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【東方SS】死なない太郎の鬼退治

2008/11/25に東方創想話に投稿したSSです。
 


『死なない太郎の鬼退治』



「見つけたよ、死なない太郎!」

 闇夜に沈む迷いの竹林に、興奮に浮き立った甲高い声が響き渡る。今夜はやけに霧が深いな、と思っていたが、案の定異変が起きたようだ。藤原妹紅はくるりと身を翻して背後に向きなおりながら、隣を歩いていた男を背中に隠した。
 周囲を漂っていた霧が、吸い込まれるようにして妹紅の眼前に集まっていく。一瞬の後、そこには小さな人影が立っていた。逢魔が時を思わせるくすんだ色の髪を夜風になびかせ、頭の両脇から生えた大きな二本角を誇るようにして仁王立ちしている。それ以外は里の子供が迷い込んだのかと見紛う幼げな容姿だったが、ふてぶてしい笑みから放たれる威圧感は、歴戦の戦士を思わせた。

「鬼、か」

 呟く。背中にかばっていた男が小さく息を飲んだ。妹紅は彼を肩越しに見やり、

「大丈夫、あんたに手出しはさせない。ここから永遠亭までは一本道だ。走って」

 ですが、と言いかける男を、いいから行って、と肘で突く。男は数瞬迷っていたが、やがて身を翻して走り出した。永遠亭は目と鼻の先だから、おそらく一人でも辿りつけることだろう。

(さて)

 改めて、目の前の鬼を睨み据える。男が走り去るのを見ても、動く様子はない。周囲に仲間がいるような気配もなし。

「野盗ってわけじゃなさそうだけど」
「ご挨拶だねえ」

 小さな鬼がからから笑う。

「もちろんそんなチンケな輩じゃあない。あんたに用があるのさ、死なない太郎」

 妹紅は眉をひそめる。

「……死なない太郎って、さっき走ってったおじさんのことじゃなかったの?」
「まさか。ありゃただの人里の人間だろ」
「そうだけど。じゃあなに、死なない太郎ってのはわたしのこと?」
「もちろんだよ」
「……わたし、見ての通り女なんだけど」
「分かってるよ。でもあんたは死なない太郎だ」

 妹紅には理解不能なことを言いながら、小さな鬼は嬉しそうに手をすり合わせる。

「いやあ、今日は本当にいい日だなあ。まさか、あの鬼殺しの英雄、死なない太郎に会えるとはね!」
「人違いだと思うんだけどねえ」

 ぼやきながらも、妹紅は緊張を緩めない。目の前の鬼は、先ほどから足を踏み鳴らしたり拳の骨を鳴らしたり、こちらと戦う気満々のようだ。童女のような見た目と言っても鬼は鬼、油断しようものなら妹紅は一瞬で肉塊と化すだろう。

(死なない体と言っても、痛いものは痛いからね。見た目からして子鬼って感じだし、適当に追っ払うとするか)

 炎の妖術を行使する準備を整える妹紅の前で、「そういえばさあ」と鬼が首を傾げる。

「あんた、わたしが現れてもあんまり驚かなかったね」
「そりゃあね。なんだか霧が深くて妙だなあとは思ってたし。その霧から妙な妖気を感じるとなれば、なおさらね」
「ほう、つまり気づいてたってことかい!」
「鬼だとは思ってなかったけど」
「いやいや、さすがは死なない太郎だ、ますますわくわくしてきたよ」

 一人で勝手に盛り上がりながら、鬼はぶんぶんと腕を振り回し始めた。こうして見ていると、ただの子供が玩具か何かを前にしてはしゃいでいるようにしか見えない。ちょっと微笑ましくなるような光景である、が。

「よーっし、じゃあまずは小手調べといこうか!」

 張り切りながら、鬼が一本の竹の前に立つ。周囲に細い竹が多い中、養分を独り占めしているのではないかと疑ってしまうほどに、一際太い巨大な竹である。何をする気かと眉根を寄せて見つめる妹紅の前で、鬼は「よっこいせ」などと気の抜けた掛け声を漏らしながら、その竹を軽々と引っこ抜いた。

「なっ」

 あまりの光景に愕然とする妹紅に向かって、物凄い勢いで無数の土の塊が飛んできた。竹の根が無理矢理引っこ抜かれた衝撃で、周辺の土が爆ぜたのだ。思わず腕で顔を庇った瞬間、背筋に悪寒が走る。

(来るっ)

 慌てて身を屈める。凄まじい唸り声をあげながら、何かが頭上を通過した。前方に飛びのきながら振り向くと、そこには巨大な竹を横薙ぎになぎ払った姿勢の鬼が、きょとんとした顔で立っている。

「やあ、さすがにいい身のこなしだね。当たったと思ったんだけどなあ」

 感心した様子で言いながら、鬼は足元に竹を投げ捨てる。重い音がした。いかに中身が空洞と言っても、あれだけの大きさなら竹もそれなりの重量を持つ。妹紅ならば持ち上げることもできないだろう。

(それを、ああも容易く振りまわすとはね。鬼ってやつは本当に馬鹿力だ)

 顎の汗を拭いながらふと見ると、周囲の竹が何本か、幹の中程でへし折られている。さっき鬼が竹を薙いだとき、巻き添えを喰らったらしい。本当に、馬鹿力としか言いようがない。
 そんな膂力を見せつけながら、鬼は汗一つ掻いていない。それどころかますます元気になったようで、目を輝かせながら大きく手を打ち鳴らす。

「さーって、小手調べはここまでだ。いよいよ死合と行こうじゃないか、死なない太郎!」
「だからさあ、人違いだってば」
「いーや、あんたは死なない太郎だ。さあ、山の四天王が一人、伊吹萃香と死合ってもらおうか!」

 有無を言わさぬ口調で叫びながら、鬼の萃香が拳を上げる。どうあっても戦いは避けられぬらしい、と、妹紅はため息交じりに認める。

(輝夜以外と本気の殺し合いするのは久しぶり……いや、輝夜相手のを含めたって、殺し合いは久しぶり、か)

 軽い不快感に身じろぎしつつ、妹紅もまたいつでも動ける体勢を取る。
 その姿勢のまま、二人はしばらく無言で向かい合った。闇夜の竹林を緩やかな風が吹き抜け、月光の下に不死人と鬼の髪が揺れる。
 そうして、どのぐらい経ったころだろうか。相手が全く動かないので、妙だな、と妹紅が訝り始めた頃になって、

「ねえ」

 不意に、焦れたような声で萃香が言った。

「なに」
「なに、じゃないでしょ。名乗ってよ」
「は? ああ、名前? わたしは藤原」

 と言いかけると、萃香は怒ったように腕を振り回した。

「違う違う、そうじゃないって!」
「なにがさ」
「そこはさあ、もっとこう、『やあやあ、我こそは幻想郷迷いの竹林住まいの根なし草、死なない太郎であるぞ! 山の四天王伊吹萃香よ、いざ尋常に勝負いたせ!』とかそういう感じに声を張り上げて」
「なんでそこまで細かく指定すんの!? っていうか誰が根なし草だって!?」
「違うの?」
「違わないけど」

 妹紅はため息をつく。どうも、調子が狂ってきた。

「あんたさ、何がしたいのよ」
「さっきから言ってるじゃないか、死なない太郎と死合がしたいんだよ」
「だったらわたしの名前なんかどうでもいいでしょ。さっさとかかってきなさいよ」

 妹紅がそう言うと、萃香は不満そうに唇を尖らせた。

「それじゃあつまんないじゃーん。鬼退治って感じがしないよ」
「いや、つまんないとか言われても」
「だからほら、早く堂々と名乗りを上げてよ。昔の鬼殺しの英雄たちみたいにさあ」
「そんなん知らないし」

 どうにも相手の考えが読めず、妹紅は困惑するばかり。
 そのとき、闇を貫いて銀光が走った。妹紅のすぐそばを掠めて、鋭利な何かが一直線に飛ぶ。萃香は瞬時に飛びのき、己を貫かんとした何かを避けた。次の瞬間、竹林の地面に一本の矢が深く突き刺さっていた。

「なんの騒ぎかと思ってきてみれば」

 上品な声音が、妹紅の背後から静かに響いた。

「あなたが姫様以外と殺し合いだなんて、珍しいこともあるものねえ」

 ――ああ、イヤなババァがきやがった。

 妹紅は小さく舌打ちしながら振り返る。するとそこには案の定、永遠ババァこと八意永琳が、たおやかな笑みを浮かべて立っているのであった。

「……あなた、今物凄く失礼なこと考えてるでしょう」
「いつものことでしょ」

 そっけなく返す。永琳の表情は変わらない。ただ、上品な笑顔の隅っこで、青筋が一つ立ったのが見えた。ついで、手に持っていた弓に矢をつがえて、こちらに向けて構えてみせる。

「お、やろうってのかい」
「お望みならね。ところで、いいの?」
「なにが」
「小鬼ちゃん、退散したみたいだけど」

 振り返ってみると、確かに萃香の姿が忽然と消えていた。周囲を見回しても、気配はない。現れたとき同様、霧と化してどこかへ行ってしまったものらしい。

「やれやれ」
「結局、なんなのかしら」

 弓を下ろした永琳が、小さく首を傾げる。妹紅は肩をすくめた。

「知らないね。あっちが急に襲いかかってきただけだから」
「あなたのこと知っていたみたいだけど」
「人違いでしょ。大体なによ、死なない太郎って」

 毒づくと、永琳がおかしそうに笑った。彼女をじろりと睨みつけながら、妹紅は手から炎を立ち上らせる。

「で、何の用よ。殺し合いなら受けて立つけど」
「違うわよ。わたしは、お客様からあなたの危機を聞いて駆け付けただけ」

 お客様、と言われて、妹紅は自分が逃がしてやった男のことを思い出す。そもそも今夜は、彼に永遠亭までの護衛を頼まれてここまでやって来たのだった。出産を控えた妻の体調のことで八意先生に相談したいことがある、と、幸せそうに話していた。いろいろと用があって、今夜でなければここまで来る時間がなかったとか。

(そっか、あのおじさん、無事に永遠亭まで辿りつけたんだ)

 自然と安堵の息が漏れる。永琳がこちらに穏やかな眼差しを向けているのに気がついて、妹紅は慌ててそっぽを向いた。

「へん、なんだい、この間まで刺客を差し向けてきたと思ったら、今度は恩を売ろうっての?」
「あら、この程度のことで恩を感じてくれるのかしら」
「感じるわけないでしょ。あんたの馬鹿姫にも伝えておくことね、その内貴様の骨から肉をそぎ落として、永遠亭のウサギたちと一緒に鍋でぐつぐつ煮込んでやるからって」

 憎まれ口を叩く妹紅に、永琳は困ったような笑みを向けてきた。ちょっと眉を傾げながら、言う。

「その割には、最近姫様のこと避けてるみたいだけど」

 一瞬、妹紅は返答に窮した。「別に」と言いかけて、また言葉に迷う。

「……そりゃ、嫌いな相手とはなるべく顔を合わせないようにするのが自然でしょ」
「さっきの科白と矛盾してるわよ」
「細かいことにこだわる。これだからババァは」

 さあ怒れ、怒って疑問を忘れてしまえと妹紅は構えを取るが、永琳は敵意すら向けず、ただじっと静かな瞳でこちらを見つめるばかり。

「……変わったわね」
「なにが」
「もう十分恨みが晴れた、というわけでもないでしょうに。なにか、今のあなたは以前よりも無気力に感じるわ」
「それは」

 妹紅は永琳から目をそらした。

「……お互い死なないのに殺し合いってのも、馬鹿らしいからね。何か別の手を使ってあの馬鹿を苦しめてやろうと、いろいろ考えてるのよ」
「あらそう。まあ、なんでもいいけど」

 あっさりそう言い、永琳は苦笑する。

「たまにはいらっしゃいね。姫様が退屈そうにしてたから」
「自分の姫をつけ狙ってる相手に対してそれはないでしょうよ」
「あなたの存在など所詮その程度ということよ、とでも言ってほしいのかしら」
「なんとでも言えば」
「やっぱり無気力ねえ。まあいいわ。それじゃあ、ね」

 永琳が踵を返して去りかける。その背中に向かって、妹紅は慌てて手を伸ばした。

「ちょっと」
「なにかしら」
「あ、いや」

 妹紅は数秒そのままの姿勢で固まったあと、伸ばした手をひっこめて頭を掻いた。

「別に、なんでもない」
「あらそう。歳を取ると、一瞬前に考えていたことまで忘れるのかしら」

 軽い皮肉を言い残し、永琳が去る。
 残された妹紅は頬を引きつらせながら、唾とともに吐き捨てる。

「ホント、いけ好かないババァ」

 矢が飛んできて股の下に刺さった。小さく悲鳴を上げて飛びのいて、震える矢に紙がくくりつけられているのに気がつく。開いてみると、乱れまくった物騒な筆跡でまず一言。

 ――あまり失礼なことばかりほざきやがると、再生が追い付かない程度の速度でリズミカルにブチ殺すぞ。

 背筋に悪寒が走る。ところが、その一文のすぐ下には、逆に物凄く穏やかな筆跡でこう記してあった。

 ――というのは冗談として、あのお客さんのことなら心配ご無用。奥さんの経過も特に問題ないので、もうすぐ元気な赤ちゃんが生まれることでしょう。帰りの護衛は永遠亭が責任を持って引き受けますから、こちらも心配しないように。それと、人里の先生のところにも、たまには顔を出してあげなさい。心配していたわよ。

 読み終わった妹紅は、無言で紙を握りつぶした。

「別に、気にしてないっての」

 呟きながら、ちらりと永遠亭の方を見やる。
 生い茂る竹林の隙間に、暖かい人家の光が揺れている。ウサギたちが賑やかに騒ぐ声が、夜風に乗って聞こえてくるよう。
 しばし目を細めてじっと見つめたあと、妹紅は黙って、その灯に背を向けた。



 妹紅の家は迷いの竹林の片隅にある。家、と言うよりは小屋と言う方が相応しい、今にも崩れそうなあばら家である。簡素というよりは貧相で、家具の一つどころか床板すらない。ただ寝て起きるだけの場所だ。客人が訪れるでもなし、それで十分だと思っているから、建て替えようとは微塵も思わないが。
 そのあばら家の入口、戸の代わりに吊るしてある茣蓙を手でのけて、妹紅は無言で中に入る。

「よ、おかえり」
「なんであんたがここにいんのよ」

 素で突っ込んでしまった。胡坐をかいて頬杖を突いた小さな鬼が、なにもない殺風景な小屋の真ん中で悪戯っぽく笑っている。周囲を漂う鬼火の明かりの中で、妹紅を出迎えるように、ぴらぴらと手を振った。

「いいじゃん、細かいことは気にしなさんな」
「不法侵入が細かいことだっての?」
「まあまあ。それなりの対価は払うからさ」
「ここは旅籠じゃない」
「まあ飲みねえ」

 手に持った瓢箪から、もう一方の手にある湯のみに酒を注ぎ始める。話を聞く気は全くないらしい。妹紅は舌打ちをしながら、萃香の前に座り込む。酒を注ぎ終わった萃香が、笑顔で湯のみを差し出した。

「ほい」
「勝手にわたしの湯のみ使わないでほしいんだけど」
「いいじゃん。しっかしさあ、何もない家だよねえ。人が生活してるたあ思えない。そもそもにして杯の一つも置いてないなんて、ホントにここは幻想郷か」
「みんながみんなのん兵衛じゃないってことよ」
「つまんないねえ。まあいいか、じゃあ乾杯」

 妹紅が握る湯呑に、無理矢理瓢箪をぶつけてくる。萃香はその中身をぐいぐいと煽り、幸せそうな笑みと共に酒臭い息を吐き出した。

「いいねえ、やっぱり戦ったあとの酒は最高だねえ」
「すぐにババァの邪魔が入ったじゃないの」

 言いながら、妹紅は湯のみの中の酒を一口だけ口に含む。舌の上に広がる独特の苦みに、つい顔をしかめてしまった。それを見て、萃香が笑う。

「なんだいなんだい、あんただって千年以上も生きてるんだろうに」
「何年生きようが、慣れないものは慣れないよ。あんたには悪いけど、わたしは酒があんまり好きじゃないの」
「じゃあなにが楽しみで生きてるの?」
「酒飲む以外に人生の楽しみがないみたいな言い方だね」
「それが大半だと思うがねえ」

 瓢箪を傾けながら、萃香が夢見るように頬を緩ませる。妹紅はため息をついた。

「鬼ってのは、誰も彼もみんな一緒なのかね」
「おお、それそれ」

 萃香が手で膝を打ちながら、目を輝かせて身を乗り出してきた。

「なあ死なない太郎、あんたが鬼退治したときのこと、詳しく聞かせておくれよ」

 またそれか、と妹紅は少しげんなりする。

「だからわたしはそんな変な名前じゃないって」
「いやあ、でもわたしらの間じゃあ死なない太郎だったからね。やっぱりあんたは死なない太郎さ」
「どんな風に伝わってたの、わたしは」
「鬼殺しの豪傑、弱きを助け強きを挫く、不死身の女死なない太郎!」

 萃香が拳を握り締める。妹紅は呆れて肩を落とした。

「女って分かってたのに太郎呼ばわりしてたの?」
「そうだよ。鬼だって童子なんだから鬼退治の英雄は太郎に決まってんじゃん。西洋の巨人殺しはジャックらしいしね」
「分かるような分からんような」
「ま、細かいことは気にしなさんな。それよりほら、早く聞かせておくれよ」

 萃香は馴れ馴れしく妹紅の体にすり寄ってくる。手で押しのけようとしてもびくともしない。やはり、小柄な体の割に物凄い力だ。もっとも、妹紅自身どちらかと言えば小柄な方ではあるのだが。

(これだから、鬼って奴は厄介なんだよねえ)

 「なあなあ、教えてよぅ」と、ほとんど無邪気にまとわりついてくる萃香のことを、妹紅は一時期意識の外に追いやった。

(鬼殺し、か)

 心当たりがないわけではない。ただ、あまり思い出したくない記憶であることは確かだ。
 そのときのことに想いを馳せると、同時に蘇ってくる顔と、言葉があるのだ。

 ――化け物!

 恐怖に歪んだ少女の顔が脳裏を過ぎり、妹紅は軽く胸を押さえる。

「んあ、どうした?」

 萃香が少し、体を離した。妹紅は虚を突かれて驚きながらも、無表情を取り繕う。

「別に、どうもしてないけど」
「そっかな。なんか、一瞬辛そうな顔してたよね、今」

 萃香にじっと見つめられ、妹紅は苦々しく顔をそらす。どうもこの鬼、豪快で図々しくはあるが、鈍いというわけでもないらしい。

「まあいっか、それより鬼退治の話聞かせてよ、ね」

 それでも「話したくないならいいや」とは言ってくれない辺り、やはり相当図太い性格であるとは思う。
 やれやれ、とため息をつきながら、妹紅は観念して喋り始めた。

「……多分、あんたが言ってるのはあれじゃないかな……わたし、外にいた頃、妖怪退治屋の真似事して生活してたことがあったから。そのとき、鬼も何匹……いや、何人か倒した、と思う」
「んー、もうちょっと詳しく覚えてない? 地名とかさ」
「さてね。なにせいろんな場所を転々としてきたからね。大抵はどこぞの山に住みついた鬼が、人里を襲っては女をさらって……みたいなパターンだったってことぐらいしか覚えてないよ」
「そっかー。じゃあ、こっちがあんたに倒されたと思われる鬼の名前出しても、分かんないだろうね」
「多分」
「それで、さ」

 萃香は興奮したように小鼻をひくひくさせながら問いかけてくる。

「あんたが戦った鬼って、強かった?」
「どうだろうね」

 妹紅は肩をすくめる。

「個体差はあったけど、まあ全員が全員、力は凄かったかな。拳で人間の頭を粉砕するような奴が、金棒まで振りまわすんだもの。普通の人間じゃあ、まず対抗できなかったでしょうよ」
「おうおう、そうかいそうかい。苦戦した?」
「そりゃあね。でもまあ、わたしが今ここに立っているってことは、だ……分かるよね?」
「うんうん、あんたの全戦全勝ってこったね! さすがは死なない太郎だ!」

 上機嫌にべた褒めしながら、萃香が勢いよく何度も背中を叩いてくる。手の中の湯のみから酒が零れ落ちそうになったので、妹紅は慌ててバランスを取った。馬鹿力め、と萃香の方を睨むが、相手はその視線をものともせず、豪快に笑っている。
 それが、物凄く不可解だった。

(……酔ってるから、か?)

 いや、そんなはずはない。心の中で否定しながら、妹紅は萃香に問いかける。

「ねえ」
「なに」
「分かってるの?」
「なにがさ」
「わたしが勝者としてここに立ってるってことは、その鬼たちはもう全員殺されてるってことだよ?」
「そうだね」

 萃香の笑顔に曇りはない。ますます不可解。

「……同朋の仇討ちに来た、ってわけではないのよね?」
「仇討ち! いいねえ、素晴らしい響きだ!」

 萃香はまた嬉しそうに膝を打つ。

「わたしの友達にも一人いたよ、仇討ちで死んじゃった奴。そいつを退治しにきた陰陽師だかなんだかの男を返り討ちにしたら、十数年後ぐらいにそいつの娘っ子がやってきてね。こいつがまた、綺麗な顔してるくせに、それこそ鬼みたいに強くってね。あいつもずいぶん頑張ったんだが、最後は見事にやられちまった」
「……殺されたの?」
「もちろん。全身の至るところから血を流しまくって、見事な満月に向かって吼えるように笑いながら地に倒れて……実にいい死に様だったよ。あいつも鬼らしく豪快でさっぱりした奴でね、今思い出しても泣けうわああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 萃香が急に泣き叫び始めた。瓢箪片手に地に突っ伏し、もう片方の手でばしばしと地面をぶっ叩く。鬼の剛力でそんなことをされたものだから、軽い地震みたいに小屋全体が揺れた。

「お、おい、どうした急に!?」
「いい奴だった! ホントいい奴だったんだあいつ! なのにもう会えない、一緒に酒飲めない!」
「わ、分かった、分かったから落ち着け、な!?」
「これが落ち着いていられるかってんだぁぁぁぁぁぁぁ!」

 叫び声を上げながら、萃香が小屋の壁を突き破って外に走り出した。小さな穴の開いた壁の向こう、闇夜の竹林に、甲高い泣き声が高く高く響き渡り、遠ざかって、また近づいてくる。
 そうしてその穴から小屋の中に戻ってきたとき、萃香は半べそと表現できる程度には落ち着いていた。赤い目で鼻を啜りあげながら、照れたように笑う。

「……いや失敬失敬」
「あとで壁直してね」
「そりゃもちろんさ。いやー、悪い悪い、どうも、あの時代を知ってる人間と酒飲んでるんだと思うと、思い出が色濃く蘇っちゃってねえ」

 頭を掻きながら、また妹紅の隣にどっかりと腰を下ろす。

「お、酒がなくなってるじゃあないか」
「零れたんだよ、あんたが起こした地震のせいで」
「ありゃそうかい、そりゃあ悪いことしたねえ。まあ飲みねえ」

 言いながら、また妹紅の手の中の湯呑に瓢箪の酒を注ぐ。別に飲みたくないんだけどなあ、と少々うんざりしながら、妹紅はちびちびと酒を飲み始める。多少でも酔っ払わないと、この鬼のテンションについていけないだろうという予感があったからだ。

「それで」

 またぐびぐびと瓢箪の酒を煽り出した萃香に、妹紅はちらりと目をやる。

「仇討ちじゃないって言うなら、いったい何の用なのよ」
「最初っから言ってるじゃあないか。わたしは鬼退治の英雄、死なない太郎さんに会いに来たんだよ」
「まあ、その死なない太郎ってのがわたしのことらしいってのは納得したけどさ。会ってどうするつもりだったのよ」
「もちろん戦うのさ」
「戦ってどうするのさ」
「楽しむ」

 萃香が白い歯を見せてニカッと笑う。妹紅は肩をすくめた。

「理解できないね」
「そう?」
「そうよ。わたしが死なない体だってことは知ってるんでしょ? なのになんで戦うんだか……復讐だの仇討ちでもないっていうし」
「ふうん。おかしいなあ」
「なにが」
「いやさ、わたしが聞いた話じゃ、あんたも永遠亭のお姫様との殺し合いを楽しんでるってことだったからさあ。楽しく力比べが出来ると思ったんだけどなあ」

 当てが外れた、といった感じの表情。妹紅はじろりとその顔を見ながら、吐き捨てるように言う。

「楽しんでないよ。それに、そういうのはもう止めた」
「なんで」
「お互い死なないんだし、やってもやっても空しくなるだけだから」
「へえ。あんた、変な考え方するんだね」
「あんたの方がよっぽど変でしょうよ」
「そうかねえ。ま、いいや」

 萃香はまた人懐っこい笑みを浮かべた。

「それよりさ、あの頃の話、聞かせてよ」
「あの頃の話って?」
「もちろん、まだ我々鬼が、外の世界で人の平和を脅かしていた頃さ! あの頃の鬼って、人間の目からはどんな風に映っていたんだい?」
「どんな風に、と言われてもねえ」

 話が逸れたことに若干ほっとしながら、妹紅はだいぶ薄れつつある当時の記憶を回想する。そして、訥々と、言葉少なに語って聞かせた。
 当時、鬼の名前は、どんなときでも恐怖とともに語られていた。町や村を襲い、財産や家畜、果ては娘までさらっていく悪鬼どもは、憎むべき、また恐れるべき対象だったのだ。だからこそ、そういった鬼を退治する力をもった者たちが英雄視されたりもした。

「うんうん、分かるよ。鬼退治の英雄ってのは、どいつもこいつも人間の中じゃあ一等強い奴らばっかりだったからねえ。わたしらも、風の噂で聞いた鬼殺しどもと一度は死合ってみたいもんだと、いつも酒飲みながら話してたもんさ」

 と、萃香も上機嫌に同意してくれたのだが、具体的な英雄の名前が出ると途端に不機嫌になった。

「渡辺綱、ねえ」

 フン、と鼻を鳴らす。先ほどまでとは違って打って変わったその態度に、妹紅は少々戸惑いを覚える。

「どうしたの? 渡辺綱って言ったら、鬼退治の英雄としては一番有名だと思うんだけど」
「ああ有名だろうよ、あれだろ、大江山で卑怯な騙し討ちしやがった糞野郎だろ」

 鬼から見ればそうなるのか、と、妹紅は少し納得した。その前で、萃香は拗ねた子供のように唇を尖らせる。

「まったく、人間ってのはなんも分かっちゃいないね。なんで酒に毒混ぜて寝首を掻くような卑怯者が、鬼退治の英雄なんだか。鬼退治ってのはさ、もっとこう、知恵とか勇気とか愛とかを振り絞って正々堂々やるもんだろ。元来矮小な人間が努力に努力を重ねて真正面から鬼を打ち破るから心躍るんじゃあないか。だからこそ我々も、仲間が刀で首落とされようが式神に内蔵食い破られようが、恨みなく気持ちよく戦えるんじゃあないか。そこんとこを誤解してもらっちゃ困るんだよ。分かる?」
「はあ、そうですか」

 地面を叩いて力説する萃香に、妹紅はつい敬語で答えてしまう。

「じゃあ、あんたが一番好きな鬼退治の英雄って誰さ」
「そんなの決まってるじゃあないか、この日の本を代表する鬼退治の英雄って言ったら、奴しかいない!」

 萃香は胸を張って言う。

「その名も貴き、桃太郎さ!」
「お伽話でしょうがそれは!」

 呆れる妹紅の前で、しかし萃香は悦に浸ったような表情で何度も何度も頷いてみせる。

「いやあ、あの英雄譚はいいよ。最高だね。正しい鬼退治に必要な要素が何もかも詰まってる。好き放題に都を荒らす悪鬼ども、嘆き悲しむ弱き人々、安穏とした生活を捨て、彼らを救わんと立ち上がる正義の英雄、桃太郎! その正しい目的に動物たちまで感化されて、桃太郎に手を貸すのさ。それでいて変な策は弄さずに、真正面から鬼が島に突撃して、たくさんの鬼たちを蹴散らしたあとに鬼の首領と一騎討ちし、見事勝利を収める! そして財宝を持ち帰っていつまでも幸せに暮らす。いやあ、いいね、実にいい。これこそ正しい鬼退治だよ」
「はあ。そんなもんかね」

 動物たちはきび団子につられただけなんじゃないか、とか、そもそも桃から生まれた奴を人間と言っていいのか、とか、いろいろと言いたいことはあったが、萃香の顔があまりにも嬉しそうなので、言葉にする気をなくしてしまう。
 妹紅は鼻を掻きながら尋ねた。

「というか、さ」
「なんだい」
「なんで、そんなに鬼退治の英雄とかが好きなの? そういうのって、結局最後は鬼が負ける話なのに」

 萃香と話していて、ずっと疑問に思っていたことだった。殺されたり負けたりするのが好きなわけでもあるまいに。

「そりゃもちろん、負けるのが好きってわけじゃあないさね」
「じゃあなんで?」
「鬼を退治できるぐらいに強い人間と戦うのが、好きなんだよ。想像しただけでもわくわくしてくるじゃないか」

 体が疼いてたまらない、とでも言いたげに、萃香は嬉しそうに身を震わせる。

「ああもう、ホント楽しいだろうなあ、好き放題やってるところに、桃太郎みたいな強い奴が殴りこみかけてきやがったらさ。酒飲むのも忘れて全力でぶつかるだろうよ、そんときゃ」
「なんでそんなに戦うのが好きなの?」
「血が滾るからさ。悪行三昧尽くしてるときよりも、酒飲んでるときよりも、何よりも楽しい瞬間なんだよ、強い人間と戦うってのは。人と鬼の絆と言ってしまってもいいぐらいだ」
「絆?」

 予想だにしない単語が飛び出してきたので、妹紅は少々驚いた。萃香は深々とうなづく。

「そう、絆さ。鬼は限度を知らず横暴に、残虐にふるまって、人の怒りを煽る。人はその怒りを糧として、正義の旗の下に力を合わせて鬼に立ち向かう。真正面から刀と拳でぶつかり合い、月夜の下に血を流し、肉を削り、骨を砕き合って語り合う。愛し合うと言ってしまっても過言じゃあないね。それが鬼と人との絆。我々の、正しい関係なんだよ」

 だからね、と、萃香はまっすぐに妹紅を見つめてきた。

「あんたと戦って負けて、死んでいった鬼たちだって、きっと楽しかったはずだよ。なにせ、何度殴っても死なない強い英雄が、弱い人間を守るために立ち向かってくるんだから。鬼としてこれほど喜ばしいことはないよ。あんたみたいな強い人間に打倒されることに、感謝しながら死んでいったはずだ。だから、そいつらに代わって礼を言わせてもらうよ。正々堂々鬼と戦ってくれて、本当にありがとう、死なない太郎殿」

 胡坐を掻いた萃香が、深く頭を下げる。彼女の話が人間の倫理とはあまりにもかけ離れていたために、妹紅はどう答えていいものやら分からなかった。
 なにより、はたして自分のような者が人間と呼べるのか、と。そう思ってしまうと、答えるになれない。

 ――化け物!

