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【東方SS】オラ、あんころもちが喰いてえだ!

2010/9/28に東方創想話に投稿したSSです。
 


『オラ、あんころもちが喰いてえだ!』



(あんころもちが喰いたい……!)

 慧音は心の中で涎を垂らしつつも、太股をぎゅっとつねることでぎりぎり我慢していた。
 彼女は今、稗田邸の縁側で正座している。
 満月だった昨晩に歴史を編纂し、出来上がった巻物を稗田阿求に試読してもらっているところなのだ。
 目の前に座って巻物に目を通している御阿礼の子は真面目な表情だったが、慧音の目は半ば阿求から離れていた。
 今慧音の心を惹きつけて止まないのは、阿求のそばに置かれたお盆である。
 もっと言うなら、その上に山盛りになったあんころもちであった。

(あんころもちが喰いたい……!)

 もう一度、心の中で繰り返す。気を抜けば、空きっ腹が間抜けな音を立ててしまいそうだ。
 慧音は空腹だった。何せ、飲まず喰わずで一晩中歴史を編纂していたのだ。
 当然体力を消費するし、腹も減る。
 いつもならば、歴史を編纂した後半日ほどは休んでから、阿求の下を訪れるのが慣わしである。
 しかし今回はいつもより調子が良く、それ故夜が明けて変化が解けてもなお、気分が高ぶっていた。
 冷静沈着な慧音とはいえ、やはり人の子。その興奮に任せるまま、休息も取らずに稗田邸へ駆けつけてしまったのだ。



「おや、慧音さんがこんな時間にいらっしゃるとは珍しいですね」

 今し方起きて着替えたばかりと思しき阿求は、少し驚いた顔をしながらも、快く慧音を出迎えてくれた。

「申し訳ありません、不躾だとは思ったのですが」
「いえいえ、少し驚いただけです。縁起の編纂も一段落して私も最近は暇ですし、いつでも歓迎しますよ」
「そう言って頂けるとありがたい。感謝いたします」
「お疲れでしょうから、少し休まれてはいかがですか? 確認が終わったら起こして差し上げますから」
「いえ、お気遣いには感謝しますが、大丈夫です。稗田殿に読んで頂くのが楽しみでね。とても眠ってなどいられない心地なのですよ」
「ほほう。それは読み応えがありそうですね。私としても楽しみです」

 和やかに談笑しながら中庭に面した縁側へ移動し、腰を下ろしたところで、

「ああ、そういえば」

 と、阿求が何か思い出したように、パンパン、と手を打った。

「はーさん、いますか?
「はあい」

 朗らかな返事と共に顔を出したのは、まだ年若い女中であった。いかにも快活そうな顔立ちの可愛らしい少女だったが、慧音は彼女を見たことがない。

「最近新しく入ってもらった方なんですよ。私は、はーさんって呼んでます」
「はあ。しかし、里ではお見かけしたことがないように思いますが……」
「ええ。はーさんは外の世界からいらした方で……ああそうか、郷に移住するのを決めたのがつい最近でしたから、慧音さんへの挨拶はまだでしたね」
「そうでしたか。お初にお目にかかります、私は……」
「存じ上げております」

 と、元外来人だというその女中……はーさんは、折り目正しくぺこりと頭を下げた。

「上白沢慧音様ですね。この里を守って下さっているという……お話を伺ってから、是非一度お会いしたいと思っておりました。どうぞよろしくお願いします」
「これはご丁寧に。ありがとうございます。いえ、私の力など微々たるものですが、少しでも皆の役に立てればと……こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 慧音もまた丁寧に頭を下げる。
 はーさん、というその少女は年の割に礼儀正しく、慧音は好感を抱いた。
 ほのかに頬を染めて遠慮がちに慧音を見つめる瞳には純粋な尊敬の色が宿っており、少々こそばゆい。

(外来人で郷に慣れていないとなれば、まだ不安なことも多かろう。私として、仮にも里の守護者などと呼ばれているのだ。無様なところを見せて彼女を幻滅させるわけにはいかんな)

 そう思うと、疲れた体に張りが戻ってくる。
 慧音は背筋を伸ばし、とりあえず彼女の本名を聞いてみよう、と思ったが、

「じゃあ、はーさん。あれ、よろしくお願いしますね」
「はい、わかりました」

 はーさんは嬉しそうに微笑んで頭を下げると、楚々とした足取りで廊下の奥に歩いていった。
 名前を聞きそびれたことを少々気にしながらも、慧音は眉をひそめて問う。

「稗田殿。あれ、とは?」
「ああ、あんころもちのことですよ」
「あんころもち?」
「ええ。あれ、ご存じありませんか?」
「いや、もちろん知ってはいますが……」

 あんころもちと言えば、餅を餡子で包んだ和菓子である。
 別段珍しいものではなく、もちろん里でも日常的に食されている食べ物だ。
 しかし、

「……朝からあんころもちですか」
「ははは。まあ、そう言わないで下さいよ」

 阿求は若干照れたように笑い、それから何かを思い出すようにうっとりと目を細めた。

「はーさんのあんころもちは本当においしいんですよ。絶品ってやつです。思い出すだけで涎が垂れてきそうなぐらいで」
「ほう。そんなにおいしいのですか」
「ええ。お祖母様に教えてもらった得意料理だとかで……ああそうだ」

 と、阿求は緩んだ顔を不意に引き締め、少し声を落として言った。

「慧音さんには話しておいた方がいいでしょうね。はーさん、お祖母様の他に身寄りがなかったそうなのですが、先日そのお祖母様を事故で亡くされたそうで……それで失意の中にあったところを、この郷に迷い込んだそうなのです」
「そうですか……そんな事情が。そういった精神状態の者は、ふとした弾みで境界を越えてしまうと言いますし。無理もない」

 だが先程の朗らかな笑顔からは、そんな感情は少しも伺えなかった。
 気丈な少女なのだな、と思って、慧音はますます好感を持つ。

「この郷のことは一目で気に入ったそうですよ。お祖母様がよく思い出話として話して下さった、田舎の村を連想して嬉しくなるんだとか」
「それは……嬉しいことですね。その想いに陰が差すことのないように、我々も努力していかなくては」
「ええ、全くです。まあ、それはそれとして」

