【東方SS】幽香はもう限界だと思った

2010/3/29に東方創想話に投稿したSSです。
話がある程度繋がっておりますので、先にメディスンが人を毒殺した話からお読み頂けると幸いです。
 


『幽香はもう限界だと思った』



「メディ、ほっぺにおべんと」

 幽香はくすくす笑いながら、テーブルの向かい側へと手を伸ばす。きょとんとしているメディスンの頬からハンバーグの欠片を摘み取り、そのまま口へと持っていく。
 途端にメディスンが「あーっ」と叫んで立ち上がり、

「ちょっと幽香、何すんの!」
「何が」
「後で食べるつもりだったのに!」
「何言ってんのこの子は」

 幽香が呆れて笑うと、メディスンは唇を尖らせてそっぽを向き、

「なにさ、幽香の食いしん坊」
「それはあんたでしょ。ごちそうさまでした」

 幽香が空の食器を前に手を合わせると、メディスンは目を丸くした。慌てて眼前のお椀に向かって手を伸ばし、もの凄い勢いでご飯をかき込み始める。幽香はテーブルに頬杖を突いて苦笑した。

「そんな急がなくてもいいから、ゆっくり食べなさいよ」
「やだっ」

 叫んだ瞬間メディスンの口からご飯粒が飛んできたので、幽香は指で受け止めてそのまま毒人形の唇に押しつけてやる。それをぺろりと舐めとって、メディスンは鼻息も荒く言った。

「今日はわたしが片づけるんだもん。ごちそうさまでした!」

 手を合わせて跳ねるように椅子から下りると、背伸びしてテーブルの上の食器を集め始める。ガチャガチャ鳴らしながらの危なっかしい動作に、幽香はつい苦笑してしまう。
 普段はご飯が終わるや否や早々に遊びに出かけてしまうメディスンが急にこんなことを始めたのには、もちろん理由がある。
 先日、いつものように永琳の研究の手伝いという名目で永遠亭に行った際のこと。メディスンは、自分よりも小さな妖怪兎が食事当番である鈴仙の手伝いをしているところを、じーっと見つめていたらしいのだ。一生懸命食器の片づけをしたその妖怪兎が、鈴仙に頭を撫でてもらっているところまで、一部始終。

「近々、急にお手伝いをしたがるかもしれませんが、不審がらずに優しく見守ってあげて下さい」

 と、永琳が連絡ノートに書いていてくれたので、幽香としても必要以上にからかったりすることなく、メディスンを見守ってやれているわけだ。
 とは言え、やはり心配なものは心配だ。メディスンは平皿も丸皿も関係なく、バランスなど全く考えず適当に重ねている。当然食器の山はぐらつくので、ヨタヨタしながら台所に向かって歩いていく。「おわっ、とと」と声を漏らして彼女がふらつくたび、目を瞑りそうになる。
 つい「気をつけなさいよ」だの「落とさないでよ」だのと言ってしまいそうになるのを、幽香は寸でのところで堪えた。言ってしまえば気を散らせてしまうし、メディスンがへそを曲げてしまう可能性もある。ここは我慢の一手だ。
 そうして幽香がエプロン越しに胸を押さえてハラハラと見守る内に、メディスンはようやく台所へと辿りついた。もちろんそう大した距離ではないが、メディスンにとっては初めての大冒険である。彼女が背伸びをして、食器の山をそっと台所に下ろすと、二人の口からどちらからともなく深い吐息が漏れた。
 そうして幽香がふと顔を上げると、メディスンが肩越しにちらちらとこちらを見ていた。幽香の視線に気づくと、慌てて前を向いて何でもない振りをする。しかし後ろに組まれた手やつま先立ちになった左足は、何かを待つようにもじもじと動いている。
 幽香は思わず駆け寄りたくなったが、ぐっと堪えた。落ち着け、と心に言い聞かせながら静かに立ち上がり、穏やかな足取りでメディスンに歩み寄ると、彼女の頭にそっと手を乗せる。

「はい、よくできました」

 柔らかに囁きかけながら頭を撫でてやると、メディスンはこちらを見上げてはにかんだように笑った。



 朝食を終え、メディスンが準備するのを待って、幽香は一緒に別荘の外に出た。今日も空は幻想郷にお似合いな快晴で、春らしい暖かなそよ風が吹き抜けていく。

「メディ、忘れ物はないわね?」
「大丈夫だよ」
「向こうに行ったら挨拶を忘れずにね。靴を脱いだらちゃんと揃えて上がること。それから」
「騒いだりいたずらしたりしないこと!」

 先回りして言ってから、メディスンは腰に両手を当てて頬を膨らませた。

「もう。何度も言わなくたって分かるってば。毎回言ってんじゃん、幽香ってば」
「毎回言わないと忘れるでしょ、あんたは」
「それも毎回言ってるー」
「あら、そうだったかしら?」

 幽香がとぼけてみせると、メディスンは口元を手で押さえながらにたっといやらしく笑って、

「幽香ってば、歳取りすぎてボケたんじゃいたたたたたっ、ギブ、ギブ!」
「お黙り。全く、どこでそういうこと覚えてくんのかしらこの子は」

 ため息を吐きながら、幽香はメディスンの首に回していた腕の力を緩める。ケホケホせき込むメディスンに笑いかけながら、

「ともかく、失礼のないようにね。永琳にもよろしく。贈り物もちゃんと渡してちょうだい。寄り道しちゃだめよ」
「もう、いちいち口うるさいってば。じゃ、いってきまーす」
「いってらっしゃい。気をつけるのよ」

 元気に走り出すメディスンを、幽香は軽く手を振って見送る。彼女の背が見えなくなるのを待って、「さて」と呟いて別荘への帰路を歩き出す。
 花の大妖怪風見幽香が、毒人形のメディスン・メランコリーと一緒に暮らし始めてから、早三ヶ月ほどの月日が経過しようとしている。その間幻想郷は概ね平和なもので、二人の生活にもさほど大きな問題は起きていない。
 永琳の研究を手伝うために永遠亭へと通うメディスンを見送るのも、今はもうすっかり慣れたものだ。永琳と情報を交換するための「連絡ノート」も、先日めでたく二冊目へと突入したところだ。
 今二人が暮らしている別荘の中にも、メディに関係する物品がかなり増えた。家の各所には鈴蘭の鉢が置かれているし、枕や食器なに洗面用具など、生活用品も増える一方だ。いつか着せてやろうと思っている幽香お手製の服やドレスも、そろそろクローゼット一杯になりそうなぐらいにたまってきた。素人仕事ではあるが、きっとメディスンによく似合うだろうと思っている。
 幽香は別荘に入ると扉を閉め、ふっと息を吐いた。メディスンは寄り道などしない限り、昼を少し過ぎた頃には帰ってくるはずだった。それまでに食器を洗って掃除をして洗濯もやって、昼食を用意しておいてやらねばならない。
 今日のお昼はスパゲティミートソースだ。これもハンバーグと同じくメディスンの大好物で、制止も聞かずに夢中で食べるものだから口の周辺がソースでベトベトに汚れるのが常だった。それを見て幽香が笑うと、メディスンは一瞬きょとんとしたあと慌てて口の周りを拭い、唇を尖らせてこちらを睨みつけてくる。
 その光景を思い出すだけでついニヤケてしまう。

(かわいいんだから、もう)

 幽香は頬を緩めたまま台所へと向かい、洗い物の傍ら鼻歌混じりにポットで湯を沸かして紅茶の準備をした。
 一通り片づけると、エプロンを外して椅子にかけつつ、腰掛けて紅茶をカップに注ぐ。
 そうして一口啜って、幽香はフーッと長い息を吐いた。無言で微笑んだままポットとカップを脇に押しやり、両手で頭を抱えながら、

「……なにやってんだわたし……!」

 唸るように呟いた。激しく頭をかきむしりつつ顔を歪めてぎりぎり歯ぎしりし、「うがーっ」だの「ぐおーっ」だのと叫びながら、テーブルに向かって何度も頭突きを喰らわせる。それでも衝動が治まらないので椅子を蹴って立ち上がり、獣のように吠えながら足音高く別荘中何周も何周もうろつき回る。
 そうして再びテーブルに戻ってくると、疲れきって盛大にため息を漏らし、頬杖を突きながらぶつくさと呟いた。

「全く。花の大妖怪風見幽香ともあろう者が、一体何をやっているのかしら。可愛げのない毒人形のガキと親子ごっこやって、ほっぺにおべんとでお手伝いでよくできました?」

 今日の自分の行動を思い返して、幽香はぞっと身震いする。
 最近どうもメディスンの無邪気さに引きずられていたが、本来の幽香は泣く子もショック死する大妖怪なのである。妖怪は怖がられてナンボ、畏れられてナンボだ。
 最近は幻想郷が平和になったおかげもあって血みどろの戦いなどは久しく経験していないが、これでもまだまだ現役のつもりだ。丸くなったつもりなどさらさらない。

「どうかしてるわ全く。エリーやくるみ辺りに見られでもしたら何を言われるか」

 今も本拠である夢幻館を守っているであろう従者たちの顔を思い出し、幽香はため息を吐く。
 ともかく、お遊びはもう終わり。幽香は意識して獰猛に唇をつり上げた。

「そうよ。今までの生活はあれね。ちょっと息抜きしてたっていうか。冬に葉を落とした木々が春を迎えて再び花を咲かせるための、準備期間……いわば蕾の状態だったわけよ。子供好きの優しい幽香お姉さんというふ抜けた時間に蓄えた栄養を糧に、明日からは以前よりもさらにグレードアップした最凶の風見幽香が開花を遂げるってわけ。霊夢も魔理沙も、もちろんあのババァも目じゃないわねこれ」