 またあの顔と声が蘇ってきて、妹紅はぎゅっと胸を押さえる。
 萃香が顔を上げて、不思議そうに眉をひそめた。

「またその顔だ。どうしたんだい?」
「別に。あんたの話が、よく分かんなかっただけ」
「えー、まだ分かってもらえないの? よし分かった、じゃあ今度は実体験を話してやろう」

 そう言うと、萃香は突然服を脱ぎ始めた。こちらが止める間もなくあれよあれよと言う間に素っ裸になり、子供のような小さな裸身をぼんやりとした鬼火の明かりの中に晒す。
 妹紅は息を飲んだ。服の下に隠されていた萃香の体は、至るところが傷だらけだったのだ。切り傷もあれば、刺し傷もある。何か、大きな獣に喰われたかのような大きな歯型まである。ところどころに残る火傷の跡も、非常に痛々しい。
 幼い少女の体にそんなものが無数に残っているのだから、妹紅にしてみれば目も覆わんばかりの悲惨な光景である。だが、萃香はそんな傷の一つ一つを誇るかのように、堂々と立っている。

「どうよ、なかなかのもんでしょ」
「いや……なんというか」

 妹紅はなんとも答えられなかった。彼女にしてみれば、萃香の傷はただただ痛々しいものでしかない。しかし鬼の少女は嬉々とした様子で、傷の一つ一つを指差して、心底楽しそうに解説を始めた。

「この傷は都の武者につけられたやつ。会心の一太刀ってやつだったねあれは。もっともそのあとわたしの拳で顔がぺちゃんこになってたけど。この火傷は、あんたみたいな妖術使いにつけられたやつだ。物凄いやつだったよ、ほとんど何の才能もなかったのに、執念だけでわたしに傷をつけるほどになりやがった。あいつがあれだけしつこかったのも、やっぱりわたしがあいつの母ちゃん喰っちゃったからだろうなあ。んでね、この刺し傷は旅の坊さんの槍で突かれたときのもんだ。逃げ足も速い奴だったから、こっちが殴り返す前に逃げられたんだけど。生きてる内に再戦したかったよ。それから、これはねえ」

 大事な宝物を自慢する子供のように、萃香は次々と自分の傷の由来を語り聞かせてくれる。どれもこれも、凄惨な戦いの中で負った傷らしい。そして、自分に傷を負わせた相手のことを、萃香は全員正確に覚えていた。

「相手に対する敬意ってやつさ。まあ、あんたを見てる限りじゃ、人間には理解しがたい感覚なのかもしれないけど。どいつもこいつも、『こいつにだったら殺されてもいい』って思えるような凄い奴らばっかりだったな」

 懐かしむように目を細めたあと、萃香は少し恥ずかしそうに笑う。

「もっとも、そういうのも、最近までは忘れちゃってたんだけどね」
「どうして?」
「人間が、嫌いになってたんだよ」

 萃香の笑みが、悲しげな色を帯びる。彼女はくるりと身を翻した。細く小さな背中に、大きく斜めに、一際深い切り傷が走っている。

「それは?」
「幻想郷の外の世界で、一番最後につけられた傷。今まで生きてきた中で、一番痛かった傷。あんたみたいに、物凄くしぶとい奴がつけたんだよ」

 こちらに背を向けているため、淡々と語る萃香の顔は見えない。

「こいつもやっぱり凄いやつでね。辺境の村に住んでた武者崩れの息子だったんだが、わたしをつけ狙って、何度も何度も山に入りこんできた。わたしたちはいつだって堂々と戦ったよ。わたしはあいつの刀を何本もへし折ったし、あいつは幾度もわたしの懐に潜り込んできた。危うい場面も何度かあった。あいつの動きは回を重ねるごとに速く、鋭くなった。ああ、わたしはいつかこいつに殺されるだろうって、予感してたぐらいだった。だからわたしは、成長していくあいつを見るのが楽しくて、何度かわざとあいつを見逃したし、あいつも何度か、わたしへの止めを刺さずに見逃した。そうして互いに生き残ったあとで、酒を酌み交わしたことだって一度や二度じゃない。殺し、殺される関係だったけど、わたしたちは確かに友達だった。だけど」

 萃香の肩が、小さく震えた。

「互いに見逃した回数が差引でゼロになった夜。いよいよ今夜が決着だって、わたしはいつになく張り切ってた。あいつは物凄く強くなった、最初会った時からは想像もつかないぐらいにね。こいつに殺されるんだったら、わたしは誇りを持って笑いながら死んでいけるって確信すらしてたよ」

 その日、男はいつもよりもずっと口数が少なかったらしい。何か妙だな、とは思っていたが、萃香は体の奥から湧き上がる昂揚感に身を任せていて、最後までその気配に気づかなかった。

「気づいたときには、もう遅かった。いつも決闘している山の広場への道を歩いてる途中、不意に夜空が明るくなってね。闇を払う術法の光さ。それが何かの合図だと悟ったとき、背中に焼けるような痛みが走った。斬られた、とすぐに思った。誰にだ? もちろん、あいつにだ」

 驚くよりもむしろ呆然として振り返った萃香が見たものは、斬られた彼女よりも苦しげに顔を歪め、鬼の血に濡れた刀を握り締めて肩を震わせる、彼の姿だった。何故だ、と問いかけると、涙と共に答えが返ってきた。
 ただ一言、すまん、と。

「あいつは刀を振り上げたが、物凄く鈍い動きだった。わたしは咄嗟に腕を突き出した。避けることだって出来ただろうに、あいつは避けなかった。そうして、決着がついた。お互い、全く望まぬ形でね」

 腹を貫かれて絶命した男の亡骸を前にして、萃香はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。何故こんなことに、という疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。だが、現実は思い悩む時間すらも与えてはくれなかった。

「周囲の森から悲鳴と怒声が聞こえてきたんだ。刀で切り合う音、地を駆ける式神ども、闇を舐める妖術の炎。追い立てられ、殺されていく仲間たち。わたしは無我夢中で戦った。何人も仲間を助けて、薄汚い人間どもを数えきれないぐらい殴り殺した。でも、負けたのはわたしたちだった。途中で気を失って、次に目を覚ましたときには、鬼の仲間に背負われてた。生き残ったのは、ほんのわずか。大敗ってやつさ」

 後で萃香が聞いた話によると、その夜、彼女らが根城にしていた山に妖怪退治屋の集団が奇襲をかけたものらしい。同時期、全国各地で似たようなことが起きていた。人間の科学が目覚ましい進歩を遂げ、誰もが闇に蠢く者どもを否定しはじめたのも、このころ。物理的精神的、その両面から、闇と妖怪の一掃が始まったのだ。

「わたしは人間を憎んだよ。あいつに誇りを捨てさせた、弱い人間どもを。でも、同時に悟らざるを得なかった。もう、人間と正々堂々勝負できる時代は終わったんだって。人は増えすぎた、満ちすぎた。鬼との力の均衡を保てぬほどに、鬼との絆を保てぬほどに」

 そうして流れ着いた幻想郷で、生き残った鬼たちは卑怯な人間を嫌って地下に篭った。博麗大結界が構築され、外の世界との行き来がなくなり、長い時間が流れ……その間ずっと、外の世界には目を向けず、ただ怠惰に酒ばかり飲んで暮らす日々。

「で、最近なんとなく、本当になんとなく、フラッと地上に出てきたんだけどね」

 服を着直しながら、萃香は嬉しそうに笑う。

「吃驚したよ。随分とまあ、楽しいところになってるじゃないか。スペルカードルールは少々物足りないが、人間との戦いを楽しむ分にはまあ悪くない。見ていて面白い奴らもたくさんいるしね」
「面白い奴ら?」
「うん。霊夢の……博麗の巫女の周りの連中。特にあの魔法使いだ」

 萃香は笑いを噛み殺しながら言う。

「あいつはまさにわたしが思い描く理想の人間だね。ひねくれてはいるが卑怯ではなく、ただただ純粋に、ひたすら己を高めようとするあの姿勢。他人の力も取りこんで、貪欲に強くなろうとしてやがる。いつか本気で死合ってみたいもんさ」
「そんなもんかな」
「まあ、ともかくだ」

 萃香は手を打ち鳴らす。

「ある一件であの連中との宴会に正式参加するようになってから、わたしは思い直したのさ。やっぱり人間って奴は面白いってね。恨みつらみは消えないが、やっぱりわたしは人間って奴が大好きだ」

 確信の篭った萃香の声音に、妹紅の胸が小さく疼いた。

「そう?」

 ぽつりと、ほとんど独り言のように、疑問が口を突いて出る。そんな小さな呟きにも、萃香は満面の笑みで頷き返した。

「うん。人間はいい、面白い。昨日涙を浮かべてわたしを怖がってた奴が、今日刀を振り上げて勇敢に立ち向かってきたりする。奴らは一瞬たりとも同じじゃない。物凄く面白いよ。そんなことを、また思い出すことが出来たんだ。地下に篭ってたころとは比べ物にならないぐらい、毎日が楽しいよ」

 萃香は自信を持って断言するが、妹紅はどうしても納得できなかった。

「本当にそう思う? あれだけ深い傷負わされて、大嫌いな卑怯な手を使って追い立てられて……それでもまだ人間が好きって言えるもの?」
「好きだよ」

 あっさりそう答えたあと、萃香は苦笑する。

「まあ、卑怯者は嫌いだけどね。結局、鬼は強い奴が好きなのさ。でもそれは肉体の強さだけを言うんじゃない。何度やられても立ち上がってくる執念の強さや、自分の弱さを努力で克服しようとする意志の強さなんかも、我々にとっては好意の対象なんだ。人間ってのは、特にそういうところが凄い。だからわたしは、今でも人間が好きだよ。強くなろうと努力する人間が、好きで好きでたまらない。そういう奴と思う存分戦って、殺したり殺されたりしたいのさ。もっとも、そこまで激しいのは、今の幻想郷じゃあ無理だけどね」

 残念そうに言ったあと、しかし萃香はにやりと笑う。

「そこであんただ、死なない太郎」
「お断りよ」

 相手の話を聞かず、妹紅は即座に断った。「えー」と、萃香が抗議の声をあげる。

「なんでさー。戦おうよー」
「いやだっての。死なない体って言ったって、痛いものは痛いんだから」
「でもさあ、昔はそういうのを堪えて、弱い奴らのために戦ったんだろう?」
「うるさいわね!」

 妹紅は怒鳴った。そうでもしないと、またあの声が蘇ってきそうだったからだ。

「そんな昔のことなんて忘れたわよ。今のわたしはこの竹林の片隅で細々と暮らす、見るところもない根なし草。あんたが興味を抱くような強い人間とは縁もゆかりもございませんね」

 だからとっとと帰れ、と、妹紅は萃香に向かって邪険に手を振る。鬼の娘は不満げに頬を膨らませた。そうしていると、本当にただの子供のように見える。

「そんなこと言わないでさあ、戦おうよ。戦ってればまた楽しくなるって」
「イヤだってば」
「なんでさー」
「やかましいっての。駄々っ子かあんたは。いいからさっさと帰って、その魔法使い辺りと思う存分戦えばいいでしょ」
「あいつはまだ弱いんだよぅ。それにスペルカードルールの内じゃ、あんまり激しくやり合えないしさあ」
「じゃあ我慢すれば」
「そんなー」

 萃香はなかなか引き下がらない。どうあっても死なない太郎と死合いたいらしい。だが、妹紅の方もこれに答える気はなかった。たとえ萃香が今襲いかかってきても、適当に逃げるつもりだった。戦うのが好きと言っている以上、戦う気がない相手には興味を失くすだろう、という腹づもりである。
 ところが、萃香は存外あっさり引き下がった。

「分かった。じゃあ今日のところは諦めよう」
「いつ来たって同じだから」
「いいや、違うね。あんたは必ず、わたしと全力で戦うことになるよ。あんたがあの死なない太郎ならね」

 萃香が不敵に笑う。その笑みに、妹紅は何か不吉なものを感じた。

「なに。なにを企んでんの?」
「楽しいことだよ」
「具体的には?」
「教えない」
「……鬼は嘘をつかないんじゃないの?」
「嘘はついてないよ。今はまだ秘密だから、喋らないだけ。でもそうだね、一部なら教えてあげようか」

 萃香は悪戯っぽく片目を瞑る。

「わたしはねえ、死なない太郎。鬼退治を、復活させようと思ってるんだよ」
「……なにそれ。消極的な自殺?」
「んなわけないじゃん。こんな楽しい世界なのに、自分から死のうだなんてバカなことを考えるもんかい」

 笑いながら、萃香は小屋の外に向かう。妹紅は慌てて後を追った。
 竹林の向こうの空が白みつつあった。暗い夜が明け、また新しい朝がやって来る。白い朝の光の中に、萃香の長い髪がゆるゆるとたなびいた。

「鬼の中にも、恨みつらみばっかりに目を向けてる奴がいてねえ」

 肩越しにこちらを見やり、ほんの少し嫌味な口調で付け足す。

「誰かさんみたいに、さ」
「……仕方のないことじゃないの? あんたら鬼は、ずいぶん酷いことされたみたいだし」

 付け足された言葉は無視して、妹紅が言い返す。すると萃香は大きく首を横に振った。

「そうは思わない。いや、思いたくないね」
「どうしてよ」
「だってさ、楽しいことだってあったのに、それを忘れて暗いことばっかり思い出すなんて、阿呆のすることだよ。だから、わたしは鬼退治を復活させたいんだ。また、鬼の仲間に人間と戦うことの楽しさを思い出してもらうのさ。ついでに人間にも、鬼という壁を乗り越える楽しさを思い出してもらう。古の絆の復活さ」

 とっておきの悪戯について語る子供のような、無邪気な表情。妹紅は気まずくなって目をそらす。

「あんたが何を企んでるのかは知らないけど、わたしは乗らないよ」

 宣言すると、萃香は意地悪げに目を細めた。

「ふうん、そうかい。頭を潰されても腕をもがれても立ち上がる、不死身の英雄死なない太郎ともあろうお方が、人と関わって傷つくのに怯えてるわけだ?」
「ちがっ」

 反射的に言い返しかけて、妹紅は口をつぐんだ。萃香の真っ直ぐな視線が、心の内まで射抜くように、強くこちらを見つめている。数瞬、呼吸が止まった。

「……違うよ。単に、人と関わるのに飽きただけさ。悲しいのも楽しいのも知りつくしちゃってね」

 知らず知らずの内に、声が震えた。苛立ちで顔が歪む。そんな妹紅を見て、萃香が舌打ちを漏らす。

「ああ、嫌いだ。あらゆる嘘の中でも、そういう嘘は一等嫌いだよ。ますます、あんたをこのままにはしておけなくなった」
「ならどうするっての」
「意地でもこっち側に引きずり込んでやるさ。泣いたり笑ったりできるようにしてやる」
「何をしようが、わたしは動かないよ」
「出来るもんならやってみな。こっちは無理やり引っ張るだけさ。んじゃね」

 現れたとき同様、萃香は霧と化して文字通り霧散した。
 一人残された妹紅は、昇りつつある朝日から逃げるように、薄暗い小屋の中に引っ込む。
 土がむき出しになった小屋の隅っこに、寝床代わりにしている茣蓙と、薄っぺらい毛布が敷いてある。その中に潜り込みながら、妹紅は舌打ちした。

(全く、無駄な時間を)

 思いかけて、自嘲する。今の自分に、無駄でない時間など一瞬たりとも存在しない。全てが無駄だ、何もかも無駄だ。
 長く長く、息を吐く。頭の中を、様々なことが駆け巡っていた。永琳の手紙、萃香の傷跡、泣き顔、笑顔。そして、遠い昔に聞いた、あの叫び声。

 ――化け物!

 妹紅はぎゅっと目を瞑った。

(ああそうだよ、わたしは化け物だとも。だからお前らには近づかないようにしてるんじゃあないか)

 それが強がりだということは、自分自身でもよく分かっていた。毛布にくるまりながら、妹紅はきつく唇を噛む。
 寝てしまおう、と思う。眠って何もかも忘れよう、と。誰が何を言っても、ここを動かなければいいのだ。
 幸い、夜通し起きっ放しだったためか、睡魔はすぐに妹紅の意識を引きずりこんでくれた。



 ああ、これは夢だな、と妹紅は思う。
 ずっと昔に現実だった夢だ。今と全く変わらぬ姿の自分が、枯れ木のようにやせ細った誰かの手を取って、鼻水垂らして泣きわめいている。涙で濁ったその声は、その誰かに向って必死に呼びかけていた。

 ――行かないで。

(無茶言うなよ)

 妹紅は過去の自分を嘲笑った。いつかこうなることぐらいは分かり切っていただろうに、誰かに愛し愛される甘い時間の中で、いつまでもまどろんでいられるかのような錯覚を覚えていた。それが単なる現実逃避にすぎないことも、分かっていたつもりだったのだが。
 妹紅が愛していたその人が、悲しそうに微笑んで呟いた。

 ――すまん。

 その人の手から力が抜けて、昔の妹紅がさらに大きな声で泣き喚く。
 愛していた人を最後の最後まで苦しませてしまった自分が、憎くて憎くてたまらなかった。
 その後、妹紅は何度も何度も死のうとした。崖の上から身を投げてぐちゃぐちゃになってみたり、毒キノコを大量に食って泡を吹いてのたうちまわったりした。だがどうしても死ぬことができず、最後には逃げるようにその地を立ち去った。
 最後にあの人の墓の前に立ったときのことは、よく覚えている。一人で泣きじゃくり、胸の痛みに耐えながら、そっと花を添えたのだ。
 小さな墓石には、妹紅が自分で彫った下手くそな字が刻まれている。

 ――上白沢慧音。



 妹紅は毛布をはね除けながら飛び上がった。
 萃香が開けた壁の穴から、穏やかな朝日が差しこんでいる。竹林に住む鳥たちが鳴き交わす声が、ひそやかに聞こえてきていた。
 さっき毛布をひっかぶってから、まだそれほど時間は経っていない。だというのに、びっしょりと汗を掻いていた。
 荒く呼吸し、顔の汗を拭いながら、妹紅は無理やり自分を笑う。

「バカか。慧音はまだ生きてるじゃないか」

 でも、いつかは必ず同じことになる。
 誰かが、心の中でそう言った。
 妹紅は黙って毛布を抱きよせ、膝を抱えて震えた。震えが抑えられないほどに、全身がひどく冷えている。

(バカ鬼め)

 八つ当たり気味に、胸中で萃香を罵る。

(誰が死なない太郎だって? 死ねない阿呆だ、わたしは)

 少しだけ、涙が出た。



 それからしばらくの間は、特に何事もなく日々が流れた。
 起きて食い物を探して、たまには小川で体を洗ったり、汚れた服を洗濯したり。護衛の依頼も何件か引き受けた。自分からは何も話さず、相手が話しかけてきたら適当に相槌を打つ。その人の家族の話などになるとつい頬が綻んでしまう自分に、苛立ちを覚えることまでいつも通り。
 時折、永遠亭の輝夜が小屋の近くを通りかかることがあった。しゃなりしゃなりと気取って歩き、いかにも散歩の途中に偶然通りかかりましたという風に、妹紅の小屋の中を覗いていく。だが決まって相手がいないので、唇を尖らせたつまらなそうな表情で去っていく。妹紅はそんな輝夜を、竹林に隠れて見つめていた。あいつと関わるのはもう止めだ、と、一人で勝手に決めていた。
 そうして、一月ほどの時間が経ったある日、変事が起きた。



 出せる限りの速度を出して、妹紅は黄昏時の空を飛んでいた。山の向こうに沈みゆく夕陽に不吉なものを感じながら、一直線に人間の里へ向かって飛ぶ。

(……遅い!)

 己の飛行速度に舌打ちを漏らす。自分はこんなにもノロマだったか、と、胸が激しくざわついた。

 ――人間の里の寺子屋が、鬼の襲撃を受けた。教師上白沢慧音が子供たちを守ろうと立ち向かったが、返り討ちに遭って重傷。子供たちも連れ去られてしまった。

 里からの手紙の概略を思い出しながら、妹紅は強く唇を噛む。鬼、というのが誰なのかは、いちいち考えるまでもない。伊吹萃香に決まっている。

(鬼退治を復活させるってのは、こういうことだったのか……!)

 そのために慧音に怪我を負わせ、子供たちを攫うとは。鬼は卑怯な真似が嫌いだったのではないか、と思い、あの連中の倫理観と人間の倫理観を照らし合わせても仕方がない、と即座に思い直す。そもそも、あの鬼は言っていたではないか。できる限り残虐に振舞って人間の怒りを煽ることが、鬼たるものの本性だと。
 夢の中で見た墓石が脳裏をよぎり、妹紅は飛びながら首を振る。

(慧音……! 子供たちも、無事でいてよ……!)

 何もかも忘れてただそれだけを願いながら、妹紅は夕闇迫る空を飛び続けた。
 幻想郷はさほど広くない。里の明かりはすぐに見えてきた。まずはどこに行こうか、と考えて里全体を見渡したとき、寺子屋の辺りに多くの篝火が焚かれていることに気がつく。大結界の構築以降平和ボケしていた幻想郷だから、こんな変事は滅多になかったはずだ。となれば、事件の現場となった場所に大勢の人間が集まっているのは自然な流れだろう。
 妹紅は煌々と明かりが灯る寺子屋の前に着地した。その場に集まって不安げに顔を見合わせていた多くの大人たちが、彼女に気がついて驚きの声を上げる。

「いらっしゃったぞ」
「お話通りのお方だ」
「あれが死なない太郎様か」

 ざわめきの中に、何か聞き捨てならない単語が混じっていたような気がする。

(いや、そんなことよりまずは慧音だ)

 とにかく、誰かに詳しく話を聞こう。そう思って一歩踏み出したところへ。

「うう……妹紅か」

 呻くような声と共に、寺子屋の中から誰かが姿を現した。付添らしき里の女性に肩を支えられ、全身の至るところに包帯を巻いたその人物が誰なのか、妹紅は最初分からなかった。いや、分からなかったのではなく、信じられなかった、というべきか。

「……慧音……?」

 呆然と呼びかけると、包帯だらけの慧音は自嘲的な笑みを浮かべて頷いた。

「ああ。ふふ、ざまあないな、人里の守護者が聞いて呆れる……小兎さん、もう大丈夫だ。手を離してくれ」
「だけど」
「妹紅も来てくれたんだ、わたし一人、おちおちと寝てはいられん……!」

 支えていてくれた女性を腕で押しのけ、慧音はふらつきながらも二本の足で立とうとする、が。

「がふっ」

 不意に吐血して、がっくりとその場に膝を突いた。信じがたい光景に、妹紅は我も忘れて友人に駆け寄る。

「け、慧音、大丈夫!?」

 慧音のそばに駆け寄り、彼女の体を抱き起こす。嗅ぎ慣れない臭いがした。血というのはこんな臭いだっただろうか。

「す、すまん、な、妹紅……竹林で平和に暮らしていた、お前を巻き込んでしまって……」

 慧音が苦しげに、声を途切れさせながら言う。妹紅は首を振った。

「いいんだよ、気にしなくても、子供たちのことはわたしに任せて、ゆっくり休んでよ」
「そ、そうも言ってはおれん。これでも里の守護者を守る者、お前一人に押しつけるわけには……!」

 慧音がよろよろと立ち上がる。が、急に顔をしかめ、包帯の巻かれた右腕で無傷の左腕を押さえながら地に膝を突いた。

「ぐっ……くそっ、情けないな……傷の痛みでろくに動けんとは……」
「先生、無理しないで。あとはわたしたちに任せて、休んでても大丈夫だから」
「いや、小兎さん、そういうわけにはいかない。わたしは里の守護者として」
「あのー」

 深刻そうな顔で話し続ける二人の会話に、妹紅は割って入った。本来邪魔してはいけないところなのだろうが、どうしても、言いたいことがあったのだ。

「な、なんだ、妹紅? わたしなら大丈夫」
「いや、そうじゃなくてさ」

 頭を掻きながら、妹紅は淡々と指摘する。

「慧音。怪我してる方の腕と押さえる方の腕、逆だよ?」
「え?」

 慧音が下を見る。包帯が巻かれた右腕で、無傷の左腕を押さえている。
 しばしの間、周囲を間の悪い沈黙が包み込んだ。

「あの」
「妹紅。ちょっと待っていてくれるか」
「あ、ああ、いいけど」

 慧音は何事もなかったかのように立ち上がると、小兎さん、と呼んでいた女性と共に寺子屋の中に入っていった。
 しばらくして、また小兎さんに支えられてよろめきながら歩み出てくる。

「うう……妹紅か」
「やり直すのかよ!」

 思わず突っ込んでしまった。慧音が罰の悪そうな顔で頭を掻く。

「駄目だろうか」
「いや、駄目とかそういうんじゃなくて……」

 どう反応したものか、妹紅は迷ってしまった。もちろん、慧音が生きていたことが嬉しくはある。一か月前にあんな夢を見てしまったものだから、彼女の元気な姿を見て非常に安堵している。
 だが、それ以上に、この状況は意味が分からない。

「なに、なんなのこれ?」

 妹紅はきょろきょろと周囲を見回す。だが、周りに集まっていた人間たちは、そんな妹紅をむしろ不思議そうに見返してきた。

「おい、どういうことだ」
「死なない太郎先生は、鬼退治に来て下さったんじゃなかったのか」
「しかしどう見ても事情を知らない顔だぞ、あれは」

 ひそひそと、ささやき声が聞こえる。妹紅は頬を引きつらせた。

「……つまり、あれか。これは、そういう茶番なわけか」
「いや、茶番というか……妹紅は何も聞いていないのか?」
「誰から何を聞くっての」
「萃香から、だ。鬼退治ごっこをして妹紅が勝てたら里に財宝を持ち帰れるという遊戯だと聞いているんだが」
「あの馬鹿鬼ぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 まんまと嵌められたことに気がついて、妹紅は悔し紛れに地団駄を踏む。それを見た慧音が、気まずそうに眉根を寄せた。

「そうか、何も聞いていなかったのか……となると、相当に悪趣味な冗談をやらかしてしまったようだな。すまん妹紅、許してくれ」
「ああいや、別に慧音に謝ってほしいわけじゃあ……」

 頭を下げる慧音を慌ててなだめつつ、妹紅はため息交じりに問いかけた。

「……とりあえず、状況をちゃんと説明してほしいんだけど」
「うむ、事の起こりは一か月ほど前……」

 ――おう坊主ども、『死なない太郎の鬼退治』ってぇ、楽しい楽しいお伽話を演じてみないかい?

