【東方SS】わたしを見つけて

2010年8月のC78で頒布された「幻想四葉帖 ~four-leaf memories~」という合同誌に寄稿したSSを転載します。
誤字修正等でわずかに手を加えてありますがほぼ合同誌掲載時のままになっています。
東方の射命丸文とチルノのSSです。当時の特設ページはこちらとなります。
 


『わたしを見つけて』



「スペルカードルールねえ。なんだか面倒くさそうだなあ」

 目の前の男妖怪が顔をしかめてそう言うのを聞いて、文はまたか、とうんざりした。
 周囲にはその妖怪の知り合いと思しき連中が集まっているが、誰もが同じような顔をしている。
 面倒くさい、意味が分からない、やりたくない。

「……ともかく、例として今から実際にわたしたちが一戦披露してみせよう。よく見ておいてくれ」

 公務用の固い口調で言いながら、文は少し離れた場所に向かって目配せをする。そこに立っているのは同僚だ。文同様、正装である軍服に身を包んでいる鴉天狗の若者。どこへ行っても反応が芳しくない任務にうんざりしたのか、彼の厳しく引き締められた表情にはどことなく疲れが見える。
 文としてもその気持ちは分からないではないが、仕事は真面目にしてくれなければ困る。

(準備はいいか?)
(大丈夫です)

 視線だけで軽くやりとりを交わし、二人は同時に地を蹴った。垂直に上昇し、晴れ渡った空へと舞い上がる。
 少しの距離を置いて向かい合った二人は、ほぼ同時に腰へと手を伸ばす。そこには天狗という種族の象徴とも言える、八つ手の団扇が差してある。それを儀礼的に掲げながら、文は朗々と声を張り上げた。

「では、スペルカードルールに基づいた戦闘を開始する。スペルカードは互いに一枚ずつだ」

 聞いているのか聞いていないのか、眼下の妖怪たちは退屈そうにこちらを見上げているばかりだ。
 文の声を合図にして、同僚が動き出した。縦横無尽に空を飛び回り、妖力で生成した弾を無造作にばらまき始める。
 その様子を見て、文は内心舌打ちした。こうして同僚と模擬戦闘を演じるのは、これが初めてではない。この任務が始まって以来何度も、同じような段取りで郷の妖怪たちを観客として行ってきたことだ。
 だからこそ、分かる。今同僚が展開している無秩序な弾幕も、一見風のように素早い動きも彼の全力とは程遠い、と。
 全力と言っても、相手を叩き伏せるだとか打ち倒すだとか、そういう意味の力ではない。
 一応「相手に弾を当てたり負けを認めさせたら勝ち」という取り決めはあるものの、このルールの基本理念は美しさを競うことだ。すなわち本当に重要なのは、いかに美しい弾幕を展開して相手と自分を楽しませるかということに尽きる。
 そういった視点で今の同僚を見てみると、弾幕も彼自身の動きも、この任務を始めたときより数段は見劣りする。
 端的に言ってしまえば、前よりも美しくないということだ。

(手を抜いている……いや、弾幕の形成に全力を尽くせる心境にない、とでも言うべきか)

 同僚のばらまくお粗末な弾幕を軽やかな動きで避けながら、文は内心ため息を吐く。
 同僚の気持ちも、分からなくはない。スペルカードルールを公布するために幻想郷全域にいる妖怪たちのところに赴き、彼らの前で実際に模擬戦闘を演じてみせる。それが今回の公務の内容だ。手加減抜きで暴れ回っている吸血鬼を力づくで取り押さえろ、などというのに比べれば、子供のお使いのようにすら思える簡単な仕事。
 だが、今回の任務を命ぜられた鴉天狗の中には、あまりやる気を出せないでいる者も多い。理由は大きく分けて二つ。一つは今まさに文たちが実感している、指導対象である妖怪たちの反応の悪さ。そしてもう一つは、指導役たる鴉天狗たちの中にすら、このルールの意義や有用性について疑問を抱いている者が多い、ということだった。
 今回文と組んでいる若者の態度にも、そういった疑念は見え隠れしていた。だが、生来の真面目さと仕事慣れしていない若さからか、文の指示には文句を垂れることもなく従ってくれている。この任務に従事している他の天狗たちの中には、おざなりに説明して適当に弾をばらまいてハイ終了、などと、形だけ取り繕うような仕事をしている輩も多いと聞くから、それに比べればまだマシだろう。

(全く嘆かわしい……なんて言えるほど、わたしも真面目じゃないけど)

 それでも文は、今回の公務には他の誰にも負けない情熱を持って臨んでいるつもりだ。それこそ、普段新聞作りに精を出しているときと劣らぬほどに。
 そのやる気の源は、端的に言ってしまえば純粋な興味と好奇心。天狗社会への貢献だとか忠誠だとか何とかは、文にとっては半ばどうでもいいことだった。

(もちろん、この仕事の出来がわたしの目標達成にもある程度は影響を及ぼすわけだから、手を抜くつもりはさらさらないけどね……っと)

 そのとき、同僚のスペルカードが時間切れになった。視界を埋めつくさんばかりに飛び交っていた大量の妖力弾が音を立てて消し飛び、雲が払われたかのように青空が戻ってくる。
 この光景には多少感じ入るところがあったらしく、眼下から誰かが息を飲む音が一つだけ聞こえてきた。

(一つだけ、ね。これだけきれいなものを見ていながら)

 眼下の妖怪たちの鈍感さを軽蔑するべきか、それとも一人だけでもこの美しさに気づけた者がいたことを喜ぶべきか。
 差し当たって、今はそのことについて考えている時間はない。文は目の前の仕事に意識を向け直す。

「では、次は私、射命丸文がスペルカードを使わせてもらう」

 一応形式に則っているとはいえ、こうしていちいち宣言するのは少々まどろっこしい。実際にこのルールに基づいた戦闘が頻発するような世がくれば、こういった形式は自然と省かれていくかもしれない。
 そんなことを考えながら、文は用意していたスペルカードを取り出す。自然と心が躍り、口元に笑みが浮かんだ。
 先ほどまで同僚が展開していたスペルカードは、風に吹き散らされる木の葉を模したものだった。彼はこの任務が始まって以降、ずっとそのスペルカードを使っている。無論、それはそれで別段不出来なものではないし、デモンストレーションという最低目標を達成するだけならば、それで十分だ。

(でも、それじゃあ面白くないでしょっ)

 文の笑みに気付いたか、少し距離を隔てた同僚の頬がかすかにひきつるのが見えた。
 またですか、とその目が言っている。
 もちろんだ、と文は頷いた。

「『幻想風靡』!」

 宣言と同時に、文は空気を蹴るように勢いよく飛び出した。木の葉型の妖力弾をばらまきながら、同僚の周囲を縦横無尽に駆け回る。文の速度と四方八方に展開される弾幕に翻弄され、危なっかしい動きで弾を回避している同僚の姿が見える。
 文はこんな風に、ほぼ毎回のように新しいスペルカードを作っては模擬戦闘に投入していた。
 もちろん、単にスペルカードルールのお手本を見せるだけなら、そこまでする必要はない。これは純粋に、文が楽しみのためにやっていることだ。弾幕を考えるのもカードを作るのも楽しいし、実際に展開して相手に見せるのはもっと楽しい。

(うん、今回もいい感じ。誰かに写真でも撮っておいてもらいたい気分ね)

 弾の渦巻く空を駆けながら、文は心の中で胸を張る。 自画自賛だが、しょうがない。
 眼下で見ている妖怪たちは、誰もが欠伸混じりの面倒顔で、弾幕の美しさに魅せられている者など一人もいなかったのだから。

 結果から言えば、仕事の成果は芳しくなかった。
 同僚を叩き落とした文の勝ちで勝負が終わりを告げた後、彼女らは指導対象である妖怪たちが待つ地上へと降りた。しかし出迎えた妖怪たちは相も変わらずぼんやりした顔で、

「ん、終わったのか」
「ああ。今諸君らに見てもらったのが、スペルカードルールに基づいた模擬戦闘だ。今後は巫女との戦いやもめ事の解決など、様々な場面でこのルールに則った勝負をしてもらうことになるからそのつもりで」
「はいはい分かりましたよ天狗様。適当にやりますよ。じゃ、俺らはこれで」

 とまあこんな具合で、妖怪たちはピラピラと手を振りながら気だるそうに去っていったのである。どう贔屓目に見ても、弾幕の美しさに感銘を受けて「どれ、自分も一つスペルカードとやらを作ってみるか」と発奮しているような様子には見えなかった。
 文個人としては作りたての弾幕をそれなりにイメージ通り展開できて満足だったが、仕事の出来はあまりいい方とは言えないだろう。
 だからと言って、「わたしの努力が足りないのだろうか」と思い悩むほど、殊勝な性格ではないが。

(やはり受ける側にもそれ相応の資質というか、やる気が必要とされるわね……このスペルカードルールというやつは)

 思索に耽りながら空を飛んでいたとき、文はふと、隣を飛んでいる同僚が疲れた顔をしていることに気がついた。
 気が進まない仕事の上に、毎度毎度文の新しいスペルカードの練習台になっているようなものだ。疲れるのも無理はない。

「少し休憩を取ろうか」
「ああ、そうしましょうか」

 ほっと息を吐くような口調で答えられると、文としては少々複雑である。いっそ根回しして相方を変えてもらおうかと思ったが、意味がないなとすぐに思い直す。文と同じぐらいやる気を出してこの仕事に臨んでいる天狗など、そう多くはないだろうから。
 しばらく飛んでいると、眼下の街道沿いに生えている一本の木の周囲に、数人の天狗が集まっているのを発見した。皆、堅苦しい軍服姿に気だるげな顔で雑談を交わしている。休憩中なのだろう。この公務が始まって以降、幻想郷の各所で見られるようになった光景だ。

「あそこにしよう」
「了解です」

 短いやり取りを交わして、文は同僚と共に地に降りていく。休憩していた鴉天狗たちの中の一人が、こちらに気付いて片手を上げた。

「よう、文の字じゃねえかい。調子はどうだ?」
「まあ、ぼちぼちといったところかな」

 答えながら地に降り立つ文を、その天狗が皮肉っぽい笑みと共に迎えてくれる。無精髭を生やし、口に煙管を咥えた老天狗だ。そこそこ古参の天狗である文よりも、もっと昔から幻想郷に住んでいる鴉天狗。妖怪の山での住居も近い、旧友とも呼べる存在だ。
 彼は軍服に包まれた肩を揉みながら、ぼやくように言う。

「ったく、参っちまうよなあ。軍服は重てえし野良妖怪どもはやる気がねえしよ」

 野良妖怪、というのは妖怪の山以外の場所に住んでいる妖怪たちを指して天狗たちが使う蔑称のようなものだ。こんな風に自分たち以外の種族をさして悪意もなく自然に見下すのは、彼に限らず天狗一般に見られる傾向である。

「野良妖怪どもは知恵の薄い粗暴な連中が多いんだ。このルールの有用性を理解しろと言ったって、時間がかかってもしょうがないさ」

 淡々とした口調で答えた文は、老天狗がにやついた顔でこちらを見ているのに気がついて顔をしかめた。

「なんだ。何か面白いことでもあるのか」
「お前さんのその口調さ。相変わらず立場でガラッと雰囲気変えるよな、お前さんは。そうしてると丸きり男みてえに見えるぜ」
「……放っておけ」

 文は舌打ち混じりに言う。
 実際、彼女にはそういう癖というか習性のようなものがあった。新聞記者のときは丁寧あるいは慇懃無礼な口調と物腰で相手に接し、そうでないときは本来の女言葉に天狗らしい高圧的な態度で振る舞う。今のように天狗としての正式な任務を受けて軍服に身を包むと、自然と背筋が伸びて堅苦しい口調と物腰になるのだった。
 そういう風にするのは、半ば意識してやっていることでもある。立場によって振る舞いを変えないと、何となくしっくりこない感じがするのだ。

「相変わらず変なところで頭が硬いよなあ、お前さんも」

 老天狗のにやけ面に、文は顔をしかめて言う。

「そういう爺さんこそ、軍服が重いなんて言ってるようじゃいよいよだな」
「ははは、そりゃしょうがねえよ。実際年寄りだからなあ、俺は。年甲斐もなくミニスカートで生足晒して飛び回る誰かさんほど恥知らずじゃ」
「あァ?」
「いやすまん、なんでもねえ」

 ちょっと顔を青くして謝ったあと、老天狗はちらりと横の方を見て目を細くした。

「……おう、文の字。ちょっとあっちで二人きりの密談と行こうじゃねえか」

 急に声を潜めて誘ってきた。何だろうと訝しみながらも、文は手招きする老天狗に従って移動する。
 他の天狗たちがいるのとは別の木のそばまで移動すると、老天狗は「よっこいせ」とその場に座り込んでのん気に煙草を吹かし始めた。いつまで経っても話を始めない。文はその内イライラしてきて、

「おい、密談はどうした?」
「あん?」

 老天狗は顔を上げて、皺に埋もれた小さな目を瞬き、

「ねえよ? そんなん」
「……は?」

 ふざけているのか、と文が眉をひそめると、老天狗は声を殺してくつくつと笑った。

「話があるのは俺じゃねえよ。お前さんの相方さ」

 言われて振り向くと、文と組んでいる同僚が他の天狗たちとこそこそ何か話しているのが見えた。

「余程鬱憤溜まってんだろうな、あいつ。誰かに愚痴りたくて仕方がねえって顔してたぜ。張り切りすぎなんじゃねえのかい、文の字よ」
「……フン。他の連中が無気力すぎるだけだ」

 文は他の天狗たちから目をそらし、苦い想いで吐き捨てる。それを見た老天狗は、小さな眼を細くして緩々と息を吐いた。

「でもなあ。俺も心情的にはあいつら寄りだぜ? この百年ほど着た覚えがねえカビ臭ぇ軍服なんぞ引っ張り出してきて、回りくどい方法取らされてよ。やる気がなくなるのも仕方ねえって話さ」
「……そんなことは、わたしだってわかっているさ」