 自分に言い聞かせるように喋り、幽香は満足げに深く頷く。
 そうと決まれば、まず手始めにあの無邪気な毒人形を恐怖のどん底にたたき落とし、手駒として利用すべく徹底的な調教を施してやらねばなるまい。幽香は余裕の笑みを浮かべて目を閉じ、イメージトレーニングを開始した。



『ただいまーっ』

 元気に扉を開けて帰ってきたメディスンを待っているのは、ピシリと唸る幽香の鞭だ。優しい母の突然の凶行に、娘は一瞬硬直し、ぎこちない笑みを浮かべるだろう。

『ど、どうしたの、幽香……お顔怖いよ』
『お黙り』

 しかし幽香は動ずることなくさらに鞭を唸らせ、びくりと震えるメディスンをサディスティックな微笑と共に見下ろすのだ。

『お遊びの時間はもう終わりよ。残念だったわねえ、お嬢ちゃん……』
『な、何を言ってるの、ねえ、幽香』

 まだ信じられずに手を伸ばしてくるメディスンに、幽香はまたも高く鞭を鳴らし、

『お黙り! たかが毒人形風情が、よくもこの幽香様に対して散々無礼な口を利いてくれたわね? これからたっぷり躾ていい子にしてあげるから、楽しみにしてなさいよ?』

 と、高圧的に言ってやれば、メディスンは間違いなく、

『幽香ぁ……そんな、嫌だよぉ……』

 と泣きじゃくるだろうから、そこですかさず、

『なーんて、嘘、嘘。冗談よ。ビックリした?』

 ぽいっと鞭を放り出して我が子を抱きしめてやるのだ。そうすればメディスンは目を丸くしながらも頬を膨らませ、涙目でポカポカと胸を叩いてくることだろう。

『もう、やっぱり冗談だったんじゃない! なによ、幽香の意地悪!』
『ふふ。ごめんねえ、メディの泣き顔があんまり可愛かったものだから』
『わたし泣いてないもん!』
『あら、そう? わたしはてっきり』
『もーっ! 泣いてないったら泣いてないの!』
『はいはい、分かりました。さ、お昼ご飯にしましょうねー。今日はメディの大好きなスパゲティミートソースよ』
『え、本当!? やったーっ!』
『あらあら、泣いた鴉がもう笑った。現金なんだから、この子ったら』



「……きっとこうなるわね、うふふ。でもって、メディはいつも通りミートソースで顔中ベトベトにするはずだからわたしはそれを拭き取ってあげて、拗ねるメディの顔を見てまた大笑い……って、ちがぁーうっ!」

 幽香はまたもテーブルに頭突きをかまし、ついでに椅子の背もたれにかけてあったエプロンをひっつかんで床に叩きつけた。しかしすぐにはっとして、慌ててエプロンを拾い上げる。幸い、皺などはついていないようだ。念のため細かい埃なども払っておく。メディスンが帰ってきたとき、しわくちゃのエプロンを見て何かあったのではないかと心配したりしたら大変だ。

「……ともかく、このままじゃいけないわね」

 壁際のハンガーを取って丁寧にエプロンを掛けながら、幽香はコホンと咳払いをする。

「要するに、闘争本能を再び蘇らせる必要があるわけよ。今のわたしはちょっと……ほんのちょっとばかし、穏やかになりすぎているみたいだからね。となると……」

 幽香は一度別荘の外に出てキョロキョロと周囲を見回し、念のため周囲の妖気も探る。
 そうして誰もいないことを確信すると、再び別荘の中に戻る。リビングのクローゼットの引き出しに隠してある鍵束を取り出し、奥へと進む。短い廊下の先には隠し扉があって、そこを開ければもう一枚、無数の錠と何重もの結界で厳重に封印された扉が現れた。
 それらを一つ一つ丁寧に解除し、幽香は扉を開く。その先には地下へと下る長い螺旋階段があり、幽香は闇の底へ向かってゆっくりと降りていく。

「……ここに来るのも随分久しぶりだわ」

 呟いたとき、ちょうど階段が終わった。妖火を灯すと、そこは小さな部屋になっている。地上と違って殺風景で物々しい雰囲気の部屋で、内部には拷問器具やらトレーニング器具やらがズラリ。
 その一つ一つを、幽香は目を細めながら懐かしい思いで見回した。そんな風に感じてしまうぐらい、長いことここを訪れていなかった気がする。それだけストレスが溜まらない生活を送っていたということだろう。
 幽香は部屋を横切り、中央の壁の前で立ち止まる。そこには、幽香がそこそこの力で殴っても壊れない、特製のサンドバッグが吊してある。ずっと前に河童の娘に作らせた品である。笑顔で頼んだら震えながら「タダでいいです!」と言ってくれた、とても親切な子だった。今度また何か頼みに行こうと思っている。

「さて、と」

 幽香は呟き、眉値を寄せて腕を組む。
 サンドバッグをひたすら殴る、というのは、単純ながらも闘争本能を復活させるという点ではいい方法のように思える。しかし、ただ殴るだけでは少し不足のような気もした。

「となると、あれね」

 幽香は部屋の隅にあるロッカーに歩み寄り、中から筒状に丸められた写真を取り出した。幽香の背丈と同じぐらいの大きさのそれは、かなり引き伸ばされた写真である。被写体は、艶めかしいポーズを取りながらこちらに向かって投げキッスをしている八雲紫。見ているだけで殴りたくなってくる傑作だ。これを撮ってきてくれた天狗によると、「おだてたら割とノリノリで撮らせてくれた」だそうである。

「ったく、どうしようもないババァよね」

 せせら笑いながら、幽香は写真をサンドバッグに貼り付ける。予想通り、誰もが殴らずにはいられない素晴らしい発明品が完成した。
 これぞ幽香が考案した、命名「サンドババァッグ」である。商品化したらストレス解消用品としてバカ売れ間違いなしだ。
 ちなみにこの写真を用意するよう頼んだとき、相手の天狗は顔をひきつらせながら「幽香さんってそういう趣味がおありだったんですか」と言っていた。幽香のあまりの残虐さに恐れをなしたのだろう。気分が良かったので「ええそうよ、あなたもよく覚えておくことね」と言ってやったらまた青い顔で震えていた。

「ふふ。ちょっと怖がらせすぎちゃったかしらね」

 あのときの天狗の表情思い出すと、背筋がゾクゾクと震えてくる。やはり自分の本分はこちらなのだな、と満足しながら、幽香はボクシンググローブを手にはめる。

「さってと……死ねやババァッ!」

 まずは手始めに軽いジャブを百連打ほど。投げキッスをしている紫の顔が面白いほどグシャグシャになった。幽香は気分を良くして、次々に拳打を叩き込む。三分もしない内に、紫の写真は細切れになった。
 しかし、問題はない。こんなこともあろうかと、天狗には百枚ほど焼き増しをもらっておいたのだ。ちなみに頼んだとき、天狗はぎょっとしながら「そんなに使うんですか!? いくらなんでも好きすぎるでしょう!」と恐れおののき、「まあその、心ゆくまでお楽しみください」と泣きそうな笑顔で言っていた。自分にも被害が及ばないかと怯えていたのだろう。

「ふふふ、その通り。お楽しみは、これからよ!」

 両手にはめたグローブを打ち合わせ、幽香は頭の中でゴングを鳴らす。新たに貼り直した写真が細切れになるまで、今度は一分もかからない。
 そうして幽香が満足するまでに、実に二十人ほどの紫が細切れの残骸と化したのであった。



 十分に闘争本能を取り戻したと確信した幽香は、実に満ち足りた気持ちで地下室を抜け出した。別荘の窓際に歩み寄れば、頭上は相変わらずの快晴である。新たな開花の日にはぴったりの空模様。幽香は深い充足感と共に目を細める。全身に気力が満ちていた。

「さて、と」

 呟き、幽香は再び別荘の奥へと戻る。隠し扉を開け、地下室へと通じる扉に結界を張り直し、錠を一つ残らず掛け直す。そうしてまた隠し扉を閉め、周囲の壁と見分けがつかないことを確認すると、満足して一つ頷いた。

「これでよし、と。間違ってメディがあの部屋見ちゃったら、教育に悪いものね」

 ともかく、これで準備は万端となった。これならば確実に、あの毒人形に新たな力関係を叩き込んでやれるだろう。
 花の大妖怪大復活の瞬間を想像して、幽香は一人ほくそ笑んだ。



 そうして家事を終え料理の支度を終え、鞭を隠し持った幽香は入り口の扉の前に立った。
 時刻はもうとっくに昼を過ぎている。何事もなければ、メディスンはそろそろ帰ってくるはず。手に持つ鞭を軽く鳴らして、幽香は舌なめずりをする。

「さあ帰っていらっしゃい、わたしの可愛いお人形ちゃん。今日はたっぷり愛してあげるわ」

 嗜虐的な笑みを浮かべて、幽香はじっとメディスンの帰りを待つ。
 しかし何分経っても、扉は一向に開かなかった。怪訝に思って別荘の外の妖気も探ってみたが、メディらしき気配は一向に感じられない。
 十分が過ぎ、幽香は小さく舌打ちした。

「また寄り道してるのね。全く、何度言ってもあの子は。今日こそは徹底的に教え込んで上げないと」

 二十分が過ぎ、幽香は苛立ち紛れに髪をかき上げる。

「本当に何やってんのかしら、あの子。料理が冷めちゃうじゃない」

 三十分が過ぎ、幽香は爪を噛みながら落ち着きなくうろつき回る。

「おかしいわ。いくら何でもこんなに遅く……まさかどこかの変態妖怪にでも襲われて……」

 一時間が過ぎ、幽香は血の気の引いた顔でドアノブに手をかけていた。

「待っててメディ、今助けに……!」

 しかし扉を開ける直前、幽香はかすかにメディスンの妖気を感知した。丘を登り、ゆっくりとこちらへ近づいてきている。
 ほっと安堵の息を吐き、幽香はドアノブから手を離した。目尻に溜まった涙を拭い、また嗜虐的な笑みを浮かべる。