 と、阿求はまた締まりのない笑みを浮かべてうっとりする。

「ああ、楽しみだなあ、はーさんのあんころもち。早く食べたいなあ」

 阿求はいかにも待ち焦がれている様子で、さっきからそわそわと落ち着きなく身じろぎしている。
 普段は御阿礼の子らしく泰然とした態度を崩さない彼女も、こうしていると外見相応の少女のように見える。
 慧音は無礼だと思いつつも、ついつい苦笑してしまった。

「そんなに美味しいのですか、彼女のあんころもちは」
「そりゃもう。一度食べたら病みつきですよ。現にわたしがそうですし」
「太りますよ」
「いいじゃないですか、どうせ短い人生なんです。食事ぐらい好きにさせて下さいな」

 そう言われると、慧音としては弱い。
 阿求は困ったことがあると時折こうした物言いをすることがある。
 縁起の文面なども少々毒が強かったりするし、割合意地の悪いお方だな、と思わないでもない。

(しかし、あんころもち。あんころもちか……)

 ふと、慧音は話題の和菓子を思い浮かべる。
 いつも毅然としていてもやはり女性というべきか、慧音もそれなりに甘い物が好きである。
 しかも、今は歴史編纂を終えた直後。今までは気分が高ぶっていて気付いていなかったが、こうして一息ついていると、途端に空腹を思い出してきた。
 体力はもちろん知力も使う仕事だから、疲れた脳が糖分を求めているような気もするし。

(しかも絶品だというしな。あの稗田殿がああも絶賛するあんころもち……是非とも食べてみたいものだが)

 慧音がそんなことを考えた矢先、阿求がふと思いついたように、

「そうだ。よろしければ慧音さんもご一緒にいかがですか、あんころもち」
「む……そう、ですね」

 是非とも、と食いつきたくなるのをグッと堪え、慧音は少し逡巡する素振りを見せる。
 外面を取り繕うなどあまり誉められたことではないかもしれないが、守護者の名に恥じない振る舞いを、と誓ったばかり。はーさんがこの場にいないとは言え、がつがつするのはどうも決まりが悪い。

「……うむ。では折角ですから、ご相伴に預からせて頂きましょうか」
「ええ、是非とも。本当に美味しいですからねえ、はーさんのあんころもちは」

 また阿求がうっとりし始める。その様子を見て、慧音はついつい生唾を飲み込みそうになった。

(いやいや。あの少女が来たときにだらしないところを見せるわけにはいかん。平常心、平常心……)

 心の中で唱えつつも、慧音の心は三割ほどあんころもちの虜になってしまっている。
 一体どれほど美味なのだろう。どれほどの甘味なのだろう。先程は「朝からあんころもちですか」などと言ってしまったが、今となっては失言にすら思える。
 朝からあんころもち。実に結構なことではないか。
 編纂した歴史を見てもらいながら、美味なるあんころもちに舌鼓を打つ。しっかり味わって美味しかったと感想を言えば、きっとあの少女も喜んでくれることだろう。
 その後は満腹感に浸りながらのんびりと自宅へ戻り、ゆるりと横になって幸福な気分で仮眠を取るのだ。

(うん、いいな。悪くない)

 まだ見ぬあんころもちを主軸とした本日の計画に、自然と胸が躍る。
 慧音もまた阿求と同じく、今か今かとはーさんの訪れを待つことになった。
 と、

「待つ間に、少し拝見させて頂きますね」
「ん。あ、ああ、どうぞ」

 不意に声をかけられて、慧音はちょっとどもりながら返事をする。
 見ると阿求が巻物を広げ、静かな表情で読み始めているところであった。

(いかんな。当初の目的を忘れるところだった)

 空腹とは言え、少し食い意地が張りすぎているようだ。
 慧音は気恥ずかしさを覚えながら、顔を引き締め背筋を伸ばす。
 阿求は最初こそ静かな表情だったが、読み進めるに従って目に興奮の色が宿ってきた。

「ふむ……なるほど、これは……」

 夢中になっている阿求の前で、慧音は深い満足感を抱く。
 歴史を編纂するという行為は事物の記録を目的としたものであり、娯楽を目的とした読み物とはもちろん趣が異なる。
 けれども、編者の性質によって出来不出来には差が出るものだ。歴史書にも、面白いものとつまらないものとが存在するのだ。
 そして目の前の少女の様子を見る限り、今回慧音が持ってきた巻物はなかなかの「当たり」だったようである。

(……稗田殿のお眼鏡に適うとは、光栄なことだ)

 深い達成感と安堵感とに全身が満たされる。
 そうして緊張が薄れたためか、ますます空腹が意識された。

(この状況で疲労よりも空腹の方を強く感じるとは。よほど期待しているらしいな、わたしは)

 心の中で苦笑する。
 まあ、今回の仕事は一段落したのだ。
 後は絶品だというあんころもちを味わって、ゆっくりと休息を取るだけである。

「お待たせいたしました」

 不意に聞こえてきた控えめな声に、慧音はどきりとする。
 不躾に振り向きたくなるのを堪えてじっと待っていると、廊下の向こうから先程の女中が姿を見せた。
 腕に布巾をかけ、手には盆を持っている。その上に、黒くて丸いものが山盛りになっていた。

(あれか……!)

 小さく息を飲む慧音の前に、女中はしずしずとした足取りでやってきた。
 柔らかな物腰でその場に膝をつくと、コトリと小さな音を立てて盆と布巾を置く。
 慧音を見てはにかんだように微笑み、

「お口に合えばいいんですけど」
「いや、とても美味しそうだ。ありがとうございます」

 慧音がそう言うと、女中は恥ずかしそうに頬を染めた。
 実際、お世辞抜きに美味しそうなあんころもちであった。一つ一つ、ちょうど一口で食べられるぐらいの手頃な大きさ。餡子はたっぷり塗られていて、中の餅は少しも見えない。
 甘い香りがかすかに鼻孔をくすぐり、慧音は思わず生唾を飲み込んでしまう。

(っ……! いかん!)

