【東方SS】古式ゆかしいヲトメの純情

2009/7/9に東方創想話に投稿したSSです。
 


『古式ゆかしいヲトメの純情』



 人生には落とし穴がつきものである。
 それはたとえば、偉い人に才能を見い出されたがために、肺活量の訓練と称してコンクリ詰めにされた上で水の中に沈められたり、回避力向上のためと言って数百丁の機関銃が吐き出す銃弾の雨の中を素っ裸で走らされたり、腹筋を鍛えるためと言って鋼鉄の杵でボディを千回ほど殴打されたりすることだ。あるいは、「オラこんな月嫌だ!」と泣き喚きながら命がけの逃避行を決行した挙句、辿りついたお屋敷に住まうイカれたお医者様に日夜変な薬の実験台にされることだったりもする。
 だがまさか、本物の落とし穴に毎日のように落とされるようになろうとは思いもしなかった。
 そんなわけで、爽やかな午前の散歩の途中で落とし穴に落っこちた鈴仙・優曇華院・イナバは、今日も泥まみれで迷いの竹林の中を飛んでいるのである。

「待たんかこの糞兎ぃっ!」
「やーだよ! 悔しかったらここまでおいでー!」

 舌を出し、小さなお尻を叩きながら前方を飛ぶ因幡てゐに、鈴仙は歯軋りする。この妖怪兎ときたら、「竹林はわたしの庭」と豪語するだけあって、いかに依姫から過酷な軍事訓練を受けた鈴仙であってもそう簡単には捕まえられないのだ。

「っつーか飽きずによく引っかかるよねえ鈴仙ちゃんも! ちっとは学習能力ってもんを持ちなさいよ!」
「あんたこそ毎度毎度落とし穴ばっかり掘ってんじゃないわよ! その情熱を他のところに回しなさい!」

 悪戯兎が掘った落とし穴に鈴仙が引っ掛かり、涙目になりながらてゐを追う。今や恒例のイベントと化した光景である。これでもう何度目になるのかなど数えるのも馬鹿らしいほどだ。
 そう考えると、確かに飽きずに引っかかる自分にも非があるなあ、と思わないでもない鈴仙だが、同時に仕方のないことだと思ったりもする。なにせ、二十四時間気の休まる暇のなかった過酷な軍事訓練の日々から逃げ出してきた身の上である。こののん気な郷で暮らしていると、昔の反動で酷くぼんやりしてしまうことがあるのだ。
 そう、ここはとてもいい土地だ。就寝中に杵で頭を殴られて叩き起こされ、抗議したら「そんなもの無意識の寝返りでガードしなさい! 罰として兎飛びで静かの海五百周!」とか無茶な叱責を浴びせられる、というようなことがない。その代わり、夜中ふと視線を感じて起きたら枕元に師が立っていて、「人生には癒しが必要なのよ」とか呟きながらどこかへ行ってしまう、ということは頻繁に起きているが。
 それでもやはり、月に比べたら天国と言ってもいい。そういう場所でぼんやり散歩なんかする時間というのは、鈴仙にとってこの上なく大切なものなのだ。だがそんな時間帯に限って、てゐは悪戯を仕掛けてくる。許し難いことだ。なんとしてでもとっ捕まえて、いつものようにお仕置してやらなければ気が済まない。
 だが、竹と竹の隙間を縫うように飛ぶ両者の距離は、なかなか縮まらなかった。相手は自分の数倍、数十倍も長くこの竹林で暮らしているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
 しかし鈴仙は焦ってはいない。落とし穴に引っかかったり追いかけたりするのがいつものことならば、最終的には捕まえられるのもいつものことだからだ。小柄な体格故に持久力が薄いためか、てゐは逃走劇の終盤で必ず速度を落とす。そうなればもう鈴仙の勝ちは決まったも同然だ。「捕まったら一八禁指定な目に遭わされること確実な触手持ち宇宙怪獣から一週間逃げきる訓練」で培われた持久力と根性は伊達ではないのだ。

「見てなさいよ、詐欺兎め」

 ところが、そう呟きながら鈴仙がほくそ笑んだとき、ちょっとした事件が起きた。
 猿も木から落ちる。河童の川流れ。前方を飛んでいたてゐが、進路上の竹を避け損ねて、肩をぶつけたのである。元々小柄な上に、追いかけっこのために全力で飛んでいた最中のことだ。てゐは大きく吹っ飛ばされて何度か別の竹に跳ね返され、最後は地面に叩きつけられた。

「ちょ、ちょっと」

 鈴仙は慌てて急停止すると、地に降り立っててゐに駆け寄った。ひょっとしたらこれも罠かも、という疑念が一瞬頭を掠めたが、とてもではないが演技には見えなかった。
 果たして、その認識は正しかったらしい。地面に叩きつけられて泥まみれになったてゐは、鈴仙が駆け寄ると同時にむっくりと体を起こし、目に涙をためたかと思うと声を上げてわんわん泣き始めたのだ。

「いたいよう、いたいよう」

 そんな風に、恥も外聞なくぽろぽろ涙を零している。いくらなんでも大袈裟なんじゃないか、と鈴仙は心の中で苦笑しかけたが、ふとてゐの足を見てぎょっとした。地面に叩きつけられたときにすりむいたか、それとも格別硬い竹にぶつかりでもしたものか、膝のところがぱっくり割れて、真っ赤な血が溢れて来ていたのである。これでは痛いはずだ。すぐに治療してやらなければいけない。

「てゐ、大丈夫? 永遠亭まで飛べる?」

 問いかけると、まだしゃくり上げながらもコクンと頷き返してきた。鈴仙はてゐに肩を貸して自分にしがみつかせてやり、二人で連れ立ってゆっくりと竹林の中を飛び始めた。

「まったくもう。前をよく見ないからそういうことになるのよ。いくら慣れてるからって、ここは地形が変わりやすい場所なんだから。いや、その前にね、そもそもわたしを落とし穴に落としたりするからこういうことに」
「ごめんなさい」

 鈴仙がぶつぶつ説教じみたことを言うと、てゐは鼻を啜りあげながら小さな声でしおらしく謝った。こう来られると弱いんだよなあ、と、鈴仙は心の中でため息を吐く。
 今日はてゐが怪我をしてしまったために中断する形になってしまったが、仮に追いかけっこの末に捕まえていたとしても、結果は同じだったろう。捕まえられたてゐは大概、いつもの憎たらしさが嘘のような調子で素直に謝ってくるので、元来臆病で争い事を好まない鈴仙としては怒りにくく、結局デコピン一発とかその辺りの軽いお仕置きで許してしまうのだ。

(そう言えば昔、脱走未遂で捕まった仲間を見せしめに銃殺しろって言われたときも、『出来ません!』って言っちゃってお仕置き用の拷問部屋送りになったりしたっけ。全然成長してないなあ、わたし)

 しみじみと、そんなことを考えてみたりする鈴仙である。
 そうしてしばらく飛んでいると、乱立する竹の隙間に永遠亭の正門が見え始めた。いつものように見張り役の大きな妖怪兎が二人、並んで立っているのも見える。そこで鈴仙は少し進路を変えると、見張り役に見つからないよう注意しながら高い塀をぐるりと回り、裏手から永遠亭の敷地内に足を踏み入れた。何分てゐはこれでも兎たちのリーダーだから、怪我して泣いているところを見られたのでは体裁が悪かろう、と鈴仙なりに気を使ったのだ。
 その後も誰かに見つからないよう注意しながら、鈴仙はあまり使われていない水場にてゐを連れていき、井戸のそばに座らせた。

「じゃあ、わたしは師匠のところに行って薬もらってくるから。あんたはここで傷口洗ってなさい。いい?」
「えぇー」

 そのときには既に泣き止んでいたてゐが、赤い目で不満げに抗議の声を上げた。

「お師匠様の薬は染みるからやだ」
「なに子供みたいなこと言ってんの。それそのままにしておいたら、終いには足が腐って切らなきゃいけなくなっちゃうんだからね。あんたがそれでいいんならいいけど」

