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【東方SS】ネクロファンタジア1996~桜花の涙~

2009/10/2に東方創想話に投稿したSSです。
 


『ネクロファンタジア1996~桜花の涙』



 悪霊女と年寄り亀が、ぽつりぽつりと言葉を交わす。

「来ますかな」
「来るさ」

 長い杖を肩に担ぎ、悪霊女は薄目で周囲を窺う。
 深い闇の中、数多の妖怪たちが静かに蹲っている。外見も種族もバラバラな集団だが、共通している点が一つ。
 彼らは、ある人間を待っていた。
 この幻想郷の要であり、妖怪退治を己が宿命と任じて空を駆ける、その名も高き博麗の巫女を。

「いい夜だねえ」

 蹲る妖怪たちの奥、大きな岩に一人で腰かけながら、悪霊女は頭上を仰ぐ。
 瘴気深き魔法の森の木々の隙間から、祝福の如き月明かりが冷え冷えと降り注いでいた。

「いいかい、あんたたち」

 静かに、しかし深く響く声で、悪霊女は妖怪たちに語りかける。

「今宵は実にいい夜だ。なんせ、この数十年ほど絶えて久しい大異変が、再び復活する夜なんだからね」

 妖怪たちは息を詰めて悪霊女を見つめる。
 何か口にする者など一人もいないが、闇の中にあってこそギラギラと輝く獰猛な瞳は、言葉よりも雄弁に彼らの感情を物語っている。
 それは猛る咆哮であり、歓喜の叫びである。
 そこから生まれる空気の震えを、半ば実体なき体の隅々まで感じながら、魅魔はにやりと唇を吊り上げる。

「この中には人間と戦ったことがないってぇ若い衆もいるだろうが、なぁに、恐れることはない。この大悪霊にして大魔法使いたる魅魔様についてきてくれりゃ、どいつもこいつも今夜一晩で妖怪の英雄に様変わりって寸法さ」

 杖の先を地面に突き立てながら、魅魔は勢いよく立ちあがる。

「いいかい、あんたたち。遠慮はいらねぇ、全身全霊で戦って、打ち倒してやるんだよ! あの憎い博麗の巫女をね!」
「そこなんですが」

 不意に、一人の妖怪がおそるおそる手を挙げた。周囲の者たちに睨まれて少々委縮しつつも、魅魔に疑問を投げかけてくる。

「本当に、ぶっ倒しちまっていいんですかい? 博麗の巫女といやあ、この郷の要。大結界の守護者だ。そんな大層な人間を殺しちまったら、妖怪の賢者様方や龍神様が黙っていないんじゃあ」
「おいおい、何を聞いてたんだい、あんたは?」

 魅魔は肩を竦め、その妖怪にいやらしく笑いかける。

「あたしは打倒せって言ったんであって、ぶっ殺せって言ったわけじゃあないんだよ」
「と、仰いますと……?」
「生きてりゃいいんだろ、要は?」

 魅魔の言葉に、妖怪たちがかすかにざわついた。その内の何人かは、下卑た笑みを浮かべて互いに視線を交わし合う。

「分かったようだね」

 魅魔は満足して頷いた。

「多少痛めつけるぐらいなら、賢者様方も文句は言わないさ。確かに人里の人間を襲うのは禁止されてるが、巫女相手に異変起こしたり戦ったりってのは禁じられてないんだ。ちょっと前までは巫女が今にも死にそうな婆さんだったから、万一死んだら困ると思って手出ししてこなかったがね。近頃久々に代替わりしたってんだ。これを見逃す手はないねえ」
「ってことは」

 妖怪の一人が興奮に鼻息を荒げながら叫ぶ。

「上手くいきゃあ、今夜若い女、しかも修行を終えたばかりの巫女の新鮮な肉にありつけるってわけですかい?」
「ま、あんたら次第だがね」

 魅魔の素っ気ない答えに、妖怪たちは大いに湧いた。俺は腕だ俺は足だ俺は目玉だ馬鹿野郎目玉はやめとけ下手すりゃ死んじまうだろ、だのと、てんで好き勝手に騒ぎ始める。
 魅魔はそれをまた満足して見回していたが、ふと軽く突かれているのに気がついて、足下を見下ろした。
 そこにはやけに人間臭い表情をした巨大な妖怪亀がおり、不安そうな、あるいは非難するような目で魅魔を見上げている。

「なんだい、玄さん」
「なんだい、ではありませんぞ」

 騒いでいる妖怪たちの方を気遣わしげに窺いながら、妖怪亀の玄爺は声を潜めて言う。

「魅魔殿。まさか本気ではありますまいな。確かに、迂闊に夜の領域に足を踏み入れた人間を痛めつけたぐらいであれば騒ぎにはなりますまいが、相手は巫女ですぞ。ただ戦うならともかく、命に関わるほどの深手を負わせたとなれば、さすがに」
「ああ。八雲の御大らが黙っちゃいないだろうね」

 さらっと言うと、玄爺はぎょっとしたように目を見開いた。
 それを見下ろして、魅魔はからからと笑う。

「分かってるよ。ありゃ単なる景気づけ、連中を盛り上げるための方便さ」
「本当ですかな」
「本当だとも。いざとなったら適当に止めるよ。ま、もっとも」

 まだ夢中で喋くっている妖怪たちの方を見つめながら、魅魔は皮肉っぽく笑う。

「あんな有象無象どもに、博麗の巫女をどうこうできるとはとても思えないがね」
「ふうむ。ある種の信頼のようなものがおありのようですな」
「そりゃそうさ。こちとら博麗の巫女のせいで悪霊になったようなもんだ。ま、今は恨みなんざほとんど忘れちまったがね。それでも」

 魅魔は再び頭上を振り仰ぐ。

「それでも、覚えてることはあるんだよ。昔の博麗の巫女ってのは、そりゃもう凄まじい強さだった。旧い時代を生き延びた幻想郷の妖怪の一員としては、是非とももう一度戦ってみたいものなのさ」
「なるほど、よく分かりました。ですが、ほどほどにしてくだされよ」
「分かってるよ。玄さんも心配性だね」
「無理もないことでしょう」

 わずかに首を伸ばして妖怪たちを見つめながら、玄爺は目を潤ませる。

「外の世界の人間たちが幻想を否定し始めて、我々は滅亡の危機に立たされた。それを辛くも乗り越えて、なんとかこの地に難を逃れたのです。どのような事情であれ、若い者が折角拾った命を悪戯に散らすようなことは、この年寄りにはちと辛い」

 しんみりとした亀の言葉に、魅魔は少し目を細める。

「まあ、気持ちは分かるよ。でもね玄さん、やっぱり妖怪ってのはさ」

 そこまで言いかけたとき、不意に「来たぞ!」と声が上がり、周囲が一斉に静まり返った。
 魅魔と玄爺も顔を見合わせ、それぞれに表情を引き締めて木々の向こうを見つめる。
 そうして誰もが息を潜めて見守る中、鬱蒼とした木々の隙間から、かすかな音が聞こえてきた。瘴気漂う魔法の森には似合わぬ、か細く儚げな靴音である。
 やがて、木々の隙間の闇から、一人の女性が歩み出てきた。
 青白い月灯りの下に浮かび上がるその姿を見て、魅魔は数瞬息を呑む。
 美しい女性だった。汚れなき白衣と緋袴を身に纏い、長い黒髪は闇の中にあっても艶やかである。これ程多くの妖怪に取り囲まれているというのに、こちらを見つめる黒い瞳は凛としていて、欠片の怯えも感じさせない。その背には、博麗の巫女の証とも言える陰陽玉が、付き従うように浮かんでいた。
 女性は妖怪たちの集団から数歩ほど手前で立ち止まると、右手に持ったお祓い棒を真っ直ぐに突きつけてきた。

「答えよ悪霊。お前がこの異変の首謀者か」

 凛とした涼やかな声。妖怪たちの内若い者が何人か、ビクリと肩を震わせる。
 気迫は十分。霊力もなかなかのもののようだ。
 魅魔は内心震えるほどの喜びを感じながら、しかしそれを表には出さず、ただ酷薄な笑みを浮かべて答えた。

「ああそうとも。逃げずによく来たねえ、巫女さんよ」
「この文に書いてあったことは事実か」

 一度お祓い棒を下げ、左手に持った紙を掲げてみせる。
 数刻ほど前、魅魔が博麗神社に送りつけた手紙である。

「ああ、もちろんだとも」
「郷に不満を持つ妖怪たちを集めて人里に襲撃をかけ、人間を皆喰い殺すと?」
「そうさ。なんだ、辺境で暮らしてる野蛮人だと思いきや、字の読み書きぐらいは出来るみたいだねえ、偉い偉い」

 魅魔が小馬鹿にしてやると、周囲の妖怪たちがゲラゲラと笑った。
 降り注ぐ笑い声の中、巫女はしばし無言で佇んでいたが、

「慈悲深き龍神様のお許しによって、かろうじて命脈を保っているこの郷の平和を乱そうとは……貴様、正気か?」
「悪霊に正気を問うとは。逆にあんたの正気を疑うねえ」

 魅魔はべろりと舌を出す。

「馬鹿じゃないのか巫女さんよ。こちとら恨みつらみが存在意義の悪霊風情。己が憎しみ晴らせるならば、他の些事など知ったことかい。グダグダ言ってねえでさっさとかかって来な。あんたの生首ぶら下げて行けば、里人の肉は恐怖でもっと美味になるだろうよ」

 気分よく、ベラベラと喋る。
 無論、何もかもがデタラメである。だが、場を盛り上げるのにはこれでもまだ足りないぐらいだ。

「なるほどな」

 博麗の巫女は深くため息を吐くと、左手の手紙をグシャグシャと丸めて放り捨てた。

「よく分かった。どうやら話し合う余地はないらしいな」
「当たり前だろ。妖怪が人間を襲い、巫女は妖怪を退治する。あたしらの間にそれ以外の何が必要なもんかね」
「黙れ、悪霊」

 再びお祓い棒を上げながら、巫女はキッと魅魔を睨みつける。

「わたしが思い描くこの郷の……人間と妖怪の未来は、決してそんなものではない。それでは旧き時代と何ら変わりないではないか」
「ほう」

 魅魔はわずかに眉を上げた。

「人間と妖怪の未来、ね。是非とも聞かせてもらいたいもんだ」
「それは」

 言いかけて、巫女は苦笑と共に首を振る。

「貴様のような者に話しても無駄なことだ」
「つれないねえ」
「黙れ。そうだな、この異変を解決してお前を封印したら、結界の中で暇つぶしに聞かせてやろう」
「はは、そりゃ残念。永遠に聞く機会はなさそうだねえ」

 じりじりと動き出す巫女に呼応して、魅魔も杖を両手に握り締める。周囲にゆらゆらといくつもの鬼火が立ち上り、場に緊張が漲った。

「あんたたち、手ぇ出すんじゃないよ」
「しかし魅魔様」
「黙んな。どの道、あたし以外の手に負える相手じゃあなさそうだ」

 口を出しかけた妖怪が、ごくりと唾を飲んで引き下がる。
 そうして誰もが無言で見守る中、魅魔は巫女と睨みあいながら静かに口を開いた。

「あたしは魅魔。この郷一の大悪霊にして大魔法使い様さ。巫女さんの名前も教えておくれよ」
「先日博麗の名を受け継いだばかりのわたしに、名乗る資格があるかは分からんが」

 巫女は一度瞼を閉じ、また静かに開く。

「わたしの名は博麗桜花。この郷の……楽園の未来を守る巫女だ」
「は。言うに事欠いて楽園とはね。あんたも妖怪の賢者様方のお題目を信じてるクチかい」

 小さくせせら笑いながらも、魅魔は巫女の視線を受け止める。
 どこまでも真っ直ぐな、射抜くような瞳だ。
 こんな目の持ち主と睨み合うのは、そう悪い気分ではない。

「それじゃあやろうかい、博麗桜花さん。名前通りにパッと散ってみせな!」
「言ってろ悪霊が。貴様など三秒経たずに成仏げほぁっ!?」

 突然、巫女が血を吐いた。

「……は?」

 思わず目を瞬く魅魔の前で、巫女はまた二、三度咳込み、そのたび新たな血を吐き散らす。
 そして、踏み止まる様子もなくばたりと倒れた。
 生温く気持ち悪い風が吹き、ざわざわと木々が揺れる魔法の森の真ん中で、誰もが何も言わずに立ち尽くす。
 ややあって、

「……えっと」
「す、すげぇや魅魔様!」

 ワッと湧いた妖怪たちが、一斉に魅魔に駆け寄って来た。

「一体なにをどうやったんです!?」
「もうすでに勝負は始まっていたってわけだ!」
「指一本触れずに博麗の巫女をぶっ倒すなんて、さすが大悪霊の魅魔様だ!」
「待てあんたら、あたしはまだ何も」

 魅魔が必死で言い訳しようとしたところで、ようやく巫女が動き始めた。
 地面に手を突いてフラフラと立ち上がり、吐血で赤く染まった白衣の上の口元を、腕で拭って不敵に笑い、

「なかなかやるわね……!」
「いやいやいやいや、何もやってないから! 何もやってないからねあたし!?」

 いかにも激闘の後のような表情で睨みつけてくる巫女に向かって、魅魔は慌てて手を振る。

「むしろなんなのあんた!? なんで突然血を……なに、病気、病気なのかい!?」
「フフン、何を言ってるのかさっぱり分からないわね。幼い頃から健康優良不良少女として有名なこのわたしが病気なわけうぼぁっ」