 酔いにふらつく千鳥足で、小さな鬼が寺子屋に入り込んで来たのだという。妖怪など既に見慣れている幻想郷の子供たちと言えど、長い間姿を消していた鬼を見るのは初めてのこと。萃香はあっという間に彼らの心をわしづかみにしたらしい。
 とりあえず授業中だったということもあって、彼ら全員を頭突きで黙らせたあと、慧音は授業後に萃香から詳しい話を聞いた。

「……つまり、彼らに『悪鬼にさらわれた罪もない子供たち』の役をやってほしいと。そういうことだな?」
「そういうことさ。もちろん、身の安全は保障するよ。鬼の名誉にかけてね」
「ふむ。鬼は嘘をつかん種族だというからな。その言葉は信用できるのだろうが」

 慧音は当初返事を渋った。萃香が面白おかしく誘うものだから子供たちはすっかり乗り気だったが、仮にも親御さんから彼らを預かる身の上である以上、軽々しく承諾するわけにはいかないのだ。
 その旨を萃香に伝えると、「うんうん、分かるよそういうの。あんたにも立場ってのがあるもんねえ」と納得して帰って行ったあと、今から一週間ほど前に全ての親から承諾を取り付けて帰ってきた。

「どうやったんだ一体」
「へへ、酒飲みに国境はないってことさあ」

 萃香は瓢箪の酒を煽りながら、誇らしげにそう語ったという。

「……というわけで、今こういう状況になっているわけだが」
「のん気すぎでしょ幻想郷の人間……」

 妹紅は頭を抱える。とは言え、少し安堵もしていた。先ほどまで危惧していたような、血生臭い事態にはどうやってもなりそうにない。そもそも大結界の影響で妖怪がおいそれと人間を襲えなくなっている現状、ただでさえ嘘をつくのが嫌いな鬼が、里の人間をだまして子供たちを喰らう、ということ自体がまずあり得ないだろう。加えて、萃香自身幻想郷でも屈指の強者であろうから、他の妖怪の横やりが入って子供たちが危険に晒される、ということもおそらくあり得ない。
 そこまで考えて、妹紅は寺子屋に背を向けた。慧音が慌てて追いかけてくる。

「お、おい妹紅、どこに行くんだ!?」
「どこって、帰るんだよ。決まってるじゃない」
「いや、しかし、子供たちは……」
「知らないよそんなの。別にそんな危険な事態でもなさそうだし、わたし以外の誰かに頼んだら?」
「それはいけませんわねえ」

 不意に、胡散臭い声が会話に割り込んだ。見ると、前方の闇に奇妙な隙間が開いている。その中から、扇子を片手に持った金髪の美女が身を乗り出した。

「お久しぶりですわね、死なない太郎さん」
「そういうあんたは、肝試しのときの巫女の相棒ね。八雲紫だったっけ」
「ええ、そう。改めて、よろしくお願いいたしますわ」

 紫は優雅に頭を下げたあと、「ところで」と、にっこり笑って首を傾げた。

「本当に、お帰りになるつもりなのかしら」
「そうだよ。こんな茶番に付き合うつもりはないね」

 妹紅は紫の脇を通り過ぎて去りかける。後ろから冷やかな声が追いかけてきた。

「あなたって酷い人なのね」
「なにが」
「だって、子供たちの心にトラウマを作るつもりなのでしょ?」

 その言葉に、妹紅はつい足を止めてしまう。振り返ると、八雲紫が意地悪げに目を細めている。どっかのババァみたいにいけ好かないやつだ、と思いながら、妹紅は妖怪を睨みつける。

「どういう意味よ」
「言葉通り。いかにごっこ遊びとは言え、子供たちは不死身の英雄死なない太郎が自分たちを助けに来てくれるのを、今か今かと待っているのでしょう? なのに、その英雄さんが自分たちを見捨てて帰っちゃった、と知ったら、ねえ」

 紫はくすくすと笑いながら、扇子を広げて口元を隠す。

「ああ、なんてかわいそうな子供たちなんでしょう。この出来事をきっかけとして、彼らは大人を信用できなくなっていくのね。勃発する七日間戦争、大人はみんな敵だ、授業なんかさぼれ給食なんかぶちまけろ、宿題なんか破り捨ててしまえ……あらあら悲劇ですわ」
「そ、それは困るぞ!」

 慧音が割と本気っぽく、焦りに上ずった声を上げる。

「ただでさえ最近授業態度の悪化が目立つというのに、これ以上成績が下がるようなことをされては……!」
「でもねえ先生、仕方がないんじゃございません? なにせ、あなたのお友達ったらあんなに淡泊なんですもの。以前見た熱苦しい女とは大違いですわねえ」

 ちらり、と紫が嫌味な視線を流してくる。いちいち勘に触る奴だな、と思いながら、妹紅は悩む。関わるべきではない、と思うのだが。

「妹紅……」
「慧音……頼むからそんな目で見ないでおくれよ」
「すまない……だがわたしには子供たちを立派な大人に育て上げるという使命が……くっ」

 慧音が苦しそうに唇を噛む。友情と使命の狭間で迷っているらしい。妹紅はため息をついた。

(仕方がない、か)

 今日一日だけ、今日一日だけだ。自分にそう言い聞かせながら、軽く両手を挙げる。

「分かった、降参。今日だけは付き合ってあげるよ」
「本当か!?」

 おお、と周囲の大人たちもどよめいた。誰もが喜びと期待に目を輝かせて、こちらを見ている。慣れない視線に、妹紅は軽く身じろぎする。どうにも居心地が悪く、さっさとこの場から逃げ出したい気分になってくる。

「で、わたしはどこに行けばいいの? お伽話とか言ってる以上、一応筋書きみたいなものはあるんでしょ?」
「うむ。それに関しては」
「こちらになりますわ」

 紫が音を立てて扇子を閉じると、妹紅の頭上に隙間が開いて、何かが落ちてきた。受け止めてみると、ずっしり重い。見ると、それは無闇に分厚い冊子だった。軽く見積もっても1000頁以上はありそうな、本当に分厚い冊子だ。

「……なにこれ」
「ふふふ。よくぞ聞いてくれました」

 紫がぐっと拳を握りながら、自信満々に言う。

「それこそ、私こと八雲紫と伊吹萃香が持てる知恵とセンスを総動員して作り上げた超大作、その名も幻想郷新お伽噺、『死なない太郎の鬼退治』の脚本、第一版」

 妹紅は無言で脚本を燃やした。紫が悲鳴をあげる。

「ひ、ひどい! 中身も読まずに燃やすなんて!」
「やかましい! こんな長ったらしいもの読んでられるかっての! ただでさえなかったやる気が一気になくなったよまったく」

 ぼやく妹紅を、「まあまあ」と慧音がなだめる。

「そう言うな妹紅。わたしも読ませてもらったが、確かになかなかの力作だったよ」
「当然ですわ。なんたってこの一ヶ月間執筆にかかりきりでしたもの」
「暇人かあんたは」
「まさか。とても忙しい身の上だけど、今はこっちを優先して、仕事を式に丸投げしただけですわ」
「訂正するよ。あんたは最低の暇人だ」

 妹紅の暴言を、紫は妖しく笑って受け流す。舌打ちする不死人を、里の教師が必死になだめた。

「まあそう言わずに機嫌を直してくれ。お前もきっと楽しめると思うぞ」
「万に一つもあり得ないと思うけど……」
「そう言わずに……そうだ、子供たちだけでなくて、美しい姫君も捕らわれていてな!」
「ほう。姫君ね」
「うむ。英雄譚の定番中の定番だろう。ちなみにその姫君というのはこんな人だ」

 慧音が一枚の写真を差し出してくる。妹紅が受け取って見ると、そこにはこちらに向かって優雅に中指を突きたてている蓬莱山輝夜の姿が。

「どうせこんなこったろうと思ったよ!」

 妹紅が写真を地べたに叩きつけて踏み付け始めると、慧音が驚いたように目を見開いた。

「なに、捕われの姫君を助けてくれないのか!」
「っつーか慧音は本気でわたしがあいつを助けに行くと思ってんの!?」
「……まあ、わたしもちょっと配役に無理があるんじゃないかなーと思ってはいたが」
「その時点で止めてよね頼むから」
「ううむ。しかし」

 慧音は首を傾げた。

「最近は彼女とも殺し合いをしていないと聞いていたし、和解したのかと思っていたんだが。輝夜の方もずいぶん乗り気だったしな」
「……知らないよ、そんなの」

 舌打ちして、妹紅は慧音から目をそらす。ますますこの場にいづらくなった。

「もういいよ。とりあえずさっさと終わらせてくるから、萃香がいる場所教えて」
「うむ……分かった。だが妹紅、一応、最低限のルールは守ってもらえないだろうか」
「ルール?」
「ああ。その場所までは飛ばずに歩いていくこと、だ。いろいろとイベント用意してあるそうでな」
「ああ分かったよ、もうどうでもいいよ。歩いて行けばいいんだね。他には?」
「出発する前に、寺子屋の中である人物と会っていってほしい」
「それもイベントってことね。分かった、じゃあその人のところに案内してよ」
「承知した。ついてきてくれ」

 慧音の先導に従って、妹紅は寺子屋の中へ足を踏み入れる。
 廊下を通り抜け、慧音は一番奥の教室の前で立ち止まる。

「ここだ、入ってくれ」

 促す慧音に頷いて、妹紅は教室の中に足を踏み入れる。そして、息を飲んだ。教室の中は、夜だというのに眩い黄金の光に満たされていたのだ。壁も、置いてある調度品も、何もかもが黄金色に光り輝いている。本当にここはあの味気ない学び舎の中なのだろうか。かつて噂に聞いた、太閤様の金の茶室もかくやという眩さである。おそらく、これも演出の一つというやつなのだろうが。

(……たかがお伽噺ごっこにここまでやるか、普通)

 心の片隅では呆れつつも、しかし妹紅は圧倒されていた。これほどの光景、不死人としての長い人生の中でも未だかつて見たことはなかったし、これから先もお目にかかれるかどうか。
 そうして入口の辺りで呆然と立ち尽くしていると、部屋の奥から声がかかった。

「来ましたね、死なない太郎」
「って、お前かよ!」

 妹紅は瞬時に炎弾を作って、部屋の奥に向かって投げ放つ。火の粉を散らしながら飛んだ炎弾は、相手に到達する前に、ぱっくり開いた空中の隙間に飲み込まれる。

「あらあら、乱暴ですわねえ」

 扇子で口元を隠してそう言うのは、誰あろう隙間妖怪の八雲紫である。教室の一番奥に設えられた雛壇の上に優雅に座り、雅な空気を漂わせている。

「私は、あなたをそんな子に育てた覚えはありませんよ」
「いや、育てられた覚えないし……っていうかなに言ってんのあんた」
「……だから脚本を読んでとあれほど……」
「ああなるほど、そういう筋書きなわけね」
「そう。ちなみに今のわたしは、隙間妖怪八雲紫ではなくて、竹林で拾った赤ん坊に運命を感じて立派な鬼退治の勇者へと育て上げたおば」

 一瞬、八雲紫は声を詰まらせた。頬を引きつらせ、こめかみに青筋を立てながら、絞り出すような声で、

「おばあ、さん、よぉぉぉぉおっ……!」
「そんなに嫌がるぐらいなら断れよ」

 どうやらわたしはババァという人種に対してロクな縁を持てない運命らしい、と妹紅はうんざりしながら思う。

「まあそれはそれとして、近う寄りなさい、死なない太郎」
「へいへい」

 気だるげに歩み寄る妹紅を見つめながら、紫がゆっくりと虚空に手をかざす。また空中に隙間が開いて、そこから一振りの刀が落ちてきた。それを両手で捧げ持った紫は、妹紅に向かって恭しく差し出した。

「さあ、受け取りなさい、死なない太郎」
「ちなみにこの刀はどういう設定なの?」
「ふふ、よくぞ聞いてくれました。これこそ、我が家に代々伝わる鬼殺しの名刀。その名も」

 勿体ぶるように一呼吸置いて、

「聖剣、えくすかりばぁです!」
「おかしいだろそれは!」

 妹紅は突っ込んだ。突っ込まずにはいられなかったのだ。

「え、なんで急に西洋風になるの!? 普通に童子切安綱とかそういうのでいいじゃん!」
「えー、だって、そういうのって意外性がなくてつまんないもーん」

 もーんじゃねえよババァ、と、妹紅は口に出しては言わなかった。これでもお年寄りと子供には優しい不死人なのである。最近人と関わっていなかったせいで、すっかり忘れていたが。

(ええいくそっ、いちいちそんなことを思い出させるなよ)

 苛立ち紛れに刀を引ったくり、妹紅はさっさと紫に背を向ける。背後から焦ったような声が響いた。

「ええっ、ちょ、待ちなさい! 今からその刀の謂れを優雅に解説してあげようと思ってたのに!」
「知らん。一人で勝手にやってろ」
「ま、待ってったら! いい、その刀は緋緋色金とオリハルコンとダマスクスとある物質とを一定の分量で混ぜ合わせた超合金ゆかりんZで作られていて、かざせばイナヅマを呼ぶし地に突き立てれば地割れを起こすし、名前を呼べば戻ってくるし、さらに極限状態においては食糧にもなる超優れ物の」

 バタン、と妹紅は教室の扉を閉じた。背後からすすり泣きのようなものが聞こえてくる気がするのは、気のせいだと思いたい。
 非常に気まずい沈黙の中、ごほんと咳払いをした慧音が微妙に硬い口調で言う。

「うむ。実に立派な姿だ、死なない太郎。わたしはお前の友人であることを今日ほど誇らしく思った日はないぞ」
「……慧音。それ、ひょっとして台本に書いてあった台詞?」
「ああ。いや、わたしもこういうのをやるのは初めてでな! なかなか緊張するものだな」

 照れ笑いを浮かべる友人の目の下に隈を見つけて、妹紅はなぜか非常に申し訳ない気分になった。

 とにもかくにも、一度流れに乗ってしまった以上、行きつくところまで行かないと岸には上がれないものである。

「死なない太郎様ーっ!」
「お気をつけてーっ!」
「子供たちのこと、よろしくお願いしまーっす!」

 たくさんの声援に見送られながら、藤原妹紅こと死なない太郎は、悪鬼伊吹萃香が陣取る妖怪の山に向かって歩き出したのである。
 言うまでもなく、その足取りは非常に重ったいものであった。



 空の片隅から三日月が昇り始めた。黄昏の光も徐々に薄くなりつつある街道を歩きながら、妹紅は提灯代わりに小さな妖火を一つ浮かべる。一歩歩くたび腰に差した聖剣・えくすかりばぁがぶらぶらと間抜けに揺れ、ついついため息をついてしまう。

(面倒なことになったな)

 足取りは重い。重くもなろうというものだ。こんな下らないごっこ遊びに付き合わされているという状況の理不尽さもさることながら、筋書きが良くない。
 鬼に捕まった子供を助けに行く、などとは。

 ――化け物!

 またあの声が蘇ってきて、胸の奥がずきずきと痛んだ。妹紅は束の間道の真ん中で足を止め、緩く、長く息を整える。あれから何百年も経っているというのに、傷は未だに癒えてくれない。

(やめろ、忘れろ。こんなことでいちいち心を乱すんじゃない。大体、今回のはただのごっこ遊びじゃないの)

 それならいっそ帰ってしまおうか、という考えが、一瞬脳裏を過ぎる。
 そうしてしまったところで、特に問題はないはずなのだ。自分が遊びに付き合わなかったからと言って、萃香が子供たちに乱暴するということはあるまいし。

(放っておいて帰る、か)

 なかなか悪くない選択肢に思える。そもそも人と関わること自体、妹紅にとってはあまり好ましいことではない。
 だが彼女の足が住み慣れた竹林の方向へ向くことはなかった。帰ってしまおうかと思うたび、同時に頭の中に蘇る言葉があった。

 ――子供たちの心にトラウマを作るつもりなのでしょ?

「イヤなババァだ、まったく」

 悪態をつく妹紅の脳裏に、先ほどとは違う風景が立ち現れた。
 広い屋敷の片隅で、一人寂しそうな表情で毬をつく女の子の姿。

(……辛いんだよな。寂しくて心細いのに、誰も来てくれないのって)

 結局のところ、自分はこのお伽噺に乗っかってやるしかないらしい。妹紅は嫌々ながらもそれを再確認した。

(確認したところで)

 首を傾げながら、腰のえくすかりばぁを引き抜いてみる。妖火の光を照り返して鈍く輝くこの刀、しかし金属らしき重量感は全くない。どうやら模造刀らしい。
 試しに天に向かってかざしたり、軽く地に突き刺したりしてみたが、何も起こらない。どうやら先ほど紫が一生懸命並べて立てていた設定は、本当にただの設定に過ぎないらしい。

(こんなもので、どうやって鬼退治しろっていうんだろ。いや、そもそもこれを使う必要、あるのかな)

 萃香が昨日興奮しながら話していた通り、妹紅は確かに鬼を退治した経験がある。しかしそれはあくまでも長く生きて様々な妖術を身につけた人外の者として、力押しで打ち倒したというだけの話である。正式な鬼退治の方法など少しも知らないのだ。

(まあ、ごっこ遊びなんだから、本当の意味であの小鬼を退治しちゃったらマズイんだろうけど)

 となると、何がしかの筋書きがあるはずである。このお伽噺の中だけで通用する、鬼の倒し方というのが。
 こんなことなら焼き捨てたりせずに、簡単にでも台本に目を通しておくべきだったか。

(……ま、今は考えても仕方がないか)

 幸か不幸かこの後何らかのイベントとやらが発生するらしいから、そのときに遭遇した役者に話を聞けばいいだろう。
 そう考えた妹紅の耳に、突如として女の悲鳴が飛び込んできた。

「あ~~~れ~~~~~」
「おのれ妖怪めわたしが成敗してくれる」
「ちんちーん!」

 最初はノリノリすぎ、次は大根、最後は意味不明。
 脱力感で倒れこみそうになりつつ、妹紅は嫌々ながらも声の方向へと足を進める。
 果たして、少し道を行った先で展開されていた光景は。

「きゃー、たすけてー、食べられちゃうー!」
「とか言いつつミスティアの足にかぶりつくのはおやめください、幽々子様!」
「き、キシャー! た、食べちゃうぞーっていうか食べられるぅぅぅぅっ! ちんちーん!」

 冥界のお嬢様が悲鳴を上げながら鳥の妖怪に飛びつき、半人半霊の庭師が刀片手にそれを止め、鳥の妖怪がちんちんちんちん鳴きながら、というか泣きながら、襲うんだか逃げるんだか判別しかねる姿勢で大きく腕を振り回している。
 無言でそれを見つめる妹紅に、庭師がいち早く気づいて駆け寄ってきた。

「ああ死なない太郎様どうかお助け下さい」

 棒読みでそう言われて、妹紅は無表情のまま答えた。

「パス」
「パスって……ちょ、ど、どこへ行かれるんですか!」
「いやだから、パス」

 道の先へ歩いていこうとする妹紅の袖に、庭師が必死に縋りつく。

「た、助けてくださいよ、我が家のお嬢様を!」

 そのお嬢様はというと、必死に逃げようとする鳥の妖怪を地に押し倒し、彼女のスカートに頭を突っ込んでいる。どうやらむっちりとした肉付きのいい太ももを己の舌でご賞味なさっている最中らしい。

「助け要らないでしょ! むしろ妖怪側を助けるべき場面よこれは!」
「うう……わ、わたしもそう思うんだけど、いや、でもそうしないと劇の進行が……」

 涙目で言い募る庭師を妹紅が振り払おうとしたとき、空の上から耳をつんざくような笛の音が降ってきた

「駄目ですよー、ちゃんとイベントをこなしていただかないとー!」

 軽やかな羽ばたきと共に夜空から降りてきたのは、鴉天狗の射命丸文である。以前取材を受けたことがあるので、妹紅とも顔見知りだ。彼女は口にくわえたホイッスルを離しながら、ぷりぷり怒って妹紅を指さす。

「もう、なにやってるんですか死なない太郎さん、ここは鳥妖怪にやられて半死半生の護衛剣士に代わって、旅の令嬢を助けてる場面ですよ! 台本読んでないんですか!?」
「燃やした」
「もやっ……な、なにやってるんですかあなたは!」
「なにやってんだろうねホント」

 虚脱感に任せて投げやりに呟く妹紅の前で、文が右手で頭を押さえる。

「しっかりしてくださいよ。この劇がうまくいかないと、わたしが怒られるんですから」
「怒られる? 萃香に?」
「ええ。山の縦社会ってやつでね……今回の劇でも、山の天狗総出で死なない太郎と空中大決戦をやれ、とか無茶言うんですもん」
「うわ、そりゃ疲れそうだね。ますます嫌になってきた」

 妹紅が顔をしかめると、「あはは、大丈夫大丈夫」と文が気楽そうに手を揺らした。

「なにせみんな天狗ですからね。上手いこと言いくるめて、被害者を一人にまで抑え込むことに成功したのですよ。空中大決戦は中止です」
「要するに下っ端に押しつけたってことね」
「いやですねえ、人聞きの悪い言い方しないでくださいよ。これも椛の修行のためなんですから」
「誰だか知らないけど気の毒だね、その椛ってのも」

 二人がそんな風にのんきな会話を交わしている間にも、もちろん劇は進行中である。「おやめ下さい幽々子様!」と必死に止める庭師の前では、お嬢様が優雅に味見の最中であった。衣服の乱れた哀れな鳥の妖怪は、体中を涎でベトベトに汚され、息も絶え絶えという悲惨な状態だ。

「うふふー、もう我慢できなーい」
「イヤーッ、お嫁に行けなくなっちゃうーっ!」
「あやややや、これは大変です」
「うんまあ、ある意味大変な状況だとは思う」
「なにせあの鳥の妖怪の内臓にはすごい毒が含まれてますからね! 一口で象が死ぬぐらいの! このままではお嬢様がお腹を壊してお嬢様らしからぬことになってしまいます!」
「大変ってそっちかよ!」
「当たり前でしょう。これは『鳥の妖怪のせいで大変な目に遭いそうになっているお嬢様を助ける場面』なんですから」
「あくまでもそこにこだわるか」

 ぎりりと歯を噛む妹紅の前で、文は幽々子とミスティアに向かって、張り切って腕を伸ばす。

「さあ、早く鳥の妖怪を退治してください、死なない太郎さん!」
「退治って……燃やせばいいの?」
「誰が焼き鳥を作れと言いましたか。あなたは最強の武器を持っているはずですよ!」
「最強の武器って……これ?」

 今も手に持ったままのえくすかりばぁに目を落とすと、文が深く頷いてみせた。

「無論です。それは一撃でどんな妖怪でも……それこそ鬼すら退治できる天下の名刀ですからね!」
「要するにわたしが敵役を一発ぶっ叩けば勝ちっていうルールなわけね。把握した」
「あなたって人は」

 何か言いたげな文を横目に、妹紅は幽々子とミスティアに歩み寄る。妖夢が顔を輝かせた。

「ああ妖怪を退治してくださるのですか死なない太郎様」
「うん。それはまあ、いいんだけど」

 悲鳴を上げるミスティアの首筋に噛みつこうとしている幽々子の前で、妹紅は首を傾げた。

「この場合、どっちを退治すべきだと思う?」
「……鳥の方を」

 数秒の間を置いて、妖夢が自信なさげに答えた。



 毛布にくるまれて泣きじゃりながら震えているミスティアの前で、「緊急医療班」という腕章をつけた永琳が「大丈夫、気は確か? わたしの言ってることが分かる?」と優しい声音で呼びかけている。
 そんな心温まる光景の横で、妹紅は引きつった笑みを浮かべながら、救出したお嬢様と向き合っていた。

「助けてくださってありがとうございましたー……チッ」
「おい庭師、このお嬢様今舌打ちしやがったよ」
「き、気のせいじゃ、ないですか」

 胃の辺りを押さえながら、妖夢が半泣きの表情で答える。哀れな奴め、とため息をつきながら、妹紅は呆れ半分に幽々子を見つめる。

「じゃ、さっさと済ませてくれない? なんか筋書きがあるんでしょ、わたしは救出したあんたとどういう会話を交わせばいいわけ?」

 自分でもおざなりだと分かる口調でそう言うと、幽々子はどことなく冷やかな微笑みを返してきた。

「つまらないことを言うのね、あなた」
「なにが」
「経緯はどうあれ、この馬鹿らしくも愛おしいおとぎ話に乗ろうと決めたのでしょうに。それなら、もう少し英雄らしく振舞ってもいいんじゃないかしら。そんな態度では何事も楽しめないわ」
「知らないね、そんなの。わたしはただ必要最低限のことをやるだけよ。こんなくだらないことは今夜限り。誰がなんと言おうとね」

 幽々子の表情に合わせた冷たい口調でそう言うと、亡霊のお嬢様は口元を隠して目を細めた。嫌な笑い方だ、と妹紅は顔をしかめる。

「なにさ」
「だって、おかしいんですもの。わたしが亡霊であなたが人間なのに、今はまるで反対みたい」
「どういう意味さ」
「今のあなた、生きてるんだか死んでるんだか分からないわ。生気がないということことね。死に誘うまでもなく死んでいるみたいだから、ちっとも怖くない」

 口調は戯れにふざけているといった感じだが、幽々子の瞳はこちらの心の内まで見透かすかのごとく鋭い、ように思える。
 妹紅は居心地が悪くなり、その視線から逃れるように顔を背けた。

「……劇への参加態度であんたに批判される覚えはないね。あれだけ好き勝手やっておいて」
「あら、わたしは台本の筋書きから逸脱した行動は取っていないわよ? あのぐらいならアドリブ、つまり臨機応変な対応の範疇だもの」
「そりゃ寛容なことで」

 吐き捨てる妹紅の前で、幽々子は微笑みながら妖夢に目配せをする。庭師は一つ頷いて、中途半端に膨らんだ袋を恭しく差し出してきた。

「これは?」
「きび団子です」
「……なんでお嬢様を助けたお礼がきび団子?」
「そういう台本ですから」
「ああそう」

 微妙に納得がいかないまま袋を受け取りながら、妹紅は問う。

「つまり今後の展開で必要になるわけね? 犬猿雉でも出てくるの?」

 幽々子が口元を袖で隠して悪戯っぽく笑った。

「教えてあげない」
「おい」
「それは筋書きの内に含まれていないもの。折角の台本をちゃんと読まない困ったちゃんは、何が起きるのかと戸惑いながら暗い道を進むといいわ」

 どことなく棘が感じられる口調である。妹紅は眉をひそめた。

「……あんた、ひょっとしてなんか怒ってる?」
「あなただったらどうかしら? 友達が一生懸命書いていた台本が誰かに燃やされたって聞いたら」

 つまりこいつもババァか、と思いながら、妹紅は鼻を鳴らす。

「知らないね。友達なんてもの、この数百年来持ったこともない」
「あら、人里の教師とは仲良しだと聞いているけど?」
「慧音は」

 一瞬、妹紅は言葉に詰まる。

「……知り合いだよ、ただの。それ以上でもそれ以下でもないね」
「あらそう。ところで」

 また嫌味が来るか、と身構える妹紅の前で、幽々子はおもむろに腹を押さえた。

「お腹がすいたわ」
「は?」
「ほら、さっき食べ損ねちゃったから」

 妹紅の視界の片隅で、ミスティアがびくりと肩を震わせる。だが幽々子の視線はそちらではなく、妹紅の手の中にある袋に向いた。

「そのお団子、劇の小道具としては勿体ないぐらいの出来なのよねえ」
「はあ。そうなんだ」
「そうなのよ。だからね」

 幽々子の目が妖しく光り、唇の端から涎が垂れ落ちる。

「お逃げください死なない太郎様!」

 突然、今まで黙っていた庭師が妹紅と幽々子の間に割って入った。刀を抜き放ちながらやたらと悲壮な声で叫ぶ。

「ここはわたしが食い止めますから、お早く!」
「ちょ、ちょっと、一体どういう」

 唐突な展開に目を白黒させる妹紅の前で、妖夢が肩越しに振り向いた。庭師の目尻に涙が光る。

「わたしが今まで、その袋の中身を守るためにどれだけ苦労したか……!」
「は」
「最初は3袋渡されていたきび団子も、今やそれだけ……! 最後の1袋すら失うわけにはいかない! さあ、早く逃げてください!」
「妖夢、わたしを裏切るのね……!」

 ゆらりと両腕を広げる幽々子の声には、割と本気っぽい呪詛が宿っている、ような気がする。

「さあ、早く!」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 庭師の悲壮な声に従って、妹紅は渋々と走り出す。
 どこからどこまでが台本通りなのか、さっぱり判別がつかないままに。



 なにがなんだか分からぬままきび団子を入手した妹紅は、刀と一緒に袋を腰にぶら下げて、薄暗い夜道を一人で歩く。
 と言っても、実際には一人ではない。どこかで文が見張っているはずである。

「今回のわたしは撮影係ですからね! 面倒なことは全部椛に押し付け……いや、栄えある女優は後輩に譲ってあげて、裏方に徹することにしたのですよ!」

 先ほど去るとき、そんな風に言っていた。物は言い様だな、としみじみ思う妹紅である。

(さて、次の展開はどうなるか……)

 歩きながら、妹紅は首を傾げる。
 あれだけ桃太郎を絶賛していた萃香のことだから、てっきりあれがベースになったお伽噺かと思っていた。しかし、先ほどの変な展開を見る限りでは、必ずしもそうとは限らないらしい。
 それこそ鬼が出るか蛇が出るかといった状況である。

(普通に犬猿雉が出てくるのか……いや、その前に鬼の斥候かなにかと遭遇して、自分の力不足を実感して部下集めに走る、とかそういう展開かも)

 そんな風に自然と今後の展開を予想している自分に気づいて、妹紅は首を振った。

(どうでもいいでしょそんなことは。何が起ころうともただ適当に流してりゃ、それでいいんだから)

 そう自分に言い聞かせるも、想像は次から次へと湧いてくる。敵はどんなのが来るか、罠なんかはあるのか、犬猿雉の役は一体誰がやってるんだろう、とか。

「だーもう!」

 妹紅は道の真ん中でぶんぶんと首を振る。気がつけば、この無茶苦茶なお伽噺にのめり込みかけている自分が腹立たしい。

(……昔っからこうなんだよね、わたし。一人で盛り上がっちゃうっていうか)

 広い屋敷の片隅にある一室で膝を抱え、一人空想の世界に想いを馳せる小さな女の子の姿が、自然と脳裏に浮かぶ。その少女が成長し、かつての自分と同じぐらい小さな女の子に、いろいろと話を聞かせてやっている姿も。
 妹紅の胸が、またずきりと痛んだ。

(……忘れろ、適当に流すんだ。それが一番いいんだ、深く関わったって、ロクなことになりゃしないんだから)

 自分にそう言い聞かせながら、小さな木立の中の道へ足を踏み入れた瞬間、

「来たな死なない太郎!」

 どことなく一生懸命さを感じる声が響き、頭上を覆い隠している木々の枝が大きく揺れた。咄嗟に飛びのくと同時に、小柄な人影が落下してくる。剣を下に向けながら落ちてきたのは、犬のような耳と尻尾を持つ、白い天狗の少女であった。少女は地面に突き立った剣を引き抜きながら、不敵な笑みを浮かべてみせる。

「フハハハハ、よくぞかわした死なない太郎! そうでなくては面白みがない! わたしは伊吹萃香様に仕える四天王第一の刺客、その名も犬走椛」
「ああ、あんたが先輩から仕事全部押し付けられた可愛そうな下っ端天狗?」

 別段馬鹿にするつもりもなく、むしろ同情を込めてそう言う。椛は耳と尻尾を委縮させ、困ったようにこちらを見た。小声で話しかけてくる。

「あのぅ、そういう話はもう少し後で……わたしの演技が拙いのは申し訳ないのですが、どうか我慢してお付き合いください。こういった筋書きと配役になっておりますもので」
「はあ、そう。なんか、大変だねあんたも」
「いえ、そんなことは……これも立派な天狗になるための修行の一つですから。わふ」

 本気でそう考えているらしく、暗闇の中でぱたぱたと尻尾を振る椛の瞳はどこまでも真っ直ぐである。

(参ったな)

 妹紅は頭を掻いた。どうも、こういう風に誠実な態度で来られると弱い。もう少し真面目に付き合ってやろうか、という気になってしまう。

(仕方ない、か)

 小さく息をつき、妹紅はえくすかりばぁを抜き放つ。そして、先ほどよりは幾分真面目に、見よう見まねで構えてみた。

「来い、犬走椛! 死なない太郎が成敗してやろう!」
「わふ! あ、ありがとうござ……ああ、いや」

 お礼を言いかけて途中でやめたあと、椛は一つ咳払いしてからおもむろに哄笑を上げた。

「フハハハハ、よくぞ言った死なない太郎! この犬走椛の刀の錆にしてくれようぞ!」
「それはこちらの台詞だ、悪行の報いを受けるがいい!」

 椛の多少稚拙だが熱心な演技に影響されてか、ついそんな台詞が口から飛び出した。内心ちょっと恥ずかしがりながら、妹紅は軽やかに地を蹴る。
 台本を読んでいないからよく分からないが、これはそれほど難度の高い戦闘ではなかったらしい。妹紅自身は刀などほとんど使ったことがなかったので多少不安だったのだが、椛は上手い具合に絵になるようにこちらの斬撃を受け止め、また、こちらが受けられる程度の速さで得物を振るってくれた。
 そうして数分ほど斬り合ったあと、椛が大げさに刀を振り上げた。明らかに、作られた隙である。

「隙あり!」

 妹紅は大きく地を蹴り、椛の胴にえくすかりばぁを叩きこむ。交差したあとで振り返ると、斬られた部分を手で押さえながら、椛が顔を歪めて振り返ったところだった。

「ぐぅ……み、見事だ死なない太郎。まさか四天王であるこのわたしが破れるとは……だ、だが覚えておけ、わたしの後に控えている三人は、わたしよりもずっと、強い、ぞ……!」

 苦悶の声を絞り出し、椛ががっくりと膝を突く。えくすかりばぁを鞘に収めながら、妹紅は目を細めた。

「誰が来ようと関係ない。わたしは死なない太郎、子供たちを救い出すまで、決して倒れはしない」

 静かな口調でそう言うと、椛は歪めた顔でにやりと笑った。

「ふふ……見上げた覚悟よ。最後にお主のような英雄と戦えたこと、誇りに思うぞ……萃香様、ばんざーい!」

 吼えるような断末魔を上げながら、椛がばたりと地に倒れ伏す。

「哀れ。仕える主を間違えたな……」

 哀愁漂う口調でそんなことを呟いてしまってから、妹紅ははっと我に返った。

(……なにやってるんだわたしは……!)

