ、わたし凄いでしょ」

 メディスンはますます得意げである。幽香はまた訊いた。

「つまり、食事に毒を盛って殺そうとしているのね? しかも長い間苦しむような毒を盛って」
「うん、そうだよ。紫ねー、昔あのジジイに恥かかされたんだって。人間のくせに生意気よね。だから出来る限り長ーく苦しむような殺し方をしたかったんだって。そこでわたしに依頼してきたわけよ」
「具体的には、どんな毒を?」
「幽香もよく知ってるやつよ。でも多分、幽香や紫だったらどれだけたくさん摂っても死なないんじゃないかな」

 と言われても、幽香には見当もつかない。今や自分の保護者的な立場にある花の妖怪が悩んでいるのを、どことなく誇らしげに見つめていたメディスンは、やがて「ぶー、時間切れでーす」と楽しげに言って、手を差し出してきた。

「これが正解だよ」

 言いつつ、親指と人差し指をすり合わせる。すると、そこから小さな粉末がパラパラと零れ落ちてきた。幽香は慌てて受け止める。どこか見覚えのある白い粉末が、手の平に積もっていく。粉というよりは小さな粒といった方がいい、ざらざらした触感だった。

「これが?」
「舐めてみれば分かるよ」
「え、でも」

 いくら死なないと言われても、毒など舐めたくはない。幽香が眉をひそめると、メディスンは丸きり悪戯を楽しんでいる子供そのものの表情で、「いいからいいから」と囃し立てた。
 仕方がないので、幽香は指で粒をつまみ、覚悟を決めてほんの少しだけ舐めてみた。その途端、舌先に塩のような味が広がった。毒というのはこんなにしょっぱいものだったか、と驚いてしまったほどである。これではまるで塩そのものではないか。

「……っていうか」

 幽香は顔をしかめながら、白い粒をもう一舐めしてみた。やはり、しょっぱい。メディスンのために料理をするようになった最近では、実に馴染み深い味である。

「まんま塩じゃないの、これ」
「そうだよ」

 ごくごくあっさりと、メディスンが頷いた。何と言っていいのか分からず、幽香はじっと毒人形を見つめる。ひょっとしてからかわれているのだろうか、と。
 しかしメディスンはそんな幽香を見てくすくす笑い、

「人間ってホントよわっちいよね! わたしも紫に聞いて初めて知ったんだけど、あんなジジイになると、塩をちょっと多く取っただけで命に関わるんだって! つまりこれも立派な毒なのよ」
「……ええと」
「わたしとしてはもっと派手に苦しむ毒で殺したかったんだけど、紫はぜひとも塩でじわじわ苦しめて殺してほしいって言うから、食事に使う塩の量をちょっと増やしてやったのね。そしたらあんなに苦しんじゃって、効果覿面!」
「本当にねえ、もうびっくりするぐらいだったわ。メディちゃんが作った塩だから、毒としての性能もいいのかもしれないわね」
「やだもう、紫ったらそんなに褒めると照れちゃうよー……どしたの幽香、変な顔して」
「いや、ええと」

 なんと答えるべきか分からず、幽香は紫に目を向ける。すると、隙間妖怪は真剣な表情で唇に人差し指を当てた。いいから黙って話を合わせろ、と。

「……そうね、まあ、初仕事としては、なかなか上出来な滑り出しなんじゃないかしら」
「ホント!? 幽香もそう思う!?」
「ええ。よくやってると思うわ」
「やった、幽香に褒められた!」

 手を挙げて喜ぶメディスンに、幽香は「ただし」と付け加えた。

「くれぐれも、塩以外の毒をここで撒き散らさないようにね。あのジジイったらホントに弱そうだから、気を抜くと全部台無しになっちゃうわよ」
「分かってるよ、もう」

 メディスンは頬を膨らませた。

「心配しなくても、ジジイには塩以外の毒は一切与えません。それが紫の注文だもの。あのジジイは、塩だけで苦しめて殺すの。わたしの妖怪としての初仕事だもの、絶対にしくじらないわ」
「そう。安心したわ」
「だから幽香は何も心配せずに、わたしたちのお家で待っててくれればいいんだよ。紫はたっぷりお礼を弾んでくれるって言うから、この仕事が終わったら二人でおいしいものでも食べようよ、ね」
「ええ、楽しみにしてるわ」
「うん。よーっし、がんばるぞー。あ、わたし、洗い物がまだだったから片付けてくるね!」

 メディスンは弾むような足取りで廊下の向こうに走っていく。食事は調理の始めから彼女が担当しているらしい。紫がメディスンに料理を仕込むように言ったわけが、ようやく分かった。身寄りのない老人の世話をする振りをして食事に毒を盛り、散々苦しめて殺す……という筋書きになっているのだろう。少なくとも、メディスンにはそんな風に説明してあるに違いない。

「……全ての物質は毒である、か」

 呟きながら、幽香は紫に皮肉げな笑みを向けた。

「なるほど、確かに嘘は吐いていないわね」
「ええそうよ。毒と薬っていう分類は、単にどれだけ摂取するかの違いだもの。塩だって、確かに摂り過ぎれば人体にとって毒となる。もっとも、あの子に指示した程度の量じゃ、たとえ老人にだって害は及ぼせないでしょうけどね」

 メディスンは、彼女の生命の源となっている鈴蘭の毒以外にも、様々な毒を体内で生成できるようだった。それはつまり、彼女が毒であると認識し、なおかつ体内に材料が揃っているものであれば、ほとんどあらゆるものを生成できる可能性があるということでもあった。自然界に存在する数多の毒に比べれば、塩の作りなど単純そのものだから、尚更生成は容易だったのだろう。

「……あのジジイがあんなに咳き込んでたのは?」
「単なる持病よ。不治の病。老人にはよくあることね。先が長くないんですって、彼」
「近い内に死ぬのね」
「塩なんか何の関係もなしにね」
「じゃあなんであんなジジイを選んだの」

 淡々と答える紫を、幽香は強く睨みつけた。この隙間妖怪の考えは、大体理解できたつもりである。
 世話役という名目で送り込んでいる以上、基本的に素直なメディスンは手を抜かずにその役をこなすだろう。表面上は老人と親しくしながら、裏では彼の食事に毒を盛る悪妖怪、という役を。だがその毒というのが塩である以上彼は実際死ぬこともなく、長い間メディスンと付き合っていくことになる。あの毒人形は能力の危険性の割に無邪気で幼く裏表がないから、相手が優しい人間だと知れば必ず好感を抱くだろう。好きになった人間と触れ合い、大事に扱われれば、人形として幸せに過ごしていた頃の記憶も蘇り、憎しみも薄れるはずだ、と。

「ここまでは、合ってるかしら」
「ええ、大体ね」

 やっぱり、と思いながら、幽香は鋭く息を吐き出す。

「分からないのはここからよ。こちらの思惑がメディスンにばれないように、毒の効果が現れている振りをするだけなら、演技の上手い人間でも引っ張ってくればいい。あんたなら不可能じゃないはずでしょ。わざわざ、本当に死にかけているジジイを使う必要なんか全くないのよ」
「そうね。その通りだわ」
「じゃあなんであんなジジイなの!?」

 幽香は紫の胸倉をつかみ上げ、激しく言葉を叩きつけた。

「分かってないとは言わせないわよ? このままじゃ、この三文戯曲は最悪の結末を迎えることになる。メディスンは間違いなくあのジジイを好きになるでしょう。でも彼は近い内に死んでしまう。さっきみたいに苦しみ抜いた挙句にね! それは単に彼が老い先短い老人だからで、塩なんか何の関係もないのに、あの子は自分が毒で殺したと思いこむわ。つまりあの子は自分が好いている人間を、自分の毒で殺すことになるのよ!?」

 この筋書きをなぞったとしても、確かに人間への愛情を思い出させることはできるだろう。だが同時に、メディスンは深い傷を負うことになる。自分の能力で自分の好きな人を殺してしまったという、一生心に残る傷を。後で真相を打ち明けたとしても、老人が死ぬその瞬間に味わうであろう後悔の念は、彼女の心に強く残ってしまうはずだ。下手をすれば、あの無邪気な妖怪が自分の存在を呪いながら生きていく羽目になるかもしれないのだ。

「答えなさい、紫。一体どういうつもりでこんなことを……!」

 紫は幽香の手を解こうともしなかった。ただ黙って、瞬きすらせずに罵倒を受け止めていたのである。だがこの段になって、ようやく静かな声で答えた。

「あの子に、分別を身につけさせるためよ」
「分別ですって?」

 眉をひそめる幽香の腕に、紫はそっと手を添えた。ほんの少しだけ冷静さを取り戻し、幽香は手を引っ込める。隙間妖怪は乱れた襟元を直そうともせずに、淡々と答えた。

「あの子は自分がどれだけ危険な存在であるのか、ほとんど理解していないわ。それは、今まであの子と生活を共にしてきたあなたが一番よく知っているはずよね?」
「ええ。それは、そうだけど」
「仮にあなたの言うとおり、本当にただのお芝居だけで人間への愛情を取り戻させ、憎しみを抑えこめたとしても、それだけでは十分でないのよ。あの子は少し気を抜くと、すぐに毒を撒き散らしてしまう。それこそ、くしゃみのような感覚でね」
「だけど永遠亭にいるときみたいに、気を張っていれば抑えられるんだから」
「それでは不十分だと言っているのよ。少なくとも、最良の状態ではないわ」

 紫は鋭く否定した。

「あの子に求められているのは、無意識のレベルに至るまで自分の能力を完璧にコントロールすること。でなければ、人間はおろか妖怪とだって付き合っていけないわ。誰だっていつ爆発するか分からない爆弾の横に座りたくはないもの。誰もがあなたほど頑丈ではないことぐらい、分かっているでしょう?」