 再び吐血。巫女は白目を剥いて倒れた。

「ちょ、ちょっとちょっと!」

 魅魔は慌てて巫女のそばによると、身を屈めて様子を窺った。
 幸い、まだ息はある。死んではいないようだ。

「ああ、良かった」
「えーと、魅魔様?」

 ほっと息を吐く魅魔に、妖怪たちがおそるおそる呼びかけてくる。さすがに彼らも何か様子がおかしいことに気がついたらしい。
 魅魔は振り返ると、困惑している彼らに向かって怒鳴り散らした。

「馬鹿野郎、何をのんびりしてんだい!? 足の速い奴はさっさと里に行って医者を叩き起こしてくるんだよ! 残った連中はこの巫女さんをそこの亀爺さんの背に乗せる。いいかい、そーっとやるんだよ」
「いやあの、魅魔様」
「駆け足ぃっ!」
「はいっ!」

 数人の妖怪がバタバタと森の出口に向かって駆けていく。
 残った者たちに命じて巫女を運ばせながら、魅魔は嘆息混じりに空を仰いだ。

「何がどうなってんだ、一体……」

 地の騒ぎなど知らぬげに輝き続ける月に向かってぼやいてみても、もちろん答えはなかった。



 ――西暦1996年。
 幻想郷の夜は常に変わらず、退屈なほどに穏やかで、静かだった。






 博麗神社の鳥居の根本に腰かけて、魅魔はふてくされていた。
 あれからほんの数刻ほど。周囲は未だ深い闇の中にあり、背後の境内も至って静かである。

「……ま、ここが静かなのは昔っから変わんないけどさ」

 むしろ神社の境内が騒がしかったらそれはそれで問題か、と微苦笑する。
 のそりのそりと何かを引きずるような音が聞こえてきたので振り返ってみると、闇の向こうから大きな亀が歩み出てきたところであった。

「玄さん。どうだい、巫女さんの様子は」
「容態は落ち着いたようですな。医者殿によりますと、昔から体の弱いお方だったそうで」
「やっぱりね。無理してたってわけだ」

 小さくため息を吐く魅魔の傍らに寄りながら、玄爺は周囲を見回す。

「あの者たちはいかがなさいましたかな」
「今日集めた妖怪連中かい? もうとっくに散っちまったよ。ったく、折角集めたのにさ」

 魅魔はぴらぴらと手を振りながらぼやく。
 あの妖怪たちは、今日の異変の賑やかしとして魅魔が集めた連中だった。
 もちろん常日頃から部下として扱っているわけではないので、忠誠心などあるはずがない。魅魔様などと呼ばせていたのは、単にその場のノリである。
 巫女が食えるわけでもなく退屈しのぎの異変が起こせるわけでもないと知ると、「白けたな」「萎えるわ」などと吐き捨てて、てんでばらばらに去って行ってしまったのである。

「ま、無理もないけどさ」
「そう気を落とされずに。死人が出ずに済んで何よりではありませぬか」
「死人、ね」

 魅魔は皮肉気に笑うと、月明かりの下に沈む幻想郷の大地をじっと見つめた。

「なあ玄さん。あたしがなんで今日異変を起こそうと思ったか、分かるかい?」
「はて。異変を復活させようとなさっていたのは、知っておりますが」
「うん、そう。旧き良き時代の習慣を、蘇らせたかったんだがねえ」
「旧き良き時代、ですか」

 玄爺が眉をひそめるのを見て、「そんな顔すんなよ」と魅魔は苦笑する。

「何も、昔みたいに人間と妖怪が本気で殺し合う時代に戻したいって意味じゃないんだ。でもねえ」

 黒い海のごとき闇の中に、遠く人里の灯がちらほらと浮かんでいる。

「大結界が張られて、もう百年以上経ってんだ。いつまた人間と妖怪の殺し合いが始まるか、龍神様のお怒り喰らって郷が滅亡するかってピリピリしてた、結界構築直後の時代ならいざ知らずさ。人間は完全に代替わりしてるし、妖怪の傷だって十分に癒えたはずだろ。そろそろ、新しい関係って奴を考えてもいいんじゃないかと思うんだがね、あたしゃ」
「新しい関係、ですか」
「そう。妖怪が人間を襲って、人間が妖怪を退治する。昔ながらの流れさ」
「仰ることの意味はよく分かりますが、しかし」
「ああ、分かるよ。みなまで言うな」

 渋い顔をする玄爺に、魅魔はぼやくように返す。
 博麗大結界が張られ、幻想郷が外の世界から切り離されて早百年以上の年月が経過している。
 その間、妖怪たちは賢者たちの言いつけに従って郷の人間を襲わず殺さず、郷の人間たちもみだりに妖怪の領域を侵してはならぬという掟を守って、昼の世界にのみ生きてきた。
 そういった慣習あるいは不文律は、この長い年月の間に十分浸透し、根付いたと言える。特に人間側の謙虚さやその教えの継承は見事と言うほかなく、どんなはぐれ者だろうが年端のいかぬ子供だろうが、悪戯に夜の世界に足を踏み入れる者は皆無である。
 かつて大結界を構築し幻想郷を創造した際、妖怪の賢者たちは己の命を賭けて永遠の平和を誓い、郷の最高神である龍神の許しを得た。一度この誓いが破られれば、龍神の怒りは賢者たちの命のみならずこの郷そのものを完全に崩壊させるだろう、と言われている。
 だが、大結界の構築以来龍神が降臨したことはなく、今現在まで郷とそこに住む者たちは安穏と生き永らえている。
 つまり、平和という観点のみに絞って言えば、妖怪の賢者たちの努力は十分に実を結んでいると言えるだろう。
 人間は里のみで暮らし、みだりに妖怪たちの世界に足を踏み入れないこと。
 妖怪は誓いを忘れず、軽はずみに人間たちを襲ったり、喰らったりしないこと。
 両者が多少の窮屈を我慢しているからこそ、保たれている平和である。

「でもねえ、玄さん。あたしゃどうも、つまらないと思うんだよね」
「つまらない、ですか」
「そうさ。今日集まったあの連中のことを考えてみなよ。あたしが声かけるまでは、どいつもこいつもやる気のない顔してぼんやりしていやがっただろう。それがどうだい、異変を起こして人間と戦うとなった途端にああも盛り上がって、生き生きした顔になりやがった。玄さん、あたしは思うんだ。やっぱさ、妖怪ってのは人間と関わってナンボだよ。襲うんでも脅かすんでも迷惑かけるんでも、なんでもいいけどさ。やっぱり何かしらの繋がりは必要だ。今のこの郷みたいに、お互いただ不干渉のまま生きるってのは、不健全っていうか歪っていうかさ。ともかく、何か違うと思うんだよね」

 魅魔がそう言うと、玄爺は小さく笑った。

「何がおかしいんだい」
「いやいや、失礼。ですが、どうも」

 ちらりと魅魔の顔を見ながら、

「仮にも悪霊である魅魔殿の口から不健全だの歪だのという言葉が出るのが、どうにもおかしかったもので」
「ああ。まあ、分かるけど」

 魅魔は顔をしかめながらも、

「でもねえ玄さん。あたしの言うことだって、ちったあ分かるんじゃないかい?」
「ふむ。まあ、多少は。しかし」

 玄爺は困惑したように眉をひそめる。

「何せ、ワシも一介の野良妖怪に過ぎませんからな。そういった大きな問題をどうこうしようという気には、どうも」
「んー。ま、仕方ないとは思うけど」
「妖怪の賢者様たちは、どうお考えなのでしょうな」
「賢者どもかい? あー、駄目駄目、あの連中は駄目だ」

 魅魔はぷらぷらと手を振る。

「八雲の御大も天魔の爺さんも河童の族長も。あの連中は基本的にみんな保守的なのさ。無論、あたしが指摘した不健康さみたいなものにはとっくに気付いているんだろうが、だからって動きようがない。下手な形で異変や妖怪退治の仕組みを復活させようもんなら、また昔みたいな血みどろの時代に逆戻りするんじゃないかって危惧しているんだ。この百年ほど郷の平和を維持してきた、連中の努力や手腕は認めるがね。でも、あいつらにはそれ以上のことは出来ないよ。八雲の御大たちに現状を変える力はない。あったらもうちょっと楽しい郷になってるはずだからね。老人に時代は作れないってことさ」

 そう言って、魅魔は目を細める。

「……連中の危惧も、分からなくはないんだがね。この地の平和が乱されりゃ、龍神様のお怒りで何もかもが水の底に押し流されちまう。現状維持が一番って考えるのは当然かもしれない。でもねえ、玄さん」

 魅魔は立ち上がって石段に背を向けると、腕を伸ばして幻想郷の大地を指した。

「この郷の有様を見なよ。いったいどこに生きる喜びがあるってんだ? どいつもこいつも生きてるんだか死んでるんだか分かりゃしない。まるででっかい墓場だよ。こんな場所じゃ、あってもなくても同じような」
「魅魔殿」

 玄爺は静かに魅魔の言葉を遮った。
 妖怪亀の意外なほど深い声音に、悪霊女は口を噤む。

「……仮に退屈であったとしても、やはりこの場所は必要なのです。つい先刻も申し上げましたが、存在を否定され滅びの運命を与えられ、それでもなお生きたいと願った者たちが、苦心の末に作り上げたのがこの郷なのですからな。魅魔殿のお気持ちも分かりますが」

 玄爺は闇にまどろむ幻想郷の大地を見つめて、細く息を吐き出した。

「退屈であろうと不健全であろうと形が歪であろうと、我々は皆生きております。それを墓場などと断じてしまうのは、言いすぎというものではありませんかな。それでは過去にこの地で命を落とした者たちが、あまりにも報われますまい」

 玄爺は悼むように瞼を閉じる。
 魅魔は気まずげに「あー」と声を垂らして、頭を掻いた。

「……ごめん、言いすぎた。あんまり極端すぎたな。あたしと違って、静かな暮らしの方が好きだって奴もいるだろうし」
「ホホ。悪霊らしからぬお気遣いですな」
「さっきも言ったろ。あたしだって、別に昔みたいな血みどろ幻想郷に戻したいわけじゃあないんだよ」

 でもねえ、と魅魔は首を捻る。

「やっぱなあ。どうも、嫌なんだよねえ。何と言うか、つまらん。玄さんだって、退屈なよりは楽しい方がいいだろ?」
「そうですなあ。確かに、若い者から活気が感じられんというのは、ちと寂しくはありますな」

 玄爺は目を細める。

「なにかこう、今の平和を保ったまま異変や妖怪退治を復活させる方法は、ないものでしょうかな」
「そう思って、今回の異変ごっこを思いついたんだけどねえ。せめて力の強い巫女辺りとなら、茶番みたいな異変劇ぐらいは演じられるんじゃないかと思ってさ」

 魅魔はため息交じりに首を振った。

「でも、肝心の巫女があの調子じゃあね。しばらくは退屈な時代が続きそうだよ」

 ぼやくように言ったあと、魅魔は玄爺の甲羅に腰かけた。文句の一つも言わず、妖怪亀が宙に浮く。
 月の夜空を飛んでいると、生温い風が頬をくすぐった。魅魔は顔をしかめて「気持ちわる」と呟く。
 そのときふと、

「時代。そう、次代、と言えば」
「なんだい、玄さん」
「いや。あの巫女殿、おそらく長くはありませんな」
「そうだねえ。いきなり血ぃ吐いてたし、近くで見たら死相が出てたし」

 それがどうかしたのか、と首を傾げると、玄爺は前を見て飛んだまま不思議そうに言った。

「あまり噂も聞きませんが、後継者は決まっておるのですかな」
「ああ。天魔の爺さんに聞いたところじゃ、決まってるらしいよ。あの爺め、今代が虚弱だってことは教えてくれなかったくせに、まだガキの次代のことはそれはもう詳しく……まあともかく、もう博麗神社で修行してるってさ」
「ほほう。ならば、魅魔殿も次代に望みを託されてはいかがですかな?」
「ああ、ダメダメ」

 魅魔は眉をひそめて手を振った。

「その次代っての、まだ年端もいかないガキらしいんだけどね。まるで人形みたいに無表情な娘らしいよ。あのロリコン天魔が『顔はまあ可愛いんだけどさ。僕には人形を愛でる趣味はないんだよね。そういうのって変態だと思うよ』とかなんとか抜かしてたぐらいだ。よほど面白味のないガキなんだろうさ。そんなのが、異変ごっこに付き合ってくれるとは思えないね」
「やはりそうですか」
「やはりって?」
「いや。実は、先ほど博麗神社の母屋から出てきたとき、別の部屋から厠に向かう小さな人影を見かけましてな」
「ああ。それでさっきみたいな話を」
「ええ。真っ暗なのに少しも怖がる様子がなかったもので、変わった子供だとは思っておりましたが。道理で」
「へえ。じゃ、やっぱり確定だね」

 魅魔は退屈紛れに欠伸をする。

「次代の博麗は、つまらん奴らしいや。確か、博麗靈夢とか言ったっけかな」



 小さく呻いて、博麗桜花は目を覚ました。
 億劫に思いながらも瞼を上げると、夜闇の向こうに薄らと、見慣れた母屋の天井が見える。庭に面した居間兼寝室に敷かれた布団の中で、眠っていたようだった。
 いつの間に帰ったんだっけ、とか、そもそも何をしていたんだっけ、だとかいった疑問が、ぼんやりと頭に浮かんでくる。
 どうも意識が混濁しているようで、まともに物が考えられない。
 そうしてしばらく無言のまま横たわっていると、縁側へと続く障子が、ぼんやりとした灯りに照らし出された。
 すっと障子が開き、周囲に照明用の妖火を浮かべた女性が、足音も立てずに部屋の中へ入ってくる。

「あ、起きてたか」

 安堵したような声。郷ではあまり見かけない、洋風の出で立ちをした女性である。
 女性は後ろ手に障子を閉めると、こちらに歩み寄って来た。同時に妖火が天井付近まで昇り、部屋全体がぼんやりとした明るさに満たされる。

