【東方SS】ネクロファンタジア2009~スイート・ホーム~

2009/7/16に東方創想話に投稿したSSです。
 


『ネクロファンタジア2009~スイート・ホーム』



「死体についてちょっとお話したいんだけど」

 朝方の地霊殿にて古明地こいしがそう切り出してきたとき、火焔猫燐はひどく驚いたものである。何故かと言うと、こいしが話しかけてくるのがとても珍しいことだったからだ。いや、そもそも、燐にとっては玄関に向かって歩いているこいしを発見できたこと自体、驚くべき出来事であったのだが。

「死体について、ですか」
「うん、そう。死体について」

 あっけらかんとした笑顔を浮かべて頷くこいしの前で、燐は軽く唇を舐めた。
 これは好機かもしれない、と思う。何かと言うと、主人である古明地さとりに恩返しするための好機だ。

「そうですかー、死体についてですかー」

 朗らかに言いながら、燐はにやりと笑った。

「いいんですかこいし様ってば。死体のこと語らせたら長いですよ、あたいは」
「だからいいんじゃない。さ、こっちこっち」

 地霊殿エントランスホールの床に座ったこいしが、自分の横をぽんぽんと叩いてみせる。燐は「あ、ども」と恐縮してへこへこと頭を下げながら、遠慮がちにこいしの隣に座った。
 こいしがにっこり笑って話しかけてくる。

「お燐は死体が好きなのよね」
「いやいや、滅相もない」

 燐は胸を張った。

「好きなんてもんじゃありませんね。正直愛してますよ、ええ」
「わぁ、お燐ったら変態さんね! ねえ、死体のどこが好きなの? わたしにたくさん聞かせてよ」

 両手を合わせてはしゃぎ声を上げるこいしの隣で、燐は顎に手をやって小さく唸る。

「そッスねー、どこがって言われてもちょっと困るなー。あたい、死体って言ったら大概何でも好きですからね。ブチャッと潰れた奴とかスパッと斬られた奴とか。溺死体はブヨブヨしてて可愛いと思いますし、ミイラみたいに干からびてるやつも年代を感じさせて趣があると思うんですよ。あとはあれだ、キッツイ方法で処刑されたあとの罪人の死体も、苦悶の表情が実に芸術的で。やっぱり死体の一番の魅力は、最期の一瞬を迎えて永遠に固定されたその表情だと思いますし」

 そんな具合に、燐は死体について自分の思うところを遠慮なく捲し立てた。こいしと出来る限り長く話すのが目的ではあったが、そういう狙いを抜きにしても自分の好きなことについて誰かに聞いてもらうのは楽しいものだ。死体の魅力について聞きたがる者があまりいないために普段は語ることが出来ない、という事情も手伝い、燐は時間の経過も忘れてひたすら喋り続けた。

「……というわけで、極限までガリガリにやせ細った餓死体を見ていると、あたいは人の世の無情さを感じずにはいられず」

 そう言いかけたところで、燐の腹が可愛らしい低音で鳴いた。「あらら」と照れ笑いを浮かべながら腹に手を添えると、こいしがくすくすと笑った。

「このままだとお燐が餓死体になっちゃいそうね」
「いやー、お恥ずかしい。何分朝ご飯をもらいに行く途中だったもので」
「ご飯と言えば、お燐は死体を食べるのも好きなの?」
「ええもちろん。みんなは生きてる人間の方が美味いって言いますけど、あたいは断然死体派ですねー。特に腐乱死体はチーズやヨーグルトみたいな味わい深さがありますし、大抵蛆虫のトッピングが利いてて実にいい歯ごたえでして。正直、死体をオカズにご飯三杯はいけますね。ああそうそう、オカズと言えば、この間あたいの部屋の机の上に秘蔵の死体写真集が積み重ねられてましてね。その上にさとり様の『ほどほどにね』というメッセージが」
「お姉ちゃん」

 ぽつりとこいしが呟いた。小さく首を傾げて聞いてくる。

「お燐やおくうは、最近またお姉ちゃんと一緒に食事してるのね」
「え? ええ、そッスよ。あの異変以来は寝起きもここですし」

 あの異変というのは、燐同様さとりのペットである霊烏路空が、地上の神から究極の力を授けられたことに端を発する異変のことである。
 その際、燐は究極の力を得たことで増長を重ねる空が、いつかさとりから制裁を受けるのではないかと危惧し、ひそかに地上へと怨霊を送って、遠回しなSOSを発したのであった。
 とは言え結局のところ、怨霊出現の原因を調査しに地底世界へとやって来た人間たちを介して、空の変貌はさとりの知るところとなり、秘密裏に事態を解決しようとしていた燐の意図は水泡に帰してしまったのだが。

「でもまあ、結果的にはそれで良かったですね。おかげさんで、最近ちょっと疎遠になってたさとり様とまたご一緒できるようになりましたし」

 燐がそう言って一人頷いていると、こいしが何か不思議そうに瞬きした。

「お燐やおくうは、どうしてあの異変の前まではお姉ちゃんから離れてたの?」
「んー。そッスねー」

 燐は小さな照れ笑いを浮かべた。

「なんて言うかまあ、あたいやおくうにも自立心があったっていうか。ペットとは言え仕事を任された以上は一人前の妖怪ですから、いつまでもご主人に甘えているわけにはいかないな、と考えた次第で、はい」

 そういう想いもあって、燐や空はあの異変が起きるまでは灼熱地獄に作った仮住まいで寝起きし、地霊殿にはほとんど帰らなかった。自分たちのある種子供じみた自立心を知られるのが、何となく恥ずかしかったのである。
 だが愛しい主人に会えない日々の中、心寂しさは日増しに高まるばかり。今思ってみれば、元来仕事熱心で現状に満足していたはずの空が神の誘いをあっさり受け入れたことには、そういう寂しさを埋め合わせるための憂さ晴らしのような側面もあったのかもしれない。

「だけどあの異変のあと、経緯の説明も兼ねてまたさとり様とお話しする機会がありまして。それであたいたちの思い込みとかも全部ばれちゃったんですよ」

 その際に燐や空の自立心についても理解したさとりは、そういう姿勢には感心を示しつつも、

「だけど、あなたたちがいないとわたしの方が寂しいから、これからもここで暮らしていていいのよ」

 と、燐たちを安心させてくれたのである。
 以来、彼女らはまた以前と同じように、地霊殿で寝起きしてはさとりと共に食卓を囲み、職場である灼熱地獄へ出かける毎日を送るようになっていた。

「じゃあ、お燐たちは」

 黙って話を聞いていたこいしが、不意に呟いた。

「お姉ちゃんに心を読まれるのが嫌だから離れてたわけじゃないのね」
「あー、そういうのは少しもないですよ」

 燐が気楽に手を振ると、こいしは不思議そうに首を傾げた。

「どうして?」
「や。どうして、と言われましても……言葉を話せなかった頃はそれが当たり前でしたからねえ。今更それを嫌がったりはしないですよ。それにあたいの場合、どっちかと言えば『食事中に猟奇死体のことを考えるのは止めなさい』とか注意されることの方が多かったりしますしねえ」
「そうなんだ」

 こいしはちょっと考える素振りを見せてから、納得したように頷いた。

「まあ、あなたたちの場合はそうなのかもね」

 呟き、こいしはふらりと立ち上がると、地霊殿の出入り口に向かって歩き出した。その動きがあまり自然だったために反応が遅れ、燐は慌てて立ち上がる。

「こいし様、どちらへ」
「ちょっと出かけてくる」
「え、だけど、もうすぐ朝ごはんですよ」

 燐としては、この会話の流れで、こいしを食事に誘う予定だったのだ。
 しかしこいしは軽く自分のお腹を押さえ、ちょっと不思議そうに言った。

「そうなんだけど。不思議とお腹いっぱいなのよ。多分無意識に台所でつまみ食いしたんじゃないかしら」
「うへぇ。またですかー」

 燐は苦笑する。
 古明地こいしは姉のさとりと違い、心を読むための第三の目を閉ざしてしまっている。それ故に無意識で行動できる、という、一度聞いただけではちょっと理解し難い能力の持ち主であった。
 簡単に言えば、特にこうしようああしようと考えずとも自然と自分がしたいことをしたり、あるいは他人に気配を覚られずに行動したりできる、という能力になるのだろうか。

「たまには一緒にごはん食べましょうよ。さとり様も寂しがっておられますよ」

 自然に誘うのは無理な流れになってしまったので、燐は仕方なく少々強引に持ちかける。
 だがこいしはそんな声が聞こえないかのように、ごく自然に無視してくれた。

「じゃあ行ってくるね、お燐。死体のこといろいろ聞かせてくれてありがとう」
「はぁ。どういたしまして……?」

 そう返答してから、はて、と燐は首を傾げた。

「そう言えば、なんだってお出かけの前に死体の話をしたがったんですか?」
「ああ、それはね」

 こいしはごくあっさりとした口調で答えた。

「今日、地上に人間を殺しに行こうと思ってたんだけど」
「……は」
「どんな風に殺したらいい死体になるかなーってちょっと悩んじゃって。それで、死体マニアのお燐に聞いたらいい殺し方が思いつくかもしれないと思って」
「は。え、ええと」

 こいし風の冗談だろうか、と燐はぎこちなく笑ったが、残念ながら目の前の少女からそういった気配は窺えない。
 どう反応していいか分からず呆然とする燐の前で、こいしは黒い帽子を直し、くるりと身を翻した。

「いい死体が出来たらお燐にもプレゼントしてあげるから。それじゃ、行ってきます」
「え、ちょ、こ、こいし様、待っ……!」

 慌てて手を伸ばしかけた燐の前で、こいしの姿がふっと掻き消えて見えなくなる。焦って周囲を見回したが、気配すら窺えない。実際には消えたわけではなく、能力を使って行動し始めた、というところなのだろう。
 無意識に行動するこいしは、周囲の者に微塵も気配を感じさせずに行動することが可能らしい。そのため、今のように急に姿を消したように見えることがあるのだ。
 まずい、と慌てて地霊殿の外に駆けだし、その勢いのまま旧都まで足を伸ばしたが、それでもこいしが飛んでいく姿はどこにも見えないし、周囲の者に聞いても知らない、見ていないという答えが返ってくるばかり。
 燐の顔から血の気が引いた。

「ど、どうしよう……!」

 一瞬呆然としたあと、ともかくさとり様のお耳に入れなくちゃ、と考え、燐は慌ただしく走り出した。



 無意識の領域を使って行動し始めたこいしは、誰にも気づかれることなく地底の空を飛んでいく。
 いつも賑やかな旧都で酒を飲んでいる鬼たちの頭上、一人橋に佇む橋姫のそば、地上に程近い荒々しい岩場で遊ぶ土蜘蛛や釣瓶落としたちの真ん中を通り抜け、一路光差す地上へと。
 何分無意識に行動しているわけだから、こうして他人から姿を消しているときのこいしはほとんど何も考えず、何も感じないような状態である。それでも無意識に思考はしているらしく、ぼんやりと輪郭を失った彼女の心を、様々な思考が通り過ぎる。それは姉やペットたちの顔であり、これから殺そうとしている人間たちの醜い姿であったりした。