 少し慌てたが、幸いはーさんは巻物に没頭している阿求の方を見ていて、慧音の失態には気づいていない様子だった。

「阿求様、あんころもちをお持ちいたしましたよ」
「ん……」

 阿求はちらりとはーさんの方を見て、嬉しそうに笑う。

「ああ、ありがとうございます。後で食べますから、そこに置いといて下さい」
「はい、分かりました」

 あれだけ楽しみにしていたはずのあんころもちに手も触れず、また巻物に戻る阿求を見て、女中の少女はくすりと笑った。

「阿求様ったら凄く集中しておいでですね。邪魔をしたら叱られてしまいそうです」
「大丈夫ですよ。稗田殿は温厚なお方ですから」
「そうですねえ。私もとても親切にして頂いておりますし……ちょっぴり、悪戯好きな方ですけれど」

 少女はおかしそうに笑ったあと、「いま、お茶をお持ちしますので」と言い置いて、また楚々とした足取りで歩み去った。

(さて……)

 いよいよだな、と慧音は居住まいを正した。
 あんころもちの山を目の前にして、空腹はいよいよ最高潮。阿求の言葉通り、涎が出るほど美味そうな一品だ。
 人の目がなければ、それこそ犬のように貪っていたことだろう。

(さあ稗田殿、お待ちかねのあんころもちだ。共に思う存分味わおうではないか)

 慧音は期待に満ちた心境で阿求を見る。
 ところが、阿求の方は少しもあんころもちを見ようとはしなかった。あれだけ期待していたというのに、手を伸ばす素振りも見せないまま、ひたすら巻物を読み進めている。
 慧音は最初こそ正座したまま待っていたが、その内待ちきれなくなってきた。
 そりゃ、自分が編纂した歴史に夢中になってくれるのはとても嬉しいのだが。

(どうしたものか……)

 お預けを喰らった犬のような、もどかしい気分。
 どうぞ、と言われてもいないのに、自分から手を出すわけにはいかない。かと言って、「食べてもいいですか」などと聞くのはどうも決まりが悪い。

(うむ。やはり、待つべき……だな)

 鋼の自制心で食欲を抑え、慧音は正座したままじっと待ち続けた。
 縁側は柔らかな朝日に包まれ、小鳥の鳴き交わす声が聞こえてくる。
 そんなのどかな光景の真ん中には、山盛りのあんころもち。その眼前には、この上ないほど深刻な顔をしたワーハクタクが一人。
 阿求がいつまで経っても顔を上げないので、慧音はその内耐えられなくなってきた。

(……あんころもちが喰いたい……!)

 湧き上がる衝動。奥歯を噛み腿をつねり、無理矢理抑えつける。

(……あんころもちが喰いたい……!)

 にじみ出る涎。音を立てないよう注意しながら、苦労して飲み込んだ。

(……あんころもちが喰いたい……!)

 眼前の黒山から甘い香り。目を見開き、口を半開きにし、思わず膝立ちになったところで、

「あら?」

 不思議そうな声が背後から聞こえてきて、慧音は驚きのあまり飛び上がりそうになった。
 おそるおそる振り向くと、慧音を見て瞬きしているはーさんの姿が。

「上白沢様。どこへ行かれるのですか?」
「む……いや」
「今、お茶をお持ちしたところで……あら阿求様、まだ読み続けていらっしゃるんですね」

 お茶の乗った盆を置きながら、はーさんがくすりと笑う。

「このご様子だと、まだまだかかりそうですねえ」
「……そのようですな」
「それで、上白沢様はどちらへ?」
「え。あー、いや……」

 どう答えたものか、慧音は迷う。不意を突かれて動転してしまったため、未だに膝立ちである。
 今更座り直すのも不審だし、適当な用事も思いつかない。
 あまり答えずにいるのは尚更不味い、と迷った挙げ句に、

「……厠をお借りしたいのですが」



(恥ずかしいことをしてしまった……)

 厠に一人しゃがみ込み、慧音はひどく気落ちしていた。
 どうも、徹夜明けに空腹が重なって判断力が落ちているようである。いかに気持ちが高ぶっていたとは言え、休息もなしに知人の家を訪ねるのは少々軽率だったろうか。
 今後は注意しよう、と心に決めながら、もう一つ、重大な決意をした。

(……戻ったら、先に食べてもいいですか、と尋ねることにしよう)

 考えてみれば、至極簡単なことだ。
 そもそも少し、体面にこだわりすぎていたのかもしれない。
 素直にそう言えば、「なんだそんなにお腹が空いていたのですか」「いや面目ない、あまり美味しそうだったもので」「あら上白沢様ったらお上手ですね」などと、和やかに会話が進行するに違いない。

(うむ、それがいい。それでいこう)

 何分、目の前でお預けを喰らわされたせいもあって、空腹はもう限界を超えている。厠の中ですら全く衰えないのだから、これはもう相当のものと言うべきだろう。

(仕方のない話なのだ。生き物にとって食物からの栄養摂取は生きていくのに必要不可欠なことであるし、いかな事情があろうとも目の前に食べ物があるのに空腹を堪えることほど不自然なことはない。それになにより……ええいもうどうでもいい、ともかく喰いたい、あんころもちが喰いたい……!)

 食欲に半ば心を支配されつつ、それでも理性を総動員して足音を立てないよう注意しながら、慧音は廊下を急ぐ。
 そして先ほどの縁側に続く角を曲がったところで、

「おっと」

 と、向こうからやってきた阿求とぶつかりそうになった。
 慌てて横に避けると、巻物を持ったままの阿求が興奮した面持ちで慧音を見上げた。

「いや慧音さん、今回のは確かに力作ですね。なんとも読みごたえがあります」
「そうですか。それはありがたいことです」

 感謝の言葉を述べつつも、慧音の意識は既に曲がり角の向こう側。
 あそこでは今も、あんころもちが自分に喰われるのを待っているに違いない。

「稗田殿。お願いしたいことが」
「ああ、ちょっと待って下さいな。今書斎に戻って、これと関連のある資料を何冊か持ってきますので」
「……は?」
「ちょっとね、読み比べてみたい資料があるのですよ。ああ、もちろん私は内容を全て覚えておりますけれど、慧音さんと一緒に話し合おうとしたら現物があった方がやりやすいでしょう?」
「いや、稗田殿」
「お待たせしてばかりで申し訳ないですが、さっきのところで待っていて下さいますか。すぐに戻りますので」

 慧音の言葉を聞くことなく、阿求はばたばたと駆け去っていく。余程巻物が面白かったのだろう、いつになく浮き立った足取りだ。
 無論、そんな阿求を引き止められるはずもなく。

(……参ったな)

 慧音はかすかに頬をひきつらせる。
 結局、許可をもらえなかった。
 おそるおそる角を曲がってみると、あんころもちの山は何ら変わらず縁側の真ん中に鎮座している。
 阿求も阿求で、あれほど期待していたにも関わらず、あんころもち一つどころかお茶にすら口をつけていないようだ。
 それほど夢中になってくれるとは、編纂した甲斐があったと思う。
 思うのだが。

(……この状況は、なんとも辛い……!)