「ふふ。全く無防備ね、あの毒人形ちゃんは。自分にどれだけ過酷な運命が待ち受けているとも知らずに……無邪気なものだわ」

 笑いながら、幽香はまたピシリと鞭を鳴らす。そうしてからふと眉をひそめ、さらに何度か鞭を鳴らした。
 少し考え、壁際のクローゼットの一番下の引き出しに鞭をしまい込むと、代わりの品を取って戻ってくる。
 いつだか道端で拾った、ソフトビニール製の玩具のバットである。試しに壁を叩いてみると、ポコンポコンと気の抜けた音がした。

「最初はこの辺から始めるべきよね、うん」

 満足して頷き、幽香は扉の前に立つ。もうすぐ、メディが元気に扉を開けて入ってくるはずだ。そしたらすかさずポコンと頭を叩き、それを新たな日々の始まりのゴングとしてやろう。

「ふふふ、さあいらっしゃい、メディスン……ん?」

 幽香はふと、眉をひそめる。
 扉の向こう、メディスンの妖気はいつもよりもかなりゆっくりとこちらに向かって近づいてきている。それだけでも十分おかしいのだが、さらにおかしなことに、感じられる妖気が一つだけではなかった。メディスンの後ろに、妖気が五つほど追従している。
 妖怪、ではない。うっかりすると見落としてしまいそうになる、微弱な気配だ。

「……妖精、かしら?」

 幽香が首を傾げたとき、メディスンの気配が扉のすぐそばまで辿り着いた。しかし、扉はなかなか開かない。何か、躊躇っている様子だった。

「どうしたのよー」
「早く開けてよー」
「うるさい、分かってるわよ」

 扉の向こうから、はやし立てるような甲高い声と、メディスンの怒鳴り声が聞こえてくる。
 さらに少しの間を置いて、ようやくドアノブが回された。遠慮がちに少しだけ扉を開き、メディスンがおずおずと顔を見せる。
 何か、困っているような表情だった。

「おかえり、メディ」

 玩具のバットを後ろ手に隠しつつ、幽香は微笑みと共にメディスンを迎える。

「ただいま、幽香」

 いつもの元気が嘘のように、メディスンがぼそぼそと言う。扉の影に隠れたままもじもじしていえ、なかなか中に入ってこようとしない。
 さすがに少々焦れったくなり、幽香は柔らかな口調で問いかけた。

「どうしたの、メディ。後ろにいるのはお友達かしら?」
「う、うん」

 メディスンは躊躇いがちに頷いて、ゆっくりと扉を開く。すると、彼女の背後に隠れた小さな妖精たちが五人ほど、興味津々にこちらをのぞき込んでいるのが見えた。一応顔見知りであるチルノや大妖精ではない。どれも見たことのない顔だった。

「メディ」
「な、なに?」

 幽香がため息を吐くと、メディスンがびくりと震えた。

「なに、じゃないでしょう。急にこんなにたくさん連れてこられても困るわよ。何の準備もしてないのに」
「だ、だって」

 メディスンは俯き、口の中で何かモゴモゴと呟いている。よく聞こえず、幽香は眉をひそめる。
 だが、文句を言おうとしたとき、別の声が耳に届いた。

「ほら、やっぱりー」
「怖い人なんだよ」
「早く逃げなきゃー」

 高い声音のひそひそ話。幽香がそちらに目を向けると、メディスンの背中から顔を出していた妖精たちが、慌てた様子で首を引っ込めた。
 幽香は腕組みをし、首を傾げる。

「どういうことなの? 説明してご覧なさい」
「ん。うんと、ね」

 メディスンはたどたどしい口調で、つっかえつっかえ説明する。



 永遠亭から帰ってくる途中、道ばたでこの妖精たちが遊んでいるところに出くわしたらしい。顔見知りではなかったがあちらから話しかけてきて仲良くなったので、しばらくの間かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだらしい。
 ところが一時間ほど経って、メディスンは自分が家に帰る途中だったのを思い出した。
 それで慌てて帰ろうとしたところ、妖精の一人にどうしたのかと問われたのだそうだ。

『あのね、わたしお家帰らなくちゃいけないの』
『どうして? まだお昼だよ』
『そうなんだけどね。幽香がお昼を用意してくれてると思うから、遅れると怒られちゃうの』
『ええっ、幽香ー!?』

 妖精たちは酷く驚き、口々に、

『あんたあんな怖いのと一緒に住んでるのー?』
『信じられなーい』
『大丈夫ー?』
『騙されてるんじゃないのー?』

 別段からかったりするでもなく、むしろ本気で心配している口調だったらしい。
 だがそれ故にかえって面白くなく、メディスンは頬を膨らませて、

『そんなことないもん、幽香優しいもん!』

 それからはもう怖いの怖くないのと押し問答になり、終いにはだったらみんなで幽香の別荘に行って実際に確認しよう、という流れになったのだそうな。



「……あんたねえ」

 話を聞き終えた幽香がため息を吐くと、メディスンはスカートを握りしめて俯いた。

「だって」
「だってじゃないでしょう。いくら非力な妖精が相手だからって、今日会ったばっかりの相手を家まで連れてくるなんて。これがいい人面してメディを狙う悪い奴だったらどうするの?」
「だって、だって!」

 メディスンはぎゅっと目を瞑り、

「だってわたし、嫌だったんだもん!」
「嫌って、なにが」
「幽香が悪い奴だって思われてるのが!」

 必死の叫びに、幽香は数瞬声を詰まらせる。
 だがまたあの妖精たちがメディスンの背中から顔を出し、不安そうにこちらを見つめているのに気が付いて、コホンと一つ咳払いをした。

「……まあ、そういうことなら、しょうがないわね」
「え?」

 目を丸くするメディスンから顔を背けつつ、幽香は「あー」と居心地の悪さを感じながら言う。

「ええと、なに? ほら、メディが友達を家に連れてくるなんて初めてだし……うん、あれよ。記念日ってことでまあ、許してあげなくもないわ」
「本当!?」

 ぱっと顔を輝かせるメディスンに、「ただし」と幽香は指を突きつける。

「ただし、この子たちのお世話はあんたがするのよ、メディ」
「え、お世話?」

 驚くメディスンに、「そう」と幽香は頷く。

「見たところ、チルノや大妖精みたいに力の強いのはいないみたいだし……中身の方も、あんたより幼い子ばっかりらしいしね。要するに、この中じゃあんたが一番お姉ちゃんだってことよ。お世話してあげるのは当然でしょう?」
「お姉ちゃん……」

 メディスンの表情が見る見る内に真剣なものへと変わっていく。きりりと眉を引き締め、決意の眼差しで幽香を見上げながら、力強く頷く。

「分かった! わたし、頑張ってこの子たちのお世話するよ!」
「……そう。まあ、せいぜい頑張りなさいよ」

 口元がひきつりそうになるのを必死にこらえながら、幽香は重々しく頷き返す。

「ところで、幽香?」

 と、メディスンが不思議そうに首を傾げながら、

「それなに?」
「え?」

 見下ろすと、後ろ手に隠していたはずの玩具のバットを思い切り前に出してしまっていた。
 幽香は慌ててそれを隠しながら、ぎこちなく笑い、

「いえ、何でもないのよ、何でも。ええと、お昼は温め直してあげるから、この子たちと一緒に食べておきなさいな」
「うん。あれ、幽香は食べないの?」
「わたしはちょっと、奥の方でいろいろと準備があるから。ともかくよろしくね、メディ」

 術で昼食を温め直し、幽香は例の地下室へと向かった。



「ウガァァァァァァッ!」

 サンドババァッグに鉄拳をたたき込んで紫の顔を凹ませ、幽香は一人悶絶気味に頭を掻きむしる。

「なにやってんだわたしは……! これじゃまるっきりいつもと変わんないじゃないの……!」

 ぶつぶつ呟き地団太踏み踏み、幽香はイライラと小部屋の中を歩き回る。
 しばらくしてようやく少しだけ気分が落ち着いてきたので、小さくため息を吐いた。

「まあいいわ。ちょっとペースを乱されちゃったけど、問題ないはずよ。むしろここでわたしが豹変すれば……メディを泣かさないようにしつつ……」

 頭の中で計画を練り直しつつ、幽香は地上へと戻る。
 また地下室の扉を厳重に閉じ直し、こっそりリビングを覗いてみると、メディスンたちはちょうど食事を終えたところらしかった。

「ほらー、自分が食べた分は自分で片づけるのよーっ」
「えー」
「面倒くさーい」
「いいから片づけるの! 幽香は優しいけど怒ったら怖いんだからね!」

 何やらやたらと張り切っているメディスンの声に促され、妖精たちが各々の皿を持って渋々と動き出す。全員完食してくれたらしく、皿には何も残っていない。
 そうして皆がワイワイと台所に向かっていく中、幽香はふと、床の上に物入れの小箱やら箱型の調度品やらがひっくり返されているのに気が付く。椅子が二人分しかないことに困ったメディスンが、即席のテーブルをこしらえてやったらしい。

(あらあら、なかなかいいお姉ちゃん振りじゃない)

 台所で「その皿はこっちに置いて」だのと指示を飛ばしているメディスンの小さな背中を見つめながら、幽香は小さく微笑む。
 だがすぐにはっとして慌てて首を振り、

(いけないいけない、これじゃだめだわ。全く、優しい妖怪だと思われるなんて、冗談じゃない……!)

 幽香は意識して怖い顔を作ると、リビングに足を踏み入れた。妖精の一人がその足音に気付いて振り向き、慌てたように友達の服を引っ張っている。

(怖がってる怖がってる)

 内心満足しながら、幽香はメディスンの背後に立つ。

「あ、幽香!」

 メディスンが嬉しそうに振り返り、得意げに胸を張った。

「どう、わたしちゃんとみんなに食べさせてあげたし、皿も全部片づけたよ!」
「はい、よくできましたー」

 あっさりと相好を崩してメディスンの頭を撫でそうになり、幽香はまたはっと正気に立ち返る。

(駄目よ幽香、心を鬼にするのよ!)