 ――お姉ちゃんも人間には酷い目に遭わされたのだから、死体を持って帰ればきっと喜んでくれる。

 夢見心地にそんなことを考えて微笑みながら、こいしはふらふらと地上の光へ向かって飛んでいった。



 うたた寝を始めた空を膝の上に乗せて、さとりは一人静かにお茶を啜っていた。
 地霊殿は基本的に洋風の作りになっているが、中庭に面した一角には畳敷きの部屋も存在している。さとり自身日本生まれの妖怪だから、食事などのときはこの方が落ち着くのだ。ペットたちが気ままに寝転がれる場所が欲しいな、と思ったのも、この部屋を作った理由の一つだ。
 その意図が正解だったのを示すが如く、猫のように体を丸めて小さな寝息を立てている空の頭を撫でていると、誰かが廊下を走って来る慌ただしい靴音が聞こえてきた。

「さとり様!」

 叫びながら飛びこんできたのは燐である。余程慌てていたと見えて、和風のこの区画に入ってきたというのに靴を脱いでいない。さとりはかすかに顔をしかめた。

「お燐。行儀が悪いわよ」
「いやいや、それどころじゃないッスよさとり様!」

 焦った声でそう言いつつも、燐はいそいそと靴を脱ぎ、縁側の敷石の上に揃えて並べている。いい子だなあ、と和みつつも、どうしたのだろう、とさとりは首を傾げた。少し意識を集中して、こちらに背を向けている燐の心を読み取る。
 さとりは名前の通り、他者の心を読むことができるさとり妖怪である。とはいえその能力は、対峙した瞬間相手の心の全てが瞬時に把握できる、というほど並はずれたものではない。細かい情報や論理的な思考を読み取るのには、「さてこいつは今何を考えているのか」という程度の意識の集中は必要となるのだ。特に意識しなくても相手の心の表層にある感情程度は常時流れ込んでくるが、それだけではあまり役に立たない能力なのである。
 たとえば今も、燐の心が酷く焦って波立っていることぐらいは感じ取れていたが、その思考は千々に乱れていて、「こいし様」「死体」「地上の人間」などといった、断片的な単語程度しか読み取れない。きちんとした情報を得るためには、ある程度意識を集中しなければならなかった。

「……ふむ。なるほど。朝エントランスでこいしと会って。死体について話したら。地上の人間を殺しに行くと」
「そうそう、そうなんですよ」

 靴を脱いだ燐が滑り込むようにさとりの隣に座る。
 さとりは納得して頷いた。

「それで探し回っていたわけね。あなたがなかなか来ないものだから、おくうと二人だけで朝ごはんを食べてしまったわ」
「あー、まあ、報告が遅れたことはお詫びしますけども。でも、そんな場合じゃないと思ったし」
「ええ、その辺りの事情はもう全て分かっています」

 さとりは一つ頷くと、片目を瞑って燐を見た。

「ともかく、あなたは死体についてあれこれと語ってしまったことに責任を感じて、なんとかこいしを止めなければと思って方々を探し回っていたわけね」
「ええまあ、そういうこと、なんですけど」

 燐の声が尻すぼみになり、頭から生えた猫の耳が落ち込むように垂れ下がった。

「すみません、さとり様。あたい、まさかこんなことになるとは思わなくって」
「ええ、それも分かっています」

 小さく息を吐いて、

「お燐」

 あえて厳しい声で呼びかけると、燐はびくっと肩を震わせ、三つ編みにした髪の房を垂れさせながらぎゅっと目を閉じる。叱責を受ける覚悟を決めたらしいその姿に向かい、さとりは目を眇めて軽く手を振り上げた。



 地上へ出たこいしは、真っ直ぐに人間の里へとやって来た。人間を殺して死体を持ち帰ろうとしている以上、ここへ来るのは当然の流れである。
 誰にも気づかれずに里の中に降り立ったこいしは、表を歩いている人間たちを物色し始める。己が無意識の命ずるまま、あちらこちらを飛び回って様々な人間へと視点を転じた。曲がった腰でえっちらおっちら歩いて行く老人、笑いながら駆けていく子供たち、鍬を担いで行き過ぎる百姓男、井戸端会議に花を咲かせている中年女たち。
 誰もが、こいしには少しも気づかない。茶店の店先にある長椅子に腰かけ、幸せそうな顔をして団子を頬張っている着物姿の女の鼻先に立っても、全く反応がない。

「ちょっと小兎の姐さん、巡回中なんでしょ? そんなのん気にしてていいんですかい?」
「あー、大丈夫大丈夫、里は今日も平和そのもの、事件なんか起こらないって。そういうわけだからおじさん、お団子もう一つちょうだいな」
「へいへい」

 ぺろりと唇の周りを舐めている女の前で、こいしは小さく笑う。もしも今腕を突き出してこの女の心臓を抉ってやったらどんな騒ぎになるだろう、という想像が、自然と頭に浮かんだのである。
 予想通り、人間なんて誰だって簡単に殺せそうだ。これなら死体を持って帰るのも苦ではあるまい。
 昔の幻想郷であれば、こう簡単にはいかなかったはずだ。人間の誰もが妖怪を殺すための技を磨いていたあの頃なら、たとえこいしが無意識に行動していようとも発見されていたかもしれない。
 だと言うのに、今はこの体たらく。人間もずいぶん平和ボケしたものだ。
 ともかくこんな具合なら、わざわざ弱そうな奴を狙う必要もない。思う存分、自分好みの死体になってくれそうな人間を吟味することができそうだ。

(どれがいいかなー?)

 こいしはまたあちこち飛び回りながら、いろいろな人間を見て回る。いい死体になってくれそうな人間ならば誰でもいいのだが、誰を選んでもいい、という状況であればかえって迷うものだ。
 ふむ、と小さく唸って、こいしは結局自分の無意識に全ての判断をゆだねることにした。自発的な思考を完全に遮断し、目を瞑って体が何処かへと向かうに任せる。
 そうして次に目を開いたとき、こいしがいたのは人間の里の外だった。里の南方へと伸びている街道の途上、平地の上にふわふわと浮かんでいる。
 何故こんなところに来たんだろう、と首を傾げたこいしは、ふと、眼下を小さな女の子が歩いているのに気がついた。あれだろうか、と近づき、至近距離からじっと観察する。
 外見からすると、おそらく九か十辺りになる少女である。まだ未成熟な体は痩せてはいるが、全体的に日焼けしていてとても健康そうだ。反面、服は薄汚れていて全体的に継ぎ接ぎが多い。あまり裕福な家の子ではないらしい。拳を固めて腕を振りながら大股に歩いていくその顔には、幼さに似合わぬ険しい表情が浮かんでいて、心を閉じているこいしにも彼女が不機嫌であることを窺わせる。
 そんな風にじっと観察した結果、確かにこの子はいいな、とこいしは満足した。こういう強気そうな子を散々追いかけまわして怖がらせてから殺せば、とてもいい表情を浮かべて死んでくれるに違いない。燐も死体の一番の魅力は表情だと言っていたし、持って帰ればきっと気に入ってくれるはずだ。牛だって追い立ててから殺した方が肉の味が良くなると言うし、やはりそれがいい。
 それにしても、いくら昼間とは言えこんな小さな子が一人で里の外を歩いているだなんて、やはり地上はずいぶん変わったな、とこいしは思う。昔であれば考えられないことだ。

(さて、と)

 こいしは無意識に身を委ねるのを止め、地に降り立って女の子の後ろを歩き始めた。こちらには少しも気づかず早足に歩いて行く彼女の背後にそっと忍び寄り、耳元で、

「ねえ」

 囁いた瞬間、少女は「うひゃあっ」と悲鳴を上げて飛び上がり、それから慌てて振り返った。目を見開いてまじまじとこいしの姿を観察し、安堵した様子でほっと息を吐く。

「なんだ、人間か。妖怪かと思っちゃった」
「うん。人間だよ、人間」

 平然と答えながら、これは好都合だ、とこいしは心の中でほくそ笑む。人間だと思っていた女が実は妖怪でした、と理解したとき、この子はどれだけ怖がってくれるだろうか。
 しかし女の子は怪訝そうな、疑わしそうな表情でこいしを見る。

「でも、なんか里では見たことない人だね、お姉さん」
「里の外に住んでるのよ」
「ああ、そうなんだ」

 女の子はあっさりと納得した。

「魔法使いのお姉さんとか、巫女様の友達なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、妖怪退治とかしてる人なんだ?」
「うん、まあね」
「そうなんだ。ふーん」

 頷く少女の前で、こいしもまた納得していた。人間と大して容姿の変わらぬ妖怪が多いこの郷で、目の前の少女が何故こいしが人間だという嘘を簡単に信じたのかが、少し不思議だったのである。どうやら、博麗霊夢や霧雨魔理沙といった者たちと同じ種類の人間だと思ってくれたらしい。
 あるいは、何か急いでいる様子だったから、判断がおざなりになっているのかもしれないが。
 そんなことを考えているこいしの前で、少女は何か躊躇うようにつま先で地面を擦りながら、遠慮がちにこちらを見上げてきた。

「ね、お姉さん。暇だったらでいいんだけどさ、ちょっとついてきてもらえないかなあ」
「どうして?」
「あたし、ちょっと行きたいところがあってさ」
「遠いの?」
「うん。それで、途中で妖怪に会っちゃったら怖いから」

 そう言ったあと、ちょっと申し訳なさそうに付け加える。

「うち、貧乏だからお礼とかはできないんだけど……どうかな」

 少女はやたらと遠慮がちだったが、この子を殺そうとしているこいしにとっては渡りに船である。
 もちろん、一も二もなく笑顔で頷いた。

「うん、別にいいよ、ちょうど暇してたから」
「ホント?」
「ホントホント」

 お礼だったら後でしてもらうし、と心の中で付け加える。

「あ、わたしは古明地こいしっていうの。よろしくね」

 そうして少女の自己紹介を聞いたあと、こいしは彼女と連れだって歩き始めた。
 それにしても、こんな小さな女の子が一人で歩いているというのに、襲うどころか姿を現すことすらない地上の妖怪たちのことが、少しだけ不思議であった。



 てっきり叩かれるかと思って目を瞑った燐は、次の瞬間優しく頭を撫でられたので、驚きとともに目を開いた。
 すると、目の前には優しい笑みを浮かべたさとりの顔があり、先ほど不出来なペットを叩くべく振りあげられていたはずの手は、燐の赤毛を優しく撫でているところだった。