 じっと見据えられて、幽香は返答に窮する。確かに、紫の言っていることはよく分かるが、

「だからって、ここまでする必要があるの?」
「ここまでしなければならないのよ。あの子は大好きな人間を自分の能力で殺すでしょう。そして自己の否定すら伴う強い後悔とともに、心に深く刻みつけることになる。自分の能力が、時に大切なものを壊してしまうほど危険なものであることを。そうやって初めて、全身全霊で自分の能力を完璧に制御しようという気になれるのよ」
「だけどっ」
「幽香」

 言い聞かせるような声音。

「この世界が……地を砕き海を割るような強大な力を持った存在がひしめき合うこの狭い世界が、なぜ平穏を保ったままでいられるのか、あなただって分かっているでしょう?」
「……この世界が壊れてしまわないように、わたしたちが自重しているから」
「そう。だから、あの子も知らなければならない。力を持っているということがどういうことなのか。力を持っている者が、持たない者と平和に共存していくためには、何が必要なのか」

 紫は真っ直ぐに、幽香の目を見つめた。

「わたしやあなたが、ずっとそうしてきたようにね」

 その瞬間、幽香はようやく理解できた気がした。
 何故、ずっと他者から離れて生きてきた自分が、こうもメディスンのことを気にかけているのか。何故、紫から今回の話を持ちかけられたとき、あの毒人形を預かることをああもあっさり承諾したのか。
 幽香は束の間目を閉じて、己の心に目を向けた。遠い記憶の片隅に、一人ぼっちの小さな女の子が見える気がする。自分の力を持て余して、そばにいてくれる人すらなく一人ただ声を上げて泣きじゃくるその女の子は、幽香のようにも、紫のようにも、メディスンのようにも見えた。

(ああ、幽香)

 己の心に問いかけてみる。

(あなたが抱きしめてあげたかったのは、一体誰?)

 返事はない。幽香は重たく息を吐きだして、虚ろに目を開けた。紫は微動だにせず、ただこちらを見つめている。

「ねえ、紫」

 声を絞り出す。

「寂しいと思ったことは、ある?」

 紫はほんの少しだけ首を傾けて、薄らと微笑んだ。

「私はいつだって寂しいわ」

 答えはそれだけで十分だった。



 紫と幽香は、しばらくの間黙って縁側に座っていた。夕暮れの光が斜めに差し込んでくる頃になって、幽香はぽつりと問いかけた。

「ちょっと気になってたんだけど」
「なに」
「あのジジイは、今回の話をどこまで知ってるの?」
「全部よ。メディちゃんの素性も、わたしの思惑も。ある意味、死んで問題のない人間という表現は正しいのよ。彼はメディちゃんが憎しみを抑えきれずに本物の毒を放出して、その結果自分が死んだとしても構わないと言っているのだから」
「どうしてそこまで」

 死にかけた老人の自暴自棄、とはとても思えなかった。先ほどメディスンに思い出を語っている老人は心底から楽しそうで、自分の人生に誇りを持っているように見えた。老い先短くなったからと言って自棄に走るほど、刹那的な人間には思えなかったのだ。
 幽香が納得できずにいると、紫が小さな声で答えた。

「恩返しがしたいんですって」
「恩返し? なんの?」
「自分がここまで平穏に生きて来られたのは、本来人間を喰らうものであるはずの妖怪が、喰わないように我慢してくれたからだって。つまり自分は妖怪から一つの命をもらったわけだから、一つの命を妖怪に返すのは当然のことだって。そういう信念があるから、あんな死にかけの状態でも起き上がって、笑っていられるのね」

 命を返す、というのは、つまりメディスンが幻想郷で平和に生きていけるように協力する、という意味だろうか。
 それにしても、にわかには理解できない考え方である。幽香は首を振った。

「変な人間ね」
「そうね。でも案外、そんなものかもしれないわ」
「どういうこと?」
「強い者だろうと弱い者だろうと、心は平等に備わっているんだもの。彼らだって、わたしたちを見ていろいろと考えているのよ、きっと」
「そんなものかしら」

 幽香にとって人間とは単に弱々しいだけの脆弱な存在であり、それでいて身の程知らずに傲慢で欲が深く、まず嫌悪感しか抱けない生き物であった。
 だから老人がそんな風に考えていることがどうにも納得できないのだが、紫はすんなり納得したようである。

「どうして?」
「わたしはあなたよりは人間とよく接しているし、そのせいじゃないかしら。そういう風に考えている人がいてもおかしくはないなって、自然に思えるのよ。特に、この世界ではね」

 紫の横顔は穏やかな確信に満ちている。幽香は鼻を鳴らしながら顔を背けた。

「あーそう、さすがは妖怪の賢者様ね。どうせわたしは世間知らずの引きこもりよ」
「なんでそこで拗ねるのよ」
「拗ねたくもなるわよ」

 幽香は縁側の上で膝を抱え、顔を埋めた。

「メディが危険な状況にあるってことをきちんと把握してたのはあんた、この状況をお膳立てしたのもあんた、あの子にとって何が必要なのか、ちゃんと分かってたのもあんた……結局わたしなんて何の役にも立ってないじゃない」
「そんなこと」
「慰めはいいのよ」

 幽香は顔を上げて紫を見た。

「紫。何か、まだわたしに出来ることはある? あの子のためにしてあげられることは」
「幽香、あなた……」

 紫は驚いたように目を見開き、それから苦笑混じりに首を振った。

「まさか、あなたがそんなことを言ってくれるなんてね」
「そういうのはどうでもいいのよ。それで、どうなの?」
「もちろんあるわ。だけど、幽香」

 紫は厳しく目を細めた。

「これは、とても辛い役割よ」
「あの子がこれから味わう気持ちよりも辛いとは思えないわね。いいから言いなさいよ」

 幽香が強い口調で促すと、紫は一瞬悲しげな微笑を閃かせ、それから唇を引き結んだ。

「分かったわ。それでは、あなたにお願いしましょう」
「具体的には、何を?」
「メディちゃんは、これからあの老人と仲良くなっていくでしょう。そうすれば、必ず心に葛藤が生じるはずよ。果たして自分がやっていることは正しいのか、このままこの人を毒殺してもいいのだろうか、と。ひょっとしたら、途中で投げ出したり、逃げだしてしまうかもしれない」
「それではいけないのね?」
「ええ。この儀式は、最後まで目をそらさずに見届けてこそ意義があるの。自分のしたことの意味を心に刻みつけるためにね。途中で投げ出すことは、自分の能力の危険性から目をそらすことと同義なのよ」

 もしそんな結果に終わってしまったら、ここまでしてきたことが全て無駄になってしまうだろう。紫が「博打のような方法」と言っていた意味が、ようやく理解できた。

「つまりわたしは、あの子が最後まで自分の役目を全うできるように導いてやればいいわけね」
「そうよ。あの子に彼の最後の瞬間までをしっかりと見届けさせて、この世界での自分の立ち位置を……体内に毒を抱えたまま生きていくということの意味を、教えてあげるの。そして、力を持つ者としての心構えを、あの子の心に刻みつけてほしいのよ」

 つまりこれは、あの無邪気な毒人形に、己の存在がいかに危険で疎まれるものであるかという残酷な現実を突きつける役目なのだ。

「できる?」
「やるわ」

 心の内まで見透かすような紫の厳しい視線を受け止めて、幽香は深く頷いた。紫は苦しげに顔を歪め、硬い声を絞り出す。

「本当に大丈夫? これは完全に憎まれ役なのよ。あの子を愛しているあなたにとっては、本当に辛い役目。本来ならば、私がやるべき」
「いいの」

 紫の声を、幽香は強く遮った。

「わたしだって、ほんの短い間だけど、あの子と一緒に過ごしてきたのだもの。あの子がどういう妖怪なのか、この世界の誰よりも理解しているつもり。だから、ちゃんと責任は果たしてみせるわ」
「そう」

 紫は沈んだ表情で呟き、柔らかく微笑んだ。

「変わったわね、あなた」

 幽香も静かに微笑み返す。

「何も変わっていないわ。ただ、自分の気持ちに気づいただけよ」

 紫は幽香の顔をじっと見つめ、ただ黙って頭を下げる。そしてそのまま、後は任せたとでも言うように、音もなく姿を消した。
 その場でしばらく佇んでいると、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。幽香は深く息を吸い込み、強い決意と共に振り返る。メディスンは、ちょうど幽香のそばで立ち止まったところだった。

「あれ? 紫は?」
「用事が出来たって言って帰ったわ。さ、わたしたちも帰りましょう」

 きょとんとして周囲を見回しているメディスンに、微笑みながら手を差し出す。毒人形はちょっと残念そうな顔をしたあと、嬉しそうに笑いながら幽香の手を握り返した。
 太陽の畑に帰る途中、メディスンはずっと楽しそうに喋っていた。その多くは、あの老人がいかに面白い人物であるか、ということだった。

「それでさ、ジジイったらおかしいんだよ。ほら、花の異変のときに飛んでた鳥妖怪がいたじゃない? あいつと会ったとき」
「メディ」

 メディスンの声を遮って、幽香は静かに問いかける。

「あのジジイと、ずいぶん仲良くなったみたいだけど」
「え? ああ、うん、そうだね」
「そんな調子で大丈夫なの? ちゃんと、あいつを毒殺できるんでしょうね?」

 意識して語調を強めながら訊くと、メディスンは「それは」と一瞬目を泳がせたあとに、少しぎこちない笑みを作った。

「や、やだなー、心配しなくても大丈夫だよ。仲良くしてるのなんて、演技だよ、演技」
「本当に?」
「あったりまえじゃん。あのジジイだって人間で、わたしの敵だもん。人形解放への第一歩よ。仮に、あの……ちょっとだけ本当に仲良くなっちゃっても、大丈夫。わたしだって一人前の妖怪なんだから、仕事に私情は挟みません。きっちり毒殺してみせるわ」
「そう。ならいいけど」