「お邪魔するよ、巫女殿」
「……小兎のおばさん」

 人間の里内部の治安を守る、警備隊の隊長を務めている女性である。仮装好きな娘がいるらしいだけあってやや小皺が目立つものの、年の割には若々しく、凛々しい面立ちをしている。
 彼女は人里の治安を一手に担っているだけあって顔が広く、郷の要である博麗の巫女たる桜花とも、多少なりとも親交があった。
 なんでこの人がここに、と思った瞬間、記憶が一気に蘇ってくる。
 桜花はがばりと跳ね起き、慌てて尋ねた。

「あの妖怪たちは!?」
「落ち着きな」

 苦笑しながら手の平を見せて、小兎は桜花をなだめた。

「魅魔とかいう悪霊の子分どもなら、あんたのことあたしに知らせるなりとっとと解散しちまったよ。悪霊本人ももう見当たらないしね。あたしはお医者先生を里に送ってとんぼ返りしてきたのさ。ちょいと、あんたのことが気になってね」

 小兎は枕元に座ると、桜花の顔を見て微笑んだ。

「うん、ちょっとはマシな顔色になったみたいだね。結構結構。とりあえず寝ときな。やたらと血ぃ吐いたらしいしね、あんた」
「血……」

 そういえばそうだったな、と思って、ようやく胸がズキズキと痛むのに気がついた。
 顔をしかめて布団の中に戻り、大きく息を吐く。

「悪いことしちゃったな」
「ん。ああ、あたしのことだったら気にしなくても」
「あ、ううん。小兎さんやお医者様にもそうなんだけど、あの悪霊たちにもね」
「なんだって?」

 小兎が怪訝そうな顔をしたので、桜花は力なく笑った。

「だって、本気じゃなかったんでしょ? 人里を襲うとかなんとか」
「ああ、まあね。その辺の誤解も解いとかなくちゃならんと思って、あたしは今ここにいるわけだけど」

 どうして分かったのか、と言いたげに、小兎は眉をひそめる。桜花は苦笑した。

「森の奥で一目見たとき、なんとなく分かったのよ。ああ、これは遊びみたいなもんなんだなって。だから付き合ってあげるつもりだったんだけど」
「なるほど。さすが巫女殿、勘が鋭いね。先代も妙に察しのいいお方ではあったが」

 そう言いつつも、小兎は首を傾げる。

「しかし、なんで付き合ってやろうなんて思ったんだい? 妖怪相手に、そんな義理もないだろうに」
「だって、楽しそうだったんだもの。怠け者揃いのこの郷の妖怪にしては、珍しいと思わない?」

 我ながら馬鹿みたいな理由だな、とは思う。
 案の定、小兎も呆れたように顔をしかめていた。

「あのね巫女殿。だからって、何も一人で行くような無茶するこたあないだろう。里にはあたしや慧音先生もいらっしゃるんだし、誰かに協力を求めるなりなんなりするべきだったんじゃないのかい」
「でも、悪さする妖怪を退治するのは博麗の巫女の役目だし」
「まあ、分かるがね」

 ちょっと言い辛そうにしながらも、小兎は声をひそめて言った。

「あんただって、自分の体の弱さは知っているんだろう? もし万一、連中が本気だったらどうするつもりだったんだい。今頃喰われちまってるよ、あんた」
「あはは。ホント、弱っちいよね、わたし」

 笑いながら、桜花は目を細める。
 母屋の古ぼけた天井が、やけに歪んで見えた。

「妖怪退治が役目の巫女のくせに。ちょっと全力で飛んだぐらいで血なんか吐いちゃって。そもそもなんで血なんか吐くんだろうね。病気じゃないらしいんだけど。お医者様も原因不明とか言って匙投げちゃうし。『そういう運命だとしか言いようがない』とかなんとか言っちゃってさ。あんた本当に医者かって話よ、全く」
「巫女殿」

 小兎は眉根を寄せて呟いたあと、姿勢を正して表情を引き締めた。

「あんたがこんな無茶をするようなら、言っておかなくちゃならないだろうね」
「わたしがもう長くないって話?」

 さらりと言うと、小兎が目を見開いた。
 一つ咳をして、桜花は笑みを作る。

「そりゃ分かるわよ。自分の体だもの。日に日に手足に力が入らなくなってくるし、やけに体が重いし、今日は意味不明に血まで吐いちゃうし。その上、ちょっと前はあんな子供まで現れる。病気でもないなら寿命なんだろうなって思うのが当然じゃない。それに、知り合いの易者もそんなこと言ってたしさ。覚悟は出来てるから、気を遣わなくていいよ」

 ため息を共に目を閉じると、瞼の裏にやせ細った老婆の背中が浮かんだ。

「先代は、あんなに長生きしたのにね。巫女には短命なのと長命なのがいるって話だけど、わたしは明らかに前者だなあ」
「分かっているなら、大人しくしていなさい」

 小兎はたしなめるように言った。

「穏やかに日々を過ごせば、もう少しは長く生きられるはずだよ。娘さんのためにもさ」
「娘?」

 桜花は皮肉っぽく言った。

「あの子はわたしがいてもいなくても大して変わんないわよ。何考えてるんだか全然分かんないんだから」
「あのね、いくら拾い子だからって、自分の娘に対してそんな言い方は」
「小兎さんだって、あの子を育ててみりゃ分かるわよ。こっちが何言ったってほとんど反応しないのよ? そのくせ巫女修行のことにはやたらと過敏に反応するしさ。まるで人形相手にしてるみたいで、空しくなってくるのよ」

 疲労のためか、自分でも分かるほど口調が荒くなってくる。

「あーあ。あの子も小兎さんちの姫ちゃんとか、霧雨さんとこの魔理沙ちゃんみたいだったらなあ。そしたらわたしだって、もうちょっと」
「巫女殿」

 先ほどよりも強い口調で小兎が遮ったので、桜花は口を噤んだ。
 ほんの少しだけ、頭に冷静さが戻ってくる。急に気恥ずかしくなってきた。

「ごめん」
「いや、いいよ。疲れているときは、誰だって弱気になるものさ」
「違うの。別に、あの子が憎いわけじゃ」
「分かってるよ。大丈夫だから」

 小兎は優しく微笑むと、桜花の額にそっと手の平を乗せた。
 少々乾いていて硬いが、冷たくて気持ちのいい手の平だった。

「さ、もう休みなさい。喋っていると、また具合が悪くなるかもしれないからね」
「……うん」

 桜花が小さく頷くと、小兎は安心させるように言った。

「大丈夫、妖怪だって、この数十年ほどは静かなものなんだ。里の人たちが襲われるようなことはまずあり得ないし、あってもあたしや慧音先生が何とかするさ。こんなことしか言えなくて申し訳ないけれど」

 小兎は少し躊躇いがちに言う。

「あんたは何も心配せずに、大人しくしていておくれよ。あんたが郷のために一生懸命やってくれたっていうの、あたしたちにはちゃんと分かってるから。先代だって、きっと褒めて下さるよ」

 それじゃあお休み、と囁いて、小兎は静かに立ち上がる。
 彼女が立ち去ってからしばらくした後、桜花は一人、闇の中で呟いた。

「でもさ、小兎さん。大人しくしてちゃ、何も出来ない内に終わっちゃうよ」

 視界が歪んで、はらりはらりと涙が零れた。



 雀の鳴き交わす声がかすかに聞こえてきて、桜花は呻きながら瞼を開けた。
 閉ざされた障子の向こうから、春らしく暖かい日差しが降り注いでくる。
 にも関わらず、桜花の体はやけに重い。起き上がるのも億劫だ。
 日に日に全身を包み込む気だるさが増してくるようで、ため息を吐きたくなってくる。

「やれやれ」

 小さく呟きながらふと枕元を見ると、そこに小さな女の子が座っていた。
 長い黒髪を頭の上で束ねた、四、五歳程度の幼子だ。白衣に緋袴を身に纏って、かすかな身じろぎもせずに正座している。
 なかなか可愛らしい顔立ちをしているが、子供らしくない無表情のために、どこか浮世離れした不気味な印象を漂わせている。

「……おはよう、靈夢」

 半ば無駄と知りつつ、桜花は掠れた声で娘に呼びかける。
 案の定、返事はない。靈夢はただじっと桜花を見つめている。

「いつからそこにいたの」

 無言。

「……朝ごはんはもう食べた?」

 やはり、返事はない。
 まるで、そんな質問に答えるのは無意味だとでも言わんばかりの態度だ。
 桜花はそれ以上何か問いかける気も起きず、少しうんざりしながら、

「……いつも通りに修行を始めなさい。境内の掃除も忘れずに」

 桜花がそう言うと、靈夢は頷きもせずにすっと立ち上がり、音もなく部屋を出ていった。
 血の繋がらぬ娘が閉めていった障子を見つめながら、桜花は小さく息を吐く。

 博麗桜花があの不思議な童と出会ったのは、およそ半年ほど前のことである。
 人里に買い物に行って帰ってきたら、まるで何かを待つように鳥居の下に佇んでいたのだ。
 秋も半ばの、少々肌寒い季節のこと。にも関わらず、まるで今生まれ落ちたばかりの赤子のごとく、少女は丸裸で佇んでいた。それだけでも十分に驚かされたが、さらに驚くことに、あの子は寒がる様子を微塵も見せなかったのだ。
 まるで、寒さなど感じていないかのような風情であった。
 桜花はあまりのことに呆気に取られつつも、ともかくこのままではいけないと思って少女を母屋の中に連れていき、自分が昔使っていた子供用の衣を着せた。
 そうしてからお前は一体どこの子だ、あんなところに裸ん坊で何をしていたのだ、名前はなんと言うのだ、などとあれこれ尋ねてみたが、少女はただじっと桜花を見つめるばかりで、全く答えを返さない。
 その様子を見て、桜花はなんとなく理解した。
 折しも妙に疲れやすくなり、原因不明の体力の衰えを感じ始めていた頃である。
 故に何となく、「この子が次代の博麗なのだな」ということを察したのだ。同時に、自分の命があとわずかであることも、否応なく実感することとなった。
 念のために小兎にも確認を取ってみたが、人間の里にはそれらしい子供はおらず、もちろんどこかの家の子供が行方不明になったと言うこともなかったらしい。
 それでいよいよ確信が深まったので、桜花は少女を引き取り、次代の巫女として育てることにした。
 だが、桜花自ら靈夢と名付けたあの少女は、出会い方同様なんとも人間味のない、下手をすれば不気味に感じるほど浮世離れした子供だった。
 巫女修行に関することだけは教えればすぐに覚えたし、どこで学んだものやら料理などの生きていくために必要な家事全般も、必要最低限は身につけているようだった。
 だが、他のことには一切興味を示さない。
 それどころか、ほんのかすかな感情の片鱗すら窺わせないのだった。笑いもしなければ泣きもしない。何か欲しがることも、何かしたいと言うこともない。子供らしさどころか、人間らしさというものがほとんど感じられないのだ。
 まるで博麗の巫女であることのみが自分の存在理由だとでも言わんばかりの様子であった。
 桜花も最初こそあれこれと尋ねかけたり話しかけたりしていたのだが、靈夢があまりにも無反応なためにその内すっかり諦めてしまい、最近ではごくごく事務的な会話しか交わしていない。
 いよいよ死期が近づいてきたらしく、疲労の度合が前よりも酷くなってきたのも一因ではあるが。

「あんな子が次代じゃあ、ね」

 布団の中から抜け出す元気すらなく、桜花は力なく笑う。

「先代の願いが成就する日は、限りなく遠そうだわ」



 そのまましばらくまどろんで、桜花はようやく布団から抜け出した。
 体は重しでもつけているように重いが、それでも出かけなくてはならない。里に細々とした買い物の用事があるのだ。靈夢に行かせることも考えたが、あの子供を一人で使いに出すのは何となく不安だった。

(まあ、ゆっくり飛んでいけば大丈夫、よね)

 寝衣から巫女装束に着替えつつ、小さく呼吸する。軽く吐き出したつもりだったのに、やけに重い息が漏れて、我ながら少しおかしかった。
 買い物籠を持ち、引きずるような足取りで境内に出ると、靈夢は小さな箒で石畳の上を掃き清めていた。

「里に買い物に行ってくるわ」

 一応声をかけたが、やはり返事はない。ただ、規則的に箒を動かしているばかり。
 もはやため息を吐く気にもならず、桜花は重い体に鞭打って空へと浮かび上がった。



 買い物を済ませた帰り道、低空をフラフラと飛びながら、桜花は予想以上に深い疲労を感じていた。その上、時折吹きつけてくる風は初春という季節を感じさせぬほどに生温く、例えようもないほど不快である。
 その内とうとう飛んでいるのが辛くなり、桜花はゆっくりと地面に降り立った。街道沿いに生えている一本の木の幹に手を突き、息を整える。額に手をつけると、じっとりと汗が滲んでいた。

(……里に買い物に行くのも、きっとこれで最後だなあ)

 小言を言われたら嫌だと思って、小兎のところに顔を出していなかったことを少し後悔する。
 幹に背をつけてぼんやり頭上を見上げたとき、桜花はふと、それが桜の木であることに気がついた。

(まだ、花が咲くには早いか。今年の桜、見られるかな)

 博麗神社がある小山の桜は、気難しい先代ですら得意げに自慢するほど綺麗で、見事なものである。

(もしもあの桜が満開になってるのを見たら、あの子も笑顔の一つぐらいは見せてくれるかな)

 そんなことを考えて、桜花は小さく苦笑する。
 そもそも、それまで生きていられるかどうかも分からないというのに。

(大体、あの子が桜をきれいだと思う心を持ち合わせてるなんて、とても)