 顔面が熱くなってくる。椛の演技がなかなか気合いの入ったものだったから、ついつい引きずり込まれしまった。適当に流す、どころの話ではない。
 恥ずかしさのあまり両手で顔を覆って立ち尽くす妹紅に、誰かが低い声で呼びかけてきた。

「死なない太郎さん、死なない太郎さん」

 抑えられた声音に顔を上げると、倒れ伏したままの椛がさり気なく親指を立てているのが見えた。グッドジョブ。

(いい奴だなあ)

 少しじーんとしながら、妹紅は椛に背を向けて歩き出す。と同時に、背後で何かが飛びあがるような音が聞こえた。怪訝に思って振り返ってみると、椛の姿が消えている。

(なんだろ)

 首を傾げるが、まあ他にも何か雑用などがあるのだろう、と納得する。

(下っ端だって言ってたもんねえ、あいつ。早く出世できればいいけど)

 でも要領よくなさそうだから苦労しそうだなあ、と、妹紅はつい笑ってしまう。そうしてから、慌てて首を振った。

(ええい、変に親しみを覚えるなっていうのに。流すんだ、淡々と流すんだ……!)

 この後の展開は予想がついている。四天王はあと三人、とか言っていたし、この後も知り合いの誰かが襲撃をかけてくるのだろう。分かってさえいれば、対応は容易い。適当に斬り合って適当に片づければいいのだ。幸い、こちらが勝つのは流れとして決まっているようだし。

(予想通りの展開が続くんなら、さっきみたいに乗せられることもない。大丈夫、冷淡に、無関心に振舞うんだ……!)

 自分に言い聞かせながら、妹紅はゆっくりと足を進める。
 果たして数十歩ほど進んだところで、「待てぇい!」という声が後ろから聞こえてきた。

(次の四天王か!)

 ずいぶん早い気がするが、幻想郷自体があまり広くないからイベント同士の間隔も短くならざるを得ないのだろう。そう考えながら振り返ると、予想通りそこには一人の妖怪が立っていて、

「って、オイ」
「ふ、ふふふ……のこのこと現れたな死なない太郎」
「いやさ」
「犬走椛を倒したようだが、奴は我々の中でも一番の下っ端……あんな出来そこないを倒したぐらいでいい気になってもらっては困る。貴様を冥府に送るのは、そう、このわたし……!」

 親指で自分を指さし、

「猫走まみじ様だ!」
「いやいやいやいや! ちょっと待て、いいから待て!」

 叫びながら、妹紅はその妖怪の両肩をつかむ。急いで衣装を替えてきたと思しき猫走まみじ……否、犬走椛が、目を白黒させた。

「ちょ、ダメですよ死なない太郎さん、四天王第二の刺客に対してそんな親しげに振舞っちゃ」
「あんたはさっき出てきたでしょ! 第一の刺客としてわたしに斬り倒されたばっかりでしょうが!」
「わふ。あれは犬走椛です。今の私は四天王第二の刺客猫走まみじですから」
「つまり一人二役!? なに、そこまで人手不足なのこれ!?」
「はい。先輩方が皆さんご病気や不慮の事故で倒れられまして」
「いやそれ絶対仮病だから」
「ですがご安心ください!」

 瞳にやる気の炎を滾らせながら、椛が頼もしげな声で言う。

「わたしも妖怪の山を取り仕切る天狗の端くれ、必ずやちゃんと演じ分けて見せますので!」
「いや、そんなところで気合いを入れられても」

 げんなりしてきた妹紅の前で、椛が申し訳なさそうに耳を伏せる。

「とはいえ何分素人、拙い演技で死なない太郎さんのやる気を削いでしまうかもしれませんが、どうか平にご容赦をいただければ、と」
「むしろあんたに詫びたい気持ちでいっぱいよわたしは……」

 椛のあまりの下っ端ぶりにちょっと泣けてきた妹紅である。とにかくこんなことはさっさと終わらせなければならぬ、と決意し、四天王第二の刺客から飛び退る。

「よし、じゃあかかってこい、ええと……猫走まみじ! 出来るだけ早く終わらせてあげるから!」
「ニャハハハハ、そう簡単に行くと思うなよ死なない太郎!」

 微妙に笑い方を変えている辺り、椛の真面目さが窺えるというものである。彼女はむむむ、と唸りながら、胸の前で両手を合わせ、印を組んでみせる。

「猫走妖術、ニャンニャン子猫大暴走の術! きえーっ!」

 なんじゃそりゃ、と突っ込むよりも早く、木立の中からたくさんの猫たちの鳴き声が聞こえてきた。なんだ、と思って見てみると、暗闇の向こうからたくさんの子猫たちがにゃーにゃーと可愛らしく鳴きながら猛然と走ってくる。

「な、なにこれ!?」
「ニャハハハハ、これぞニャンニャん子猫大暴走の術! どうだ、子猫ちゃんたちのあまりの愛くるしさに手も足も出まい! 全身を甘噛みされて悶え死ぬがいいわ!」
「ええい、また微妙に対応に困る術を……!」

 しかし、これは厄介である。こちらに向かって一生懸命駆けてくる子猫たちは、実際ずいぶん可愛らしい。いかに模造品とは言え、あれを刀で追い払ってしまったら間違いなく悪者だ。淡々と流すといっても、やっていいことと悪いことがある。

(どうする、どうすれば……!)

 妹紅が苦悩している間も、子猫の群れはどんどん迫ってくる。そしてついに先頭の一匹が妹紅のもんぺに飛びつき、

「にゃー」

 と、すりすり頬を擦りつけはじめた。

「……はい?」

 唖然とする妹紅に、他の子猫たちもどんどん飛びついてくる。最初の猫同様頬を擦りつけるもの、もんぺの中に潜り込むもの、足下で丸まって眠り始めるもの、一生懸命頭に向かって上ってくるもの。行動は様々であるが、皆一様に敵意らしきものは感じない。

「ええと」
「こ、こら、あんたたち!」

 不意に、木立の中から小柄な影が転がり出てきた。猫のような耳を生やした、妖獣の女の子である。妹紅の前に駆け寄ってくると、すり寄っている子猫たちを必死で引き剥がし始めた。

「懐いちゃ駄目でしょ、懐いちゃ! ちゃんと襲いなさいって、いたっ!」

 少女の腕の中で暴れていた一匹の子猫が、まだ未発達な爪で彼女の手を引っ掻いた。他の子猫たちも、子猫なりに獰猛な唸り声を上げて、一斉に敵意を露わにする。
 少女は目の前の光景が信じられないように呆然と立ち尽くしていたが、やがてその瞳に涙がせり上がってきて、

「み、みんな、ひどいよぉぉぉぉぉぉぉっ! らんさまああああぁぁぁぁぁっ!」

 と、泣きながらどこかへ走り去ってしまった。
 子猫たちが勝利の雄叫びのように可愛らしい鳴き声を上げる横で、妹紅と椛は気まずげに立ち尽くす。

「……なんていうか、ごめんね」
「わふ……さすがにこれは予想外でした……」
「なんか、昔から動物とかに好かれやすくてさ、わたし」
「ううむ、分かるような気もしますが……ああ、橙さんには悪いことをしてしまいました。後で謝らないと」
「むしろ今の子に第二の刺客をやらせた方が良かったんじゃ」
「いえいえ、これはわたしの仕事ですので」

 椛は懐から手の平サイズの瓶を取り出した。蓋を開けて、中身を次々と木立の方へ放り投げる。子猫たちが一斉にそちらの方へ駆けて行った。

「こんなときのためににぼしを用意しておいて良かったです」
「準備がいいというかなんというか」

 呆れつつも、妹紅は椛に歩み寄る。そしてすっかり諦めた様子の彼女を、べしっとえくすかりばぁで引っ叩いた。

「ぐああああああ、まさか、このわたしがやられるとはぁ! 萃香様、お許しくださぁぁぁいっ!」

 またも気合いの入った断末魔を上げながら、椛がばたりと地に倒れる。
 妹紅は嫌な予感をひしひしと感じながら椛に背を向ける。案の定背後で何かが飛びあがる音がして、振りかえると天狗の姿が消えていた。無言で十数歩歩くと、木立の中から誰かが飛び出してくる。

「ぜぇ、ぜぇ……! が、がはははは、とうとうここまでたどり着いたか死なない太郎!」
「もういい、もういいから!」

 相当急いで着替えてきたらしい椛の肩を、妹紅はがっしりとつかんだ。

「ちょ、ダメですよ死なない太郎さん、四天王第三の刺客に対してそんな親しげに」
「だからもういいって! いいから休め、な!?」
「わふー、ダメですよぅ、これがわたしの仕事なんですから」
「……念のために聞いておきたいんだけど、あんたの仕事はこれで終わり?」
「わふ。いえ、この後四天王最後の刺客として死なない太郎さんの前に現れて」
「それから?」
「それから、四天王の上司である五人衆の一人目として」
「なにそれ!? まさかそれも全部あんたがやるの!?」
「は、はい。それで、その後はさらに上の七武衆、そのまた上の八魔人、十二神将と続いて、最後は伊吹萃香様の配下の中でも最上位に位置する妖怪の山72柱として」
「多すぎだって! っていうかなんで上に行くほど人数が増えるわけ!?」
「ええと、なんでも外の世界で流行中の逆ピラミッドトップダウン型の組織体系を採用しているとかで」
「採用するなそんなもん! ええい、もういい!」

 妹紅は半ばヤケクソ気味にえくすかりばぁを引き抜き、

「無敵の死なない太郎さんは、今後も続々と現れる鬼の部下を、ここで全員斬り倒しまし、たっ!」

 叫びながら、椛の肩を一発打ち据える。白い天狗が目を見開いた。

「えぇっ、そ、そんな、困りますよぅ」
「いいから、ここで全員分わたしにまとめて倒されとけ、な!?」

 お前このままじゃ間違いなく過労死するぞ、という警告を込めて、鼻がくっつくぐらいの距離から椛を見つめる。白い天狗は何やら顔を赤くして、「や、そんなに見つめられると」と悩ましげな吐息を漏らす。

「そもそもあんた、一人でそんな何役もこなしていちいち倒されてたんじゃ、何日かかったって終わらないでしょ。それならちょっと端折ってここでまとめて倒されておきなって。あんたの上司には後でわたしから言っておいてあげるから」
「わふ。でも、そこまでしていただいては」
「いいから。わたしを助けると思って、ね?」

 そう言っても椛はまだ渋っていたが、やがて観念した様子で耳を伏せながら頷いた。

「分かりました。では死なない太郎さんの仰る通りにいたします」
「うんうん、そうしとけそうしとけ」
「では最後に」

 椛は妹紅から少し体を離すと、片手で胸を押さえ、もう片方の腕を天に突き出しながら断末魔を上げた。

「おのぉれ死なない太郎! だが我々72柱が倒れようとも、この先には萃香様の盟友スカーレット卿が!」
「まだいるのかよ」
「貴様が来るのを地獄で待っているぞ、死なない太郎ぉぉぉぉぉぉっ!」

 絶叫した椛の体が、ばたりと地に倒れ伏す。

(やれやれ)

 さすがにこれで終わりだろう。妹紅は椛に背を向けたが、また背後で何かが飛びあがるような音が聞こえて、慌てて振り返った。先ほどと同じく、白い天狗の姿はどこにもない。

「……文!」
「はいはいなんですか」

 撮影係の天狗は、妹紅が呼ばわるとすぐに飛び降りてきた。やはり近くで見ていたらしい。

「あの椛って子、この後もまだ仕事あるの?」
「そりゃあもちろん。演出の手伝いに連絡係に子供たちの世話係に、ええとそれから」
「休ませてやれよ!」

 指折り数える文を怒鳴りつけると、鴉天狗は目を瞬いた。

「え、なんでですか」
「な、なんでって」

 絶句する妹紅に、文はへらへらと笑いかける。

「この程度は天狗社会なら当たり前ですよー。わたしも新人の頃はそりゃもうこき使われたもんです」
「いや、だからってあれは」
「でもそうですね、あなたが望むのならいい解決策がありますよ。椛を早く解放してあげたいとおっしゃるのでしたら、もう少しやる気を出して役を演じられることです。鬼を早く退治すれば退治するほど、仕事の終わりも早くなるわけですから」

 にたり、と実にいやらしい笑みを浮かべて文が言う。妹紅は侮蔑の視線を投げた。

「最低だねあんたは」
「あやややや、これは人聞きの悪い。わたしはただ出来る限りいい画を撮りたいと思っているだけです。それにかつての山の支配者である鬼の御大のやること、わたしごときには止められるはずもありませんからねえ」
「ああそうかい」

 妹紅は舌打ちして、足早に歩き出す。さっさと終わらせなければいけない理由がまた一つ増えた。
 同時に、ひょっとして上手く乗せられたのではないか、という懸念が頭の隅に湧き上がったが、今はとりあえず無視しておくことにした。



 木立を抜けた妹紅は、早足に妖怪の山への道を急ぐ。しかしどれだけ歩を速めようとも、所詮は人の足である。出せる速度には限界があった。

(ええい、飛べばすぐに着けるってのに)

 妹紅は苛立ったが、一応ルールには従うつもりだった。萃香にへそを曲げられてはいろいろと困ったことになるし、何よりあそこまで真面目にやっている椛の姿を見てしまっては、この劇をぶち壊しにする気にはとてもなれない。

(それにしてもこんなに流されやすかったのか、わたしは?)

 妹紅は内心首を傾げるが、答えは出なかった。なにせ最後に愛しい人と別れて以来、極力人と関わるのを避けてきたのだ。幻想郷に入ってからもそれは変わらない。以前の自分がどんな態度で他人と接していたのかなど、もう思い出せもしないのだ。

(……流されやすいんだろうな、きっと。だから今こんなことになってるんだし、あのときだっていつか別れるときが来るって分かりながら、あの人の手を払いのけることができなかったんだ)

 妹紅は小さな丘陵を上りつつあった。丈の短い草の生い茂るこの丘を越えれば、妖怪の山が眼前に見えてくるはずである。実際には大したことのない距離のはずだが、何か物凄く長い道のりを踏破してきたような気がした。
 そのとき、丘の頂上に四つの人影が見えた。闇の中なので、それが誰かはよく分からない。じっと目を凝らしながら歩いていくと、その内の少なくとも一人は見覚えのある人物であることが分かった。

「こんばんは。ようやくいらっしゃったのね、死なない太郎さん」

 そう声をかけてきたのは、魔法の森に住む人形遣いだった。確か、名前はアリス・マーガトロイドとか言ったか。柔らかそうな金髪の少女である。白い肌と冷たいほどに落ち着き払った青い瞳は、まるで彼女自身も人形であるかのような錯覚すら抱かせてくれる。

「こんばんは。なにやってるの、こんなところで」

 とりあえず挨拶を返しながら問いかけると、アリスは不思議そうに首をかしげた。

「台本、読んでないの?」
「ってことは、あんたたちも役者さんなわけね」

 やっぱりな、と妹紅は思う。先ほどアリスを見たときから、奇妙に思っていたのだ。今の彼女は仏教徒の法衣のような服に身を包んでおり、以前見たときとはずいぶん趣が違う。アリスは顔立ちが完全に西洋人のそれのため、さすがに少々ミスマッチだった。

「似合わないねえ」
「仕方ないわよ、そういう役柄なんだもの。それに、こいつよりはマシね」
「こいつって?」

 アリスが手を差し伸べた先で、誰かがふてくされたように膝を抱えて座っていた。誰だ、と目を細めて、妹紅は思わず吹き出した。

「魔理沙、あんたなによその格好」
「うるさいな」

 口調からして黒白の魔法使いは完全に拗ねているようだったが、まあ無理もないことだろうと妹紅は思う。
 なにせこの魔法使い、獣の耳型カチューシャと尻尾型のアクセサリーを身につけているのだ。それも、猫や犬のものではない。猿のそれである。

「マリサル、だって」
「マリサルッ……!」

 妹紅は口を押さえたが、笑いの衝動がどうしても抑えられなかった。真っ赤な顔でぎりぎりと歯ぎしりをしている魔理沙の代わりに、アリスに向かって問いかける。

「え、なに、こいつなんでこんな格好してるの?」
「紫と弾幕ごっこやって負けたんだって。言葉巧みにこの役やるのを報酬にされて」
「なるほど。しかし、猿ねえ」

 ということは、やはり犬猿雉か。そう思って残りの二人の方を向いて、妹紅は目を丸くする。

「やあ盟友、胡瓜食べるかい」
「何よ、なんか文句あんの?」

 そこにいたのは、河童と豚であった。なんとも珍妙な組み合わせである。

(坊さん、猿、豚、河童……)

 少し首を捻って考えると、妹紅の脳裏にある単語が浮かんできた。

「……西遊記?」
「あら、よくご存じね。ちなみにわたしは『マガトロ法師』だって」
「三蔵法師のつもり? 語感からなにから全然違うじゃん」
「古今東西あらゆるお伽話を取り入れた『ハイブリットお伽噺』だとかって、紫が胸張ってたけど」
「ハイブリットって……むしろいろんな要素突っ込んで失敗しましたっていう典型じゃないか、これ」

 いちいち脱力させてくれるお伽話である。

(……それにしても……)

 アリスと何気ない会話を続けながらも、妹紅はごくりと唾を呑む。
 先ほど存在に気づいた二人、河童と豚。河童の方はまだいい。別段奇抜な格好もしていないし、マイペースにのんびり胡瓜をかじっているだけだから。
 問題は豚の方である。この青くて長い髪の綺麗なお嬢さん、やけに気合いの入った格好をしていらっしゃるのだ。肌色っぽい服を着て、魔理沙同様豚耳型のカチューシャと尻尾を身につけているのはもちろんのこと、なんと豚の鼻を象ったリアルなつけ鼻まで装着している。おまけに蹄を象っていると思しき黒い手袋とブーツを履いており、正直な話それはなんの罰ゲームですかと尋ねたくなるような惨状だ。
 そんなお嬢さんが何か言いたげな目つきでじっとこちらを見つめているものだから、もうたまらない。

(か、関わりたくない……! 今までとは違った理由で、あの人には関わりたくない……!)

 そんなわけで妹紅は必死にそちらを見ないようにしているのだが、お嬢さんの方はとうとうそれに耐えられなくなったらしい。あの愉快な格好で顔を赤くしながら、ずかずかとこちらに近づいてきて、

「ちょっと、あんた!」
「ヒィッ!? す、すんません、すんません!」
「なんで謝るのよ!? 言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない! 天人のくせにそんな格好しやがって恥ずかしくないのかこの雌豚! とかなんとか言って、わたしを罵ればいいじゃない!」

 何やら興奮してハァハァと息を荒げながら、そんなことを仰られる。

(うわぁ、予想通りこの人超絡みづれぇーっ!)

 おそらく年頃と思われる可愛らしいお嬢さんが大真面目に豚鼻をつけている光景に耐えられず、妹紅は何度も謝りながら必死に目をそらし続ける。

「ほら天子、その辺りにしておきなさいって」

 苦笑交じりの声で妹紅を救ってくれたのは、言うまでもなくアリスであった。天子という名前らしい豚鼻のお嬢さんをなだめるように、彼女の肩にそっと手を置く。天子は不満げにぶーぶーと文句を垂れた。いや、鳴き真似をしたわけではなく。

「だってアリス、こいつ絶対わたしのこと馬鹿にしてるって」
「いや、むしろ哀れまれてるんだと……まあともかく、こんなところで時間を取らせるわけにはいかないし、早く劇の進行に戻りましょう、ね?」

 アリスが小さく首を炊げてみせると、天子はまだ不満そうに唇を尖らせていたものの、妹紅を一瞥だけくれて渋々といった様子で引き下がった。

「悪い、助かったよ」

 ほっと息をつきながら言うと、アリスは苦笑した。

「まあその、ちょっと構ってもらいたい願望が強いだけで、根っから悪い子じゃないから」
「……あんまり説得力を感じないんだけど」
「ともかく」

 強引に話を打ち切り、アリスは授業中の慧音のような口調で語り始めた。

「あなたが台本を読んでないってことは分かったわ。だから、筋書きを簡単に説明するわね。あなたがここにいるってことは、萃香の配下を全部倒してきたってことだと思うんだけど」
「うん、まあそうだね。嘘ではないよ、一応」
「……なんか引っかかる物言いだけど、まあいいわ。それで、いよいよこの丘を越えて悪鬼伊吹萃香のところへ乗り込むぞってところになって、旅の法師一行に遭遇するわけよ」
「そうだね、遭遇したね」
「この法師様一行、あまり旅慣れてなかったみたいで、手持ちの食料が全部尽きてしまったところだったの。そこで優しい死なない太郎は」
「最初に手に入れたきび団子をくれてやるっていうわけだ」
「ご名答。じゃ、頂けるかしら」

 にっこり笑って、アリスが手を差し出す。特に断る理由もなかったので、妹紅は腰の袋を外して人形遣いに手渡した。

「はい、ありがとう。みんなー、きび団子もらったわよー」

 他の三人が「おー」「やったー」「ありがとう死なない太郎ー」と、若干やる気なさげに歓声をあげる。乗ってるんだか乗ってないんだかはっきりしろよ、と思いながら、妹紅はとりあえず事の成り行きを見守ることにした。

「おーし、じゃ、早速食べるとしようか」
「こら魔理沙、行儀悪いわよ」
「いただきまーす」
「ほら見なさい、天子だってちゃんと挨拶できるのにあんたったら」
「う、うるさいな。いただきます。これでいいんだろ」
「はいよくできました」
「ねーアリス、この団子さー、胡瓜味はないもんかね」
「……さすがにそれはないと思うけど」
「うわ、なんかもそもそしてるなこれ。期待はずれだぜ」
「天界の桃に比べたら数段マシよ」
「ヘッヘッヘ、案ずるな盟友。こんなときのためにいいもの持ってきてるんよ」
「おお、酒じゃないか。でかしたぞにとり」
「月見酒、か。悪くないわね」
「じゃ、乾杯しよ、乾杯」
「よっし、それでは無事任務を遂行できたことを祝して……かんぱーい!」
「かんぱーい!」
「いい加減にしろお前らっ!」

 とうとう堪え切れなくなって、妹紅は叫び声を上げた。地面に座り込んで今にも杯を合わせようとしていた四人が、目を丸くしてこちらを振り返る。

「え、なに」
「どうしたの、死なない太郎?」
「どうしたの、じゃないでしょ!」

 苛々して腕を組みながら、妹紅は四人の顔をねめつける。

「あのさ。悪いけど、そういうのはこのお伽噺が終わったあとにしてくれない?」
「……なんのこと?」
「いや、だからさ。まだ鬼を退治してないし」
「そうね」
「それがどうかしたん?」

 四人が困惑した様子で顔を見合わせている。妹紅は何かおかしいぞ、とようやく思い始めた。

「……あのさ、一応確認したいんだけど」
「うん」
「あんたら、今死なない太郎からきび団子もらったんだよね?」
「そうね、もらったわよね」
「だったら、鬼退治のお供としてついてきてくれるんじゃ……」
「え、なんで?」
「なんでって!?」

 唖然とする妹紅の前で、魔理沙が「あー」と額を叩いた。

「そういやこいつ、筋書き知らないんだもんな」
「そりゃいかんよ盟友、台本読まないからそういうことになるんよ」
「仕方ない、説明してあげるわね」

 こほん、と咳払いをしながら、アリスが夜空に向かって手を伸ばす。そして、情感たっぷりに語り始めた。

「子供たちを救うために鬼退治へと出発した死なない太郎。しかしその道のりは容易いものではありませんでした。襲いかかる数々の妖怪、立ちふさがる悪鬼の部下たち、手助けしてくれるかと思っていた仲間たちの卑劣な裏切り、傷ついていく心……」

 まるで話を盛り上げるかのように、晴れた夜空に稲妻が走った。固唾をのんで見守る魔理沙たちを横目に、妹紅は首を傾げる。

「……いや、後半のエピソードには全然覚えがないんだけど。裏切りとかなんとか」
「その部分は人手不足のために省略されたわ」
「いいのかそれで」
「……こうして心身ともに疲れ果てた死なない太郎ですが、彼にはまだきび団子が残されていました。鳥の妖怪から救い出した心優しく可憐で繊細なお嬢様が、せめてものお礼にと手渡してくれた、心づくしの品」
「お嬢様に関していろいろと言いたいことがあるんだけど、まあいいや」
「この小さな団子を口にするたび、死なない太郎は人の優しさを思い出すことができるのです。人の優しさを忘れない限り、死なない太郎は立ち上がることができるのです。しかし、そのきび団子もまた、彼の手を離れていきます。旅の途上、空腹で倒れてしまった法師一行に、死なない太郎は躊躇いなくきび団子を差し出してしまうのです」
「うんまあ、確かに差し出したけど」
「そして、せめてものお礼にと協力を申し出る法師の言葉を、死なない太郎は笑って断るのでした」
「なんで!?」
「『鬼退治は私の務め。他にも大切なお役目のある法師様たちを巻き込むわけには参りません。どうかお気になさらず、あなたの務めを果たして下さい』と。そう、あれだけ多くの辛い目にあっても、死なない太郎には人を気遣う優しさが残されていたのでした! 目に涙を浮かべながら見送る法師一行の視線を背に受け、死なない太郎は一人歩き出します。手助けなどそもそも必要なかったのです。人の優しさを、温もりを覚えている限り、彼は何度でも何度でも立ち上がる。そう、彼こそ真の英雄、死なない太郎なのですから……」

 締めくくると同時に、またも晴れた夜空に数条の稲妻が走る。誰がやっているのか分からぬ過剰な演出を尻目に、アリスは大きく息をついた。魔理沙たちが涙を流しながら立ち上がって惜しみのない拍手を浴びせかける。

「ブラヴォー! いい最終回だったぜ!」
「やばっ、わたし筋書き知ってるのにちょっと泣いちゃったかも」
「いやいや分かるよ、アリスの語りは実にうまいからねえ」
「そこまで褒められるとちょっと照れるわね。まあ人形劇の応用みたいなものだし」
「あ、それそれ。ねえねえアリス、今度天界でもやってよその人形劇っての」
「ん、まあ、許可が取れるんだったらいいけど」
「やたっ、じゃあわたし特等席ね、特等席!」
「へっ、天子は相変わらずガキっぽいぜ」
「なによ、文句あんの!?」
「やるか!?」
「あんたたちも相変わらずよねえ」

 なんだか内輪で盛り上がっている四人を尻目に、妹紅はがっくりと肩を落とす。

「……要するに、ここは単なる通過ポイントだったってことね」
「あら、そうでもないわよ」

 答えたのはアリスだった。

「なんで?」
「さっきも言ったでしょう。ここは死なない太郎の人格を描写する上では欠かせないポイントなのよ。何度人に裏切られても立ち上がる、心優しい不死身の英雄の人格を、ね」
「そんな作劇上の都合を並べられてもね」

 ぼやきながら、妹紅は目を細める。

(何度人に裏切られても立ち上がる、か)

 萃香の得意げな笑顔が頭に浮かぶ。妹紅は眉根を寄せた。

「当てつけのつもりかね」
「なに?」
「いや」

 咳払いをして、「あー、しかし」と妹紅は苦笑する。

「あんたらも大変だね、あの小鬼の我がままに付き合わされてさ」
「ん? そうでもないわよ。わたしはこれでも楽しんでるもの」
「こんな無茶苦茶なお伽話を?」

 妹紅が呆れて言うと、アリスは照れたように微笑んだ。

「こういう雰囲気って、なんだか懐かしくってね。昔お母さんが見せてくれた人形劇みたいで」
「へえ。いいお母さんだね。羨ましいな」

 つい本音が出てしまったが、笑われるとは微塵も思わなかった。実際、アリスは瞳に優しさを滲ませてじっとこちらを見つめてくる。

「あなたも、割と楽しんでるように見えるけど?」
「え、わたしが? いや、わたしは別に……こんなの、関わりたくもないし」

 どうも歯切れが悪くなる。実際、自分で聞いていて全く説得力がないな、と思ってしまうのだ。

(だからって、クソッ……仲良くなったってロクなことになりゃしないんだから)

 胸を押さえながら、妹紅はくるりと四人に背を向ける。これ以上楽しそうな笑い声を聞いていると、また嫌なことを思い出しそうだった。

「じゃ、わたしは行くよ。もうすぐあの小鬼のところに着くみたいだし」
「ええ。気をつけてね。萃香と対決する前に、もう一つ山場があるはずだから」
「まだあるの」

 一つため息をついて、妹紅は歩き出す。丘のてっぺんを越えて緩い傾斜を下り始めると、背後から足音が追いかけてきた。

「ちょっと、待ちなさいっ」

 この声はあの豚の人か、とげんなりしながら振り返ると、案の定そこには豚の人がいた。もう出番を終えたためか、豚耳や豚の鼻などはすべて外していたが。

「なにか用?」
「いや、あのね」
「うん」
「あの……」
「……なに?」
「べ、別に」

 天子はなにやら口の中で呟いているようだったが、くぐもっていてよく聞こえなかった。薄らと頬が赤くなっている気がするのは、気のせいではないだろう。

(……なにが言いたいんだろ?)