 自分に必死に言い聞かせつつ、幽香はまた厳めしい顔を作る。「どうしたの?」と不思議そうにしているメディスンを見てまた頬が緩みそうになるのを堪えつつ、

「ところで、メディ」
「なに?」
「わたしの分は、残ってないのかしら?」
「あ」

 メディスンが口を半開きにする。最初から二人分しか用意していないのだ。それをメディスンとここにいる妖精五人で分けたら、それだけで無くなってしまっても当然だろう。
 だが、今の幽香にとっては好都合だ。ここを起点にメディを責め立て、恐怖の大妖怪風見幽香の存在をこの場の全員に刻みつけてやればよい。

「あの。えっと、わたし……」

 メディスンが弱り果ててオロオロと周囲を見回すのを、幽香は無言のままじっと見下ろす。周囲の妖精たちも、怖くなったのか互いに身を寄せ合い、泣きそうな顔でこちらを見つめている。
 その視線を肌に感じ、幽香はゾクゾクと背筋を震わせた。

(いいわいいわ、やっぱりこうでなくっちゃね……!)

 さらなる追い打ちをかけようと、幽香が口を開きかけたのと同時に、

「幽香、ごめんなさい!」
「許すわ」

 言ってしまってから、あ、やばい、と思う。しかし時既に遅し。一度出した言葉は引っ込められず、幽香は妖精たちの驚きの眼差しを感じながら、ひきつった笑みを浮かべてメディスンの頭を撫でた。

「いいのよ、メディ。二人分しかなかったんだもの、この人数で分けたらあっという間に無くなるに決まってるわ」
「でも、わたし、幽香のこと全然考えてなくって……」

 メディスンは涙目で口ごもる。幽香は苦笑混じりにしゃがみ込み、毒人形と視線を合わせながら、

「いいのよ。メディが張り切ってた証拠だもんね。次にこういう機会があったとき、気をつけてくれればいいわ」
「……うん。ごめんね、幽香。お腹空かない?」

 心配そうに言うメディスンに、幽香は微笑みを返してやる。

「大丈夫。一食抜くぐらいどうってことないわ」
「でも」
「あ、そうだわ。それなら」

 名案を思いつき、幽香は立ち上がりながら手を合わせた。

「これからみんなにおやつ作ってあげましょうか。苺のショートケーキ」
「え、ケーキ!?」

 妖精たちが歓声を上げて近づいてきた。

「ほんと、ほんと!?」
「おねーさん、ケーキ作れるの!?」
「すごーい!」

 先ほどのやり取りを見たためかそれともケーキの効果か、妖精たちはすっかり幽香への警戒心を無くしたらしかった。目を輝かせて口々にはしゃいだ声を上げつつ、幽香にまとわりついてくる。

「ね、ね、あたちの苺一番おっきいのにしてね!」
「あ、ずるいー!」
「わたしのも、わたしのも!」
「はいはい。ちゃんとみんなのに大きい苺乗せてあげますからね」
「やったーっ!」

 妖精たちが一人残らず万歳する。幽香が微笑んでいると、誰かがスカートの裾を引っ張った。何かと思えば、少し恥ずかしそうな顔をしたメディスンが何か言いたそうにこちらを見上げていた。

「どうしたの?」

 幽香がまたしゃがんで耳を寄せると、メディスンは妖精たちには聞こえないようなぼそぼそとした声で、

「わたしの苺も大きいのにしてくれる?」
「何を言うかと思ったら」

 幽香は苦笑しながらメディスンの頭を撫でてやり、

「当たり前でしょう。お姉ちゃんだから我慢しなさい、なんて言わないわよ」
「ホント? やった」

 メディスンが顔を輝かせ、妖精たちと一緒になってはしゃぎ出す。
 幽香は微笑みながらそれを見つめ、

(……って、違うだろが!)

 内心で自分に叫びながら、両手で頭を抱えた。

(なにほのぼのしてんのわたし!? ここは『苺の代わりにお前らの生首をトッピングしてやんよ!』とかやる場面でしょうが! くそっ、しくじった……! こうなったらあれね、スポンジ作るときに『お前らも一緒に泡立ててやらぁっ!』とボウルの中に妖精どもをちぎっては投げちぎっては投げ……)
「幽香?」

 不意に声をかけられて、幽香ははっとする。メディスンと妖精たちが、不思議そうにこちらを見上げていた。

「ああいや、なんでもないのよ」

 慌てて居住まいを正しながら、幽香は咳払いをしてから言う。

「とにかく、今から作ってあげますからね。出来上がるまでの間、みんなはお外で遊んでいなさいね。ああ、お花に悪戯したら駄目よ。そんなことする子には、ケーキ食べさせてあげませんからね」
「はーい!」

 元気に返事をして、妖精たちがバタバタと外に飛び出していく。やれやれ、とため息を吐き、さてどうしたものか、と幽香は爪を噛みながら考える。いっそケーキにトリカブトの毒でも仕込んでやろうか、と考えたが、

「幽香」

 と、何故か残っているメディスンに声をかけられて、物騒な思考は一度中断させられる。

「あら、どうしたのメディ。あなたもあの子たちと一緒に遊んでいらっしゃいな」

 しかしメディスンは首を横に振り、またきりりと眉を引き締め、

「わたしもお手伝いする!」
「え、お手伝いって」

 まさかケーキに毒を入れる手伝いか、と一瞬馬鹿なことを考えかけたが、もちろんそんなわけはない。

「メディ。あなたまさか、ケーキ作りの手伝いをしたいって言うの?」
「うん」

 メディスンは真剣な顔つきで頷いた。

「だって、あの子たちをここに連れてきたの、わたしだもん。お客様はちゃんともてなさなきゃいけないって、永琳も言ってた」
「メディ……」

 何故だかかすかに震える胸を、幽香はそっと手で押さえる。
 しゃがみこんでメディスンに視線を合わせ、幽香は力強い笑みと共に言ってやった。

「そうね。あんたの言うとおり。偉いわ、メディ」
「えへへ。あ、でも大丈夫かな」
「何が?」
「わたし、間違って毒入れちゃっりしたらどうしよう……?」

 不安げな顔のメディスンに、幽香は「大丈夫」と笑いかけながら、小さな手を握ってやった。

「あんたも最近はかなり上手に自分の力が制御できるようになってきたし、わたしもそばで見ててあげるから、ね?」
「……うん。ありがとう、幽香。わたし、頑張る」
「うん、その意気その意気」

 はにかむように笑うメディスンの頭をもう一撫でしてから、幽香はふと、

「……じゃあ、わたしはちょっと準備があるから。メディは、エプロンつけて待っててちょうだい。そこのクローゼットの中にあんた用のがあるから」
「分かった」
「大丈夫? 一人でエプロンつけられる?」

 幽香がからかうように言うと、メディスンは唇を尖らせて、

「そのぐらい一人で出来ます! 服もまともに着られないなんて、赤ちゃんじゃないんだから」
「はいはい。じゃ、ちょっと待っててね」

 幽香は言いおいて、再び別荘の奥へと向かった。



「なぁにをやっとんじゃぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 吠えるように叫びながら、幽香がサンドババァッグに拳を叩きつける。紫の投げキッス写真を凹ませグシャグシャにして細切れにしてもなお気が収まらず、ぜいぜいと荒い息をしながら歯軋りをした。

「まずい、まずいわよ幽香。どんどんあっちのペースに持っていかれそうになっている。このままだと戻れなくなるかも……!」

 眉根を寄せて爪を噛み、幽香は自分が置かれている現状への恐怖に震え上がる。今日のメディスンと来たら、もういろんな意味で完璧だ。自分を腑抜けにするために送り込まれた刺客としか思えない。

「でもまだ負けたわけじゃないわ……! 見てなさいよメディ、直にあんたを愉快痛快血みどろ劇場に引きずり込んでやるんだからね……!」

 ぶつぶつ呟いていると、わたしは一体何と戦っているんだろう、という疑問が頭の隅を掠めないでもないが、幽香は両手で自分の頬を叩いて雑念を追い払った。

「今度こそは……!」

 決意も新たに地下室の出口へと向かう。途中でふと振り返ると、サンドババァッグに貼り付けられた紫の投げキッス写真が祝福するように幽香を見送っていて、また気分が悪くなる。
 地上へと続く螺旋階段を上りながら、幽香はふと、どうしてわたしはこんなに必死になっているのだろう、と疑問に思う。弱味が生まれることに危惧を抱いているのだろうか。
 何か、違うような気がした。メディスンの存在は確かに弱みになるかもしれないが、その程度の弱点でどうにかなるほど、ヤワではないつもりだ。
 では、何故?

「……馬鹿らしい。腑抜けになるのが嫌なだけよ」

 自分を納得させるために、無理矢理言葉を絞り出す。
 しかし、結局螺旋階段を登り切るまで、どことなく釈然としない想いが胸の奥に渦巻いていた。



 そうしてまた地上に戻って、地下室への入り口に錠と結界を施し直すと、幽香は一つ深呼吸してダイニングへと足を踏み入れた。

「あ、幽香」

 肩口が大きなフリルに縁取られた白いエプロンと白い三角巾とを身につけたメディスンが、振り返ってパタパタと駆け寄ってきた。幽香の前で立ち止まると、両手を腰に当てて自慢げに胸を張る。

「ふふん、ほらね、ちゃんとつけられたよ!」
「はいはい。でも、そんな威張るようなことじゃあないでしょう? もう着られない服なんてない、なんて言ってたのはどこのどなたさんだったかしら?」

 素っ気なく言ってやると、誉められなかったのが少し不満だったらしく、メディスンは少しムッとした顔になる。
 一方、幽香は余裕の表情である。壁際のハンガーにかけてあったエプロンを身につけつつ、

(ふふ。甘いわね、メディ。この程度は既に予測済みよ。わたしを骨抜きにするには力不足……!)