 ちょっと大げさに脅すと、てゐは拗ねたように唇を尖らせながらも「分かった」と不満げに頷いた。鈴仙は井戸から水を汲んでやって、「これで洗ってなさい」と言い置くと、屋敷の中に上がって、己の現在の師匠である八意永琳の研究室を目指した。
 永琳はこの永遠亭で診療所を開いており、外来の客がやって来たときは診察室の方に顔を出す。しかし、何せ永遠亭は迷いの竹林の奥にあるから、よほどの重病人でもなければここまでやってくることはない。従って、永琳は大概、屋敷の中にある自分の研究室に篭って、他人にはよく理解できぬ研究に没頭しているのである。
 永琳の研究室は、和風の屋敷の中にあっては異彩を放っているのですぐに分かる。バイオハザードその他諸々への対策だとかで扉が分厚く無骨な鋼鉄製であり、それでいて上には「やごころせんせいのけんきゅうしつ」という丸文字の可愛らしいネームプレートがかかっているからだ。プレートに関しては、永琳曰く「ちっちゃな因幡たちにも読めるように配慮したのよ」とのことだが、輝夜曰く単に永琳の趣味だ、ということらしい。
 ともかく研究室の扉の前に立った鈴仙は、横の壁についている呼び鈴のボタンを押す。いつも通り、扉の上についているスピーカーからは何の返答もない。だから構わずドアノブに手をかけ、「失礼します」と言いながら研究室の中に足を踏み入れた。
 ヒバだか檜だかの柔らかい匂いに満ちている他の場所とは違い、永琳の研究室の中には独特の薬品臭さが篭っている。鈴仙としては、どちらかと言えばそういうケミカルな臭いの方が馴染み深かったりして、ここに来るたび少々複雑な気分になったりもする。
 そんな研究室の中央付近の机に、永琳はいた。本人のある種潔癖とも言える性格を表してか、整然と整理された薬品棚を背景に、何やら薬品の調合を行っている最中らしかった。
 その作業が一段落するタイミングを見計らって、鈴仙は声をかける。

「師匠」
「ん?」

 永琳は煙を立たせながら泡立つどす黒い液体入りの試験管片手に振り返ると、鈴仙を見て眉をひそめた。

「うどんげ。入って来るときは呼び鈴を鳴らしなさいっていつも言っているでしょう」
「はい、申し訳ありません」

 押したけど反応がありませんでした、などとは言い訳せず、鈴仙はきびきびとした口調で謝罪した。上官に口答えするな、と幾度もスタンガンによる百万ボルトの電撃を浴びせられた躾の賜物である。
 永琳は「まあいいわ」とあっさり許すと、試験管を振りながら尋ねてきた。

「どうしたの。今日はあなた、非番のはずだけど」
「はい、それがですね」

 鈴仙は事の次第とてゐの怪我の具合について、簡単に説明した。

「それで、傷薬を頂きたいんです。出来る限り染みないやつがいいんですけど。てゐに文句言われるの嫌ですし」
「あなたもいちいち気を遣うわねえ。ああ、そうだわ」

 永琳はふと何かを思いついたように悪戯っぽい笑みを浮かべると、なぜか中身の液体が薄桃色に変じた試験管を試験管立てに入れ、隣接する薬品倉庫の中に姿を消した。しばらく待っていると、小さく折りたたまれた薬包紙や包帯などを手にして戻って来た。

「はい、どうぞ」

 それらを鈴仙に手渡しながら、面白がるような口調で言う。

「それを使って治療する前に、蒲の花粉から作った粉薬だって一言言ってあげなさい。きっと大人しくなるでしょうから」
「どうしてですか?」
「あら勉強不足ね、うどんげ。蒲のことは知らないのかしら」
「いえ、花粉が止血剤として用いられるってことぐらいは知ってますけど。それでどうしててゐが大人しくなるんですか?」

 鈴仙が言うと、永琳は口元に手をやっておかしそうに笑った。

「やっぱり勉強不足ねえ、うどんげ。薬剤師としてはそれでも間違いではないけれど、教養も身につけないと貧しい人生を送ることになるわよ」
「はあ」

 よく分からずに生返事を返しながらも、鈴仙はとりあえずお礼を言って薬を受け取り、簡単な使い方を聞いたあとで研究室を後にした。

「教養、ねえ」

 屋敷の中を歩きながら呟き、自分にはつくづく無縁な言葉だなあ、と苦笑したりした。



 そうして水場に戻ってみると、てゐは井戸のそばに座り込んで眉根を寄せながら、ぴちゃぴちゃと傷口を水で洗っていた。近くで見てみると、血が多かった割にはそれほど深い傷ではなかった。

「良かった。これだったら、治るまでにそんなに時間はかからないわ」
「本当?」
「本当よ。昔はよく銃弾浴びて内臓零してたわたしが言うんだから間違いないって」
「え、何の話?」
「昔の話。とにかく、薬もらってきたわ。今から塗ってあげるから、じっとしてなさいね」

 そう言うと、てゐは嫌そうに顔をしかめた。

「染みないやつ?」
「まだそんなこと言ってんの? 一応師匠にはそう頼んでおいたから、大丈夫でしょ」
「本当?」
「本当だって。ま、どっちにしても、ちょっと染みるぐらいは我慢しなさいよ」
「えー」
「えー、じゃないの。わたしなんか零れた大腸無理矢理押し込められた挙句、麻酔なしで三十針ぐらい縫われたことすらあるんだから。今でも夢に見るのよ?」

 そこで、鈴仙はふと先ほど永琳から教えられたことを思い出し、半信半疑のままで言ってみた。

「それとこれ、蒲の花粉から作った薬らしいけど」

 対するてゐの反応は劇的だった。

「え、蒲の?」

 目を丸くして言ったかと思うと、「そうなんだ」と何やら恥ずかしそうに頬を染めて、コクンとしおらしく頷いたのである。

「それなら、いい。うん、おねがい」
「ん。うん、分かったわ」

 てゐが急に大人しくなったことに戸惑いつつも、鈴仙は薬包紙を丁寧に開いて中の粉薬を患部に塗り、ガーゼをつけて包帯を巻いてやった。
 そうして処置されている間中、てゐはずっと無言だった。染みるのを我慢して黙っているのかと思い、ちらっとその顔を見てみると、何やらぽーっとした様子でうっとりと微笑み、上の空な様子であった。てゐのそんな表情は初めて見る。なんだか異様だなあ、と若干気味悪く思いながらも、鈴仙は包帯の端と端を結んで治療を終えた。

「これでお終い。まあ師匠の作った薬だから、明日にはもう取っても大丈夫だと思うけど。それまでは安静にしてるのよ」
「うん。ありがと、鈴仙」

 てゐは幸せそうに微笑みながら、素直にお礼を言った。その頬はまだ赤い。鈴仙が毒気を抜かれて「……どういたしまして」と言い返すと、てゐは口元を緩ませたまま踵を返して屋敷の方に向かって歩き始めた。どことなく、いつもよりも足取りが淑やかに見えるのは気のせいだろうか。

「……よく分かんない奴ねえ」

 頭を掻きながら、鈴仙は首を傾げたのだった。



 そんなこんなでもう散歩する気分にはなれなかった鈴仙は、結局自室でお昼寝と洒落こむことにした。シェスタを邪魔されては敵わないので、扉にはしっかり鍵をかけておく。ここにはたとえ高性能の電子キーを掛けていても扉を蹴破って侵入してくるお姫様はいないのだ。なんとも気楽なものである。
 そうしてぐっすり眠りこみ、鈴仙は目を覚ました。時計を見ると午後三時。そろそろ起き出して炊事場へ向かわなければならない。今日は非番だから本来であれば夕食の支度もしなくていいはずだが、何分こちらは全身の細胞一つ残らず徹底的に躾けられている身である。食事当番をさぼろうものなら裸に剥かれた挙句巨大なまな板に寝かされて「今日のメインディッシュは兎鍋ね!」と笑顔で言われたあの日の記憶がありありと蘇ってくるのだ。

「もう、下ごしらえっつってオリーブオイルぶっかけられるのは勘弁願いたいからね」

 誰に言うでもなく呟きながら、いつものブレザーに着替えてベッドの上から降りる。乱れたシーツを直しながら、わたしもつくづく変わったなあ、と思ったりした。ベッドの上に寝ることは「どうぞわたしをおいしく召し上がってください」という意思表示だ、と教わった身の上、かつての鈴仙にとってベッドは上で寝るものではなくて下に隠れ潜むものであったのだ。
 自室を出た鈴仙は、欠伸一つもせずに炊事場へ向かって歩き出した。途中、何人かの妖怪兎たちとすれ違い、軽く挨拶をかわす。誰も彼もが自分を見つけると同時に床に這いつくばって、酷く丁寧な雑巾がけに精を出し始める。相変わらず永遠亭の兎たちは真面目で掃除好きだなあ、と感心する鈴仙である。
 そうしてしばらく歩いていると、曲がり角の向こうからてゐの声が聞こえてきた。

「だーかーらー、無計画な子作りは止めろって何度も何度も言ってるでしょうが」

 うんざりした声がちょっと気になって、壁に隠れながらこっそりと顔を出してみる。見ると、自分よりもずっと背が高い妖怪兎の男女二人を廊下に正座させたてゐが、頭を抱えて説教している最中であった。

「なに、子作りじゃなくて単なる愛情の発露だって? あんたらその割にはゴムの一つもつけてなかったじゃないの。その方がスリルがあって興奮する? あのねえ、それでまたガキ増やされたんじゃ、こちとら面子丸潰れなんだっての。『そろそろ一人ぐらい捌いてみようかしら』ってお師匠様の冗談聞かされる身にもなれってんだ、ったく。大体愛情の発露だったら自分の部屋でやんなさいよ。なんで廊下でやるのあんたらは。その方がスリルがあって興奮する? だから、それでまたガキ増やされたんじゃ」