 そのときふと、背後から何やら騒がしい声が聞こえてきて、桜花は眉をひそめた。
 木の幹越しに後方を見やると、街道から少し離れた林の隙間に、いくつかの人影が見える。

「なんだテメェ!?」
「やんのかコラ!?」

 二つの粗野な罵声と共に、囃し立てるような声もいくつか聞こえてくる。
 どうも、二人の妖怪が喧嘩しているらしかった。少し距離が空いているためよくは分からないが、どちらも鎧のような甲殻を背負った、虫の妖怪のようだ。

(止めないと)

 自然に、そう思う。
 無論、人間が襲われているわけではないし、小さな喧嘩すら認められていないほど、龍神への誓いは厳しいものではない。
 それでも止めようと、桜花は思った。
 見かけた以上、博麗の巫女として放っておくことは出来ない、と。
 一旦買い物籠をその場に置き、疲労に重い体に鞭打ってフラフラと飛んで、妖怪たちに接近する。地に降り立って林の中に踏み入り、声を上げながら近寄った。

「そこの妖怪。争い事はやめなさい!」

 喉が嗄れたように、掠れた声しか出なかった。
 幸い、二人の蟲妖怪を囲んでいた妖怪たちの内の一人がこちらに気づき、「お、おい、見ろ!」と声を上げてくれたおかげで、その場の連中が全員桜花に目を向けた。
 誰もが驚いたように目を見開き、それから気まずげにぼそぼそと声を交わし始める。

「巫女だぜ」
「やべえな、オイ」
「逃げようぜ」

 中にはこっそりとその場を立ち去る者までいる。
 しかし、その顔にあるのは恐怖ではなく、単に面倒くさそうで気まずげな表情だけだ。
 そのことを妙に思いつつも、桜花は必死に声を張り上げる。

「郷の平和を乱す者は、この博麗の巫女がゆるさ」

 そこまで言いかけたところで、不意に息が詰まった。
 肺が苦しくなり、ゲホゲホと咳が漏れる。

「お、おいおい」
「大丈夫かよ」

 喧嘩していたはずの蟲妖怪二人が、慌てた様子でこちらに近づいてきた。
 桜花が反射的に符の入った懐に手を差し入れると、二人は「やめろやめろ!」と大急ぎで手を振った。

「無理すんな、巫女さんよ!」
「んなことしてあんたに倒れられでもしたら、こっちが迷惑すんだよ!」
「な……」

 絶句する桜花の前で、蟲妖怪二人は顔をしかめて迷惑そうに声をかけてくる。

「分かったよ。喧嘩なら止めるから、さっさとどっか行ってくれ」
「また血でも吐かれたら面倒なことになるからな」
「死にかけ女は神社で大人しくしててくれってこったな」
「死にかけですって……!?」

 桜花が顔を歪めると、その言葉を漏らした方でない蟲妖怪が、「こら」と相方を肘で突き、ぎこちない愛想笑いを浮かべた。

「ははは、いやいやなんでもねえよ。ともかくこれで話はお終いだ。あんたも帰ってくれよ、な?」

 それだけ言って、二人と周囲の妖怪たちはぞろぞろと林の奥へと消えていく。

「ケッ。なんでえ、出しゃばりやがって」
「こっちは手出し出来ねえのに、あっちはちょっと叩いたら死んじまいそうな死にかけ女だもんな」
「白けるよなあ、ホント」
「そもそもお前が悪いんだぜ、姫様は男の子に違いねえとか言い出すから」
「いや、絶対そうだって」
「馬鹿かお前、前もんなこと聞かれて姫様泣かしただろうが。ちったあ学習しろこの虫頭が」
「んだとテメェ」
「あー、やめろやめろ、喧嘩したらまた死にかけ巫女が飛んでくるぜ」
「たまんねえよなあ、ホント」

 蟲妖怪たちの声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
 生温い風が木々を揺らす林の中で、桜花はしばらくの間無言で佇んでいた。
 やがてとぼとぼ歩いて林を抜け出すと、街道沿いの木の根元に置いておいた買い物籠を回収し、休み休み飛んで神社に帰りついた。
 掃除を終えて符を投げる練習に移っている靈夢の横を通りすぎて、縁側から母屋に入る。
 買い物籠を投げ出して、敷きっぱなしの布団の上にふらりと身を投げ出す。
 腕で目元を覆うと、ひっ、と小さな呼気が喉の奥から漏れだした。

(野良妖怪の喧嘩相手にもなれやしないなんて。これじゃ、いったいなんのための巫女なのよ)

 もはや、起き上がる気力も湧いてこなかった。



 いつまで経っても起きる元気が湧かず、桜花は布団の上でうとうととまどろんでいた。
 そうして、どのぐらいの時間が経った頃だろう。気付けば差し込む光が橙色に染まり始めていて、閉め切った障子の向こうから鴉の泣き声が聞こえ始めていた。
 そんな折、不意に障子が開いて、誰かが部屋の中に入って来る。

「邪魔するぜ」

 ざらついた声である。腕をどかして薄目を開けると、ぼやけた視界の向こうに見覚えのある人影が見えた。
 笠を被りボロ着を纏った、薄汚い老人である。これでもれっきとした妖怪らしい。何と言う種族なのかは知らないが、本人は未来視の易者妖怪だ、などと名乗っていた。冗談めかして、妖怪の賢者たちの一人だなどと言っていたこともある。
 ともかく彼はそういう胡散臭い妖怪で、先代が生きていた頃から時折博麗神社に訪れていた。無論桜花も何度か話をしたことがある。
 数か月前、靈夢と出会った直後の桜花に、遠くない死を宣告しに来たのも彼だった。
 易者は物も言わずに部屋を横切ると、桜花のそばに腰を下ろした。

「やあ、いらっしゃい」

 桜花はそう言いながら起き上ろうとしたが、どうにも力が入らない。
 それを見た易者が、笠を脱ぎつつ淡々とした口調で、

「無理すんな。そのままでいい」

 と言ったので、渋々ながら従うことにした。
 そうして横たわったまま、ふと、

「靈夢はどうしてた?」
「あん? ああ、あの子供か」

 易者は皺だらけの顔をしかめながら、

「どうしてた、っつってもな。境内で符を投げる練習してたぜ。俺がそば通り過ぎても無反応だったが」
「ああ、そう。いつも通りか」

 ふっ、と息を吐き、

「で、今日は何しに来たの?」
「ん。いやなに。大した用事じゃねえんだがな」

 ちらりと桜花の顔を見て、

「お前さん、もうじきだと易に出たもんでな。一応、挨拶しとこうと思ったのさ」
「ふうん。お医者様も同じようなこと仰ってたらしいけど。やっぱり、そうなのね」

 桜花が素っ気なく言うと、易者は疲れたように息を吐いた。

「なんだ。もうすっかり覚悟は出来てるってわけかい」
「いや。でもなんか、疲れちゃってね」

 気だるげに笑ってから、ふと、

「で、具体的にはいつ頃まで生きられるの、わたし?」
「さてね。そこまで詳しいことは分からねえんだ、俺の易は」
「どんな占い方なんだか」

 苦笑したあと、「ま、でも」と桜花は目を細める。

「いつ死んだって大して変わりないわね。生きてたって、何ができるってわけでもないし」
「なんだ、ずいぶん根暗だな」
「いろいろあるのよ。死にかけ女にはね」
「そうかい」

 それきり易者が黙ってしまったので、桜花は逆に問うた。

「冥土の土産に聞いておきたいんだけど」
「なんだ」
「靈夢のこと。あの子がどうなるか……いや、そもそも、あの子は一体なんなのか」
「なんなのか、ね」

 易者は皮肉っぽく唇を吊り上げた。

「まるで、あれが人間じゃないような言い方をするね」
「似たようなもんでしょ。あの子と喋ってても、とても人間の相手してるとは思えないもの。そこらの妖怪の方がまだ人間味があるぐらいよ」
「ふうん。ま、無理もねえわな」
「ってことは、やっぱり何か知ってるのね?」
「まあな。あの子の未来はえらく曖昧で、俺の易でも判然としないんだが、性質だけは不思議とはっきり視えるんだ」

 易者は薄く短い頭をざらりと撫でると、かすかに不快そうに眉をひそめて話し出した。

「あの子は生まれつき、ちょいと特殊な能力を持ってるみてえでな」
「特殊な能力?」
「そう。空を飛ぶ程度の能力っていうらしいが」
「空を飛ぶ、って」

 理解できず、桜花は顔をしかめる。

「空飛ぶぐらい、この郷じゃ対して珍しくもないじゃない。大体、あの子はまだ飛べないみたいだし」
「俺に文句言うな。とにかくそういう能力だって易に出たんだよ」
「だからどういう占い方なのよ」

 ぼやいたあと、「で?」と桜花は先を促す。

「具体的には、どんな能力なの?」
「そうさな。その名の通り、重力から解き放たれる……いや、正確には自分を縛るありとあらゆるものから自由になる能力、とでも言おうかね。何物にも縛られず、何物にも囚われず。そんな稀有な性質を持っている子供なのさ、あれは」

 やはりよく分からずに桜花が小さく唸ると、「逆に言えば」と易者は肩を竦めた。

「この世に存在するありとあらゆるものと、つながりを持てないってことにもなる」
「つながりを……?」

 こちらの問いかけに何の反応も示さない、靈夢の無表情が頭に浮かぶ。
 何故か、桜花の背筋がぞくりと震えた。
 易者は、そうさ、と頷きながら、

「何物にも囚われないが故に、あの子供にとっては何もかもが平坦に見えているんだろうよ。この世界に存在するありとあらゆるものが、何の意味もなさない。つまるところ、あの子供の世界には色がないんだな。嬉しいも悲しいも、好きも嫌いもないってことだ。物も人も、あの子供にとってはただそこにあるという以上の意味を持ってはいないんだろうよ」
「だけど……!」

 易者の言葉を認めたくないあまり、桜花は焦って反論する。

「あの子は、巫女の修行だけはちゃんとやってるわよ。ありとあらゆるものに価値を感じていないのなら、それにすら興味を示さないはずじゃないの?」
「そこはまあ、確かに不思議だがな」

 易者は顎を撫でながら、一つ頷く。

「だが、お前さんとあの子供の出会い方を考えてみりゃ、多少合点のいく説明はできるぜ。何と言うかあの子供は、博麗大結界そのものが幻想郷維持のために生み落した、いわば部品みてえな子供なんじゃねえのかな。自分で言ってて訳が分からんが、俺にはそうとしか思えん」

 部品、という単語を聞いて、桜花はぎゅっと拳を握り締める。
 しかし、反論は浮かんでこなかった。疑問はいくつもあるが、それでも易者の説明はすんなりと心に入り込んできて、深い納得をもたらしたのだ。
 この数カ月ほど、物も言わず表情すら変えない靈夢と共に過ごしてきた桜花だったからこそ、なおさら納得せざるを得なかったのかもしれない。
 そうして黙り込んでしまった桜花を見て、易者はどこか憐れむような口調で、

「何はともあれ、あの子供には次代の巫女になるって自覚はあるみてえだ。生きていくのに不備はあるまいよ。一生涯、人間のように振舞うことはないだろうがね」

 桜花は返事をしない。何も言うことが出来ない。
 易者は居心地悪そうに身じろぎしたあと一つ咳払いをし、さっきよりも少しだけ柔らかい口調で、

「ま、なんだな。つまるところ、後のことは何の心配もいらんということさ。俺の易にも、波乱の未来なんぞは見えてねえ。幻想郷の平和は、変わらず維持されるってことだろうよ」

 言いながら笠を被り、横たわったままの桜花の肩を労わるように叩く。

「だからお前さんも、心安らかに、な」

 そう言って、易者は笠を被りながら立ち上がった。
 彼が障子を開けて出ていきかけたところで、桜花はようやく「待って」と掠れた声をかけた。

「なんだ」
「ひょっとしてあんた、さっきの一言のために、今日ここに来てくれたの?」
「ん。いやまあ、その……な」

 何か気まずそうに頬を掻く易者に、「どうして」と問いかけると、彼は黄昏に染まりつつある空を見つめながら、呟くように言った。

「昔この郷にゃ、他人の心が見える苦しさのあまり目を閉ざしちまった、繊細な覚り妖怪がいたらしいが」

 笠を引き下げて目元を隠しながら、

「俺もそいつと同じさ。未来が視えるからって、誰かの悲惨な運命をゲラゲラ笑えるようになるわけじゃあないんだぜ? そういうのを変えられる力を与えられているわけでもねえしな。だから何の助けにもなれなくてすまねえが」

 ほろ苦い微笑みと共にそう言うと、「じゃ、な」と静かに言い残し、易者は母屋を出ていった。
 残された桜花は一人、横たわったまま身じろぎもしなかった。



 桜花が物心ついたとき、先代の巫女は既に枯れ木のような老婆であった。歳は百を超えるか超えないかぐらいで、本人も正確には覚えていなかったようだ。
 先代はとても長命な人で、大結界構築時に博麗の名を継いで以降、一度も代替わりしないまま、巫女として幻想郷を見守ってきたらしい。
 そんな先代が桜花を引き取ったのは、その死の十数年ほど前のこと。流行病で家族が全滅したのに、なぜか一人生き残った赤子がいたと聞いた。それで「ああこの子か」と直感して、彼女を次代の巫女として育てることに決めたらしい。
 先代はとても厳しい人だったが、真摯に幻想郷を愛していた。
 よく縁側で桜花と共に茶を啜りながら、郷のことを語ってくれたものだ。
 大結界構築以降、自分は長い間この郷を守り続けてきた。龍神様への誓いを守るために。妖怪と人間が本気で殺し合うような、陰惨な郷へと逆戻りさせないために。
 大結界構築直後の混乱した情勢下を飛び回り、次々と郷に入ってくる新たな妖怪たちに最低限のルールを叩き込み。そうこうしている内に十年、二十年と時が過ぎ、頭が白くなり始めた頃になって、ようやく郷の状況も落ち着いてきた。
 かつて妖怪対人間の最前線とまで言われていた幻想郷が、誰もが平和に暮らせる場所へと変わったのだ。
 そんな穏やかな郷を見て先代は満足していたが、あるときふと気がついた。
 確かにこの郷は平和にはなったが、少々窮屈すぎはしないだろうか。
 狭い、という意味ももちろんあるが、誰もがおっかなびっくり縮こまっていて、どうもあまり楽しい気配がしない、と。
 それは贅沢な悩みだったかもしれないが、郷全体を覆う息が詰まるような閉塞感は、どうにも否定しようがない。
 なんとか出来ないものだろうか、と考えてはみたが、自分は既にくたびれ果てた年寄りだし、何よりも妖怪と人間が殺し合っていた、あの陰惨な時代の空気を引きずりすぎている。
 何かを変える力など、もう一欠片も残されてはいないのだ。
 そう語り終えたあと、骨ばった手で桜花の頭を撫でながら、