 何の力が不足しているのかは自分でもよく分からないが、ともかくテンションに任せて勝ち誇ってみる。
 そうして幽香は、床下の貯蔵スペースからバターや砂糖、卵に小麦粉、生クリーム等々、ショートケーキの材料となるものをあらかた取り出した。メディスンがこういったおやつを好むものだから、常にある程度は食材をストックしてあるのだ。
 ちなみにこの貯蔵スペースは術的な力により常に冷気に満たされていて、食材が長持ちするようになっている。これも河童の娘に笑顔で頼んだら、ただで作ってくれたものだ。本当に親切な娘だと思う。

「さて、それじゃあ始めると……ん?」

 ふと、幽香は眉をひそめて振り返る。すると、窓の外にあの妖精たちが群がり、興味津々にこちらをのぞき込んでいる。

「どうしたの、幽香……あれ?」

 メディスンも彼女らに気がついたようだ。慌てて窓に駆け寄り、開け放つ。妖精たちがワラワラと中に入り込んできた。

「なにあんたたち、待ちきれないの?」
「んーん、違うよ」

 妖精たちの内の一人が首を振った。

「あたしたちね、ケーキ作るとこ見たいの」
「作るところ?」
「そうそう」
「ねー、メディスンもエプロンつけてるけど、何かするの?」

 妖精がメディスンのエプロンをつまみ、首を傾げる。他の妖精たちも「ほんとだー」「なになにー?」とのぞき込んでくる。
 メディスンは一瞬ちらっと幽香の方を見たかと思うと、何やら自慢げに笑って胸を反らした。

「もちろん、わたしもケーキ作るのよ」
「ええっ」

 妖精たちから驚きの声が上がる。

「メディスンもお菓子作れるの!?」
「ほんとー?」
「スゲー!」
「フフン、当たり前よ。わたしなんて毎日幽香のおいしいご飯食べてるんだもんね。お菓子ぐらい楽勝楽勝!」

 投げかけられる尊敬の視線と賞賛を浴びて、メディスンは上機嫌に鼻を鳴らしている。
 幽香は「カハッ」と小さく息を吐き、胸を押さえた。

(やるわね、メディ……! でもまだまだ……!)

 頬を伝う汗を拭い、ニヤリと笑う。幽香は努めて平静さを取り繕いながら、メディスンと妖精たちに穏和な笑みを向け、手を鳴らした。

「はいはい、お喋りはそこまで。あなたたち、見るのはいいけど邪魔しちゃ駄目よ。悪戯する子にはケーキ食べさせてあげませんからね」
「はーい」

 妖精たちが元気よく手を上げ、五人固まって台所から少し距離を取る。興味津々に無垢な瞳を向けてくる娘たちに、幽香はまた胸がきゅっとするのを感じたが、鋼の意志で敢えて無視した。
 こうしてメディスンにもケーキ作りを手伝ってもらうことになったが、もちろん全て彼女に任せることは出来ない。しかし妖精たちの手前もあるので、ある程度それらしく見える作業だけやってもらうことにして、幽香は材料を計量したり小麦粉をふるいにかけたりといった面倒な下拵えは、全て自分の手で片づけてしまった。

「じゃあメディスン、始めましょうか。まずはスポンジケーキを作りましょう。卵割ってちょうだい」
「分かった!」

 メディスンが真面目な顔で頷き、足場として持ってきた台に立って、台所の上の卵を手に取る。が、どうも動きが硬いと言うか、ぎこちない。妖精たちに対しては威張っていたものの、本当はケーキ作りを手伝うのは初めてのことだから、緊張しているのだろう。卵を握る手がぷるぷると震えていて、見ているこちらまで緊張してくる。
 幽香は口を開きかけて、止めた。連絡ノートの永琳の言葉が脳裏に蘇る。ここは手を出さずに見守るべきだ、と。

(頑張って。落ち着くのよ、メディ……!)

 祈るような心地で見つめる幽香の前で、メディスンの持つ卵がコンコンとボウルの縁を叩く。そのままボウルの上に持っていき、慎重に卵を割った。卵黄がとろりと垂れ落ちて、透明な白身と共にボウルの中に収まる。
 その瞬間、ため息が七つほど重なった。その場の全員が目を丸くして顔を見合わせる。メディスンと幽香だけでなく、妖精たちも固唾を飲んでメディスンの卵割りを見守っていたものらしい。

「な、なによ、あんたたち」

 メディスンがかすかに頬を赤らめ、少し怒ったような口調で言う。

「別にこんなの、大したことないもん」
「えー」
「でもー」
「なんか、凄いガチガチだったよー?」
「そんなことないったら! 見てなさいよ、こんなの!」

 と、先ほどの一個で自信をつけたらしいメディスンが、残り二つの卵を手に取り、危なげなく割ってみせた。妖精たちの口から「おー」と感嘆の声が上がる。
 メディスンは台の上で振り返り、得意げに胸を張る。

「どう?」
「凄い凄い」
「お上手ー」

 妖精たちがパチパチと拍手する。メディスンは得意の絶頂になっていたが、

「それで、次はどうするのー?」
「え? えっと、次は」

 妖精の一人に尋ねられたメディスンが、困ったように視線をさまよわせる。
 幽香はくすくすと笑いながら、

「次は湯煎しながら卵を解すのよね、メディ?」
「あ、そうそう、そうなのよ」
「はい、泡立て器」
「ありがと、幽香」

 メディスンはいかにも分かっている風に、澄まし顔で泡立て器を受け取る。幽香は口元がひきつりそうになるのを堪えつつ、さりげなくアドバイスを入れる。

「ここではそんなに力一杯混ぜる必要はないのよ。泡立つ程度でいいの」

 妖精たちに向けて解説する風を装い、その実メディスンに指示を出す。彼女もちゃんと意図を理解してくれたようで、すぐに、

「こんな感じだよね、幽香」
「そうそう。そしたら次はここに砂糖を入れて、泡立て器でかき混ぜるんだけど」

 幽香が意地悪く笑うと、メディスンはムッとした顔つきになった。

「なに、幽香」
「ううん。結構腕が疲れる作業だから。メディに出来るかしら?」
「なによ、馬鹿にして! こんなの平気だもん!」

 メディスンはムキになったように、一生懸命ボウルの中の生地をかき混ぜ始める。
 だがすぐに予想通り疲れが見え始め、かき混ぜるペースが落ちてくる。

「ねえ、どうしたのー?」
「なんか遅くなってるよー?」
「う、うるさいっ」
「メディ、怒鳴ると唾が入っちゃうでしょ」
「うー……」

 メディスンはもうすっかり元気をなくした様子で、助けを求めるように幽香を見上げてくる。その目を見て、幽香ははっとした。

(……ここで無視して笑いながら見ていれば、少しは昔のように……!)

 ところがいよいよメディスンの目に涙がせり上がりかけたのを見るや否や、

「メディ、そろそろ代わりましょう」
「え」
「ええと、わたしもやりたいのよ、それ」

 メディスンは一瞬目を丸くしたが、すぐにしたり顔で笑って、

「そうなんだ。じゃあ仕方ないね、変わってあげるわ!」
「はいはい、ありがとうね」

 苦笑しながら、幽香はメディスンと場所を入れ換える。顔では笑っているが心の中は鬼の形相である。

(くそっ、まずい。まずいわ、このままだと……! やっぱり今すぐ妖精どもをボウルの中に放り込んでかき混ぜるしか!)

 幽香が決意しかけたとき、

「ねーねー、メディ、メディ」
「なに」
「あれがケーキになるの?」
「そうだよ」
「どのぐらいのやつ?」
「えっとね」

 メディスンは少しの間考えていたが、やがて両手を大きく広げて、

「こーんなおっきいの!」

 思わず腕に力が入った。

「あっ」

 と、幽香が声を上げたときにはもう遅い。力加減を誤った泡立て器からスポンジケーキの生地が飛び散り、きゃっきゃとはしゃいでいるメディスンたちに向かって飛んでいく。
 防ぎようもなく、一人の妖精の顔に着弾。
 なにが起こったのか分からずきょとんとする妖精のあどけない顔を、クリーム色の生地がとろりと伝う。

「わあ」
「びっくりしたー」

 騒ぎつつも、他の妖精たちは生地に指を伸ばし、ちゅうちゅうとしゃぶってはぱっと顔を輝かせた。

「あまい、あまい」
「ほんとー?」
「わたしも舐めるー」

 生地を顔につけた妖精に他の妖精たちが一斉に群がり、騒ぎ立てる。中央に閉じこめられた妖精は「やー」と悲鳴を上げてもがいているが、生地の甘さに目がくらんだ他の妖精たちにもみくちゃにされて、もはやほとんど身動きも取れていない。

(平常心、平常心……!)

 幽香は敢えて構うことなく、奥歯を噛みしめながら一心不乱に生地をかき混ぜ続ける。
 ところが、

「こら、やめなさい。困ってるでしょ」

 真面目ぶった口調で言いながら、メディスンが他の妖精たちを追い払った。そして、指で伸ばされた生地のせいで顔中がベトベトになり、半ば涙目になっている妖精に向き直り、

「もう大丈夫だよ。今綺麗にしてあげるからね」

 優しい声で言いながら、綺麗な手巾で妖精の顔を拭き始めた。

(お姉ちゃんぶっている……!)

 幽香はボウルの中の生地を残らず妖精たちに向かって叩きつけてやりたくなるのを堪えながら、必死に自分の腕をコントロールする。
 その横では、

「いい? 次にこんなことしたら、ケーキ食べさせてあげないからね!」

 と、メディスンが指を立てて妖精たちを叱りつけている。

 ――ダメだおかしら、舵が利かねえ!