 素っ気なく言って、幽香はまた前を向いて飛び始める。隣のメディスンは複雑な顔で俯きながら、

「そうよ。あのジジイだって人間なんだから。今は優しくても、その内人形を平気で捨てるような汚い本性を見せるに、決まってるんだから」

 と、自分に言い聞かせるように低い声で呟き続けていた。



 こうして、メディスンの初仕事が始まった。毎朝早く起きだしては老人の家へ通い、夕方になると太陽の畑へ帰ってくる生活である。以前の紫の話では「人間と一緒に暮らさせるのが理想」とのことだったが、メディスンが寝小便のように毒を垂れ流してしまう可能性を考えれば、今まで通り夜は幽香の別荘で寝させる方が安全だった。
 幽香は毎朝メディを見送り、別荘で待っている振りをしながら、その実ほぼ毎日隠れて様子を見に行った。大妖怪八雲紫からじきじきに仕事を依頼された、という緊張感もあってか、メディスンは永遠亭にいるときと同じか、それ以上に気を張って、毒が漏れないように気をつけている様子だった。それでいて、作る食事には必ず適量以上の塩を仕込む。指先から塩を出しているときのメディスンの顔はとても真剣で、いっそ微笑ましいぐらいだったが、やっていることの意味を考えれば笑う気にはとてもなれなかった。
 老人との交流も面倒くさがらずに続けている。と言うよりも、メディスンの方から話をせがむような形になっているようだった。予想通り二人は日に日に親交を深めていき、三日後には花札なんかで遊ぶ姿が見られ、一週間後には日の差し込む六畳間で並んで昼寝していた。メディスンは演技だ、などと嘯いていたが、老人と遊んでいるときの彼女は実に楽しそうで、心底から老人に好感を持っていることが丸わかりであった。
 そうして二週間ほどの時が経った頃、メディスンは縁側に座った老人の膝にちょこんと収まって、櫛で髪を梳かしてもらっていた。水気を失って骨ばった手によるものとは思えないぐらい、優しく繊細な手つきだった。人形は大人しく老人の膝の上に座りながら、しかしどこか居心地悪そうにもじもじと身じろぎしていた。

「そういや、お前さんも人形なんだったよな。髪質とか、やっぱ人間のとはちょっと違うもんなあ」

 目元の笑い皺を深くしながら、老人が思い出すように目を細める。

「ウチにある人形の髪も、ちょうどこんな感じだったっけかな」
「え、ジジイも人形持ってるの?」

 メディスンが驚いたように言うと、老人はかなり隙間の開いた前歯の列を見せて、にかりと笑った。

「おうとも。いや、俺のじゃねえけどな。今はちょいと訳ありで別居中だがよ、俺の孫が小さな人形、いつも抱きかかえてんだ。祭りのときに森の人形遣いにもらったとかでな。どこに行くのも一緒なんだぜ」
「そう、なんだ」
「なあ、メディ」

 老人はどことなく躊躇いがちに訊いた。

「やっぱり、普通の人形も、お前さんみたいに喜んだり悲しんだりするもんなのか」
「当たり前じゃない」

 少し怒ったように、メディスンは頬を膨らませる。

「人形だって、抱っこしてもらったり話しかけられたりすれば嬉しいし、放っておかれたり」

 小さな手が、自分のスカートの裾をぎゅっと握り締めた。

「……放っておかれたり、捨てられたりしたら、悲しいんだよ。すごく、傷つくんだよ」
「そうか。そうだよなあ」

 老人は遠くの方を見るように目を細める。メディスンを見ていながら、他の誰かを見つめているようだった。

「なあ。お前さん、今はどうだ」
「え?」

 膝の上で振り向くメディスンに、老人は苦笑いを見せる。

「俺は女子供じゃねえし、この通りぶきっちょだからよ。その上ヨボヨボのジジイで、腕もすっかり骨と皮ばっかりになっちまった。こんなジジイに抱っこされたり髪梳かされたりしたって、あんまり嬉しくねえだろ」
「そんなことないよ!」

 メディスンは勢いよく老人の膝から飛び降りた。くるりと振り返って、大きく両手を広げながら、必死に声を張り上げる。

「確かにジジイの手はちょっと硬いけど、でもあったかいもん。こうしてもらってると凄く安心できるし、嬉しいよ。本当だよ」

 無数の皺に埋もれかけた老人の瞳に、どこか悲しげな光が浮かんできた。

「そうか。そりゃあ、俺も嬉しいなあ。ありがとうよ、メディ。お前さんは優しい奴だなあ」
「……そんなこと」

 少し顔を背けたメディスンに、老人は枯れ木のような腕を伸ばしかける。だがその途中で苦しげに顔をしかめ、口元を押さえてせき込み始めた。

「ジジイ、どうしたの、大丈夫!?」

 メディスンが慌てて駆け寄り、老人の背中を擦ってやる。彼はしばらくの間咳をし続けた。口元から手を離すと、手のひらに血痰がこびりついていた。大きく目を見開くメディスンの横で、老人は青白い顔にぎこちない笑みを浮かべてみせる。

「歳取ると体が弱くなっていけねえや。最近、また弱ってきたみてえでなあ」
「そう、なんだ」
「おう。悪いなあ、メディ」

 急に謝られて驚くメディスンの頭を、老人は震える手で優しく撫でた。

「折角お前が飯作ってくれてるのによ。もっと元気出さなくっちゃなあ」

 顔を伏せて黙り込むメディスンを、老人は少しの間申し訳なさそうに見つめていた。やがて彼が「肩、貸してくれ」と言ってよろけながら立ち上がったので、毒人形は飛びあがって細い体を支え、家の奥の方に連れだって歩いて行った。
 幽香は家屋の陰で気配を殺し、その光景の一部始終を眺めていた。計画は思惑通り進んでいる。それを心の中で再確認し、強く唇を噛みしめた。



 その日、夕暮れ時に帰ってきたメディスンは、予想通り浮かない顔をしていた。あの無邪気で騒がしい毒人形が、黙りこんだまま何かをじっと考え込んでいる様子なのである。幽香はあえて何も言わず、向かい合ってテーブルに座ったまま、黙って窓の外を眺めていた。

「こんばんは」

 不意に声が聞こえて、顔を向けるとそこに紫が立っていた。いつものように唐突に表れた隙間妖怪は、愛想良く微笑みながら歩み寄ってきて、メディスンを見下ろしながら問いかける。

「計画は、順調かしら」

 メディスンはびくりと身を震わせたあと、躊躇いがちな口調で答える。

「うん。だいぶ、弱ってきてる、みたい」
「そう。良かったわ」
「あの、紫」

 メディスンがおどおどしながら紫を見上げた。

「あのジジイ、本当に悪い人間なのかな」
「あら、どういう意味かしら?」

 紫が冷たく目を細める。

「私が嘘をついているとでも?」
「ち、違うよ! そういう意味じゃないんだけど、なんていうか」

 メディスンは口を噤み、落ち着かない様子で視線をさまよわせる。紫はそんなメディスンをじっと見下ろし、突然優しい笑みを浮かべると、彼女のそばに屈みこんだ。

「可愛そうに。あのジジイの表面的な優しさに騙されているのね」
「騙される?」
「ええそうよ。彼は間違いなく悪人なの。老い先短い余生を生きる価値すらない、人間の屑なのよ。だから何も迷わずに毒で殺してもいいのよ」
「でも」
「それとも」

 また紫の目が鋭くなった。

「あなたは、妖怪の私よりも人間の彼を信用するのかしら?」
「そ、そういうわけじゃ!」

 慌てて立ち上がりかけるメディスンに、紫はまた優しい微笑みを向ける。彼女の肩をつかんで椅子に戻しながら、「そうでしょうそうでしょう」と、満足げに頷く。

「それでこそポイズンマスターさんだわ。これからも、よろしくお願いしますね」
「う、うん」
「それでは、ごきげんよう。ちゃんとあのジジイが死ぬまで見届けてちょうだいね」

 念を押すように言い残し、紫の姿が消える。去る直前、少し申し訳なさそうにこちらを見ていた気がした。
 紫が去ったあとも、メディスンは俯いたままスカートの裾をぎゅっとつかんで黙り込んでいた。幽香が何も言わずにいると、わずかに顔を上向けて、「ねえ、幽香」と、躊躇いがちに問いかけてきた。

「幽香は、どう思う? やっぱりジジイは悪い人間なのかな。紫の言ってることが正しいのかな」

 眉根を寄せて深く思い悩んでいる様子のメディスンを見て、幽香は紫の狙いを理解した。たとえばこの先よからぬ考えを持つ輩が、今回の紫と同じようにメディスンの力を利用しようと企む可能性はゼロではない。そういうときにこの毒人形があっさり相手を信用しすぎないように、彼女なりの判断力を育ててやろうとしているのだろう。

(いろいろと、考えてるのね)

 紫にしても、あの老人にしても。ならば自分も甘い顔をせずに、しっかりと責任を果たさなければならない。
 幽香は胸の内で意思を固めると、嘲るような笑みを浮かべてメディスンを見返した。

「なに言ってるの。そんなの当たり前じゃない」
「そう、かな」
「そうよ。いい、メディスン」

 幽香は少し身を乗り出して、メディスンの瞳を強く見据えた。

「人間は醜い生き物よ。平気で嘘をつくし、生きるためならどんな卑怯なことでもお構いなしにやってのける、自分勝手な連中なの。あんただって、そんな人間に捨てられて妖怪になったんでしょうに」
「そう、だけど。でも、ジジイはさ」

 なおも食い下がろうとするメディスンの前で、幽香は大げさに肩をすくめた。

「あーあ、やっぱり駄目だったか」

 せせら笑うと、メディスンは驚いたように目を見開いた。

「や、やっぱりって、どういう意味」
「言葉通りの意味。最初から無理だと思ってたのよね。紫に恥をかかせるようなズルイ人間の相手、あんたみたいな馬鹿に務まるはずないって」
「な、なによそれ!」