「だからねえ。お前が何かしらいいやり方を考えて、少しでもこの郷を楽しい場所に変えてくれれば、言うことはないんだがねえ」

 先代はそう言って、少しだけ寂しそうに笑っていた。
 もう、ずいぶん遠くなってしまった記憶。
 先代が死ぬより、数年も前の話だ。



 自分の呻き声を聞いて、桜花ははっと目を覚ました。
 ぜいぜいと荒く呼吸をしながら、目だけで周囲を見回す。
 いつの間にやら、朝になっていた。
 昨日易者が帰ったあと何をどうしたものか全く覚えていないが、寝衣に身を包んで、布団の中に収まっている。背中にぐっしょりと汗を掻いていた。
 昨日よりも体が重く、それ以上にやたらと息苦しい。
 束の間目を閉じて呼吸を整えたあと、ふと横を見ると、枕元に靈夢が座っていた。
 いつものように無表情のまま、じっとこちらを見つめている。

「……靈夢」

 掠れた声で呼びかけたが、それ以上何か言う気力は湧いてこなかった。
 結局何の指示も出さず、桜花はただ息を吐く。靈夢は何も言わずに、身じろぎもせずに座ったままだ。
 ぐったりとして目を瞑ると、先代の痩せ細った背中が闇の向こうに浮かんできた。

(心安らかに、か。先代は、穏やかな死に顔だったっけ)

 死の際に枯れ木のような手を握ったら、皺だらけの顔に見たことがないほど優しい微笑みを浮かべながら、

「お前がいてくれるなら、何の心配もなく逝けるよ。幻想郷のことを頼んだよ」

 と呟いて、先代はそのまま静かに息を引き取った。

(あんな夢見るなんて。いよいよ、死期が近いってことかな)

 ひょっとしたら今日かもしれない。
 そんなことを考えると、様々な光景が脳裏を過ぎった。
 平和だが退屈な郷の風景。妖怪たちの落胆した顔。先代の寂しそうな笑顔。
 そうして、ふと考える。
 自分はいったい、何のために生きてきたのだろう。
 何の意味があったんだろう、何の価値があったんだろう、何の喜びがあったんだろう。
 博麗の巫女として妖怪たちの相手をすることもできず、先代の願いを一欠片も果たせないまま、ただ死んでいくだけだなんて。

(こんなんじゃ、わたしの人生には道端の石ころほどの価値もない……)

 心残りはそれだけではない。
 今も自分の傍らに無表情で座っている、靈夢のことも気がかりだった。
 もうじき一人きりで、年端もいかぬ子供のまま博麗の名を継がなければならない幼子。
 易者が言ったとおり、生きていくことに不備はないだろう。
 彼女ならば、一人残された後も修行を積んで博麗の巫女としての役割を淡々とこなし、何の問題もなく幻想郷の平和を維持していくに違いない。
 だがそれでも、この子供のことが気がかりだ。

(靈夢。ああ、かわいそうな靈夢)

 生きる喜びも悲しみも、その意味すら知らぬまま、ただ空っぽの器を抱えて色のない空を飛び続ける少女。
 本人は何も感じないだろう。いつか死ぬときがきても、いや、おそらく死んでから後も、何も感じないに違いない。
 だからこそなおさら、この子のことが哀れでならない。
 何とかしてやりたいと思うのに、桜花には何もしてやれない。

(こんな小さな子供一人、助ける力がないだなんて)

 そう思うと何もかもがたまらなくなってきて、目の奥から勝手に熱いものがこみ上げてきた。
 桜花には、もはやそれを堪える気力も拭う力もない。
 ただ、はらりはらりと、涙が頬を伝い落ちる。



 そうして瞼を閉ざしたまま、どれぐらい泣き続けただろう。
 ふと、桜花の目元に、何か柔らかいものが触れた。
 驚いて瞼を上げると、靈夢が体を乗り出し腕を伸ばして、桜花の目元の涙を人差し指で拭っていた。黙ったまま元の姿勢に戻ると、わずかに濡れた指先を眼前に持っていって、ただじっと見つめ始める。
 その光景を見て、桜花は雷に打たれたような衝撃を受けていた。
 靈夢の顔には、やはり何の感情も浮かんではいない。
 今の行動だって、何を考えてのことかはよく分からなかった。
 何となくかもしれないし、ひょっとしたら、いつまで経っても桜花が何も言わないが故に、彼女が流す涙から何らかの指示を読み取ろうとでもしたのかもしれない。
 何にしても、靈夢の行動は絶望と諦観の淵にあった桜花の心に一種の天啓を与えた。
 まるで厚い雲間から一筋の光が差し込んできたかのように、胸の奥が少しずつ熱くなり始めていた。
 どうして、今の今まで思いつかなかったのだろう。易者の口から、この子の未来は曖昧だと言われたばかりだと言うのに。
 それはつまり、未来はまだ決まっていないと。
 運命を変えられる可能性があるということなのではないだろうか。

(きっと、そうに違いない)

 桜花はこの子供のことを、空っぽの器だと思っていた。
 多分、それは事実なのだろう。
 だがもしかしたら、その器はまだ閉じきってはいないのではないか。
 それならば、この子が成長して蓋が閉じきってしまう前に、器の中にありったけ中身を詰め込んでやれば、あるいは。

(嬉しいなあ)

 涙を拭って、桜花は笑った。
 全身に、かつてないほどの力が漲ってくる。

(こんな死にかけ女にも、まだやれることが残されてたなんて。嬉しくってたまらないや)

 桜花は大きく息を吐き、かっと目を見開いた。
 鼻を啜り上げながら身を起こし、布団の上に正座して、微笑みながら靈夢と向き合う。

「靈夢」

 声をかけると、靈夢は指先から目を離して顔を上げた。
 こちらと同じように正座しながら、じっと見つめ返してくる。
 桜花は小さく息を吸い込んでから、できる限り優しい声で語りかけた。

「靈夢。今まであんまり話したことなかったけどね。わたしとあんたは、親子なのよ」

 反応はない。気にせず続ける。

「そう、親子。わたしが母さんで、あんたが娘。分かる?」

 靈夢は無表情のまま、ただ目を瞬く。吸い込まれそうなほどに深く澄んだ、空っぽの黒い瞳だ。
 本当にこの子に何か詰め込めるんだろうか、と、少し不安になる。

(いや。迷うな、博麗桜花)

 心の中で首を振り、自分を叱咤する。

(反応がなかろうがなんだろうが、そんなことは関係ない。とにかくありったけの力で、この子の心にねじ込んでやるんだ。この子が人間になるための、何かを)

 桜花は深く息を吸い込み、「分かった」と笑った。

「今は分からなくてもいいわ。とりあえず、形から入りましょう」

 桜花は胸に手を添えて、小さく首を傾げた。

「わたしのこと、母さんって呼んでみて。ほら、母さんって」

 靈夢は相変わらず無表情のまま、ただ目を瞬く。
 何故そんなことをするのかさっぱり分からない、とでも言うような。

「いいのよ、意味は分からなくても。とにかくほら、母さんって。ね、靈夢」

 しかし、やはり無反応である。
 さてどうしたものかな、と唇を舐めたとき、桜花はふと気がついた。

「いい、靈夢」

 それこそ幼子に語りかける調子そのままに、桜花はゆっくりと言い聞かせる。

「これはね、あんたが立派な巫女になるためには、どうしても必要なことなのよ。だからほら、母さんって」

 そう言ったら、靈夢はようやく反応らしい反応を見せた。
 ぴくりとかすかに体を震わせ、ぎこちなく、小さく口を開く。

(やった!)

 今までにない反応に内心興奮しながらも、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

「そう、それでいいのよ。さ、言ってみて。母さんって」

 しかし靈夢は口を開いたまま、なかなか声を出さない。
 まるで声の出し方が分からないみたいだ、と思って、桜花はふと、自分が今まで靈夢の声を一度も聞いていないことに気がついた。
 まさかと思いつつも、

「靈夢。あんたひょっとして、声の出し方知らないの?」

 そう言ったら、靈夢は不意に口を閉じた。
 その顔は相変わらず無表情のままだったが、かすかに、恥ずかしがっている気配が感じられるような気もした。
 間違いなく単なる勘違いだろうが、それでもそう思えたという事実が、桜花の心を大いに元気づける。

「よし、それじゃあ、まずは声の出し方から練習しよ。大丈夫、ゆっくりやればいいから。ほらこうやって口を開けて、あー、って。ほら、あー」

 根気強く言い聞かせてやると、靈夢はようやく、再び口を開いてくれた。
 唇を桜花と同じ形にしたまま、何度か声にならない呼気を漏らしたあと、不意に、

「……あー……」

 ほんのかすかな声が耳朶をくすぐり、桜花は全身を震わせた。
 思わず靈夢の小さな体をがばっと抱きしめて、

「よくやった、偉い、偉いわよ、靈夢!」

 夢中で褒めてから、体を離す。靈夢は口を開いたまま固まっている。その顔が何となく間抜けに見えて、桜花は少し楽しくなってきた。

「よし、じゃあもう一回やってみよっか。大丈夫、きっとできるわ。ほら、あー、って」
「……あー」
「そうそう。ほらもう一回。あー」
「あー」

 そうやって昼ごろまで同じ練習を続けて、いくつか声を出せるようにはなった。
 しかし結局、「母さん」とはっきり発音するには至らず、

「じゃ、言ってみて。母さん、って」
「……あーあ」
「いや、違う違う。ほら、母さん、母さんって」
「……かー」
「んー……もう一声!」
「……かぁ。かぁ、かぁ」

 かぁ、かぁ、と靈夢は何度も繰り返す。本人はそれでいいと解釈したらしい。
 まるで鴉の鳴き声みたいだな、と思いながらも、桜花は笑って靈夢の頭を撫でてやった。

「ま、今のところはそれでいいや。もう一回呼んでみなさい」
「かぁ」
「よし、いいよ。もしもわたしに何か用事があるときは、そうやって呼べばいいから」

 桜花がそう言ってやると、靈夢はまた目を瞬いた。
 やはり、そうすることの意味はよく分かっていないらしい。

(ホント、変な子)

 苦笑しつつ、桜花はふと疑問に思う。
 巫女になるための修行をこなす以外にも、簡単な料理など、生きていくのに必要最低限のことは知っていたはずの靈夢が、なぜ声を発するという単純な動作のやり方を知らなかったのだろう、と。
 腕組みして考えて考えて、ようやく一つの仮説に辿りつく。
 多分、博麗の巫女としての仕事に声が必要なかったからではないか。
 本来神に仕えるのが巫女であるとは言え、博麗の巫女はその性質上、普通の巫女とはだいぶかけ離れている。
 はっきり言ってしまえば、その役割は幻想郷の要であり、博麗大結界を維持する機能を担ってさえいれば、別段神事などを執り行う必要は全くない。
 妖怪退治に関しても、悪さをする妖怪を退治するだけならば、いちいち言葉を交わす必要もないということだろうか。

(本当に部品扱いなのね、この子は)

 誰が産み落としたのかは知らないが、人の形を与えておきながら人の中身を与えないとは、何とも酷い話だ。
 だが同時に、この上なく合理的だとも感じる。
 妖怪退治を役割の一つとして持つ以上、博麗の巫女は人間でなければならない。
 逆に言うと、人間としての形さえ持っていれば、あとはどうでも良いということだ。
 それどころか、感情に左右されて中立の立場を崩す可能性があることを考えれば、むしろ感情などない方が巫女には相応しいとすら言えるかもしれない。
 だからこそ、この子は空を飛ぶ程度の能力を持たされて、この世界に産み落とされたのだろう
 当の靈夢はそんなことなど知らぬげに、ただ何も言わなくなった母を見つめて時折目を瞬くばかり。
 今まではただ不気味としか思えなかったこの無表情も、今となっては感情の表わし方を知らないだけの赤子の顔に見えてくる。

(赤子、か)

 実際、生まれたての赤子みたいなものだ。
 この子は本当に、何も知らないのだ。

(だったら、教えてあげればいいのよね)

 こちらの声に何の反応も示してくれなくても、この子が赤子であるならば仕方がないことだ。
 表面的には何も変わらなくても、心には何かがちゃんと残っていると信じて、語りかけ続けてやればいい。

(そうだ。精一杯、教えてあげよう)

 生きることの喜び、悲しみ。
 何かが好きだということ、あるいは、嫌いだということ。
 この世界が、小さな目には捉えきれないほど、豊かな色彩に満ち溢れているということを。