 一瞬、幽香の中で何か大事なものが吹き飛びかけた、が。

「あれ、幽香?」

 不思議そうなメディスンの声により、危ういところで現実に引き戻された。

「な、なにかしら、メディ?」
「ん。それ、まだだめなの?」

 言われてふと気づくと、ボウルの中の生地はもう大分いい具合になっているようだった。試しに泡立て器を上げてみると、泡だった生地がとろりと垂れ落ちる。

「あ、ああ、もういいみたいね、うん」

 幽香は誤魔化すように笑って、次の作業に移りかける。それを見たメディスンがにっこり笑って、

「えへへ、どう幽香、やっぱりわたしがいて良かったでしょ」
「……ええ、そうね」

 ひょっとしてこの子は狙ってやっているんじゃなかろうか、と疑いつつ。
 幽香は果たしてこのケーキが完成するまでに自分が正気を保っていられるかどうかと考えて、今までとは違った意味で背筋を震わせるのだった。



 かくして幽香様のお料理教室は、幽香限定で様々なアクシデントを巻き起こしつつも順調に進んでいった。
 メレンゲ、バニラエッセンス、ホイップクリームのつまみ食いに、苺の取り合い。
 どれもこれもが一歩誤れば致命傷に繋がりかねない、実に危険な戦いであった。さしもの大妖怪風見幽香も、この日ほどに危機を感じたことは今まで数えるほどしかない。心の得点表には「graze 37564」の文字が。ルナシューターも真っ青だ。
 だが、ともかくもショートケーキは完成した。スポンジは三層で、間にはカットされた苺とホイップクリームが挟み込まれている。デコレーションも完璧で、もちろん1ピースごとに二つずつ、大きな苺も乗せられている。

「……よし、完成、と」

 切り分けたケーキを七つの小皿に乗せ、幽香は疲労とともに盛大なため息を吐き出す。テーブルの周囲で待機している妖精たちに向き直ると、ある者はどれが一番大きいかと必死にケーキを見比べ、ある者は今にも飛びかからんばかりに緊張を漲らせ、ある者は呆けたように口を半開きにして涎を垂らしている。
 口元がひきつるのを隠すために、幽香はさりげなく顔を背けて窓の外へと目を向けた。

「天気もいいし、お外で食べましょうか。さ、自分の分を取って。落とさないように気をつけるのよ」
「はーい!」

 妖精たちが元気良くケーキの皿とフォークを手に取り、跳ねるように駆けだしていく。

(転んでケーキを台無しにしちゃうお馬鹿さんがいないといいけど)

 少し心配しながら、幽香もまた自分の分の皿を手に、メディスンと共に外へと向かう。
 妖精故の無邪気さと言うべきか、外に出た彼女らはてんでばらばらに座って、いただきますの挨拶もそこそこにケーキにぱくついていた。

「もう、お行儀悪いんだから」
「どの口が言ってんの」

 唇を尖らせるメディスンに、幽香は苦笑する。
 地面に腰を下ろしながら、

「さ、わたしたちも頂きましょう。あんたも今日は随分頑張ったわね」
「んー……」
「……メディ?」

 眉をひそめる幽香の前で、メディスンはばらばらに座っている妖精たちの方をじっと見つめていた。
 どうしたんだろう、と幽香が首を傾げると、メディスンはこちらに向き直って言った。

「わたし、みんなのこと見ててあげるね」
「え? いや、そこまでしなくても」
「でもやっぱり、みんなはお客様だし。それにほら」

 と、得意げな笑みを浮かべて、

「わたしが一番の姉ちゃんだもんね! ちゃんとお世話してやらなくちゃ」

 柔らかな髪を風に揺らしながら、メディスンは少し大人びた顔で言う。
 幽香はじっとそれを見上げていたが、おもむろに、

「メディ」
「なに?」
「あなたやっぱりわざとやってるでしょ」
「え? なにが?」

 目瞬きするメディスンから顔を背け、幽香は「いえ、何でもないわ」とため息を吐く。

「それなら、行ってらっしゃい。ちゃんと見ててあげるのよ」
「うん、分かった、任せといて!」

 メディスンは頼もしく頷き、ケーキの小皿を持ったまま妖精たちの方へと駆けていく。
 その背を見送りつつ、幽香は膝の間に顔を埋めてまたため息を吐いた。
 ――限界が近い。
 自分の頭の中で何か決定的なものが切れかかっているのが、今の幽香には手に取るように分かる。
 それが切れたとき、一体どうなってしまうのか。想像するだに恐ろしい。

(でもまだよ。まだ戻ることはできるはず……! 希望を捨ててはいけないわ、幽香!)

 重要なのはタイミングだ。神経を尖らせ感覚を張り巡らせ、一瞬の勝機を逃さずに最大火力の一撃を叩き込む。かくして一発逆転はなり、世界は反転する、はずだ。
 そしていくつもの修羅場を乗り越えた幽香の勘は、その瞬間がもう間もなく訪れようとしていることを告げていた。

(いつ……いつ来る……!?)

 背中を嫌な汗が伝い、喉がカラカラに乾く。ぎゅっと目を細め、幽香はこの周囲で起きる何もかもを子細漏らさず感知するべく、全身に緊張を漲らせた。

 ――そしてついに、その時が訪れる。

「やだーっ!」

 始まりは、妖精の一人が上げた甲高い泣き声だった。見ると、丘の一角に妖精たちとメディスンが集まって、何やら騒いでいる。

「食べるの、もっと食べるのーっ!」
「だってあんたもう全部食べちゃったじゃん」
「我慢しなよー」
「やだーっ!」

 空の皿を振り回してぴーぴー泣きわめいているのは、今この場にいる妖精たちの中でも一際幼い一人だ。会話の内容から察するに、ケーキを食べてしまったのにもっと食べたくなってしまったらしい。
 子供らしいわがままと言えば、子供らしいわがままだが。

(……クソガキめ)

 幽香は意識して汚い言葉を用いながら、頭の中でその妖精を罵る。それを起点として、心が芯まで冷えていくのが分かる。
 その冷たさを逃さないよう注意しながら、幽香はゆらりと立ち上がった。片手に自分の分のケーキが乗った小皿を持ち、一歩一歩、ゆっくりと妖精たちに近づいていく。
 これは間違いなく勝機だ。今泣きわめいているあの妖精の口にケーキを突っ込み、「そんなに食いたきゃたっぷり食らいやがれ、オラ、オラァッ!」と一気に喉まで押し込んでやるのだ。結果、あの妖精は白目を剥いて窒息死して他の妖精は逃げ惑い、呆然とするメディスンの前で幽香は高笑いを響かせる。
 そうして、新たな時代が幕を開けるのだ。

(完璧だわ)

 幽香は嗜虐的な笑みを浮かべながら、一歩一歩と妖精たちに近づいていく。焦らず、騒がず、じりじりと。
 そして例の妖精を射程圏内に捕らえた瞬間、かっと目を見開き、

(今……!)

 駆け出し駆けたそのとき、ふと、

 ――でも、食べ物を粗末にしたらメディの教育に悪いんじゃないだろうか。

 そんな懸念が頭をよぎり、ほんのわずかだけ、足が鈍った。
 まずい、と思ったときにはもう遅い。あの妖精への進路上に、一つの影が立ちふさがる。メディスンだった。

「これ、あげる」

 と、妖精たちに向かって自分の皿を差し出している。何かと思えば、皿の上には五つに切り分けられたメディスンのケーキがあった。妖精たちのお世話に没頭していたために、自分の分をほとんど食べていなかったらしい。
 これには泣きわめいていた妖精たちも他の妖精たちも驚き、

「えっ」
「いいの?」
「メディは食べないの?」

 と、口々に騒ぎ立てた。
 メディスンは笑って首を振り、

「わたしはちょっと食べたらもうお腹一杯になっちゃった。だから、いいよ。遠慮せず食べて。でも、次はこんなわがまま言っちゃ駄目だよ」

 泣いていた妖精に軽く警告しながら、メディスンは皿を差し出す。妖精はそれを無言で受け取りながら、どことなく恥じらうようにこっくりと頷いた。
 そうして妖精たちはその場に座り込み、五つに切り分けられたケーキの欠片をみんなで仲良く分け合うと、嬉しそうに笑いながら食べ始めた。心なしか、さっきよりも満ち足りた様子に見える。
 メディスンはそれを見てそっと微笑むと、背を向けて幽香のところに戻ってきた。

「……良かったの?」
「えっ?」

 驚いたように顔を上げるメディスンに、幽香は眉をひそめて問いかける。

「あんた、まだほとんど食べてなかったでしょ」
「んー……そうだけど、さ」

 メディスンは少し照れくさそうに俯いて、上目遣いに幽香の顔を伺いながら言う。

「なんかね。あの子のわがまま、聞いてあげたくなったの」
「どうして」
「幽香もいつも、こんな風に感じてるのかなあと思って」
「……わたしが?」

 驚き、目を丸くすると、メディスンは大きく頷いた。

「うん。わたしも幽香にわがまま言ってばっかりなのに、幽香はいつでも聞いてくれるから。だからわたしも、あの子たちにそういう風にしてあげたかったの」

 はにかむように笑うメディスンの顔を、幽香はじっと見つめる。
 やがて、小さくため息をこぼした。

「……いい子すぎるでしょ、それは」
「それって、いけないこと?」
「そうは言わないけど。でもね、メディ。自分の気持ちを抑えすぎると、ロクなことにならないわよ。ある日突然爆発しちゃったり……いえ」