 怒って立ち上がるメディスンを、幽香は腕を組んで悠然と笑いながら見つめた。

「無理しなくてもいいわよ、お人形さん。嫌なら止めたらいいじゃない。こんな程度でへこたれるようじゃ、人形解放なんてとても無理だと思うけどね。ま、あんたみたいな寝小便垂れの無能人形は、丘で引きこもって独りよがりな夢でも見てるのがお似合いってことよ」

 出来る限り嫌味ったらしい口調でそう言ってやると、メディスンは眉を吊り上げ肩を震わせ始めた。反抗的な目つきで幽香を睨みつけ、興奮しきった怒鳴り声を上げる。

「やるわよ! わたしだって一人前の妖怪だもん! あんなジジイ一人殺すぐらい、別に、なんでもないもん!」
「あらそうなの。ならやってみたら? どうせ途中で泣きながら逃げ帰ってくるに決まってるけど」
「うるさいわね! 黙って見てなさいよ」
「はいはい。どうでもいいけど興奮しすぎよ、あんた」
「なにが!?」
「毒」

 頬杖を突いたまま面倒くさげに指さしてやると、メディスンははっとした様子で自分の体を見下ろした。またどす黒い毒の霧が漏れ出しているのに気がついて、慌ててそれを止める。幽香は笑って言った。

「ほらご覧なさい。あんたなんて所詮その程度よ。すーぐお漏らししちゃうガキなんだから。自分の能力一つ満足に制御できない半人前に、まともな仕事なんか出来やしないの。分かる?」

 幽香が首を傾げると、メディスンは目に涙をためて悔しげに唇を噛んでいたが、やがて身を翻して足音も荒くベッドに飛び込み、そのまま黙り込んでしまった。
 今は布団に埋もれて頭も見えないメディスンの方に目を向けながら、幽香はそっと溜息をつく。

(……これで、いいのかしら)

 どうも加減が分からないが、やり方は間違っていない、と思う。自分が優しく接して、逃げ場所になってはいけないのだ。劣等感を刺激するなり反発心を煽るなり、どんな手段でもいいから、ともかく最後まであの老人の下へ通わせなければならない。
 自分にそう言い聞かせてもどうにも胸の苦しさが消えてくれず、幽香は無理矢理息を絞り出した。
 その晩フラワーマスターと毒人形はまだ同じベッドの中にいたが、メディスンはこちらに背を向けたまま一度も振り返ってくれず、翌朝も幽香が起きるより早く出かけてしまった。



 その日は朝から空が泣きだしたかのような冷たい雨が降り続けていた。老人の体調はさらに悪化しているようで、今では起きだしてくることの方が珍しいほどだ。メディスンは黙り込んだまま、布団の中で眠る老人のそばに座っている。幽香は襖一枚隔てた部屋に気配を殺して潜み、二人の様子をじっと見守っていた。

「……ジジイ。起きてる?」

 不意に、メディスンが小さく声をかけた。老人がゆっくりと瞼を押し上げ、目だけでメディスンを見る。口元にかすかな微笑が浮かび、か細い声が漏れ出した。

「おお。なんだ?」
「訊きたいこと、あるんだけど」
「ああ」
「あの、さ」

 屋根を叩く雨の音に混じって、

「人形を捨てたこと、ある?」

 答えを聞くのを恐れているかのような、かすかな問いかけ。老人は静かに目を閉じ、雨の音に聞き入っているかのように、しばしの間黙りこんだ。ひょっとして聞こえなかったのだろうか、と幽香が訝り始めたとき、

「ある」

 小さな、しかし確かな声が、幽香の耳にも聞こえた。
 メディスンの肩が大きく震えた。

「……どうして?」

 硬い問いかけに、老人は淡々とした声で答え始めた。

「俺の娘も小さい頃は人形を持ってたが、大きくなると遊ばなくなって、家の隅で埃をかぶるだけになっちまってた。それで家を建て替えたあとには、もうどこにも見当たらなくなってたんだ。不要な物にまぎれて、一緒に捨てちまったんだな」
「じゃあ、わざとじゃなかったの?」
「……いや、違うな」

 老人の口元に、苦い笑みが浮かんだ。

「本当は、あれがゴミに紛れてるってことは知ってたんだ。ゴミを入れた箱の一番上に、すっかりボロボロになったあの人形があって……一つしか残ってない目が俺をじっと見てる気がして、な。嫌な気持ちになったよ。自分の手でゴミの中に深く沈めて、もう見えないようにしたんだ。誰もなにも言わなかった。あんなに大切にしてた娘ですらな。人形のことなんかすっかり忘れちまってるみたいだった。俺も忘れようとした。あんなもん、あっても邪魔になるだけだから捨てても良かったんだ、と思ってな。だけど」

 ひび割れた唇から、細く息が漏れ出した。

「だけど、孫が人形もらって、遊ぶようになって、娘も思い出したみたいでな。あの人形はどこに行ったっけ、なんて聞かれて、知らないって嘘ついちまったよ。いや、実際聞かれるまで忘れてたんだ。でもすぐ思い出したよ。あのときのあの人形の、恨めしげな、悲しそうな目を、な。気のせいだって思いこもうとしてたが、お前さんを見る限り、やっぱり俺の感覚は正しかったんだなあ」
「よくも……!」

 人形の髪が逆立ち、全身から濃い毒の霧が立ち上った。メディスンは怒りに我を忘れたかのように立ち上がり、叫び始めた。

「やっぱり紫の言うとおりだった! お前も汚い人間の一人だったんだ! 人形の気持ちなんかちっとも考えてくれない、自分勝手で冷たい人間に過ぎなかったんだ!」

 メディスンの毒を浴びて苦しげに呻きながら、老人が弱々しく笑った。

「ああ、そうだな。その通りだ」
「殺してやる!」

 メディスンの体から凄まじい量の毒が滲みだした。どす黒い霧に包まれ、人形の体が見えなくなる。彼女の足元で、畳が煙を上げ始めた。隣の部屋からその光景を見つめて、幽香は息を呑む。今はまだ人形の力によって彼女の周囲に留まっているようだが、あの毒の霧が解放されたら、死にかけの老人など一秒も持たないだろう。真正面から浴びれば自分とて無事ではいられまい。メディスン・メランコリーの危険性を改めて目の当たりにして、背筋に震えが走る。

(止めに入らないと……!)

 いくら老人を毒殺させるのが目的だったとは言え、これでは狙いとは逆の結果しか残らない。幽香は意を決して襖を開こうとしたが、寸でのところで踏みとどまった。
 メディスンを包む毒の霧が、薄まり始めていた。少しずつ人形の体に吸い込まれているのだ。信じられない心地で目を見張る幽香の前で、毒は完全にメディスンの体に戻った。
 後に残ったのは、わずかに黒ずんだ畳と、その上に黙って佇むメディスン。そして激しい雨音に混じってわずかに聞こえてくる、老人のか細い息遣いだった。まだ、彼は生きている。

「どうしてよ」

 涙声で問いかけながら、メディスンがその場に膝を突いた。

「分かんないよ。ジジイはあんなにあったかくて、人形のわたしにも優しかったのに。今だって、黙っていればよかった。人形を捨てたことなんてないって嘘をつけば分かんなかったのにさ。どうしてわざわざ、わたしを怒らせるようなことをしたの?」

 泣きながら問いかけるメディスンの前で、老人の唇が小さく開いた。

「謝りたかったんだ」

 一つ咳をして、老人は薄らと目を開けた。

「お前さんと会って、話をするようになってから、あのとき捨てた人形のことばっかり思い出しちまってなあ。どうして捨てちまったんだろう、せめて家の隅にでも置いてやってりゃ良かったって、そればっかり考えてた」
「そうだよ」

 ぼろぼろと涙を零しながら、メディスンが言う。

「それでいいんだよ。それだけで十分なんだよ。一年に一度抱き上げてくれるだけでも、暇なときにただ見つめてくれるだけでも、わたしたちは十分幸せなのに。どうして捨てるの? どうして置いていっちゃうの? どうして、わたしたちの気持ちを分かってくれないの? 分かんないよ、全然分かんないよ……」

 メディスンの悲痛な声を聞いて、老人は寂しそうに微笑んだ。

「多分、こんな風に声を聞くことが出来ないからだろうな」
「声?」
「そう。人間ってのは、頭の悪い生き物なんだ。自分で動いたりしないから、何も喋らないから。ただそれだけで、人形なんてただの物だと考えちまう。そいつが悲しんだり喜んだりしてるだなんて、知りもしないのさ」
「でも、わたしたちだって」
「ああ、分かる。今ならよく分かるよ。お前さんに、教えてもらったからな。だから、なあ、メディスン」

 老人は布団の中から腕を出した。枯れ木のようにやせ細った腕が、震えながらメディスンの方へ伸びる。

「どうか、教えてやってくれないか。俺の子供や孫、それ以外のたくさんの人間たちにも。人形だって俺たちと同じように喜んだり悲しんだりするんだってことを、お前に言葉で伝えてもらいてえんだ。そうすりゃ皆も、今までよりずっと、人形を大切にしてやれると思うからよ」
「本当?」
「本当さ。人間ってなあ、自分と同じだって思うものには、案外優しくなれる生き物なんだぜ。だからどうか、許してくれな。お前たちの声を聞くことが出来ない、無力で無能な俺たちを、どうか許してくれな」

 自分の目の前に伸ばされた老人の手を、メディスンは涙に濡れた瞳でじっと見つめていた。やがて座ったまま身を乗り出し、躊躇いがちに両手を差し出した。人形の手が老人の手を包み込み、ぎゅっと握り締める。
 メディスンの口元に、ぎこちない微笑みが浮かんだ。

「分かった。許してあげる。ジジイに免じて、許してあげるよ」
「そうか。そりゃあ、良かった。ありがとうよ」

 二人は目を合わせて微笑み合う。そのときメディスンの瞳から一粒涙が零れ落ち、人形の手の隙間から老人の手に流れ落ちた。老人が顔をしかめて呻くのを見て、メディスンは慌てて手を離す。