「かぁ」

 不意に靈夢が呼びかけてきて、桜花は現実に引き戻された。
 娘が初めて自発的に呼びかけてくれたことに少なからず感動しながら、母は微笑んで首を傾げる。

「なに、靈夢」

 言った瞬間、ぐぅ、と腹が間抜けな音を立てた。
 そう言えば、もう昼飯の時間帯だ。声を出す練習に夢中になりすぎたらしい。
 空腹を実感するのも久しぶりだと思いながら、桜花は靈夢の小さな手を引いて立ち上がる。
 手の平に確かな体温を感じて、小さく微笑む。

「ね、靈夢。今日からは、ちゃんと一緒にご飯食べようね」

 語りかけると、靈夢はまた目を瞬く。
 桜花は笑って、

「これも巫女になるためには必要なことなのよ」

 と言ってやった。



 その日以降、桜花は靈夢を人間にするための方法を真剣に考え始めた。
 答えに辿りつくための鍵は、やはり易者の言葉だった。

 ――あの子供にとっては、何もかもが平坦に見えているんだろうよ。

 ならば、できる限り凹凸をつけてやればいい。
 何かがある状態とない状態との差を、明確に刻みつけてやるのだ。
 その何か、を何にするのかは、すぐに思いついた。
 無論、それは桜花自身の存在である。
 靈夢の心に感情をねじ込むという目的を得て一時的に生きる力を取り戻したものの、これは蝋燭が燃え尽きる前の一際大きな輝きに過ぎないと、自分でも理解している。
 やはり、死期は近いのだ。そう遠くない内に、桜花は靈夢のそばから去らねばならない。
 それならば、これを利用しない手はない。
 この企てが成功すれば、靈夢は酷く傷つくことになるかもしれない。
 それでも今後も空っぽのまま生きていくよりはずっとましなはずだと、桜花は信じた。



 そんな風に方針を定めた後、桜花は時間が許す限り靈夢と一緒にいるようにした。
 元々、人も妖怪もほとんど寄りつかない神社である。邪魔が入るはずもないし、他にするべきこともない以上、時間はたっぷりある。
  本当ならば自分以外の人間とも触れ合わせたかったが、残された体力を少しでも節約しなければならないと考えると、人里に出かけることは出来なかった。小兎やあの易者なども、桜花の心を乱さぬよう配慮しているのか、あれ以来一度も神社に姿を見せていない。後のことを頼めないのは少々残念だが、今となっては仕方のないことだ。
 靈夢は相変わらず巫女修行以外のことに興味を示さなかったが、だからこそ、あの日以来桜花が飽きるほど口にしている、

「これも巫女になるためには必要なことなのよ」

 という決まり文句は抜群の効果を発揮した。
 そう言い聞かせれば、靈夢は一生懸命母の言いつけに従ってくれたのである。

(なんで最初から気がつかなかったんだろ)

 桜花はそんな風に苦笑したりもする。
 これも、靈夢が何を言っても無反応であるという表面的な事象に惑わされていたことの弊害なのだろう。
 この子は巫女修行以外のことはやらないのだと、勝手に決めつけていたわけだ。
 自分が何も出来ないまま死んでいくしかないと思い込んで悔し涙を流した、あのときのように。
 ともかくも、そういう勘違いからは脱することが出来たのだ。
 残された時間はわずかだが、やれることはたくさんある。残せるものも、たくさんある。
 そう信じて、桜花は靈夢と一緒にいろいろなことをした。
 修行に付き合うのはもちろんのこと、二人並んで境内を掃き清め、手を繋いで神社の周囲を散策し、一緒に料理を作って食卓を囲み、風呂に入って体を洗ってやり、縁側に座って一緒にお茶を飲み。
 何をしている間も、桜花は出来る限り靈夢の体に触れているようにした。頭を撫でたり抱きしめたり、手を繋いだり。自分が死んだ後も、この体の温もりが少しでも娘の心に残っているようにと。
 そうして時は瞬く間に過ぎていったが、靈夢は少なくとも、表面上は何の変化も見せなかった。相変わらず終始無表情だし、「かぁ」以外は一言も言葉を発しない。見かけ上は、何も変わらないように見える。
 それでも桜花は、自分のやっていることは無意味ではないと信じて、

「これも巫女になるためには必要なことなのよ」

 と、靈夢に言い聞かせ続けた。
 その言葉は一種の方便ではあるが、完全な嘘でもないと思っている。
 そう、この子は巫女になるのだ。平和で楽しい次の時代を担う、楽園の素敵な巫女に。
 そのために必要なことを、桜花は全力でやっているつもりだった。



 そうして、全身全霊振り絞った体力がまた尽きかけ、動くのが再び億劫になり始めた頃。
 博麗神社がある小山は、満開の桜に埋め尽くされていた。

(なんとか間に合った、か)

 全身に気だるさを感じつつも、桜花はほっと息を吐く。
 今、母屋の縁側に座っている彼女の膝には、靈夢の小さな体が収まっている。
 いつものように、

「これも巫女になるためには必要なことなのよ」

 と言って、一緒に桜を眺めることにしたのだ。
 それで二人はぴったりとくっついたまま、ただ黙って、舞い散る桜を眺めている。
 死期が近いためかそれとも本当にそうなのかは分からないが、今年の桜は本当に綺麗だ。
 時折吹く風はまだ妙に生温くて気持ち悪いが、それが散らす薄桃色の花弁は実に目に優しく、心地よい。
 こうして桜が咲いたとき、もしかしたらと淡い期待を抱いてみたが、やはり靈夢は無表情だった。
 母の言葉を信じて桜を見つめてはいるものの、深く澄んだ黒い瞳には何の感情も浮かんでいない。
 無論、その小さな口元に、桜花の望んだ笑みが浮かぶこともなかった。

(まあ、いいか)

 少しばかり残念に思いつつも、桜花は概ね満足して息を吐く。
 別に、今この場で望んだ反応が見られずともいい。
 ただ、母と二人でこうしていたという事実を、娘が覚えていてくれればいいのだ。
 そうすればきっと、いつかは感情が芽吹く日が来るはずだと、桜花は信じているのだから。
 そんなことを考えていると、不意に瞼が下がってきた。
 穏やかな昼下がりにしても少々抗いがたい睡魔が、意識の輪郭をぼやけさせていく。

(危ない、危ない)

 桜花は慌てて首を振る。霞む目をごしごしと擦り、何とか意識を保つ。
 どうやら、もう時間切れらしい。
 その事実が、どうしようもなく悔しく思える。
 もちろんやれることはやってきたつもりだが、それでもあと少しだけ、この小さな娘のことを見守っていたかった。

「靈夢」

 それでも現実は現実だと自分に言い聞かせ、桜花は膝の上の娘に声をかける。
 靈夢は特に反応を示さないが、ちゃんと聞いてはいるはずだ。
 だから構わず、ゆっくりと説明する。

「かぁはね、多分今日、死ぬから。死ぬってどういうことか、分かる?」

 やはり反応はない。少々不安になり、桜花は自分の胸に我が子の耳を押し付けた。

「ドクンドクンって言ってるのが分かるでしょう? わたしがあんたの呼びかけに答えなくなったら、この音が聞こえるかどうか確認しなさい。聞こえなかった、わたしはもう死んでるってことよ」

 靈夢はやはり返事をしない。
 それでも理解してはもらえただろうと信じて、桜花は続けた。

「それで、もしわたしが死んだらね。いつも一緒に寝てる部屋の箪笥に、特別な火の符を用意してあるから、それを使って、死体……わたしの体を焼いてちょうだい。真っ白な骨になって燃え尽きるまで、しっかりと焼くの。そしたら、あの部屋の隅に用意してある小さな壺にその骨を詰めて……そうね、あそこの桜の木の下に埋めてちょうだい」

 桜花は一番近くの桜の木の根元を指さす。
 無論今言った手順は神式の葬儀とは相当かけ離れているが、そのぐらいは勘弁してもらいたい。
 なぜなら、

「これも、巫女になるためには必要なことなのよ」

 そう語りかけて、桜花は靈夢の頭を優しく撫でてやる。

「骨になっちゃったら、かぁは何も言わなくなるけどね。でも、心配しなくてもいいのよ。もしもかぁが必要になったら、呼べばいつでも出てきてあげるからね」

 自分は今、とても残酷なことを言っているのかもしれない、と桜花は思う。
 だがどうか、許してほしい。
 いや、許されなくても構わない。むしろ憎んでくれた方がいいとすら思う。
 誰に何を言われようとも、桜花は信じている。
 これは間違いなく、この子の未来のためには必要なことなのだと。
 その後も、自分が死んだら布団は小さなものにしろとか、料理は一人分だけ作って食べなさいとか、修業はいつも通りの内容を毎日こなしなさいとか、細々とした指示を出す。
 そうして全てのことを言い終えた後、桜花は再び桜を見つめた。

「きれいねえ、靈夢」

 膝の上の靈夢を包み込むように抱きしめて、桜花は薄らと微笑む。

「あんたが大きくなる頃も、この桜がきれいに咲いているといいね」

 生温い風が薄桃色の花弁を吹き散らす中、二人は日が暮れるまでその場に座って、桜の花を眺めていた。



 ほとんど食欲が湧かず、夕飯はほんの少しだけしか食べられなかった。
 それでも気力を振り絞って靈夢と共に風呂に入り、いつものように布団の中に収まったあと。
 全身にどっと疲労が襲いかかって来て、桜花は否応なく自覚させられた。
 やはり、今日が最後の夜になるらしいと。
 今眠りの中に落ちていけば、もう二度と目を覚ますことはあるまい。

(つかれた、なあ)

 そっと吐き出した息は、か細く震えていた。
 顔を動かすのも億劫で、目玉だけで隣の靈夢を見やる。
 幼い我が子は、規則的な寝息を立てている。
 こうして隣に寝かせるようになってしばらく経つが、いつ見てもやはり無表情だ。夢すら見ていないのかもしれない。
 この数週間ほど思いつく限りのことをやれるだけやったが、結局何かしらの変化を見ることが出来ないまま、桜花の命は終わりを迎える。
 ひょっとしたら無駄なことをやってきたのではないか、という不安が胸の隅をチクチクと刺しているが、それでも何かを残せたと信じたい。
 最低限、種を蒔くことぐらいはできたはずだ。
 すぐには無理でも、遠い未来にその種が芽吹くことがあれば、自分としてはそれで満足だ。
 願わくば誰かが水をやってくれないものだろうか、と思ってもみるが、それはさすがに贅沢というものだろう。

(かわいいなあ)

 眠る靈夢の顔を見て、桜花は頬を緩ませる。
 ちょっと前まで不気味だと思っていたこの無表情が、今は愛おしくてたまらない。
 だからこそ、後悔していることもあった。

(もっと早く気づいていれば、ね。そうしたらわたしも、この子の笑顔を見られたかもしれないのに)

 でも、もういい。
 今はただ、小さな願いを残すのみだ。
 この赤子のような女の子の目に映る世界に、少しでも多くの色がつきますように、と。
 よく笑い、よく怒り、よく泣く子であってほしい。
 自分を取り巻く世界や、自分以外の他者とのつながりを大事にする子供に。
 深く色づく幻想郷の青空を、大勢の仲間と共に笑いながら飛んでいく少女に。
 もしも本当にそうなったら。
 ああ、それはなんて素敵なことだろう。

 この子の涙がわたしの生きた証となり。
 この子の笑顔がわたしの生の価値となる。

 この子が誰かに愛されることで、わたしは深く笑みを浮かべ。
 この子が誰かを愛することで、わたしは静かに涙を流そう。

 きっとそうなると。
 必ずそんな未来が来ると、今の桜花は心の底から信じることができる。
 そうして今再び、桜花は自分に問いかけてみる。
 自分の人生は、いったいなんであったのか、と。

(靈夢の運命を変えるために、わたしの命はあったんだな)

 それは、この世界全体から見れば、ほんの小さなことかもしれない。
 きっと今後も誰にも知られることはないだろうし、今はまだ赤子のような靈夢本人にだって、忘れられてしまうかもしれない。
 だがそれでも構わないと、素直に思えた。
 今、桜花の胸には、一つのことを確かにやり遂げたという達成感があった。
 それに満足しながらも、桜花はふと考える。
 こうして一人の女の子の運命を捻じ曲げたわたしは、自然に反した生き方をしたとして地獄に落とされるかもしれない、と。
 それならそれでいい。
 もしもこれが罪だと言うのなら、地獄の業火に焼かれながら郷中に響くほどの声で大笑いしてやろう。

(大結界の意思だか運命だか知らないけど)

 瞼を閉じ、はらりはらりと涙を流しながら、桜花は歯をむき出して笑う。

(ざまあみやがれってんだ)

 そうして深い満足感と共に、博麗桜花の意識は静かに闇の中へと落ちていった。



 翌朝早く、靈夢は目を覚ました。
 隣では、母が物も言わずに横たわっている。
 これはいつものことなので、特に気にすることもなく布団を抜け出し、巫女装束に着替えた。
 そうしてから枕元に座り、母が起きてくるのを待つ。
 いつもなら、遅くとも一時間ほど後には目を覚まして、指示をくれるはずだった。
 しかし、一時間過ぎ二時間過ぎ、三時間過ぎてもなお、母は目を覚まさなかった。
 その頃になってようやく、靈夢は昨日母に言われたことを思い出す。

「かぁ」

 呼びかける。返事はない。

「かぁ、かぁ。かぁ」

 二度、三度。やはり、反応なし。
 靈夢は身を乗り出して掛け布団を剥ぎ、母の胸に耳を押し付けた。
 昨日母の膝の上で聞かされた音は、少しも聞こえてこない。
 それで、母は死んだのだと理解した。
 巫女になるためには必要なことだと言われていたので、靈夢は母の指示を律儀に守った。
 火の符を使って死体を焼き、燃え尽きた後の骨を骨壷に収める。
 そうしてそれを桜の木の根元に埋め終わった頃、辺りはすっかり宵闇に包まれていた。
 夜は妖怪の時間である。
 修行は明日から始めればいいと思い、今日はもう眠ることにした。
 母が死んだので、もう大きな布団は必要ない。押入れにしまって小さな布団に変え、靈夢はその中に収まった。