 誰のことを言っているんだか、と幽香は苦笑し、首を振る。
 そして、言葉の代わりに自分の小皿を差し出した。その上には、全く手つかずのケーキが。

「食べなさい」
「え、でも」
「いいから。あんた、今日たくさん頑張ったからね。ご褒美よ」

 半ば無理矢理メディスンにケーキの皿を押しつけ、頭を一撫ですると、幽香は彼女に背を向けた。

「えっ、幽香、どこに行くの?」
「家の中よ。後片づけだってしなくちゃいけないからね。あんたはゆっくり食べて、あの子たちと遊んであげなさいな」
「でも、幽香」

 食い下がるメディスンの声は無視して、幽香は別荘へと向かって歩いていく。
 これでいい、と思った。もはや闘争本能を取り戻すことは叶わないかもしれないが、離れていればあの胸の疼きに悩まされることもあるまい。

(ええそう、これは敗走じゃない。名誉ある転進なのよ、うん)

 自分でもよく分からない理屈で自分に言い訳しつつ、幽香は別荘のドアノブに手をかける。
 と、

「幽香ーっ!」

 呼びかける声と共に、誰かの足音が聞こえてきた。驚いて振り向くと、そこには軽く息を弾ませているメディスンの姿が。

「なに。どうしたの」
「あのね、幽香。わたし、考えたんだけど。正直な気持ち」

 メディスンは幽香を見上げながら、小さく首を傾げる。

「やっぱり、わたしも幽香のケーキ食べたい」
「食べればいいじゃない」
「うん。でも、そのせいで幽香が食べられなくなるのも嫌なの。だからね」

 両手差し出す皿の上には、二つに切り分けられたケーキ。
 目を見開く幽香の前で、メディスンはにっこり笑いながら、

「はんぶんこしよ、幽香!」



 ある意味拷問にも等しい時間を経て、幽香は再び地下室へと戻ってきた。
 疲労と倦怠感が全身を包み、意識が朦朧としている。もうすぐ何かが切れるという明確な予感があった。
 あの後、結局幽香は断りきれずにメディスンとケーキをはんぶんこし、並んで座りながら食べた。
 幽香の胸は一つ成長したメディスンへの愛情と昔の自分を取り戻したいという必死な欲求とに板挟みとなり、嵐に翻弄される木の葉のごとく激しく揺れ動いた。
 そうして今、幽香は後片づけがあるからと言って一人別荘の中へ戻ってきた。メディスンも手伝いたがったが、「あんたはあの子たちの相手をしてあげなさい」と言うと渋々引き下がった。
 そうして幽香は、地下室の中に一人。
 目の前にはサンドババァッグと、投げキッスをする紫の写真。今は不思議と腹が立たない。疲れすぎているせいかもしれないが。

『どう幽香、これで分かったでしょう?』

 不意に、誰かの声が聞こえた。サンドババァッグに貼り付けられた写真が、幽香に向かって呼びかけてくる。

『自分の性質のこと。もう今日で理解できたんでしょう? 自分がもう昔とはすっかり変わってしまったってことが』

 反論できず、幽香は奥歯を噛みしめる。本心を言えば殴りつけてやりたかったが、そうしたところでどうなるだろう。殴りつけても自分の中の攻撃性がほとんど戻らなかったら? そう考えると得体の知れない恐怖が湧いてきて、拳を握ることにすら躊躇いを感じる。

『どうやらご理解頂けたようね』

 紫の満足げな声が聞こえる。

『さあ、諦めて受け入れなさいな。認めるのよ、あなたの中に生まれた温かな感情を』

 ほっそりとした腕が差し出されるビジョンが脳裏を満たし、

『そしていらっしゃいな。こちらの世界へ』
「行ってたまるかああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 幽香、吠える。差し出された手を払いのけ、なけなしの気力で拳を握り締め、気が触れたように絶叫し、裸拳の嵐をサンドババァッグに叩き込みまくる。

「うわぁぁぁぁっ、ああぁぁぁぁぁっ!」

 もはや雄叫びとも悲鳴ともつかぬ叫び声を上げながら、幽香は訳の分からぬ恐慌に駆られてひたすら紫の写真を殴り続けた。尖った拳に写真が細切れになると、すぐに次の写真を取り出して必死に貼り付け、また殴りまくる。
 サンドババァッグはそうした理不尽な扱いにもよく耐えていたが、最後の写真が破れる段になってとうとう限界を迎えたらしい。
 突き出した拳にサンドババァッグの布地が切り裂かれ、中に詰められていた砂が散弾銃のように弾け飛び、襲いかかってくる。幽香は悲鳴を上げてその場に倒れ伏した。
 しばらくの間、幽香はぴくりとも動かなかった。だがやがて、床にまき散らされた砂を指で掻くように握り締め、

「……ちくしょう……ちくしょう……っ!」

 幽香は鼻水混じりに呻きながら、さめざめと涙を流した。大妖怪として長い間生きてきたが、こんな屈辱的な気分は久しく味わっていない。荒れ狂う感情に振り回され、自分で自分がコントロールできない。
 立ちはだかる敵の一切を力でねじ伏せてきた幽香にとって、それは耐えがたい恥辱であり、到底認められぬ現実である。
 そうだ。認めるわけにはいかない。
 この風見幽香が、あんな小娘一人に振り回されているなどと。

「メディ……!」

 ちぎれた写真を手で握りつぶし、幽香は怨磋の声を絞り出す。

「メディ……! メディ……! メディスン・メランコリー!」

 毒人形の笑顔を浮かべながら、幽香は全身の力を振り絞って立ち上った。そして、なりふり構わず走り出す。
 螺旋階段を駆け上がりながら、幽香はぎりぎりと歯を噛みしめる。
 どうやら自分は毒にやられてしまったらしい。その味を知ってしまえば誰もが虜にならずにはいられない、この世で一番甘い毒だ。口をつけたときには毒だと気づかず、理解したときにはそれなしには生きられなくなっている。

(こうなれば、差し違えてでも……!)

 もはやまともな思考すらできない。頭の中を、メディスンの様々な姿が駆け抜けていく。
 初めての出会い。一緒に笑い、泣いた日々。彼女への想いを自覚し、戸惑い、恐れた。
 そうしてまた、自分は何がそこまで怖いのだろう、と考えると、今日のメディスンの姿が浮かんできた。まだ子供のくせにお姉ちゃんぶって、失敗しそうになりながら、それでも頑張って妖精たちの世話を焼いてやっていたメディスン。以前までならば決して見ることのなかった、大人びた表情。

(ああ、そうか)

 走りながら、幽香は自覚する。
 自分は、メディスンがああして成長して、いつかこの手を離れて行ってしまうことが怖いのだと。抱いた感情が深ければ深いほど、別離による喪失感もまた深刻なものとなるだろうから。
 だから敢えて、メディスンへの想いを唾棄すべき下らないものであると思いこみ、ああおも必死に昔の自分を取り戻そうとしたのだ。
 露わになった自分の脆弱な姿に、幽香は唇を歪めずにはいられなかった。本当に、どうかしている。コントロールできないかと思えば、全く予期せぬ方向へと突っ走っていく。自分の心は一体どれほどこの毒に侵されてしまったのか。

(大体、メディもメディよ)

 拗ねたような心持ちで、幽香はメディスンに理不尽な怒りをぶつけ始める。

(この間までおねしょしてぴーぴー泣いてたくせに、急にあんな立派なこと言ったり、一人前みたいな顔して。あまりにも早すぎるってものでしょう!?)

 変わっていくのが避けられないのなら、せめて心の準備ができるまでは、この腕の中に収まっていて欲しかったのに。
 これではあまりにも、早すぎるではないか。戸惑ってあたふたしている内に置いていかれてしまうだなんて、これほど理不尽な話もない。

(見てなさいよ、メディ……! 具体的にどうしてやるかは、ええと……これから考えるとして!)

 幽香はひきつった笑みを浮かべながら、ついに地上部分へとたどり着く。手早く地下室への道を封印しつつ、気息を整えてリビングへ向かって歩きだした。
 今あそこには、外の遊びを終えたメディスンと妖精たちがいるはずである。日が暮れて帰る時刻になるまでは、別荘の中で遊ぶ予定になっていたから。

(さて、何をしているのかしら。絵本でも読んであげているの? それともあやとりとかおままごととか……疲れて眠っちゃった妖精たちに毛布を掛けてあげているかもしれないわねえ、うふ、うふふ……!)

 ニタニタと微笑みながら、幽香は一歩一歩リビングへと近づいていく。
 そして、もうすぐというところでふと立ち止まり、眉をひそめた。
 リビングから、笑い声が聞こえてくる。だがそれは、楽しく談笑しているような、和やかな笑い声ではない。何か面白いものをみんなで指さして笑い転げていような笑い声だ。

(一体……?)