 若干ループ気味の説教を聞いて、さもありなん、と鈴仙は一人頷いてしまう。元々兎と言うのは可愛らしい見かけに反して性欲が旺盛な動物である。妖怪兎にしても当然のようにその性質を持っている。兎たちのリーダーたるてゐがこれだけ気をつけていても、年々ぽこぽこ子兎が増えていくのである。

(わたしの仲間も何人か訓練中に妊娠したっけ。そのたびに腹かっ捌いて無理矢理中身を引きずり出そうとするんだから、今考えると無茶苦茶な人だったなあ、依姫様って)

 そういうスパルタの結果寵愛している兎に脱走された反省もあってか、今の月兎たちの軍事訓練はそれはもう緩々だそうである。自分もその時代に生まれたかったなあ、と鈴仙はしみじみ思う。
 ともかく、てゐの説教は延々と続けられている。その中核にあるのは「文化的な生き物であればそれ相応の慎みを身につけるべきで云々」と言った感じの理屈であり、案外彼女の身持ちが堅いことを窺わせた。
 実際、鈴仙はそこそこ長い付き合いの中でも、てゐの浮いた噂を聞いたことが一度もなかった。妖怪兎の女にはごくありがちな妊娠出産はおろか、特定の男と仲睦まじくしていた、という話もとんと聞かない。

(まあ、あの子供っぽい外見だからそっちの方が似合ってるんだけど)

 そんなことを考えたとき、説教を続けるてゐの膝に巻かれた包帯に目がいって、鈴仙はついつい微笑んでしまった。あの小さな体で兎たちのリーダーを務め、時としてそれらしい胆力を窺わせるてゐだが、鈴仙の前ではひたすら子供っぽい振舞いをする。息抜きだか甘えだか知らないが、ともかくそういうギャップは何となく微笑ましい感じがして、鈴仙は好きだった。
 そのときふと、尻の辺りに何か生暖かいものを感じたので、怪訝に思いながら振り返った。
 ヨボヨボの年寄り兎が鈴仙のスカートに頭を突っ込んで、尻の辺りでくんかくんかやっていた。

「って、ちょっと!?」

 鈴仙が慌てて身を捻り、思わず手でスカートを押さえると、年寄り兎はフガフガ言いながら上機嫌に笑った。

「ええのう、しましまパンツはええのう」
「何言ってんですかお爺ちゃんったら、もう……」

 頬の熱さを自覚しつつも、鈴仙はちらりと後ろを見る。曲がり角の向こうではまだ説教が続けられているらしかった。
 それで、ここにいては気付かれて気まずい思いをしそうだと考え、鈴仙は年寄り兎の手を引っ張って歩き出した。「やらかいのう、やらかいのう!」とか言いながらふにふに自分の手を触ってくる年寄り兎に困り果てながら、ちょっと歩いた先の縁側に並んで腰を下ろす。
 そうして、溜息を吐きながら言った。

「駄目ですよ、お爺ちゃん。あなた、わたしならともかくこの間師匠や姫様相手にも同じことしようとしてたでしょ。いい加減にしないと鍋の具材にされちゃいますよ」
「ワシの生まれた時代にはしましまパンツがありませんでしたのでな」
「そりゃそうでしょ……いや、そうやってボケた振りして誤魔化すのにも限度がありますから。もう」

 鈴仙はため息を吐く。この年寄り兎に限らず、永遠亭の爺兎は揃いも揃って明け透けに性欲旺盛な連中ばかりである。若い雄兎たちがごく真面目であることを考えると不思議なものだ。皆礼儀で折り目正しく、廊下ですれ違うたびいつも下げ過ぎなぐらいに頭を下げて挨拶してくるほどなのに。

「ともかく、今後は自重して下さいね」

 一応軽く念を押したあと、ふと年寄り兎の顔を見て、鈴仙は眉をひそめた。
 何分年寄り兎であるから、性欲はともかく顔は皺だらけで腰は曲がり、全身プルプル震えていて今にも倒れそうである。
 年寄りなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
 だからこそ、気になることがある。

「あの。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「身長百五十六センチ体重四十三キログラム、健康状態極めて良好にして現在絶賛恋人募集中ですぞ」
「いやそんなこと聞いてませんって」
「照れずともよろしい。愛に歳の差は関係ありませんのでな」
「はあ、それはそれは……いや、そうじゃなくて」

 気を取り直すために一つ咳払いをしてから、鈴仙は問いかける。

「聞きたいのは、てゐのことなんですけど」
「超絶売れ残り物件がどうかしましたかな」
「え、なんですって?」
「いやいや、こちらの話で。団長が、どうかなさいましたかな」

 てゐは子分の兎たちから団長と呼ばれているのである。由来はよく分からないが。

「えっと。てゐって、もうずっと昔からこの竹林に住んでるんですよね」
「そうですな。ワシが子供の時分にはもうこちらにお住いでしたな」
「あなたが子供のころって……え、それどのぐらい昔の話ですか?」
「ざっと、千年ほど前でございますかな」
「千、ですか」

 つまり、妖怪兎というのは通常であればそのぐらいでこうもヨボヨボになるということだろうか。
 そう考えれば、てゐが今でもあの外見というのは異常なことであった。

「てゐの正確な年齢って、ご存じですか?」
「さて。少なくとも千や二千は軽く超えているという噂ではありますなあ」
「やっぱりそうなんですか」

 以前にちらりと噂程度で聞いたことがあるとは言え、改めて聞かされると少々驚きである。

「それであんな子供みたいな外見って、なんか不思議ですよね」
「いやいや、そうでもございませんぞ」

 年寄り兎は首を振った。

「ワシら妖怪というのは人間と違って精神的な存在ですからな。基本的に、自分が子供だと思っていれば子供の姿でおりますし、逆に『もう大人だなあ、年を取ったなあ』と思えば急速に成長していくものです。妖怪の場合は大概、外見がそのまま中身の年齢も表しているものですからな」
「ははあ。となると、あなたも自分はもうお年だとお考えになったわけですか?」
「いやいや、こういう外見の方がセクハラするには好都合ゲフンゲフン」

 わざとらしく咳をする年寄り兎に呆れつつ、鈴仙は腕を組んで考える。
 妖怪の外見が大概中身の年齢を表している、というのはまあ、一応頷ける話だ。知り合い連中の顔を思い浮かべてみても、子供っぽい外見の者は大抵子供っぽい性格だし、逆に大人っぽい外見の者は大抵大人っぽい性格をしている。
 もちろんのん気な幻想郷のことであるから、誰も彼も皆悪戯好きで子供っぽいところはあるのだが、根っこのところを考えれば確かに年寄り兎の言う法則性が感じられるのである。
 となると、てゐがいつまで経ってもあんな子供っぽい外見のままなのは、いつまでも子供のままでいたいという願望の現れということになるのだろうか。

(でも、その割にしっかり兎たちをまとめてるし、そういうときは子供っていうかむしろ老人みたいな風格があるのよねえ、てゐって。どういうことなんだろ?)

 首を傾げて悩んでいたせいで、鈴仙はしばらくの間、隣に座る年寄り兎が息を荒げながら自分のスカートを捲り上げていることに気がつかなかった。



 そうして悩み続ける傍ら、鈴仙はいつものように夕飯の調理や配膳を手伝い、他の兎たちと共に座敷で食事を取った。
 永遠亭の主たる輝夜の意向により、日に三度の食事は屋敷の中央にある大広間にて騒がしく取られる。月夜を描いた美しい屏風を背にした上座に輝夜が座り、その傍らに永琳、てゐ、鈴仙が控える配置である。他の兎たちは歳の高い順を基本として男女が向かい合う形で二列に並び、上から見下ろせば長いコの字のような具合になっている。昔から下っ端扱いで、いつもみかん箱の上に並べられた貧相な人参を齧って生きてきた鈴仙にとっては、少々落ち着かない配置だ。以前てゐにそれを漏らしたときは、

「んなこと言ったってしょうがないじゃん。上に立つ奴ってのは、下の奴とは違うってことをいろんな場面で見せなくちゃならないものだよ。そうでなくちゃ統制が取れないからね」