 現在自分たちが置かれている状況を思い返して、文は鼻を鳴らした。



 今回文たち鴉天狗が幻想郷中に教えて回るよう命ぜられた、スペルカードルールという名の決闘法。
 その制定のきっかけとなったのは、昨年に起きた「吸血鬼異変」という名の異変である。
 吸血鬼レミリア・スカーレットが牛耳る紅魔館の幻想入りに端を発するこの異変は、長らく平穏のぬるま湯に浸かっていた幻想郷の妖怪たちに大きな衝撃を与えた。
 この異変の中、大半の妖怪たちがろくに抵抗も出来ずに紅魔館の軍門に下ってしまったことや、吸血鬼を倒すべく立ち向かった数多くの大妖たちが敢え無く撃退されてしまったことなどは、幻想郷妖怪の力の衰えを示す何よりの証拠であった。
 異変自体は強力な妖怪の賢者が吸血鬼を力づくで叩きのめしたことにより一応の解決を見たが、この一件が幻想郷に残した影響は決して小さくなかった。
 自分たちの力の衰えを重く見た一部の妖怪たちは、妖怪の賢者や博麗の巫女などに相談を持ちかけた。今の平穏を保ったまま、妖怪の戦力を維持向上するための上手い仕組みはないものだろうか、と。
 この問いに対して、幻想郷の要たる博麗の巫女から、一つの解決策が提案される。それがスペルカードルールという名の決闘法である。美しさで競うことを理念とするこのルールには、他にも「倒した相手を喰らったり殺したりしないこと」「避けられない弾幕は作らないこと」など、いくつかの取り決めが含まれている。
 このルールに従って異変とその解決、人を襲うことや退治されることなどを、ある程度安全かつ気楽に行っていこうというのが目的だ。
 様々な問題点が指摘されつつも、この法案は一定数の支持を受けて採用、制定される運びとなった。
 さて、制定された以上、当然このルールを幻想郷の妖怪あるいは人間たちに周知させる必要が出てくる。
 その公布の役目を担う者として名乗りを上げたのが、妖怪の山に君臨する天狗勢であった。古くから幻想郷に住み着いており、大結界が構築されて外の世界から郷が隔離された今でもなお、最大の規模と動員力を誇る自分たちこそがこの役目に相応しい……というのが、その理由である。
 無論、他にもいろいろと理由はある。その一つが、吸血鬼異変における失態である。幻想郷最大の規模を誇りながら、妖怪の賢者による介入を見るまで外来の吸血鬼に好き放題させてしまった、という事実。今後、郷における天狗の地位が脅かされるのではないかと上層部が危惧するのは当然の流れだった。
 そこへ来て、スペルカードルールの制定である。有用性や意義はともかく、この出来事が現在の情勢の最先端にあるのは誰の目にも明らかだ。その公布の役目を担うことによって、天狗という勢力が今も幻想郷において重要な位置を占めていることを郷中に知らしめよう、というのが上層部の思惑なのだった。
 そういった流れで、広報部隊である鴉天狗たちに今回の命が下された。この公務に従事する者は天狗の正装である軍服に身を包むべし、というのも命令の一部。威圧的な衣装で飛び回り、一般の妖怪たちに教えを授けて回ることによって、自分たちが高い地位にあることを内外に誇示しようという狙いなのだろう。
 少なくとも、実際に郷中を飛び回る鴉天狗たちは、今回の公務の意味をそんな風に捉えていた。



「……要するに年寄りどもの面子のためにこんな窮屈な服着せられてんだよな、俺たち」
「戦時じゃあるまいしねえ、時代錯誤もいいとこですよ。定例の新聞大会も今年は中止ってんでしょ? やってられないって話ですな」
「大体、ルール説明するなら野良妖怪ども一か所に集めてまとめて教えてやればいいんだよな」
「なるたけ長い間俺たちを飛ばせときたいんだろ。その方が天狗の威光を知らしめるためにはいいって考えなんだろうさ」
「全く、馬鹿馬鹿しい。これだから山に籠ってる世間知らずの年寄りどもは」

 かすかに聞こえてくる他の天狗たちの愚痴に耳を澄まし、老天狗がにやにやと笑う。

「ほれ見ろ。みんなこんな考えだぜ」

 文は無言。また天狗たちの会話が聞こえてくる。

「っつーかこのルール自体意味分かんなくね? なんでわざわざこんなごっこ遊びみたいなことやんなくちゃなんねえんだ」
「戦闘訓練やるなら、定期的に妖怪一か所に集めて模擬戦やるなり武術大会やるなりすればいいって話だよな。なんだってこんな七面倒くさい……」
「あー、やる気出ねえ。野良妖怪どももロクに話聞かねえしよ」
「そッスか? 女子供にゃ割と好評ッスよ、これ」
「要するに子供騙しってこったろ」
「俺なんか人里担当だぜ? 人間の百姓にこんなもん説明してどうなるってんだよ。ポカンとしてる連中に物を教える空しさを年寄りどもに教えてやりてえよ」
「そんなのまだいいですよ。わたしなんて妖精担当ですよ? 頭悪いから天狗がいかに強大な勢力かっていうのが理解できないんでしょうねえ。話聞かないわ説明の途中でどっか行っちゃうわ、悪戯されるわ……この公務始まってから何回軍服取り替えたことか」
「それはお前がボーッとしてるのが悪いんだろ」

 交わされる愚痴を盗み聞きながら、文は小さくため息を吐く。老天狗が面白がるように見上げてきた。

「……で、そんな中で一人やる気を出してらっしゃる文の字さんに、このルールの意義とやらを聞いてみたいところだね、俺としちゃ」
「……別に、そんな大したことは考えていないさ。このルールに問題点が数多くあるのも理解はしている」

 文はそう言いつつも、小さく首を横に振った。

「だが、連中が言っているように模擬戦やら武術大会やらを開くという方法が上手くいくとは思えないな」
「ほう。どうしてだ?」
「それこそやる気の問題さ。この郷は長い間平和だった。そういう形式では手を抜く輩ばかりで訓練にならないだろう。それに、天狗のように社会性を持っている妖怪は少数派だ。一か所に集めるのには手間がかかるだろうし、無理に従わせれば要らぬ反発を招きかねない。そういう反感が育てば、また吸血鬼異変のような事態が起きたとき、今度は自発的に敵に回ろうとする輩が出てきて騒ぎが深刻化する可能性もある。ただでさえ無思慮で無責任で乱痴気騒ぎが好きな輩が多い場所だからな、この郷は」
「ふうん……なるほどね」

 老天狗が、感心したように腕を組む。

「遊びみたいなルールにも、それなりの意味があるってわけだ。確かにこのやり方なら無理矢理戦わせようとする形にはならんし、自主的に参加したがるようなやる気のある奴を見分けられるものな。上手いことやれば、ルールに従って異変ごっこに参加する奴同士で、仲間意識みたいなものを育てるのも可能、か。吸血鬼異変みたいなことがまた起きれば、今度は団結して事に当たれる可能性もあるな。なるほど、よくよく考えればそれなりに有用ではあるか」
「多少恣意的な解釈だがな。それに……」
「それに?」

 老天狗に説明すべく口を開きかけて、「いや」と文は首を振った。

「……なんでもない。わたしの考えはこんなところだ」
「……そうかい。まあ、いいがね」

 老天狗は敢えて追及しようとはせず、代わりにからかうような口調で言った。

「何を企んでいやがるのかは知らねえが、あんまり深入りはしねえこったな、文の字よ」
「どういう意味だ?」

 文が眉をひそめると、老天狗は煙管を吹かしながら訳知り顔で言った。

「お前さんはよ、柔軟に見えて根っこのところが真面目だからな。深入りしすぎると痛い目見るかもしれねえぜ」
「……肝に銘じておくさ」

 文は不満を抑えてそう答え、まだ愚痴を交わしている天狗たちを睨むように見つめた。



 その日の仕事を終えた文は、いつものように妖怪の山の天狗居住区へと帰り着いた。周囲には彼女と同じように仕事を終えてきたらしい、軍服の鴉天狗たちの姿がちらほらと見られる。皆一様に疲れた顔をしていて、飲みに行くか、それより寝たい、などと言い交わしている。
 文はそんな雑踏を抜けて、自分の住処へ向かって歩き出した。天狗の住居は妖怪の山の山肌を掘って作られた洞窟の中にある。住処が山頂に近ければ近いほど、天狗社会における地位も高い。文の住居は、山の中腹よりも山頂に近い位置にあった。
 自宅の書斎に帰り着いた文は、軍服を脱ぎ捨ててサラシも解き、楽な格好になった。そのままごろんと寝台に寝転び、ぼんやりと天井を見上げる。

「……あー……」

 疲れた声が漏れた。文の場合、疲労の意味は他の鴉天狗とは違う。全力で飛び回ったが故の心地よい疲労感だ。

「……面白いと思うんだけどなあ、スペルカードルール」

 愚痴っぽい独り言を漏らした声は、軍服を纏っていたときとは比べ物にならないぐらいに柔らかく、女性的だ。自分で聞いてもそう思う。意識的にやっている部分と無意識的な習性と、両方の面があるが、こうも違っているのは自分でも面白く感じる。
 文は吐息混じりに身を起こして立ち上がると、壁際の作業机に向かった。普段新聞作りのために使っている机は、書き損じあるいは書きかけの原稿と、撮りためた写真の山に埋もれている。
 机に頬杖を突いてそれらを眺めながら、昼間の老天狗とのやり取りをぼんやり思い返す。
 文がスペルカードルール公布の仕事に情熱を注いでいるのは、あのとき老天狗に語ったような客観的あるいは合理的な考えだけが理由ではない。もっと個人的で、感情的な理由も多々あった。むしろそちらの方が、動機としては大きいかもしれない。
 長いこと情報に携わり、新聞作りのためにたくさんの写真を撮影してきた者なりの勘、とでも言うべきだろうか。美しさを競うために弾幕を作りだすというこの遊びが、これからの幻想郷にたくさんの愉快な騒動を生み出していくような気がしてならないのである。
 文は本来、物事の流れを観察、記録し、広く世に知らしめることを信条とする新聞記者である。そんな彼女が、今幻想郷に起こりつつある変化の最先端に立って、この流れの行く末を見つめていきたいと願うのは至極当然のことであった。

(それに……)

 一人微笑みながら、文は手元にあった写真を何枚か手に取ってみる。それらは全て、幻想郷の他愛ない風景を写した写真だ。他愛ないながらも、文なりに美しいと思って写真に収めた光景。

「……美しさを競い合う遊びは、意志によって美しさを生み出し、伝え合おうとする遊びに他ならない」

 自分の考えを、口に出して言ってみる。こういった考えを持っているからこそ、文はスペルカードルールや弾幕というものに大きな魅力を感じているのだ。
 互いに心に想う美しさを表現し、伝え合う遊び。これが広がれば、今までになかった数多くの出会いが生まれ、出会いはまた観察しがいのある事件をたくさん生み出してくれるはず。だから出来る限り多くの者にスペルカードルールの魅力を伝え、この流れの中に巻き込んでいきたいと思っている。
 自分でも笑ってしまうほどロマンチックな思想だが、文の心根にはそういったものを好む精神が否定しようもなく存在しているのだった。

「……明日もがんばろ」

 小さく呟いて写真を戻し、文は寝台に身を横たえた。



 非効率的な手段を取っているとは言え、やはり人海戦術というのは大したものである。
 この公務を始めて一カ月も経つ頃になると、幻想郷の空を飛びまわる天狗たちの数は目に見えて減ってきていた。大半の天狗たちが既に自分の担当区域での仕事を終え、山に帰還していたのだ。適当に仕事をこなしている輩が多いせいもあるのだろうが。
 ただ、他の者たちに比べれば相当丁寧に仕事をしている文たちにしても、さほど進みが遅いというわけではなかった。

「ようやく終わりが見えてきましたね」

 担当区域の妖怪名簿をめくりながら、同僚の若天狗がほっと息を吐くように言う。解放感や達成感に満ちたその声音を聞いて、文は苦い想いを感じた。
 結局、この仕事を通して彼の認識が変わることはなかった。根本的に弾幕というものを美しいと思える感性に欠けているためか、それとも「これは上層部の体面を取り繕うだけの、面倒くさくて無意味な仕事だ」という先入観がある故か、はたまた単に頭が固い性格であるが故か。

(考えても仕方がない、か)

 確実なのは、結局文が考えるスペルカードルールの魅力というのが、一番近くで一番多く見ていた者にすら伝わらなかったということだけだ。そう思うと疲労感で体が重くなるような気すらして、文はまたため息を吐きそうになる。
 そのときふと、風に乗って騒音が聞こえてきた。風船が次々と弾け飛ぶような軽い破裂音の連なりと、幾重にも交差する甲高いうねり。何か、と思うと、視界の隅で眩い光が瞬いた。
 見れば、それは弾幕が放つ光と音だった。少し離れた空の上で、向かい合った二人の少女妖怪が無数の弾を飛ばし合っている。ぶつけるように、じゃれつくように。互いの弾を避けて受けて、そのたびケラケラ笑い合う。

「……やってる奴もいるんですね」
「ああ」

 不思議そうな同僚の声に短く答えながら、文は目を細めて少女たちの弾幕を観察する。
 果たして弾幕とはなんであるか、というのを考えながらスペルカードを作っている文などに比べれば、少女たちの弾幕は拙いものだった。いかにして相手を魅了するか、などといった難しいことは考えていないらしく、ほとんどただ適当に弾をばらまいているだけにも見える。
 美しさという観点から評価をつけるのならば、迷うことなく落第点だ。絵に例えるなら子供の落書きとでも言ったところか。少女たちの無邪気な様子を見ていると、実際、その程度の意識でやっているのが見て取れる。
 文にしてみれば、そのことが少々不満だった。どうせならばもっと自分なりに、弾幕の美しさというのを意識して作ってもらいたい、と思う。

(……まあ、今は参加してくれているだけでも良しとしておくべきなんだろうけど)

 ややもどかしさを感じながらも、文はとりあえずそう思って納得することにした。実際、悪いことではない。完全に目論見通りとまではいかなくても、多少は自分が力を入れて仕事をした結果が現れてきているということだろうから。

「……さっさと終わらせることにしようか。次の指導対象は誰だ?」
「ああ、はい。そうですね、ここからだと……」

 同僚がパラパラと名簿をめくり始める横で、文はふと周囲を見渡した。
 今彼女らが飛んでいるのは、霧の湖と呼ばれる広い湖の上だった。その名に反して、今日は霧が出ておらず視界良好だ。柔らかな日差しを浴びて透き通った輝きをたたえる湖には岬が一つ突き出ていて、そこには遠目に見ても分かるほど、全面が紅い館が建っている。
 紅魔館というその建物には、あの吸血鬼異変の首謀者が住んでいるはずだ。散々好き勝手暴れまわって天狗の面子を潰し、その挙句に妖怪の賢者に叩きのめされた、レミリア・スカーレットという名の吸血鬼。
 本来であれば敗北者として厳しい制裁を受けてもおかしくない立場のはずだが、今のところ、郷の人間の血を吸ってはいけないという決まりを始めとしたいくつかの契約を結ばされた以外、大した処罰は受けていない。あの異変で存分に力を誇示した結果である。叩きのめされたと言ってもレミリア・スカーレットは全力で抵抗したわけではなく、そこそこ楽しんだからもういいやと言って、あっさり負けを認めた面が大きい。あまり厳しい処罰を課して逆上させたら、今度こそ幻想郷が壊れるまで殺し合いを続けることになるかもしれないと誰もが危惧したわけだ。