「さとりさま……?」

 戸惑って主の名を呟く燐に、さとりは少々意地の悪い声で言う。

「あら、どうしたのお燐ったら。わたしがあなたのこと叩く酷い主だとでも思っていたみたいよ」
「え。あ、いやあ、それは」

 言い訳しかけて、すぐにそれが無駄であることに気がつく。
 要するにからかわれているのだ、と理解して、燐は唇を尖らせた。

「さとり様のいじわる」
「あら、ごめんなさいね」

 小さく微笑み、さとりは手を引っ込める。自分の膝を枕にして眠っている空の頭を撫でてやりながら、「さて」と呟く。

「とりあえず、事情は理解しました。でも、お燐」

 さとりはペットを安心させるように、穏やかに微笑んだ。

「何も心配しなくていいのよ。むしろこいしと話してくれてありがとうって、お礼を言いたいぐらい」
「え。だけど、さとり様」

 さとりの動じない様子に、燐は戸惑いを感じた。
 こいしが本当に人を殺しに行ったのなら、それは間違いなく問題行動のはずである。そりゃ、妖怪と言うのは本来人を襲って殺して喰らうものではあるが、百数十年前に博麗大結界が構築され、幻想郷が外の世界と隔絶されて以降、原則的に郷の人間を襲うことは禁じられているはずなのだ。大結界構築と同時期、忌まわしき能力を持っているが故に地下に追いやられた妖怪たちであっても、もちろんそれは変わりないはず。
 こいしが地上の人間を殺して死体を持って帰ったりしたら、先の異変に勝るとも劣らない騒ぎになる可能性だってある。
 その辺りのことはさとり様だって分かっているはずなのに、と考えたところで、燐はある可能性に気がついた。

「ひょっとして、あれはこいし様風の冗談だったとか?」

 その燐の言葉を聞いて、さとりは優しく微笑む。
 ああやっぱりそうなんだ、と燐は安心しかけたが、しかし、

「いいえ、違うわ」

 と、さとりは優しい微笑みを浮かべたままで首を横に振った。

「あの子がそう言ったのなら、確かにそういう目的で地上に出かけたんでしょうね」
「って、だったらやっぱり不味いじゃないですか!」

 燐は慌てて立ち上がった。

「ど、どうするんですか!? こいし様だったら人間の一人や二人殺すぐらい簡単なはずだし! 鬼の方々とかから制裁喰らっちゃいますよ!」
「そうねえ。星熊さん辺りが怒鳴りこんできたら、わたしなんかじゃとても勝てないでしょうからねえ。あらあら、大変だわ」

 のんびりとした口調でさも驚いたように言うさとりの前で、燐は「うー」と小さく地団駄を踏む。

「だったらこんなところでお茶なんか飲んでる場合じゃないッスよ! 今すぐ地上へ行ってこいし様を止めないと」
「まあまあ。落ち着きなさいな、燐」

 さとりはお茶を一啜りしてから、ペットをたしなめる。

「地上へ行ったって無駄よ。こいしは心を閉ざしてるから、わたしにだってあの子を見つけることなんか出来やしないもの」
「じゃあ、どうするんですかあ」

 困り果ててまた座り込む燐の前では、相変わらず泰然としたままのさとりがのんびりとお茶を啜っている。
 その姿を見て、燐はあらぬ疑いを抱いた。
 ひょっとしてさとり様はもう観念してしまったのではないか、と。

「こら」

 即座にその思考を読んだらしいさとりが、からかうように言う。

「失礼なことを言わないの。それだとわたしがあなたたちのことなんか何も考えていない、無責任で薄情な主みたいじゃないの」
「い、いえ、そういうわけじゃありませんけど」

 じゃあなんでこんなに落ち着いているんだろう、と訝しむ燐の前では、さとりが小さな盆に載った茶菓子の包みに手を伸ばしていた。旧都銘菓を謳っている「地獄まんじゅう」という名の菓子。薄皮一枚隔てた向こうにたっぷり餡子が詰まっていて、さらにその内側に大量のからしが詰まっているという、実にイカれた逸品である。



「……それでね、わたしのお姉ちゃんは『地獄まんじゅう』っていうのが大好物なんだけど、誰の同意も得られないもんだから拗ねてるのね」
「へー、そんなお菓子聞いたことないけどなあ」
「そりゃあ地底のお菓子だから……じゃない、ええと、里の隅っこのお店でしか売ってない上に誰も買わないから」
「ふうん。そんなんでよく潰れないね、そのお店」

 そんな風に小さな少女と雑談を交わしながら、こいしはうららかな春の街道を歩いている。
 少女は険しい表情の割には人懐こい性格のようで、すっかりこいしのことを気に入ったらしく、子供らしい他愛ないことをあれこれと聞いてくるのだった。

「じゃあ、こいし姉ちゃんは何が好きなの?」
「んー……卵焼きとかかなー。お姉ちゃんの作るやつは甘くておいしいのよね」
「へー。案外普通なんだね。妖怪退治とかしてる人だったら、もっと変わったものが好きなのかと思った」
「まあねー。さすがにお燐みたいに死体ってのはちょっと」
「え、なに?」
「いやいや」

 こいしは若干慌てて誤魔化した。どうも、考えながら会話をしているせいか、ついつい要らないことを喋ってしまいがちなのである。
 何を考えているのかと言えば、もちろんこの少女をどんな死体にしたらいいか、ということである。

「卵焼きかー。あたしのお姉ちゃんも好きなんだよね」
「へえ。あなたもお姉ちゃんがいるのね」

 まず、四肢をバラバラに引き裂くのはお約束だろう。その後はどうするべきか。

「うん。だから母さんはいっつも卵焼きばっかり作るのね。あたしはハンバーグの方が好きなのに」
「ハンバーグねえ。最近の人間はハイカラなもの食べるようになったのね」

 バラバラにした腕と足を逆に縫いつけて卍みたいな形に固定してみる、というのはどうだろう。なかなか滑稽で、見ていて楽しい気がする。

「ハイカラ?」
「ああ、いやいや」

 展示の方法もあまり普通では面白くない。腹を裂いて腸を引きずり出して縄みたいに編んで、エントランスのそばにある木の枝に引っ掛けておこう。この子は小さくて軽いから、風が吹くたびブラブラと揺れてなかなか風情がありそうだ。

「だけどお肉って卵に比べると高いし手に入りにくいからさ。あんまり作ってくれないのね。それに、あまり脂っこいもの食べるとお姉ちゃんが具合悪くするからって。だったらあたしにだけ作ってって頼んでも、『お姉ちゃんだけ食べられないんじゃかわいそうでしょ』って」
「ふうん。そうなんだ」
「だからあたしいっつも我慢してるのよ」

 そこまでやるんだったら、頭にも何かしら細工が欲しいところだ。目玉をえぐり出して口の中に詰めておくのはどうだろう。舌が邪魔になりそうだから、切り取って二つに分け、空いた眼窩に突っ込んでおこう。お燐は死体に手を加えるのは邪道だと言っていたが、わたしは細工するのを楽しみたいタイプだ。その辺りはちょっと我慢してもらおうかな。

「こいし姉ちゃん?」
「ん、なに?」
「なんか、楽しそうだね」
「楽しいよ。あなたとお喋りするの」
「へえ。変わってんね。あたし口やかましいからみんなにうるさいって言われんのに」

 不思議そうに目をぱちぱちさせてから、女の子は少し躊躇いがちに聞いていた。

「ねえ、こいし姉ちゃん。姉ちゃんにも、お姉ちゃんがいるんだよね」
「うん。それがどうかしたの?」
「こいし姉ちゃんは、お姉ちゃんのこと好き?」
「うん、大好きよ。優しいし、きれいだから」

 こいしが笑顔で頷くと、女の子は「そうなんだ」と顔を曇らせ、

「あたしは、あたしのお姉ちゃんのこと、あんまり好きじゃない」

 呟くように言ったあと、首を横に振って、

「ううん、嫌い。大っ嫌い」
「へえ。どうして?」

 こいしが何気なく聞くと、女の子は「だって」と俯き加減に語り出した。

「あたしのお姉ちゃん、あたしと違って生まれつき体が弱いから、父さんや母さんからすっごい大事にされてんの。二人とも、何かっていうとお姉ちゃんのことばっかりひいきするし。薬のお金払わなくちゃいけないから、いつまで経っても貧乏なまんまで、あたしも何かって言うと我慢ばっかりさせられてさ」

 幼さに似合わぬ暗い声で、少女はぶつぶつと恨み事を吐き出し続ける。
 そうしてふと気づいたように、自分の服の継ぎが当たった部分を指さしてみせた。

「ほら見てよこれ、あたしなんかこんなぼろ着せられてんだよ。それもほとんどお姉ちゃんのお下がりだし。それでいてお姉ちゃんには新しい服ばっかり買ってあげんのよ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。大体さ、お姉ちゃんはずるいんだよ。寺子屋だって休んでばっかりなのに、成績いいからみんなに褒められるし、あたしと違って可愛いから何かって言うと特別扱いされるしさ。あたしだって頑張ってるのに。ずるい」

 少女の声は止まることなく、どんどん険しさを増していく。握りしめられた拳にもますます力が入っているようだった。

「そもそもお姉ちゃんがいなかったら、うちだってこんなに貧乏してないのに。お姉ちゃんなんかロクに走ることだって出来ないし、いつまで生きてられるかも分かんないし、大きくなったってどうせ何の役にも立たないのに」

 一層激しい恨みが篭った声で、

「あんな奴。さっさと死んじゃえばいいんだ」

 そう言ったきり、少女は黙り込んでしまう。言いたいことを好きに言った割には、あまりすっきりしたようには見えなかった。
 そうして、自身もまた彼女に倣うように無言のまま隣を歩きながら、こいしは自分の判断の正しさをしみじみと噛みしめていた。
 ああ、第三の目を閉じていて本当に良かった、と。
 こんなにも醜く澱んだ恨みつらみを溜めこんだ心は、さぞかし汚れきってドロドロしていることだろう。
 さとり妖怪の心を読む能力、というのは、単に心の声が聞こえる、というだけの力ではない。言葉では表現できないような、もっと直接的な感触のようなものも伝わってくるものなのだ。あまりにも汚い感情をぶつけられて、気分が悪くなることだって別段珍しくはない。
 こいしが第三の目を閉ざしたのは、心を読む能力によって周囲から嫌われること以上に、そういう汚い感情を見せつけられるのが嫌で嫌でたまらなかった、という理由もあるのだ。
 特に人間の心は大概醜く汚れている。
 ほとんど死に絶えてしまった仲間の中には、妖怪らしくそういった感情を好む者もいるにはいたが、こいしは全く逆であった。
 それでいて死体などには特に嫌悪感も湧かない辺り、人間などとは微妙に感覚が違うらしいが。
 ともかく、他者に嫌われるのが嫌な以上に、こいし自身も他者、特に人間が嫌いだった。
 無意識に身を委ねるようになってからはそういう感情も忘れかけていたが、最近他者と接するようになって、復活しつつあるらしい。
 嫌だな、というのが素直な感想だった。



 ぱくぱくと幸せそうに地獄まんじゅうを頬張るさとりの隣で、燐は落ち着かない気持ちを抱えたままそわそわと身じろぎしていた。
 そんなペットを見て、主が小さく苦笑する。