 と、若干説教がましい口調で説明されたものだ。無論鈴仙とて長い軍隊生活を経てきた身、そんなことは百も承知なのだが、それでもやはり居心地の悪さは拭えない。
 そうして今夜も、座敷には子兎たちの声やそれを叱りつける教育係の雌兎たちの声、警備担当の屈強な雄兎たちの野太い笑い声が、賑やかに響き渡っている。献立は人参入りの炊き込みご飯に人参の味噌汁、人参の煮物に人参多めの野菜炒め、人参入りのハンバーグと見事に人参づくしである。デザートには人参入りのアイスが出される予定だ。
 これらのメニューは鈴仙にとっても当然好物であるが、今は何となく上の空で、あまり味を感じない。箸を動かして炒め物を口に運びながら、何となく座敷を見渡していた。
 基本的に年齢順に並んでいるからなおさら分かりやすいが、妖怪兎たちもやはり自然と年を取るようである。鈴仙がここに入って来た当時はまだほんの子兎で、座敷の端っこの方に座っていた者が、今は列の中央辺りに座る立派な青年兎として、隣に座った友人と楽しげに会話を交わしたりしている。
 ちなみに、鈴仙自身は月の兎であるため、地上の兎である彼らよりも年の取り方は緩やかなようだ。と言うより、月の民は大概自他ともに年齢など気にしないため、いったい自分がいつになったら老人になるのかすら、鈴仙にはよく分からない。
 何にしても、地上の兎たちが割合普通に老いることは疑いようのない事実だ。そうなると、ますますてゐの外見に疑問が残る。
 ちなみにそのてゐはと言うと、いつもよりも静かに箸を動かしながら、時折膝に巻かれた包帯に手を触れては嬉しそうに微笑んだりしていた。



 食事を終えて配膳を手伝い、自分の部屋への帰路を辿る途上でも、鈴仙は未だに悩み続けていた。ある種の暇つぶしも兼ねているとは言え、一旦気になりだすとなかなか思考が止まらないものである。
 そうして悩みに悩みながら曲がり角を一つ曲がったとき、

「ぼんやりしてると危ないわよ」

 突然声をかけられて、鈴仙ははっとした。見ると、目の前に輝夜が立っていて、面白がるように微笑みながらこちらを見ていた。

「ひ、姫様! 失礼いたしました!」

 鈴仙は慌てて飛びのくように脇に退け、踵を揃えてビシリと敬礼する。それを見た輝夜が、口元に手をやって笑った。

「イナバったら、その癖まだ直っていないのね。ここは軍隊じゃないんだから、そんなことしなくてもいいのよ」
「は。はっ! 申し訳ありませんっ!」
「だから、そういうのはいいったら」

 輝夜は笑っているが、鈴仙としては心臓の鼓動が鳴りやまず、なんとも居心地が悪い心境だ。何せ依姫から骨の髄まで目上の者への服従の念を叩きこまれた身。だから、たまにこういう不意打ちめいた接触があると、ついつい軍隊にいた頃のような行動を取ってしまいがちなのである。姫、というと依姫のことを思い出してしまうという理由ももちろんあるが。

「すみません、つい」

 照れ隠しに頭を掻く鈴仙に、輝夜は気楽に微笑みかける。

「いいわよ、気にしなくても。別に怒っているわけではないから。ところで」

 ふと、輝夜が悪戯っぽく目を光らせた。

「てゐに関する悩みは、もう解決したのかしら」

 どうしてそれを、と鈴仙は目を見開いて驚愕する。それを見た輝夜が、おかしくてたまらないと言った風に笑いを噛み殺した。

「食事中のあなたの様子を見ていれば誰だって分かるわよ」
「そ、そうですか?」
「ええ。でも、さっきちょっと雑談した感じ、永琳は何か知ってそうだったの。それでわたしだけ知らないのは何となく悔しいなあって思ってね。ね、どんな悩みなの? わたしにも教えてくれない?」

 好奇心丸出しで、輝夜が尋ねてくる。彼女曰く、「永遠に生きるコツは暇つぶしの種を見逃さないことよ」だそうなので、これもその一環なのだろう。
 鈴仙は心の中で苦笑しつつ、別段隠す必要もないと思ったので、事の次第を簡単に説明することにした。
 そうして、話をすること数分ほどの後。

「なるほど、そういうことね」

 鈴仙の話を興味深げに聞いていた輝夜は、そう言って至極あっさりと頷いた。何か理解しきっているらしいその様子に、鈴仙は少なからぬ驚きを感じる。

「じゃあ姫様、わたしの疑問に対する答えをもうご理解されているんですか」
「もちろん。ちょっと考えれば誰にでも分かる……と言うのは、さすがに言いすぎかもしれないけど」
「そうなんですか」

 やっぱり学のある人は違うなあ、と感心する鈴仙の顔を楽しそうに眺めながら、輝夜が問いかけてくる。

「ね、あなたも知りたい?」
「あ、はい。できれば」
「そう。それなら、わたしについていらっしゃい」

 言って、輝夜が長い黒髪を翻しながら踵を返し、淑やかに歩きはじめる。鈴仙も慌ててその後を追った。
 輝夜が向かった先は、永遠亭の奥にある彼女の私室であった。用もないのに立ち入ることは許されない区画である。

「ちょっと、待っていてくださるかしら」

 そう言い置いた輝夜が部屋に入っていったので、鈴仙は少々どきどきしながら襖の前に立ってしばらく待った。
 ややあって出てきた輝夜が、「待たせちゃってごめんなさいね」と軽く詫びながら、古めかしい和本を差し出してきた。

「なんですか、これ?」
「『古事記』よ。名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう?」
「あー。ええ、まあ、一応」

 受け取りつつ、鈴仙は微妙な答えを返す。それを見た輝夜が、小さく首を傾げた。

「どうしたの?」
「ああ、えーと、なんていうか、こういう本ってあんまり読むの得意じゃないっていうか。近代的な医学書とかなら一応読めるんですけど」
「ああ、そういうこと」

 輝夜は安心させるように微笑んだ。

「大丈夫よ。これ、永琳の注釈がいろいろと入ってるから。私たちが永遠亭に隠れ住み始めた頃、永琳が退屈しのぎにってどこからか持ってきてくれた写本の内の一冊なのよ。当時は最先端の書物だったわ。どうやって手に入れたのかは未だに謎なんだけど」
「そうなんですか」
「ええ。葛籠の奥にしまってたせいで、引っ張り出すのにちょっと時間がかかっちゃったけど」
「ははあ、なるほど。そうでしたか」
「そうでしたのよ。だからまあ、読むのに特に苦労はしないと思うわ」

 輝夜の言葉にほっとしつつ、鈴仙は首を傾げた。

「それで、姫様。話の流れからするに、この本を読めば、てゐのことが分かるってことなんですか?」
「ええ、そうよ。その本のね、『因幡の白兎』っていうのを読んでみなさい。それがまさしくイナバの話だから」

 その言葉に、鈴仙は少なからぬ驚きを感じた。てゐがそんなにも有名な兎だったとは、今まで想像したこともなかったのだ。
 同時に、この本を読むことに対する若干の躊躇いが生まれてきた。
 そういう鈴仙の心境に気がついたのか、輝夜が不思議そうに問いかけてきた。

「どうしたの、イナバ。難しい顔しちゃって」
「いえ。なんて言うか、その。こういう、過去を詮索するような真似をするのって、あんまり良くないんじゃないかなあって」
「ああ、そういうことね。でも、別に構わないんじゃないかしら」

 輝夜はごくあっさりとそう言う。鈴仙は眉をひそめた。

「構わないって、どうしてですか?」
「別に隠しているわけじゃないでしょうからね、あの子も。それに、相手のことを知りたいって思うこと自体は悪い感情じゃないわ。あなただって、いつも一緒にいて普通に会話している永琳が、実際には自分のこと何も知らなかったら悲しいでしょう?」
「それは、そうかもしれませんけど」
「ま、永琳の場合はあなたのこと知りすぎなんだけどね」
「え、なんですか?」
「ああ、ううん。なんでもないわ。ともかくね」

 輝夜はそっと、安心させるように微笑みかけた。

「今回も、あの子のことを知るのに特に問題はないはずよ。むしろ、知ることでより一層あの子との絆を深めることができるでしょう。月の姫たる私が保障してあげるわ」
「はっ、お気遣いありがとうございます!」

 月の姫、という単語に反応して、鈴仙はついつい敬礼を取ってしまう。そうしてから、はっと気付いて慌てて姿勢を直すと、目の前で顔を背けた輝夜が肩を震わせていた。

「ごめんね」
「いえ。わたしが悪いので。でも、姫様」
「何かしら」
「別に隠しているのでないのなら、直接てゐに聞いた方がいいのではないでしょうか。やはり、こうやって陰でこそこそ動き回るのはあまりいいことではありませんし」

 鈴仙がそう言うと、輝夜は苦笑した。

「あなたも結構真面目なのね」
「真面目、と言うよりはその……月では二十四時間気を抜くなという名目で絶え間なく監視下に置かれていて、油断すると銃弾が飛んできたりしましたので」
「……それでよく脱走してこられたわね、あなた」
「命がけでしたから。まあともかくそういうわけで、こういう行為にはあまりいい印象がないというか」
「なるほどね。だけど、いいのよ。多分、聞いてもはぐらかされると思うから」
「どうしてですか? 隠しているわけじゃないんでしょう?」
「だって、ね」