(案外、スペルカードルールの面白さを一番よく理解してくれるのは彼女のような存在かもしれない)

 ふとそんなことを考えて、文は苦笑する。
 実際、あの吸血鬼は遊び心というものをよく解する性質であると文は見ている。レミリアは吸血鬼異変の際、幻想郷在住の多くの下級妖怪を無理矢理配下にして大軍団を作り上げたりしたが、そういった行動の端々に、物事を無駄に大仰にして騒ぎを楽しむという、お祭り好きとでも言うべき性質が感じられるのだ。
 相手を倒すためではなく、魅せて楽しませるという目的で大量の無駄弾をばらまく。そんな遊びを楽しむためには真面目一辺倒ではとてもやっていられない。そういった意味で、あの吸血鬼ならばスペルカードルールに基づいた模擬戦闘も結構楽しんでくれるのではないかと思えた。

(彼女がスペルカードルールを利用して異変騒ぎを起こせば、新たにこの輪の中に参加したがる者も増えるかもしれないな)

 もしそうなったら是非とも記者として取材を敢行したいものだ、と文は思う。面倒事を避けるために吸血鬼異変の首謀者であるレミリア・スカーレットには近づきたがらない天狗が多いから、上手くいけば独占取材にできるかもしれない。
 漠然とそんなことを考えて一人頬を緩ませた、まさにその瞬間。
 ふと、文は奇妙な直感を覚えて右方を見た。その方向には霧の湖の湖岸があり、そこから少し奥まったところには、森とは呼べぬ小さな雑木林が広がっている。
 その木々の隙間で、何かがきらりと光ったような気がした。

(なに……?)

 文は眉をひそめる。
 先ほどの光り方からするに、おそらくそこにあった何かが太陽の光に反射したのだろう。時間にしてみれば本当に一瞬のことで、今何気なくそこを見なかったら間違いなく見落としていたであろう、小さな小さな光だった。
 そんな小さな光のことが、なぜだかやけに気になった。記者としての……もっと言うなら長年情報に携わってきた者としての勘とでも言うべきものが、先ほどの光が何なのか直接確かめに行くべきだと言っているような気がする。

「文さん。次の指導対象は魔法の森近くの……どうかしましたか?」

 怪訝そうに眉をひそめる同僚の顔と、先ほど何かが光った場所とを目だけで見比べる。
 公務中の天狗としてどうするべきかは一目瞭然だ。仕事はまだ終わっていないし、先ほど見た光は今はもうちらりとも見えない。無視して仕事に戻るのが正しい天狗としての在り方というものだろう。
 ただ文は模範的な天狗ではなかったし、そうあろうとしたこともなかった。

「急用ができた」
「は?」

 目を丸くする同僚に、文はなんでもない口調で言ってやる。

「急用ができたのだ。残りは君一人でやってくれ」
「え。は、いや……」

 同僚は少しの間戸惑ったようにあちこち視線を泳がせていたが、やがて何か思いついたように目を光らせ、穏やかに微笑みながら頷いた。

「承知しました。この先は私一人で任務を全うすることに致します」
「すまないな。事情については後で上に報告するから、もし誰かに聞かれたらそう答えておいてくれ」
「はっ。では、失礼します」

 同僚はそう返事をすると、後は振り返ることもなくさっさと飛んで行ってしまった。
 その背を見ながら、文は苦笑する。
 あの若天狗はこう考えたのだろう。この仕事中は一応上司である文がいなくなれば、毎回新しいスペルカードを相手にするようなきつい立ち回りを演ずることもない。下手に事情を問い質して面倒なことになるのは御免だし、適当に見送ればいい、と。
 あの若天狗は割と真面目な性質だが、その程度の計算ができる程度には肩の力が抜けているらしい。

(やはり天狗というのはこうでなくてはね)

 いろいろとやりやすくなったことに満足しつつ、文は気持ちを切り替えて湖岸に飛んだ。



 どの辺りだったかな、と考えながら、文は雑木林の中を歩いていた。
 空から見る限りさほど大きな林ではないはずだったが、中に足を踏み入れてみると意外なほど広々と木々が枝を伸ばしていた。そのせいで日差しが遮られているため、見通しが悪い。全体的に薄暗い雰囲気もあって、少し陰気に感じる場所だった。

(妖怪ならともかく、人間や妖精はまず近寄らないでしょうね)

 そんなことを考えながら、先程の光を探して歩く。一瞬のことだったし、ほんの小さな光だったから、正確な場所は分からない。白狼天狗のように千里眼を持っているわけでもないので、歩いて地道に探すしかなかった。
 もっとも、普段から記事のネタを探して幻想郷中を飛びまわっている文にとっては、この程度の探索活動など大して苦にもならないが。

(あれはいったい何だろう。わたしの興味を惹きつけて止まない、あの小さくて綺麗な光は)

 それらしきものはなかなか見つからないが、休むことなく歩き回り、周囲に視線を走らせる。膨らみ続ける好奇心に、胸の鼓動は早まるばかり。やはり自分はこういう活動が好きなのだな、と改めて実感させられる。

(次はこういう気分を題材にしたスペルカードでも作ってみようか)

 そんなことを考えたとき、文はふと、鼻先にひやりとしたものを感じた。
 一瞬、自分に向けられた悪意や敵意を冷気のように錯覚したのかと思ったが、そうではなかった。実際に、周囲の空気が冷えてきている。冷たいというよりは涼しいという感じだったが。

(妖怪か……?)

 魑魅魍魎が跋扈する幻想郷には、冷気を操る存在など数えきれないほどたくさんいる。
 ただ、そういった者たちは冬に活動し、それ以外の季節は自分の寝床に籠っているのが普通である。春、あるいは初夏と呼ばれるこの季節に、こんなところで遭遇するのは奇妙なことだった。
 文は気を引き締める。今のところ害意のようなものは感じられないし、天狗に喧嘩を売る愚か者がそうそういるとも思えない。先の異変で失態を演じたとは言え、今でも天狗が幻想郷で一番大きな勢力であることに違いはないのだから。

(とは言え、用心に越したことはない、か……)

 そうしてじりじりと歩を進め、冷気が少しずつ強くなっていくのを感じながら、文はふと思う。
 もしかしたら、この冷気はさっきの光と何か関係しているのではないか、と。
 そう思った瞬間、木々の向こうに何か光るものを見つけた。

(いた!)

 文は素早く地を蹴り、木々の隙間を縫って矢のように飛んだ。幻想郷最速の天狗から逃げられる者などまずいないし、逃がすつもりも毛頭にない。
 そうして飛びこんだ先で光の正体を目の当たりにし、文は目を見開いた。
 雑木林の奥。枝の重なりの下、小さな女の子が取り残されたように一人ぽつんと佇んでいる。空色の髪と青い瞳、青を基調とした簡素なワンピース。華奢な手足は握っただけでぽきりと折れそうなほどに細く、繊細な美しさを感じさせる。
 だがそういった諸々よりも目を引くのは、彼女の背中から突き出した羽だった。
 羽と言っても、鳥のようなものでもなければ虫のようなものでもない。
 その羽は、氷だった。一片の汚れもない透き通った水晶のような氷が三対、まるで羽のように少女の背から伸びている。
 それが風を切るためのものであるはずがなく、従って飛ぶためのものでもない。
 ただ彼女が彼女であることを証明するためのものであるかのように、氷の羽はどこまでも冷たく、美しかった。
 文は驚き、息をするのも忘れてその少女に見惚れていたが、突然現れた相手に驚いていたのは相手の方でも同じだったらしい。目を見開いてこちらを見つめている。
 そんな少女を前に、文は頭の片隅で考えた。彼女は一体何なのか、と。同じ存在に会ったことは今まで一度もない。だが、似て非なる気配を持つ生き物のことなら、文はよく知っている。

「妖精……? こんな陰気な場所に?」
 
 思わず呟いた瞬間、それまで驚きに固まっていた少女の顔がさっと変化した。眉根を寄せ、目を吊り上げ、唇をへの字にして顔全体を歪める。
 今にも泣き出しそうな表情だ、と文が思った瞬間、少女は突如として身を翻し、背後にあった木の陰に飛びこんだ。

「あ、待って……!」

 慌てて手を伸ばして踏み出しかけた文は、ふと、少女が立っていた場所の異変に気がついた。踏みしめられた雑草が、何やらきらきらと光っている。
 しゃがみこんでよく見てみると、萎れた草に霜が降りていた。季節は初夏。自然現象では考えられないことだ。

(あの子の仕業……?)

 顔を上げると、また鼻先がひやりとした。空気が先ほどよりも冷たくなっている。その中心は、おそらくあの少女だろう。わざと冷気を振りまいているのか、それとも制御できずに垂れ流しになっているのか。

(氷の妖精、とでもいったところか)

 妖精というのは自然の歪みが生み出した生き物であり、本来は日の当たる暖かな場所を好む、陽の気を持つ存在である。
 だが、先ほどの少女を見る限り、彼女が持っているのは明らかに陰の気だ。陰の気を持つ妖精。文とてそこそこ長く生きているつもりだが、そんなものにお目にかかったのはこれが初めてのことだった。

(面白い……! 探して良かった……!)

 文は深い満足感と共に確信する。同時に、もっとあの少女のことを知りたいと思った。
 氷の妖精はまだ隠れたままだ。頭隠して尻隠さずとでも言うべきか、木の陰から飛び出た氷の羽の先端がかすかに震えているのが見える。

(警戒されてるけど、逃げない辺りこちらへの興味はある、か……よし)

 文は一つ咳払いをすると、可能な限り穏やかな微笑と柔らかな声音を作って呼びかけた。

「お嬢さん、驚かせてしまって申し訳ない。わたしは山に住んでいる天狗で、怪しい者ではないんだ。危害を加えるつもりはないから、出てきて少し話を聞いてもらえないだろうか」

 言ってしまってから、口調を直すのを忘れたことに気がついた。まあ、公務用の軍服という格好で普段の女言葉や記者モードの丁寧口調を使うのは違和感があるので、ちょうどいいと言えばちょうどいいのだが。
 氷の妖精はなかなか出てきてくれなかった。呼びかけられたときから氷の羽の震えが少し大きくなったようだったので、おそらく迷ってるのだろうと思う。
 文が我慢強く待ち続けていると、妖精はおそるおそる、半分だけ顔を出した。青い瞳で警戒するようにこちらを見ながら、怯えを含んだか細い声で問いかけてくる。

「……なに?」

 いかにも子供という感じのする、高い声音だった。表情とも合わせて考えるに、陰の気を持つ者らしい内気で大人しい性格なのだろう。
 そう推測しつつ、顔にはいかにも人の良さそうな笑みを浮かべて、文は再度呼びかける。

「少し、聞きたいことがあってね。出てきてわたしとお話してくれないかな?」

 可能な限りの猫撫で声を作った。それを聞いた妖精は、躊躇うように視線をさまよわせる。
 ややあって、妖精はなぜか泣き出しそうな色を瞳に浮かべながら、

「……笑わない?」

 一瞬、妙な質問だな、と思った。だがすぐに意図を察する。これだけ珍しい存在だ。周囲に馴染めず孤立していたとしても不思議ではない。陽の気に属する妖精の中にあって一人だけ陰の気を持つ妖精ともなれば、無邪気で無遠慮な視線と笑い声に晒されて、傷つくことも多いのだろう。

「ああ。笑わないよ。安心して出ておいで」

 文が柔らかな声音で促すと、妖精はまだ躊躇いながらもおそるおそる木の陰から出てきてくれた。かすかに揺れる氷の羽が、木漏れ日を浴びてきらりと光る。

(やっぱり、綺麗……!)

 カメラを持ってきておけばよかった、と一瞬思い、いや、やっぱり持ってこなくて良かった、とすぐに考えを改める。
 文の視線が氷の羽に吸い寄せられそうになったのを見て、妖精の顔が一瞬曇ったのだ。やはり、推測は当たっていたらしい。彼女はじろじろと物珍しげに見られたり、笑われたりするのをひどく恐れている。
 そう理解したので、文は誘惑を感じながらも、努めてその羽を見ないようにした。なおかつ、別段なんでもなさそうな風を装って、気さくに話しかける。

「こんにちは、お嬢さん。実は、道に迷ってしまってね。この林から出るにはどっちに行ったらいいか、教えてくれないかな?」

 文がいかにも困った様子で嘘を並べると、妖精は目を丸くした。

「……道に迷った? こんな狭いところで?」
「そう。フラフラと飛んでいたら木にぶつかって落ちてしまったんだ。羽が痛くて飛ぶのが辛いから、歩いて仲間のところまで行かないといけないんだよ。ところがこの辺にはあまり来たことがないものだから、道が分からなくてね」

 こんな間抜けな作り話をしているのには、もちろんちゃんと意味がある。妖精の返答やそのときの様子で、彼女の性質についてある程度把握するためだ。
 文がさり気なく観察の視線を注ぐ前で、妖精は戸惑った様子で腕を上げた。

「えっと、ここから出るにはね……」

 小さな声でたどたどしく言いながら、割と丁寧かつ親切に方向を教えてくれる。指示の内容も、まず正しいと言えるものだった。

(他者を騙して楽しむような、いかにも妖精にありがちな悪戯好きな性質じゃないみたいね。話し方からして頭はそれほど悪くないようだけれど、こちらの言うことを疑う様子がほとんどないのは、単に鈍いのかそれとも素直な性格なのか……いずれにしても、ひねくれたところはほとんどなし、か)

 妖精の指示に相槌を打ちながら、文は頭の中で分析を続ける。近くに来てみて確認できたが、やはり彼女の体からは多量の冷気が漏れ出していた。こちらへの害意は全く感じられないから、おそらく制御できずに垂れ流しになっているのだろう。
 近くで感じる限り、持っている力そのものは普通の妖精よりもずっと強いらしかったが、他の面での未熟さから察するに、まだ生まれ立てのように思える。