「お燐、少しは落ち着いたらどう?」
「いや、落ち着いていられる状況じゃないですよ、これは」

 むしろ主人の落ち着きが不思議で不思議でたまらず、燐は戸惑いながら問いかける。

「こいし様はやっぱり地上へ人間を殺しに行ったんですよね?」
「ええそうよ」
「で、本当に殺して死体持って帰ってきたりしたら、大問題になるんですよね?」
「そうね。『どういうことだゴルァッ!』って、鬼の方々のみならず地上にいる妖怪の賢者も怒鳴りこんでくるかもしれないわね」
「じゃ、やっぱり大変じゃないですか! なんでそんなに落ち着いていられるんです?」
「お燐」

 ふと、さとりが何か思い出したように呼びかけてきた。

「確か、あの異変以来、地底と地上を繋ぐ穴は開きっ放しになっているのよね?」
「え? ええ、そうですよ」
「他の皆さんは、地上へ遊びに行ったりしていないのかしら」

 他の皆さん、というのは、言うまでもなく旧都やその郊外に住んでいる妖怪連中のことだろう。
 そう質問されると、当然ながらそういう連中のことが頭に浮かんでくる。
 たとえば郊外に住む土蜘蛛の黒谷ヤマメ、その友人である釣瓶落としのキスメ、または旧都の長屋などに住んでいる荒っぽい妖怪たちである。
 暗い地底に追いやられた過去があるから、そういった者たちは大概地上の者を毛嫌いしている。ヤマメやキスメなどは大して気にもしていないようだが、旧都には未だ恨みつらみを抱えた者たちが多いのだ。

「そう。そういう皆さんも、地上へは出かけているんでしょう?」
「ええ、まあ」
「それで、何か問題は起きているのかしら?」

 燐は首を横に振った。あの異変以来、ふらりと地上観光へ出かける者たちも多いが、今のところ問題と呼べる問題は全く起きていない。
 その理由は、この百数十年間、暗く閉ざされた地下で育まれてきた地底住人達の気風にある。
 それが何かと言うと、

「俺たちは地上の連中みたいな汚い真似は絶対にしない」

 というある種の気概や誇りが、ほとんどの地底住人の心の奥にまで根付いているのである。
 騙し討ちのような形で地底に閉じ込められたせいか、はたまたリーダーのような立場に収まっている鬼たちの姿勢に影響されてか、あるいは忌み嫌われた能力故にせめて心だけは気高くあろうという自負のおかげか、ともかく地底の住人達は汚い真似や卑怯な行為を蛇蝎のごとく嫌っているのである。
 だから面白半分に地上に出かけても、そこで昔の仕返しの如く騒ぎを起こしたり、誰かに喧嘩を吹っ掛けたりといった真似は一切しない。
 むしろ陽気に気前良く、もちろん忌まわしい能力により他者に迷惑をかけることもないよう品行方正に振舞い、「地底の妖怪さんたちって気持ちのいい方々だねえ」と地上の人間たちの評判も上々に帰ってきては、

「警戒して監視していやがった天狗どもを唖然とさせてやったぜ!」

 などと胸を張り、仲間たちから「よくやった!」「ざまーみろ地上の連中め!」だのと賞賛を浴びつつ酒盛りをするのが、一種の流行にすらなっている始末なのだ。

「なるほど」

 燐の思考を読んだらしいさとりが、口元に手をやっておかしそうに笑った。

「暗い地底世界だから心だけは明るくしよう、という星熊さんの姿勢は、皆さんに受け入れられているようね」「ええまあ、そうみたいですけど」

 答えた燐は、ああそういうことか、と今更ながらに気がついた。

「ひょっとして、こいし様にもそういう気概が?」

 だからさとり様はこうも落ち着いているのか、と一瞬納得しかけたのだが、

「いいえ、それは違うわ」

 と、主はまたも首を横に振った。
 がくりと肩を落とす燐の前で、さとりは澄まし顔で茶を啜る。

「こいしはフラフラ出かけてもあまり他人と話さない子だったし、最近までは本当に無意識に染まっていて、そもそも感情自体があまり動かないような有様だったんですもの。そんな誇りや気概だなんて、育ちようがないわ」
「そ、そうですよねえ」

 納得したが、じゃあ何故さとり様はそんなに落ち着いているのか、という疑問は解決しないままだ。
 戸惑う燐の前で、さとりはふと庭の方へ遠い目を向けた。

「それにしても……地底の妖怪が地上へ行ったり、地上では妖怪と人間が割と仲良くしていたり」

 ふっ、と感慨深げに息を吐き、

「幻想郷も、変わったものね」



 こいしと少女が歩きに歩いて、昼もとうに過ぎた頃にたどり着いたのは、幻想郷の南部湿地帯を臨む崖の上であった。
 高い崖の上から下を覗いてみたが、切り立った岩壁の下は薄靄に覆われていて、その向こうに何があるのか見通すことは出来ない。
 自分の隣で同じように崖の下を覗いていた少女に向かって、こいしは首を傾げた。

「あなたが来たかった場所は、ここ?」

 少女は首を振り、緊張した声で答えた。

「ここの、下」
「下、ね」

 こいしは周囲を見回してみたが、もちろん梯子や階段がかけられているわけはなく、人の足で下りられそうな場所もどこにもない。
 そのことを確認し、改めて少女に向きなおる。

「どうやって下りるの?」
「どうにかして」
「具体的には?」

 少女は張りつめた面持ちで崖下を見つめていたが、やがて何か覚悟を決めるように目を閉じ、大きく息を吸い込むと、後ろ向きになってしゃがみ込んだ
 どうやら自分の手足を使って崖を降りるつもりらしい。確かに岩肌はごつごつしていて、手や足をかける場所ぐらいならありそうだが、一歩身を滑らせたら支えるものもなく地面に向かって真っ逆さまだ。

「それは危ないと思うけど」
「大丈夫、多分」
「落ちたら死ぬよ?」
「落ちないもん」

 少女は意地を張るように言いながら、地面に手を突いて後ろ向きになったまま、そろそろと崖の縁にに向かって足を伸ばす。その挙動は恐る恐るといった感じで、どう見てもこういうことに慣れているようには見えない。だがその瞳は、恐れと同時に強い決意をも秘めているように思える。

「分かんないなあ」

 ぼんやりと、こいしは言った。

「どうしてそこまでして、ここの下に行きたいの?」
「どうしても、行かなくちゃいけないの」

 硬い声で言いながら、少女はぎこちなく笑った。

「こいし姉ちゃん、ここまでついてきてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」

 返事できずにこいしが突っ立ったままでいると、少女はゆっくりと崖の縁の向こうへと姿を消した。
 何ということもなしに地を蹴って、こいしはふわりと空へ舞い上がった。気配を消したまま、崖の岩肌のそばに浮遊する。
 少女は細っこい腕で岩の出っ張りをつかみながら、少しずつ少しずつ下へ向かって降りていく。思ったよりも崖の傾斜が緩やかだったおかげか、さすが幻想郷の子供と言うべきか、意外にもさほど危なっかしさは感じられない。
 これならば、案外崖の下まで落ちずに下りられるかもしれない、と。
 輪郭を失った意識の下でこいしがそう考えたとき、不意に少女が「あっ」と声を上げた。少し下にある出っ張りに、足をかけそこなったのだ。
 小さな体が崖から放り出され、真っ逆さまに地面に向かって落ちていくのを、こいしはやけに緩やかになった時間の中で見つめていた。
 特に、何かをする必要もない。
 あと数秒もすれば、眼下で潰れた死体が完成していることだろう。
 だがそう思ったとき、こいしは既に飛び出していた。空中に投げ出された少女に向かって真っすぐに飛び、その体を二本の腕で抱えながら、危なげなく地面に降り立つ。
 無言のまま少女を地面に下ろしてやると、足を滑らせた瞬間からずっと目を閉じていたらしい彼女が、吃驚したように振り返ってこいしを見た。

「こいし姉ちゃん」
「うん」
「飛べたんだ」
「うん。内緒だったんだけど」
「じゃあどうして今、助けてくれたの?」

 呆然とした口調で問われ、こいしは何となく目をそらした。

「なんでだろ。わたしにもよく分かんないや」



「幻想郷が変わった、って」

 さとりの呟きを聞いて、燐は困惑して首を傾げた。

「いきなり何の話ですか」
「何の話もなにも、言葉通りの意味なんだけど」

 さとりが座卓に置いた湯呑が空になっていたので、燐は急須からお代わりを注いだ。「ありがとう」と一言言い、さとりが一口お茶を啜る。
 そして、また遠い目をして語り出した。

「昔の……大結界が構築される以前の幻想郷は、それはもう血生臭い場所でね。人間も妖怪も、お互いを殺すのに必死になっていたわ。毎日のようにあちこちで争いが起きていて、人妖問わず、新しい死体が生み出されない日はなかったぐらい」
「ははぁ。それは素晴らしい……いやいや」
「あなたもとことん死体マニアね」

 さとりは苦笑しつつ、そっと湯呑の表面を撫でた。

「でも、わたしたちにとっては地獄のような日々だったわ。特にさとり妖怪は、相手の心を読めるという性質上、優先的に狙われる対象だったから。仲間はほとんど人間に殺されてしまったし……それに、強い敵意や憎しみを直接ぶつけられることばかりでね。こいしが心を閉ざしてしまったのも、それが大きな原因の一つかもしれない」
「それじゃあ」

 燐は恐る恐る問いかけた。

「こいし様が人間を殺そうとしているのは、ひょっとしてその頃の恨みを晴らそうとして……?」
「それは、どうかしらね。閉ざされてしまったあの子の心の内は、もうわたしの力でも読み取ることができないから」

 さとりは小さく息を吐いた。

「でも、きっとそうなんでしょう。無意識に行動するあの子がそうしようとしているのなら、きっと、あの子の心には今も強い憎しみや恨みの念が渦巻いているのでしょうね。本人に、その自覚がどれだけあるのかは分からないけれど」



 崖下の湿地帯に下りた少女は、はぐれるのを怖がってか、しばらくの間こいしの手をぎゅっと握って離さなかった。
 そうしながらも、視界を覆う薄靄をかき分けるように歩を進め、しきりに周囲を見回しては何かを探している。
 やがて、「あっ」と小さく声を上げると、こいしの手を振りほどいて小走りに走り出した。近くにあった水たまりの縁にしゃがみこみ、じっと何かを見つめている。
 その小さな背中に、こいしはゆっくりと近づいた。
 殺そう、と思う。
 さっきは何故か助けてしまったが、そもそも自分は人間を殺してその死体を持って帰るために地上へ来たのだから。
 人間には、昔ずいぶん酷い目に遭わされた。その恨みは、今になっても消えていない。
 死体を持って帰れば、姉も喜んでくれるはずだ。
 姉だって、自分と同じで人間のことを恨んでいるはずだから。

(人間は、嫌いだ)

 自分に言い聞かせるように、こいしは心の中で呟く。

(わたしたちに、汚いものや醜いものばかりぶつけてくるから)