 妹紅は困惑したが、あえてこちらから尋ねることはしなかった。
 天子は何かを言いかけてはやめ、止めてはまた言いかける、ということを数度繰り返した後に、

「あのねっ、あの、鬼のことなんだけど」

 と、意を決したように話しだした。

「あいつって、強引で自分勝手な奴だけど、嫌がらずに、その、付き合ってやってもいいんじゃないかなって」
「……はあ。そりゃまあ、今否応なしに付き合わされてるわけだけど」
「さ、最後まで帰らないで、ちゃんと倒してやりなさいよっ! そ、それだけだから!」

 天子は叩きつけるように言うと、逃げるように踵を返して走り出す。数歩ほど行ったところで振り返り、

「あ、そ、それと、わたしがこういうこと言ったってのは内緒だからね! 誰かにばらしたら緋想の剣で串刺しにしてやるんだからね!」

 と、少々物騒な脅し文句を残して丘を登って行った。
 結局なんなんだろう、と、一人残された妹紅は首を傾げる。すると、背後から何やら小さな啜り泣きのようなものが聞こえてきた。振り返ると、そこには薄桃色の羽衣を身に纏い、ハンカチで目を拭っている女が一人。腕には「演出係」と書かれた腕章をつけている。

「ああ、あの自己中心的で傍若無人で他者のことなんか虫けら以下だと思っていらっしゃった総領娘様が、あのような優しさを……! 私感動で涙がちょちょ切れそうです」

 またなんか関わりたくない人種がいる、と妹紅は思う。しかし、いかにも話しかけてほしそうな空気を放出しているその女の横を素通りするわけにもいかず、

「あんた」
「は、はい?」
「さっきの子の知り合いみたいだけど」
「ああ、はい。私龍宮の使いをやらせてもらっております永江衣玖と申します。よろしくお願いいたします」

 と、お辞儀する代わりにビシッと天を指さしてみせる。やっぱり関わりたくないなあ、と思いながらも、妹紅は空気を読んで質問した。

「あの子、なんであんなこと言ってたの? 理由知ってるんでしょ?」
「はい、もちろんです。実は、ですね」

 と、衣玖は天子の過去を語り始める。不良天人と蔑まれて、天界でずっと一人ぼっちだった女の子。その女の子が引き起こした傍迷惑な異変。それがきっかけで、地上人の友達が数人出来たこと。

「……あの異変の終盤、今回の騒ぎの元凶である鬼の方が、天子様が地上の友人を天界に招くきっかけを作ってくださったそうで」
「なるほど。つまりさっきのは恩返しみたいなものだったわけね」
「そういうことになりますね」

 つまりさっきのあの気合いの入った格好も、そういう意図があってやっていたことだったのだろうか。

(張り切りすぎでしょ、いくらなんでも)

 内心苦笑しながら、妹紅はふと隣を見た。
 衣玖は目を細めて、天子が去っていった方角を見つめている。

「嬉しそうだね、あんた」
「ええ。あの総領娘様が……本当に、変われば変わるものです。やはり、他者と接することは心によい影響をもたらしますね。素晴らしいことです。あなたもそうは思いませんか?」

 衣玖は小首を傾げて訪ねてくる。
 そういうことばかりじゃないだろう、逆に傷つけられて落ち込むこともある。などと反射的に答えそうになって、妹紅は口を噤んだ。内心では今もそう考えているが、目の前で嬉しそうに笑っている女を見ると、馬鹿正直に冷淡な答えを返すのは無粋だと思えたのだ。
 だから空気を読んで、ただ笑い返した。

「そうだね。人と触れ合うって、とてもいいことだと思うよ」

 そう言った途端、胸の内にじわりと温かいものが滲み出した。妹紅は驚いて、胸に手を当てる。

(ああ、なんか)

 知っている感覚だ、と思う。数百年来も忘れていた、何事にも代えがたい温かさ。
 こんなものが、まだ自分の中に残っていたとは。

「どうなさいました?」

 不思議そうな声音で呼びかけられて、妹紅ははっと我に返る。慌てて首を振り、

「ああいや、なんでもないよ。じゃあ、先を急ぐから」

 と、一方的に言い置いて走り出した。
 妖怪の山まで、あともう少しだ。



 あれこれと迷いを覚えつつも、妹紅はひたすら無心であれと己に念じて歩を進める。ともかくも、妖怪の山 の麓にあるという洞穴へ赴いて萃香を打ち倒せば、それで今夜の遊戯は終わりなのである。
 ちなみに目的地が妖怪の山山頂とかでないのは、山の中を人間が歩いて通る許可が下りなかったかららしい。

「最近何かと侵入されまくりとは言っても、我々天狗の本拠であり聖地でもあるわけですからね。こういう遊戯のたびに好き勝手に使われては、さすがに面子が保てない……と、上層部が判断を下したようです。鬼の御大も『洞穴に子供らを引きずりこむってのも鬼っぽいかもね』と納得されたとのことで」

 妹紅にしても、歩いて山登りをさせられるよりはそちらの方がずっと気楽である。ほぼ一本道のため、迷うということもありそうにないし。
 そして妹紅はいよいよ妖怪の山の麓に辿り着いた。事前に渡された地図によると、外周に沿って山の裏側に回りこまねばならないらしい。

(そう言えば、さっきアリスがもう一つ山場があるとかなんとか言ってたけど)

 そんなことを思い出してちょっと不安になった瞬間、どこからか女の悲鳴が聞こえてきた。素早くそちらの方向に視線を向けると、その先には鬱蒼と生い茂る深い森が。

(……こんなところに森なんかあったっけ?)

 若干戸惑いつつも、多分これが萃香と決戦する前の最後の山場なのだろうと判断し、妹紅は森に向かって走り出す。
 木々の中に足を踏み入れてみると、外から見るよりもよほど深い森だということが分かった。縦横無尽に伸びる枝が、頭上を完全に閉ざしている。元々頼りない月や星の明かりは、この森の中ではほぼ無力だった。
 妹紅は自ら浮かべた小さな妖火を頼りに、生い茂った草や張り出した枝を払いのけて進む、と。

「こっち、こっちよ」
「急いで、大丈夫だから」

 緊迫感あふれる声とともに、数人の足音が聞こえてきた。その中には子供の泣き声も混じっている。演技などではなく、心の底から怖がっている泣き声だ。そう気づいたとき、妹紅の中から迷いや躊躇いは一欠けらも残さず消えていた。

「そこの人たち、無事!?」

 叫びながら全力で駆ける。果たして数秒も経たないうちに、闇の向こうから白い巫女装束を着た少女が駆け出してきた。

「ああ、あなたが死なない太郎様ですね! どうかお助け下さいまし!」

 英雄の胸に縋りつき、潤んだ瞳で彼女を見上げながら哀願するその女性に、しかし妹紅は目眩を覚えた。

(……今日はいろんな場面で明らかにミスキャストだろうと思う配役ばっかり見てきたけど)

 これは極めつけだなと思いながら、妹紅はゆっくりとその巫女に語りかける。

「あのさ」
「はい、なんでございましょうか死なない太郎様」
「その口調止めてくれないかな。吐き気がするんだ……霊夢」
「えー」

 あっという間に素に戻ったその女性……いつも束ねている艶やかな黒髪を、今は真っ直ぐに垂らしている博麗霊夢その人は、不満そうに頬を膨らませてみせた。

「なによー、人がせっかくちょっと気合入れて演技してるっていうのにー」
「気合入れれば入れるほど違和感が凄くなるんだよあんたの場合。一応聞くけどどういう役なのそれ」
「鬼に捕われた子供たちの内、二人だけをなんとか救出して逃げてきた、か弱く健気な巫女さんの役だけど」
「なるほど、面白いぐらいに正反対だ。普段のあんたじゃ絶対にあり得ないね」

 一体誰の趣味なんださっきの気持ち悪い演技は、と思いながら、妹紅は喉に手を当てる。何か、奥の方に酸っぱいものがこみ上げてきていた気がする。

(危ないな、もう少しで戻すところだった)

 安堵の息をつく妹紅に、「あのー」と、声をかけてくる者が一人。見ると、そこにも巫女装束を着た少女が立っていた。ちなみに霊夢もそうだが、この少女もきちんとした正式な白衣を身に纏っている。幻想郷では一般的なものとなりつつある、腋の開いた奇抜な白衣ではない。
 だが、妹紅はその少女のことをほとんど見ていなかった。視線は、自然と彼女の陰に引き寄せられる。
 そこに、二人の子供が立っていた。見かけからすると五つか六つぐらいの、男の子と女の子。おそらく兄であろう男の子は唇を真一文字に引き結んで、子供ながら厳しく張りつめた表情を浮かべている。一方、おそらく妹なのであろう女の子は、恐怖に顔を歪めて泣きじゃくりながら兄の体にしがみついていた。

「その子たちが、救出してきたっていう子供たち?」
「あ、はい、そうです」

 見知らぬ巫女少女が答える。こちらは霊夢と違って、普段から礼儀正しい性格のようだ。なんというか、所作や声音に無理がない。

「あんたは?」
「わたしは東風谷早苗といいま」
「のんびり話してる暇はなさそうよ」

 霊夢が冷静な声で言いながら、頭上の一隅を指さす。妹紅はそちらに顔を向けたが、そこはやはり無秩序に伸びた枝に覆われていて、夜空すら見えない。

「え、なに?」
「来るわ」

 霊夢が呟いた瞬間、突然枝の覆いが強引に押し分けられた。ぎょっとして立ち尽くす妹紅の頭上に、巨大な何かが現れる。ぎょろりと蠢く目玉、乾いた光沢を持つ白い鱗、ちろちろと口の隙間から覗く、先が二股に割れた長い舌。
 空を覆い尽くすほどに巨大な、蛇の怪物である。

(馬鹿な、いくら幻想郷でもこんなアホみたいにデカい蛇の話なんて聞いたことないぞ……!?)

 大蛇は呆然とする妹紅たちを見つけると、実に嬉しそうに笑った。蛇のくせに、やけに人間くさい表情だった。

「見ぃつぅけぇたぁぞぉぉぉぉっ! 悪い子は、いねぇぇぇがぁぁぁぁぁっ!」

 またなんか混じってる、と突っ込みを入れる暇もない。蛇が口から吐き出した無数の光弾を、妹紅たちは間一髪で避ける。

「こっちへ!」

 緊張した声で叫ぶ早苗の誘導に従って、暗い森の奥へと走り出す。蛇が木々をなぎ倒しながら這い進む轟音が、後ろから追いかけてきた。その音があまりにも大きいので、女の子が泣き叫ぶ声がかき消されてしまったほどである。

「あの木の洞の中へ……!」

 五人は少し先にあった巨大な木の洞の中に逃げ込んだ。早苗と霊夢が即座に符を取り出し、洞の入口に結界を張る。突きだされた槍のような勢いで首を伸ばしてきた蛇の頭が、その結界に大きく弾き飛ばされた。

「おぉぉぉのれぇぇぇ、小癪な真似をぉぉぉぉっ!」

 嵐のような重低音で呪詛の言葉を吐き出しながら、蛇が何度も何度も結界に体当たりする。そのたびに大木全体がぐらぐらと揺れた。

「まずいわね」

 結界を維持するためにか、両手で複雑な印を組みながら、霊夢が舌打ちを漏らす。

「このままじゃ、結界の方はともかく木の方がへし折られるかもしれないわ」
「……それだとわたしたちは下手すりゃ生き埋めになるんじゃないの」
「ま、普通に考えればそうでしょうね」

 霊夢の声は余裕を保っていたが、印を組んで突き出された両腕や、硬い表情を浮かべた顔には脂汗が滲んでいた。早苗の方も同様である。どうやら本当に辛い状況のようだ。

(ごっこ遊びにずいぶんと一生懸命な……まあ、それは相手も同じか)

 今もなお間断なく体当たりを繰り返している蛇の正体は分からないが、誰かが操っているにしろ変化しているにしろ、それが持つ圧倒的な質量や威圧感は紛れもなく本物である。
 だからこそ、だろうか。

「にいぃぃぃぢゃああああん」
「泣くなバカ、だいじょうぶ、だいじょうぶだったら!」

 泣き喚いている女の子と、それを必死になだめようとしている男の子。二人とも、これがただのごっこ遊びであるという説明は萃香から受けているであろうに、心の底から怖がっている様子だった。あの蛇の迫力を眼前で見せつけられては無理もないことだろうが。

(気合入れすぎなのよ、まったく)

 心の中でため息をつきながら、妹紅は静かに幼い兄妹の背後に回り込み、そっと二人の体を抱きしめてやった。妹紅の腕の中で、妹はなおも泣き叫び続け、兄はそんな妹を必死になだめ続ける。だが、妹紅の手には止まらぬ震えが伝わってきていた。一人ではなく、二人分の震えが。

(無理しちゃって、この子は)

 男の子は妹を抱きしめながら、きつくきつく歯を食いしばっている。兄と言ったって、外見からして歳はせいぜい一つや二つしか違わないはずだ。そんな小さな男の子が、妹を怖がらせないために泣くのを必死にこらえている。自分だって、本当なら今すぐ泣き喚いて巫女の体にしがみつきたいぐらいに怖いだろうに。

(健気なもんだ。強い子だね)

 怖がって逃げてばかりの誰かさんとは大違いだ、と心の中で自嘲の笑みを浮かべながら、妹紅はそっと囁いた。

「安心していいよ」

 男の子がびくりと体を震わせて、こちらを見上げてくる。どうか自分の表情が自信にあふれたものとなっていますように、と祈りながら、妹紅は笑って男の子の頭を撫でてやった。

「あんたたちにはね、あんな蛇なんかものともしない、強い強い英雄がついてるんだ」
「え、英雄?」
「そう。そいつはね、あんたたちを守るためなら、どれだけ傷つこうと何度でも立ち上がる。その名も」

 妹紅はゆっくりと立ち上がって少し歩き、兄妹に背中を見せながら、静かに刀を引き抜いた。肩越しに振り返りながら、穏やかな声で名乗りを上げる。

「不死身の英雄、死なない太郎さん、さ」

 男の子が、ぽかんと口を開けてまじまじとこちらを見つめ始めた。その腕の中では、彼の妹が今も去らぬ恐怖におびえて、ひっきりなしに泣き喚いている。

「さて坊主、死なない太郎さんと約束しようか」
「や、約束?」
「そう。わたしは今からあの蛇や、あの蛇を操ってる奴を一人残らずやっつけてくる」
「む、無理だよそんなの!」
「無理じゃないさ、必ずやっつけてやる。でもね、その間、ここに残ってる男はあんた一人だけだ。あんたの妹を守ってやれる奴は、あんたしかいない」

 男の子がはっとした表情で妹を見た。ぎゅっと唇を引き結んでその小さな体を抱きしめながら、また強い瞳で妹紅を見返してくる。その視線を受け止めて、不死身の英雄は一つ、大きく頷いた。

「わたしが戻ってくるまで、泣かずにその子を守ってやるんだよ。死なない太郎さんとの、約束だ」
「うん!」
「よし、いい返事だ」

 にっと笑って、妹紅は歩き出した。必死に結界を維持している二人の巫女の横に立つ。

「そういうわけで、お二人さん。わたしが出る瞬間を見計らって、一瞬だけ結界を解除してくれる?」
「分かりました」
「いいけど」

 霊夢がおかしそうに笑う。

「なんだ、あんたの方がずっとノリノリじゃないの。どういう風の吹きまわし?」
「別に、大したことじゃないよ。ただね、子供が怖がってるのは良くないと思う。うん、凄く良くない」
「お優しいことで」

 霊夢がからかうように笑う。その横で一瞬笑った早苗が、緊張した面持ちで言った。

「では、次にあの蛇が頭を引っ込めたタイミングで、結界を解除します。霊夢さん、よろしいですか?」
「いつでもどうぞ」
「それでは……今です、死なない太郎さん!」

 何十度目かの体当たりを敢行した蛇の体が、またも大きく弾かれる。その隙を突いて、二人の巫女が木の洞を覆っていた結界を解除した。機を誤らず、妹紅は強く地を蹴った。森の中の道なき道を駆け抜け、再度体当たりをしようとしている蛇の眼前に躍り出る。

「待て、大蛇よ!」
「ううん? なんだ、お前は」

 瞳に怒りを敵意を漲らせる蛇に向って、妹紅は高々とえくすかりばぁを掲げ上げた。

「わたしは不死身の死なない太郎! さあ、いざ尋常に勝負しろ、鬼の眷族め!」

 蛇はしゅるしゅると舌を蠢かせながら、野太い笑い声を夜空に響かせる。

「グハハハハ、笑わせてくれるわチビ助め、わたしの目の前に出てきたことを後悔しながら、潰れて死ぬがいい!」

 蛇が巨大な鎌首をもたげ、鞭のように振り下ろす。妹紅は即座に飛びのいて、破壊の槌の如き一撃を避けた。森の木々がへし折られ、周囲に濛々と土煙が立ち込める。その中を駆け抜けて、妹紅は蛇の体に飛び乗った。鱗が不気味に光る蛇の背を駆け上がり、一直線に頭を目指す。

「ど、どこへ行った!?」
「ここだ、愚図め!」

 叫びながら飛びあがった妹紅は、蛇の頭部に向けてえくすかりばぁを思い切り振り下ろした。このお伽噺の中では間違いなく最強の名に値する聖なる刃が、邪悪な蛇の頭を強く打ち据える。暴風のような恐ろしい悲鳴を上げて、巨大な蛇は大量の木々をなぎ倒しながら地に倒れた。

「どうだ、見たか」

 軽やかに地に降り立ちながら勝ち誇る死なない太郎に向って、甲高い哄笑が降り注いだ。

「その程度でいい気になってもらっては困るな、死なない太郎!」
「誰だ!?」

 振り返った先、暗い森の奥から、小さな女の子が歩み出てくる。禍々しい光を放つ赤い瞳と、小柄な体には不釣り合いに大きい蝙蝠のような翼が印象的な吸血鬼。妹紅にとっても、見覚えのある相手だ。

「確か、レミリア・スカーレットだったか」
「ふふ、英雄殿に名を知られているとは、ずいぶんと光栄なことじゃあないか」

 レミリアは不敵に笑ってみせる。彼女もまた、以前とはずいぶん趣が違う格好をしている。全身のラインを浮き上がらせるような、ぴっちりとした黒い服に身を包んでいるのだ。果たしてそれを服と呼んでいいものなのか、妹紅にはよく分からない。やけに光沢のある、見慣れない素材で作られているのである。幼いレミリアが着ていても、なんとなく淫靡な感じのする妙な服だ。

「ククク……ちなみにこの衣装は香霖堂から仕入れた特注品だ。なんでも外の世界での悪の組織の正式衣装で、ボンテージスーツとかいうらしいぞ」
「はあ。それはなんというか、ご丁寧に解説ありがとう」

 状況に似合わぬ間抜けな会話を終えたあとで、二人は改めて体に緊張を漲らせながら向き合った。

「では、始めようか不死身の英雄殿」
「受けて立とう、悪しき吸血鬼よ」

 妹紅は刀の切っ先を吸血に向ける。にやりと笑ったレミリアが、あいさつ代わりとばかりに数発の光弾を飛ばしてきた。妹紅はひらりと身をかわし、レミリアと向き合ったまま夜の森を駆け始める。

(……この状況でも、やっぱり飛ぶのはダメなんだろうな)

 はたして自分本来の力をどれだけ使っていいものか、妹紅は判断に迷った。そして、そんなことを考えている自分に苦笑する。

(いつの間にやら、すっかり引きずり込まれちゃってまあ)

 やはり自分は流されやすい性格のようだ、と改めて自覚する。同時に、自分がこの状況を心底楽しんでいることもまた。

「どうした死なない太郎、逃げ回ってばかりではわたしを倒すことはできんぞ!」

 後ろから迫るレミリアが、哄笑を上げながら弾をばら撒く。彼女もまた飛んではいない。やはりそういうルールなのだろう。案外律儀なもんだなあ、と妹紅は少し感心する。
 同時に、レミリアが放つ弾幕は、色合いこそ派手だが以前見たものよりもずっと隙間が広いことに気がついた。これなら空を飛べなかろうが術を使うまいが、避けることはそれほど難しくない。

(なるほど。物語の主人公に花を持たせてくれるってわけだ)

 案外空気の読める奴だな、と思いながら、接近の機会を窺う。だがレミリアは絶えず弾を撃ってくるので、避けるならともかく近づくのは難しかった。
 そうして逃げ回っている内に、二人はいつの間にか森を一周してあの大木の前に戻ってきていた。大蛇という脅威がいなくなったためか、霊夢たちも木の外へ出てきている。あの兄妹もいた。妹の方も今は泣き止んで、兄と共に固唾を飲んで状況を見守っている。

「ふふふ……どうやらここまでのようだな、死なない太郎」

 レミリアが自信たっぷりにそう宣言した。ここまで、と言われても、妹紅は別段傷ついてなどいない。おそらく、さっきの科白は台本通りなのだろう。

(つまりここで決着がつくってわけだ)

 つけなければいけない、とも言う。闇の向こうで光るレミリアの赤い瞳が、彼女の意思を伝えてきた。
 台本ではお前が勝つことになっているが、わたしは間抜けに勝ちを譲ってやるつもりはないぞ、と。

「さあ、これで終わりだ、死なない太郎!」

 レミリアが両手を振り上げる。その手の平から光が迸り始めた。血のように紅い、禍々しい光。弾幕を展開する予備動作なのだろう。

(わたしの考え通りなら……)

 妹紅は先ほどまでの攻防を思い出しながら地を蹴る。どういう形の弾幕が来るのかは、ある程度予測がついていた。今夜レミリアが展開していた弾幕は、いくつかのパターンの繰り返しだったのだ。要するに、直前の弾幕がどれだったかを覚えておきさえすれば、次に来る弾幕の形がどれかも予測できるというわけである。
 果たして、次の瞬間レミリアが振り下ろした手から放たれた弾幕は、妹紅が予測した通りの形をしていた。大玉小玉にレーザーに楔形、弾の数こそ膨大だが隙間が多い弾幕である。どこを潜り抜ければレミリアの下に辿りつけるのかは、先ほどの攻防の中ですでに見抜いていた。

(……逆に言えば、わたしに弾幕の形を覚えさせるために、わざわざ森を一周させたってわけだ)

 弾幕を潜り抜けながら、妹紅は笑う。

(こうしてあの大木の前まで戻って来たのも、多分この吸血鬼の計算通り、かな)

 いちいち粋で面倒なことをする奴らだ、と心の中で呆れながら、妹紅は目の前の大玉を避けて高々と跳躍する。その向こう側にいたレミリア・スカーレットが、こちらを見上げてにやりと笑ったのが見えた。
 あの兄妹の目に、悪を打ち倒す英雄の姿が少しでも強く色鮮やかに焼きつくようにと願いつつ、妹紅は大きく刀を振り上げる。
 こうして、悪鬼伊吹萃香の盟友レミリア・スカーレットは、死なない太郎の正義の刃の下に打ち倒されたのであった。



 レミリアを退治した妹紅が大木の前に戻ると、まず早苗が笑顔で声をかけてきた。

「お疲れ様です、死なない太郎さん」
「ありがと」

 軽く手を上げて答えてから、あの兄妹のそばに歩み寄る。泣いていた妹も今は泣き止み、兄ともどもどこか呆けたような顔で妹紅を見上げていた。二人のそばにしゃがみ込み、兄の顔に涙の跡がないことを確認した妹紅は、にっと笑って手を伸ばした。

「泣かなかったみたいだね。よく妹を守った。偉いぞ、お兄ちゃん」

 男の子の頭をグシャグシャと撫でながらそう言ってやる。しばらくぽかんとしていたが、やがてその目に涙がせり上がってきて、最後にはワッと泣き出してしまった。傍らの妹が、びっくりしたように目をぱちくりさせる。妹紅は苦笑した。

(ずっと泣くのを我慢してたんだね。まあ、仕方がないか)

 泣きじゃくる男の子の頭を撫でながら、妹紅は顔を上げて霊夢たちを見る。

「この子たちは、あんたらが送ってってくれるの?」
「そうよ。ま、あんたは安心して鬼退治に行ってきなさいよ。あー、それにしても疲れた」

 霊夢が息をつきながら、首を捻って骨を鳴らす。さっきまでは一応清楚な巫女役の演技をしていたとは思えない、実に砕けた動作だ。ふと見ると、子供たちもびっくりしたように目を丸くして霊夢を見つめている。これはいかんな、と、妹紅は小声で霊夢に呼びかけた。

「ちょっと、霊夢」
「んあ、なに?」
「んあ、じゃないよ。いきなりそんな態度変えたら子供たちがびっくりするじゃない。終わるまではちゃんと演技してよね」
「注文細かいわねあんたも。まあいいけど。それじゃあ」

 と、霊夢は一度目を閉じて、開いた。たちまち、気だるげな巫女さんが清楚な巫女さんに変身した。憂いを帯びた表情と、真っ直ぐに背筋を伸ばした立ち姿が実に儚げだ。一瞬で、身にまとう雰囲気まで変えて見せたのである。

「練習もなしにあそこまで……わたしなんて徹夜までしたのに。この人は本当にもう」

 早苗がぶつぶつと呟いている。
 さて、その清楚な巫女さん博麗霊夢が、胸の前で手を組み、瞳を潤ませながら静々と妹紅の前に歩み寄った。

「ああ死なない太郎様、よくぞご無事でお戻りくださいました。私、あなた様がお怪我をなさらないかと心配でたまらず」
「ごめんやっぱ止めて、こみ上げる嘔吐感に任せて燃やしたくなってきた」
「なによ、わがままな奴ね」

 腰に両手をあてて、霊夢が不満げに言う。しかし自分は間違っていない、人として真っ当な感覚を持っている、と妹紅は自信を持って思う。
 そのとき、小さな兄妹が怯えたように妹紅にしがみついてきた。コロコロと態度が変わる霊夢を見て怖くなったのだろう。安心させるために、微笑んで言ってやる。

「大丈夫だよ、このお姉ちゃんは相当変な奴だけど、一応人間だから」
「そうそう、一応人間よわたし」
「いや、そこは怒るなり反論するなりしなよ」

 相変わらず妙なノリだな、と妹紅は苦笑する。

「そういや、あんたもずいぶんノリノリだったよね。こういうの、面倒くさがりそうなのに」
「んー? まあ、面倒くさいのは面倒くさかったけどね」
「じゃあなんで参加したの?」
「決まってんじゃない」

 霊夢はにんまりと笑って、何かを傾けるような仕草をしてみせる。

「この後、祝勝会ってことで宴会やるんだって。そこでただ酒好きなだけ飲めるっていうから」
「俗っぽい神職だなオイ」
「いいじゃないの。お茶と酒に勝る幸せはこの世にないわ。特に頑張った後の一杯はまた格別だからねえ」
「極端な価値観ね」
「まあそういうわけだから、さっさと萃香ぶっ倒して戻ってきなさいね、あんた。負けたら殴るわよ」
「そんな勝手な」

 苦笑しかけたとき、妹紅は頭の隅に妙な引っ掛かりを覚えて眉をひそめた。霊夢が不思議そうに首を傾げる。

「どしたの?」
「ああいや、なんでもないよ。じゃ、子供たちのこと、よろしく頼むね」
「はいはい。あんたもしつこいわね」
「その辺にほっぽり出して帰りそうで怖いんだよ、あんたの場合」
「ふむ……その方が面倒がなくていいかも」
「燃やすよ?」
「冗談だって。じゃ、頑張ってね」

 全然気持ちの篭っていないおざなりな励ましを残し、霊夢がぴらぴらと手を振って去る。早苗も礼儀正しくお辞儀をし、子供たちの手を引いて歩き出した。去り際、子供たちは何度も何度も何かを言いたげにこちらを振り返っていた。

「さて、と」

 一人残された妹紅は、しばらく経ってからおもむろに木々の方に目を向けた。そこには月明かりも届かぬ深い闇がわだかまっているだけで、一見何もないように見える、が。

「そろそろ出てきても大丈夫だと思うよ」

 口に手を添えて呼びかけてやると、突然木々がざわざわと揺れ出した。いや、木々だけではない。見えている風景自体が、ぐにゃぐにゃと混ぜ捏ねられた粘土のように歪みだした。
 そうして数秒ほどもすると、目の前から森そのものが姿を消してしまった。代わりに広がっているのは街道脇のだだっ広い平原。妹紅の目の前には、数人の人影が立っている。

「凄いもんだ。あれは全部幻だったってことか」
「ふふん、吃驚したでしょう」

 一団の先頭に立っていたレミリアが自慢げに胸を張る。

「咲夜の空間を操る程度の能力とパチェの魔法を組み合わせて、質感のある幻影を作り出していたのよ。こんなごっこ遊びの舞台としてはちょっとばかし豪華すぎたかしら」

 レミリアの口調は隠しようもないぐらいに得意げである。誇らしげなその顔を見ていると、「それあんたなにもやってないじゃん」と指摘するのは無粋だろうと思えてくる。妹紅はとりあえず黙っておいた。
 幼げな吸血鬼の傍らには、微笑を浮かべたメイドと無表情に本を手繰る少女が立っている。後者は「無理矢理連れ出されました」とでも言いたげな不満たらたらの空気を放っているが、その割に腕には「演出係」の腕章をつけていて、やる気があるのかないのかどうも判別がつかない。

「まあ、凄かったのは認めるよ。さっきまで偽物だって気付かなかったし」

 妹紅が素直に称賛すると、レミリアはますます大きく胸をそらした。

「ふふ、そうでしょうそうでしょう。わたしたちでなければ、あれだけの」

 と、そこまで言いかけたレミリアが、不意に顔をしかめて肩を押さえた。そこは、先ほど妹紅がえくすかりばぁでぶっ叩いた場所である。

「どうしたの」
「べ、別に、なんでもないわ」

 声だけは平気そうだが、表情はとても苦しげで、額には脂汗が滲んでいる。どう見ても痛いのを我慢している風だ。

(そこまで強く叩いたかな?)