(これなら懐柔するのは容易そうね)

 文がそう判断したとき、ちょうど妖精の道案内が終わった。
 彼女はワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、不安げな上目づかいで文の顔を窺いながら、また小さな声で、

「あの……分かった?」
「ああ。ありがとう、お嬢さん。とても分かりやすい説明だったよ」

 文が安心させるような口調でそう言ってやると、妖精はほっとしたような微笑を浮かべた。
 少し警戒が解けたように思えたので、文は次の段階に移行する。

「さて、と」

 呟きながら周囲を見回し、近くにあった木の根元に腰を下ろす。腰にぶら下げていた巾着の口を開けて、中に入っていた笹包みを取り出した。
 顔を上げると、思った通り妖精が不思議そうにこちらを見ていたので、文は首を傾げてみせた。

「どうしたんだい、お嬢さん」
「え? えっと」

 妖精は戸惑ったような声で、

「……友達のところに行かないの?」
「ん? ああ、君のおかげで道が分かったからね。だけど歩き通しでお腹が空いてしまったから」

 言いかけ、いかにも今気付いたという風に、

「そうだ、お嬢さん。もし良かったら、一緒に昼ご飯を食べないか?」
「……ご飯? でも……」

 妖精がまた怖がるように目を伏せたので、文は押しつけがましくならないように気をつけながら言う。

「ああ、ご飯だ。ささやかながら、お礼がしたくてね」

 妖精はまだ迷っている様子だったが、やがてゆっくりとこちらに近寄ってきた。文の隣にこわごわと腰を下ろし、ちらちらとこちらを窺ってくる。
 かかった、と内心で指を鳴らしながら、文は笑顔で笹包みを解いた。

「お昼といっても、こんな小さなおにぎりだけどね。さ、どうぞ」

 文が拳大のおにぎりを一つ差し出すと、妖精はおっかなびっくりそれを受け取ってしげしげと眺めた。
 ひょっとするとおにぎりを知らないのかもしれない、と思って、文はお手本を見せるようにぱくりと一口食べてみせる。妖精は横目でちらっとそれを見ると、小さな唇を小さく開き、文と同じように一口食べた。
 妖精は途端に目を丸くする。

「おいしい?」

 文が微笑みながら問うと、妖精はほのかに頬を染めてこっくりと頷いた。
 それから並んでおにぎりを食べながら、文は自分の話も交えつつ、言葉巧みに妖精本人のことを聞きだした。
 それによると、彼女はチルノという名前で、文の予想通り少し前に生まれ落ちたばかりらしかった。正確な日付は分からないが、昨年の冬は経験していること、吸血鬼異変のことを尋ねても分からない様子だったことなどから、おそらくあの直後辺りの時期に生まれたものと思われた。

(吸血鬼異変の後、か。あの一件で幻想郷に妙な歪みが生じたと考えれば、変に辻褄が合う気がするわね)

 ちなみに、自分がチルノという名前であることは最初から知っていたらしく、誰につけてもらったかは分からないらしい。

「チルノはこの辺りに住んでいるの?」
「うん。でもみんなみたいにおうちはないの。いつも木の下とかで寝るの」

 チルノは舌足らずな口調で一生懸命説明する。みんな、というのは他の妖精のことだろうが、文は敢えて深くは尋ねなかった。妙なことを聞いて嫌な気分にさせたら、逃げられるかもしれないと思ったのだ。
 文がそうまでしてチルノを気遣い、仲良くなろうとしているのには、もちろん理由がある。物珍しくていい被写体や記事の種になりそうだから、というのもあるが、もちろんそれだけではない。
 彼女を見たとき、ふと思い出したのだ。少し前に同僚が言っていた、妖精たちがスペルカードルールを覚えてくれなくて困る、という愚痴。

(この子に上手いことスペルカードルールを教え込めば、妖精たちに対する広告塔になってくれるかもしれない)

 チルノは少々変わった性質を持っているものの、妖精である。その中でも力が強く、物珍しさから注目されているであろう存在だ。そんな彼女がスペルカードルールに基づいた戦闘に参加すれば、他の妖精たちも興味を惹かれて集まってくるかもしれない。そうでなくても天狗たちよりは、同じ妖精である彼女の方が話を聞いてもらえる可能性は高い。
 スペルカードルールに少しでも多くの者を巻き込むのが文の目的である以上、このチルノという妖精を利用しない手ははないというわけだ。
 文はもちろん、そういう意図を表には出さなかった。ただ穏やかな笑みを浮かべて、チルノとお喋りを続けるだけである。

「……だからまあ、多分私は方向音痴なんだろうね。いつも道に迷ってばかりなんだ」
「そうなんだ」
「ああ。この間も空と湖を間違えて、湖面に突っ込みそうになったぐらいだよ」
「うっそだぁ」

 文の冗談を聞いて、チルノが楽しそうに笑う。緊張もかなり解けたらしく、時折明るい表情も見せてくれるようになっていた。

「そんな風にドジばかりだから、仲間にも笑われてばかりでね……いや、大人なのだからしっかりしなくてはいけない、と自分でも思うんだけど、なかなかね」

 文がしんみりした口調で呟いてみせると、チルノは「そうなんだ」と小声で言って悲しそうに目を伏せた。彼女の傷に触れないようにしながら共感を抱かせる狙いで吐いた嘘だったが、どうやら成功したようだ。

(……そろそろ、かな)

 頃合いを見計らい、文は「さて」と言いながら立ち上がった。驚くチルノに向かって振り返り、軽く笑いかける。

「道を教えてくれて本当にありがとう、チルノ。おかげで何とか帰れそうだ」
「う、うん。あの……えと」

 チルノはワンピースの裾をぎゅっと握りしめて、何か言いたげにちらちらとこちらの顔を窺い始めた。

「ん。どうしたの?」
「え。えっと……送っていかなくても大丈夫?」

 チルノがおそるおそる聞いてくる。文は内心邪笑を浮かべながら、さも驚いたように目を丸くしてみせた。

「いいのかい? いや、助かるよ。正直、また迷ったらどうしようかと思ってたんだ。それじゃあ、頼めるかな?」
「うん!」

 チルノは嬉しそうに頷き、「こっち、こっちだよ!」と言いながら元気に駆け出した。
 ほんの小さな雑木林だから当然と言えば当然だが、二人はすぐに林を抜け出して、街道付近の草原に出た。
 遠くに見えている妖怪の山の輪郭に目を細め、文は一つ頷く。

「うん、さすがにあそこまではっきり見えていたら迷うこともないだろう。道案内ありがとう、チルノ。君は親切だな」
「……ん」

 チルノは小さく頷き、また指を絡めてもじもじし始める。

「ん。どうしたのかな、チルノ? 何か言いたいことがあるみたいだけれど」
「え? えっと、あの……」

 チルノは怯えるようにこちらの顔を窺うばかりで、なかなか切りだしてこない。
 その表情を見て、文はチルノが何を言いたがっているのかすぐに察する。

(計算通り)

 内心ほくそ笑みながら、「ああ、そうだ」と、いかにも今思いついた風に言った。

「チルノ。もし良かったら、これからも会いに来ていいかな?」
「え?」

 目を丸くするチルノに、文は優しく微笑みかける。

「今日君と話していたら、なんだか随分と心が安らぐ感じがしてね。友達になれないかなあと思ったんだ」
「……ともだち? わたしが?」

 信じられないように呟くチルノに、文は大きく頷いて、

「そう。どうかな、チルノ。君が嫌でなかったら、なんだけれど」
「えっ……い、嫌じゃない、嫌じゃないよっ」

 チルノは一生懸命首を縦に振る。文は笑って手を差し出した。

「そう。それじゃ、これから仕事の合間にここで休ませてもらうよ。これからよろしく、チルノ」
「うん!」

 チルノは嬉しそうに顔を輝かせて文の手を握ってくる。手の平が氷を握ったように冷たくなったが、文は努めて表情を変えないようにした。

「あ、そうだ!」

 不意に、チルノが思い出したように聞いてきた。

「ねえ、お兄さんの名前は何て言うの?」
「名前? ああ、言ってなかったかな……わたしは」

 言いかけたところで、文はふと違和感を覚える。
 今、チルノは何と言って呼びかけてきたか。聞き違いでなければ、お兄さんと言われた気がしたが。
 どういうつもりだろう、と思ってちらりとチルノを見たが、きょとんとした顔で見返されただけだ。

(……ああ、そっか)

 少し考えて気が付き、文は黙ったまま自分の格好を見下ろした。
 天狗が公務の際に身に纏う、洋装の軍服姿。胸の膨らみはサラシで押さえつけているから、傍から見るとほとんど分からない。
 なおかつ今の文は公務用の堅苦しい口調を用いていて、チルノを安心させるためにごく穏やかな、落ち着いた声音しか使っていなかった。

(つまり、男と勘違いされているってわけね)

 納得して一つ頷いたあと、文は答えた。

「……わたしの名前は文次というんだ」
「もんじ?」
「そう。そんな風に、呼び捨てで構わないから」
「うん、分かった、文次!」

 素直に頷くチルノに笑い返してから、「それじゃ」と言って、文は山に向かって歩き出す。
 ちらりと振り返ると、チルノが無邪気な顔で手を振っていたので、文も笑って手を振り返した。
 これでいい、と思った。まだチルノのことが何もかも分かったわけではないし、後々面倒を背負いこむ可能性だって十分にある。それなら適当に偽名を使って後腐れなく縁を切れるようにしておいた方がいい。
 別段変装しているわけではないが、あの素直な妖精なら「別人だ」と言い張れば簡単に丸めこめるだろうし。

(しかし……)

 歩きながら、ふと自分の軍服姿を見下ろしてみる。
 確かに男性的な格好ではあるが、ああも疑いなく男と信じられるとは。

(……わたしはひょっとして色気がない……?)

 射命丸文。
 幻想郷ではそこそこ古参の鴉天狗だが、今のところ恋人はいない。



 そうして山に帰って住居への道を歩いていると、あの無精髭の老天狗と行き合った。

「お、文の字じゃねえか。その格好からすっと、まだ今回の仕事は終わってねえのか?」

 そう言う彼は、ゆったりとした着流しを身に纏っている。小さな風呂桶を持っているのを見る限り、公衆浴場へ行くところなのだろう。

「ああ。まあね」
「はは。まだその口調か。相変わらず融通の利かん……」

 言いかけた老天狗が、ふと眉をひそめる。じっと文を見つめながら、

「……文の字よ。なんか、いいことでもあったか?」
「分かるか?」

 文がにやりと笑うと、老天狗は呆れたように鼻を鳴らした。

「相変わらず仕事熱心なこった。のめり込みすぎねえように注意しろよ」

 去っていく老天狗の細い背を見ながら、文は一人肩を竦める。
 チルノの姿を思い出しながら、無理な相談だな、と思った。



 翌日、文は霧の湖を目指してのんびりと飛んでいた。もちろんチルノに会うためだったが、それでいてスペルカードルール公布の仕事も継続中である。服装も堅苦しい軍服のままだ。
 昨夜の内に各所にかけ合って、元々妖精担当だった鴉天狗と担当を交換してもらった。急すぎる配置転換だが、向こうも妖精相手の仕事に苦戦していたようだったし、恨まれることはあるまい。本来こういった処理は結構時間がかかるものだが、文の場合は長年の活動によって培ってきた裏の人脈があるので、随分スムーズに事が運んだのである。

やっぱり他人の弱味は握っておくものね)
 
 しみじみと実感する文だった。
 やがて、文の視界に霧の湖が見えてきた。今日は名前の通りに薄らと霧が立ち込めていて、湖面の辺りはよく見えなくなっている。

(さて、チルノはどこかしら……? 降りないと見つからないかな?)

 考えながらざっと湖岸の辺りを見渡したら、霧の切れ間に小さな青い影が見えた気がした。
 もしや、と思って目を凝らすと、やはりチルノらしかった。岸辺の岩に腰掛けているらしい。
 文はゆっくりと降りていく。気付いたチルノが跳ねるように立ち上がって、大きく両手を振り始めた。

「文次ーっ!」

 その元気な呼び声と嬉しそうな笑顔を見て、文は少し驚く。昨日話していたときは、あんなに活発な子だとは思えなかったのだが。
 そうして文が近くに降り立つと、チルノは待ちきれないような足取りで駆け寄ってきた。

「文次、来てくれたんだ!」
「ああ。こんにちは、チルノ。そりゃ来るさ、約束だったからね」

 文が穏やかな口調で言う。
 チルノは少し俯き、何かを噛みしめるように、

「来てくれた……本当に、来てくれたんだ……!」

 何度か繰り返し、そう呟いた。それから跳ねるように顔を上げて、

「文次、今日はいつまでいられるの?」
「そうだね。夕方ぐらいまでかな」
「お仕事はいいの?」
「ああ……まあ、しばらくはお休みみたいなものでね。夜には山に帰るけれど、昼間はずっとこの辺りでのんびりさせてもらおうかと思っているよ」

 その文の嘘について、チルノは疑う様子を微塵も見せなかった。ただただ信じられないように、けれども嬉しそうに目を輝かせて、

「本当!? ずっとわたしといてくれるの!?」
「ああ。チルノが良ければね」
「うわあ……そうなんだ。ずっと一緒なんだ……!」

 チルノは興奮を抑えきれない様子で体を揺らす。嬉しくて嬉しくて仕方がないようだ。

(やはり、他者との交流に飢えていたみたいね。邪魔が入る心配もほとんどなさそうだし、これならこの子をわたしの思うままに育てるのも簡単そうだわ)

 自分の見立てが間違っていなかったことを確信し、文は内心にやりと笑う。
 そして相変わらずそういう考えを表面には全く出さず、ただ穏やかに微笑みながらチルノに問いかけた。

「さあ、どうしようか。何かしたいこととか、行きたいところとかはある?」
「え? えっとね、えっとね……」

 チルノは少しの間一生懸命考えていたが、やがてぱっと顔を上げ、

「かくれんぼ!」
「ん? かくれんぼがしたいの?」
「そう。隠れるから、文次、わたしを見つけてね!」

 言うなり、チルノは止める間もなく雑木林の方に駆け出していく。日差しを受けて涼やかに輝く氷の羽が、木々の隙間に隠れてすぐに見えなくなった。

(かくれんぼ、ね)

 文は一人頭を掻き、苦笑する。いかにも子供らしい遊びだな、と思った。先程の弾むような足取りからして、余程やってみたかったのだろう。他の妖精たちがかくれんぼをしているのを遠くから見ていたのだろうか。

(ま、これもあの子を懐柔するためには必要なことか。しばらくは我がままに付き合ってあげるとしましょう)

 文はそう決め、しばらく待ってから雑木林の中に足を踏み入れる。
 相変わらず薄暗い場所で、見通しが悪い。妖精はもちろん、他の妖怪の気配なども感じられない。元々誰も住んでいなかったのか、それとも近くに紅魔館が転移してきたために逃げ出してしまったのか。

(いずれにしても、隠れるのには好都合、か)

 今までチルノの噂を聞いたことがなかったのも、そのためかもしれない。

(あの子も多分、他の妖精がいるところにはいたくなかったんでしょうね)

 単なる推測だったが、おそらく間違いではあるまい。それはつまり邪魔が入る心配はないということで、文にとっては実に好都合なことだった。

(さて、お姫様はどこかしら、っと)

 大きな葉の裏、太い幹の陰、枝の上。あの小柄なチルノなら、隠れる場所はいくらでもありそうだ。
 文はその一つ一つをキョロキョロと見回しながら探したり、ときどき「ここかな?」とか呟きながら木陰を覗き込んだりした。
 と言っても、それは単なるサービスというか、演技だった。本人は気付いていないのだろうが、何分チルノは冷気を垂れ流しにしている。どれだけ上手く隠れようが、ひやりとした空気を辿っていけば見つけるのは簡単だった。

(あの茂みの向こう、か。真っすぐ行ったんじゃつまらないでしょうし)

 文はチルノがいる場所に当たりをつけつつも、見つからない振りをして「あれ、どこだ?」「おーい、チルノー?」だのと呼びかけつつ、見当違いの場所を探して回る。

(そろそろいいかな)

 文は何気ない足取りで、いかにも当てずっぽうに探している風に例の茂みに近づく。肌に感じる冷気がまた強くなった。

(やっぱりここか)

 内心微笑みつつ、茂みを掻きわけて向こうを覗き込む。
 しかし予想に反して、チルノはそこにはいなかった。背の高い木々の根本に、大きな岩がごろんと転がっているだけだ。

(……あれ?)