 輝夜はおかしそうに笑った。

「隠しているわけじゃなくても、語るのは照れくさい。そんなことって、誰にでもあるものよ?」

 言われたことを何度か頭の中で繰り返してから、鈴仙は苦しげに首を傾げた。

「ええと。仰る意味が、よく……」
「だから、その本を読めば分かるということよ。でも、あなた」

 輝夜はふと、困ったような微笑みを浮かべた。

「『古事記』はともかく、『因幡の白兎』の方は、童話としても結構有名だと思うんだけど……今まで少しも知らなかったの?」
「ええ、恥ずかしながら」
「不思議ねえ。月兎の軍隊にも、簡単な教養課程ぐらいはあるはずだけど。地上の文化、みたいな形で教わらなかった?」
「ううん。どうでしょうか。少なくともわたしが依姫様から教わったのは戦場で生き残る術ぐらいのもので。『まずは徹底的にそれを身につけなさい。他の事は全部後回しよ』と仰っていたことはありましたが」
「ああ、そういうこと」

 輝夜はクスクスと笑った。

「あの人も案外素直でないところがあったものね。彼女なりの愛情ということかしら」
「どういうことですか?」
「その辺りも、いつか理解してあげなさいな。それじゃ、ね。良かったら、後でどうなったか聞かせてちょうだい。お休みなさい」
「あ、はい。お休みなさい……」

 欠伸を一つしながら、輝夜が部屋の中に消える。頭を下げて見送ったあと、鈴仙は何となく釈然としない思いを抱えつつ、和本を片手に自室へと戻った。



 「因幡の白兎」というのは、「古事記」の中で描かれる出雲神話のエピソードの一つで、大国主という神が登場する一番最初の一コマである。かいつまんで説明すると、こんな物語らしい。
 昔ある島に白い兎が住んでいて、本土に渡りたいと思って一計案じた。近くの海に住んでいる鮫を呼びつけて、「わたしの種族とお前の種族、どちらが多いか数え比べしよう。お前の仲間を集めて、ここから本土に向かって一直線に並ばせてくれ。そしたらわたしが、その上を飛んで数えるから」と。
 鮫がその言葉を疑わずに従ったので、兎は数を数えながら悠々と海を渡った。しかし本土に渡り切る直前、最後の鮫の上まで来たところで油断したのか、「ごくろうさん、お前たちはわたしに騙されたんだよ」と種明かしをしてしまう。怒った鮫は兎を捕らえ、皮を剥がして放り出してしまった。
 皮を剥がれた兎があまりの痛さに泣いていると、そこを八十神という神々が通りかかった。彼らは因幡のヤガミヒメという神に求婚する旅の途上にあった。兎が彼らに助けを求めると、「海水を浴びて高い山の上に伏せって寝ていろ」と教えられた。兎がその通りにすると、風で海水が乾くにつれて身が引き裂かれた。
 前以上の痛さに兎が悶え苦しんでいたとき、通りかかったのが大国主である。彼は求婚の旅をする神々の最後尾にいて、荷物持ちなどを命ぜられていたのだ。大国主は兎から事情を聞くと、「河口に行って真水で体を洗い、そこに生えている蒲の花粉を取ってその上で寝なさい」と支持した。兎がその通りにすると、傷が癒えてその体はすっかり元通りになった。
 感謝した兎は、大国主に向かって「ヤガミヒメは八十神でなくてあなたを選ぶでしょう」と祝福の言葉を与えた。そして実際、その通りになったのである。

「めでたしめでたし、と」

 自室の机に向ってそのエピソードを読み終えた鈴仙は、小さく息をついた。
 「古事記」は予想通り昔の文字で書かれていて、そのままではほとんど理解できなかったが、輝夜の言うとおり、ところどころに永琳の手によるものと思われる注釈がついていたので、割合読みやすかった。「えーりんのワンポイントアドバイス(はぁと)」という見出しとともに、可愛らしいイラストや「うさぎさんかわいそう」という類のコメントがたくさんつけられていて、何となく背筋がムズムズするのを感じはしたが。
 ともかく、読み終えたのである。何分教養など欠片もない身なので何かしら誤解している箇所はあるかもしれないが、大筋は間違っていないはずだ。
 だがそれ故に、鈴仙は首を傾げてしまう。

「これが何で、てゐがずっと子供の姿のままでいるってことに関係あるんだろ?」

 んー、と椅子の背もたれにもたりかかり、天井を見上げる。どうにも、よく分からない。

(いやいや、こういうときはまず情報の整理ね。依姫様も仰ってたじゃない、『敵の弱点を知るためにはまず情報の収集。その後一片の慈悲も躊躇いもなくひたすらその一点を攻めるべし』って)

 まあ今回の場合、弱点を攻める必要は全くないのだが。ともかく鈴仙はかつての上官の教えに従い、目を瞑って情報を整理し始めた。
 因幡の白兎。
 蒲の穂。
 包帯を触って微笑むてゐ。
 いつまで経っても昔の姿のままの、悪戯兎。
 隠してはいないけれど、語るのは照れくさいこと。

「あ、そっか」

 鈴仙は目を開き、身を起こした。
 確かに輝夜の言うとおり、ちょっと考えれば誰にでも分かることであった。



 久々に頭を使って疲れた、という理由もあって、鈴仙は自室から出ると夜風を浴びがてら屋敷内を散歩し始めた。外周を巡っている庭に面した廊下を裸足で歩き、素肌で風を感じる。途中、何人か夜警中の兎たちとすれ違った。こんな夜中でも雑巾がけを始めるのだから、永遠亭の兎たちは本当に綺麗好きだと思う。
 そうしてしばらく歩いて、ある曲がり角を曲がったところ、縁側に小さな人影が腰掛けているのが目に入った。
 その正体を確認して、鈴仙はそっと微笑む。
 腰かけていたのは、てゐだった。何か落ち着かなげに足をぶらぶらと揺らしては、時折思い出したように足に巻かれた包帯に触れ、幸せそうに微笑んでいる。
 事の真相を知ったあとでは、少々くすぐったい気分になる光景である。鈴仙は悪戯心を起こして、そっとてゐのそばに歩み寄った。

「こんばんは」
「ん。ああ、鈴仙ちゃんじゃない」

 振り返ったてゐが、不思議そうに目を瞬く。

「なにやってんの、こんな夜中に。夜更かしは体に悪いよ」
「そういうあんたこそ、珍しいじゃない。いっつも健康に気を使ってる癖に」
「ん。まあ、ね」

 どことなく照れ臭そうに、てゐが笑う。

「ちょっとさ。体が火照って落ち着かないっていうか。横になってても目が冴えちゃって」
「ふうん、そうなんだ。ところで、てゐ?」
「ん、なに?」

 鈴仙は身を乗り出しててゐに顔を近づけると、彼女の耳元でそっと囁いた。

「大国主様って、そんなに素敵な方だったの?」

 言った瞬間てゐがずるっと縁側から滑り落ちそうになったので、鈴仙は慌てて手を伸ばして彼女の体を抱きとめた。

「ちょっと、危ないでしょ。気をつけないと」
「れ、鈴仙ちゃんが変なこと言うからじゃないの!」

 てゐは真っ赤になって喚いた。顔の火照りを押さえようとしてか、自分の頬を両手で挟み、口ごもりながら言う。

「いいい、いったい、なんのこと? なに言ってるんだかさっぱり分かんないし!」
「照れなくてもいいじゃない」

 笑いながら、鈴仙はてゐを膝の上に乗せてやる。てゐはじたばたと暴れていたが、「包帯が取れちゃうわよ」と指摘すると途端に大人しくなった。
 鈴仙は笑いを噛み殺しながら、てゐの癖毛に指を絡める。こうして間近で見てみると、てゐの黒髪は艶やかで、子供らしからぬ丁寧な手入れがなされているのがよく分かる。
 そうしててゐの頭に軽く顎を載せながら、鈴仙は小さな声で謝った。

「ごめんね」
「え、なにが?」
「読んだから。『因幡の白兎』」

 そう言うと、てゐの柔らかな兎耳がぴくりと震えた。

「読んだから、って」

 てゐの声は、どことなく呆れ交じりのようだった。

「今まで知らなかったの、鈴仙ちゃんたら」
「うん。今日初めて知ったわ」
「いくらなんでも教養なさすぎでしょそれは。っていうか、なんで謝ったの、今?」
「なんかさ、あんたの知らないところで過去を詮索したみたいで、ちょっと悪かったかなあって」
「ああ、そういうこと」

 てゐは小さく息を吐いた。

「いいよ、別に。みんな知ってることだし」
「そうなんだ」
「そうだよ。ここの子兎たちが一番初めに教えられる、子守歌代わりみたいなもんだし。まあその」

 と、てゐは急に声を落とすと、小さな指をもじもじと絡め始めた。

「あ、あああ、あんな風に? あからさまに大国主様のこと言われたのは、は、初めてだったけど、さ」
「ふうん。じゃあやっぱり、その神様に恋してるんだ」
「こ、恋!?」