 しゃがみ込んだまま動かない少女の背後で、こいしは大きく腕を振り上げる。

(そんなんじゃ、お姉ちゃんがかわいそう)

 ――優しいお姉ちゃんには、きれいなものだけを見ていてもらいたいのに。

 脳裏に姉の微笑みを思い浮かべながら、こいしは少女に向かって手を振り下ろした。



「そんな」

 さとりの淡々とした語りを聞き終えて、燐は小さな悲鳴を上げた。

「だったら、やっぱり不味いじゃないですか。単に楽しみのために殺そうとしているのならともかく、強い憎しみとか敵意で動いてるんだったら、止めようがないですよ」

 死してなお恨みを捨て切れない怨霊たちを毎日のように相手にしているからこそ、燐にはそのことがよく分かる。
 分かるからこそ、なおさら理解できない。
 何故さとりはこうも落ち着いていられるのだろう、と。

「それはね、お燐」

 柔らかな声音が、燐の耳を撫でた。

「わたしが、こいしのことを信頼しているからよ」



 わたしは何をしているんだろう、とこいしはぼんやりと考える。
 目の前ではしゃがんだまま振り返った少女が、びっくりしたように目を丸くしてこちらを見ている。
 そして、彼女の頭をグチャグチャに潰すために振り下ろしたはずの自分の手は、なぜか優しく、少女の髪を撫でてやっていた。
 わたしは、何をしているんだろう。

「がんばったねえ」

 何を言っているんだろう。

「探し物、見つかったんだ」

 どうしてこんな、優しい声で話しかけているんだろう。

「良かったねえ」

 分からない。分からない。
 自分の心が、分からない。

「……うん」

 少女は何か、戸惑ったように頷いた。
 隣で同じようにしゃがみ込み、こいしは彼女の探していた物をじっと見つめる。
 それは、小さな花だった。
 泥だらけの汚らしい湿地帯の上に揺れる、嘘のように真っ白な、純白の花。

「きれいだね」
「ここにこういう花が咲いてるって、噂で聞いてたから」
「うん」

 周りを見回すと、他の水辺にもちらほらと同じ花が咲いているのが見えた。
 花弁の形などに見覚えはない。
 自分たちが地底に押し込められている間に、地上で新たに生まれた花かもしれない。

「ただ見たくて、ここに来たの?」
「ううん」

 少女はゆっくり手を伸ばすと、少しためらいつつも、花を手折って手に収めた。
 白い花弁を見つめながら、少女はぽつりと、恥ずかしそうに言った。

「お姉ちゃんにあげようと思ったの。今日、誕生日だから」



「実際、ね」

 さとりは静かに語り出した。

「心を閉ざしたばかりの頃のあの子は、フラフラと出かけては血まみれで帰って来るという毎日を送るようになったの。人に気配を覚られず、無意識に行動するんですもの。狙われた者にしてみれば、気がつけば死んでいる、というようなものだったでしょうね」
「ははぁ。最強の暗殺者、って感じですね」
「ええ。もっとも」

 さとりは小さく苦笑した。

「あの子が全身に浴びている血は、必ずしも相手のものとは限らなかったけど」
「え。ってことは」

 燐はぎょっとした。

「誰にも気づかれずに行動できるはずのこいし様に、傷を負わせられる人間がいたってことですか?」
「ええ。一度なんか、腕が千切れかけていたこともあったわね」
「どういうことですかそれは」
「さあ。あの頃の幻想郷の人間って、『境界を操る程度の能力』による揺らぎを斬って無効化してみたり、音よりも早く飛ぶ天狗を火縄銃で撃ち殺してみたりとか、そういう無茶なことをする連中ばかりだったから。無意識に行動して相手に気配を覚られない妖怪の気配を察知して返り討ちにする、なんて人間がいても、さほど驚きはしないわね」
「インフレしまくってるバトル漫画みたいですね!」
「その例えはどうかと思うけれど。まあともかく、ね」

 こほんと一つ咳払いをして、さとりは懐かしそうに言った。

「そんな有様だったから、この子はいつかわたしの元から永遠にいなくなってしまうだろうって思っていたわ。人間を殺すためだけに彷徨い続ける心を失った妖怪になるか、それとも人間に返り討ちにされてしまうか。そのどちらになるかは分からなかったけど」
「それで、こいし様を」

 止めなかったんですか、と聞きかけて、燐は口を噤む。
 しかしその思考はもちろん読まれていて、さとりは答えるように微笑んだ。

「そう。わたしには、あの子を止める力がなかったの。だからもう諦めて、こう考えることにした。あの子がわたしの前からいなくなってしまったら、わたしもこの世から消えてなくなろうって」
「それって、つまり」

 絶句する燐の前で、さとりは苦笑した。

「そんなに驚くことでもないでしょう。あの頃、さとり妖怪はもうわたしとこいしぐらいしか残っていなかったし、幻想郷は生き地獄のような有様だった。その上こいしがあんな風になってしまって。生きる意味も望みも、何もかも奪われたような気分だったわ。それに、郷全体に渦巻いている負の思念が絶え間なく心の中に入り込んできて、精神的に押しつぶされそうになっていたのよ。なぜこんな能力を持って生まれてきてしまったんだろう、いっそわたしもこいしのように心を閉じてしまおうかって、何度も考えたわ」

 それはそうだろうな、と燐は深く頷いた。理解できる。
 しかしだからこそ、分からないことがあった。

「それなのに、なぜ今のわたしが心を開いたままにしているのか、ということね?」

 さとりはそう言うと、手の中の湯呑をくるりくるりと回しながら、回顧するように目を閉じた。

「あれは、わたしたちが地底へと追いやられた日のこと」
「ああ。地底のみんなが『騙し討ち』だったって言ってる、あれのことですね」
「そう。人間の攻勢があまりにも激しくなってきたから、一旦旧地獄に退避するっていう名目で、今地底に住んでいる妖怪たちが集められてね。本当は、大結界構築後の幻想郷を安定させるために、人間との共存に向いていない妖怪を切り離すための策だったのだけれど」
「さとり様はそのことを知っていらしたんですか?」
「ええ。その策を立案した妖怪の賢者たちの一人に、偶然会う機会があってね。そのとき心を読んだの。でも、誰かに話そうとは思わなかったわ」
「どうしてですか?」
「そうする他に仕方のない状況だということが、その賢者の心を読んでよく理解できたからよ。だけどどちらかと言えば、どうでも良かったから、という理由の方が大きかったかもしれない。さっき言ったとおり、あの頃のわたしは生き地獄のような日々に絶望していたから」

 さとりは淡々とした口調で言い、また湯呑をくるりと回した。

「これでもう何もかも終わりだ、と思ったわ。地底に潜れば生き延びることができるけれど、人間への憎しみに染まっているこいしは、きっとわたしと共には来てくれないだろうと思っていたから。あの子がいないのなら、生きている意味もない。わたしも地下へは行かずに、人間に殺されるのを待とうと。そう思った」

 だが、そうはならなかったのだろう。
 そうでなければ、さとりもこいしも、今ここにはいないだろうから。
 では、いったい何があったのか。

「わたしたちが地底へ移動した、その日の朝にね。もう何も考えられずにぼんやりしていたわたしの背中が、急に重くなったの」
「それって、もしかして」
「そう」

 そのときのことを思い出したのか、さとりは嬉しそうに微笑んだ。

「こいしだったわ。あの子がわたしの背中に抱きついて、穏やかな寝息を立てていたの。わたしはとても驚いて、どうしてだろうって考えた。そして、ようやく理解したわ。この子は無意識に、人間への復讐なんかよりも、わたしと共に在ることを選んでくれたんだって」

 さとりは目を開き、自信に満ちた口調で言った。

「だからわたしは、こいしを信じているの。たとえどんなことがあろうと、あの子は必ずわたしのところへ帰って来てくれる。わたしのところへ帰って来られなくなるようなことは、絶対にしないって」

 自分の胸元にある第三の目にそっと手を添えて、さとりは微笑んだ。

「もうわたしにはあの子の心を読むことは出来ないけれど、あの日、あの子がわたしを選んでくれたからこそ、今でもそう信じることができるのよ」



 花を手にした女の子を抱えて崖の上へと舞い戻り、こいしは里への帰路を辿り始めた。そのまま飛んで帰ることも出来たのだが、何故だかそうした方がいいと思ったのだ。
 そうした方が、この子と一緒にいる時間が長くなるから、と。

「わたし、さ」

 赤らみ始めた空の下をとぼとぼと歩きながら、少女が沈んだ声で言った。

「お姉ちゃんのこと、大嫌いなんだ」
「うん」
「いっつもひいきされてばっかりで、体が弱くて家の手伝いだって出来ないくせに、皆の人気者で、わたしは我慢させられてばっかりで。あんな奴いなくなっちゃえばいいんだって、毎日思ってた」
「聞いたよ」
「でも、でもね」

 じわりと、少女の瞳が潤み出す。

「今日、お姉ちゃんの誕生日だったんだけど、お姉ちゃん、いつもみたいに具合悪くしちゃって。『疲れるといけないから』って、誕生日のお祝いも中止になっちゃったの。それで、誕生日だって言うのに一人ぼっちで、布団の中で伏せて苦しそうにしてるお姉ちゃんを見てね、わたし、『ざまあみろ』って思ったんだ。そしたら急に、胸が苦しくなって。もう家にいられずに、飛びだしてきちゃった。それで、居ても立ってもいられなくなって、ともかく何かしなくちゃって思ったら、この花の噂を思い出したの」
「つまり、誕生日プレゼントのつもりだったんだ?」
「分かんない。そう、なのかな?」

 少女は戸惑った様子で、手の中の花をきゅっと握った。

「だってわたし、お姉ちゃんの誕生日を祝うつもりなんか少しもなかったんだよ? プレゼントだって、あげる振りして箱の中に蛙でも入れてやれ、なんて思っててさ。酷いよね、自分の誕生日のときは散々我がまま言って、好きなものたくさん作ってもらって、お姉ちゃんにだっておめでとうって言ってもらったのに」

 真っ白な花をじっと見つめて、少女は小さく呟いた。

「お姉ちゃんに、見せてあげたかったんだ。これ、凄くきれいだって噂だったから」
「そう、なんだ」
「ねえ、こいし姉ちゃん」

 不意に、少女が潤んだ目でこいしを見上げた。

「わたし、お姉ちゃんのこと、嫌いなのかな、好きなのかな」

 縋りつくような声で問いかけられて、こいしは目を見張った。

「それ……自分で、分からないの?」

 少女は弱々しく首を振る。

「分かんないよ。お姉ちゃんはひいきされててずるいけど、でもロクに外に出られなくてかわいそうで。だけどそのせいでわたしは我慢させられてばっかりで、だけどお姉ちゃんはわたしにはいつだって優しくて、みんなみたいにうるさいって言わずに、笑って話を聞いてくれて」

 少女の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「お姉ちゃんのこと考えると、頭も胸もぐちゃぐちゃして、わけ分かんなくなるの。だからきっと、わたしはお姉ちゃんのことが大嫌いで、死んじゃえばいいって思ってるんだって。ずっと、そう思ってたのに」