 今度は演技抜きに目を瞬きながら、文は念のため木の陰や岩の裏を覗き込んでみる。しかし、冷気は感じるのにチルノの姿はどこにも見当たらない。

(おかしいわね、あの子はどこに……?)

 首を傾げたとき、ふと気がついた。岩の下に、引きずったような跡がある。
 まさか、と思って岩を押してみると、意外なほど軽く動いた。
 岩の下には小さな穴があって、チルノはその中で身を丸めていたのだった。
 思わず唖然としてしまう文を見上げて、チルノは嬉しそうに笑った。

「見つかっちゃった」

 楽しくて楽しくて仕方がないらしく、チルノはいそいそと穴から這い出してきて、どことなく得意そうな顔で文を見上げた。
 文はそれでようやく気を取り直し、苦笑しながら頭を掻いた。

「……凄いね。まさかこんなところにいるとは思わなかったよ」
「えへ。どう、凄いでしょ」

 胸を張るチルノはそれこそ天狗のように鼻高々だ。文はぽんぽんと岩を叩きながら、

「穴は掘ったの? 岩はどこから?」
「穴は最初からあったよ。岩は軽いの見つけて運んできたの。かくれんぼに使えると思って」
「よくやるなあ」

 確かに見た目と比べれば軽い岩だったが、それでもチルノの細腕ではなかなかの大仕事だっただろうに。そもそもよくこんなものを見つけてきたものだ。この穴だって、見つかりやすい場所にあるとは決して言えないのに。
 半ば素で感心していると、チルノはそんな文を見上げてにこやかに言った。

「でも文次も凄いよ。わたし、絶対見つからない自信あったのに」
「ん。まあ、何となくね。運が良かったよ」

 文は適当にそう言って誤魔化す。冷気が漏れていることをチルノが知ったら、興を削ぐかもしれないと思ったのだ。
 しかしチルノは気付く様子もなく笑っている。小柄な体が嬉しそうに揺れるたび、氷の羽も跳ねるように動く。
 まるで、見つかったのが嬉しくてたまらないとでも言いたげな様子だった。
 ともかく、これでかくれんぼは終了だ。文はまた笑顔を作って問いかける。

「さて、次は何をしようか? 鬼ごっことか? それとも一緒にどこかへ出かけようか?」
「ん。えっとね、えっとね……」

 チルノは視線をあちこちに泳がせて、少し迷う様子だった。何をして遊ぶか迷っているのだろう、と思っていたら、不意に「あ」と、名案を思いついたように声を漏らす。

「何か思いついた?」
「え。えっとね」

 チルノは腕を後ろにやって身じろぎしながら、ちょっとはにかむような顔で文を見上げる。

「……文次、『もーいーかい』って言ってないよ」
「……ん?」

 何を言われたのか分からず首を傾げると、チルノはちょっと唇を尖らせて、

「ほら、『もーいーかい』って。かくれんぼのときの鬼ってそうするよね」
「ああ。まあ、そうだね」

 それがどうしたんだろう、と思っていると、チルノは歯を見せて楽しげに笑い、

「だから、もう一回かくれんぼやろ! またわたしを見つけてね!」
「え? ちょっと」

 慌てた文が止める間もなく、チルノは軽やかに駆け出してすぐに見えなくなってしまう。
 ぽかんとしたままそれを見送り、文は頬を掻く。なんとも強引なことだ。そんなにかくれんぼが好きなのだろうか。

(……それにしても、あんなに活発な子だとは思わなかったわね)

 文の予定ではのんびり散歩したりお喋りしたりして交流を深めていく予定だったのだが、あの様子では結構体力を使うことになるかもしれない。
 無論、だからなんだと言うわけではなかった。いかに活発と言っても所詮子供の相手、古参の天狗たる自分が参ってしまうはずもない。

(むしろかくれんぼしているだけであの子を手懐けられるのなら、楽なものよね)

 文は邪笑を浮かべつつ、口元に手をやる。

「もーいーかい?」
「もーいーよ!」

 文の声に応じて、チルノの弾んだ声が林一杯に響き渡る。本当に元気な子だな、と苦笑しながら、文はチルノを見つけるべく歩き出した。
 結局この日はずっとそんな調子で、日が暮れるまでチルノのかくれんぼに付き合わされることになった。見つけるたびに「みーつけたって言ってない」だの「普通は声に出して百まで数えるよね」だの、なんだかんだとチルノがへ理屈をこねて、再度かくれんぼをやることになったのである。常に、彼女が隠れる役だった。
 最初のときと同じく、チルノは隠れるのがとても上手かった。隠れる場所を探すのが上手い、と言った方がいいか。だから文も、思ったより疲れる羽目になった。

「それじゃあチルノ、また明日ね」
「うん……」

 夕暮れの湖畔で文が告げると、チルノは気落ちしたように俯いた。
 文は少し身を屈め、チルノの頭を撫でてやる。手の平がひんやりとした。

「すまないけど、夜は少し山で仕事をしなければならないんだ。明日になったらまた来るから、ね」
「……うん。じゃあまた明日、かくれんぼしようね」

 チルノはようやく笑顔を見せてくれたが、文は即座に答えを返せなかった。
 今日あれだけやったのに、また明日もかくれんぼをするつもりか、と。

「……? 文次、どうかした?」
「ん。いや、なんでもないよ。じゃあ、また明日ね」
「うん。また来てね」

 名残惜しそうに言うチルノの頭をもう一撫でしてから、文は空へ飛び立つ。
 赤く染まる空を山へ向かって飛びながらちらりと振り返ると、湖岸に一人ぽつんと立って、じっとこちらを見上げているチルノの姿がある。
 空からだとその姿はやけに小さく見えた。今日あれほど元気な姿を見せられたというのに、まるで昨日のチルノに戻ってしまったかのような錯覚すら覚える。

(……あの子は今日も一人で眠るのか)

 何となく、そんなことを考える。
 だからどうしたということもなく、文は無言で山へ向かって飛び続けた。



 そんな日が、一週間ばかり繰り返された。比喩表現ではない。朝、湖岸に降り立ってチルノと会い、それから先は夕暮れになるまでぶっ通しでかくれんぼばかりしていたのである。
 さすがに狭い雑木林に限定してかくれんぼばかりやっていれば、隠れ場所のバリエーションも減ってくる。前にも同じ場所でチルノを見つけたな、と思うことも多くなっていた。
 要するにより見つけやすくなったということだが、文が楽になったかと言えばそうでもなかった。何せ最初のときと同じく、「隠れているチルノをなかなか見つけられない」という演技を何度かやってみせてから見つけるのだ。あまり簡単に見つけてはチルノがへそを曲げるかもしれないと考慮してのことだったが、何度も繰り返しているとこれが結構な苦痛になってくる。かと言って飽きた様子を見せるとチルノの機嫌を損ねるかもしれないと思えば、嫌な顔一つ見せられないのだった。
 ちなみにチルノの方は飽きる素振りなど全く見せず、文が見つけるたび「見つかっちゃった」と言って嬉しそうに笑うのだった。最初の方こそなんだかんだと理由をつけていたが、二日目の半ばになるともうそれすらなくなっていた。

「じゃあ次ね、またわたしを見つけてね!」

 はしゃいだ様子で走っていくチルノを見ていると、さすがの文も苛立ちが湧いてくるのを抑えられない。
 クソガキャ、一発殴ってやろうか……とかつい思ってしまって、そのたび「いやいや待て待て」と首を振って深呼吸するのだ。

(耐えるのよ、文。これも野望達成のためだと思えば……!)

 文は自分にそう言い聞かせながらかくれんぼの鬼役を続けていたが、一週間目の夕暮れの別れ際に「また明日もかくれんぼしようね!」と言われたときにはさすがに参ってしまった。

「なあ、チルノ」
「なに、文次」

 きょとんとするチルノに、文は苦笑しながら言う。

「うん。いやね、明日はかくれんぼじゃなくて、何か別のことしないかい?」
「え……」

 途端にチルノの顔が曇った。ワンピースの裾をきゅっと握りしめて俯き、怯えたような小さな声で、

「……文次、もしかしてかくれんぼ嫌だった……?」
「ああいや、違う違う、そういうことじゃないんだよ」

 文は慌ててしゃがみ込んでチルノの頭を撫でながら、

「チルノとかくれんぼするのは嬉しいよ。いつもびっくりするような場所に隠れるから、見つけるのも楽しいしね」
「ほんと?」
「本当だとも。ただね、たまにはかくれんぼ以外のことをしてみるのも楽しいんじゃないかなあと思っただけなんだ」
「他のことって、どんなこと?」

 不思議そうに首を傾げるチルノに、文は少し迷う。
 本音を言ってしまうと、もうかくれんぼ以外ならなんでもいい。だがそういう意図を気取られると、またチルノを落ち込ませてしまうかもしれない。それで即座に逃げられるということはないはずだが、出来る限り遠回りは避けたいところだ。

「あー……そうだね。一緒に出かけるっていうのは、どうだろう」
「……どこに?」

 チルノが怯えたように肩をすぼめる。その姿は震える小動物のように弱々しく、最初に会ったときの内気な様子を思わせた。

(……この反応。やっぱり、他の妖精に会うのが嫌なのかしら……?)

 文はそう推測しつつ、笑みを作りながら言う。

「そうだね。面白い場所はたくさんあるよ。ほら、あそこに見えている赤いお屋敷だとか、キノコがたくさん生えている魔法の森だとか、見渡す限り向日葵が咲いている丘だとか……そうそう、変な巫女が住んでる神社とかもあるしね」
「……ふうん」

 チルノはどことなく気乗りしない風に足下の小石を蹴っている。

(やっぱり外には出たくない、か)

 それは困るな、と文は思った。
 文はチルノのことを、妖精たちに対するスペルカードルールの広告塔に仕立て上げるつもりなのだ。
 なのに当の妖精たちを怖がって外に出られないというのでは、本末転倒というものだ。

(解決すべき課題が一つ増えた、か。薄々気付いていたことではあるけれど)

 文はため息を吐きつつ、さてどうするかと考える。具体的な解決策がパッと浮かぶわけではないにせよ、ともかくまずは外に連れ出さないことには始まらないと思った。
 そのときふと、チルノの氷の羽が赤く煌めいているのが目に入った。
 これは使えるかもしれない、と思って振り返ると、お誂え向きの光景が広がっていた。

「チルノ。見てごらん」
「なに?」

 俯いていたチルノが顔を上げ、文が指差す方向を見る。

「わあ……」

 目を見開いたチルノが、感嘆の声を漏らす。彼女の青い瞳には、広い湖の向こうに沈みゆく大きな夕陽が映り込んでいた。
 それは、曇りの日以外は毎日繰り返されているはずの、さして珍しくもない光景だ。それでもチルノはぽかんと口を半開きにして、まるで初めて目にしたかのように、その雄大な景色に見入っている。
 文もまた、チルノの傍らに立ってその光景を見つめていた。湖の方から吹きつけ、二人の髪をかすかに揺らしていく緩やかな涼風を頬に感じながら、穏やかな声で問いかける。

「きれいだろう」
「うん」

 呆然としたように頷くチルノの声を聞くと、文は少し嬉しくなった。
 逢魔が時、という言葉があるように、夕暮れというのは少し特別な時間だ。昼と夜、人の世と妖の世の中間に存在する、二つの世界が入り混じる刻限。どれだけ長く生きても見飽きることのない、否、長く生きている者にこそ、胸の奥にじわりと滲むような切ない感情を抱かせてくれる光景。
 赤々としたその光に包まれながら、文はゆっくりと語りかける。特に意識することもなく、自然と声が柔らかくなった。

「チルノ。この世界にはね、こんな風に美しい光景が、たくさん、たくさん溢れているんだ。けれども決まった場所に籠って俯いてばかりいては、その美しさを目に映し、心に容れることは出来ない。そういうのは、勿体ないと思わないかい?」

 チルノが何も言わずにこくんと頷いた。文はさらに続ける。

「わたしはね、そういう美しいものをたくさん知っているし、チルノに教えてあげたいと思っている。けれど、それを言葉で伝えるのはとても難しいんだ。だから一緒に見て回りたいし、チルノにもきれいなものをたくさん見つけてもらって、それをわたしに教えて欲しいんだよ」

 静かな表情で夕陽を見つめているチルノの横顔に、文は穏やかに問いかける。

「どうかな。一緒に、きれいなものを探してくれる?」

 チルノは一瞬文の方を見て、また夕陽を見て……そんなことを数回も繰り返した後、また怯えるように俯いて、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。