 仮に力が入り過ぎていたとしても、レミリアだって吸血鬼なのだし、ここまで痛がるのは妙である。妹紅が困惑していると、相変わらず肩を押さえたままのレミリアが、忌々しげに吐き捨てた。

「あのババァ、いつか殺す」
「え、なに?」
「い、いいえ、なんでもないわ。それよりも」

 と、レミリアが少々無理して余裕ぶった笑みを浮かべてみせた。

「あなた、名目上とはいえ一応このわたしに勝ったのだから、あんな小鬼に負けたら許さないわよ」

 尊大な口調でそう言われて、妹紅は少し苦笑する。

「うん、いやまあ、それはないと思うけど」
「ふうん。ずいぶん自信たっぷりね」
「そういうわけじゃ、ないんだけどね」

 どう言ったものか分からずに、妹紅はぽりぽりと頬を掻く。レミリアが眉をひそめたのを見て、慌てて取り繕った。

「勝つと言えば、あんたはよく自分が負けるなんて筋書きのお芝居に乗る気になったもんだね」

 前に竹林で一度遭遇したきりではあったが、そのとき交わした短い会話から考えても、このお嬢様は相当にプライドの高い吸血鬼だったはずである。だから妹紅には不思議でならなかったのだが、レミリアはあくまでも余裕に満ちた笑みを浮かべてみせる。

「何事においても、誰よりも華麗に、優雅に事を成してみせるのが真の強者というものでしょう? そもそも真にプライドが高い者は、お芝居の中での勝ち負けなど気にしないものよ」

 高慢に顎を上げたレミリアの紅い瞳が、ぎらりと妖しく輝く。見かけだけならば王者の風格すら感じ取れる表情だったが、妹紅には「ああ、そういう台詞で乗せられたのか」としか思えなかった。なにせ、レミリアの背後にいる魔法使い殿が呆れたように溜息をついていたので。

(どうせまたあのババァだろうなあ。なんでこんなしょうもないことに全力注いでるんだか)

 ノリノリで演技していた八雲紫の顔を思い出し、妹紅はげんなりして肩を落とす。
 そのとき、突然誰かに後ろから頭を押さえつけられた。急襲か、と思いきや、そのままグシャグシャと乱暴に撫で回されて、

「いや、天晴れ!」

 実に上機嫌な女の声が、妹紅の頭の上で響いた。慌ててその手を振り解き、前方に跳びながら振り返る。するとそこに、注連縄を背負った妙な格好の女が立っていた。普通に見ればどういう趣味だ、と呆れるしかないが、その女の全身から何か神々しい気配が放たれていることに気づいてしまって、妹紅は我知らず唾を飲み込んでいた。
 そんな妹紅の緊張感になど気づく素振りも見せず、注連縄の女がからからと陽気に笑う。

「お伽噺の主役に抜擢されるだけのことはある。実に華麗な立ち振る舞い、堪能させてもらいましたよ、死なない太郎」

 尊大な褒め言葉だったが、反発心はあまり湧かなかった。声をかけられたのが不意打ちだったせいもあって、女が身に纏う人とは一線を画する気配に飲み込まれそうになっていたのである。

(まあ確かに、人ではなさそうだけど)

 女を観察しながら、妹紅は「どうも」と呟いて、小さく頭を下げる。注連縄の女が目を細めて面白そうに笑った。

「ふうん。幻想郷の住人にしては珍しく、礼儀ってものが少しは分かってるみたいね。ま、それはそれとして」

 女はぴらぴらと手を振った。

「そんなにかしこまらなくてもいいわ。楽にしなさいな」
「はあ」

 女が先ほどまでとは打って変わって砕けた態度を取り始めたので、妹紅は少々困惑する。そんな彼女に向かって、注連縄の女は簡単に自己紹介した。
 それによると、彼女の名前は八坂神奈子と言って、妖怪の山の山頂の神社に祀られている山の神様らしい。さっき出てきた大蛇は、演出のために彼女が変化した姿だったのだそうだ。先ほど霊夢と一緒にいた早苗という巫女は、彼女に仕える風祝というものなのだとか。

「神様って」

 妹紅は唖然としてしまった。ずっと竹林に篭っていたから、幻想郷の神様には出会ったことがなかった。一応、割と親しみやすい性質の者が多いと聞いてはいたが。

(だからって、こんな気楽に出てきてもいいもんなのかな)

 そんな彼女の疑問を見抜いたのか、神奈子は大らかに笑ってみせる。

「いいのいいの、細かいことは気にしなくても。祭りは素直な気持ちで楽しむものよ」
「はあ」

 どうにも釈然としない妹紅の前で、神奈子は呆れたように溜息をつく。

「なんだかねえ。さっきまでとは打って変わってノリが悪いわね」
「いや、さっきのは」

 言い訳しかけた妹紅の横を素通りし、「ほら、見なさいこの子なんか」と、神奈子はレミリアを抱きあげる。何か、寂しげな表情で誰もいない自分の隣を見つめていたレミリアは、何の抵抗もできずに抱きあげられてしまう。吃驚して目を見開いているレミリアを、神奈子が愛おしげな笑みを浮かべて見つめた。

「張り切ってこんな気合いの入った衣装まで用意しちゃって、可愛いもんじゃないの」
「なっ」

 目を見開いて絶句するレミリアに、神奈子は笑顔で頬を摺り寄せる。

「ああもう、可愛いねえホント。早苗も昔はこんな風に無邪気だったのに、最近はちょっとお固くなりすぎちゃって。風祝としてはあれでいいんだけど、おしめつけてた頃からあの子の成長を見守ってきた立場からするとちょっと複雑な心境というか」

 悩ましげに思い出話を始めた神様の腕の中で、レミリアが顔を真っ赤にして暴れ出した。

「離せババァッ! 誰に向かってそんな口を利いてる!?」
「あらまあ反抗期? こういうのも可愛いねえ。早苗は昔からいい子で反抗期なんかなかったから、ちょっと物足りなかったのよ。一度でいいから『神奈子様なんか嫌いだもん!』とか、頬をぷくーっと膨らませながら言ってほしかったっていうか」
「わたしをダシにして惚気話をするな! 大体わたしはお前の巫女よりずっと年上だ!」
「つまり背伸びしたいお年頃ってことね。可愛いねえ、早苗も最近は無理して気を張ってるみたいだから、もうちょっと肩の力を抜いてほしいと」
「いい加減にしろぉぉぉぉぉぉっ!」

 レミリアの肘が凄まじい勢いで神奈子の頬にめり込んだ。さすがの神様もこれには平然としていられなかったようで、体が傾ぎ腕の力が緩む。その隙に脱出したレミリアは、顔を真っ赤にして肩を怒らせながら、自分の従者たちに向かって叫ぶ。

「咲夜、パチェ! 手を貸しなさい! あのババァの注連縄剥ぎとって紅魔館の門前に晒してやる!」
「趣味が悪いと思うわ」

 本のページを捲りながら、魔法使いが興味なさげに言う。メイドの方は「分かりました、お嬢様」と瀟洒にお辞儀を一つして、両手一杯にナイフを持ちながら神様に向かっていく。さっきまで暴れるお嬢様見ながらうっとりしてたのに切り替え早いなあ、と妹紅はちょっと感心した。
 一方神奈子は、頬を赤く腫らしながらもさして怒った様子は見せず、むしろ楽しげに、豪快に笑っていた。

「いいわねえ、子供は元気が一番! さ、遊んであげるからかかってらっしゃい」
「ナメんなクソババァ――ッ!」

 レミリアが咆哮と共に無数の赤い弾をばらまく。神奈子がどこからともなく降り注いできた柱でそれを受け止め、規格外の勝負が始まった。

「付き合いきれないわね」

 ある程度離れた場所に退避しながら、やれやれ、と妹紅は首を振る。

「あれー、貴方は混じらないのー?」

 急に声が聞こえたので、妹紅はぎょっとして右を見る。金色の髪の上に、目玉のような飾りがついた奇妙な帽子を被っている、小柄な女の子がしゃがんでいた。彼女は楽しそうに、目の前の物騒な遊びを眺めている。

「いいねえ、祭りってのはこうでなくちゃ。次はわたしが遊んでもらおうかなー」
「って、あんた誰よ? 攫われた子供の一人ってわけじゃなさそうだけど」
「む、失礼な子ね」

 少女は立ち上がって得意げに胸を張った。

「わたしが噂のケロちゃんです!」
「なんの噂よ」
「あーうー。要するに神様ってことなんだけどね」
「どこをどう要したんだかさっぱり分からない」
「ともかく」

 その神様は洩矢諏訪子と名乗った。八坂神奈子と同じく、守矢神社とやらに祀られている神様なのだとか。

「今日は祭りと聞いて飛んできました」

 びしっ、と何故か外の軍隊のような敬礼を決めてみせる。神奈子と違ってこちらからはは神々しい雰囲気も威厳も全く感じられなかった。

「で、貴方は混じらないの?」
「混じらないよ。今はそんな暇ないし」

 そう断りつつ、妹紅はちらりとレミリアたちの方を眺めやる。紅魔館の主従コンビも山の神も、声を張り上げ腕を振り上げ、実に楽しそうに戦っている。その傍らでは華奢な魔法使い殿が、我関せずと本を読みつつ、たまにちらちらと戦いの模様を観察していたりして。

(よくもまあ、ああも考えなしに騒げるもんだ)

 しばしの間忘れていた憂鬱な気分がぶり返してきて、妹紅は自然と顔をしかめていた。寿命の短い人間を従者にしているレミリアの感覚も、今まで何人もいたであろう巫女の内の一人に過ぎない早苗に愛情を注いでいる神奈子の感覚も、今の妹紅には理解しがたい、いや、したくないものであった。

「ふうん。なんか、怖がってるのね」

 見透かすように言われて、妹紅はびくりと身を震わせる。声の方を睨むと、諏訪子が肩を竦めてみせた。

「怒らない怒らない。短気は損気ってね。まあ細かいことは忘れて、貴方も混じりなさいよ」
「いらないったら。暇がないって言ってんでしょ」
「へえ。むしろ、暇はありすぎる類の人に見えるけどねえ」

 どこかからかうような諏訪子の笑みに、妹紅は黙って背を向けた。歩き出すと、背後から声が追いかけてくる。

「まあいろいろあるんだろうけどね。自分の気持ちに嘘をついちゃあ楽しいものも楽しくなくなっちゃうよ」

 うるさいな、と心の中で怒鳴り返しながら、妹紅は早足にその場を後にした。



 鬼退治、と言われて真っ先に思い浮かぶのは、ずうっと昔に仲良くなった、ある少女のことだった。
 蓬莱の薬を飲んで以来、年を取ることも死ぬこともできなくなくなった妹紅は、住んでいた屋敷からも追い出されて、たった一人で彷徨わなくてはならなくなった。
 いかに死なない体とは言え、痛みや空腹は常人のそれと同じように襲いかかってくる。温室育ちだったために日々の糧を自分で得ることも出来ない妹紅は、いつも空きっ腹を抱え、夜の寒さと孤独に震えながら終わらぬ苦痛の日々を過ごしていた。
 そんな日々に転機が訪れたのは、ある山の中でのことだった。いつものように木の根元に蹲り、これなら大丈夫だろうと思って食ったキノコのせいでビチャビチャと胃液を撒き散らしていた妹紅のそばに、小さな人影が歩み寄ってきたのである。

 ――うち、来る?

 そう声をかけてくれたのが、あの少女だった。
 彼女は山の中で、年老いた祖父と二人きりで暮らしていた。治安がいいとは決して言えないあの時代、何故妹紅のような浮浪者を拾う気になったのかは分からない。多分、少女も寂しい気持ちを抱えていて、祖父以外の話し相手が欲しかったのだろう。
 出会った当時、少女は妹紅の外見年齢よりもかなり幼く、妹紅のことを「もこ姉」と呼んでずいぶん慕ってくれた。祖父の方も寡黙でほとんど喋らなかったが、妹紅に生きる術をあれこれと教え、孫娘に対するものと変わらぬ愛情を注いでくれた、ように思う。
 そうして一年が過ぎ、五年が過ぎ、十年が過ぎ……少女の方はどんどん年相応に成長していったが、妹紅の方は出会ったころと変わらぬ外見のままであった。自分を見る少女の瞳に、不信感と疑念が時折顔を覗かせるようになったことに、妹紅は当然気がついていた。気がついてはいたが、どうしても事情を打ち明ける気にはなれなかった。いつか話せばいいさ、と思いながら、少女が面と向かってその質問を投げかけてくる日に怯えながら生きていた。
 あるとき、そんな日々に突然終わりが訪れた。少し前から山に出没し、周辺の人家を襲うようになった鬼が、妹紅たちの暮らす家にも現れたのである。少女の祖父は無残に打ち殺され、少女自身もまた鬼に攫われてしまった。全て、妹紅の留守中の出来事である。
 妹紅は怒りに震え、無我夢中で鬼を追った。彼奴が住処にしていた洞窟に踏み込んだとき、鬼はまさに少女を喰らう寸前であった。妹紅は獣のように唸りながら鬼に飛びかかり、吹っ飛ばされて洞窟の壁に叩きつけられたり、殴られて頭を粉砕されたりしながら、何度でも再生して鬼に立ち向かっていった。いかに山で生きる術を叩きこまれていたとはいえ、その当時の妹紅は妖術の扱い方など知らないただの小娘である。立ち向かうといっても、ただただひたすら無力な拳や足を振るうしかなかった。それでも痛みなど忘れて、死に物狂いで相手に向かっていった。鬼も最初は鬱陶しそうにしていたが、妹紅が何度殺しても立ち向かって来るのを見て、次第に楽しそうに拳を振り回し始めた。
 そうして朝日が昇る頃になって、鬼が唐突に高笑いを上げた。

 ――面白い奴がいたものだ! 仲間にお前のことを話して聞かせねばならぬから、この山からは手を引くことにしよう。次はお主が戦う術を身につけたときに相まみえたいものだな、鬼殺しの英雄殿よ!

 萃香の話を聞いた今になって思えば、彼奴は鬼なりに妹紅の強さを認めて引き下がったのだろう。人間の側からすると迷惑では済まされない、非常に傲慢で自分勝手な理屈ではあるが。
 ともかくも、妹紅は鬼を追い払うことに成功した。老爺は殺されてしまったが、幸い少女の方は助けることが出来たのだ。そのことを喜びながら洞窟に取って返し、もう大丈夫だよ、と声をかけながら手を差し出すと、少女は必死に後退って妹紅から逃げ、恐怖に顔を歪めながら叫んだのだ。

 ――化け物!

 それから先のことはよく覚えていない。ただ、自分の足下から世界が崩壊してしまったかのような非常な衝撃を受けて、何もかも振り捨ててただただ逃げたことだけは、強く記憶に残っている。



(ありふれた話、だな)

 レミリアたちの喧嘩の音を遠くに聞きながら、妹紅は道の真ん中で小さくため息をつく。
 確かに、ありふれた話である。人ならぬ者が化け物と呼ばれて傷つくなど、物語ならば陳腐以外の何物でもない。だがそんな陳腐な出来事が、抜けない刃となって妹紅の心に深く深く突き刺さっているのである。それは、愛しい人との別れの記憶と共に、今でも時折蘇っては妹紅の胸をぎりぎりと締め付けてくれる。

(全く、理解できない)

 どうして皆、ああも容易く他者に近づけるのだろう。他者に愛情を注げるのだろう。
 レミリアも、神奈子も、紫も、萃香も。そして、輝夜も。
 いつか別れを経て自分の心を深く傷つけるであろう相手と、あんな風に気楽に交われるのは、一体何故なのか。あの体をバラバラに切り刻まれるような苦しみを、知らぬわけでもあるまいに。
 胸が苦しくなって息を吐き出しながら、妹紅はふと夜空を見上げる。月は今や中天にあり、このお伽話が始まってから相当の時間が過ぎたことを教えてくれる。アリスが教えてくれた山場は先ほど通過した。
 あとはあの日のように鬼の待つ洞窟に赴き、あの日のように子供を救わんとこの手を振るうだけだ。
 足が鈍る。

(帰ってしまおうか)

 このお伽噺の途中で何度も何度も脳裏を過ぎった思いつきが、また蘇ってきた。
 そうしてしまっても、何の問題もないはずだった。妹紅が助けに行かなくたって、あの日のように子供たちが萃香に食われてしまう、ということはないだろう。ただ皆が「あいつノリ悪いなあ」だのと妹紅に文句を言って、それでお終いだ。本当に、何の問題もない。妹紅は明日からも人と関わるのを避け、しかし完全には繋がりを断ち切れないまま、そんな自分に悶々として生きていくだろう。幻想郷は相変わらず平和で、何も変わりはしない。
 だというのに、足取りを鈍らせながらも少しずつ前に向かって歩いているのは、一体何故なのか。

「死なない太郎さん」

 後ろから声をかけられて、妹紅は驚きながら振り返る。暗い夜の道の真ん中に、さっき助けた幼い兄妹が立っていた。

「あんたたち、どうして」
「我がまま言われちゃってね」

 見ると、幼い兄妹の背後に二人の巫女が立っていた。

「あんたにお礼を言わない内は里には帰らない、なんて駄々こねるもんだから」
「追いつけてよかったです」

 霊夢が肩を竦め、早苗が微笑みを浮かべる。
 戸惑う妹紅の足元に、小さな兄妹が駆け寄ってきて、一生懸命言った。

「助けてくれてありがとう、死なない太郎さん」
「セッちゃんとミーちゃんとカッちゃんとタロちゃんも……んと、みんな、助けてあげてね」

 四つの無垢な瞳が、混じり気なしの純粋な願いとともに、鬼退治の英雄を見上げている。
 妹紅は一度目を閉じ、長く長く息を吐いて、また目を開いた。
 自然と顔に微笑みを浮かぶ。両手を伸ばして、兄妹の頭を優しく撫でた。

「ああ、任せておいてよ。あんたたちの友達は、みーんなこのわたしが助けてあげるよ」

 力強くそう請け負うと、兄妹の顔がぱっと輝いた。宵闇の中で眩しさを感じ、妹紅は少し目を細める。

「ね、ね」

 ふと、小さな妹が、不思議そうに目を丸くした。

「お姉ちゃんは女の子なのに、どうして太郎なの?」

 妹紅は微笑み、兄妹に背を向ける。肩越しに振り返って、言った。

「決まってんでしょ。鬼退治の英雄は、みんな太郎でなくちゃならないのさ」

 今はそれでいい、と妹紅は思う。鬼退治の英雄はみんな太郎で、今の自分は死なない太郎なのだ。だから悪い鬼をやっつけて、子供たちを助け出す。ただ、それだけでいい。

(待ってろよ、鬼……!)

 妹紅は地を蹴って走り出す。胸の痛みは今も消えないが、足取りが鈍ることはもうなかった。



 妖怪の山の麓、ごつごつと入り組んだ岩場の陰に、悪鬼伊吹萃香の陣取る洞窟があった。

「来たね、死なない太郎!」

 岩壁にぽっかり開いた洞窟の入口を背に仁王立ちしながら、小さな鬼が大きく唇を吊り上げる。ひそかな月明かりの下、その笑みは凄惨な何かを帯びているように見えた。

「どうやら間に合ったようだな! あと少し遅ければ、子供たちはこのわたしに頭からぱくりと食われていたところだったぞ!」

 萃香の声は子供のそれながらも、過去に何度も同じことを繰り返してきたと思しき揺るぎない迫力があった、が。

「姉ちゃんもふもふー」
「わんわん、わんわん!」
「いや、ダメ、尻尾引っ張っちゃだめぇっ! ああ、み、耳は触らないでぇーっ! そこ弱いのぉーっ! わふぅーっ!」

 という賑やかな声が背後の洞窟から漏れ聞こえてくるものだから、いろいろと台無しであった。

「っていうか、世話役はやっぱり椛なんだ……」
「あいつ以外はどいつもこいつも仮病使って休みやがってねえ。これだから天狗は」
「そう思うんならもうちょっとあの子の負担減らしてやりなよ」
「さすが、優しいねえ死なない太郎。でもダメだ、下っ端はこき使ってナンボだからね」
「この鬼め」
「鬼だよ」

 萃香がにやりと笑い、嬉しそうに手を打ち鳴らした。

「いやー、しかし、よく来てくれたね死なない太郎! 途中で帰っちまうんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「そうするつもりだったんだけどね」

 妹紅がため息をつくと、萃香が面白がるように眉を上げた。

「ほう。じゃあなんでそうしなかったんだい?」
「ねえ」

 答える代わりに、妹紅は問いかける。

「洞窟にいる子供たちの中に、これが単なるお芝居だってことを忘れて、怖がったり泣いたりしてる子はいる?」

 萃香はきょとんとしたあと、小さく首を傾げた。

「さあ、どうだったかね。ああ、一人ぐらいいたかな。まだ上手く喋ることもできないような、ほんのちっちゃな子だけど」
「そう」

 妹紅は小さく息をつき、腰にぶら下げたえくすかりばぁを静かに引き抜いた。

「なら、それが理由で十分だ。さっさとあんたをぶっ倒して、泣いてる子を抱きしめて慰めさせてもらおうか」

 萃香が大きく目を見開き、先ほどよりももっと大きく、嬉しそうに唇を吊り上げた。

「ほう。ほうほう、そうかそうか、そういうことかい!」

 萃香の顔が興奮に赤く染まった。何度も何度も足を踏み鳴らし、気の昂りを隠しきれないようにせわしなく拳を鳴らし、吼えるように叫ぶ。

「いい顔だ、実にいい顔だよ、死なない太郎! それでこそわたしの、わたしたちが待ち望んだ鬼退治の英雄様だ! みんなを萃めてお伽話を作り上げたのは、どうやら正解だったらしいね!」
「この無茶苦茶な筋書きのお伽噺に、何か意味があったっていうの?」
「もちろんさ。一か月前に会ったあんたはただの腑抜けだった。わたしの大嫌いな、嘘つきの臆病者だった。それが今はどうだ、誰よりも強く誰よりも優しい、鬼退治の英雄の顔になってるじゃあないか。それでこそ、この愛と勇気のお伽話を締めくくるのに相応しい!」

 萃香が月夜に向かって大気を震わせんばかりの咆哮を上げた。一瞬、幻想郷そのものが委縮して黙り込んだかのような、絶対的な沈黙が辺りを満たす。その中で、萃香は獰猛な戦士の笑みを浮かべてみせた。

「さて、それじゃあ始めようか、死なない太郎。あんたとわたしの戦いを以って、今宵こそ正しき鬼退治は復活する。鬼は悪逆非道の道を行き、正義の英雄が振るう愛と勇気の刃によって打ち倒される。それこそが我々を結ぶ絆の形、それこそが我々の紡ぐ愛の形。さあ、肉を削り骨を砕き血を撒き散らし……存分に愛し合おう、死なない太郎!」

 本当に気合いが入ってるなあ、と妹紅は心の中で笑う。どれだけ物騒なことを言おうとも、結局はお伽話である。椛やレミリアのときのように、適当なところまで盛り上げて適当なところで勝たせてくれる筋書きになっているのだろう、と、のん気に考えていたら、

「よーっし、行っくぞー」

 微笑ましくすら思える叫び声を残して、唐突に萃香の体がかき消えた。

「へ!?」

 どこへ、と思った瞬間、眼前に拳を振りかぶった萃香の姿が現れる。ぞくりと悪寒を感じて、妹紅は咄嗟に横に飛びのいた。目標を失った萃香が、体ごと妹紅のすぐ横を通過し、握りしめた拳が背後にあった岩に突き刺さる。轟音を上げて、岩が粉微塵になった。
 絶句する妹紅の前で、砂煙が濛々と立ち込める。その向こうから歩み出てきた萃香が、びしっと妹紅を指さした。

「よく避けたな死なない太郎! 次こそひき肉にしてやるぞ!」
「ふざけんなぁぁぁっ!」

 妹紅が怒鳴ると、萃香がきょとんとして目を瞬いた。

「え、ふざけんなって……こんなに真面目にやってるのに?」
「真面目すぎるわ! なによあのふざけた威力!? 当たったら体がぐちゃぐちゃになるっつーの! 殺す気か!?」
「うん」
「うんって!?」
「大丈夫だよ」

 萃香は自信満々に胸を張る。当たりそうになったら寸止めでもしてくれるのか、と思いきや、

「あんた、死なないから!」
「ちっとも大丈夫じゃないよ!?」
「いやー、いいねえ、人間相手に遠慮なく拳を振りぬけるなんて、いつ以来かな! よーし、おっちゃん張り切っちゃうぞー」

 萃香がぐるぐると腕を回す。これ以上張り切るなよ、と心の中で絶叫しながら、妹紅はぎりぎりと歯軋りする。

「子供たちが見てるのよ……!? 目の前で女の体がぐちゃぐちゃって、一生消えないトラウマを植え付けるつもり!?」
「ほっほー、優しいねえ死なない太郎。子供たちの心を気にするんだったら、頑張って避けてみなよっ、と」

 言外に「手加減はしねえぞ」と宣言しつつ、萃香はまたも遠慮なしに向かってきた。次から次へと凄まじい速さで突きだされる拳を、妹紅は右に左に必死に避ける。ここまで来ると拳打という名の弾幕と言ってもいいレベルだ。

「ちょっとちょっと、避けるだけじゃなくて反撃してよー」
「反撃ったって」

 必死に避けながらも、妹紅は隙を見つけて刀を振るう。しかし当たったと思った端から萃香の体が霧状になって、刃は空しく空を切る。

「はい残念、外れ―」
「それは卑怯じゃないの!?」
「自分の持てる能力を駆使して戦うのは当然のことじゃないか。あんたも炎使っていいよ」
「使っていいよって言ったって」

 激戦の最中に、妹紅はチラリと洞窟の方を見る。戦闘が始まったことに気がついたのか、子供たちが興味津々に顔を出して、こちらを見つめていた。「危ないから顔出しちゃダメーッ!」と、椛が必死に子供たちを押し止めている声が聞こえてくる。

(この距離で炎を使って、万一子供たちを巻きこんじゃったら……)

 そう思うと、とても妖術を使う気にはなれない。だががむしゃらに刀を振り回しても萃香には容易く避けられてしまう。結局、妹紅はただ萃香の拳を避けるだけで精一杯だった。

「むー。面白くないなあ」

 不意に、萃香が拳を止めて唇を尖らせた。

「避けてばっかりじゃあ、いつまで経っても戦いが終わらないじゃないか。もっと全力でかかってきなよ、全力で」
「十分必死だっての」

 息を切らしながら妹紅が言うと、萃香が「嘘つけ」と指を突き付けてきた。

「そんなバッタみたいな戦い方は全然あんたらしくないね。死なない太郎だったら死を恐れずにガンガン向かってくるべきだ」
「なんで敵に戦い方を指南されなきゃいけないんだか」

 文句を言いつつも、痛いところを突かれたな、と妹紅は思う。
 実際、妹紅はまだ余力を残している。いや、余力を残しているというよりは、本当に全身全霊を賭けて戦ってはいない、というべきか。少なくとも、不死人の再生能力を活かして萃香の拳を恐れずに踏み込んでいけば、もう少しマシな勝負ができるような気はするのだ。
 しかし、出来ない。心の中に恐れがある。もしも子供たちの見ている前でこの体を打ち砕かれでもしたら、

 ――化け物!