 少女の涙が手元に落ちて、真っ白な花びらの上を静かに滑り落ちていく。
 少女の痛切な問いかけに、こいしは何一つ答える言葉を持っていなかった。
 何か、答えてやらねばならないと思う。
 だと言うのに、何も言葉が浮かばない。代わりに浮かぶのは、優しい微笑みを浮かべた姉の顔ばかり。

(お姉ちゃん。お姉ちゃんなら)

 もしも姉のように、第三の目を閉じていなかったなら。
 この子の心を深いところまできちんと理解してやって、彼女の本当の想いを教えることが出来たのだろうか。
 だが自ら堅く閉ざした第三の目は、どれだけ頑張っても簡単には開いてくれない。
 ただ、もどかしそうにぴくりぴくりとかすかに震えるだけだ。

「大丈夫だよ」

 不意に、やけに優しい声がどこかから聞こえてきたので、こいしはひどく驚いた。
 周囲を見回しても誰もおらず、それでようやく、さっきのが自分の声だと言うことに気がつく。
 まだしゃくり上げている少女に向かって、こいしは穏やかに微笑みかけた。

「きっと、待っていてくれるから」

 声は胸の奥から湧き上がって来て、自然と口から流れ出した。
 まるで、自分が何を言うべきなのかを、ずっと前から知っていたかのように。

「あなたのお姉ちゃん、きっと、待っていてくれるよ」
「待つ? 何を?」
「あなたが、お姉ちゃんのこと好きなのか嫌いなのかっていうのを、ちゃんと自分で分かるようになる日まで、ずっと、待っててくれる」

 力づけるように、小さな手をぎゅっと握り締める。

「だから、大丈夫だよ。焦らず、ゆっくりね。今日みたいに、悩んだり傷ついたりしながら、自分の心を探していけばいいの。そうすればきっと、お姉ちゃんが待ってるお家に笑って帰れるから」

 こいしの言葉に、少女は直接は返事を返してくれなかった。
 ただ、先ほどよりも少し力を取り戻した足取りで歩きながら、こいしの手をぎゅっと握り返してきた。
 今のこいしには、それだけで十分だった。



「そうして、わたしは疑問を持つようになったの」

 もうすっかり温くなったであろうお茶を一口啜りながら、さとりは静かに語った。

「わたしは自分に向けられる感情を汚いものや醜いものばかりだと思っていたけれど、果たして本当にそうなんだろうか、って」
「心を読めるのに?」
「だからこそ、かもしれないわね。自分でもそう思い込んでいたから、自然に読み取れるものが全てだと考えていたのかもしれない。でも、もう人間への憎しみしか残っていないと思っていたこいしが、無意識にわたしを選んでくれたときから、ひょっとしたら違うんじゃないかと思うようになった。汚いものや醜いものばかりに見えるものでも、その根底にはまた別のものが潜んでいるんじゃないかって。努力すれば、わたしはそういう、表層の感情の向こう側に潜んでいるものすら、正しく読みとれるようになるんじゃないかって」
「そっか。それで」
「そう」

 燐が理解してくれたことが嬉しかったのか、さとりは笑って頷いた。

「だから、わたしはどんなに辛い目にあっても、絶対に第三の目は閉じないことにしようと心に決めたのよ。汚い感情や醜い感情をぶつけられても、それまでのように目をそらさず、むしろ真正面からじっと見つめ返して、その奥にあるものを感じられるように、努力し始めた。そしたらね」

 とっておきの秘密を話すときのような、悪戯っぽい微笑み。

「もう、以前とは丸きり世界が違って見えるようになったのよ。他者への敵意や怒りの根本に、それ以上に深い悲しみや寂しさが見えたり。あるいは、優しさや暖かさの裏側に汚いものが潜んでいることがあったり」
「そういうのって、自然には読み取れないものなんですか?」
「ええ。本人ですら自分の気持ちをきちんと把握できていないことって、案外多いものよ」

 そう言われても、基本的に自分の感情には素直に生きてきた燐にはよく分からない。
 首を傾げていると、その疑問を読んだらしいさとりが、「そうね」と例を挙げてくれた。

「いい例が、この間の異変のときにここへ来た魔法使いね」
「ああ。霧雨のお姉さんですか」
「そう。彼女はとても複雑で、だけど美しい心を持っていたわ」
「えー? あの人がー?」

 さとりに比べれば下賤の塊のようにしか見えない魔法使いの顔を思い出して、燐は思わず顔をしかめる。
 それを見たさとりがおかしそうに笑った。

「ほらお燐、それだって表層しか読み取れていないということよ」
「そうですかねえ?」
「そうよ。彼女の心はね、大きく分けて三つの部分に分かれていたわ。一つ目はまず、お調子者で明るくて、図々しくて自分勝手で、だけど本当は自信がなくて陰で努力を積み重ねている、臆病な心」
「あー。それは何となく分かりますね。なんかそういう必死な感じですもの、あのお姉さん」
「でもその一つ下には、もっと汚いものがドロドロと渦を巻いているの」
「もっと汚いもの?」
「そう。それはね、主に嫉妬で構成されている醜い感情よ。天才や化け物揃いの仲間たちと自分とを比較して、あまりの矮小さに絶望する心。そんな仲間たちを、殺してやりたいほど激しく妬んでいる心。そんな自分に対する絶望的なまでの自嘲の念。そして、人間なんていうちっぽけな存在に生まれてしまったことに対する、深い深い嘆き。それはもう、緑眼の橋姫にも煽りようがないほどの、凄まじい負の思念だったわ」
「えー。あのお姉さん、そんな深刻なこと考えてたんですかー?」

 とてもそうは見えなかったけどなあ、と首を傾げる一方、だったらいい怨霊になるかもしれないなあ、と燐はちょっとわくわくしたりもする。
 それを読んだためか、さとりはちょっと苦笑した。
 そうしてから、もっともっと、深い笑みを浮かべてみせる。

「だけどね。そんな醜い感情に満たされた心のさらに奥底に、キラキラと輝くものが眠っているの」
「それは、なんですか?」
「強い力を持った友人たちに対する、純粋な憧れと尊敬の念。彼女たちに負けない、隣に並び立てる人間でありたいという、強固な自負心、自尊心。そして何よりも、前を飛ぶ友人をいつまでもいつまでも追いかけ続けようと夢見る、切ないほどに純粋で真っ直ぐな、強い強い願い」

 さとりは胸元の第三の目をそっと押さえて、満足げに微笑んだ。

「あれほど汚く醜く惨めで矮小で、けれども強い輝きを併せ持つ心を、わたしは今まで一度も見たことがなかったわ。そして、それを深くまで理解できた自分に、幸福と満足とを感じているの」

 そう言ったあとで、にっこり笑って締めくくった。

「だから今のわたしは、さとり妖怪に生まれたことを微塵も後悔していないわ。今後第三の目を閉じるつもりも一切ない。これからもずっと、ね」
「なるほど。いや、よく理解できました」

 燐は感心して頷いた。
 つまり、さとりも最初から己の能力を愛し、受け入れていたわけではなく、努力して自信を身につけたということなのだろう。
 悩みながら傷つきながら、少しずつそういう自分を作り上げていったのだ。
 そんな気持ちは、燐にもよく理解できるものである。

「あたいも、轢死体の魅力を理解できるようになったのって最近ですからねー。いや、よく分かりますよ」
「……それとこれとを同列にされるのは凄く複雑なんだけど」
「いやいや、そう言いますけどね、轢死体って何もかも台無しになってる感じがして最近まで苦手だったんですよ。でもこれも死体だから愛さないと、って悩みに悩み続けて、ある日気がついたんです。轢死って自然ではまずあり得ない死に方だから、凄く文化的で人間的で洗練されているんじゃないかって。それ以来あたいはグチャグチャの轢死体の虜になったわけで」
「ああ、止めて。『世界名轢死体劇場』とか頭の中で開催するのは止めて。お茶が不味くなるわ」
「えー。そんなあ。あたいの心を読めるんだったら、この嗜好も理解して同調してくださいよぅ」
「あのねお燐。わたしにだって選ぶ権利ぐらいはあるのよ」
「ちぇー。さとり様のいじわるぅー」

 唇を尖らせて言ったあと、燐はふと疑問に思った。

「えっと。今のお話聞いた感じだと、さとり様はもう人間に対する恨みみたいなのはほとんどないんですよね?」
「ええ、そうよ」

 なんでだろう、と考えたら、さとりは小さく目を伏せた。

「確かにわたしも、人間には随分酷い目に遭わされたけれどね。だけどそれは仕方がないことだったと思っているわ」
「仕方がない、って。それで納得できるもんですか?」
「そういう時代だったということよ。妖怪側だってずいぶんたくさんの人間を殺したんだし。お互い様よ。それに、他人の心を深くまで理解できるようになるとね。大抵のことは、許せるようになるものなの」
「そんなもんかなあ」

 普段怨霊たちの恨みつらみを聞いている燐には、どうにも理解し難い話だ。
 小さく唸って悩んでいると、さとりが少し寂しそうに笑った。

「もちろん、それも今、こいしがわたしのそばにいてくれるからこそ言えることなんだけどね。もしもこいしが殺されたりしていたら、とてもではないけど憎しみや怒りを忘れ去ることなんて出来なかったでしょうし」
「うん。まあ、それはそうですよねえ」

 一応納得しつつ、だがやはり疑問にも思った。

「でも、こいし様はそうではないんですよね? 今も人間を恨んでいるって」
「ええ、多分ね。人間を殺して死体を持ち帰ろうっていう発想も、そこから生まれたものだろうし」

 だとしたら、やはり疑問だ。
 いくらこいしが自分のところへ帰って来てくれるだろうという信頼感があるとはいえ、人間への憎しみを捨てていないのだとすれば、万一、ということもあるのではないか、と。

「それはね」

 と、燐の思考を読んだらしいさとりが、微笑みながら何か答えようとしたところで、

「うにゅ……」

 と小さく呻きながら、さとりの膝を枕にして眠っていた空が目を覚ました。
 のっそりと体を起こし、しょぼつく目をごしごしと擦りながら、ぼんやりと周りを見回す。
 そして開口一番、