 予想とは少し違った状況に、幽香は戸惑い、自然とすり足になる。足音を立てないように注意しながら笑い声の止まぬリビングに近づき、廊下の角からそっと中をのぞき込む。
 するとそこには、驚くべき光景が広がっていた。

「あはははははは! メディったら全然駄目じゃーん!」
「ひっからまってる、ひっからまってる!」
「着れてないよ、着れてないよーっ!」

 笑っているのは妖精たちだった。
 ある者は床を転げ回り、ある者は床を叩き、ある者は腹を抱えてぷるぷると震えている。
 それぞれの爆笑模様の前に立っているのは、メディスンだ。顔を真っ赤にしてもがきながら、

「ううう、うるさい、黙りなさいよあんたらっ! こんなの着れるもん、わたし一人で着れるもん!」

 と涙目で怒鳴り散らして、更なる笑いを誘っている。
 なにがそんなにおかしいのかと言えば、今のメディスンの格好だ。彼女は今、いつものブラウスとスカートではなくて、複雑な構造のドレスを着ている。いや、着ているというよりは、着ようとしている、とでも言うべきか。何せ、組み紐やらリボンやらが無茶苦茶に絡み合い、袖や裾がどこなのかすら分からない状況だ。
 そのドレスは、もちろん幽香お手製の品である。見た目の美しさを重視して仕立てたもので、出来映えからするとその狙いは十分に達成できたと思っている。
 だがその代わり、着るために結ばなければならない組み紐やリボンが数十本以上となった。きちんと着こなすのが非常に難しい、実用性皆無な品である。
 我ながらこだわりが暴走し過ぎてしまったと苦笑いしてしまったほど、構造が複雑なドレスだ。サイズはともかく着付けの問題で、今のメディスンが一人で着るには手に余る品なのだ。
 そんなドレスを、なぜメディスンが着ようとしたのか。
 今日起きた出来事から考えれば、答えは明白だ。多分彼女らは遊んでいる途中にクローゼットを漁って、あのドレスを見つけたのだろう。それで、例によってお姉ちゃんぶったメディスンが「これわたしのだよ」と自慢しまくり、調子に乗って今着てみせるだのと言い出したに違いない。
 その結果がこれだ。さすがに少々背伸びをし過ぎたといったところか。

「あ、幽香お姉ちゃん!」

 妖精の一人が幽香に気づき、醜態を演じているメディスンを笑いながら指さした。

「見て見て、メディってば馬鹿みたい!」
「こんなの簡単に着れるなんて言ってたのに」
「全然着れてないんだよー」

 口々に報告してくる妖精たちの声を聞き、メディスンは涙目で押し黙る。これはちょっと、痛々しいぐらいの失敗だ。今日の立派な振る舞いで築き上げてきた、お姉ちゃんとしての面目丸つぶれである。

「ゆ、幽香ぁ……」

 メディスンは目に涙をためたまま、ドレスの裾をずるずると引きずりながら近寄ってきた。呆然と立ち尽くす幽香を見上げ、非常に情けない顔で、

「……た、助けて……」

 その声を聞いた瞬間、

 ――ぷちん。

 と、頭の中で何か決定的なものが切れ。
 幽香はもう限界だと思った。




 風見幽香、ご乱心!?

 まずは何も言わずに上の写真をご覧頂きたい。これはつい三ヶ月ほど前、太陽の畑にて突撃取材(否・隠し撮り)を試みた天狗の記者を、花の大妖怪風見幽香が片手で締め上げている写真である。彼女の口元にはこの上なく嬉しそうな残忍な笑みが浮かんでおり、風見幽香は幻想郷最凶のドS妖怪である、という風評が正しいものであることを読者に教えてくれている。
 こうした事実を踏まえた上で、今度は下の写真数点をご覧頂きたい。これらの写真はつい先日撮影されたものだが、なんと件の風見幽香が幼い妖精の少女たちと仲睦まじく遊んでいる姿が収められている。それも、一緒に手をつないで歩いたり歌を歌ってやったり髪をとかしてやったり、まるで近所の優しいお姉さんといった有様だ。
 一体、これはどうしたことか。記者は彼女の変貌の真相を探るべく、思い切って突撃インタビューを試みた。

 ――一体何を企んでるんですか? 彼女たちをすりつぶしてお菓子の材料にでもするつもりですか?

 この質問に対し、彼女はただ一言。



「『――自分の感情に素直に従っただけ。後悔はしていない』ね」

 新聞を広げた紫がクスクスと笑うのを、幽香は苦々しい想いで睨みつけた。

「なによ。何か文句でもあるの?」
「いえいえとんでもない。文句なんか全くございませんわ」

 紫はニヤニヤと嫌味ったらしい笑みを浮かべながら、面白がるように幽香を見つめている。

「ただ、あなたもずいぶんお母さん振りが板についてきたものだと思いまして」
「なんとでも言いなさいよ」

 別荘の庭のテーブルに突っ伏したまま、幽香はぶすっとして答える。実際、もはや反論のしようもないのだった。

「……ご不満がおありのようね」

 不意に、紫の声が柔らかくなった。幽香と同じくテーブルの前に腰掛けた彼女は、勝手に淹れた紅茶を一啜りして、気色悪いぐらいに温かな眼差しを向けてくる。
 幽香は顔をしかめて「その目止めてよ」とぼやきつつ、テーブルから身を起こした。

「別に、不満があるわけじゃないわよ」
「あら、そうなの?」

 紫が少し意外そうに目を見張る。
 幽香はため息を吐き、

「その新聞にも書いてあるでしょ。これからは自分の感情に素直に従うことにしたのよ。だからまあ、認めるわ。わたしがあの子に、その……愛情とかいうやつを感じてる、ってことは」
「そう。だったら、何が引っかかっているのかしら?」
「あんたに話す必要がある?」
「ないわね。でも、折角だから茶飲み話として聞かせて頂きたいところだわ」
「ババァの井戸端会議じゃあるまいし」
「似たようなものでしょ」

 紫は動じず、また紅茶を一啜り。
 幽香はちらりとそれを見たあと、庭の向こうの花畑に目を移す。咲き乱れる花々の中で、メディスンが友達の妖精たちと一緒にはしゃぎ回っている。

「……ま、別に、話してもいいけど」
「あら、そう? どうして?」
「あんたにもいろいろと世話になったからね。そのお礼よ」
「……わたし、何かしたかしら?」
「そうね。とりあえず、あまり年甲斐のないことはしない方がいいんじゃないかと言っておくわ」

 怪訝そうに眉をひそめる紫に皮肉っぽく返してから、幽香は躊躇いがちに言う。

「不満はないけど、ね。不安ではあるのよ」
「不安?」
「ええ。あの子の成長を実感したとき、心のどこかにそのことを素直に喜べない自分がいて、逆にあの子が助けを求めてきたとき、喜びと安堵を感じている自分がいて」

 昨日、情けない顔で「助けて」と言ってきたメディスンの姿が脳裏に浮かび、幽香は自嘲の笑みを漏らす。

「そんな風に感じるのって、初めてのことだったから。もしも自分がずっとこのままで、ついあの子の成長を邪魔するような行動をしてしまったら、って思うと、やっぱり不安だわ」

 幽香は淡々と言い終える
 紫はそんな彼女を見て、何か感心した様子で頷いていた。

「なによ」
「いえね。あなたが、わたしが予想していたよりもずっと、自分のことを理解しているようだから。少し、驚いたの」
「気に入らないわね、その上から目線」
「ごめんなさいね、癖みたいなものだから」
「最悪だわ」

 幽香が顔をしかめて舌打ちすると、紫はそっと微笑んで、

「別に、いいんじゃないかしら」
「……? どういうこと?」

 幽香が眉をひそめると、紫は花畑で遊ぶメディスンの方を見やりながら、そっと目を細めた。

「あの子が今世界のことを学び始めているのと同じに、あなたも新しい自分としての道を歩み始めたところなんでしょう。一緒に少しずつ成長していけばいいと思うわ」

 紫は空になったティーカップをテーブルに置いて、感慨深げに呟く。

「幻想郷も、変わり始めているわ。吸血鬼異変が起きて、スペルカードルールが制定されて、新しい勢力が次々に流入してきて……。しかもその流れは未だに留まるところを知らない。今後もしばらくは、騒がしい時間が続いていくでしょうね」

 紫は椅子から立ち上がり、こちらに背を向けて空間の裂け目を開く。
 そこに足を踏み入れる直前、肩越しに振り返った紫の口元には、どことなく苦笑じみた微笑みが浮かんでいた。

「わたしもあなたと同じ。目まぐるしい変化に戸惑ってしまうこともあるけれど、何もかもを受け入れるためにはある程度の変化を許容しなければならないこともある。今はね、その上手いやり方を勉強している最中なのよ」

 だからお互い頑張りましょう、と言いおいて、紫は隙間の向こうに姿を消した。



「……気に入らないわね」

 紫が去ってしばらくしてから、幽香は舌打ち混じりにぼやいた。
 あの賢者様の上から目線の説教に腹が立っている、というのもあるが、その内容を割と寛容に受け止めている自分にも、やはり少し腹が立つ。
 そういう風になってしまったのだから、仕方がないのかもしれないが。

「あれ、幽香?」

 声をかけられて顔を上げると、いつの間にかすぐそばに来ていたメディスンが、目を丸くして周囲を見回していた。

「紫、帰ったの?」
「ええ。どうしたの、何かあった?」
「ううん、別に。あ、これ」

 と、メディスンは紫が残していった新聞を手にとって、はしゃいだ声を上げた。

「この写真、上手く撮れてるよね!」
「ええそうね……なにがそんなに嬉しいの?」

 幽香が眉をひそめると、メディスンは嬉しそうに、

「だってきっとこれ見たら、みんなが分かってくれると思うもん。幽香がすごく優しいんだってこと!」

 にっこりと笑うメディスンに、幽香は何と言って返したらいいか分からなくなる。
 そうして何も言えずにいる内に、

「メディー!」
「何やってるのー?」

 花畑の方から、妖精たちが手を振って呼ばわった。メディスンは手を振り返し、

「なんでもなーい! 今行くーっ!」
「メディ……!」

 背を向けて駆け出そうとするメディスンを、幽香はほとんど反射的に呼び止めていた。踏み出しかけたメディスンが驚いたように立ち止まり、目を丸くして振り返る。

「なに。どうしたの、幽香?」
「あ、ああ。ええと」

 幽香は口ごもりながら、伸ばしかけていた手を引っ込め、椅子に座り直す。
 そうしてから一つ呼吸を整え、ぎこちなく微笑んで言った。

「なんでもないわ。はしゃぎすぎて転ばないように気をつけるのよ」
「大丈夫、分かってるって! じゃあね!」

 メディスンはそう言って、元気よく駆け出していく。
 遠ざかっていく小さな背中を見つめていると、幽香の胸はまた少し痛む。

「……どうも、弱いわね」

 苦笑しながら呟いて、痛む胸をそっと押さえる。
 今、変わってしまった自分を受け入れられたように、いつかはこの痛みも良いものだとして愛せるようになるのだろうか。
 そんなことを考えながら、今の幽香はただじっと、遠くで遊んでいるメディスンの姿を見つめていた。


 <了>
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