 てゐの声が裏返ったかと思うと、小さな首が物凄い勢いで横に振られた。

「し、してない、してないよ! そんな、恐れ多い」

 てゐの声はほとんど悲鳴のようである。首が振られる勢いで兎耳が鞭のようにしなって鈴仙の頬を叩き、少々痛い。それでも何となく楽しい気分になって、「恐れ多い、って」と鈴仙は小さく笑った。

「別に、いいじゃないの。相手が神様でもなんでも、そういうのは自由でしょ」
「よくない」

 てゐは拗ねたように言った。

「あの方に対する感情はその、信仰っていうか、憧れ、っていうかその……、と、とにかく、恋とかそういうんじゃないの! 全くもう、これだから月の兎は常識知らずだってのよ」
「そうかなあ。わたしの仲間にもいたよ? 月夜見様のポスターとか部屋に飾ってキャーキャー言ってる子とか」
「うわ、何それ。っていうかポスターとか。月の兎は慎みってものを知らないね、全く」

 軽蔑するような口調で吐き捨てて、てゐが鼻を鳴らす。
 そういう彼女の様子が丸きりいつもと違っていたので、鈴仙はなんだか楽しくなってきた。好奇心の任せるままに、あれこれ聞きたい気分だ。

「じゃあ、あんたは大国主様から記念品とか分けてもらったりしてないんだ?」
「も、もらえるわけないじゃん、そんなの」
「そう? 『因幡の白兎』読んだ限りだと優しいお方だったみたいだし、頼めば何かくれたんじゃないの?」
「恐れ多いっての! そ、そんなの持ってたら、誰かに盗まれるのが怖くて外に出られなくなっちゃうよ、わたし。あ、でもね、でもね」

 不意に、てゐの声がとろけるような調子に変わった。たまに鈴仙を騙すときに使うわざとらしい甘え声とは明らかに違う、素でうっとりしているらしき声音だ。
 その声音のまま、てゐは膝の包帯を撫でながら言う。

「お優しいお方だったっていうのは、当たってるよ。すっごく優しくてね。それと、あったかいお方だったの」

 えへへ、と笑うてゐの声を聞いていると、なぜだか顔が熱くなってきた。「そ、そうなんだ」と言いながら、鈴仙はごくりと唾を飲む。

「じゃ、じゃあさ。やっぱり、『因幡の白兎』には書いてないこともあったりしたの?」
「書いてないことって?」
「た、たとえばその……ほら、一夜限りの思い出ぶげぇっ!?」

 一瞬で鈴仙の腕の中から飛び出したてゐが、身を捻りつつ高速の回し蹴りを鈴仙の頬に叩きこんだ。もんどりうって廊下を転がる鈴仙に駆け寄ると、胸倉つかんで引きずり起こしながら叫ぶ。

「殴るぞテメェ!」
「蹴ってから言うこと、それ!?」
「うるせぇ、黙りやがれこの淫乱兎!」

 てゐは罵声を叩きつけながら、鈴仙の体をがくがくと揺さぶった。「ちょ、てゐ、やめっ」と悲鳴を上げる鈴仙のことなど無視して、真っ赤な顔で叫ぶ。

「ああああ、あのお方とわたしごときで、そ、そんな汚らわしいこと考えやがって! 鍋の具材になりてぇのかゴルァッ! おいしく頂いちまうぞテメェ!」
「すすすす、すみません、謝りますから落ち着いてくださいてゐさんっ!?」

 必死に謝る鈴仙の言葉などまるで聞こえないらしい。てゐは息を荒げながら鈴仙の体を放り出し、「だ、大体ねぇっ!」と錯乱しきった様子で叫ぶ。

「あああ、あのお方にそんな、そんなこと、求められたらっ……ああっ……!」

 目を潤ませ、真っ赤になった顔を両手で覆い、その場にへたりこみながら消え入りそうな声で言う。

「わたし、は、恥ずかしくって、死んじゃうよぉ……!」
「……今現在死にそうなのはわたしなんだけどね……」

 乱れた服を直してゲッソリしながら、鈴仙は大きく息を吐いた。



 しばらく経つと、まだ顔は赤いながらてゐも大分落ち着いてきた様子だったので、二人はまた並んで縁側に座り直し、夜風に吹かれながら話を続けた。

「ふうん。じゃああんた、大国主様のこと自体は、会う前から知ってたんだ?」
「うん。そもそも、本土に渡ろうと思ったこと自体、八十神様や大国主様があの辺を通りかかるって噂を聞いたからだし。大国主様が美形であらせられるのは前から聞いてたから、一目見てみたいなあって思って」
「なんだ、あんたも案外ミーハーだったんじゃないの」
「うるさいなあ。わたしだって若かったの、あの頃は!」

 てゐは唇を尖らせて拗ねたように言う。それから、「でもね」と少し声を落として。

「鮫を騙したせいであんなことになっちゃって。しかもその後八十神様たちにも騙されて、ものすっごい痛い目に遭ってさ。苦しみながら思ったんだ。ああ、罰が当たったんだなあ、って」
「罰?」
「うん。わたしって、昔から凄い運が良くてさ。それをいいことに、あちこちで悪さして回ってたのね。あんな痛い目に遭ったのって、あのときが初めてだったの」
「あー。それで、傷口に海水つけて乾かしたらどうなるか、ってのも分かってなかったわけ」
「うん。でも、今考えてみると、因幡の白兎の悪名は結構広まってたから、鮫たちも全部分かっててあんなことしたんだと思う。八十神様たちも」
「なるほど。それで、悪い兎を懲らしめてやろうって考えたわけね」
「多分ね。でも、だからこそさ」

 てゐは膝の包帯を撫でて、深い微笑みを浮かべた。

「だからこそ、大国主様が助けて下さったときは、本当に嬉しかったの。『因幡の白兎』には書かれてないけど、ちゃんと傷が治るまで、ずっとそばについててくださってね。ついていくのが遅れたら、八十神様たちに叱られるかもしれないのに。だからもうわたしのことは放っておいて行ってくださいって言ったんだけど、『大丈夫だよ。お前は何も心配せずに傷を治しなさい』って言って下さって。申し訳ないなあって思いながら、凄く安心してたんだ、わたし」
「本当に優しいお方だったのね」
「うん。別れるときも、『もう悪さをしてはいけないよ。今度はお前の幸運で、誰かを幸せにしてやりなさい』って頭撫でてくださって」

 てゐは胸に両手を添えて、そっと目を伏せた。

「あのときが初めてだったな。わたしの幸運を、誰かに分けてあげたいって思ったの」
「ってことは」

 鈴仙はある事実に思い至った。

「『ヤガミヒメはあなたを選ぶでしょう』っていう予言みたいなのって、ひょっとして」
「うん。ただの願望っていうか、励ましっていうか」

 てゐは照れ臭そうに苦笑する。

「本当はね、何の根拠も確信もなかったんだ。ただ、そうなったらいいなあって。でも、本当に強く強く、そう願ってた」
「そっか。良かったじゃない、その願い、叶ったみたいだし。あんたの『人を幸運にする程度の能力』って、そのとき開花したわけね」

 鈴仙が言うと、てゐは「んー」と、少々気難しげに首を傾げた。

「それは、どうかなあ」
「え、どうして?」
「鈴仙、『古事記』のそれより後の話は読んだ?」
「ん。ううん、まだだけど」
「そっか。じゃあ簡単に教えてあげるけどね、大国主様、あのあと結構大変な目に遭われるんだよ。ヤガミヒメ様に選ばれたばっかりに八十神様たちに嫉妬されて命を狙われたり。実際二回命を落とされて、それから蘇ったりしてるし」
「おー、そりゃ確かに大変ねえ。大国主様も結構不幸体質だったのかしら」

 ちょっと共感して頷いたあと、「でもさ」と鈴仙は明るく言った。

「それでも二回も蘇ることができたんでしょ? だったらそれって、やっぱりあんたの能力で幸運になってたってことなんじゃないの?」

 鈴仙がそう言うと、てゐはそんなことなど考えたこともなかった、と言うように目を瞬き、それから顔を伏せてもじもじと足をすりあわせ始めた。

「そ、そっかな?」
「そうだって。ちゃんと役に立てたのよ、あんた。自信持っていいと思うよ?」

 鈴仙がぽんぽんと肩を叩いてやると、「ありがと」とてゐは小さな声で礼を言った。しかしすぐに顔を上げ、遠い目で夜空を見上げながら、

「でもね。本当はどっちでもいいんだ、わたし」
「どうして?」

 鈴仙が驚いて聞くと、てゐは「だってね」と言って、小さく足を揺らした。

「わたしの能力がちょっとでも役に立ったっていうなら、それはもちろん嬉しいけど。でも、全く役に立たなかった、っていうのでもさ。それって、あのお方がわたしの協力なんか全然必要ないぐらいに素晴らしい神様だってことの証明になるじゃない? うん、それだったらわたし、むしろその方が嬉しいぐらいかも」
「……そっか。そうなんだ」
「うん。そうなの」