 あんころもちの山の前に正座して、慧音はぎりりと歯軋りする。
 人目がなくなったせいか、上手く表情が取り繕えなくなってきた。目が爛々と見開かれ、息は荒く、口の端からは涎が垂れる。
 お預けを喰らった犬、再び。満月でもないのに尻尾が生えているような気すらする。
 そう、今の慧音は一匹の獣であった。ただただ飢え乾き、あんころもち喰いてえ、あんころもち喰いてえ、と吠え立てる、一匹の浅ましい犬。

(いかん……もう、我慢が……)

 意識が朦朧とし、視界が歪む。
 あんころもち以外のものが、何一つ映らなくなる。
 その瞬間。

 ぐぎゅるぎゅるぎゅる~

 と、間抜け極まりない低音が、慧音の腹から響き渡った。

「……!」

 その瞬間、慧音の思考は驚くべき速度で展開した。
 そもそも自分が食べるのを躊躇っていたのは、体面が保てないと思っていたからである。
 しかしこのまま食べられないと、阿求や女中がいるときに、先ほどの間抜けな音を響かせてしまう可能性が高い。
 そんなことになったら、あんころもちを夢中で貪るよりも余程体面が悪いのではないか。

(……体面を保つのならば、今ここで一つだけでもあんころもちを喰って、わずかでも腹を満たしておくべき……!)

 そう判断したら、後はもう一瞬だった。
 慧音は鎖から解き放たれたようにばっと腕を伸ばし、あんころもちを一つつかむ。
 そして大きく唇を開け、あんころもちを口の中に放り込んだ。
 上品な甘味が舌の上に広がるのを感じながら、咀嚼、咀嚼、咀嚼。
 数秒の沈黙の後、

「……うまい……!」

 慧音は乙女のように頬を両手で挟み、何度も何度もあんころもちを噛みしめた。
 ああ、なんと味わい深いのだろう。噛めば噛むほど、じんわりと甘味が広がっていく。これほど甘いのに、この舌触りの良さはどうだ。餡子はべたついてもいなければ、パサついてもしていない。程よく染み渡り、口一杯に甘味を伝えてくれる。その内に包まれていた切り餅も心地よい歯ごたえで、餡子の柔らかさと見事に調和していた。
 いや、もはやそんなまどろっこしい解説などどうでもいい。
 とにかくうまい。甘い。

「……ああ……」

 口の中に残っていた最後の餡子を飲み下し、慧音は深々と息を吐く。
 頬が熱いと思って触ってみれば、一筋涙が零れていた。
 食べ物を美味いと思ったことは数多くあるが、泣くほど感動するなど初めてだ。

(これが真のあんころもち……! では私が今まで食していたあんころもちとは、いったいなんだったのか)

 悩む慧音がふと横を見れば、そこにはまだ山盛りになったあんころもちが。
 思わずごくりと、唾を飲み込む。
 あの素晴らしい甘味は、まだ口の中に余韻を残していた。

(……あと一つぐらいなら……)

 慧音はおそるおそる手を伸ばし、また一つのあんころもちを口の中に含む。
 今度はゆっくりと噛みしめ、丁寧に味わう。
 やはり、うまい。

(なんてものを喰わせてくれるんだ……なんてものを。これならば閻魔様だって顔を綻ばせるというものだ。どれ、もう一つ……ううむしかし、本当に素晴らしい。味もそうだが、このあんころもちがこうして私の口に入っている経緯を考えてもみろ……もう一つ……そう、これは元々、外の世界のとある家で、先祖代々脈々と受け継がれてきた味なのだ……もう一つ……それをこうしてわたしが味わっているなど、本来ならばあり得ないこと。この郷に住まうわたしにとって、このあんころもちは本来であれば幻想の食べ物だったのだ……もう一つ……この出会いはまさに奇跡、まさに幻想。遠い昔から絶えることなく伝えられてきたこの素晴らしき甘味。祖母殿からはーさんへ、はーさんから子供たちへ……もう一つ……そう、わたしは今、歴史を喰らっているのだ! この上なく素晴らしき、あんころもちの歴史を……! もう一つ)

 と、伸ばした手が空を切り、慧音はハッとする。

(おっと、いかんな。つい夢中になってしまった)

 ふと見ると、手が餡子で汚れている。
 いやはや全く、これでは体面も何もあったものではない。
 慧音は一人照れ笑いを浮かべながら、盆のそばに置いてあった布巾で手を拭う。
 それから湯呑みを手に取り、少し冷めたお茶で喉を潤した。なかなか渋くて慧音好みの味だ。さすがに少々甘ったるくなっていた口の中が、爽やかになる。

「……ふう。いや、それにしても美味しかった。是非ともまた頂きたいものだな」

 満足して呟きながら、慧音はふと横を見た。
 そして、

「……あれ?」

 と、首を傾げる。
 慧音の隣には、盆があった。
 先ほどまであんころもちが山盛りになっていたはずの盆だ。
 今はなぜか、空になっている。
 不思議に思って持ち上げてみたりひっくり返してみたりしたが、あれほどたくさんあったはずのあんころもちは一つも見つからない。
 何故だろう、と首を傾げること数秒の後、

(……やってしまった……!)

 慧音の顔から血の気が引いた。
 手から盆が滑り落ち、カラカラと虚ろな音を立てる。

(バカな……全て喰ってしまったというのか!? わたしが、一人で!? あの量を!?)

 うろたえ混乱して、思わず周囲を見回すが、何も見つかるわけがない。
 事実、その通りだった。
 あのあんころもちは、一つ残らず慧音の腹の中だ。

(何故、途中で止められなかった……!)

 原因はいくつも考えられる。
 酷く空腹だったこと。
 疲れて頭が鈍っていたこと。
 あんころもちがうますぎたこと。

(そんな子供のような言い訳が……!)