「ご、ごめん! わ、わたし、涙まで毒だっていうのを忘れてて」
「ああ、いい、いいんだよ」
「でも」
「いいって」

 老人はまだかすかに顔をしかめながら、それでも笑ってみせた。

「こんなもん、お前に比べりゃちっとも痛くないさ」
「ジジイ……」
「なあメディ。今まで、辛かったなあ」

 労わるようなその声を聞いて、メディスンはまた泣き始めた。老人の体に自分の涙が落ちないように、少しだけ身を離して。
 隣の部屋でそれを見ながら、幽香は毒人形の涙を拭ってやりたい衝動に駆られたが、必死に我慢して、黙って家を後にした。



 さらに三日経ち、幽香は夕暮れの向日葵畑に佇んでいた。傍らに立つ一本の向日葵を見ると、花弁が少し色褪せているのが分かった。そろそろ、夏も終わりだ。メディスンと一緒に太陽の畑で暮らしてきた日々が、終わりを告げようとしている。
 多分、あの老人が次の季節を迎えることはないだろう、と幽香は見ていた。メディスンの表情は日に日に暗くなっている。今では見ているだけでも辛くなってくるほどだ。だが、慰めることはできないし、許されない。まだ、仕事は終わっていないのだから。

「幽香」

 不意に声をかけられて振り向くと、そこにメディスンが立っていた。暗い表情で俯き、肩を落としているため、いつも以上に小さく見える。

「おかえり、メディ。さ、家に入りなさい。夕飯に」
「ジジイが」

 メディスンが小さく呟いた。

「ジジイが、あんまりご飯食べてくれないの」
「……そう。順調ね」

 幽香が素っ気なく言うと、メディスンはぐっと唇を噛んで、その場に座り込んだ。「メディ」と声をかけても返事をせず、黙りこくったままでいる。

「あのさ、幽香」

 メディスンがぎゅっと膝を抱え込んだ。

「もう、ジジイの食事に毒入れるの、止めようかな」
「どうして」
「だって、ほら……もう、あんな死にかけだしさ。これ以上毒入れても、あんまり変わりないんじゃないかな。長く苦しませるって目的から考えれば、もう放っておいて、少しでも長く生かした方がいい気がするし」

 一瞬、幽香は「あんたの好きにしなさい」と言いかけて、口を噤んだ。まだ仕事は終わっていない、メディスンの逃げ場所になってはいけないのだ、と、強く心に言い聞かせる。

「駄目よ」

 声が震えないように最大限注意を払いながら、幽香は冷たい声で言った。メディスンの肩がびくりと震える。

「今更何を言っているの。またあのジジイの表面的な優しさに騙されてるのね? そんなんじゃ、一人前の妖怪にはなれないわよ。我慢して、ちゃんと最後までやり遂げなさい」
「やだ」

 ぎゅっと膝を抱え込み、メディスンは断固とした口調で言った。幽香は眉間に皺をよせ、腕を組む。

「なんですって? メディ、よく聞こえなかったわ。もう一度、言ってみなさい」
「やだって言ったの! 絶対に、やだ!」

 メディスンは勢いよく立ちあがり、真っ直ぐに幽香を睨みつけてきた。

「ジジイはいい人間だよ! 誰が何と言ったって、あったかくて、優しいの!」
「だからなによ」
「わたしはもうジジイに毒なんか盛らない! 普通に看病して、元気にしてあげるの! 一人前の妖怪になんか、なれなくていい!」
「看病? 元気にしてあげる? 毒人形のあなたが?」

 メディスンの口からそんな言葉が出てきたことに内心大きな喜びを感じながら、幽香は毒人形に嘲笑を浴びせた。

「馬鹿じゃないの? そんなこと、無理に決まっているでしょう。大体あんた、今まで自分が彼に何をしてきたのか忘れたの? あんたみたいな毒人形、人のそばにいたって相手を苦しめることしかできないわよ」
「そんなことないもん! 毒は薬にもなるものだって、永琳も言ってた!」
「でもあんたには無理ね。ちょっと気を抜くと毒を漏らしちゃうような寝小便垂れの半人前には、そんなこと一生かかったってできるわけないわ」
「できるもん、やるもん! ジジイの体に、もう毒なんか一切入りこませない!」
「へぇ。じゃ、やってみせなさいよ。どうせムリだと思うけど」
「やってやるわよ! なによ、意地悪なことばっかり言って……!」

 メディスンの目に涙が溜まり、その体から膨大な量の毒の霧が溢れ出す。

「幽香なんか、大っ嫌い!」

 涙とともに叫びが飛び、毒の霧が球状に収束して幽香の体を弾き飛ばした。仰向けにひっくり返った幽香の耳に、メディスンが走り去る音が聞こえてくる。たぶん、あの老人の家に行って、つきっきりで看病するつもりなのだろう。

(大丈夫かしら、あの子。これで、良かったのかしら)

 一人夕暮れの空を見上げながら、考える。毒を浴びた箇所がじくじくと融け出し、酷く痛む。だが少しも気にならない。それどころか、こんな痛みではとても足りないとすら思えた。

「大丈夫?」

 視界の隅から紫が顔を出した。彼女の顔を見るのも、ずいぶん久しぶりな気がした。

「ねえ、見た?」

 寝転がったまま、幽香はぼんやりと問いかける。

「あの子、ちゃんと自分の意志で判断して、行動できるようになったわ。あれならきっと、もう大丈夫よね」
「ええ、ええ。あなたのおかげよ。まさか、こんなに完璧にやってくれるとは思っていなかったわ。本当に、ありがとう」
「お礼を言うのはこっちよ。それに、まだ早いでしょう」

 幽香はゆっくりと身を起こし、紫の方は見ないままに問いかけた。

「彼、あとどのぐらい持つの?」
「もういつ死んでもおかしくないわ。明日か、明後日か……三日は持たないでしょう。仮にメディちゃんが薬を作れたとしても、彼の命を引き延ばすことはできないでしょうね。寿命なのよ」
「そう」

 幽香はため息を吐きだした。メディスンは、たった一人であの老人が弱っていく様を見つめ続けることになるだろう。さっき宣言した通り、必死に看病し、なんとかして助けようとするに違いない。だが、その努力は全て無駄に終わるのだ。最期の最期まで老人を助けようとして、結果、彼が死ぬ瞬間を見届けることになる。
 全て、こちらの思惑通りだ。

「幽香」

 紫が声をかけてきた。気遣うようなその視線を辿ると、幽香の腕に辿りつく。毒が泡立ちながら肌を融かし、赤黒い肉が露出していた。痛いわけだな、とぼんやり考える。

「大丈夫? すぐ治療を」
「いいわ」
「でも」
「いいから。せめてこの痛みと一緒に、あの子の毒を抱えていてあげたいのよ。分かるでしょう?」

 紫はただ微笑んで頷き、何も言わずに去ってくれた。
 一人残された幽香は、全身に毒による痛みを感じながら、黙ってメディスンが走り去った方向を見つめる。やがて風が冷たくなってきたころ、のろのろと歩いて別荘の中に戻った。
 別荘の中に入ったら、圧倒的な静けさにまず違和感を覚えた。何もする気が起きず、ベッドに腰かけてぼんやり天井を見上げる。少し前までこの静寂が当たり前だったはずなのに、今ではもうどうしようもなく馴染みのないものになってしまっていた。
 ごろりとベッドに横になると、メディスンが収まっていた跡がかすかな凹みになってまだ残っていた。ほとんど無意識に手を伸ばし、その部分をゆっくりと撫でる。胸が苦しくなって無理矢理息を絞り出して目を閉じたら、メディスンの能天気な笑顔が浮かんできた。

「あんたの言うとおりね」

 ぽつりと呟くと、瞼の裏から涙が溢れ出した。

「一人で寝るのって、寂しくてたまらないわ」

 ベッドの上で身を丸め、声を押し殺して泣いた。



 二日経った。幽香は一人、ただ枯れ行く向日葵畑を散策するだけの日々を送っている。少し前まではこの畑に毒人形の無邪気な声が響いていたものだが、今聞こえてくるものと言えば時折吹きつける冷たい風の音だけである。
 メディスンはあれから一度も姿を見せていない。おそらく、あの老人と一緒にいるのだろう。幽香は何度か様子を見に行こうかとも考えたが、結局行かなかった。老人を助けようと必死に頑張っているであろうメディスンの心を、無闇に乱したくはなかったからだ。
 昨日は紫がやって来て、過激派の賢者たちを説得することに成功したと教えてくれた。メディスンが自分の意思で能力をコントロールできるようになり、なおかつ人里には手を出さないと証明できるのなら、今後彼女に手出しはしないと約束してくれたのだそうだ。その条件ならば、計画がうまくいきさえすればいくらでもやりようはある、と紫は語った。

「心配事が一つ減って、良かったわ」

 紫はそう言ったが、幽香と同じく、彼女の顔もまたあまり嬉しそうではなかった。
 幽香はただひたすら状況が動くのを待ち続けた。どんな風になるかは分からないが、老人の死が契機となるだろう、とは思っている。彼が死んだらメディスンのところへ行って、何らかの形で力を持つ者としての心構えを教えこんでやらなければならない。そこまでやって、初めて責任を果たしたと言えるのだ。
 そうして、メディスンがいなくなってから三日目の昼ごろ、漠然とした予感を覚えて別荘の前に佇んでいた幽香の耳に、誰かの靴音と弾む息遣いが聞こえてきた。目を凝らすと、小さな毒人形が少しずつ近づいてくるのが見えた。飛び方を忘れてしまったかのように、短い手足を必死に振って、懸命に走ってくる。顔は苦悶に歪み、体の至るところから毒の霧が漏れ出しているのが分かる。非常な衝撃を受けて、我を忘れるほどに動揺しているようだった。
 メディスンは幽香の少し手前で立ち止まり、しばらくの間荒い呼吸を繰り返していた。幽香は何も言わずにそれを見つめる。メディスンもまた、毒を撒き散らしながら見つめ返し、そして、