 そうして数時間ほど後、靈夢は深い夜闇の中で目を開けた。
 障子が風にガタガタと揺れている。
 何故だか、眠れない。
 無言のまま体を起こし、少し考えてみる。
 何かが違う、と思った。それで眠れないらしい。
 また少し考えて、靈夢は小さな布団を畳むと、押入れの中にしまっていた大きな布団と取り換えた。
 それで眠れるかと思ったが、やはり眠れない。
 まだ何かが違う、と思う。何かが足りないのだ。
 それで靈夢は起き出して、考えつく限りのことをやってみた。
 夜の闇の中で神社の周囲を散策したり、境内の掃除をしたり、食事を作ったり、風呂に入ったり。
 全て一人でやってみたが、それでも何故か眠れなかった。
 目を開けたまま布団の中に横たわっていたとき、ふと、

「かぁ」

 呟く。
 そうすると、足りないものがなんなのか分かった。

「かぁ」

 呼びかけたが、返事はない。
 周囲をキョロキョロと見回した後、靈夢は障子を開けて庭へと歩み出た。
 生温い風が吹きつける中、桜の木の根元を掘って、骨壷を取り出す。
 ぎゅっと抱きしめてみたが、硬くて冷たかった。
 母とは違う、と思う。

「かぁ」

 また呼びかけてみる。やはり、返事はない。
 少し考えて、骨壷の蓋を開ける。
 中に、白い骨が収まっているのが見えた。

「かぁ」

 返事の代わりに生温い風が吹いた。
 何故だか背中がじりじりしてきた。初めての感覚。
 靈夢は骨壷を抱きしめたまま縁側に戻ると、そこに座って周囲を見回した。
 母がいない。出てきてくれない。

「かぁ。かぁ」

 大きな声で呼びかける。何度も呼んでも返事がない。
 靈夢は顔を歪めて立ち上がると、「かぁ、かぁ」と呼びかけながら、そこら中を探し回った。
 母と一緒に料理と作った炊事場、母と一緒に体を洗った風呂場、母と一緒に歩いた道、母と一緒に掃除をした境内、母と一緒に眠った部屋。
 そうして最後に、昨日母と一緒に座っていた縁側に戻って来た。
 昨日と同じようにぺたんと座り、顔を歪めたままキョロキョロと周囲を見回す。

「……かぁ」

 おそるおそる、小さく呟く。
 やはり、返事はない。
 靈夢はぐっと唇を噛んで立ち上がった。
 骨壷を振り上げ、地面に叩きつけようとする。
 その瞬間。
 突然、ざぁ、と強い風が吹き荒れて、薄桃色の花弁が靈夢を包み込むように、夜空に渦を巻いた。
 まるで見計らったかのように雲が晴れ、青白い月灯りが降り注ぐ。
 夜の黒と月の青と桜の薄桃色が、霊夢の視界一杯に広がり、混じり合って渦を巻いた。
 きれいだ、と思った。

「かぁ」

 何か、胸の奥から込み上げてくるものがある。

「かぁ」

 呟いたら、視界が潤んで鼻水が垂れてきた。

「かぁ。かぁ!」

 叫ぶ。
 はらりはらりと、小さな目から涙が零れた。

「かぁ、かぁ、かぁー!」

 夜空に渦巻く桜に向かって呼びかけながら、靈夢は大きな声で泣き叫び始めた。



「あー。ったく、ちくしょうめ」

 生温い風が吹く月の夜空に、悪霊女を乗せた妖怪亀が浮かんでいる。
 悪霊女はへべれけに酔っぱらい、日本酒の一升瓶をラッパ飲みしながら愚痴を垂れ流していた。

「つまらん。まーったくつまらん、ちくしょうめ」
「魅魔殿」

 いつもならば従順な妖怪亀も、この日ばかりは我慢ならない様子であった。

「魅魔殿。少し飲み過ぎですぞ」
「あー? うっさいねえ、玄さん。飲む以外の楽しみがねえんだからしょうがねえだろうがい」
「だからと言って、女性がそのように振舞われるのはいかがなものですかな」
「ケッ。なーにが女性ですか。あたしゃー単なる年寄りですよ。こんな小さな郷一つ変えられやしねえ、老いぼれたヨボヨボの婆さんに過ぎねえんだ、ちくしょうめ」

 再び一升瓶を傾けたが、酒はもう一滴も残っていない。

「ああちくしょうめ」

 魅魔が喚いて投げ捨てた一升瓶を、玄爺が慌ててつかみ止める。

「魅魔殿! 今のは少々見過ごせませんぞ! 下に誰かいたらどうするおつもりか!」
「うっさいなあ。こんな退屈な郷だ、そのぐらいのサプライズはあってもいいだろ」
「何を仰っているのやら、全く」

 そうして、しばらく飛んだのち。

「……あの巫女殿が、亡くなられたそうですな」
「ああ。らしいね。娘が死体焼いてるとこ見た奴がいるっていうし」
「送り酒のおつもりだったのですかな」
「まさか」

 玄爺の背に寝そべりながら、魅魔は小さくため息を吐く。

「別に、大して親しかったわけでもないし。気の毒だとは思うがね」
「ふむ。残された子供というのは……」
「問題ないだろ。人形みたいに可愛げのないガキだって言うし、なんとかして生きてくに決まって」

 そのとき、生温い風に混じって、

 ……かぁ

「あん?」

 魅魔は玄爺の背で身を起こすと、キョロキョロ周囲を見回した。

「玄さん。今の、聞いたかい?」
「は。聞いた、と仰いますと」
「なんだろ。なんか、鴉の鳴き声みたいな」

 目を閉じ、耳を澄ましてみる。

 ……かぁ。かぁ。

 やはり、聞こえた。

「……鴉じゃないな。鳴き真似でもない。子供の……泣き声か?」

 魅魔は眉をひそめて亀の背から身を乗り出した。
 眼下には、博麗神社の小山が見えている。闇の中でも、満開の桜のために白く光って見えていた。

「……玄さん。ちょいと、神社に降りてくれるかい?」

 甲羅を叩きながら言うと、玄爺は小さく非難の声を上げた。

「魅魔殿。前から何度も申しあげようと思っておりましたが、魅魔殿は少々亀使いが荒いですぞ! そもそもご自分で飛べるのですから、たまには」
「うるさいよ! ほら、さっさと行った行った!」
「ええいもう! 次の機会には、必ず優しい主人と巡り合ってみせますぞ!」

 自棄を起こしたような玄爺の叫びと共に、悪霊女と妖怪亀は滑るように神社の境内に降り立つ。
 そうして例の泣き声の元を探して、母屋の庭へと歩み出たとき。
 そこに広がっていた光景を目にして、魅魔は息をのんだ。

「かぁー! かぁー!」

 涙と鼻水で顔をグチャグチャにして、幼い少女が泣いている。
 縁側に座って小さな骨壷を抱きしめたその子の体は、半分以上桜の花びらで埋もれていた。
 よく見るとそこら中が散り落ちた桜の花びらだらけになっており、まるでここだけ大嵐に見舞われたかのような有様だった。

「こりゃ、一体……」
「おお、おお。これはかわいそうに」

 呆然とする魅魔の横から、玄爺がのそのそと歩み出た。
 泣き叫んでいる小さな娘の前に行き、うるうると目を潤ませる。

「見なされ、魅魔殿。かわいそうに、この子は母親を亡くした寂しさのあまり泣いておったようですぞ」
「はぁ。意外だねえ、人形みたいなガキのはずじゃなかったのかい?」
「いやいや。親を亡くした子どもというのは、皆こういったものですぞ。情緒不安定になって、笑っていたかと思うと急に泣き出したりするものです。いや、懐かしい」

 一人しみじみと頷いて、玄爺は遠くを見るように目を細める。

「大結界構築直後は、親を亡くした子供が人妖問わず溢れかえっておったものです。ワシも常闇の妖怪殿と一緒に、そういった妖怪の子供たちを集めて世話をしたもの。彼らは今どうしているものか」
「玄さん玄さん」

 魅魔はぴらぴらと手を振った。

「浸ってるとこ悪いんだけどさ。まずはこの子をどうにかしないと」
「おお、そうでしたな。おおよしよし、べろべろべえ」

 玄爺は首を伸ばして変な顔をしてみせたが、少女は全く反応せずにただかぁかぁと泣き続けるばかり。

「いやはや。困りましたなあ、どうも」
「っつーか、この子はなんでかぁかぁ言ってるんだい?」
「さて。とんと見当がつきませんが」

 困惑して顔を見合わせる二人の傍らで、少女はひたすらかぁかぁ泣き叫ぶ。
 その内魅魔が顔をしかめて、

「うるさいね。いっそ殴って黙らせるか」
「な、何を仰るか、傷心の子供に向かって! この鬼、悪魔、悪霊!」
「いや悪霊だけど。あーもう、頼むから泣きやんでおくれよ……!」

 二人の苦闘は、その後しばらく続けられることとなった。



 結局、少女はただただかぁかぁ泣き続けた挙句、最後には疲れ果てたように眠り込んでしまった。
 魅魔は悪霊のくせにげっそりとやつれ果て、ため息を吐きながら縁側に腰を下ろす。

「疲れた……! マジ疲れた。くっそ、もう金輪際ガキのお守なんかしないよ、あたしゃ」
「まあまあ、そう仰らずに」

 長い眉尻を垂らした玄爺が、微笑みながら母屋から歩み出てくる。

「魅魔殿もご覧になればよろしい。少々涙の跡が痛々しいが、大変に可愛らしい寝顔ですぞ。いやはや、人形のような子供だと聞いておりましたが、どうやら大間違いだったようですな。きっと将来は心豊かで優しい人間になるに違いありませんぞ。ええそう、亀も大切に扱うような少女に」
「何を馬鹿なこと言ってんだい、ったく」

 今、あの子供は母屋の中の布団に収まって、すうすうと寝息を立てている。
 玄爺の言うとおり彼女の頬にはまだ涙の跡が残っているが、骨壷をぎゅっと抱きしめて眠るその顔はとても穏やかだ。小さな口元には、心地よい夢を見ているような穏やかな微笑みが浮かんでいる。
 障子の隙間からその様子を見つめた後、魅魔は納得いかずに首を傾げた。

「なーんかな。さっきの狂ったような泣き方といい、噂に聞いてたのとは全然様子が違うねえ」
「子供ですからなあ。大人よりも容易に変わるものかもしれませんぞ」
「そんなもんかねえ」

 したり顔の玄爺に、魅魔が気のない返事を返したその瞬間。
 さぁ、と爽やかな風が吹き込んできて、悪霊女は目を見開いた。
 吹き抜けていった風を追うように境内の方を見つめ、呆然と立ち上がる。

「……変わった……?」
「魅魔殿?」

 怪訝そうな玄爺の呼びかけには答えず、魅魔は表情を引き締めて飛び出した。
 吹き抜けていった風の向かう先、博麗神社の境内へと飛び出た瞬間、彼女の体を強い光が刺し貫く。

「おお……!」

 鳥居の下から幻想郷の大地を眺め、魅魔は感嘆の声を漏らした。
 折しも時刻は夜明け前。遠い山々の稜線が、朝日に白く光り輝いている。
 その方角から、絶え間ない春風がびゅうびゅうと吹きつけてきていた。
 少々勢いが強くはあるが、生温くも気持ち悪くもない。
 何やら心が浮き立つような、爽やかで心地よい風だ。
 その風に長い髪をなびかせながら、魅魔は両腕を一杯に広げて笑う。

「間違いない。風だ、風が変わったぞ!」
「魅魔殿。急に飛び出されて、一体どうなさったのか」
「ああ、玄さん。玄さんも見てみなよ!」

 のそのそと歩み出てきた妖怪亀の方へ、魅魔は勢いよく振り返った。
 背後で光輝く大地を腕で示しながら、大きく唇を吊り上げる。

「分かるかい、玄さん。夜明けだよ、夜明けが来たんだ! 新たな時代の幕開け、新しい幻想郷の夜明けだよ!」

 興奮してまくし立てる魅魔の前で、玄爺はぱちくりと目を瞬いた。

「……ああ。なんですかな。申し訳ありませぬが、仰る意味がよく……」
「今は分かんなくてもいいさ。直に分かるはずだからね!」

 くぅー、と魅魔は全身を震わせてニヤついた。

「いいねえ、これからきっと忙しくなるぞ……! 前は失敗しちまったが、今度こそ異変ごっこを成功させてやろう。そのための鍵を握るのは、間違いなくあの子供、博麗霊夢だね。八雲の御大たちにバレたらあれこれと煩くなるかもしれんし、しばらくはいろいろ隠しておくことにしようかい。へっへ、そんであたしがああしてこうして……うん、その内弟子でも取って、ライバルみたいに競わせてみるか。巫女は強けりゃ強いほど面白いからね。ああそうだ、玄さん、玄さん」
「なんですかな」
「玄さんにもその内一芝居打ってもらうよ。とっ捕まった振りでもして、あの子が一人前になるまでいろいろとサポートしてやるんだ」
「はあ。まあ、あの子の助けになれるなら、それは願ったり叶ったりですが」

 玄爺は目を瞬く。

「魅魔殿。ずいぶんとまあ、楽しそうですなあ」
「ああ、そりゃ楽しいよ。久々に悪霊として巫女と戦えるかもしれないんだからね! 心が躍るってもんさ!」
「それはそれは。何と言うか、お若いですなあ」
「当たり前だろ! 心が若けりゃ、人生はいつだって青春だとも。ま、あたしゃ死んでんだけどね!」