 慧音は思わず自分の頭を叩く。
 やってしまった。やってしまった。
 ただその言葉だけが、ぐるぐると頭を回り続ける。

(不覚……! まだ家主に勧められてもいないのに……一つならまだしも、あの量を、全部……こんな短期間で、一人で……!)

 こんな失態を犯したのは、守護者になって以来初めてである。
 このあんころもちを食べるのを楽しみにしていた阿求の笑顔を思い出すと、罪悪感でじくじくと胸が痛む。
 いや、彼女だけではない。
 尊敬の眼差しで慧音を見つめていたはーさんだって、この有様を見たら何と言うか。

(……わたしは、ダメな半獣だ)

 その場にがくりと膝を突き、慧音は悔恨に顔を歪める。

(いかに疲れていたとは言え、食欲を理性で制御できんとは。これでは半獣どころか、ただの獣も同然ではないか……!)

 穴があったら入りたい心境だ。恥ずかしさのあまり消えてしまいそう。
 いっそのこと、なかったことにできないものか。
 あんころもちなんかなかった、と。
 そんな願望がちらりと心をかすめた、そのとき。

「いやー、お待たせしました」

 背後から阿求の声が聞こえてきて、慧音はびくりと肩を震わせる。
 おそるおそる振り返ると、小さな腕で分厚い冊子を何冊も抱えた阿求が、照れたように笑って立っていた。

「すみませんねえ、何分、一緒に見ていただきたい本がこんなにたくさん……あれ?」

 ふと、阿求は何かに気づいたように瞬きした。
 その視線は、慧音の背後。床に転がっている、空のお盆に注がれている。

(終わった……!)

 もはや、言い逃れはできない。
 慧音は死刑宣告を受けた犯罪者のような気持ちで、ふらりと立ち上がる。

「すまない、稗田殿。わたしは……」

 しかし、阿求は予想外の反応を見せた。

「あらー、これは失礼いたしました」

 何やら慌てたように言うと、傍らにどさどさと本を置いて、空のお盆へと歩み寄る。
 呆気に取られた慧音のそばで、阿求は盆を拾い上げ、それで顔を隠しながら決まり悪げに苦笑した。

「すみませんね、掃除が行き届いてなくて……本当にもう、どうしてこんなところに空のお盆なんかが転がっているんでしょうね」
「……は? いや、稗田殿」
「あー、すみませんすみません、すぐに片づけますから。頭突きは勘弁して下さいよ、慧音先生。あ、ほら、お茶でも飲んで待っててください、ね?」

 本物の子供のように可愛らしく首を傾げると、阿求は盆を持ったまま逃げるように廊下を去っていった。
 一人残された慧音は、呆然としてしまう。
 いったい、なにがどうしたというのか。

(……稗田殿は、何故あんころもちのことを尋ねないのだ……?)

 巻物に没頭していて、存在に気がついていなかったのだろうか。
 いや、そうではないはずだ。はーさんがあんころもちを持ってきたとき、阿求は確かに返事をしていた。後で食べるから、と。それに先程、お茶でも飲んで待っていてくれ、とも言っていたではないか。
 お茶の存在は認識できているのに、空の盆に本来入っていたあんころもちが認識できていない。
 明らかに、異常だ。

(忘れている……? あれだけ楽しみにしていた、あんころもちの存在を? そんなことがあり得るのか……?)

 慧音は一人その場に立ち尽くし、悩んだ。
 考えて、考えて、考え続ける。
 そして一つの結論に思い至り、ハッと顔を上げた。

(まさか……わたしの仕業か!?)

 ワーハクタクたる慧音には、人間の姿のときでもある特殊能力が備わっている。
 すなわち、「歴史を食べる程度の能力」である。

(いや、まさか……)

 慧音は一人、ぎこちなく首を振る。
 彼女の能力は、平たく言えば一種の幻術のようなものだ。
 たとえば外敵から里を隠蔽したいときは、里の歴史を隠して「元からここに里など存在しない」と思いこませる。すると相手は本当に、里の存在を認識出来なくなってしまうのだ。
 しかしこれはあくまで、見えなくさせる程度の意味合いに過ぎない。物理的に里を消すのはもちろん、相手の頭から里の記憶を奪うようなことも不可能だ。
 その点、先程の阿求はあんころもちの存在自体を忘れ去ってしまっていたようだ。
 そんなことは、慧音には出来ないはず。

「そうだ、私じゃない。私じゃ……」
『本当にそうかな?』

 不意に、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 慧音はびくりとして、周囲を見回す。

「だ、誰だ……?」
『お前だよ、お前』

 背後からだ。驚いて振り向くと、そこに信じ難い人物が座っていた。

「私……だと……!?」
『そうだよ。お前だよ』

 そこに足を崩してだらけたように座り込んでいたのは、紛れもなく慧音自身であった。
 ただ、今の慧音と同じ姿ではない。頭の両脇から角を、腰の辺りからふさふさとした尻尾を生やした……そう、満月の夜、ハクタクと化して歴史を編纂しているときの慧音がそこにいた。
 ただし目つきは悪いし、表情も何だか下卑たもので、慧音本人とは似ても似つかない。
 なんだか感じの悪い奴だ、と思って慧音が眉をひそめると、悪そうな慧音はくつくつと低い声で笑った。

『冷たいじゃないか、先生。私はお前の心の一部。悪しき心の具現。いわばお前の代弁者なんだぞ』
「わたしの一部……? 馬鹿を言え、わたしは貴様のような下品な奴を心に飼った覚えはない」
『おうおう、言うじゃないか』

 悪慧音は馬鹿にするように鼻を鳴らし、

『さっきは今の私よりもよっぽど下品な顔で、あんころもちを貪っていたくせにな』
「……ッ、それは……!」
『それになあ。もう気づいているんだろう、先生?』
「な、なにがだ……!?」
『お前が私利私欲で能力を使い、自分に都合よく歴史を改変したことに、さ』
「ち、ちがう……!」

 慧音は慌てて首を振った。

「わ、私はそんなことは考えたことも……そ、それに、私の能力ではそこまでのことは」
『おいおい、自分の種族のことを忘れたのか? 半分とは言え、お前はハクタクだ。伝説の神獣だぞ。普段は無意識に抑えつけているだけで、本来ならばその程度の改変は朝飯前なのさ』
「ば、馬鹿な! そんなはずは……!」
『認めろよ。罪から逃れたい一心で、お前は精神のタガと能力の制限を一つ外したんだ。何よりの証拠に』