 またあの言葉が胸を締め付け、妹紅は戦いの最中だということも忘れてぎゅっと目を閉じる。

「ふうん、なるほどね」

 萃香が得心したような呟きを漏らす。目を開けると、小さな鬼が一つ頷いていた。

「まだ、あんたの動きを鈍らせるような何かがあるわけだ。ああ、別に話してくれなくてもいいよ。多分わたしにゃどうにもならないことだろうしね。だから、さ」

 にやり、と笑う。いやらしい笑みだった。

「一つ、脅しをかけさせてもらおう。ねえ死なない太郎、あんたがさっさとわたしを倒さなけりゃ、子供たちが大変なことになるよ」
「大変なことって」

 まさか、と妹紅は息を詰まらせる。

「子供たちを、食べるつもり!?」
「いやいや。んなことしたらまず紫にブチ殺されるよ。強い人間と正々堂々戦って死ぬならともかく、あんなインチキババァにやられるのは勘弁願いたいね。大体、あの子らの身の安全は鬼の名誉に賭けて約束してるんだ。そういう卑劣な真似は絶対にしないよ」
「じゃあ、一体……?」
「あの洞窟、ね」

 萃香が何気なく洞窟の方に目を向ける。

「結界を張って、出入りが出来ないようになってるんだけど」
「つまり、閉じ込めてるってこと?」
「そう。そしてわたしを倒さない限り、結界は絶対に解除できないんだ」
「……じゃあ、わたしがあんたを倒せないと、子供たちが飢え死にする、とか」
「おいしい食事はちゃんと用意するよ。椛が」
「……夜の寒さに凍えて風邪をひいてしまう、とか」
「風雨はちゃんと防ぐし、火を焚いて暖だって取るよ。椛が」
「……寝床が用意されてない、とか」
「暖かい布団を人数分整えたよ。椛が」
「ええと」
「ちなみに子供たちが退屈したときの遊び相手も寝付けないときに子守唄を歌うのも全部椛な」
「休ませてやれよ!」

 むしろまず真っ先に椛を救出しなければいけないような気がしてきた。萃香がからからと笑う。

「大丈夫だって、下っ端はこき使ってナンボのもんだしさ」
「全然理屈になってないっての」

 妹紅はうんざりしてため息をついたあと、首を傾げた。

「でも、それならなにが問題なの? むしろ割と快適に過ごせるような気がするんだけど」
「いやいや、そんなことはないよ」
「どうして」
「実はね、一つだけ、用意してないものがあるんだ」
「それはなに?」
「便所」
「貴様ァァァァァァァァァァァァァッ!」

 妹紅の怒りが爆発した。我を忘れ、刀を握りしめて萃香に斬りかかる。小さな鬼が歓声を上げた。

「おお、いいねえいいねえ、それでこそ死なない太郎だ」
「黙れ! おいしい食事をたらふく食わせておきながら便所を用意してないだと……!? それはまず真っ先に整えなくちゃならないもんでしょうが! 小さな子供だっているのよ!?」
「だからこそやったに決まってるじゃないか。ああ、ちなみに人間が使うような便所は、洞窟と目と鼻の先に設置してあるよ。作ったのは椛な」
「外道が……! この鬼!」
「鬼だよ。さー、楽しみだねー、誰のあだ名がウンコマンになるのかなー」
「黙れぇぇぇぇぇぇっ!」

 萃香の拳をギリギリのところで避けながら、妹紅はなおも踏み込む。鬼が楽しそうに笑った。

「いいねえ、死をも恐れぬその一歩こそ、死なない太郎が鬼退治の英雄である所以だからね! あ、ちなみに誰かが漏らした場合、それを片付けるのも椛ね」
「どこまで非道になれば気が済むの、あんたは!」

 激情に駆られて妹紅が叫ぶ。馬鹿馬鹿しいと思ってはいけない。寺子屋だって一つの社会なのである。その中で糞垂れは最底辺に位置する存在だ。下手をすればそこから陰湿なイジメが始まって、子供の心に一生物のトラウマが残る可能性だってゼロではない。

(そうだ、子供たちの心を守るんだ……! 慧音のためにも!)

 妹紅の太刀筋が鋭さを増す。しかし、刀は萃香に届かない。ときには身をひねり、ときには霧と化して、余裕の笑みを保ったまま妹紅の攻撃を避け続ける。

(……だめだ、このままじゃ埒が開かない)

 そもそも、妹紅は剣士ではない。不慣れな得物を使って最強の妖怪である鬼に立ち向かうこと自体が無謀なのである。

(一発、一発でいいんだ。一発でいいのに……!)

 その一発が、どうしても当たらない。妹紅の心に焦りが生じ始める。

「死なない太郎ーっ!」

 不意に、子供の声が響いた。驚いて振り返ると、洞窟の入口から顔を出した子供たちが、一生懸命こちらに向かって叫んでいる。

「頑張れーっ!」
「負けるなーっ!」
「鬼をやっつけろーっ!」

 呆然とする妹紅に向って、子供たちのそばに立っている椛がグッと親指を突き立ててみせる。どうやら彼女が子供たちに応援するよう促したものらしい。いい奴だなあ、と妹紅は状況も忘れて感動する。

(それにしても)

 子供たちの歓声を浴びながら、妹紅は苦笑いを浮かべていた。

(聞こえてるか、妹紅? あの子に化け物と泣かれたあんたが、子供たちの声援を背に受けて戦ってるんだよ?)

 なんとしてでも、その期待に応えたくなってくる。妹紅は子供たちに向かって軽く手を振ると、再び萃香に向きなおった。小さな鬼はどことなく嬉しそうににやつきながら、妹紅を見つめている。

「どうだい、お伽話の主人公ってのも、なかなか悪くないもんでしょ」
「この状況じゃ、首を横には触れないね」
「素直に認めなって。あんたは間違いなく、英雄たる気質の持ち主だよ。死なない太郎」

 死なない太郎、というその呼び名が、なぜか今は心地よい。最初はあれだけうんざりしていたにも関わらず、だ。

(ああ、そうか)

 妹紅はようやく納得した。

(結局、わたしはこういう人間だったってことなんだな)

 納得した、というよりは、思い出したと言った方がいいか。
 遠い昔、広い屋敷の片隅で、来るはずもない父を待ち続けていた少女の姿が脳裏を過ぎった。
 英雄として子供たちの声援を浴び、英雄として友たる鬼と向かい合う。そのことが、今の妹紅にはこの上なく喜ばしく感じられるのだ。
 そのとき、ふと。

「姉ちゃん、ウンチ」
「えっ、ちょ、も、もうちょっと我慢して……!」
「我慢できないよぅ」
「ううっ……くっ、かくなる上はわたしの尻尾を犠牲にしてでも……!」

 そんな会話が、声援に交じって聞こえてきた。

(ついにこのときが来たか……!)

 妹紅はちらりと肩越しに振り返り、洞窟の方を見る。椛の袖を泣きそうな顔で引っ張っているのは、最悪なことに小さな女の子であった。
 将来成長した女の子が、ことあるごとに「彼女は鬼退治のお芝居のときにウンコを漏らしまして」だのとばらされて赤っ恥をかいている光景が、妹紅の脳裏に浮かび上がる。

(そんなことを許すわけにはいかない……!)

 妹紅はついに覚悟を決めた。刀を片手に持ち、大きく振り上げて萃香と対峙する。鬼が怪訝そうに眉をひそめた。

「なんのつもりだい?」
「時間がない。次で決めさせてもらうよ、鬼」
「ほう。面白い。やってもらおうじゃないか、英雄殿!」

 吼えるように叫びながら、萃香が地を蹴った。突風のような勢いで、真っ直ぐこちらに向かってくる。

(来い……!)

 妹紅は奥歯を噛みしめ、両足に力を込めた。何があっても絶対に倒れるな、と強く強く心に念じる。
 萃香が眼前で踏みとどまり、大きく拳を振りかぶった。しかし妹紅は微動だにせず、ただ黙ってその一撃を受け止める。鬼の細腕が、容赦なく妹紅の腹を突き破った。

「なっ」

 萃香が驚きに目を見開くのを見て、妹紅は血を吐きながら会心の笑みを浮かべた。

(捕まえた……! さすがにこれは予想外だったみたいね!)

 萃香が高い運動能力を誇り、なおかつ霧になって逃げられるという反則的な能力を持つ以上、正攻法ではどうあっても刀で打つことは不可能だろう。だからこそ、無理にでも隙を作る必要があった。ここまで妹紅が萃香の攻撃を避け続けていた以上、まさか自分の体を犠牲にするとは思うまい。まさに一度限りの必殺技であった。

(一度隙を作れれば十分なんだけど、ね……!)

 腹を貫かれた激痛に顔を歪めながらも、妹紅は刀を思い切り振り下ろす。予想外の事態に硬直している萃香は、腕を引き抜いて避けることも霧と化して逃げることもできない。
 そしてついに、死なない太郎のえくすかりばぁが、悪鬼伊吹萃香の肩を強く打ち据えた。



 ここまでの流れから言って、多分萃香も「見事だ……!」とかなんとか言いながら格好つけて倒れる、と思っていたのだが。

「ぎいいいいぃぃぃぃぃやぁあああぁあぁぁぁあああぁぁぁぁぁっ!」

 などと、凄まじい悲鳴を上げて、地面をのた打ち回り始めたではないか。先ほどとは逆に、今度は妹紅が硬直してしまう。萃香はなおも悲鳴をあげながら、苦悶の表情を浮かべて地面を転がり続ける。よく見ると、目尻には涙が浮かんでいた。

「お、おいおい、どうしたの。さすがに演出過剰よ、それは……」
「ち、違う……!」

 額に汗を滲ませながら、萃香が唸る。

「そ、その刀……!」
「え、これ?」

 聖剣とは名ばかりの模造刀に妹紅が目を落とすと、萃香が息を詰まらせながら声を絞り出した。

「その刀、豆だ……!」
「……は?」
「刀身が、炒った豆で作られてる……!」

 予想外すぎる萃香の言葉に、妹紅は声を失って立ち尽くす。紫の胡散臭い笑みが頭に浮かんで、

 ――さらに極限状態においては食糧にもなる超優れ物の

「なに考えてんだあのババァ!?」

 思わず叫んでしまった。どうして他の設定は偽物なのにその部分だけ本物なんだ、と。

「え、っていうかなに、どういう製法で作られてるのこの豆刀!?」
「し、知らない、知らない、けど……くひぃ、いたいよぉ……!」

 あまりの痛みに耐えきれなくなったのか、萃香の目からぽろぽろ涙が零れ落ちた。妹紅は慌てて駆け寄って、刀で打ち据えた部分を見る。可愛そうに、萃香の肌には醜い蚯蚓腫れができつつあった。

「ご、ごめん、普通に模造刀だと思ってたから、思いっきり叩いちゃったよ」
「い、いや、いいんだって、あんたは正々堂々やったんだしね!」

 まだ目尻に涙をためつつも、萃香は立ち上がって胸を張った。

「よくぞわたしを倒した、死なない太郎! 約束通り子供たちと姫を返してやろう! あの洞窟の中にある、鬼の宝も持っていくといい」
「うん、分かったからあんたは休んでなって。顔が真っ青だよ?」
「……それじゃあお言葉に甘えて」

 萃香は地面にへたり込むと、豆刀で叩かれた肩を手で押さえ、ぎりぎりと歯ぎしりし始めた。その姿は痛みを堪える子供そのもので、ちょっと微笑ましくも思える。

(さて、と)

 妹紅は顔をしかめる。痛みを堪えているのは彼女とても同じだった。腹の傷の再生は、もう既に始まっている。あと少し経てば、完全に元通りとなるだろう。

(その前に)

 妹紅は傷口を手で押さえて、中身が零れたり見えたりしないように注意しながら、洞窟の方に向かって歩き出した。妹紅の姿がよく見えるようになるにつれ、子供たちはもちろん付添いの椛までもが、息を飲んで目を丸くするのが分かる。
 妹紅は子供たちの前で立ち止まると、ただ黙って自分の傷が再生していくところを見せた。傷口が塞がってから、手をどける。子供たちも椛も、呼吸するのを忘れたかのように呆然と妹紅の腹を見つめている。

(これでいい、な)

 妹紅は長く、細く息を吐き出した。
 英雄は鬼を倒し、お伽話は終わりを告げた。舞台から降りた英雄は、また元の化け物に戻って、永遠に人から身を離して暮らしていく。それでいい、と自分に言い聞かせる。

(なのに、どうしてこうも胸が痛むんだろう)

 自分が泣きそうになっていることに、妹紅はとうに気がついていた。行き過ぎた悪戯がばれてしまった子供のような心境で、ただただ誰かが悲鳴をあげたり、怖がって逃げたりするのを待ち構えている。
 と、

「すっげぇぇぇぇぇぇっ!」

 上がったのは、悲鳴ではなくて歓声だった。「へ」と間抜けな声を漏らす妹紅に、数人の男の子たちが纏わりついてべたべたと腹を触ってくる。

「すっげぇすっげぇ、なあ姉ちゃん、今のどうやったの!?」
「俺にも教えてくれよ! これで慧音先生の頭突きも怖くねえぞ!」
「やっぱしゅぎょーか、しゅぎょーしたらこうなれるのか! スキマババァのところへ行けばいいのか!」

 予想だにしない反応に困惑し、妹紅は当てもなく視線を彷徨わせる。そこに椛がいたので、首をかしげて問いかけた。

「ど、どういうこと?」
「え? ええと、よく分かりませんけど」

 椛は苦笑した。

「ここは幻想郷ですから。こんなものだと思いますよ」

 ああ、と、妹紅の口から吐息が漏れ出した。
 ずっと昔、自分を「もこ姉」と呼んでくれた女の子の笑顔が、久方ぶりに脳裏に蘇る。

(ようやく、許してもらえたんんだ)

 そんな言葉が脳裏の思い浮かび、目から涙が溢れ出した。目頭を押さえる妹紅に、子供たちが口々に声をかけてきてくれた。

「大丈夫か、姉ちゃん」
「どっか痛いのか」
「あの鬼にやられたのか」
「違う、違う……大丈夫、大丈夫だよ」

 ごしごしと目元を拭って、妹紅は苦笑いしながら子供たちに問いかける。

「そういえばみんな、おしっことか大丈夫? 便所は洞窟のすぐそばにあるらしいから、我慢しないで行っといでよ」

 そう言うと、子供たちの何人かが思い出したように目を丸くして、

「姉ちゃん、ウンコーッ!」
「おしっこー!」
「漏れるーっ!」
「えぇっ!? ちょ、ま、待って! すぐそこだから、もうちょっとだけ我慢して!」

 尿意や便意を訴える子供たちを、椛が慌てて抱きかかえて、洞窟の外へすっ飛んで行く。平和な光景に思わず笑いを漏らした妹紅は、ふと、便所に行きたがった子供たち以外にも、数人が姿を消していることに気付く。

(どこへ……?)

 周囲を見回したとき、洞窟の外から悲鳴が聞こえてきた。「ちょ、やめっ、いたい、いたいって!」という、萃香の声だ。
 まさか、と思って外へ出てみると、蹲った萃香に数人の子供たちが群がって、小さな拳や足で一生懸命殴りつけたり蹴り飛ばしたりしているところだった。

「このっこのっ!」
「悪い鬼め!」
「どうだ、参ったか!」

 口々にそんなことを喚いている。妹紅は慌てて駆け寄って、子供たち全員を萃香から引き剥がした。

「なにやってんの、あんたたち!」
「鬼退治に決まってんじゃん!」
「悪い鬼をやっつけるんだ!」

 子供たちは目を輝かせてそう答える。自分が正しいことをしていると信じて、欠片も疑っていない顔だった。
 妹紅は顔を硬くすると、無言で一発ずつ、子供たちの頭に拳骨を落とした。殴られた子供たちが、悲鳴を上げてその場に蹲る。

「こういうのは鬼退治じゃなくて弱い者虐めっていうの! 弱い者虐めは悪いことだって、慧音先生に教えてもらってないの、あんたたちは!?」
「えー、なんでさー!」
「悪い鬼をやっつけてるだけじゃーん!」
「鬼退治にもルールがあるの! それを守らなくちゃ、正義の英雄もただの卑怯者になっちまうんだから」
「ルールってなにさ」
「それはね」

 と、解説しそうになっていることに気がついて、妹紅は慌てて口を噤む。見ると、地に寝転んだ萃香がにやけた顔でこちらを見上げていた。

「どうしたの、死なない太郎。教えてやんなよ。ちゃんと教えてやらないと、この子らは『大人はみんなうそつきだ』とか『大人は都合が悪くなるとすぐ誤魔化す』なんて思いながら育っちまうよ」
「そうだそうだ!」
「ちゃんと教えろ!」
「大人はみんなうそつきだー!」

 萃香の言葉に便乗して、子供たちが口々に騒ぎ出す。妹紅は頬をひきつらせた。

(……適当なところで抜け出して、帰るつもりだったのに……)

 だがこうなっては仕方がない。妹紅は諦めて、溜息をつく。

「分かった。教えてあげるから、とりあえず今は里に帰ろうね。帰り道で教えてあげるから」

 歓声をあげる子供たちを前に、妹紅は苦笑を漏らす。この子供たち、すっかり鬼退治の英雄に憧れてしまっているようだ。少し張り切りすぎたかもしれないと反省するが、目の前の無邪気な笑顔たちを見ていると、そう悪い気はしない。

(ま、なんにしても、めでたしめでたしってやつかな)

 安堵の息をついた瞬間。

「おーほっほっほっほっほっほ!」

 頭が痛くなりそうな馬鹿笑いが、月夜の下に響き渡る。明らかに聞き覚えのあるその声の方向に、妹紅は無言で顔を向ける。日本文学史上に燦然とその名を残す輝夜姫その人が、岩の上に立ち、玩具の金棒を振りたてて高笑いしていた。身につけているのは虎縞の胸当てと虎縞の腰巻のみだ。誰よりも気合が入ったその格好は、見ているだけでも恥ずかしくなってくる。

「苦難の末に鬼を打ち倒し、愛しい姫の下へとたどり着いた死なない太郎! しかし姫は既にたくましい鬼へと心変わりし、冥府魔道に堕ちていたのでした! 突然の裏切りに心を痛めながらも、死なない太郎は最後の戦いに臨みます! というわけで」

 輝夜姫様が金棒の先端をこちらに向けてくる。

「久し振りに勝負よ、妹紅!」
「みんなー、あの馬鹿は総出でボコっちゃってもいいよー」

 子供たちが歓声を上げて、一斉に輝夜に飛びかかる。

「え? ちょっ、待っ……いだっ、いだだだ! やめ、髪引っ張らないで……こら、尻叩いちゃだめっ……いだぁっ! す、脛はダメ! 脛だけは本気で洒落になんないからぁぁぁぁぁぁ……っ!」

 子供たちに揉みくちゃにされている輝夜を無言で眺める妹紅の耳に、萃香のしみじみとした語りが聞こえてきた。

「……愛しい姫を自らの刃で打ち果たした死なない太郎は、彼女の亡骸に背を向けて何処かへと去ります。しかし、それでも死なない太郎はまたいつか、弱き者のために立ち上がるでしょう。どれほど傷を負っても立ち上がる、不死身の英雄。それが死なない太郎なのですから」

 もう勝手にしてくれ、と妹紅は思った。
 そうして止めとばかりに輝夜をえくすかりばぁで百発ほどぶっ叩き、幻想郷新お伽噺「死なない太郎の鬼退治」最大の山場は、つつがなく終幕を迎えたのであった。



 がらがらと車輪が回る音を聞きながら、妹紅は心配になって椛に声をかけた。

「ねえ、疲れてるんでしょ? 変わろうか?」
「わふ。いえいえ、大丈夫ですよ! これもわたしの役目ですから!」
「そうは言ってもねえ」

 妹紅は弱り切って周囲を見回す。彼女は今車上の人であった。鬼の宝と子供たちと妹紅と萃香を乗せた大八車を、椛が一生懸命に引っ張って里への帰り道を急いでいる途中なのである。ちなみに輝夜は縄で簀巻きにされた挙句に顔を大八車の後ろに結び付けられて、地面の上で引きずられている。がらがらと車輪の回る音に混じって、「へぶっ」「ふぐっ」「もこぉぉぉっ!」という呪詛の叫びが聞こえてくるが、妹紅は容赦なく無視している。輝夜の方は無視しつつ、椛には同情の声を投げかける。

「あんたも大変ね、こんなにこき使われて」
「わふ。いえいえ、そんなことはありませんよ!」

 そう言う椛の声は、確かに底抜けに嬉しそうだった。

「天狗にとって大恩ある鬼の方々が幻想郷へと戻ってくるための儀式に、わたしのような下っ端を使っていただけるなんて! これほど名誉なことはありません、わふ」

 一生懸命車を引きながら嬉しそうに尻尾を振っている椛を見て、妹紅は「全体主義って怖いなあ」としみじみ頷いてみたりした。

「なあなあ姉ちゃん、それで、他のルールは!?」

 服の裾を引かれてそちらを見ると、いかにも腕白坊主といった顔立ちの男の子が、目を輝かせてこちらを見上げている。この少年、他の子供たちが疲れて眠っている中で、一人元気に「鬼退治のルールを教えてくれ」と妹紅にせがんでいたのである。妹紅は請われるままに、一対一が基本であることや、卑怯な手を使ってはいけないこと、鬼を倒せば宝がもらえることなどを説明してやっていた。縄でぐるぐるにしばられた萃香も、たまに口を出してきている。

「他の、って言われてもね。大体説明し終えたとおもうけど」
「ふーん。そっかー。でもさあ」

 男の子は不思議そうに首を傾げた。

「なんで、戦うのにルールとか必要なんだ? 何が何でも勝て、じゃ駄目なの?」
「駄目だね」
「どうして?」
「そうだね」

 どう説明したものかな、と考えて、妹紅はふと、自分の周りで穏やかな寝顔を見せてくれている子供たちを見た。微笑み、男の子に目を戻す

「ね。あんた、今夜は楽しかった?」
「うん、すげー面白かった!」

 男の子が笑顔を浮かべて迷いなく頷く。妹紅もまた笑い返しながら、男の子の頭をそっと撫でた。

「じゃ、それが答えだよ。お互いに楽しくやるための決めたルールを破っちゃ、両方ともなんにも楽しくなくなっちゃうからね。昔と違って、今は鬼退治も楽しくやるんだよ」
「それが新しい絆の形ってわけさね」

 萃香もまた満面の笑みを浮かべて言う。男の子はまだ少し不思議そうにしていたものの、やがてまた笑顔に戻って言った。

「分かった。じゃあさ姉ちゃん、俺のことも鍛えてくれよ! しゅぎょーして、鬼退治の英雄になるよ!」
「おお、こりゃ見所のある坊主じゃないか! ぜひとも訓練してやりなよ、死なない太郎」
「いや、わたしは」

 どう答えたものか、妹紅は迷う。すると男の子が、取っておきの秘密を打ち明けるような顔で囁いた。

「なあ姉ちゃん姉ちゃん」
「なに?」
「俺もさ、太郎ってんだぜ!」

 萃香が口笛を吹いた。太郎は興奮に頬を赤くしながら、妹紅の体を揺する。

「だから絶対鬼退治の英雄になって、今度は正々堂々そこの鬼を倒してやるんだ! だから、な、俺を強くしてくれよ、姉ちゃん!」

 太郎は夢中でせがむが、やはり妹紅には、どう答えたものだか分からなかった。



 そうしてようやく里に帰りついた死なない太郎一行は、門のところで待ちわびていた里の大人たちから大歓迎を受けた。その声で起きだしてきた子供たちが、次々に大八車から飛び降り、親のところへ飛んでいく。抱きついて泣きじゃくる子もいれば、身振り手振りを使って今夜のことを説明し始める子もいる。
 その光景を黙って見つめながら、妹紅は苦笑した。

「太郎、あんたは行かなくていいの?」
「行かない!」

 ひしっと妹紅に抱きついたまま、太郎は強情に首を横に振った。

「姉ちゃんが俺を鍛えてくれるって約束してくれるまで、俺、絶対に行かねーからな!」
「やれやれ、困ったな」

 妹紅としては、自分の行動の指針を変えるつもりはなかった。このまま適当なところで抜け出して、人知れず竹林に帰るつもりなのである。
 だからこんな風にしがみつかれると、困ってしまう。

「お帰りなさい、死なない太郎。よくぞ務めを果たしましたね」

 大人たちの中から、一人の女性が歩み出てきた。事の発端の一人、八雲紫である。妹紅は瞬時に役割を思い出し、満面の笑みを浮かべつつ片手を上げた。

「おう、今帰ったぞババァ!」

 紫の頬が大きく引きつった。ざまあみろ、と思いながら、妹紅は腰にぶら下げていたえくすかりばぁを紫に投げ渡す。

「まったく、なに考えてんのあんたは」
「あら、役に立ったでしょう?」

 大八車の上でぐるぐる巻きになっている萃香を見ながら、紫がくすくすと笑う。妹紅はうんざりして首を振った。

「だからって普通そんなもん作る? やっぱり暇人だねあんた。レミリアまで巻き添え喰らってたし」
「でしょうね」
「わざとかよ」

 紫は顔をそらして鼻歌を歌い始めた。本当に食えない婆さんだな、と妹紅はため息をつく。

「よく帰ってきたな、妹紅」

 慧音が歩み出てきて、微笑みを浮かべて手を差し出した。

「わたしの生徒たちを救い出してくれたこと、感謝するぞ」
「大げさだよ、単なるごっこ遊びにさ」

 妹紅が肩を竦めると、慧音は幾分か真剣な顔で首を振った。

「いや、子供たちにとっては何もかもが真剣さ。両親や故郷から引き離されて不安な気持ちは間違いなく本物だったはずだ。お前はそれを救い出してくれたのだから、間違いなく子供たちにとっては真の英雄と」
「ああ、いいよいいよ、そういうのは」

 慧音が考えていることが数刻前の自分と全く一緒だったので、妹紅は気恥ずかしくなって話を遮る。そして、苦笑しながら慧音の手を握り返した。

「子供たちは確かに救出したよ。死なない太郎、無事務めを果たしました」
「うむ、よくやってくれた、死なない太郎!」

 慧音が満足げに頷いた途端、周囲から割れんばかりの拍手が巻き起こった。里の大人たちはもちろん、このお伽噺に参加していた役者たちもみな集い、惜しみ無い拍手を降らせてくる。

(……ますます帰りにくくなったなあ)

 妹紅は頬をひきつらせた。ちなみにあの太郎も、未だに妹紅にしがみついている。どうあっても帰らせないつもりらしい。

「さて、皆さん」

 不意に透き通った美しい声音が響き渡り、場がしんと静まり返った。人々の中心に静々と歩み出たのは、紫だった。さほど大きくもないのに不思議とよく通る静かな声で、祈るように語り始める。

「ご覧いただきましたとおり、今宵の鬼退治はつつがなく終了いたしました。人間、鬼、双方とも一滴の血も流さず、平和裏に、そしてなによりも楽しく、戦いを終えることが出来たのです。人間の方々はもうご存じないかもしれませんが、百数十年ほど前まで、このような平穏な光景は想像することすらできませんでした。天におわします龍神様に、妖怪の賢者たちが永遠の平和を誓って早百数十年、我々はようやく、この境地にたどり着くことが出来ました。私、妖怪の賢者たる八雲紫は、このことを心の底から喜んでおります。どうか今後も、悪戯に互いの境界を侵すなく、かと言ってただ恐れて壁を作るだけでもなく、喜びと慈しみとを持って両者が交わる楽園が続いていくことを願います。我々の楽園は我々の手で作り上げるものだということを、どうかお忘れなきよう」

 静かに、真摯に、紫は聴衆に向かって頭を下げる。誰もがその雰囲気に呑まれたかのように、神妙な表情を浮かべて妖怪の賢者の言葉に聞き入っていた。

「それでは」

 頭を上げて笑いながら、紫が軽やかに指を鳴らす。すると大八車の上で、萃香の体を縛っていた縄がするすると解けた。小鬼は体を解すように腕を回しながら、紫の隣に並び立つ。小鬼と顔を見合せて微笑みあったあと、紫は厳かに言った。

「此度の楽しきお伽噺の発案者である、鬼の伊吹萃香殿より、締めのお言葉を賜ることにいたしましょう」

 一礼して、紫が一歩下がる。入れ替わりに小さな鬼が進み出て、堂々と聴衆を見回しながら、声を張り上げた。

「えー、弱々しくも力強き人間の方々よ! わたし伊吹萃香は、今宵こちらの死なない太郎と共に、正しき鬼退治のなんたるかを示してみせたつもりである! そちらが正々堂々と立ち向かってくる限り、こちらも絶対に卑劣な真似はしない。人攫いも鬼退治も今は疑似的なものとなってしまったが、そこに賭ける真摯な想いは昔と変わらず存在しているものとわたしは思う。願わくば、永き時を経て今宵復活し、新たな形に生まれ変わった鬼と人との絆が、今後も絶えずに保たれていきますように!」

 萃香はそう言い切ったあと、口調を気楽で明るいものに切り替える。

「それではこれにて終幕だ! 悪鬼を打倒した死なない太郎は、鬼の宝を持ち帰り、人間の里の者たちと共にいつまでも幸せに暮らしましたとさ」

 満面の笑みを浮かべて、

「めでたし、めでたし!」

 聴衆が再び手を打ち始め、遠慮なく唇を吹き鳴らした。紙吹雪が空を舞い、誰かが放ったスペルカードが華麗に夜空を彩る。
 そんな賑やかな光景の中、いつの間にかそばに寄ってきていた紫に、妹紅は苦笑交じりに声をかけた。

「一滴の血も流さずって、わたしも萃香も結構ボロボロになったんだけど」
「あらそうなの。それは申し訳ございませんでしたわねえ」
「……さっきの言葉は、どこまで本気なの?」
「さあ。どこまでかしらね」

 紫はいつものように、胡散臭い微笑みを浮かべて首を傾げてみせた。

「さてさて、それでは!」

 不意に、群衆の前に一人の女性が歩み出てきた。このお伽噺の最初に登場して、慧音に小兎さんと呼ばれていた女性だった。姫君のような着物に身を包んだこの謎の女性は、群衆の前で大きく手を打ち鳴らした。

「これよりお伽噺の終幕を祝して宴会に移りますが、その前にまず、死なない太郎殿が持ち帰った鬼の宝を、皆さんの前でご披露していただくことにいたしましょう!」
「へへ、わたしが個人的にため込んだお宝だからね! 期待してもいいよ!」

 萃香の陽気な声に、群衆が大きく湧きかえる。小兎さんがこちらを振り返って、大八車の方を手で示した。

「さ、死なない太郎さん、どうぞ!」
「え、いや、どうぞって」
「遠慮しなくてもいいですよ。死なない太郎さんが主役なんですから、好きな宝を一つだけ持ち帰ってください」
「他のは人間の里全体に寄付することになってるんだけどね」

 萃香が頭の後ろで両手を組みつつ、そう言う。妹紅は困ってしまった。なにせその日暮らしの根なし草、宝など持っていても邪魔なだけである。今後人間の里と積極的に関わる予定もないし。
 しかし、周囲の群衆たちも期待に満ちた目でこちらを見ており、どうにも逃げられそうにない。

(……ま、いいか。記念だとでも思って、一番しょぼそうな奴を一個だけもらっておこう)

 妹紅は太郎をしがみつかせたまま、大八車に歩み寄った。さてそれにしようか、と思ったところで、一つの小箱が目に止まった。他の宝がいかにもな金銀財宝なのに対して、この小箱はとても質素な造りである。これなら何かあったときの物入れとしても使えるだろう、と判断し、妹紅はそれを手に取った。

「あら、それでいいの?」

 いつの間にか背後に立っていた紫が、妹紅の肩越しに小箱を見ていた。妹紅は肩をすくめる。

「別に、何か欲しいものがあるわけじゃないしね。これで十分だよ」
「あらそうなの。それは良かったわねえ」

 紫が謎めいた笑みを浮かべる。何か嫌な予感を感じつつも、妹紅はとりあえず萃香の前に戻った。

「これにするよ」
「やった!」

 妹紅の手に握られた小箱を見た瞬間、萃香が大きくガッツポーズを決めた。妹紅は眉をひそめる。

「なにをそんなに喜んでるの?」
「へへっ、そいつはね、きっとあんたが選ぶだろうと思って、わたしが特別に忍ばせておいた贈り物なのさ! やっぱり予想通りになった!」

 嫌な予感が瞬時に膨れ上がり、妹紅は頬を引きつらせる。

「……なに、どんな呪いがかかってるの?」
「呪いたあ失礼だね。むしろ祝福さ」
「鬼の祝福かよ」
「いいから、開けてみなよ」
「中に何か入ってるの?」
「もちろん。むしろそれがメインだから。さあ、開けた開けた!」

 萃香の満面の笑みにこの上なく嫌な気配を感じたが、群衆の目が自分に注がれている以上、この場で開けないわけにはいかない。妹紅は仕方なく、小箱の蓋を開けた。
 どんな醜悪な物体が飛び出すものかと思っていたら、中に入っていたのは一枚の紙切れのみであった。意外に思いながら摘み上げて、そこに書かれている文面に目を落とす。
 妹紅は凍りついた。

 ――任命状。
 藤原妹紅殿。あなたを此度人里に設立された「正しい鬼退治普及委員会」初代にして永遠の実行委員長、「死なない太郎」に任命いたします。今後も鬼と人との新しき絆が保たれるように、より一層の努力をなさいますよう望みます。おめでとう、おめでとう。ワー、ヒュードンドン、パフパフー。
 ――妖怪の賢者、八雲紫。

(ババァッ……!)