 にっこり微笑むてゐの横で、鈴仙はちょっと気まずげに頬を掻く。あまり奥ゆかしすぎて、少々共感しづらい心境である。何となく照れ臭い気もしたので、「それにしても」と鈴仙は半ば無理矢理話題を変えた。

「あんたもずいぶん一途よね」
「そう?」
「そうよ。だってつまり、あんたが昔からずっと変わらない姿でいるのって、いつか大国主様がこの郷に入ってこられたとき、自分のこと見つけてほしいからなんでしょ?」

 「古事記」を読んだ上での推測である。案の定、てゐは頬を赤らめてコクンと頷いた。

「う、うん。でも、わたしみたいなただの兎のことなんて、きっと覚えていらっしゃらないと思うし」
「そんなことないって。そんなに優しいお方だったのなら、覚えてくださってるわよ、きっと」
「そ、そっかな? でも、もしそうなったら、凄く嬉しい……かも」

 恥ずかしそうに頬を緩ませるてゐを見ていたらいろいろと耐え切れなってきて、「くーっ!」と唸りながら、鈴仙は小さな兎の体を腕で抱き寄せた。突然のことに目を白黒させるてゐの頬を指でつつきながら、ちょっと意地悪い口調で問いかける。

「んで、どうするつもりなのよ、実際に大国主様に再会できたら? お嫁さん候補に名乗りあげちゃう?」
「だ、だから、そんなの恐れ多いってば! それに、大国主様にはもう美人のお嫁さんがたくさんいらっしゃるし」
「そ、そうなんだ? えーと、じゃあ……あ、そうだ。あんたが幻想郷を案内してあげるってのはどう? きっと喜んで下さるわよ」

 これは名案だ、と思って鈴仙が言うと、てゐは慌てたように顔を伏せ、じわりと目を潤ませた。

「そ、そんなの、無理……」
「どうして?」
「だって、今会ったらきっと、緊張して何にも話せなくなっちゃうと思うし……だから、ね」

 てゐは鈴仙の腕の中で、真っ赤な顔のまま呟いた。

「だから、いいんだ。そんな風に、近くにいられなくても。ただ、わたしのこと見かけたときに、『ああ、あのときの兎か』って思ってくだされば、それで」
「……呆れるわね、正直」

 鈴仙は小さく息を吐いた。腕の中のてゐをじっと見つめながら問いかける。

「あんた、本当にそれだけでいいの? 大国主様に会ったのが何千年前のことだか知らないけど、今日までそのときのこと忘れずに、他の誰のことも好きにならないで、ずーっと同じ姿保ってまで想い続けてきたんでしょ? それなのにただ覚えてくれればいいって。ちょっと、欲なさすぎ」
「そ、そう?」
「そうだって。正直、全然てゐらしくないと思う。もっとほら、自分に正直になってさ。本心話してみなさいよ、ね?」

 鈴仙がそう言ってやると、てゐは戸惑ったように顔を伏せ、それからまたもじもじと小さく身じろぎし始めた。
 ややあって、

「……わ、笑わない?」
「笑うわけないって」
「本当に?」
「本当、本当」

 気軽に請け負いながら、鈴仙はにやけて聞いた。

「で、なに、どうしてほしいの? 抱き締めて欲しいとか、愛の言葉を囁いて欲しいとか?」
「そ、そこまでは……あのね。もし、大国主様がわたしに気付いてくださったら」
「うんうん」

 てゐは目を潤ませて幸福そうに微笑むと、小さな声で言った。

「あのときみたいに、おっきくてあったかい手で、頭撫でてもらいたい……」
「……は?」

 鈴仙がぽかんと口を開けると、てゐはとても大変なことを口にしてしまったとでも言うように真っ赤な顔になり、「ご、ごめん!」と鈴仙を突き飛ばすと、両手で顔を覆って大きく身を捩り出した。

「わ、わわ、わたしったらなんて恐れ多いことを! ああ、こんなただの兎ごときが、何を身の程知らずな……!」

 なんだか今にも泣き出しそうなその声を聞いて、ああ、こりゃもう一種の病気だなあ、と鈴仙は思う。治療薬は永琳でも作れないだろうが。

「あ、でもね、鈴仙」

 まだ身悶えの余韻を残したまま、てゐが慌てたように言った。

「わたし、大国主様には一生お会いできない方がいいと思ってるの」
「どうして?」
「だって、ここで会うってことは、要するに大国主様が外の世界で忘れ去れてしまったってことじゃない? そんなの、嫌だもの」
「……なんていうか」

 処置なし、と心の中で呟きながら、鈴仙は肩をすくめた。

「あんたの病気っぷりに乾杯って感じね、これは」

 ともかく、てゐが昔のままの姿を保ち続けている理由はよく理解できた。これで今夜は快眠できそうだな、と鈴仙は軽く伸びをする。

「うん。それじゃ、そろそろ寝ましょうかね。夜更かしは体に悪いし。じゃあおやすみね、てゐ。いろいろ話聞かせてくれてありがと」

 言いかけて背を向けたところで、ブレザーの裾をがしりと捕まれた。おやなんだろう、と思って振り返ってみると、そこには文字通り鈴仙を引きとめるてゐの姿が。
 座ったままこちらに向かって腕を伸ばし、顔を伏せているが故に彼女の表情はよく見えない。
 だが、何故だろう。
 幸福そうな微笑みを湛えたその口元から、得体の知れない迫力のようなものを感じるような。

「……あの、てゐさん? この手はなんですか?」

 おそるおそる聞くと、てゐはゆっくりと顔を上げた。顔には、何かが吹っ切れたようなにこやかな笑みが。

「ねえ、鈴仙ちゃん」
「な、なに?」
「さっき、何千年前のことだか知らないけど、とか言ってたけどさ」

 てゐは首を横に振って、目を細めた。

「それ、大間違いだよ」
「なにが?」
「わたしが大国主様とお会いしたのってね、もう何百万年前、の話なのね」
「……はい?」

 鈴仙は自分の耳を疑った。
 今、何百万年前、とか仰ったのだろうか。この小兎様は。
 鈴仙が黙っていると、てゐは声を殺して笑った。

「間抜け面だねえ。鈴仙ちゃんたらホントに無教養なのね。仮にも神話として伝えられる時代よ? 何千とか何万の単位で語れるわけがないじゃないの」
「は、はあ。そう、なんですか」
「だけどね」

 と、てゐは、自然と敬語になる鈴仙の服の裾を強く引っ張り、無理矢理自分の隣に座らせた。そして異様な迫力に恐れおののく彼女を見つめながら、嬉しそうな口調で言う。

「こんな風に、大国主様への想いを誰かに語るのって、これが初めてなのよ」
「ははあ。それはそれは」
「それでもう、駄目なのね。いろいろこう、溜めこんでたものが溢れ出してきちゃって。だからさ」

 舌舐めずりする獣のように、てゐの目が妖しく光る。

「今夜は、寝かさないよ? わたしの思い出話、たーっぷり聞いてもらうからね?」

 長い長い夜が始まりそうな予感に、鈴仙はただ引きつり笑いを浮かべることしかできなかった。



 そうして、翌日の早朝。
 永琳がいつものように研究室で薬品調合などの準備をしていると、不意に扉ががちゃりと開いて誰かが入って来た。かすかに顔をしかめて振り返ると、そこには見慣れたブレザー姿が。

「うどんげ? 入って来る時は呼び鈴を鳴らしなさいといつも」

 言いかけて、永琳は言葉を止める。鈴仙は何やらげっそりとやつれており、足取りもふらついて今にも倒れそうな雰囲気だったのだ。それでいて口元には虚ろな笑みが浮かんでいて、不気味なことこの上ない。
 何も言わずにいる永琳に対して、鈴仙もまた何も言わなかった。ただふらふら歩いて来ると、師匠の隣に椅子を持ってきて腰掛け、目の前の机に突っ伏したかと思うと疲れ果てた息を無遠慮に吐き出した。

「……うどんげ。何があったか知らないけど、とりあえず朝の挨拶ぐらいしたらどう?」
「……さーせん……おはよーっす、ししょー……」

 今にも何か吐きそうな声が返ってきた。脱走兵とは言っても軍隊仕込みだけあって、いつもならば礼儀正しい鈴仙である。それがまともな挨拶も出来ないほど疲れ果てているとは。

「どうしたの、一体?」
「……一晩中、惚気話を聞かされてました。いや、惚気話というよりは……自分がよく知らないアイドルの魅力について、延々とハイテンションで語られた気分、っていうか」
「ああ」