 ゲラゲラと盛大に笑う魅魔を見ながら、玄爺もまた目を細めて笑う。

「なにやら、騒がしくなりそうな気配がしますが」

 呟き、一人頷いた。

「これはこれで、楽しそうではありますな」





























 ――そうしてなんだかんだと騒いでいる内に、あっという間に時は流れ。

 2009年、4月も半ば。



 博麗霊夢は庭の縁にある桜の木に向かって、手を合わせていた。
 瞼を閉じて、ただ静かに、一心に祈る。

「なあ、霊夢」

 不意に、呆れたような声が背中に投げかけられ、霊夢は顔をしかめながら振り向いた。
 縁側に座った魔理沙が、組んだ膝に頬杖を突いて顔をしかめている。

「なによ、魔理沙」
「いや、今日がお袋さんの命日だってのは分かるんだけどさあ」

 どうにも納得のいかない表情で、魔理沙は眉をひそめる。

「なんだって、そんなとこに埋めたんだ?」
「さあ」
「さあ、って。お前が埋めたんだろ?」
「だと思うんだけどねえ」

 霊夢は腰に両手を当て、眉根を寄せて首を捻る。

「実を言うと、あんまり、覚えてないのよね」
「覚えてないって?」
「んー。母さんのこと、って言うか。むしろ、その頃のこと全般って言うか」
「なんだそりゃ。記憶喪失か」
「さあ。よく分かんないけど、とにかく記憶が曖昧なのよ。なんか、鴉の鳴き真似とかしてたような」
「意味が分からん」
「だからわたしも分かんないんだって」

 肩を竦めながら縁側に戻り、魔理沙の隣に腰を下ろす。
 神社の桜は満開である。風が吹くたび、吹き散らされた桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。
 不意に、魔理沙は鼻の頭を掻いて呼びかけてきた。

「なあ霊夢」
「なに」
「それじゃあお前さ、その……お袋さんのことも、よく覚えてないのか?」
「そうねえ」

 霊夢は首を傾げて、少し考えてみる。
 実際、あまり覚えてはいないのだが。

「でもさ。なんか、一つだけ妙に頭に残ってることがあるのよね」
「ほう。そりゃどんなだ?」
「母さんの死に顔」

 さらりと答えると、魔理沙はちょっと頬を引きつらせた。

「……そりゃまた、何とも」
「笑ってたのよね、母さん」
「へえ。あー、っと……つまり、安らかな死に顔だったんだな?」
「いや。どっちかというと、獲物を仕留めた獣の笑みっていうか。そういう感じの、凄い獰猛な笑顔だったわよ? 今にも天に向かって舌出しそうな」
「……んん?」

 理解しがたい様子で、魔理沙は顔をしかめて首を捻る。

「そりゃあ……ええと。アグレッシヴなお袋さんだったんだな?」
「んー。どうだろ、どっちかと言うとか弱い人だった印象がおぼろげに……」
「どっちなんだよ」

 呆れたような魔理沙の声に、「どっちでもいいじゃない」と霊夢はぴらぴら手を振った。

「昔のことなんて知ってても知らなくても、今が変わるわけじゃないし」
「は。相変わらず適当だねえ。ま、いいか」

 魔理沙はあっさりと引き下がると、やたらと上機嫌な笑みを浮かべて両手を擦り合わせた。

「な。飲もうぜ、霊夢」
「まだ昼間だけど」
「いいじゃないか。四月は花見で酒が飲めるぞ、ってな」
「なんかやけに機嫌いいわね。正直鬱陶しいんだけど」
「そう言うなよ。でもそうか。やっぱ分かっちまうか、へへ」

 魔理沙は照れたように頭を掻く。
 実際、今日は昼ごろ来てからずっとこんな調子だった。
 何かいいことでもあったのかな、とは思っていたのだが。

「どうしたのよ」
「気になるか?」
「別に」
「そう言わずに聞けよ。まずな、道すがら偶然幽香とかリグルとかに会って、その場のノリで弾幕ごっこと洒落こんだんだがな。今日は絶好調の全勝ちだったんだよ」
「は。相変わらず単純ねえ」

 霊夢が呆れて言うと、魔理沙は指を振った。

「ところが、今日はそれだけじゃないんだな」
「はあ。そうなの?」
「ああ。その弾幕ごっこの後、道端の木のところで阿求と会ったんだけどさ」
「ふうん」
「なんか調査中だったらしいんだけど、まあわたしも気分良かったから、いろいろと話をしたわけだよ。そしたらあいつめ、浪漫溢れること言ってくれやがってな」

 魔理沙は一人興奮したようにニヤつき出し、「あのな」と語り始めた。

「今はさ、幻想郷の歴史の中では、大きな転換点に当たるかもしれない時代らしいぜ」
「どういうこと?」
「ほら。大結界が構築されてからここ数年前ぐらいまで、ここはずっと退屈な郷だったって言うだろ。それがお前、スペルカードルール制定以降バンバン異変が起こりまくって、やたらと騒がしく賑やかになってるわけでさ。こりゃもう、時代が変わったって言うか歴史が変わったって言うか。なんかそういう、どでかい話なわけだよ」
「ふうん。それで?」
「分っかんないかなあ」

 魔理沙は焦れたように言いながら、ニヤニヤ笑って霊夢を見つめる。
 そして、おもむろに尋ねてきた。

「なあ霊夢。そんな凄いスペルカードルールを考えたのは、一体誰だ?」
「そりゃ、わたしだけど」
「だろ。つまり、つまりだ」

 とっておきの秘密を話すときのような満面の笑みで、

「今わたしの目の前にいる博麗霊夢さんは、幻想郷の歴史を変えた時代の立役者だってことだよ! どうだ、凄いだろ!」

 すっかり興奮しきった様子で顔を赤くしている魔理沙の前で、霊夢はぽりぽりと頬を掻く。
 ややあって、

「はあ。そうなんだ」
「って、何だよそりゃ!?」

 魔理沙はがっくりと肩を落とし、それから顔をしかめて捲し立ててきた。

「このわたしが折角ここまで褒めてやってんのにさあ! もうちょい喜ぶとか照れるとか、そういう反応見せろよ!」
「そんなこと言われてもねえ。全然ピンと来ないし。それに」

 舞い散る桜を見つめながら、霊夢は首を傾げる。

「誰かが褒めようが貶そうが、わたし自身がなんか変わるわけじゃないし。正直どうでもいいって言うか」

 霊夢がごくあっさりとそう言うと、魔理沙はがっかりした様子で肩を落とし、盛大にため息を吐いた。

「なんだよ、もう。興奮したわたしが馬鹿みたいじゃあないか」
「そうね」
「この野郎……ちぇっ、折角照れて鼻の下伸ばしてるお前を散々からかってやるつもりだったのにさ」

 つまらなそうに呟いたあと、魔理沙は拗ねたように唇を尖らせる。

「……でもま、その方がお前らしいよな。時代を作る天才ってのは、こんな風に浮世離れしてるもんなのかねえ」
「よく分かんないけど」
「これだよ、ったく……嫌になるねえホント」

 魔理沙は顔をしかめて言ったあと、しかしすぐに笑顔を取り戻し、勢い込んで立ち上がった。

「ま、それはそれとして、だ! これで弾幕ごっこの素晴らしさがまた一つ増えたわけだな!」
「そんなもんかしら」
「そんなもんだ。やっぱりいいぜえ、弾幕って奴は。わたしは生涯かけてこいつを研究して、幻想郷中に広めてやる。うん、今そう決めた」
「へえ。そりゃ、ご苦労なことで。ま、頑張ってみたら?」
「……だからもうちょい盛り上げろよな、お前も」

 魔理沙はため息を吐いて、再び座り込む。
 その様子が少しおかしくて、霊夢は小さく笑う。

「あ、なんだ。お前今笑ったろ」
「別に。気のせいじゃない?」

 澄まして言いながら、霊夢は再び前方に顔を向ける。
 かすかに吹く春風に、桜の木々がそよそよと揺れていた。

「……きれいね」
「ん。ああ、そうだな」

 霊夢の何気ない呟きに、魔理沙もまた何気なく答える。
 二人はしばらくそうして、無言のまま桜の木々を見つめていたが、

「あ」

 不意に、ざぁ、と強い風が吹いて、霊夢は思わず声を漏らした。
 吹き荒れる風に桜の花びらが散らされ、晴れ渡った青い空に大きな渦を描く。
 空の青と桜の薄桃色が、霊夢の黒い瞳の中で混じり合う。

(ああ、なんだろ)

 何か心惹かれるものを感じ、霊夢は自然に立ち上がっていた。「霊夢?」と怪訝そうに呼びかける魔理沙の声も遠くなり、一歩、二歩と花弁の渦の中へ歩み出ていく。

(前にも、こんなことがあったような気がする。いつだったっけ)

 ぼんやりと考え始めたら、不意に視界が揺らいだ。
 渦巻く桜の薄桃色が、何故だか少しずつ薄くなっていって、

「霊夢!」

 突然、背後から一本の手が突き出してきて、霊夢の腕を強くつかんだ。
 はっとして振り返ると、桜吹雪の向こうに黒白の友人の姿が見える。
 風が止んで渦が解け、花びらがひらひらと地面に落ちたあと。

「霊夢」

 か細い声で呟いて、魔理沙は顔を上げた。
 泣いているような、怒っているような顔。
 涙に潤んだ瞳が、じっとこちらを見つめている。
 霊夢は困惑して眉をひそめた。

「……なに。どうしたの?」
「いや。なんだ、なんだろうな」

 魔理沙は少しの間俯き、ぎこちなく笑った。

「なんかさ。お前はたまに、どっかに飛んでいっちまいそうで不安になるよ」

 魔理沙に腕を掴まれたまま、霊夢は何気なく後ろを振り返る。
 桜の木々は、先ほどと別段変わりなく、薄桃色の花弁を纏って静かに揺れている。
 それを数秒ほど眺めた後、霊夢はまた魔理沙の方を向く。
 そして、ぷっと吹き出した。

「……なによ、それは」

 そう言って、不安げに眉をひそめている友人に笑いかける。

「どこにも行きゃしないわよ。大体、飛んだら降りてくりゃいいだけの話じゃない。地面がなくなるわけじゃあるまいし」
「うん。そうなんだけど。そうなんだけどさ」

 魔理沙は戸惑うように言って、不意にぎゅっと目を瞑った。
 瞼の隙間から、はらりはらりと涙が零れ落ちる。

「え。ちょっと、何泣いてんのよ」
「う、うるさいな」

 魔理沙は慌てて涙を拭うと、鼻を啜りあげて顔をしかめた。

「たまにはこんなことだってあるさ」
「でもあんた」
「うるさいって言ってんだろ! 仕方ないじゃんか、たまには不安にもなるぜ。魅魔様だって、いつの間にやらどっか行っちまったし」
「あー。そういや最近、姿を見かけないわね。老いぼれ爺さんだったら裏の池にいるけど、会ってく?」
「どういう理屈だよ、そりゃ。っつーかいたのか爺さん。むしろそっちの方が驚きだよ」
「そう? 割と元気にしてるわよ、小汚い池の中で」
「オイ。年寄りはもうちょっと労わってやれよ」
「めんどい」
「これだもんなあ」

 顔をしかめる魔理沙の前でくすくす笑い、霊夢は友人の肩を叩く。

「ま、仕方ないわねえ。じゃああんたの言うとおり、花見酒にしましょうか。とっときのやつ出してきてあげるから、中で待ってなさいよ」
「ん。ああ……ちゃんと戻ってこいよ?」
「だからなんなのよ、それは」

 霊夢は苦笑し、鼻の下を擦りながら母屋の中へ入っていく魔理沙と別れて、倉の方へと歩き出した。
 スペルカードルール制定以来何故だかやたらと知り合いが増え、神社を会場にした宴会が頻発するようになって以降、秘蔵の酒は他の連中に飲まれないようにこっそりと倉に隠しているのである。符まで使って結界を施してあるほどの厳重振りだ。
 本来なら一人で楽しむつもりだったのだが、何となく、今日魔理沙と一緒に飲むのも悪くはないかな、と思えた。
 そうして倉から取り出した秘蔵の酒を抱え、母屋に戻る道すがら。

(それにしても)

 先ほどの魔理沙の泣き顔を思い出して、霊夢は小さく笑う。

(全く、しょうもない奴よね。起こりもしないことを想像して泣いてみたり。昔からああだったっけ。やたらと強がる癖に、根は小心者の臆病者で。魅魔がいなくなった頃から変な口調に変えたりしたけど、中身はあんまり変わってないみたいね)

 そんなことを考えたら、案外昔のことも覚えているものだなあ、と少し不思議な気分になった。
 この神社に来た頃のことは、あまり覚えていないのに。
 何故だろう。

(んー……ま、どうでもいいか)

 あっさり悩みを放棄し、霊夢は靴を脱いで縁側に上がり込む。
 さっさとこの酒を飲ませて魔理沙を慰めてやろう、などと考えながら、障子に手をかけて一息に開ける。
 部屋の中に座っていた魔理沙が、顔を上げてほっとしたように笑った。

「なんだよ、遅いじゃんか。待ちくたびれたぜ」
「何言ってんのよ、これでもあんたのために急いであげたんだから、有難く思いなさいっての」

 冗談めかして笑いながら部屋の中に入る直前、霊夢はふと、肩越しに後ろを見やる。
 はらりはらりと、桜の花が静かに舞い落ちていた。



 スペルカードルールを制定した博麗霊夢は、幻想郷の歴史を変えた偉人として、死後も長く語り継がれることになった。
 その母である博麗桜花に関しては、ただ短命な女性であったという事実だけが、歴史書の片隅に小さく記載されているのみである。



 <了>
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