「ジジイが、し」

 一度息を詰まらせて、

「死んだ。ジジイが死んだ、死んじゃった……!」

 人形の目から涙が零れ落ち、ぐしゃりと顔が歪んだ。

「わたしが殺した。わたしが毒で、優しいジジイを殺しちゃった……!」

 とうとう、メディスンは声を上げて泣き始めた。受け止める者のいない涙が止め処もなく毒人形の肌を流れ落ち、だだ漏れになった毒の霧がゆっくりと広がって向日葵畑の空気を汚していく。
 その中心にいてメディスンの前に佇みながら、幽香は動けずにいた。やるべきことは分かっているのだ。それがお前のしたことなのだと、毒を無分別に撒き散らすとこういう結果になるのだと、この場でしっかり教えこんでやらねばならない。
 だと言うのに、どうしても声が出ない。黒い毒の霧で息が苦しいから、ばかりではない。声を上げて泣きじゃくるメディスンを見ている内に、その姿が誰かの姿と重なってしまったのだ。
 ああ、この子も今、持たされてしまった力の大きさゆえに苦しんでいるのだと、そう思ったときには

「違うわ」

 自然と腕が伸びて、メディスンの小さな体を抱きしめてしまっていた。

「あんたのせいじゃ、ないのよ」

 わたしは何を言っているんだろう、と思いながら、幽香はメディスンの耳元で囁き続ける。

「あんな量の塩なんかじゃ、人間の生死だって左右できやしないわ。彼は老い先短い老人で、もともとあまり長くは生きられなかったの。あんたのせいじゃないのよ。あんたが、毒で殺したんじゃないのよ」
「違うよ! わたし、わたしが、殺したの」
「いいのよ、そんな風に自分を責めなくたって。あんたが悪いんじゃないんだから」
「違う、わたしが、わたしが……!」

 懺悔を続けようとするメディスンの口を塞ぐように、幽香はさらに力を込めて毒人形の体を包みこみ、抱きしめた。彼女を壊してしまわぬように。彼女の毒が漏れ出して、周囲の何かを傷つけてしまわないように。
 メディスンは幽香の胸にしがみつき、ただただ泣き続けた。その涙と漏れ出す毒は、幽香の体を容赦なく蝕み、強い痛みを与えた。しかし幽香は決してメディスンの体を離そうとはしなかった。今この小さな毒人形を抱きしめてやれるのは、この世でただ一人、自分だけしかいないのだと、よく分かっていたからだ。



 夜になるまで泣き続けて、メディスンはようやくほんの少しだけ落着きを取り戻した。幽香は人形を促して一緒に別荘の中に入り、以前のように二人並んでベッドの中に収まった。

「幽香と別れた日、すぐにジジイの家に行ったんだけど、この三日間はもうほとんど起きて来なくて……それでもわたし、ジジイに元気になってほしかったから、今までみたいにご飯とか作ってあげたりしたの。結局、ほとんど食べてくれないままだったけど。永琳に相談しに行こうかとも思ったけど、家を空けてる内に死んじゃったらどうしようって思うと怖くて、ずっとジジイのそばにいたわ」
「あの医者に相談しても、きっと結果は変わらなかったと思うわよ」
「そうかもしれないけど、でも、結局何もしてあげられなかったのが悲しくって」

 メディスンの目にまた涙が溜まり始めた。幽香はそっと人形を抱きしめてやりながら、自分でも驚くほど優しい声で慰めの言葉をかける。

「きっと、メディがそばにいてくれただけで、あの人は嬉しかったと思うわよ。ちゃんと、してあげられるだけのことはしてあげたのよ、あんたは」
「そんなことないよ」

 幽香に抱きしめられることを拒絶するかのように、メディスンは無理に体を離す。

「誰が何と言っても同じよ。わたしがジジイを毒で殺そうとしてたのは本当のことだし、一度は本当に殺しかけたの。あんなに優しい人を、自分の手で……ねえ、幽香」
「なに」
「わたし多分、退治されるべきなんだと思う」
「メディ」

 幽香が驚いてメディスンを見ると、強い意志を湛えた瞳と目が合った。

「だって、毒を撒き散らす人形なんて、危険だもの。悪い人間ならともかく、ジジイみたいにいい人間も苦しめて、殺してしまうかもしれないんだって、よく分かった。だからわたし、きっとこの世界にいちゃいけないんだと思う」
「それは違うわよ、メディ」

 幽香は強い口調で言い聞かせた。

「確かに毒を撒き散らす人形は危険な存在だけど、大事なのはあんたがそれを自分でコントロールできるかどうかなのよ。自分の意志で完璧に毒が漏れないように抑えられるようになれば、あんたは危険な存在ではなくなるの。分かるでしょう?」
「そんなの」
「無理な話じゃないわ。それが自分の力なら、努力すれば必ずコントロールできるようになる。現にわたしだって、花を操る能力を持っているけど、無闇に成長させすぎたり、うっかり枯らしてしまったりはしていないでしょう? それと同じことよ。あんただって、頑張れば必ずできるようになるわ」

 メディスンはまだ自信なさげに目をさまよわせていたが、やがて躊躇いがちに聞いてきた。

「本当に、できると思う?」
「ええ、大丈夫よ」
「わたしなんて、寝小便垂れの半人前妖怪なのに?」
「子供の頃は誰だっておねしょぐらいするわよ。わたしだってそうだったもの」
「幽香も?」

 メディスンがほんの少しだけ笑ったので、幽香も小さく微笑み返した。

「ええ本当よ。それに、わたしなんてあんたより泣き虫だったんだから。虐められないために強くなったようなものよ」
「そうだったんだ」
「そう。まあその代わり、今では逆に虐めるのが楽しくなっちゃってるんだけど」
「わあ、幽香ったら悪い子だ」
「そうねえ」
「ね、ね。じゃあ、紫も昔は泣き虫だったり、おねしょしたりしたのかな」
「したでしょうよ。っていうか紫は今も寝小便垂れてるかもしれないわよ。ボケ老人だから」
「それは酷いよー、幽香」

 ベッドの中で顔を突き合わせながら、二人はくすくす笑い合う。

「幽香」

 メディスンは笑いを引っ込めて、真面目な表情で言った。

「わたし、やっぱり退治されるのはやめるわ」
「そう」
「うん。よく考えたら、ジジイと約束したことあったし。ちゃんと果たさなくちゃ。だけど」

 少し、顔を曇らせる。

「やっぱり、ジジイはわたしが殺したんだと思う」
「メディ、さっきも言ったけど、塩なんかじゃ人間は」
「ううん、それはもう分かったの。だから、そういうんじゃなくて。それでもやっぱり、ジジイはわたしが殺してしまったんだと思う。分かってもらえないかもしれないけど、そう思うの」
「……そう。メディがそう考えたのなら、そうなのかもしれないわね」

 実際、幽香には今のメディスンの気持ちが完璧には分からなかった。だが、彼女とて最初は本気であの老人を殺そうとしていたのだし、いろいろと思うところはあるのだろう、というのは理解できる。それは多分老人と二人きりで過ごしてきたメディスンにしか分からない感覚なのだろうし、であれば無理に自分が解釈する必要などないのだ。
 ただそばにいて、見守ってやればいい。

「だからね、幽香」

 メディスンの声は、少しだけ震えていた。

「わたし、謝りに行こうと思うの」
「謝る……誰に?」
「ジジイの家族に。今は別居中だけど、娘と孫がいるって言ってたから、その人たちに。会って、何をどう言うべきなのかは分からないけど」

 それを許すべきなのかどうか、幽香にはよく分からなかった。あの老人の家族が様子を見にきたことは一度もなかったから、多分あちらにも何らかの形で話は伝わっているのだろう、とは思うのだが。
 ただ、メディスンが自分なりに今回のことに決着をつけようとしていることは理解できる。だから、ただ黙って頷いてやった。



 翌朝起きてみると、片付けられたテーブルの上に二人分の黒い服が用意されていた。喪服らしい。『あの人に会いにいくつもりなら、これを』という書置きも添えられていた。いちいち気が利いている隙間妖怪に感謝するべきなのかどうか、少し迷う。
 二人は喪服を着こんで別荘を出た。手を繋いで空を飛び、しばらくするとあの老人の家が見えてくる。メディスンはぐっと唇を噛んで緊張しきった表情を浮かべていたが、やはり気を張っているらしく、毒は一切漏れ出していなかった。
 庭先に黒い人影を見つけたので、二人はゆっくりと降下した。縁側を背に静かに佇んでいたのは、二人と同じように喪服を着た老女であった。正確な年齢は分からないが、おそらくあの老人と同じぐらいだろうと、幽香は推測する。

「こんにちは。きっと、来てくださるだろうと思っておりました」

 老女は柔和な笑みを浮かべてゆっくりと頭を下げる。そして、あの老人の妻であると名乗った。彼女の話によると、老人の亡骸はもう葬儀の準備のために運び出されてしまったそうだ。眠っているような、安らかな死に顔であったという。

「主人を看取って下さったのは、あなたかしら」
「は、はい!」

 穏やかな問いかけに、メディスンは背筋を伸ばして答える。老女は目を細めて頭を下げた。

「ありがとうね。あの人、あなたのおかげで、きっと幸せだったと思うわ」
「そんなことない!」

 メディスンは大きく首を横に振った。

「だってわたし、最初はジジ……あの人のこと殺そうとしてて……それにあなただって、わたしのせいで死に目に会えなかったし」
「メディ」

 興奮して喋っているメディスンの服を、幽香は小さく引っ張った。また少し毒が漏れ出しそうになっていたのだ。メディスンははっとして毒を引っ込めて、泣きだしそうに顔を歪めた。