 と、悪慧音は慧音の耳元で囁く。

『……お前さっき、思っただろ。なかったことにできないか、って』
「ッ……!」

 否定できず、慧音は拳を握りしめる。

「……では、本当に私の仕業だと……! あんころもちを喰らいつくしてしまったことを知られたくない一心で、歴史を歪めてしまったと……!」
『それ以外に今の状況をどう説明するんだ、ん?』
「……馬鹿な……!」

 認めざるを得なくなり、慧音は力なく膝を突いた。
 今日まで、真摯に誠実に生きてきたつもりだった。無論失敗してしまったことや間違ってしまったことは幾度もあったが、自らの意志で悪を行ったことなど一度もなかったのだ。
 増してや、私利私欲で能力を悪用するなどと。

(汚れてしまった……今のわたしは、あんころもち一つで理性を失う、卑しい獣だ……!)

 慧音が激しい自己嫌悪に苛まれ、今にも縁側に倒れ込みそうになったとき。

『……別に、いいじゃないか』

 ぞっとするほど優しい声で、悪慧音が囁いた。

「……なんだと……?」
『いいじゃないか、と言ったんだ。だって、そうだろう? このままで、何の不都合がある? 稗田殿はすっかり忘れてしまっているんだ。お前が口を閉じさえすれば、今日あんころもちを食べようとしたことなど思い出しもしないだろうよ。そうすれば、誰も無用に傷つくことがない』
「だ、だが……!」
『いいからよく考えろ、慧音。黙っていれば何の問題も起きんのだ。あんころもちはまた作ってもらえばいいしな。だが、もしもその薄っぺらい罪悪感を解消するために、真相を告白してみろ。混乱は避けられんだろうし、お前が自在に歴史を改変出来る力を持っていると、広く知られることになる。私利私欲でその力を使ったこともな。そんな奴を、誰が信用する? そんな奴がいる世界で、誰が安穏として生きていられると言うんだ?』
「それは……」

 慧音は答えられなかった。
 実際、悪慧音の言うとおりだろう。一度でもこの力を悪用してしまったら、それを知られてしまったら、もうおしまいなのだ。
 歴史を改変して記憶すら消すことが出来る能力は、あまりにも大きすぎる。
 そんな力を持っている者が卑しい心を持っているとなれば、誰もが疑心暗鬼に陥る。もしかしたら今の自分の思考ですら作り物に過ぎないのではないか、と恐れ、何も信じられなくなってしまうかもしれない。
 そうなったら、人間の里は……いや、幻想郷は、終わりだ。

『……分かったようだな』

 悪慧音は満足そうに言った。

『だから、黙っているのが一番なんだ。なに、嘘も方便と言うだろう。賢者の嘘は善行であると、閻魔様も仰っている。これで丸く収まるのならば、これが一番なのだよ』
「……しかし……」
『お前も分からん奴だな』

 戸惑う慧音に、悪慧音は呆れた声で言った。

『ならばもう一つ言ってやろう。あの女中のことだ』
「はーさんか?」
『そうだ。なかなかいい娘さんだが、気の毒になあ。お前がこのことを告白したら、あの人は尊敬していた上白沢様に裏切られた気持ちで一杯になるだろうよ。それに、事が進めば周りの連中に責められることになるだろうよ。「お前のせいだ、お前のあんころもちがうますぎたせいでこんなことになったんだ!」とな』

 悪慧音は額を押さえて大袈裟に嘆いてみせる。

『ああ、なんと哀れな! 彼女は善意であんころもちをこしらえただけなのに、一匹の意地汚い獣の傲慢で狭量な正義感によって、不幸に人生を終えなくてはならんのだ!』

 ひとしきり言い終え、じろりと慧音を睨み、

『……どうだ、分かったろう。真実を口にしたところで何の得もないぞ。黙っているのが一番だ。小さな悪行が大きな善行へと繋がることもある。これがそれだ。分かるな? いいじゃないか、今回だけで、もう二度と使わなければいいんだから』

 いっそ優しくすらある、悪慧音の声。
 慧音は俯き、唇を噛んで悩む。
 確かに、こいつの言うことは正しいかもしれない。真相を告白したところで、誰も得はしないだろう。
 だが、本当にそれでいいのか?
 己の罪を隠し、偽ったまま生きることが、本当に正しいと言えるのだろうか。

『言えるはずがない……!』

 その瞬間、また別の声が聞こえてきた。
 慧音が驚き、悪慧音が舌打ちをする。
 一体誰だ、と後ろを振り返れば、そこに慧音と同じ姿をした人物が立っていた。
 今度はハクタクではない。今の慧音と同じ、人間の姿。
 何者にも屈せぬほど強く毅然とした表情で、彼女は慧音を睨んでいる。

「お、お前は一体……!?」
『私はお前の善き心。そこの下品な獣の対となる存在だ』

 と、善き慧音は悪慧音をびしりと指さして言う。

『そんなことよりも慧音、もう一度よく考えるんだ。本当に、そいつの言っていることが正しいと思っているのか?』
「……正しいとは、思っていない……!」

 叱責するような善慧音の言葉に、慧音は唇を噛む。

「だが、それ以外に一体どうしたらいいと言うんだ! 罪を償うためには、あんころもちを一人で貪り喰って、それを隠すために能力を悪用した、と告白せねばならない。だが、それを告白すれば酷い混乱を招いてしまう」
『そうだ。だから黙っているのが一番だ。告白して罪を償おうとするのはただの手前勝手な偽善だぞ』

 悪慧音が勢い込んで言うが、善慧音は毅然とした態度で首を横に振った。

『いや、そうではない。むしろ何もかも隠して、今この場を穏便に済ませようとすることが、後々大きな問題を招くのだ』
「どういうことだ?」
『考えてもみろ』

 善慧音は慧音の顔をまっすぐに見つめ、

『今日行った悪行を隠し通せば、お前はあるものを手に入れることになる。それが何か分かるか? 「自分はどんなに都合の悪いことが起きようとも、全てを自分の思うままに改変できる」という実感だ』
「……!」
『その思い込みが何を生むと思う? 独善と傲慢、軽薄さだ。今回のみで二度と使わない、など不可能なことだ。一度その甘美な味を知ってしまえばもう終わりさ。もう一度だけ、もう一度だけ、とやっている内に、お前は自分の思うままに歴史を改変することに何の躊躇いも持たなくなる。そう、さっき欲望に負けてあんころもちを喰い尽くしてしまったときのようにな!』

 叩きつけるような善慧音の言葉に、慧音は雷に打たれたような衝撃を受けた。

(そうだ、その通りだ……私はさっき、この身で自分の弱さを思い知った。彼女の言うとおりになるのは必定ではないか……!)