「おなかすいた」
「ちょっと、おくう」

 燐は呆れてため息をつく。

「あたいら、今割と深刻な話をしてるところだったんだけど」
「えー。だって、おなかすいたんだもの……」
「いいから、ちょっと黙ってなって」

 若干苛々して燐が言うと、空は不思議そうに首を傾げた。

「そんな真剣に、何を話し合ってたの?」
「あのね」

 仕方がなく、燐は事の次第を簡単に説明した。
 ぼんやりしたままそれを聞いていた空は、話を聞き終えるなり大きく欠伸をして、

「お燐、馬鹿じゃないの?」
「うっわ、むかつく! あんたに馬鹿って言われるとなんかすっげーむかつくって、あたい今発見しちゃったよ!」

 顔をしかめて言ってから、はて、と燐は首を傾げた。

「で、なんで馬鹿って?」
「だってさあ」

 空は欠伸混じりに、衝撃的なことを言った。



 手を握ったまま並んで人里に入り、しばらく歩いていると、少女の家だという小さな家屋が、遠くの方に見えてきた。

「あれ?」
「うん。他の家よりぼろっちいから、分かりやすいでしょ」
「うーん。何となく温かみがあって、わたしは好きだけど」
「あんがと、こいし姉ちゃん」

 歯を見せて笑う少女に笑い返したあと、こいしはふと、その家の方を見やって眉をひそめた。

「なんか、家の前に誰かいるみたいだけど」
「え?」

 少女は慌てて自分の家の方をみやり、目を見開いた。

「お姉ちゃん!?」

 叫びながら、こいしの手を振りほどいてばたばたと慌ただしく駆けだしていく。
 少し迷いながら、こいしもその後を追って走りだした。



 まさかと思って近づいてみたら、予想は大当たりだった。
 周りに比べて少しボロい家のすぐ前に、ぶかぶかのちゃんちゃんこを羽織った姉が立っている。
 姉は少女を見つけると、嬉しそうに小さく手を振って来た。
 あの馬鹿、と胸中で罵りながら、少女は姉に向かって全力で走る。
 そうして、姉の前にたどり着いた頃にはすっかり息も上がり、まともに喋ることも出来なくなっていた。
 仕方がないので姉を睨みつけたままぜいぜいと息をしていると、姉はいつも通り青白い顔にのほほんとした笑みを浮かべて、

「お帰り、みっちゃん」
「バカっ!」

 ただいま、の代わりにそう言い返した。すると、堰を切ったように次々と言葉が溢れ出してきた。

「この、バカっ! 何やってんのさ、お姉ちゃん! こんなことしてたら、また具合悪くなっちゃうじゃん!」
「大丈夫だよ。お薬飲んだし、寝てたら大分具合も良くなってきたし」
「いやだから、それなのにこんなところに立ってたらまた具合悪くなっちゃうって言ってんの!」

 そう言うと、姉はちょっと申し訳なさそうに「ごめんね」と言い、それから、

「でも、起きたらみっちゃんがどこにもいないから、心配だったんだもの。いつもみたいに書き置きもないし」「う。それは、まあ、あたしが悪かったけど」

 事情が事情だけに何も言い返せず、少女は押し黙る。
 そんな少女を見て、姉は不思議そうに目を瞬いていたが、やがて何かに気づいたように、

「ね、みっちゃん。それはなぁに?」
「え? あ、これ?」

 姉の視線を追うと、右手に持っていた花に辿りついた。
 苦労の末にようやく手に入れてきた、純白の花だ。
 あれだけの全力疾走の後だというのに、花弁が一枚も散っていない。
 きれいな以上に強い花なのだなあ、と少し感心する。

「きれいなお花だねえ。どこで取って来たの?」
「ん。えっと。あのね」

 少女はしばらくの間もじもじした後、ようやく、恐る恐る姉に向かって花を差し出した。

「これ、誕生日プレゼント」
「え?」
「きれいな花があるって聞いて。お姉ちゃんに見せてあげたくて」

 そう言ったら、急に頬が熱くなった。
 よく考えてみると、誕生日に花一輪というのは少しふざけた話なのではないだろうか、と。
 しかし姉は嬉しそうに微笑んで、花を受け取ってくれた。

「ありがとう、みっちゃん。大事にするね」
「う、うん。ごめんね、こんなのしか用意できなくって」

 何故か、やけに素直に言葉が出る。自分でも驚くほどだ。
 いつもならば、こういうときでもつい憎まれ口を叩いてしまうものなのだが。
 戸惑う少女の前で、姉は少し怒ったように言った。

「駄目だよ、みっちゃん」
「え、なに?」
「こんなの、なんて言っちゃダメ。とっても素敵なプレゼントじゃない。わたし、凄く嬉しいよ」
「そ、そうかな」
「うん、そうだよ。ついでに、みっちゃんがこのお花を持ってきてくれるまでの冒険の話も聞かせてくれたら嬉しいな」

 姉は悪戯っぽく微笑んだ。

「わたし、あんまりお外に出られないからね。みっちゃんが聞かせてくれるお話、いつも楽しみにしてるんだよ」
「ん。うん、まあ、いいけど」

 相変わらず、姉は照れもなく真っ直ぐに自分の感情を伝えてくる。
 その明るさが、少女には眩しい反面苛立たしく、また少し悲しくも思えるのだった。

「あれ、そう言えば」

 ふとあることに気がついて、少女は慌てて周りを見回した。

「父さんと母さんは?」

 二人がいれば、姉がこうして玄関先に立っていることなど認めないはずである。
 しかし現に、姉はここで自分のことを待っていたわけで。

「あ、そうだった」

 姉は思い出したように、ポンと手を打った。

「父さんと母さんは、出かけてるよ」
「えぇっ!? お姉ちゃん一人残したまま!?」

 しかも誕生日に、である。いくらなんでも酷過ぎるのではないだろうか。
 だが、普段の溺愛振りからすると妙な話だ。

「一体、どこに出かけちゃったのさ?」
「迷いの竹林」
「竹林って。あんなところに、何しに行ったの?」
「ほら、最近あそこに凄腕のお医者様が現れたっていう話があったじゃない?」
「ん。うん。聞いたことはあるけど」

 それがどうしたんだろう、と少女が首を傾げると、姉はにっこり笑って説明した。

「そこのお医者様にね、わたしの体を診てもらえるようにって、相談しに行ったんだって」
「え、今更?」

 最近と言っても、あの竹林に医者が現れたのは、もう二、三年も前の話のはずである。
 それが今になってどうして、と少女が思っていると、姉がおかしそうに笑った。

「お父さん、今までは『突然現れた妙な医者なんぞ信用して、大事な娘に変な薬でも飲まされたらたまらねえ』なんて、意地張ってたらしいのよ」

 ところが今日、愛娘が折角の誕生日に寝込んでしまったことで、後悔と責任とを感じたらしい。
 それで、ともかく話だけでも聞いてみよう、ということで、慌ただしく出かけていったのだとか。
 母が同行したのは、父だけでは冷静に話ができるかどうか怪しく思われたから、とのことだ。
 姉一人残していくことには彼らも躊躇したらしいが、「大分具合も良くなったし、その内みっちゃんも帰って来るだろうから」と言ったら、思いきって出かけていったそうな。

「護衛の人も頼んで、夜には帰って来るって言ってたから。誕生日のお祝いは、家族だけでやろうねって」
「ああ、そういうことなんだ」

 ようやく納得して、少女は深く息を吐く。
 同時に、少し期待もした。
 竹林に現れた医者というのは確かな腕を持つ名医で、昔から人間の里にいる医者たちの仕事を奪いかねないほどだという噂だからだ。
 そんな人に診てもらえたら、姉の体も本当に良くなるかもしれない。
 自然とそんな風に考えている自分に気がついて、少し嬉しくなる。

「みっちゃん、どうしたの?」
「え、なにが?」
「なんだか、嬉しそうな顔してたから」
「ああ、えっとね」

 何となく照れ臭かったが、少女はとりあえず、今の自分の気持ちを素直に伝えることにした。
 ほっそりした姉の顔を真っ直ぐに見上げ、歯を見せて笑いながら、

「お姉ちゃん、誕生日おめでとう!」

 そして、ちょっと躊躇いがちに、小さな声で付け加える。

「それから……ただいま、お姉ちゃん」
「うん、お帰り。ありがとうね、みっちゃん」

 姉はいつものように微笑んで、軽く頭を撫でてくれる。
 そのことに深い安堵を覚えながら、少女はふと、自分が来た道を振り返った。
 夕闇に染まりつつある人里の中に、今日一日自分に付き合ってくれた優しいお姉さんの姿は見えない。
 どこへ行ったんだろう、と思ったが、すぐに首を横に振った。
 きっとまた、いつか会えるだろう。何となく、そんな気がする。
 今はそれよりも、やらなければいけないことがあるのだ。
 自分に軽く気合を入れ、少女は姉の細っこい手をぎゅっと握った。

「ほらお姉ちゃん、早く家に入ろうよ。いつまでも立ち話してたら本当に具合悪くなってくるよ」
「あはは、大丈夫よ。いくらわたしでもそんな簡単に」

 と、言いかけた姉が、不意に大きなくしゃみをしたので、少女は大いに慌てた。

「ほら、油断してるとすぐこれなんだから! 早く家入るよ、お姉ちゃん」
「はいはい、分かりました。それにしてもみっちゃん、今日はなんだかいつもより優しいねえ」
「う。いや、どうでもいいじゃないの、そんなことは」

 これからは毎日そうするつもりだし、という言葉は、さすがに照れ臭くて心の中でしか言えなかった。



 そうした一連のやりとりを、こいしは空の上から見下ろしていた。
 一応無意識に身を委ねているから見つかってはいないようだったが、その実いつもよりも意識がはっきりしている。
 何だか、妙な感じだ。
 同時に、まあいいか、とも思う。
 別に今は、誰かに見つからないように気を付ける必要など微塵もないのだから。

(それにしても)

 連れ立って家の中に入っていく姉妹を見送りながら、こいしは首を傾げる。
 結局、今日最初会った頃にあの子が見せていた激しい恨みつらみは、いったい何だったのだろう、と思う。
 今のやり取りを見る限り、あの子は姉のことが好きで好きでしょうがないようにしか見えなかったのだが。

(お姉ちゃんなら、分かるのかな)

 自然と、姉の優しい笑顔が頭に浮かんだ。
 汚いものや醜いものをぶつけられてばかりで、心を読む能力のために他人からも嫌われて。
 そんな辛い目に遭ってばかりなのに、決して自分のように第三の目を閉じようとはしない姉。どんな感情をぶつけられても、ただ静かに、穏やかに笑っている姉。
 どうしてそんな風にしていられるんだろうか、と、こいしは今更ながら疑問に思った。
 いつか理解したいな、とも思う。
 姉の気持ちが分かりさえすれば、自分もまた、第三の目を開くことができるようになるだろうから、と。
 そしたらまた、昔のように素直に心を通わせることができるだろう。
 そんな風に考えたとき、こいしはふと、自分が左手に何かを持っていることに気がついた。
 それは、少女が姉に見せたがっていたのと同じ、あの真っ白な花だった。
 いつの間に手に取っていたんだろう、とこいしは少し驚き、それから、

「無意識、かな」

 小さく呟いて、笑った。
 左手を持ち上げ、暮れゆく空に純白の花をかざしてみる。
 きれいだなあ、と感嘆の息が漏れた。
 どうやら死体は持って帰れなさそうだが、まあいいか、と思う。
 きっとこっちをお土産にした方が、お姉ちゃんは喜んでくれるだろうから。
 お燐は残念がるかもしれないが、まあ我慢してもらおう。
 人間を殺すのは、また次の機会にお預けだ。
 そんな風に考えながら、こいしは地底へと続く穴に向かって飛び始める。
 そうしながら、ふと苦笑した。