「わたしがこんなんじゃなかったら、なんの問題もなかったはずなのに……本当に、ごめんなさい。ううん、謝って許してもらえることじゃないと思うけど」
「いいのよ」

 老女はメディスンに微笑みかけた。

「これはね、わたしとあの人とで、よく相談して決めたことなの。残り少ない命を幻想郷のために……自分の後も生き続ける命のために使いたいって、あの人言ってたわ。わたしもその決意を立派なものだと思ったから、納得して送り出した。だから、謝らなくてもいいの」
「でも」
「その代わり、ね」

 老女の声が、少しだけ厳しくなった。

「あなた、あの人のことを忘れてはだめよ。あなたはわたしが一番大切に想っていた人から命を受け取ったの。だから絶対に、そのことを忘れないで。なぜあの人があなたのために命を使ったのか、これからもよく考えながら生きていってちょうだいね。そうするのが一番、あの人とわたしのためになるのだから」

 メディスンは俯き加減にその言葉を聞きながら、少しの間想い悩む様子だった。しかしやがて決然と顔を上げ、老女の顔をまっすぐに見つめ返しながら、力強く頷いた。それに答えるように、老女も嬉しそうに頷き返す。

「ありがとう。今のあなたを見ていると、わたしたちの選択は間違いじゃなかったんだって、素直に思えるわ。これからも辛いことがたくさんあると思うけど、あなたを好きだった人がいたってことを忘れずに、頑張って生きていってちょうだいね」

 そう言い終えたあと、老女は幽香とメディスンに葬儀の日取りを教えてくれた。

「わたしも行っていいの?」
「もちろんよ。ちゃんとお別れを済ましていないんでしょう? それじゃあ二人とも寂しいと思うから、ね」

 不安げなメディスンに、老女は笑ってそう言った。



 葬儀の日、二人は常に会場の隅っこの、人里の人々から離れた位置にいた。事情を知らない人々を怖がらせたり不審がらせたりしてはいけないと思ったからでもあるし、メディスンが葬儀の間中ずっと毒が漏れないようにしておけるか、自信がないと言ったからでもあった。
 それでも幽香の目から見て、メディスンは立派に自分を制御しているようだった。彼女は一切毒を漏らさなかったし、事情を知らない人間に奇異の目で見られても特に取り乱したりしなかった。むしろ幽香の方が、自分のようなのがここにいて式の邪魔になっていやしないだろうかと落ち着かなかったぐらいである。
 だが老人の骸が焼かれる段になってとうとう耐え切れなくなったのか、メディスンは前を見て立ったまま静かに涙を流し始めた。幽香は黙って小さな人形を後ろから抱きよせ、彼女の涙が万一誰かを傷つけることがないように、全て己の腕で受け止めてやった。抱き寄せられながらも目をそらすことなく火葬の一部始終を見つめ続け、泣きながらも毒を漏らしはしなかったメディスンのことが、たまらなく誇らしかった。
 そうして火葬が終了すると、二人は人ごみを避けるようにして会場から抜け出した。人間の流儀に従えばこの後も何かあるのかもしれないが、これ以上この場にとどまるのはさすがに場違いだろう。それに、別れはもう済んだから、これで十分だとも思った。

「あ」

 会場から離れる直前、メディスンが小さく声を漏らした。何事かと立ち止まって彼女の視線を辿ると、式場の隅っこにぽつんと一人の女の子が立っているのが見えた。あの子がどうかしたのか、と問おうとして、幽香は女の子が手に小さな人形を持ち、楽しそうにあれこれ話しかけているのに気がつく。おそらく、あれが老人の孫なのだろう。見た感じかなり幼いから、祖父が死んだという事実がよく呑み込めていないのかもしれない。
 立ち止まりはしたもののまだ迷っている様子のメディスンの背中を、幽香はそっと押してやった。メディスンは驚いたように振り返り、それから黙って微笑むと、ゆっくりとした足取りで女の子の方に歩み寄っていく。

「こんにちは」

 見知らぬ少女に声をかけられたためか、女の子は吃驚した様子だった。メディスンはちょっと屈みこみ、女の子の手の中の人形を見つめて嬉しそうに笑う。

「あんた、大切にしてもらってるんだね。良かったね」
「この子のこと?」

 女の子が躊躇いがちに訊く。メディスンは大きく頷いた。

「そう、その子のこと。わたしね、人形の気持ちが分かるんだよ」
「本当?」
「うん。この子、とっても幸せそうにしてるから。大切にしてあげてるんだね、あなた」

 メディスンがそう言うと、女の子は嬉しそうに笑いながら、ぎゅっと人形を抱きしめた。その人形はよく手入れされているようだったが、遠目に見てもだいぶくたびれているものと分かる。本当に、どこに行くにも一緒なのだろう。

「ね。これからも、この子のこと大事にしてあげてね。あなたが大人になっても忘れたりしないで、たまには声をかけてあげて。それだけで、人形は幸せな気持ちになれるんだから」
「大丈夫だよ! わたしたち仲良しさんだもん。大きくなってもずっと一緒だよ、ね?」

 女の子は人形に声をかける。もちろん、人形は何も答えないし、頷いたりもしない。それでもきっと、メディスンにはその気持ちが分かったのだろう。満足そうに頷いて、「ありがとう、じゃあね」と言い残し、晴れやかな笑みを浮かべて幽香の下に戻ってきた。
 そうして二人は今度こそ会場を出て、人間の里からも離れた。何となく飛んで帰る気になれなかったので、地に足をつけたままゆっくりと帰路を辿る。

「ね、幽香」

 不意に、メディスンが言った。

「わたし、分かったような気がする。さっきみたいにやればいいんだね。それが一番、人形たちのためになるんだね」
「……メディがそう思うのなら、そうなんじゃないかしら」
「きっとそうだよ。ああ、そっか」

 不意に、メディスンは何かに気づいたようだった。

「前の異変の時に誰かが言ってたことの意味、ようやく分かった。そうだよね、人間から人形を解放するなんて、そもそもあの子たち自身が望んでないんだ。人形にとっての一番の幸せって、大事にしてくれる人間とずっと一緒にいることなんだもん。やっと思い出せたよ、そういう気持ち。ジジイのおかげね、きっと」

 メディスンは納得した様子で何度も何度も頷いたあと、「よーっし!」と張り切った様子で拳を掲げ上げた。

「そうと決まったら、これからは人形達の真の幸せのために頑張るぞー! まずは完璧に毒を操れるように頑張らなくちゃ! 修行だ修行! さあ幽香、早く帰ってそのための準備しようよ、ねっ!」

 そんな風にすっかり一人で盛り上がり、メディスンは物凄い速さで太陽の畑の方に向かって飛んでいく。そのあまりの勢いに、幽香は苦笑するしかない。

「まったくもう。ちょっと前は『退治されるべきだと思う』なんて言ってたくせに。調子いいんだから」
「でも、落ち込んでいるよりはずっとマシですわねえ」

 気づくと、隣に紫が佇んでいた。どんどん小さくなるメディスンを、目を細めて見つめている。幽香はちらりと隙間妖怪を見て、少し疑問に思っていたことを問うてみた。

「あの子、なんだか急に物分かりがよくなったみたいだったけど」
「閻魔様の説教のことかしら?」
「ええ」
「多分、あの子も頭では理解していたんだと思うわ。ただ、それを認めるには人間への憎しみが強すぎたのね。理性と感情が一致していなかった、とでも言うべきかしら」
「じゃあ、あんな風に素直に認められるようになったってことは」
「ええ。今やあの子の中で、人間への憎しみはそう重要なものではなくなったと見ていいでしょう」
「消えたわけではないのね」
「あの子が人間に捨てられたというのは、消すことのできない事実だもの。だけど、大切にされていたときもあって、それが何より幸せな時間だったということも、やっぱり消えない事実。どちらも大切な、あの子の一部だったのよ。メディちゃんは今ようやく、メディスン・メランコリーという存在本来の形を取り戻すことが出来たんだわ」

 そう言って、紫はほっと息をつく。

「本当に、良かったわ。考えうる限り最高の……いえ、考えていたよりもずっといい結末よ」
「そう? そう、かもね」

 幽香自身、あれこれと最悪の結末を想像してはいたのだ。たとえばメディスンが本物の毒で老人を殺してしまったりとか。少なくとも、事が全て終わったあとも自分たちの関係が持続することはあるまい、と思っていた。真相を知るにしろ知らないままでいるにしろ、メディスンは必ず自分たちを恨むだろう、と。
 だが今、メディスンは二人のどちらにも、恨みなど抱いてはいないようだった。事の真相をどこまで察しているのかは分からないが、今更明かす必要もないだろうと思える。騙しっ放しになってしまうのは少々心苦しいが、彼女はもうこの件に関して彼女なりの決着をつけているようだから。

「どうしてもうまくいかなかったときは、あの子の能力を無理矢理封印することも考えていたんだけれどね。そんなことにならなくて、本当に良かった」
「そう言えば、それは出来ればやりたくないって言ってたわよね。理由、聞かせてくれる?」

 幽香がそう言うと、紫は「あら」と少し意地悪げに目を細めた。

「今のあなたなら、わたしが言わずとも分かっていると思っていたけれど」
「……そうね」

 幽香はメディスンが飛び去った方角を見つめた。あの小さな毒人形は、自分たちと本当によく似ている。そして自分たちは力を封印されてなどおらず、あるがままの形を保ったまま、この世界で生きているのだ。
 だから、メディスンも同じようにしてやりたかったと。できる限り彼女本来の形を保ったまま、それでもこの世界に収まれる場所を探してやりたかったと。そういうことだろう。

「なんだか、ね」

 幽香はため息をついた。

「あんなちっちゃな子供のために誰かを敵に回してここまで思い悩んで、憎まれる覚悟まで決めて。妖怪の賢者って本当に面倒くさいわね。わたしだったら頼まれてもやりたくないわ」
「あら、やりがいのある仕事よ。そうねえ、たとえて言うなら」