 想いは一瞬で確信へと変わり、慧音の体に力を蘇らせる。
 腑抜けた四肢に力を込めて、慧音はゆっくりと立ち上がった。厳しく唇を引き結んでいる善慧音の顔を真っ直ぐに見つめ、深く頷く。

「ありがとう、私の善なる心よ。貴方のおかげで、私は正しき道を見出すことができた」
『フフ、礼などいいさ。最初から、こうなることは分かっていたからな』

 善慧音は力強い笑みを浮かべ、慧音に頷き返す。

『いいか、私よ。いかな経緯であろうと、お前が危険な力を持ってしまったのは事実……だがそこから逃げてはいけない。混乱と困難を恐れず、立ち向かうのだ』
「ああ、分かっている。私は必ず、この困難を克服してみせる」
『いい返事だ』
『ちょ、ちょっと待て!』

 慌てたような声で、悪慧音が二人の間に割って入った。

『お前たちは自分が何を言っているのか分かっているのか!? 歴史を改変する力は、この郷には大きすぎる! それを巡って争いが起きる可能性だって……!』
「うるさい!」

 喚く悪慧音を、慧音は一喝した。びくりと震える己の悪しき心に向かって、堂々と宣言する。

「貴様がどんな甘言を弄しようとも、もはや惑わされはしない。私は自ら正しいと思うことを行う。まずはあんころもちを喰らい尽くしてしまったこと、それを隠してしまったことを正直に告白しよう」
『そ、その結果……!』
「その結果!」

 慧音は悪慧音の声を遮り、深く息を吐く。

「……その結果、私の力のせいで混乱や争いが起きてしまったのなら。私はこの力そのものによって、責任を取ってみせよう」
『どういうことだ……!?』
「『歴史を改変する能力』によって、私の存在そのものを世界から抹消する。そういうことだ」
『……!』

 言葉を失う悪慧音の前で、慧音はフッと微笑む。

「……最初から、答えは出ていたんだ。この命は里のために……いや、これから末永く紡がれていくであろう郷の歴史に捧げ尽くすと、遠い昔から誓っていたのだからな」
『だ、だが』
「ええい、うるさい、もう何も言うな!」
『ヒッ』

 慧音は怒鳴り声を上げ、怯む悪慧音にビシリと指を突きつけた。

「大体お前はさっきからなんなんだ、ウジウジと情けない理屈ばかり並べ立てて。気持ちの悪い奴だ」
『だ、だから、私はお前の悪しき心……』
「黙れと言った! 全く、何が悪しき心だ。お前のような気持ちの悪い奴は、これから『きもけーね』と呼んで蔑んでやる!」
『き、きもけーねだと!?』

 悪慧音は悲鳴のような声で叫び、それから目に涙を溜めて抗議してきた。

『お、おいお前、いくらなんでもそれはあんまりだろう! きもけーねだなんて』
「黙れ、きもけーね。わたしはもう何を言っても聞いてやらんからな」
『こ、抗議する権利ぐらい……』
「うるさいきもけーね」
『ちょっと』
「消えろきもけーね」
『そうだ、引っ込めきもけーね』

 何故か善慧音まで便乗して、冷たい声を投げかける。
 二人に蔑んだ目で睨まれた悪慧音改めきもけーねは、しばらくワナワナと震えていたが、

『……グスッ』

 と、不意に鼻をすすり上げたかと思うと、顔を覆ってその場にしゃがみ込み、弱々しい声でしくしくと泣き出した。

『ひ、ひどい、きもけーねだなんて……わ、わたしだって女の子なのに……ッ!』
「っておい、なんかえらく打たれ弱いなお前!?」
『いやいや、悪しき心など所詮このようなものだ。さあ、遠慮なく叩き潰して進むのだ! やーい、きもけーね! お前のかーちゃんでーべーそー!』
「お前はお前で容赦なさすぎだしな!?」

 きもけーねをいじめている善慧音を眺めつつ、慧音は自分の中の正義と悪について一人思い悩む。
 そこへ、

「あのー……」

 と、遠慮がちな声がかかった。
 ハッとして振り向くと、廊下の角からあの女中が顔を覗かせていた。
 何やらぎこちない笑みを浮かべて慧音を見て、

「上白沢様、さっきからお一人で何をなさっているんですか……?」
「む……いや、これは……」

 と、慧音が振り向いてみると、善慧音ときもけーねはいつの間にやら消え失せていた。
 周囲のどこを見回しても二人がいないことを確かめ、慧音は小さく息を吐く。

(……夢、いや幻だったか……道を誤らぬため、私の心が見せた……)

 フッと微笑み、青い空を見上げて目を細める。

「ありがとう、いいけーね、きもけーね……!」
「……上白沢様、大丈夫ですか……? どこか、具合でも」
「はーさん」
「は、はい?」

 心配そうな顔をしているはーさんに、慧音は真面目な表情で向き直った。

「私は、あなたに詫びねばならぬことがあります。いえ、あなたには分からぬことかもしれませんが」
「は、はあ……?」

 はーさんは困惑して、何故か慧音の頬の辺りをちらちらと見ている。
 そんなことに構うこともなく、慧音ははーさんに向かって勢いよく頭を下げた。

「申し訳ありません……!」
「ええっ!? きゅ、急にどうなさったんですか、上白沢様……!?」
「私は、あなたが稗田殿のためにこしらえたあんころもちを、一人で全て食べてしまいました!」
「は……」