「……あのね」

 チルノは小さな声で言う。

「わたし、こわいものがあるの」
「うん」

 それが具体的に何かは、あえて聞かない。チルノはつっかえつっかえ、

「だから、あんまり、お外には行きたくないんだけど……でも、文次がきれいなもの教えてくれるっていうならね……見てみたい」
「そう。ありがとう、嬉しいよ」

 本心からそう言うと、チルノは少し潤んだ目で文を見上げて、

「でもね、だからね、あのね」
「心配しなくていいよ」

 文は優しく言いながら、チルノの頭を撫でてやる。手がひんやりとするのが、何故だか心地よく感じられる。

「わたしが守ってあげる。怖いものがあっても、チルノのこと、守ってあげるからね」
「……うん!」

 チルノはすっかり安堵した風に、はにかみ笑いを浮かべて頷いた。顔が少し赤く見えるのは、夕陽のせいだけではないだろう。

「じゃあチルノ、明日はまずあの赤いお館の近くまで行ってみようか。さすがに中には入れないだろうけど、遠目に見る分には問題ないだろうから」
「分かった。楽しみにしてるね」
「うん。それじゃあまた明日、チルノ」
「ばいばい、文次」

 文はチルノに軽く手を振ったあと、湖岸を蹴って飛び立った。
 少ししてからふと振り返ると、遠くのチルノが元気に手を振っていた。
 赤く染まった世界の中、小さな青い少女の影は、一週間前に見たときよりもほんの少しだけ鮮やかに見えた。



 軍服を脱いでサラシを解き、それから寝台に寝転がったとき、文は深い満足感に包まれていた。
 あんなに怯えていたチルノと外に出かける約束が出来たのだ。目的に向かって一歩前進したと考えてもいいだろう。

(さあ、どこへ連れて行ってあげましょうか)

 寝転んだまま、あれこれと考える。新聞記者として幻想郷中を飛び回ってきた文は、他の者なら知らないような名所もいくつか知っているつもりだ。チルノを連れていったら、どんな反応を見せてくれるだろう。

(思ったよりも感情豊かだもんね、あの子は)

 出会ったときの不安そうな顔、打ち解けたときの穏やかな顔、遊んでいるときの楽しそうな笑顔。この一週間ほどで、いくつの表情を見たことだろう。
 チルノの新たな表情を見つけるのが、いつの間にか一つの楽しみになってきていた。

「まあ、暇つぶしみたいなものだけど。事が上手く運んでいるのだから、嬉しくなるのは当然よね」

 文は何となく声に出して呟くと、明日に備えて目を閉じた。



 翌日、チルノはいつもの湖岸で待っていたが、その様子は今までと少し違っていた。
 昨日までなら文が来るとただ嬉しそうに笑って迎えてくれたものだが、今日は喜びや期待よりも恐れや不安の強い、少し緊張した表情だった。

「おはよう、チルノ」
「……うん。おはよう、文次」

 答える声も、少し硬い。文は安心させるように微笑んで手を差し出し、

「じゃあ、行こうか。大丈夫、怖いことなんて何もないよ」
「……分かった」

 チルノは小さな手で文の手を握りしめる。こんな風に彼女の手を握ったのは最初に会った日以来のことだが、やはりとても冷たい。天狗の文なら我慢すればいい程度だが、これが人間だったら凍傷になってしまって、とても触れたものではなかっただろう。

(……やはり、この子が他者と普通に触れ合っていくのは難しいか。かわいそうに)

 そんなことを考えた自分に少し違和感を覚えて、文は眉をひそめる。

「どうしたの、文次」
「ん。ああいや、なんでもないよ。さ、行こうか」

 奇妙な感情を振り払うように、文は空へと飛びあがる。
 珍しく晴れ渡った霧の湖上空を飛んでいる間も、チルノは緊張した表情でちらちらと周囲を見回している様子だった。誰かに見られていないか、あるいは誰かに会いはしないかと恐れている顔だ。見かねた文が「チルノ」と声をかけてやると、少しだけ表情を緩めてくれたが。
 そうして二人は紅魔館の建っている岬の近くまでやって来た。
 文とて、ここまでこの館に近づくのは初めてのことである。こちらの存在に気付いているのかどうか、館の方には特に目立った動きはない。だが、紅い壁からは威圧感のようなものを感じる。下手に手を出したら切り刻まれそうな、剣呑な気配だ。

(……さすがに、あれだけの騒乱を巻き起こした勢力だけはあるわね)

 チルノを連れているということもある。この辺から眺めるだけで、これ以上は近づかない方がいいだろう、と文は判断した。
 一方でチルノの方はようやく緊張が解けてきたらしい。紅い館を感心したように眺めている。

「ねえ文次、近くで見てもやっぱり真っ赤だね」
「そうだね、チルノ」
「あのでっかい丸いのはなに?」
「ああ。あれは時計だよ。長い針と短い針で、今の時間を示しているんだ」
「そうなの? どうやって分かるの?」
「ええとね」

 時計の読み方を説明したが、チルノはよく分からないらしく首を傾げてばかりだった。そもそもまだ字の読み方が分からないのだから、理解できなくても当然かもしれないが。

「まあともかく、あれで時間が分かるんだ。見方はまだ今度、ゆっくり教えてあげるよ」
「うん、分かった」

 チルノは素直に頷いたが、文は少し心配になってきた。
 この妖精、発想力や行動力はともかくとして、理解力の方には少々難があるようだ。これでスペルカードルールを教えても、果たして覚えてくれるかどうか。

(やっぱり妖精は妖精か。気の長い話になりそうね)

 文が小さくため息を吐いたとき、チルノがまた問いかけてきた。

「文次、あそこにいるのは?」

 言われてそちらを見ると、そこには紅魔館の立派な門があった。
 その前に、背の高い人影が一つ見える。

「ああ、あれは門番だ。この館に敵が侵入しないように、あそこで見張っているんだろう」
「ふうん、そうなんだ。でも、文次」

 チルノは首を傾げる。

「あれ、寝てるよね」
「……そうだね、寝てるね」

 遠目に見ても、紅魔館の門番は門柱に寄り掛かってこっくりこっくりと舟を漕いでいる様子だった。

「……寝てて守れるの、館?」
「……寝てる振りなのかもしれない」

 明らかに居眠りしている門番を見つめながら、文は苦しげに声を絞り出す。
 吸血鬼異変の主犯、紅魔館。
 なかなか謎の多い勢力らしかった。



 紅魔館を皮切りに、文とチルノは幻想郷の各所へ赴いた。
 チルノは最初の方こそ緊張した様子だったものの、段々とその緊張も解れてきたらしく、かくれんぼのときのような明るい笑顔も見せてくれるようになった。
 と同時に、意外なほど旺盛な好奇心も顔を覗かせ始める。「文次、あれなに」「文次、あっち行ってみようよ」と言うチルノに、文は予想以上に振り回されることとなった。
 チルノは様々なものに子供らしい興味を示した。虫やら花やら鳥やら石ころやら。じーっと何十分も飽きずに見つめていたかと思えば、少し目を離した隙にあっちこっちに飛んで行ったりする。繋いでいた手もいつしか解かれ、文はたびたびチルノを見失って探す羽目になったりした。
 さらにチルノは、結構な頻度で珍しいものを持ってきた。変わった形の石ころに始まり、ちょっと珍しめの植物、あるいはぱっと見では分からない、物陰に隠れている生き物や景色などを、だ。その中には文ですら「よくこんなもの見つけてきたな」と感心するものもいくつかあった。最初にかくれんぼしたときの岩や穴といい、チルノには面白いものを探す才能とでも言うべきものがあるのかもしれない。
 そうしてその日が終わる頃になると、チルノの顔には一欠片の不安も残っていなかった。いつもの湖岸へと戻る道すがら、再び繋いだ手を嬉しそうに揺らしながら、

「ねえ文次、明日はどこへ行くの?」
「そうだね……うん、魔法の森にでも行ってみようか」
「魔法の森?」
「キノコがたくさん生えてる森さ。瘴気が漂っててちょっと危ないけど、まああまり深くまで行かなければ大丈夫だろうから」
「うん!」

 チルノが元気よく頷いたのを見て、文も自然と頬を緩める。
 そうしていつもの湖岸に降り立ったとき、ふと後ろを振り返ったチルノが、「あっ」と声を上げた。つられてそちらを見ると、昨日見たのと同じように、夕陽が湖の向こうに沈んでいくところだった。
 また二人で並んでそれを見ていたら、不意にチルノが、

「なんか、昨日よりきれいだね」

 と、少し不思議そうに呟いた。文は目を瞬いているチルノの横顔を見ながら、

「そう思う?」
「うん。なんでだろ。昨日と変わらないはずなのに」

 首を傾げるチルノに、文は穏やかな声で言ってやる。

「きっと、チルノがよりよく夕陽の美しさを理解できるようになったからだろうね」
「……よく分かんない」

 眉根を寄せるチルノの肩に手を置きながら、文もまた夕陽に向かって目を凝らす。

「心が豊かになるっていうのは、そういうことなんだ。今日みたいにチルノがたくさんきれいなものを見つけられれば、世界はもっと美しく見えるようになるはずだよ」
「そう、なんだ」

 まだよく分からない様子で呟きながらも、チルノは嬉しそうに笑った。

「でもなんか、それってすごいね。世界は何も変わらないのに、変わった風に見えるんだ」
「そう。目と心を開いていれば、世界はいろんな顔を見せてくれるからね」

 文は素直な気持ちでそう言った。長年写真を撮っていると、それがただの綺麗事や理想ではないというのが実感できるのだ。

(……写真? あ、そうだ……!)

 文はふと思いついた。公務の最中は必要ないからと思って持ってきていなかったが、今の状況ではカメラが役に立つのではないだろうか。
 チルノが持ってくる様々なものを写してやるのでもいいし、一緒に目にする景色を写してやるのでもいい。写真を撮るという目的があれば、チルノは今よりもっと積極的に、世界の美しさを見つけ出そうとしてくれるだろう。

(きれいなものをたくさん見ておくことは、スペルカード作りにも役立つはずよね)

 何より、文自身にも一つの願望がある。
 それは、チルノを撮ってやりたいという想いだ。
 最初チルノと会ったとき、彼女の氷の羽を美しいと思った。その想いは、今も少しも損なわれてはいない。それどころか、あのとき以上に魅力的な被写体だと思えるようになっていた。
 もちろん羽だけではなく、チルノ本人だって魅力的だ。日に日に元気に、表情豊かになっていく彼女の姿を写真にして残しておきたいと思うのは、文にしてみれば至極当然な感情だった。
 スペルカードルール云々という目的とはあまり関係ないが、それはそれ、これはこれというやつだ。

「文次、どうしたの?」
「え、なに?」

 気がつくと、チルノが不思議そうに目を丸くしてこちらを見上げていた。

「なんか、嬉しそう」
「……そう? まあ、そうだね。ちょっと楽しみなことが出来てね」
「え、なに、なに?」

 せがむように聞いてくるチルノに、文は片目を瞑ってみせる。

「それは明日までのお楽しみ。楽しみに待ってなさい」
「今教えてよ」
「駄目。待つ楽しみというのもあるんだよ」
「えー」

 澄まし顔の文に、チルノは不満げに唇を尖らせる。

(……かわいい)

 文は自然にそう思い、頬を緩ませた。頭を撫でてやると、手の平がひんやりとして気持ち良い。チルノもくすぐったそうに笑っている。

「じゃあチルノ、また明日ね」
「うん。ばいばい、文次」

 もう不安そうな様子など微塵も見せず、チルノは笑って手を振ってくれる。
 文もまた笑顔で手を振り返し、軽やかに夕暮れの空を飛び始めた。



 翌日、文が湖岸に降り立つと、駆け寄ってきたチルノが不思議そうに首を傾げた。その視線は、文が手に持っているカメラに注がれている。

「文次、それなに?」
「カメラ。写真機とも言うね。その名の通り、写真を撮る機械だよ」
「写真ってなに?」
「そこから説明しないといけないか」

 文は苦笑し、周囲を見回す。ちょうどよく、青空を一羽の鳥が横切っていくところだった。カメラを向け、シャッターを切る。飛ぶ鳥を写すぐらい、文にとっては造作もないことだ。
 ほとんど間を置かずに、写真機下部の細長い口から一枚の写真が出てきた。そこにさっきの鳥が写っているのを見たチルノは、びっくりしたように目を丸くした。

「まあ、写真って言うのはこういうものだよ。これで、今日見る景色やチルノが見つけたものなんかを写そうと思ってね」
「そうなんだ」

 その思いつきはチルノも気に入ってくれたらしい。目を細めて嬉しそうにしている。
 それを見ていたら文も嬉しくなってきて、ついこう漏らしてしまった。

「うん。あと、チルノのことも撮ろうと思ってね」
「……わたし?」

 途端にチルノの顔が曇った。手元の写真を見て、文の顔を見て、それから地面に目を落とす。
 その顔は、最初会ったときと同じような暗い表情だった。

「チルノ、どうかした?」
「……ううん、なんでもない。はい、これ」

 と、チルノは写真を文に返したあと、

「わたしは、いいや」
「え?」
「わたしは、いいや。えと……写真、にならなくても」

 そう言うチルノの声には、表情と同じぐらいに暗い響きがある。
 どういう意味なのかと問いかけようとしたが、チルノはそれよりも早く湖岸から飛び立ってしまう。文も慌てて後を追った。



 その日は予定通り、魔法の森を見に行った。チルノが入口付近にある骨董屋に興味を惹かれて立ち止まってしまったので、文もそれに付き合うことにする。

「うわー、なにここ、変なのがいっぱい置いてある」

 店の前に鎮座している狸の置物や、矢印が描かれた妙な看板などを見上げて、チルノが楽しそうな声を上げる。機嫌はすっかり直ったようだった。

(良かった)

 文はほっと息を吐きながら、おもむろに狸の置物にカメラを向ける。その上によじ登っているチルノと一緒に撮影するつもりだった。
 しかしそのとき、ふとこちらを見たチルノが、慌てて狸の頭から飛び立ち、フレームの外に出てしまった。文はファインダーから目を離し、眉根を寄せる。

「チルノ、どうして」
「え、なに? あ、文次、写真撮るんだ。後で見せてね」

 チルノは文の声を遮るように言う。

(……そんなに写りたくないのかしら)