 ぎりっと歯ぎしりしながら、妹紅は隣の紫を睨みつける。殴られない程度の距離を保ちつつ扇子で口元を隠してニタニタ笑っていた。このババァマジ殴りてぇ。

「なーなー姉ちゃん、どうした、何書いてあった?」
「ええと。いや、その」

 どうしよう。燃やそうか破ろうか逃げようか。迷う妹紅の顔に、不意に何か薄いものがぱさりと落ちてきた。

「号外、号外だよーっ!」

 夜空を飛びながら、鴉天狗が大声で叫んでいる。こんなときに一体なんだ、とその号外をやらに目を落として、妹紅は再び絶句する。

 ――人間の里に新たな英雄誕生! その名も死なない太郎!

 そんな見出しと共に、自分の写真が載っていた。「正しい鬼退治普及委員会」永遠の初代委員長「死なない太郎」に選ばれた蓬莱人、藤原妹紅氏(年齢不詳)、迷いの竹林住まい。恐ろしいことに地図つきで住所までばらされている。

(なんだこの包囲網……!)

 あまりの用意周到ぶりに戦慄する妹紅の周囲で、大人たちがガヤガヤと騒ぎ出す。

「いやー、それにしても得したな! 鬼退治すりゃこんだけいっぺえお宝がもらえるんだべ」
「でもよぉ、勝てりゃいいけど、負けりゃー逆に娘っ子取られちまうんだろ?」
「バカ、そうならねえために、この死なない太郎先生がいてくださるんじゃねえか」

 ちょ、と妹紅が手を伸ばすよりも早く、周囲から大歓声が飛んできた。

「これからも頼んますぜ、死なない太郎先生!」
「いよっ、幻想郷一の鬼殺し!」
「あんたは里の英雄だ!」

 鳴り響く拍手と口笛の中でもはや声も出せない妹紅のそばに、誰かがにやにや笑いながら歩み寄ってきた。

「よう、災難だな妹紅!」
「……魔理沙」
「まああれだ、こういうときお約束の台詞をお前にも送ってやるよ」

 黒白の魔法使いは力強く妹紅の肩を叩き、

「諦めろ、ここは幻想郷だ」

 と、満面の笑顔と共に断言して下さった。湧き起こる死なない太郎コール、胡散臭く笑うスキマババァ、喜び踊る小鬼。よく見ると慧音がハンカチで目元を拭っていた。ワーハクタクよお前もか。
 もはや半分ヤケクソになって、妹紅は声を張り上げた。

「あーもう、分かったよ! やりゃあいいんだろ、やりゃあ!」
「はい、言質取った」

 隣で呟いた紫が、妹紅の手を握って大きく天に突き上げた。

「皆様、たった今、新たな人間の英雄が誕生いたしました! その名も不死身の鬼殺し、死なない太郎! 盛大な拍手でお迎えください!」

 最高潮を迎える拍手の渦の中で、妹紅はがっくりと肩を落とす。

「姉ちゃん姉ちゃん」

 下を見ると、太郎が不思議そうに妹紅を見上げていた。

「どうしたんだ、なんかあったの?」

 状況がよく分かっていないらしい彼の頭を、妹紅は苦笑交じりに撫でてやる。

「いや。単に、わたしがあんたを鍛えることが正式に決定したってだけ」
「ホント!? やったぁ!」

 跳ね回って喜びを表現する太郎を見ながら、妹紅はもう一度、盛大にため息をつく。
 不思議と、そう悪い気分ではなかった。



 小兎さんが宣言した通り、群衆は里の中に入って大宴会へと雪崩れ込んだ。鬼の宝を積んだ大八車が祭事を行う広場の中に運びこまれ、それを囲んで飲めや歌えの大騒ぎが繰り広げられている。参加しているのは人間だけでなく、妖怪も数多く混じっていた。中には自分で宣言した通り大量の酒瓶を空にして、妖怪だか人間だか分らぬうわばみ振りを発揮している博麗霊夢のようなのもいた。一方で、魔理沙やレミリアなどは早々に姿を消していた。
 妹紅自身は、群衆からは少し離れた場所に座り込んで馬鹿騒ぎをぼんやり眺めている。酒杯は最初の一杯を注がれたままほとんど口もつけていない。親しげに声をかけてくる人々も、「悪いけど疲れてるから」と言って追い払っていた。それでも大半の人が嫌な顔一つ浮かべず「じゃあまた今度飲みましょうぜ!」などと言って離れてくれる辺り、やはり気のいい人たちの多い場所だ、と思う。

「よう、相変わらず下戸みたいだね」

 気楽に片手を上げながら、萃香が歩いてきた。もう片方の手に瓢箪を持って、時折ぐびぐびと煽っている。真っ赤に染まった顔には、実に幸せそうな笑みが浮かんでいた。妹紅は我知らず顔をしかめる。

「そういうあんたはずいぶんと楽しんでるようで」
「そりゃそうだ、今日は実にいい夜だからね!」

 笑いながら、萃香は了承を得ようとする意思すら見せず、どっかりと無遠慮に妹紅の隣に腰を下ろす。相変わらず図々しい奴、と妹紅はため息をついた。

「ホント、いい夜だ。夢にまで見ていた鬼と人との絆がようやく復活したんだからね」
「そんなに大袈裟なことかな、これが」
「大袈裟でもなんでもないさ。へへ、これから忙しくなるぞー、鬼退治のルールとか賞品の内容とかももっと細かく決めて、誰もが楽しく鬼退治できるようにするんだ。その内地下の仲間も呼び集めて、みんなで退治されたり返り討ちにしたりするんだ。人間との戦いは酒飲みと同じぐらいに楽しい娯楽だからね。これからは、張り切って鬼をやれるよ」
「そりゃ、良かったね」

 素っ気なく妹紅が言うと、萃香は子供のように頬を膨らませた。

「なんだよー、あんたももっと気合入れてもらわなきゃ困るよー。鬼退治の英雄なんだからさー」
「人をあんだけ無理矢理引っ張り込んでおいて、よく言うよ」
「無理矢理、ねえ」

 萃香が少し嫌味っぽく笑った。

「何度も何度も言ってることだけど、それって、嘘でしょ」
「なにがさ」
「あんた、人と関わりたくないみたいに言っておきながら、実際には護衛の依頼引き受けたり里の教師と友達だったり、やってることが中途半端なんだよね。本当は、皆の輪の中に入ってきたかったんでしょ?」
「そんなこと」

 反論しようと口を開いたが、言葉がうまく出なかった。妹紅は黙りこみ、膝の間に顔を埋める。

「そうなのかも、しれないね」
「かもしれない、じゃなくて、そうなんだよ。でなけりゃ、わたしが何やったって、あんたの心に愛と勇気が蘇ることはなかったはずさ」

 恥ずかしい奴だな、と思いながら、妹紅は宴会の輪の方をぼんやりと眺めやる。踊る妖怪、囃し立てる人間。歌う人間、手を打ち鳴らす妖精。神様が黙って酒瓶を持ち上げると、隙間の妖怪が微笑んで酌を受ける。巫女が天狗を酔い潰れさせて高笑いを上げていた。

「分かんないな」
「なにが」
「あんたたちのことが、さ」

 妹紅はため息交じりに疑問を投げかける。

「鬼と人との絆が復活した、なんて言ったって、一時的なものかもしれないじゃない。人間はすぐ変わるよ。またあんたたちを嫌って、卑怯な手段で追い立てるかもしれない。仲良くしていられるのは今のうちだけで、すぐに嫌なことばっかりになって、お互い憎しみ合うようになるかもしれない。仮に友好的な関係が続いたとしても、いつか別れが来て辛い思いをする。人間はすぐに行っちまうよ、わたしたちを置いてさ」

 淡々とした妹紅の言葉を、萃香は黙って聞いていた。聞き終わってからおもむろに立ち上がり、力強く、静かな声で答える。

「そのときは、思い切り泣けばいいさ。元気になれたらまた笑えばいい。喧嘩したら仲直りすればいいし、追い立てられたら時間を置いてまた歩み寄ればいいよ。完全に諦めて繋がりを断ち切ってしまわない限り、可能性はゼロじゃない」
「なんでそうまでして人に関わろうとするの」
「わたしたちが妖怪だからさ」

 萃香は困ったように笑った。

「そう、わたしたちは妖怪なんだ。人なくして妖怪なし。どれだけ嫌って繋がりを断ち切ったつもりでも、何かの形で人と関わっていないとどうにも締まらない、どうにも楽しくない。そういう存在なんだよ、わたしたちは」

 そう言って、妹紅に静かな瞳を向けてくる。

「つまり、あんたと同じだってことさ」

 妹紅は反論できなかった。できたとしても、しなかっただろう。だから代わりに、諦めのため息をついた。

「なんだかね」
「どうしたの」
「なんだって、あんたはそうわたしを仲間に引き込みたがるんだか」
「ああ、別にわたしだけじゃないよ」
「え?」
「わたしが今回声をかけて萃まった連中は、皆同じことを考えてるはずさ。中には素直に認めたがらない奴もいるだろうが、本心は一つ」

 萃香は歯を見せて笑った。

「出来る限り楽しくやろう、さ」

 それに、と萃香は自信に満ちた声で言う。

「仮に時が経って人間が世代交代しても、あんたが言ったみたいにはならないと思うね」
「どうして」
「だって、この先ずっと、人間たちに正しい鬼退治を伝えてくれる英雄殿がいるんだもの。あんたがいてくれる限り、鬼と人の新しい絆は、ずっと変わりなく受け継がれていくはずさ」
「永遠に働けってか」
「永遠に働けってことさ」
「ちぇっ、なんでもかんでもあんたの思い通りになってるじゃない」
「ああ、そりゃ違うよ」

 萃香は胸の前で手を振った。

「今回の事の発端って、わたしじゃないし」
「そうなの?」
「一か月前のことを思い出してごらんよ。わたしはあの日、初めてあんたに会ったんだよ? あの日にあんたのことを知って、真っ先に会いに行ったんだ。つまり、あの日まであんたの存在を知らなかったってこと」
「……じゃあ、誰かに教えられて?」
「その通り。誰だかは、まあ言わなくても分かるよね」
「あのババァか」
「そう、あのババァだ」

 にひひ、と萃香が意地悪そうに笑う。

「あいつに目をつけられたらもうお終いさ。なんせこの幻想郷で一番インチキなババァだからね。そんなババァの趣味は、誰かと誰かの間にある隙間を、できる限り縮めることだったりするのさ。わたしもそういう趣味のせいでこの場に引きずり込まれたクチだからね。ま、この郷にいる限り、あいつの手から逃れられるとは思わない方がいいね」
「迷惑な婆さんだ」
「ホントにね。でもあんたも、悪い気はしてないんじゃないの?」
「さて、ね」

 そう言ったきり、妹紅は黙りこんだ。萃香はしばらく隣で酒を飲んでいたが、やがて「さて」と呟いて立ち上がる。

「ま、何にしてもこれからよろしく頼むよ、死なない太郎」

 振り返って手を差し出してくる。妹紅は首を振った。

「その死なない太郎ってのは止めてよ」
「なんだ、まだそんなこと言ってるの?」

 不満そうな顔をする萃香に、妹紅は苦笑を向ける。

「違うよ。だって、それは役職名なんでしょ? だったら、仕事してないときは本名で呼んでほしいね」

 目を丸くする萃香の手を、妹紅は笑って握り返した。

「わたしの名前は藤原妹紅。よろしく頼むわ、伊吹萃香」

 萃香が嬉しそうに笑って、妹紅の手をぶんぶんと上下に振る。

「うん、よろしく、藤原の。今度は負けないからね」
「また返り討ちにしてやるよ、伊吹の。っていうかさあ」
「なに」
「あんた、最初から負ける気だったでしょ?」
「ほう。何を根拠にそう思ったの?」
「だって、今夜の鬼退治、あんたが負ける条件は設定されてたのに、わたしが負ける条件は設定されてなかったもん。これじゃ結局最後には勝つのが決まってたみたいだ」
「あらら、ばれてたか」
「なんでそんなことしたの?」
「そりゃ、英雄が勝たなきゃめでたしめでたしにならないからねえ。でも、弱虫に負けてやるつもりは一切なかったよ。あんたが腑抜けのままだったら、何度も何度もわたしに叩きのめされていつまでも終わらなかったはずさ。もっとも」

 萃香はにやりと笑う。

「わたしは、あんたが英雄に戻ってくれることを疑ってなかったけどね。一目見たときから、あんたの胸には今も変わらず熱いものが宿ってると思ってたさ」
「よく言うよ」
「ホントだって。それに、その直感は正解だったみたいだ。今のあんたは間違いなく人間の英雄さ」
「……いや、まだだね」

 妹紅はくるりと振り返る。少し離れた木の陰に、見知った人影が立っているのが見えた。

「しっかりケジメをつけるよ。わたしが胸張って人間だと名乗れるのは、それを終えてからだ」
「そうかい。それじゃ、次の勝負はまた後日だね。今度は飲み比べといこう」
「よして。その勝負じゃ万に一つの勝ち目もない」

 地面に置いた杯の中身を一息に飲み干すと、頭がくらくらした。やっぱり酒は苦手だ、と妹紅は思う。

「こらぁっ、萃香ぁっ!」

 不意に、酔っ払った少女の叫び声が聞こえてきた。その方向に目を向けると、泥酔の極みといった体の巫女が、ふらふらと危なっかしい足取りでこちらに向って歩いて来るところだった。

「あんたって奴は、まーた人様に迷惑かけてんのね! 今度はこの博麗の巫女が退治してやるわ!」
「ほうほう、そりゃ面白い! なにで勝負するね?」
「もちろん飲み比べよ! ったく、魔理沙もいつの間にかいなくなってるし、物足りないったらありゃしない。今日こそはあんたを潰してやるっての!」
「いいねえ、じゃあ今日も返り討ちにしてやるよ」

 自信満々に胸を張って霊夢の言葉に答えながら、萃香は妹紅に笑いかける。

「ほら見なよ、人間って奴はこんなに面白いじゃないか。それさえ忘れなきゃ大丈夫だよ、きっと」

 じゃあまたね、と言って、萃香は霊夢と共に去っていった。



 木の陰で待っていた慧音と共に、妹紅は里から抜け出して少し飛んだ。里の近くにある人気のない丘に二人並んで座り、黙って夜空を眺める。大宴会が続いているでろう里の喧騒も、ここまではかすかにしか聞こえてこなかった。

「いろんなこと、思い出したよ」

 ぽつりと、妹紅は呟くように告白した。ずっと昔仲良くしていた少女に化け物と言われて傷ついたことや、受け入れてくれた愛しい人と別れたこと、覚悟を決めていたはずなのに別れ際に泣き叫んでしまって、その人を酷く困らせてしまったこと。何もかもを話した。その全てを、慧音は黙って聞いてくれた。

「だから、ずっと人とは関わらないで生きてきた。裏切られて傷つくのも嫌だったし、受け入れてもらえたとしても結局最後は悲しい別れが来る。どっちにしても辛い想いをするのなら、最初から誰とも関わらない方がいい。自分にそう言い聞かせて、ずっと一人で生きてきたの。今日も、本当は途中で何もかも投げ出して帰るつもりだった」
「何故、逃げなかったんだ?」
「思い出したから。自分が、どうしようもない寂しがり屋だってこと」

 藤原妹紅は、望まれてこの世に生まれてきた子供ではなかった。いわゆる不義の子というやつで、その存在は隠されていたのである。それでも位の高い男の娘ということで食うに困ったことはなかったが、誰も厄介事を恐れて近づいてこなかったので、いつも広い屋敷の片隅で一人ぼっちだった。寂しくて泣いても誰も来てくれないあの辛さは、今でも根強く妹紅の心に残っている。

「お父様が輝夜に恥をかかされたって聞いて仕返ししようとしたのも、本当は敵討ちとかそういうのじゃなかったんだ。仕返しして輝夜のことを苦しめれば、お父様がわたしのこと見てくれるんじゃないかって、そう思ったからだった。今になって思うと、ずいぶん子供じみた思い込みだけど」

 妹紅は苦笑し、それからため息をついた。

「結局、わたしはこれだけ歳を取っても、あの頃から何も変わっちゃいない。一人ぼっちは寂しいんだ。でも誰かに近づくのは怖いんだ。だから、輝夜が羨ましかった。そんなことなんて全然気にしてないみたいに、兎たちと一緒に楽しく暮らしてるあいつが。最初はあいつへの憎しみを燃やして殺し合いすれば何もかも忘れていられたけど、その内嫌で嫌でたまらなくなった。あいつの前に立つたびに、自分がどれだけ惨めな存在なのか思い知らされるみたいで」
「だから、彼女のことを避けるようになったのか」

 妹紅は小さく頷いて、「ねえ、慧音」と震える声で呼びかけた。

「わたしね、もう自分がどうしたらいいんだかよく分からないんだよ。傷つくのが怖いから離れていたいけど、でも一人でいるのはどうしようもなく寂しくて、辛いんだ。そういうこと、今日だけで全部思い出しちゃった。できる限り意識しないようにしてたのに」
「じゃあ、また離れるか?」

 慧音が静かに問いかける。妹紅は迷いながらも首を横に振った。

「ううん、きっともう無理。ここの連中はわたしのこと放っておいてくれないみたいだし、なによりわたしも、人と交わる楽しさや誰かの手の温かさを思い出しちゃったから、きっともう一人きりでいるのは耐えられないと思う」

 妹紅はおそるおそる手を伸ばして、慧音の手をそっと握り締めた。驚いたようにこちらを見る慧音に、震える声で問いかける。

「この温かい手も、その内枯れ木みたいに細くなって、熱を失っていくんだ。ねえ慧音。慧音もいつかどこかへ行ってしまうんだね。わたしを置いて消えてしまうんだね」

 慧音は一度口を開いて何かを言いかけてから、また閉じた。迷うように数瞬目を閉じたあと、悲しげに微笑みながら頷いた。

「ああ、そうだな。そうなることは絶対に避けられない。わたしはいつかお前を置いていく。いつかお前を深く傷つける。だからこれは、わたしの我がままだ」

 慧音は両手で妹紅の手を握り締めて、祈るように呼びかけた。

「そばにいてくれ、妹紅。ずっと一緒にいられないとしても、いつかわたしがお前を傷つけるとしても……それでも、そばにいられる間だけでいいから、寄り添って、一緒に泣いたり笑ったりしよう。お願いだ、妹紅」

 妹紅の視界がぐしゃりと歪んだ。止めどなく涙が溢れ出して、喉の奥から嗚咽が漏れる。

「わたし、わたしもさ」
「うん」
「わたしもきっと、慧音のこと傷つけるよ。慧音が死ぬとき、死なないで置いてかないでって泣き喚いて、たくさん、たくさん困らせるよ。慧音がわたしを置いていくのは、慧音のせいじゃないのに」
「いいよ、それでもそばにいてくれ。何もかも隠さずに、全部ぶつけてくれ。最後の最後の瞬間まで、ずっとそばにいさせてくれ。せめてそのぐらいはさせてくれ、な」

 慧音の呼びかけに、妹紅は何度も何度も頷いた。もうどうにも堪え切れなくなって声を上げて泣き出したら、慧音がそっと抱きしめてくれた。その胸の中で、何百年分も溜めてきた涙を、思う存分流し尽くした。



 朝日が昇って来た。たぶん、人里の宴会もとうに終わって、今頃は誰もが夢の中だろう。穏やかな光に包まれながら、妹紅と慧音は手をつないで寄り添っている。

「本当は、さ」

 妹紅が呟く。

「あの子からも、逃げるべきじゃなかったんだね」
「うん」
「今になって思うの。ひょっとしたら、大好きなもこ姉に化け物なんて言っちまったあの子の方が、ずっと深く傷ついたかもしれないって。わたしはあの子を一人にしちまった。頼りになるお爺ちゃんを失っちまって、あの子はあれからどうしたろう。ちゃんと、お婆ちゃんになるまで生きられたのかな」
「分からないな」
「そうだね。分からない。だから、本当は逃げるべきじゃなかった。離れるべきじゃなかったんだ。たとえ嫌われて、罵られて、追い立てられたとしても、頑張って言葉を尽くして手を伸ばして想いを伝えて、それでもダメだったときにちゃんとお別れするべきだったんだ。あんな風に別れたまんまじゃ、ただ傷が傷として残るだけなんだね。だからさ、慧音」

 妹紅はひっそりと微笑む。

「わたし、もう逃げないよ。悲しいことにも辛いことにも、ちゃんと向き合って生きていくんだ。それは凄くみっともないことかもしれないけど、きっと寂しいことじゃあないと思うから」
「そうか、うん、立派だと思う」
「ありがとう」

 ふと、慧音が得心したように頷いた。

「つまり、あれだ。死なない太郎は生きてる太郎になるということだな」

 何を言われたのか一瞬理解できず、妹紅は眉をひそめる。慧音がちょっと傷ついたような顔をした。

「面白くなったか。わたしなりに上手いこと言ったつもりだったんだが」
「いや……生きてる太郎って、語呂悪すぎだよ、慧音」
「そ、そうか。じゃあなにがいいかな。不死太郎……いや、これではあまり前向きな感じがしないな……ううむ、もこ太郎、というのは……いやいや、可愛いだけで力強さがないな」

 ぶつぶつと呟きながら一生懸命考えている慧音を見て、妹紅は少し笑った。

(こんな風に、何事も一生懸命やってみよう、これからのわたしは)

 変に気取ったり、平気な振りをする必要はない。悲しいときは声を張り上げて泣き、楽しいときは人目も憚らずに笑おう。あの小鬼が言ったとおりに。

 ――泣いたり笑ったりできるようにしてやる。

(ちぇっ、結局あいつの思い通りになっちまったわけだ)

 萃香の得意げな顔を思い浮かべて、妹紅は苦笑を漏らす。そう言えばあいつに壁を直してもらう約束をまだ果たしてもらってなかったな、と思う。これからは客も増えそうだし、もう少し豪華な家に改築してもらおうか。
 そんな風に楽しく思いながら未来のことを考えていると、突然、どこかから霊弾が飛んできた。軽くステップして避けて、そちらの方を見やる。すると、なんだか酷くみすぼらしい人物が、地獄の底から響いてくるような唸り声を上げて、こちらにゆっくりと近づいてくるところだった。

「もぉぉぉぉこぉぉぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉぉおぉっ!」
「ってなんだ、バ輝夜か」
「誰がバ輝夜よ!?」

 怒り心頭といった風に、輝夜が頭を振って怒鳴る。このお姫様、昨日身につけていた虎縞の胸当てと腰巻が今にも破れそうで、体は土だらけ埃だらけの実に悲惨な有様である。

「あれ? そういえばあんた、今までどこにいたの?」
「どこにいたの? じゃないわよ! 車に結んでた縄が解けてわたしが置き去りにされてるのに、あなたたちときたら少しも気づかずにとっとと帰っちゃうんだから……!」
「あー、道理で静かだと思った」
「しかも縄はやたらと頑丈でなかなか切れないし、空も飛べないから歩いてくるしかないし」
「飛べないって、なんで?」
「え、だってそういうルールなんでしょ?」
「いや、もうとっくに終わったし、それ」
「なんですって!? え、だって永琳もイナバも報せにこないし……」
「あいつらは普通に宴会に混じって酒飲んでた気がするけど」
「あのババァァァァァァァッ!」

 輝夜が髪をかきむしる。ちなみにそのババァ、よく見るとずっと遠くの木の陰にいて、穏やかな微笑みを浮かべながら自分の姫を見守っていた。まるで「ああ姫、すっかり元気なられて」とでも言わんばかりの慈愛に満ちた表情である。やっぱりあのババァ怖ぇな、と妹紅は背筋を震わせる。

「ええい、腹の無視が収まらない! 久々に殺してあげるわ、妹紅!」
「へぇ、あんたから持ちかけてくるなんて珍しいね」
「黙らっしゃい、いつものようにサンドバッグにしてやるわ」
「フン、言ってくれるね。まあいいや、やろうじゃないの」
「え」

 輝夜が意外そうに目を見開く。そう言えばこいつと殺し合いするのも久し振りだったな、と思いだして、妹紅はふてぶてしく笑った。

「なに変な顔してんの。あんたとわたしは仇敵同士で、顔を合わせりゃ殺し合いする仲でしょうが。年取り過ぎてボケられたんでございますか、輝夜姫様?」

 嫌味を言ってやったが、輝夜はむしろどこか嬉しそうに「そうね、そうだったわね」と笑う。

「フフン、ならば幻想郷新お伽噺第二弾、『恐怖の殺戮輝夜姫』を今この場で演じさせてもらいましょうか」
「外の世界の民俗学者が聞いたら怒りそうだね、それ。まあいいや」

 苦笑しながら、妹紅は傍らの慧音の肩を叩いた。

「そういうわけでさ、慧音」
「もっこもこ太郎……いや呼びにくいか……それなら……ん、ああ、なんだ妹紅?」
「いや、ちょっと、輝夜と殺し合いしてくるから」
「な、なに!? お前そんな、ちょっと野菜を買ってくるみたいな……」
「なーに言ってんの。あいつとわたしは仇敵同士、今までもこれからもずーっと変わりないよ。たぶん一万年とか経っても同じことやってるんじゃないかな」
「……そうか」

 慧音はどことなく嬉しそうに微笑んだ。

「それなら、わたしも安心だな」
「うん、いやまあ、安心するのもなんか違うけど」

 妹紅はなんとなく照れくさくなって、鼻の頭を掻いた。

「ま、そういうわけだから、ちょいとお姫様燃やしてくるよ。その後一緒に朝ご飯食べよ」
「ああ。待っているぞ」

 励ますような慧音の視線を背に、妹紅は輝夜とともに朝日輝く空に飛び上がる。いつになく、体が軽い。

(ああ、そうだ。永遠に生きよう)

 昇りつつある朝日に目を細めながら、妹紅はそっと、胸の片隅で呟く。
 不死人として終わりなく存在するのではなく、人間として永遠に生きよう、と。
 そう誓いながら、妹紅は輝夜に向かって最初の炎を放った。



 <了>
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