 ぽかんと口を開けるはーさんに、慧音は目を伏せながら言う。

「いえ、それだけではありません。私は卑しくも、自分の力を使ってそれを隠そうとさえしました。里を守る守護者として、恥ずべき行いです。全く、言い訳のしようもありません」
「……ええと、あの、慧音様……」
「ええ、きっと訳が分からぬことでしょう。あなたの頭には、今朝あんころもちを作った記憶などないでしょうから」
「は、いえあの、ちょっと」
「ですが、事実なのです。私は許されぬことをしました。詳しいことは今説明しますから、その後……」
「ちょっと、待って下さい!」

 はーさんが急に大声を上げたので、慧音はびっくりして言葉を飲み込んだ。
 目を見開いて彼女を見つめていると、はーさんは申し訳なさそうに身を縮めながら、

「ご、ごめんなさい」
「ああいえ、私の方こそ……」
「でも慧音様、少し落ち着いて、わたしの話も聞いて下さい」
「はあ」

 困惑する慧音の前で、はーさんは小さく深呼吸する。
 それからまた慧音の頬を見て、くすくすと笑い出した。

「どうなさったのですか」
「いえ。だって、慧音様ったら……」

 おかしそうに慧音の頬を指差し、

「気づいてませんか? ついてますよ、餡子」
「……え」

 慧音は思わず、右手で頬を拭う。
 すると、手の甲に黒っぽいものがべっとりと付着した。
 数瞬の沈黙の後、舐めてみると、

「……うまい」
「あら、ありがとうございます」

 はーさんはちょっと誇らしげに笑って、

「その餡子も、お祖父ちゃん仕込みなんですよ。稗田様も好きだって言って下さって、わたし、鼻が高いです」
「はあ。そうなの、ですか」
「ああでも、嬉しいなあ」

 と、はーさんは胸の前で手を合わせ、

「慧音様も気に入って下さったんですね、お祖母ちゃんのあんころもち。口元の餡子に気がつかないぐらい、夢中で食べて下さったんですもの。嬉しいです、わたし」
「ああはい、とてもおいしく……って、え?」

 慧音は数秒ほども目を瞬き、

「……覚えていらっしゃる?」
「何をですか?」
「いえ。あんころもちを作ったことを」
「そりゃあ……今朝のことですもの、忘れるわけありませんよ」
「な、なぜ……?」

 慧音が呆然と問うと、はーさんは腕を組んで首を傾げ、

「なんでしょう。どうもさっきから、話がかみ合ってないような……」

 むむむ、とちょっと考えてから、

「ええと。つまり、なんですか。慧音様は阿求様が席を外されている間に、ついあんころもちを食べてしまったと」
「……そうです」
「それで『やってしまった』と慌てて、つい隠そうとしてしまったと。そういうことですか?」
「……まあ、そのような」
「ははあ、なるほど。そういえば、お盆が見当たりませんものね」

 はーさんは軽く周囲を見回したあと、また慧音を見て、おかしそうに吹き出した。

「ご、ごめんなさい、ついおかしくて」
「まあ、気持ちは分かります」
「ああ、ほんとにごめんなさい。悪い意味で笑ったんじゃないんですよ」

 と、はーさんは好意的な笑みを浮かべて慧音を見上げた。

「そのぐらいのことであんなに真剣に謝って下さるなんて、慧音様はとても真面目で、責任感が強いんですね。やっぱり噂通りの、立派なお方です」
「……どうも」
「あんころもちも、気に入って頂けて嬉しいです。また食べたくなったらいつでも作りますから、遠慮なくお申し付けくださいね」
「……ええ。そうします」

 慧音はドッと疲れを感じて、深々とため息を吐く。
 はーさんはそれを見て、またおかしそうに笑った。

「でも慧音様ったら、よっぽどお腹が空いてたんですね。あの量を全部食べちゃうなんて、驚きです」
「いや、お恥ずかしい。そんなつもりはなかったのですが、あまり美味しかったものですから、つい」
「わー、嬉しい。それ聞いたら、お祖母ちゃんもきっと喜びますよ」

 朗らかに笑うはーさんを見て、慧音もまたぎこちなく微笑む。
 何が何やらよく分からないが、この笑顔を見ていると「まあいいか」と思える。
 結果的には馬鹿げたことだったらしいが、正直に真実を打ち明けようとして良かった、と思った。
 もしもあのまま隠そうとしていたら、これほど穏やかな気持ちで彼女の顔を見つめていることはできなかっただろうから。

「ふふ。慧音様って、真面目なだけじゃなくて親しみやすいお方なんですね。わたし、なんだか安心しました」
「それは……ええと、何よりです」
「はい。これからもよろしくお願いしますね。あれ、だけど……」

 と、はーさんは不意に顔を曇らせた。
 何か納得いかないようなその表情に、慧音は眉をひそめる。

「どうかしましたか」
「ああいえ。ちょっと、おかしいなーと思って」
「何がです?」
「いえ。慧音様、あんころもちを食べちゃったあと、阿求様にお会いしましたか?」
「ええ。資料を持ってきた稗田殿と」

 答えて、気づく。
 そういえば、阿求はあれから一度も戻ってきていないが、どこに行ってしまったのだろう。
 首を傾げる慧音の前で、「じゃあやっぱりおかしいですねえ」と、はーさんは腕を組む。

「おかしい、と言うと?」
「いえ。阿求様って、親切ですけどちょっと悪戯好きなお方ですから。口に餡子くっつけた慧音様を見たら、絶対からかわられると思うんですけど……」

 その言葉を聞いて、慧音はようやくピンと来た。

(……ああ、なるほど)

 どうやら本気で頭が回っていなかったらしいな、と自嘲する。

(……そういうこと、か)

 考えてみれば、ここは幻想郷に古くから存在する稗田の屋敷だ。
 好きな対象に妙な幻を見せる呪具ぐらい、あってもおかしくはない。

(はめられた……!)

 壁を殴りつけたくなるような衝動を堪え、慧音はバッと後ろを振り向く。
 そこには稗田邸内の一室へと続く障子があって、よくよく見てみると、ご丁寧にも障子紙の隅っこに小さな穴が空いていた。
 指先に唾をつけて空けたと思しき、新しい穴だ。

「はーさん!」
「は、はい!?」
「ちょっと、失礼します!」

 慧音は叫びながら、目の前の障子を勢いよく引き開ける。
 そして、笑いすぎて呼吸困難に陥ったらしく、白目を剥いて気絶している阿求を前に、果たして今の自分に頭突きを喰らわせる権利があるだろうか、と小一時間悩むことになった。



 <了>
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