 怪訝に思いつつも、とりあえず狸を中心に一枚写し撮る。写真が出来上がるとチルノが寄ってきて、「わあ、やっぱり面白い」と笑った。しかし文にはその表情がどこかぎこちなく、声音も少し硬いように思えてならなかった。
 店主が留守らしかったので店の中には入らず、二人はしばらく骨董屋の周囲を探索した後、魔法の森内部に足を踏み入れた。森の中は瘴気が漂う陰気な場所だったが、チルノは特に嫌そうな様子も見せずに歩きまわり、時折カラフルなキノコやら奇妙な形の草やらを見つけては持ってきた。中には文が見たこともないような奇怪で面白いものもあり、やはりこの子はいい目を持っているな、と感心してしまう。
 文はそういうものをいちいち写真に写し撮ったが、チルノの態度はやはり変わらなかった。景色やなんかと一緒にさり気なく彼女を写そうとするのだが、そのたび目ざとく勘付き、慌ててフレームから逃げてしまうのである。
 それで、どうも心底写るのを嫌がっているらしいな、と察したので、文はチルノを撮るのは諦めることにした。理由も特に尋ねない。あまりしつこくして、チルノが怒ったり泣いたりするのは嫌だと思ったからだ。

(……そんなことになったら、目標達成が少し遠のくものね)

 チルノが持ってきたキノコを写しながら、心の中でそう付け足しておく。
 そうして文がカメラを向けないよう気をつければ、他に問題は一つも起こらなかった。
 チルノはいつものように上機嫌で飛び回っていたし、文の方もそれについて回って何枚も写真を撮った。上手く撮れたね、と笑い合ったり、こっちの方が上手く撮れるんじゃない、とあちこち移動していろんな角度から一つの景色を撮ったり。
 それは本来新聞記者であり、写真を商売道具にしている文としても、素直に楽しいと思える時間だった。チルノと一緒に飛び回りながら、スペルカードルール云々のことなど半ば忘れ去っていたほどだった。
 そうして空が夕暮れの色に染まり始める頃、二人はいつもよりも上機嫌であの湖岸に向かっていた。チルノは今日撮った写真を一枚一枚見返しては、これが綺麗だったとかここにはまた行きたいだとか行って楽しそうに笑っていた。
 文の方もそれに相槌を打って笑っていたが、少々疲れてもいた。いつも以上に元気なチルノに振り回されっぱなしだったためだろう。心地よい疲労感が全身を包んでいて、少し休みたい気分だった。
 チルノと一緒に湖岸に降り立ち、岩に腰かける。それを見たチルノが、目を丸くした。

「文次、どうしたの? 大丈夫?」
「ん……ああ、なんでもないよ。少し休憩しようと思ってね」
「ふうん……そうなんだ。分かった、じゃあわたしあっちで遊んでるね」

 チルノはそう言い、文が座っている岩から少し離れた場所にある、小さな草むらにしゃがみ込んだ。そこで何か、ごそごそやり始める。

(珍しい虫でも探してるのかしら)

 飽くなき探求心、とでも言おうか。文としても共感を覚えるその感情に、つい頬が緩む。
 そうしてチルノの小さな背中を見ている内に、文は段々眠くなってきた。

(……昨日はカメラ準備したり入山の許可取ったりで、あんまり寝られなかったんだっけ)

 無論文は天狗だから、ちょっと気を張れば眠気ぐらいで参ったりはしない。
 しかし、今は無理に気張ってまで起きていなければならない状況ではないし、そんな気分でもない。
 まだ草むらでごそごそやっているチルノを見ながら、このまましばらくのんびりしていてもいいかな、と思う。
 そうしている内に、文は本当に居眠りを始めてしまった。



「……文次。文次ってば」

 揺すられたのと肌にひんやりした冷気を感じたのとで、文はようやく目を覚ました。
 はっとして周囲を見回したが、さほど時間は経っていないようだった。沈みかけた夕陽が、まだ湖の向こうに見える。

(……居眠りするのなんて何十年振りかしら。紅魔館の門番のこと笑えないわね、これじゃ)

 文は内心苦笑しながら、目をこすって前を見る。両手を後ろに組んだチルノが、機嫌良さそうにこちらを見上げていた。

「チルノ、何か嬉しいことでもあった?」
「ん。んーとね、面白いもの見つけたの」
「へえ。なんだい?」

 何気なく聞くと、チルノは何も言わずに右手を差し出してきた。小さな緑色のものが握られている。クローバーだった。シロツメクサとも呼ばれる、ごくありふれた雑草だ。
 しかし、チルノが今手に握っているのは、その中でも少々珍しい類の草だ。

「ああ。四つ葉のクローバーか。よく見つけたね」
「四つ葉のクローバー?」

 チルノがきょとんとした顔で目を瞬く。文は何気なく頷き、

「そう。普通のクローバーは三つ葉だろう。でもこれは葉っぱが四つついてる。だから四つ葉のクローバー。見つけるとちょっと幸運になれるっていう逸話があるんだよ」
「へー、そうなんだー」

 チルノは感心したように頷き、手の中のクローバーをしげしげと眺め始める。それを見たとき初めて、文は気がついた。

「……チルノ。もしかして君は、今まで四つ葉のクローバーのことは知らなかったのか?」
「ん? うん、そうだよ。今文次から初めて聞いたもん。ねえ、幸運って、どんなことが起きるの?」
「え、と……それはちょっと、分からないけど」

 歯切れ悪く答えながら、文は内心驚いていた。事前知識もなしに三つ葉の中から四つ葉を探し当てるとは、ちょっと信じ難いことだ。

「……チルノ」
「なに?」
「君はどうして、それがあるのに気がついたんだ?」

 文が少し真面目な声で問うと、チルノは数回瞬きしてから手の中の四つ葉を見下ろした。
 しばらくしてから、ぽつりと言う。

「……さびしそうだったから」
「寂しそう、って?」
「うん。あのね、他のは全部葉っぱが三つなのに、この子だけ葉っぱが四つで、一人ぼっちだったの」

 細められたチルノの瞳は、夕暮れの光の中で少しだけ潤んで見えた。

「……だから、見つけられたんだと思う」
「……そう、か」

 文は一つ頷く。完全に納得できたわけではないが、理屈は一応理解できた。おそらく、チルノの言っていることが真実なのだろうということも。

「見つけてあげられて、良かった」

 チルノはそう言って微笑む。今日まで彼女のいろんな顔を見てきたつもりだったが、これほど優しく、柔らかな表情を見たのは初めてだった。

(写真に撮っておきたいものだけど)

 そうしたらチルノはまた嫌がるだろうな、と文はもどかしく思う。
 そしてふと、傍らに置いておいたはずのカメラがないことに気がついた。

「あれ、カメラ……」
「あ、そうだった」

 チルノが何か思い出したように呟き、慌てて草むらの方に走っていく。そして、文のカメラを持って戻ってきた。

「ごめん、借りてた」
「ああ、いいけど……何か、撮ったの?」

 文が問うと、チルノは両手を後ろに回して、何やらもじもじし始めた。心なしか赤くなった顔でちらちらと文を見ながら、

「……ひみつ」

 表情も合わせて、少々気になる答えだった。撮った写真は、おそらくワンピースのポケットの中に入っているのだろう。文の手にかかれば、こっそり盗み出すのはそう難しい技ではない、が。

「……そう。秘密ね。分かったよ」

 文は特に追及することなく、そっとしておくことにした。
 今まで何でも文に話してきたチルノが秘密を持つようになった、というのが、何となく微笑ましく思えたのだ。

「ああ、そうだ」

 文はふと思いついて、チルノに向かって手を差し出した。

「チルノ。良かったらそのクローバー、わたしに預けてくれないか?」
「え、どうして?」
「そのクローバーをね、ずっとそのままにしておく方法があるんだよ。何もしないでいると枯れてしまうからね」
「そうなんだ。じゃあ、はい」

 チルノは素直にクローバーを渡してくれる。それを受け取ったあと、文はふと悪戯心をくすぐられて、

「……ついでに、秘密の写真も見せてもらえないかな?」
「だめっ!」

 チルノはきっぱり言って、ぷいっとそっぽを向く。その様子があんまり可愛らしかったので、文はついくすくすと笑ってしまう。

「うん、冗談だよ、冗談。じゃあまた明日ね、チルノ」
「あ、うん。ばいばい、文次」

 手を振るチルノに手を振り返し、文は今日も山への帰路を飛び始める。
 途中で振り返ると、チルノがワンピースのポケットから取り出した何かを、大事そうに眺めているのが見えた。



 山へ帰り着いて道を歩いていると、また無精髭の老天狗に行き合った。
 彼は文の顔を見るなり破顔一笑して、

「おうおう、なんだなんだ。今日はまたえらく上機嫌じゃねえの」
「だろうね」

 文が照れることもなく頷くと、老天狗は肩を揺らして笑った。

「そうかそうか。お前さんがまだ軍服なんて着てやがるからどうなってんだろうと思ってたが、仕事は順調らしいな」
「まあね。上手くいっていると思う」

 文が手の中のクローバーを回しながら微笑むと、老天狗は腕を組んでうんうんと頷いた。

「そうかそうか、そりゃいいこったな」
「ありがとう」

 常になく穏やかな心地で、文は素直に礼を言う。
 老天狗はそんな文の様子を見て満足げに目を細めていたが、おもむろにこう言った。

「そんじゃあそろそろ、今回の仕事もお終いだな」
「……え?」

 文が驚いて老天狗を見ると、彼もまた驚き、怪訝そうに見返してきた。

「……ん、なんだ。違うのか? 妖精にスペルカードルールを教える、だったか? 厄介そうな仕事だと思ったが、その様子じゃ上手くいってんだろ?」
「あ、ああ。うん、まあ、ね」

 文が歯切れ悪く答えると、老天狗は勘ぐるような視線でじろじろと見て、

「文の字よ。お前さん、またなんか……」
「いや。別に、問題はない」
「本当か? またなんか、夢中になってる内に変に深入りしちまってんじゃ」
「そんなことはないよ。悪いが、ちょっと疲れてるんでね。話ならまた今度にしてくれ」

 強引に話を打ち切って、文はその場を後にする。後ろで老天狗が何か言っている気がしたが、敢えて無視することにした。



 翌日も、文は変わらず霧の湖へと向かって飛んでいた。
 ただ、いつもと違って少し心が沈んでいる。昨日の老天狗の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。

(……もうすぐお終い、か。そうね、今のチルノなら、わたしがスペルカードルールを教えても変に疑ったりはしないでしょうし……教え込むなら、そろそろ頃合いかもしれない)

 久方振りの面倒な公務を終えて今はのんびり山で休んでいる鴉天狗たちも、そろそろいつもの仕事……即ちブン屋稼業に戻り始める頃だろう。
 文とチルノの交流はごくごく小さな出来事だから関心を向ける者はあまりいないだろうが、未だに公務を終えていない天狗がいる、という方向から、妙な噂が立つ可能性はある。それがきっかけで関係のない連中が踏みこんできたら、と思うと、少し憂鬱だった。

(……まあ、わたしがいつもやっていることではあるんだけど)

 そう考えて、文は苦笑する。最近、チルノと遊んでばかりいたせいか、随分気持ちが丸くなってしまっていたようだ。

(でも、あの爺様の言うとおりね。仕事はそろそろ終わり。元々、スペルカードルールの広告塔にするためにチルノに近づいたんだもの。その通りにやれるのなら、その通りにやればいいだけ、よね)

 文は小さく息を吐き、気持ちを切り替える。

(うん、そうだ。別に、悩むことなんてないじゃない。チルノのことはもう十分分かったし。ルールを覚えるまでには少し時間がかかるでしょうし、教える分には、別に)

 つらつらと考えている内に、文は霧の湖の上空に出ていた。霧の隙間にいつもの湖岸を探すと、チルノはいつも通りそこに立っていて、こちらに向かって手を振っていた。
 文が無言で降り立つと、チルノは笑顔で駆けよってくる。

「おはよう、文次! 今日はどこに……どうしたの?」

 こちらの顔を見上げて、チルノがきょとんとした顔をする。
 内心の迷いが顔に出ていたらしい。実際、上手く笑顔を作れていない。

(……こんな状態じゃ、上手く説明できないかもしれないし)

 文はそう理由を付けると、ほっと息を吐いた。口角を上げると、今度はちゃんと笑顔を作れた。

「別に、なんでもないよ。おはようチルノ、今日はどこに行こうか」
「うん。えっと、今日はね」

 チルノは嬉しそうに、今日はどこへ行きたいだとか、何を見たいだとか話し始める。
 それを見ながら、やっぱりもう少しこのままでいいな、と文は思った。



 そうして、まだいい、明日、いや明後日でも……と、ずるずる引き延ばしている内に、日付はどんどん過ぎていった。
 気付けば、チルノと出会ってから一カ月ほどの月日が経過している。日差しは日を追うごとに強まり、幻想郷に夏と呼ばれる季節が近づいてきているのを教えてくれていた。
 そんな時期になったというのに、文は未だに目的を果たせずに……いや、果たさずにいた。
 冷静に考えてみれば、スペルカードルールを教えたからと言ってチルノと離れなければならない、という決まりがあるわけではない。別に、知らん顔で今まで通りの付き合いを続けていけばいいだけの話だ。
 ただ心に何か引っかかるものがあって、そう出来ずにいる。その、文にも正体がつかめぬ何かが解決しない限り、前に進めないような気がしていた。

(……爺様の言うとおり、わたしは確かに融通の利かない性格なのかもしれない)

 文自身、そんな自分に強い戸惑いを感じている。もう少し冷淡で合理的な性格だと、自分では思っていたのだが。
 そんな状態で身動きが取れないまま、時はただ悪戯に過ぎていく。
 何気ないお喋りをしてチルノと笑い合いながら、文はもしかしたらこういう日々がこのままずっと続いていくのではないか、と、危惧とも期待ともつかぬ気持ちを抱き始めていた。
 事件が起きたのは、そんな頃のことだった。



「チルノ。今日はね、プレゼントがあるんだ」
「え、なに?」

 文は微笑みながら小さな紙片を差し出す。受け取ったチルノが、「あっ」と声を漏らして目を丸くした。

「四葉のクローバーだ!」
「そう、あのときのね。押し花にしてみたんだ。これならしばらくは持つだろうからね」
「へー、そうなんだー。すごいなー」

 チルノは感心した様子で紙片を眺め回している。文は少々苦いものを感じた。
 本当のことを言えば、押し花はもうとっくの昔に出来上がっていたのだ。ただあれこれと悩んでいたために、すっかり忘れていただけで。