 それだけで永琳は大方の事情を察した。どうやら、自分のちょっとした親切心というか悪戯心が、思いも寄らない結果を生みだしてしまったようである。
 永琳は、頬に手を添えて苦笑した。

「それはそれは。お疲れ様、うどんげ」
「って、これだけでもう分かったんですか?」

 鈴仙が驚いたように言ったので、永琳は「もちろん」と頷いた。

「あの子に大国主命のことを聞いたんでしょう? それは、長くなっても仕方がないわ。むしろ一晩で終わったことに感謝すべきね」
「……道理で。別れ際に言ってましたもん、『今日はこのぐらいで勘弁してあげる』って」

 鈴仙は深々と息を吐き、虚ろな目で言った。

「……実際に一緒に過ごしたのって、せいぜい一時間か二時間だけだったらしいじゃないですか。それで何百万年もの間想い続けられるって。異様ですよ。正直ちょっと怖いぐらいですよ」
「そう、ね。でも、無理もないと思うわ」

 鈴仙のこの様子では、てゐはあまり多くは語らなかったらしいな、と永琳は思う。
 あれは、出雲神話の中で語られる大国主の物語を全て見届けた兎である。無論、てゐ自身は「因幡の白兎」以降、大国主に直接会ったことはなかっただろう。それでも、噂や伝聞の形で、その後の物語も全て知っているはずだ。高天原からの侵略者に、自ら作り上げた国を明け渡さねばならなかったことも含めて。
 そうした日々の中で、自分ごときただの兎が、と自戒しつつも、大国主への想いを募らせていったのだろう。
 兎たちのリーダーとしての成熟した内面を持ちつつ、今もまだ当時と変わらぬ幼い外見を留めていることも、その葛藤の現れなのかもしれない。
 会ったところでどうなるというのか。
 でもいつか会ったとき、自分のことを思い出してもらいたい。
 相反する二つの想いを抱えて、ただの妖怪兎としての姿を留めたまま、数百万年の時を生き抜いてきた、というわけだ。

「……強い想いというのは、時に誰もが想像し得ないような結果をもたらすものね」
「え、なんですか?」

 ぼんやりと顔を上げた鈴仙に、永琳は「なんでもないわ」と微苦笑を向けた。
 今後、「古事記」や「日本書紀」辺りを読み進めれば、鈴仙もまた、てゐの想いをより深く理解していくことだろう。
 それまで敢えて自分からは何も言うまい、と永琳は思うのだった。



 隣に座った師匠が何やら深いことを考えている様子だったので、鈴仙は一瞬、どうしたんだろう、と疑問に思ったが、すぐに考えるのを止めた。
 月の頭脳と呼ばれた天才である永琳の考えなど、理解できないのがいつものことだったし、何より一晩中休みなくてゐの大国主語りを聞かされていたせいで、精も根も尽き果てていたのだ。

「だからわたしが出会った頃の大国主様はオオナムチってお名前でいらしたんだけど。なんで大国主ってお名前になったかって言うとね」

 嬉々として語るてゐの声が、今も脳の中でぐるぐると廻っているような気がする。よくもまあちょっとしか知らない相手のことをああも長々と語れるものだ、と感心するほどである。

(ま、わたしも依姫様の恐ろしさと拷問めいた訓練の数々だったら、一晩でも二晩でも語れる自信があるけどね)

 そんなことを考えたら、嬉し恥ずかしいてゐの思い出と比較してしまってなんだか泣きそうになってきたので、重苦しい息と共に、その思考を頭から追い出した。

(でもまあ)

 鈴仙は、ふと微笑む。
 確かに疲れ果ててうんざりしてはいるものの、てゐの話を聞いたこと自体はさほど後悔していない。
 嬉々として語るてゐの口調、うっとりと宙を見つめる瞳、そっと胸を押さえる小さな手、溢れる想いを抑え切れないというように、落ち着きなく揺られる細い足。
 何もかも、昨日までは知りもしなかった姿ばかりだ。なんだか、思い出すだけで幸福な気持ちになってくるぐらい。
 ほう、とため息をつくと、「どうしたの」と永琳が苦笑を向けてきた。
 鈴仙は照れて笑いながら、「いや、あのですね」と答える。

「なんていうか。恋っていいなあ、と思いまして」

 甘ったるい気分に任せてそう呟くと、永琳は一瞬でさっと表情を消した。
 どうしたんだろう、わたし何かまずいこと言ったかな、と戸惑う鈴仙の前で、無言のまま立ち上がり、そのまま研究室に隣接した私室へと姿を消す。
 訳が分からぬまま、ポカンと呆けたままで鈴仙が待っていると、永琳の私室に通じる扉が開いて、師が姿を現した。
 その格好を見たときの最初の印象は、

(あ、懐かしい)

 というものである。
 今永琳は、昔月の軍事式典などでよく見かけた、上級将校が着る軍服に身を包んでいた。黒を基調とした質実剛健な服で、彼女のような美人が着ると、むしろ絶世の美男のように見える。実際永琳は今そういう印象を意識して振舞っているらしく、やけにきびきびとした足取りでこちらに歩み寄って来ると、背筋を伸ばして立ったまま真っ直ぐに鈴仙を見下ろした。
 そして、真剣な口調で語りかけてくる。

「鈴仙・優曇華院・イナバ」
「はい」
「素敵な恋をしてみたい、というあなたの願望、しかと聞き届けたわ。事実として、恋は素晴らしいものよ。それだけで世界が輝いて見えるぐらい。私だって、姫様の神々しさにほれ込んでここまで来たようなものだもの」
「はあ。そうですか」
「そうなのよ。でもあなた、恋愛経験なんて少しもないでしょう?」
「まあ、そうですねえ。何せ訓練訓練の毎日でしたから。宇宙怪獣に迫られたことは何度かありますけど」
「そんな小娘が……しかも何かと不運に見舞われがちな薄幸体質のあなたが、いきなり本物の恋に挑むなんて無謀だと思うの、ええ。まずはこう、擬似的な恋愛である程度経験を積むべきだと思わない?」
「……ええと。なんか、理屈がおかしい気が……」
「だからね、うどんげ」

 永琳は鈴仙の疑問の声を打ち消しつつ、机に手を突いてぐっと身を乗り出してきた。
 そして、弟子の瞳をじっと見つめながら、

「……恋しても、いいのよ?」
「……誰に?」

 鈴仙は至極まっとうな疑問を口にする。それを聞いた永琳はしばらくの間固まっていたが、やがてくるりと踵を返すと、何やらしょんぼりと肩を落としたままとぼとぼ歩いて行き、私室の中へと消えていった。
 今のは一体何だったんだろう、と鈴仙は一人首を傾げる。

(もしかして、自分に恋しろって意味だったのかな)

 まさかな、と、鈴仙は自分の考えを笑った。
 自分が師に抱いている想いは敬愛であって、恋ではない。
 何せ、相手は月の頭脳と呼ばれる大天才。その辺りのことは当然分かっているはずである。

(やっぱり天才の考えることはよく分かんないなあ)

 そんなことを考えながら、鈴仙は一人欠伸を噛み殺すのであった。



「……あんなことがあった後だから、少しは懲りるかと思えば」

 深い穴の底から丸く切り取られた空を見上げ、鈴仙は深々と息をついた。
 てゐが膝を怪我してから、一週間経った日のことである。この日も非番で、竹林の中をぼんやり散歩していた鈴仙は、またも見事に落とし穴に引っかかってしまったのだ。
 ちなみに仕掛け人であるてゐはと言うと、穴を覗きこんで「ウッサッサ」と笑い、

「相変わらず学習能力がないねえ鈴仙ちゃんは。悔しかったらここまでおいでー!」

 と、尻を叩いてどこかへ行ってしまった。まるで成長していない。

(あいつも中身は大人だってのに、なんだってこんなこと続けてるんだか。大体、大国主様に傷を治してもらったとき、もう悪さはするなって言われたんじゃ)

 そう考えたとき、鈴仙はふと気がついた。
 蒲の花粉から作った粉薬に特別な愛着を抱いていたのと同じで、悪戯、という行為自体もまた、てゐにとってはやはり特別な行為なのではないか、と。
 何せそれは、愛しい大国主様と自分とを出会わせるきっかけを作ってくれたものなのだから。

(……ってことは、いっつも最終的にはわたしに捕まるのも、ある意味当時の再現、なのかな……?)

 だとすると、と、鈴仙はちょっとした悪戯を思いついた。
 いつもならば落とし穴に落とされたあとは瞬時にてゐを追いかけて空に飛び上がるのだが、この日は敢えてすぐには追いかけず、しばらく待ってみることにしたのである。
 そうして十分ほど経った後、わくわくしながら穴の上に顔を出してみた。
 すると案の定、ずっと向こうの竹の隙間から、小さな兎が不安そうにこちらの様子を窺っていたので、鈴仙はついつい笑ってしまった。



 <了>
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