「それにしても、今日もまた失敗、か。人間を殺すのなんて簡単なはずなのに、なんでか上手くいかないなあ」



 空の話を聞いて、燐は呆然としていた。
 あまりの事実に、頭がクラクラしてくる。

「……するってーと、なにかい」

 目の前でぼんやりしている空に、虚ろな笑いを向ける。

「こいし様が『人間を殺して死体を持って帰る』って言って出かけるのは、これが初めてのことではない、と」
「そーだよ」

 空は眠たげな声であっさりと言った。

「そんなの、いつものことじゃない。で、いっつも死体じゃないもの持って帰ってくんの」
「死体じゃないものって、たとえば?」
「地上で釣った魚とか、絵描きさんの横で真似して描いた絵とか。なんかね、殺す人間選んでる内に、いろいろとどうでもよくなってくるんだって」
「なんじゃそりゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 叫び声を上げながら、燐は頭を抱えてのけ反った。
 そうしてから、はっと気付いて身を起こす。
 もしかして、と思ってさとりの方を見ると、案の定こちらから顔を背けて口元を押さえ、堪え切れないように肩を震わせていた。

「さとり様ぁっ! 最初っから全部知ってましたね!? 知っててあたいをからかってたんですね!?」
「いやねえ、お燐ったら」

 目尻に溜まった涙を拭いながら、さとりはにっこりと笑った。

「からかってたんじゃないわ。楽しんでたのよ」
「どう違うってんですか!? ちくしょう、さとりさまはSだ、さとりのSはドSのSだ!」
「まあ酷い。わたしなんてちょっとペットをいぢめるのが趣味なだけの、か弱い少女に過ぎないなのに」
「どの口が言ってんスか!? ああもう、グレてやる! 今度はあたいが異変起こしてやっからなぁーっ!」

 やけくそ気味に叫んでじたばたと地団駄を踏んでいると、不意に誰かに抱きしめられた。

「ごめんね、お燐」

 耳元で囁くのは、言うまでもなくさとりである。優しい手つきで燐の頭を撫でながら、穏やかな声で語りかけてくる。

「あなたが純粋にわたしたちのことを案じてくれる思念が、とても柔らかくて温かいものだったから。出来る限り長く感じていたくて、つい、ね? 許してちょうだいね」
「……ずるいッスよ、さとり様」

 さとりの胸の中で、燐は拗ねたように唇を尖らせる。

「そんなこと言われたら、許すしかなくなっちゃうじゃないですか」
「そうでしょうね」

 さとりは穏やかに微笑み、

「だって、計算してやってるから」
「このドSがっ!」
「冗談よ、冗談」

 いきり立つ燐に向かって軽やかに微笑みながら、「さて、と」とさとりは居間の外に向かって歩きはじめる。

「そろそろ、夕飯の支度をしましょうか。あの子が帰ってくる頃だし、おくうも限界みたいだし」
「うん、おなかすいたー!」
「くっそー、いつか絶対仕返ししてやる」
「あらあら、それじゃあわたしはその企みに気付かない振りをしつつ、土壇場のところで大逆転を決めてあげようかしら」

 実に嬉しそうにそう言うさとりを見て、ああこの人には本当敵わないなあ、と燐は内心歯軋りする。
 そうして、ぶすっとしたままさとりの後について歩き始めてから、燐はふと疑問に思った。
 無意識に行動するこいしが、毎度毎度結局人間を殺さずに帰って来ると言うのならば、それはつまり、無意識の内に彼女がそう選択しているということなのだろう。
 それならば、こいしは何故、何度も何度も飽きずに地上へと出かけていくのだろう。

「それはね、お燐」

 振り返ったさとりが、穏やかな声で言った。

「きっとあの子は、探している最中なのよ」
「探すって、何を?」
「家路を。本当の意味で、わたしのところへ帰ってくるための」

 さとりは廊下の途中で足を止め、地底の天井を見つめて目を細める。

「わたしはね、その日が来るのをずっと待っているの。これからも、ずっと待ち続けるのよ」

 深い響きを持つその声音の奥に潜むものが何なのか、今の燐にはどうにも理解できない。
 理解できるのは、もしもそんな日がきたら、きっと自分もとても嬉しいだろうなあ、ということぐらいだ。
 だから今はせめて、今日こいし様を迎えるための夕飯を一生懸命作ろう、と思うのだ。

「あら、手伝ってくれるの?」
「もちろんですよ! ところで献立はなんですか?」
「卵焼き。好きなのよ、あの子」
「へえ、そうなんですか。でもそれだったらあんまり手伝うこともなさそうだなあ」
「あたしも手伝う―っ!」
「って、おくうは料理なんか出来ないじゃん」
「うにゅ。じゃ、卵産む!」
「たまっ……な、何言ってんのさ、馬鹿っ!」
「あらあら、お燐ったらいやらしいこと考えるのね。変態さんだわ」
「失敬な! あたいは死体が好きで好きでたまらないだけの健全な妖怪ですよ!」
「うん。それ間違いなく変態だわ」

 賑やかに騒ぎながら、三人は炊事場へ向かって歩いて行く。

「……そう言えば、なんでこいし様はあたいには見つけることすら難しいのに、おくうにはそんな頻繁に話し掛けてるんですかね」
「そうね。何せ、この子も鳥頭で、半ば勢いというか無意識で行動しているようなものだから。何か、通ずるところがあるんじゃないかしら」
「うにゅ?」
「……無意識ってよく分かんないなあ」

 しみじみと頷く燐であった。



 今日も今日とて仲間を集めて夕暮れまで騒いでいたヤマメは、ふと地底の天井近くを何かが飛んでいくのを発見した。

「あ、古明地さんとこのこいしちゃんだ」
「本当」

 隣にいたキスメも、桶の中から飛んでいく影を見上げている。

「相変わらず、嬉しそうに飛ぶ人だねえ」
「そうだねえ」

 のんびりした口調で言葉を交わしたあと、ヤマメは「うーっし」と手を打ち鳴らし、周囲で騒ぐ仲間たちに向かって呼びかけた。

「こいしちゃんが飛ぶ時間だ、今日はここいらで解散! 暇な奴は旧都に繰り出して、朝まで飲むとしましょうかーっ!」

 ヤマメがそう呼びかけると、仲間たちは一人残らず「おーっ!」と拳を突き上げた。
 中には全身に傷跡が刻まれていたり、足や腕が欠けている者たちもいる。
 だが全員が全員、粗野ながらも陽気な笑みを浮かべて肩を組み、ヤマメの声に応えてくれる。
 そのことを嬉しく思いながら、ヤマメはみんなを先導するように、キスメと一緒に連れ立って歩き出した。



 今日も今日とてほとんど人通りのない橋に一人ぽつんと佇んでいたパルスィは、ふと何者かの気配を感じて頭上を見上げた。
 地底の天井付近を、真っ直ぐに飛んでいく影が一つある。

「古明地のところの無意識女、か」

 呟き、顔をしかめる。

「嬉しそうに飛んじゃって。フン、妬ましい」

 ともかく、あれを見かけたということはそろそろ帰る時間である。
 帰ったところで誰もいない家の中、一人恨みつらみを吐き漏らしながらくだを巻くだけなのだが。
 そんな想像をしてため息を吐いたとき、パルスィは向こうの方から騒がしい一団がやって来るのに気がついた。

「ゲッ」

 顔をしかめ、慌てて身を翻して逃げ出そうとしたが、それよりも早く、一団の先頭にいた黒谷ヤマメに気付かれた。

「おーっ、今日は橋姫の姐さんがまだいたぞーっ!」
「捕まえろーっ!」
「酔わせろ、脱がせろーっ!」

 あっという間に粗野な一団に取り囲まれ、「わっしょい、わっしょい」と神輿のように担ぎあげられてしまう。

「ちょ、こら、止めなさいっ……! だーもう、なんであんたたちは毎度毎度そんな馬鹿明るいのよ! あーっ、妬ましいぃぃぃぃぃぃーっ!」

 成す術もなく運ばれながら、パルスィはヤケクソ気味に叫んだ。



 今日も今日とて鬼仲間と飲み歩いていた勇儀は、旧都の入口付近にある居酒屋から出たところでふと頭上を見上げ、天井付近を飛んでいる影を見つけて微笑んだ。

「古明地のところのこいしちゃんか。今日も元気に飛んでるねえ」
「おー、そうだねえ」

 たまたま帰省中だった萃香が、隣でのほほんと同意する。
 勇儀は腕を組みながら、「ふむ」と小さく笑った。

「あの子が来たってことは、そろそろ宵の口ってところか。いよいよ酒が美味い時間帯だ」
「だね。次はどこの店に行こうかい」
「そうだねえ、次は」

 言いかけ、今まさに自分の頭上を通り過ぎようとしているこいしを見て、勇儀はふと苦笑した。

「あん。どうしたい、勇儀」
「いや、なに」

 こいしの影を見送りながら、勇儀は目を細める。

「あの子、出ていくときは誰にも気付かれないくせに、戻って来るときはやけに目につくんだよね。まるで、誰かに見つけてほしいみたいにさ」
「ふうん。何でだろうねえ」
「さて。あれも、無意識ってやつなのかもね」

 そう言って微笑んだとき、勇儀はふと、旧都の外からこちらに向かって歩いてくる一団を発見した。
 先頭には黒谷ヤマメとキスメ。担ぎあげられているのはパルスィだろうか。
 いつも通り、賑やかで騒々しい連中である。
 今日も今日とて、地底は暗いながらも明るい世界だ。

「いいねえ、実にいい。今夜はあの連中も巻き込んで、盛大に飲み明かすとしようかい」

 豪快に笑いながら、勇儀は近づいてくる一団に向かって大きく手を振った。



 賑やかな旧都の頭上を飛びながら、しかしこいしは地上の灯りには目を奪われることなく、一直線に地霊殿を目指していた。
 手には今日のお土産である小さな白い花を握りしめ、顔には期待に満ちた笑みを浮かべている。
 やがて地霊殿の影が見え始め、ある程度近くまで来てから、こいしは小さく鼻をひくつかせた。
 地底の夜の空気に、甘い匂いが入り混じっているのが分かる。

「そっか。今日は卵焼きなんだ」

 呟くと同時に、腹が小さな音を立てた。いつもながら、朝に台所でつまみ食いして以降何も食べていない。
 早く夕飯にありつこう、と思い、こいしはさらに速度を上げる。
 地霊殿の前に降り立ち、エントランスを駆け抜けながら、大きな声で奥に向かって呼びかけた。

「ただいまーっ! お姉ちゃーん、おなかすいたーっ!」

 おかえり、の声はすぐに返って来た。当たり前のことながら、こいしはいつも、その声を聞くと嬉しくてたまらなくなるのだ。
 そう。たとえ無意識に身を委ねていても、こいしはいつもここへ帰ってきている。
 それは、ここが自分の帰る場所であるということを、無意識の内に理解しているからかもしれなかった。



 <了>
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