 紫はにっこりと微笑む。

「わたしにとっては、幻想郷の全てがあなたにとってのメディちゃんみたいなものなのよ。そう言えば分かるでしょう? ね、幽香お母さん?」
「気色悪いこと言わないでよ」

 幽香は顔をしかめて肩を抱き、寒がる振りをする。紫が苦笑した。

「照れなくてもいいじゃないの」
「照れてないって」
「そうかしら。でも、ねえ幽香」
「なによ」
「あなたもメディちゃんと暮らし始めて結構経つし、そろそろ一人で眠るのは寂しくてたまらなくなってくるころじゃないかしら」
「なっ……!」

 幽香は絶句した。

「あ、あんた、まさか聞いて……!」
「え、なにが?」
「なにが、って」
「単に、藍が親離れし始めて添い寝しなくなったときの私がそんな感じだったから、あなたもそうかなーと思って聞いただけなんだけど」

 そう言って、紫は首を傾げる。しまった、と幽香は思った。どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。ぎこちなく目をそらし、何度も咳払いをして誤魔化そうとする。

「い、いや、なんでもないわ。忘れてちょうだい」
「えー。気になるじゃない。ねえなに、なにを聞いたって?」
「う、うるさいわね! なんでもないったら!」
「あらそう。残念ねえ」

 紫が意外なほどあっさり引き下がったので、幽香は眉をひそめた。

「なによ、調子狂うわね」
「いいじゃない。今回あなたには本当にお世話になったし、ね。それに早く帰ってあげないと、先に帰ったメディちゃんがお腹を空かせて待ってるかもしれないわよ?」
「はいはい。いちいちそこんとこ強調しなくていいっての、ったく」

 幽香が舌打ち混じりに言って飛び立とうとすると、「幽香」と静かに呼びかけられた。顔をしかめながら振り返ると、深く静かな微笑みを浮かべて、紫がこちらを見つめている。彼女のそんな表情を見るのは初めてのことで、幽香は何となく居心地が悪くなる。

「……なによ」
「今回は、本当にありがとう。あなたが協力してくれなければ、こんなにいい結果にはならなかったわ」

 混じり気のない感謝の言葉とともに、紫は深く頭を下げる。幽香は唇をむずむずさせた。

「なに言ってんの、わたしなんて」

 と否定しようとして、首を振った。
 最近慣れないことばかり続いて調子が狂いっぱなしだったが、それももう終わったのだ。そろそろ、元の自分に戻ってもいいころだ。
 だから幽香は不敵な笑みを浮かべて浮遊し、少し高い位置から傲然と紫を見下ろした。

「ま、実際その通りよね。あんたなんてちょっとばかし計算が速い程度のボケ老人に過ぎないんだから、これからはせいぜい自分の立場を弁えてわたしを崇め奉りなさいな。そうねえ、わたしの機嫌がいいときに土下座してお願いするんだったら、また手伝ってやらなくもないわよ」

 そう言ってやると、紫もにやりと笑い返してきた。

「あーら、メルヘンババァが言ってくれるじゃない。お花以外のお友達ができたからって、ちょっと調子に乗ってるのかしら」
「あんたこそ年寄り臭い気遣いもほどほどにしときなさいよ。実年齢よりももっと老けて見えるからね、紫お婆ちゃん」
「肝に命じておきますわ、幽香お婆ちゃん。メディちゃんの若さに振り回されて腰の骨折ったりしないように、せいぜいお気を付けあそばせ」
「うふふふふ」
「おほほほほ」

 二人はいつものようにこめかみに青筋立てて笑い合い、ほとんど同時に「フン」と鼻を鳴らして顔を背けた。そして後はお互いの顔を見もしないまま、それぞれの帰路についた。



 太陽の畑に帰りついてみると、メディスンは別荘の庭の土をほじくり返しているところだった。

「なにやってんの、あんた」
「あ、お帰り幽香。あのねえ」

 と、何やら小さな袋を掲げてみせる。

「これ、さっき紫にもらったから。外の世界の、珍しい花の種なんだって」
「……ああ、そういえばそんな約束してたわね」

 相変わらず変なところで律儀だなあ、と少し苦笑する幽香の前で、メディスンは花の種を植え終わって「これでよし」と満足げに息をついた。

「っていうか、メディ」
「なに」
「言っておくけど、わたし近いうちに違うとこ移動するからね」
「えぇっ!? どうして!?」

 驚くメディスンの前で、幽香は向日葵畑の方を指さす。

「見なさい、そろそろ夏も終わりよ。次は秋の花が咲いてるところにある別荘に引っ越すの」
「えー、なんでー」
「なんでったって、わたしはここ数年はそういう生活をしてるのよ」
「そうなんだー」
「そうなの。それで」

 ほんの少しだけ躊躇いながら、幽香は聞いた。

「あんたはどうする? わたしについてくる? それとも鈴蘭畑に戻る?」
「ん。んー、どうしようかなー。確かに最近スーさんたちともご無沙汰だけど―」

 腕組みして考え始めるメディスンを見て、幽香はちょっとどきどきしていた。そんな彼女の内心を見透かしたかのように、毒人形はちょっと意地悪げな笑みを浮かべる。

「でもまあ、やっぱりついていこうかな。わたしがいないと、幽香が寂しくて眠れなくなっちゃうし」
「何生意気言ってんの、この子は」

 図星を突かれた照れ隠しもあって、幽香は傘でメディスンの頭を叩く。「いったー!」と叫び声を上げて、毒人形がその場に蹲った。なんだかこの光景を見るのも久しぶりな気がするなあ、と幽香は一人感慨深く頷いてみたりする。

「なにすんのよー!」
「居候のくせに生意気言う方が悪い。いいメディ、ずいぶん立派な決意を固めたみたいだけど、現実のあんたはまだ寝小便垂れの半人前なんだからね。大妖怪たるわたしに生意気な口利くなんて千年早いのよ、千年」

 指を突き付けてそう言ってやる。またすぐに反論が来ると思ったが、メディスンは意外にも「分かってるよ」とあっさり頷いた。予想外の反応に、幽香は目を瞬く。

「なによ、いやに素直じゃない」
「だって、幽香が言ってること全部本当だもの。わたしは、まだまだ半人前だから」

 膝を払いながら、メディスンはゆっくりと立ち上がった。幽香を見上げながら、力強い声で宣言する。

「でもね幽香。わたし、絶対いつか一人前の妖怪になってみせる。そんで幻想郷中の人間の家を回って、人形達の気持ちを伝えてあげるの。もしも、もう人形なんて要らないっていう人がいたら、その人形を引き取って、もっと大事にしてくれる人を探してあげて……うん、これこそ真の人形解放だわ。こういう風にやれば、さ、きっと」

 不意に、メディスンの目に涙がせり上がってきた。

「きっと、ジジイも喜んでくれると思うから……!」

 人形の瞳から涙が零れ落ちる。幽香は咄嗟に腕を伸ばしかけた。だがそれよりも早くメディスンが腕を上げ、涙を自分で拭い取る。そして、にかっと笑った。

「いけないいけない、泣いてばっかりじゃあ、いつまで経っても半人前のままだよね、ね」
「……ええ、そうね」

 幽香は伸ばしかけた腕を引っ込めて、軽く胸を押さえた。自分で涙を拭えるようになったメディスンのことが誇らしいと同時に、ほんの少しだけ寂しい気もした。これは、単なる我がままだろうか。
 そんな幽香の内心などお構いなしに、メディスンは一人張り切ってぐるぐると腕を振り回していた。

「さーって、そうと決まったら、さっそく引越しの準備しなくちゃね! 新天地に行ってもがんばるぞー。この花が咲くころには、今よりもっと立派な妖怪になってみせるんだから!」
「……っていうか、これなんて花なの?」
「知らない。珍しい花の種、としか教えてくれなかったから」

 大丈夫だろうな、と幽香は少し不安に思う。来年戻ってきたとき、向日葵畑がこの花に侵食されていたらどうしよう、と。まあそのときは紫をぶん殴ったあと向日葵に力を与えて、また勢力回復させればいいだけだが。そんな風に考えられるのだから、力を持つというのもまあ悪いことばかりではないと思う。
 ばたばたと慌ただしく別荘に駆け込んだメディスンを追って歩き出しかけた幽香は、小さな羽音を聞いた気がして空を見上げた。目を凝らすと、夕暮れの赤い空を飛び去っていく小さな影が見える。鴉天狗だった。問題がなくなったと聞いたらすぐこれか、と幽香は少し呆れる。

(自分たちの目で確かめずにはいられないってわけ。天魔のジジイもつくづく心配性ね)

 まあ彼も彼なりにメディスンのことを案じていたようだし、多目に見てやろうか。ロリコン疑惑があるから、直接会いに来たりしたら容赦なくぶっ飛ばすつもりだが。
 もう鴉天狗の影も形も見えなくなった空を見つめながら、幽香はふと、あの天狗はメディスンが自分で涙を拭ったところを見てくれただろうか、と考えた。見ていてくれたらいいな、と思う。
 これからも人形解放のために頑張り続けるであろうメディスンを、誰かが見続けて応援してくれたら、それはとても素敵なことだ、と。
 そんなことを考えて、苦笑混じりに首を振った。

(なに、らしくないこと考えてるんだか、ね)

 それでも、あまり悪い気はしない。そんな自分に溜息一つついて、幽香はひっそりと微笑みながら別荘の中に入った。
 窓の外の向日葵畑は枯れかけていて、もうすぐ夏が終わるのだと報せてくれる。メディスンと一緒に笑って、泣いた季節の終わり。だが、それを悲しいとは思わない。来年になればまた夏はやってくるし、向日葵もまた太陽を振り仰いで花開くのだ。
 だが、次の夏は今までとは違ったものになるだろう。ほんのちょっとだけ成長したメディスンを連れて帰ってきたとき、別荘の庭ではどんな花が揺れていることだろう。
 また一つ生きる楽しみが増えたな、と幽香は嬉しく思った。

 <了>
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