(情けないわね、本当に)

 自己嫌悪に顔をしかめそうになった文は、チルノが間近で自分を見上げていることに気付いて慌てて笑顔を取り繕った。

「ありがとう、文次! 大事にするね!」

 押し花の紙を胸に抱いて、チルノはにっこりと笑う。文はまたかすかな胸の痛みを感じ、それを誤魔化すように手を伸ばした。

「気に入ってくれたなら、何よりだ」

 撫でてやると、チルノはくすぐったそうに息をする。その顔を見て、文はため息を吐きそうになった。

(……今日も言えそうにない、な)

 無論、スペルカードルールの件である。やはり、チルノの無邪気な顔を見ているとどうしても言い出せない。
 さすがにこの時期ともなると、未だに仕事を終えていないのは文だけになっていた。それでも上からは何も言われない辺り、元々妖精にルールを教えるということはさして重要視されていなかったのだろう。あるいは、天狗の威光は回復できたと考えて満足してしまったのか。
 いずれにせよ、仕事が終わらない件で誰かに咎められるということはないらしかった。文の普段の仕事である新聞記者というのはほとんど趣味のようなものだし、戻らないからと言ってさほど問題にはならない。
 要するに、この仕事を終えるも進めるも完全に文次第ということだ。

「ねえ文次、今日はどこ行くの?」
「ん。ああ、そうだね、今日は……」

 問われて、文は返答に迷う。少し考えて、首を横に振った。

「……いや、たまにはここでのんびりするとしよう。ここにだって、まだ見つけていないものはたくさんあるはずだよ」
「そっか。じゃ、今日はここで遊ぼう!」

 チルノは残念がる風でもなく、楽しそうにしている。ここ一ヶ月間ほどで、すっかり見慣れてしまった表情だ。

(要するに、わたしと一緒にいられるならどこでもいいということなんだろうな)

 そう推測して、文はまた胸の痛みを感じる。それを敢えて無視して、努めて明るい声で問い掛けた。

「じゃあ、何をして遊ぼうか」
「かくれんぼ!」

 即座に元気な答えが返ってくる。文は苦笑した。

「またかくれんぼか。チルノは本当にかくれんぼが好きだね」
「……いや?」

 チルノがちょっと不安そうな顔で、ワンピースの裾を握る。文は笑って首を振った。

「嫌じゃないよ。ただ、どうしてそんなにかくれんぼが好きなのか、ちょっと気になってね」
「ん。んーと。んーとね……」

 何やらチルノが躊躇うように口ごもった、そのとき。

「……ほら、あれあれ」
「わー、ほんとだ」
「へんなの、へんなのー」

 どこからか、無邪気なささやき声が聞こえてきた。ちらりとそちらを見ると、茂みの向こうに三人の妖精が隠れるでもなく隠れているのが見えた。こちらを見ておかしそうに笑っている。

「妖精が妖怪と遊んでるー」
「へんだ、へんだ」
「あの子、やっぱりへんな子だー」

 内緒話のつもりなのだろうが、何分狭く静かな林の中、その声はよく響いてこちらに丸聞こえだった。
 この陰気な雑木林でチルノ以外の妖精を目にしたのはこれが初めてである。陽気に属する妖精が、こんなところに好き好んで入り込んでくるのは珍しいことだ。

(最近、あちこち飛び回っていたものね……わたしとチルノの組み合わせを見て、珍しがってついてきてしまったのかもしれない)

 幸い、相手は単なる非力な妖精だ。目を付けられたからと言って、文としては別段どうということもない。
 しかし、チルノの方は違うようだ。先ほどまでの上機嫌な表情が一転、何かを堪えるようなしかめ面に変わっている。への字に結ばれた唇、ぎゅっと握られた小さな手。青い瞳もかすかに潤んでいる。今にも泣きだすか、さもなくば癇癪を起こして暴れ出しそうな表情。

「チルノ」

 文が心配して声をかけた、そのとき。

「やっぱりへんだね、あの子」
「へんだ、へんだ」
「羽だけじゃなくて、中身もへんだ」

 くすくす笑う妖精たちのその言葉を聞いて、とうとう堪え切れなくなったらしい。
 チルノは目と眉を吊り上げてばっと妖精たちの方を向くと、無言のまま荒々しい足取りで彼女たちの方に向かって歩き出した。 茂みを乱暴に踏み分け、驚いて身動きも出来ずにいる妖精たちの前に立ち、高々と両手を振り上げる。次の瞬間、チルノの頭上に体躯よりも巨大な氷塊が出現していた。これには妖精たちばかりでなく、文までぎょっと目を見開く。

「この野郎っ……!」
「チルノッ!」

 文が地を蹴って飛び出すのと、チルノが両手を振り下ろすのとはほぼ同時だった。妖精たちがいた場所に、巨大な氷塊が重い音を立てて落下する。

 一瞬、潰れたか、と思ったが、幸いなことに妖精たちは間一髪で難を逃れていた。慌てた様子で羽をばたつかせ、「きゃー」「逃げろー」「たすけてー」と口々に悲鳴を上げながら、あたふたと空へ飛んでいく。

「待てっ、この野郎っ!」
「チルノッ、やめなさいっ!」

 地を蹴って妖精たちを追おうとするチルノを、文は背後から羽交い絞めにして止めた。腕の中でチルノが激しくもがき、泣き叫ぶような声を上げる。

「離せっ、離せっ! ちくしょうあいつら、ぐしゃぐしゃにしてやるっ!」
「止めなさい! そんなことしたって何にもならないでしょっ!?」
「だって、あいつらが、あいつらがっ……!」
 
 チルノはなおも文の腕の中で暴れたが、しばらくするとその力は失われていった。怒声が震える吐息になり、やがて嗚咽へと変わっていく。
 文に背中から抱きしめられたまま、チルノはへなへなとその場に崩れ落ちた。

「……なんでさっ、なんで止めるのっ! 悪いのはあいつらじゃんっ!」
「そうだけどね」

 文は認めてやりつつも、目を伏せて首を横に振った。

「でも、あの子たちをぺしゃんこにしたって、言われた言葉が消えるわけじゃないよ」
「そんなの、分かってる、けどっ……」

 そこまで言うのが限界だった。チルノはもう言葉にならない声を上げながら、わんわんと激しく泣きじゃくり始めた。
 文は泣き続けるチルノの小さな体を抱き寄せて、そっと背中を擦ってやる。そうしていると徐々に体から熱が奪われていき、彼女が氷の妖精であるということを否応なしに実感させられた。

「どうして、どうしてわたしばっかり……っ!」

 悲痛な泣き声が、文の胸に深く突き刺さった。



 チルノの泣き声が少し治まってきたので、文は黙ったまま彼女を抱いて雑木林を抜け出した。湖岸の岩に、二人で寄り添って座る。
 チルノは何も言わないし、文もまたかける言葉を持たなかった。澄み切った涼しい湖に、低い嗚咽だけが木霊する。
 そうやって黙っている間に、文は自分の考えを整理しようとした。しかし、なんだか頭がぼんやりしてしまって、上手いこ考えがまとまらない。どうも、思った以上にショックを受けているらしかった。

(……ショック? 何で?)

 チルノが妖精の中で仲間外れにされていることぐらい、文は大体察しているつもりだった。むしろ彼女がそういう存在だったからこそ、自分の目的に利用しようと思って近づいたとすら言える。
 ただこの一ヶ月間、こうしたことが起きたのは初めてだった。文が注意を払っていたためでもあるが、二人が他の妖精に遭遇したことはほとんどなかったのだ。だから、実際にチルノが他の妖精たちからどんな風に扱われているか、そしてそれによってどれほど傷ついているのかを目の当たりにしたのは、初めてのことだった。
 客観的に見れば、さほど酷い扱いとは言えないのかもしれない。悪意に満ちた言葉を投げつけられたわけでもなければ、圧倒的な暴力で理不尽に踏みにじられたわけでもない。力だけで言えば、むしろチルノの方が強いぐらいだ。
 だが、妖精として生まれ落ちたにも関わらず、ただ一人だけ他の者と違う世界に属していて。誰に何を言っても聞いてもらえず、ただ笑われてばかりで。何も知らない無垢な幼子にとって、それはどれほど残酷な仕打ちだろう。チルノには、何故自分が笑われるのかもよく理解できなかったに違いないのに。
 だからこそこの子供は、あれほど簡単に文に懐いたのだろう。生まれて初めて、自分に優しくしてくれる存在に出会えたから。

(ああ、そうか)

 そのときになってようやく、文は何故自分がこれほどまでにショックを受けているのか理解した。
 いつも明るかったチルノが、あれほど悲痛な姿を見せたせいもあるだろう。
 だがそれ以上に、文は嫌というほど思い知らされたのだった。
 あんなになるまで傷つきながら、それでもなお優しさや明るさを失っていなかったチルノの心を、自分がどれほど利己的に利用しようとしたのか。
 スペルカードルールを教える気にならなかったのだって、つまりはそれが理由なのだった。当初の目的を達成しようとすれば、自分がどうしてチルノに近づいたのかという大本の部分と、否応なしに向き合わなければならないから。
 ずっと、目をそらしていたかった。ただただ純粋な優しさでチルノに手を差し伸べた文次天狗という、自分で作り上げた虚像を壊したくなかった。そういうきれいな存在として、いつまでもチルノと手をつないで飛んでいたかったのだ。

(……汚らわしい)

 自覚すると、どうしようもない嫌悪感が胸の奥から湧き上がってきた。そういう風に感じている自分のことが、腹立たしくもあり不思議でもあった。
 文は古参の天狗であり、長い間情報というものに携わってきた。こんなことなど比べ物にならぬほど汚い仕事だって、数えきれないほどこなしてきたのだ。
 だというのに、何故今更こうも心が痛むのだろう。もしかしたらこの痛みすら、自分のことをきれいな存在だと思い込みたい醜い心が生み出しているのかもしれない。

(……汚いな。本当に。どうしようもないぐらい)

 傷つきながらも無垢な心を守ってきたチルノに比べて、自分はなんと汚れていることか。
 深い自己嫌悪の泥沼に、文はずぶずぶと沈んでいきそうになる。

(いや。今は落ち込んでいる場合じゃない)

 自暴自棄になりそうになる心に渇を入れ、文は顔を上げる。
 隣には、チルノがいるのだ。かわいそうに、すっかり元気をなくしてぼんやりと湖を見つめている彼女。
 抱きしめてやりたいと思ったが、今の自分にそうする資格があるのかどうか、文にはもう分からない。
 だからせめて、彼女の気が済むまでそばに寄り添っていてやろうと思った。
 そうして二人が黙り込んだまま、どれ程の時間が経ったことだろう。気付けば周囲は夕闇の中にあった。夕日が湖を赤く染めながら、遠い山の向こうに沈んでいこうとしている。二人並んで、幾度となく見つめてきた光景。しかし今日は、その赤い光が目を刺すほどに刺々しく思えてならない。

「……文次」

 不意に、チルノが掠れた声を漏らした。振り向くと、縋るような瞳でこちらを見つめている彼女と目が合う。
 初めて目にする、哀願の顔だった。

「わたし、お山に行きたい」
「え?」
「お山に行って、ずっと文次と一緒にいたいの」

 そう願う声音には、痛切な響きが宿っていた。もちろんこんなことを言われたのは初めてで、文は何と返事をしていいのか分からなくなる。答えられずにいたら、チルノは震える手で縋るように軍服をつかんできた。

「ねえ、いいでしょ、文次。わたし、頑張って文次のお仕事手伝うから。お願い」

 か細い声、縋るような瞳、軍服をつかむ小さな手。
 文はほとんど考えなしに頷きそうになった。「分かった、山で一緒に暮らそう」と、優しく言ってやりそうになった。
 しかし結局、そうは言わなかった。半ば口を開きかけて噤み、声を無理矢理喉の奥に押し込めた。
 何故その願いを受け入れなかったかと言えば、チルノの瞳に映る真っ赤な夕陽を見たからだった。
 悲しげで心細げで、今にも消されそうに弱々しい光を湛えた青い瞳が、それでも世界を映し出している。
 チルノは今、あんなことがあって弱気になっているだけだろう。もちろん、文と一緒に暮らしたいというのは嘘ではないだろうし、ひょっとしたらずっとそういうことを考えて、でも口には出さずにいたのかもしれない。
 彼女の言葉を受け入れるのは、とても簡単なことだ。それは文にとっても喜ばしいことである。今やとても大切でかけがえのない存在となったこの妖精と、山で一緒にのんびりと暮していけたら、それはなんと楽しいことだろう。想像するだけでも幸せな気分になってくる。
 しかし文には、それが正しいことだとはどうしても思えなかった。
 今のチルノはただ傷ついて、たまたま近くにあった分かりやすくて優しい存在に縋りつこうとしているだけだ。それが本当はただただ利己的で上っ面だけの優しさを振りまく存在であると見抜くこともなく、気付けるはずもなく。
 もしも今、この手を取ってしまったらどうなるだろう。チルノはもう二度と、自分から世界に働きかけようとする意志を失ってしまうのではないだろうか。自分の目と心で世界の美しさを探し出そうとはせず、ふとした偶然で与えられるものに必死に縋りつくだけの、哀れで弱弱しい存在になり下がってしまうのではないだろうか。文はそれが怖かった。
 それはあるいは、文の傲慢に過ぎないのかもしれない。ただ理想を押し付けているだけなのかもしれない。
 それでも、願わずにはいられない。どうか、その瞳の輝きと心の強さを失わないでほしいと。
 だから文は、チルノの手をつかみ、無言で押しのけた。
 裏切られたショックに目を見開くチルノの姿に胸を痛めながら、文はゆっくりと首を横に振る。

「……それは、できない。君のためにならないから」
「……どうして? どうしてそんなこと言うの!? ねえ、文次!」

 チルノの両手が軍服をつかみ、文の体を小さく揺する。それでも何も答えてやれずに、強く唇を噛みしめる。
 チルノはなおも「どうして、どうして」と幾度か繰り返したが、それでも文が黙り込んだままでいるのでとうとう諦めたらしかった。

「……そうなんだ。文次もやっぱりそうなんだ」

 小さく鼻を啜りあげながら、チルノが呻くように言う。

「文次も本当はわたしのこと嫌いだったんでしょ。ただ面白がってただけだったんだね。わたしがこんな変な妖精だから!」

 激しく泣きじゃくりながら叫び、チルノは文の体を押しのけて立ち上がった。そのまま、もう何も言わず、腕で目元を拭いながら雑木林の中へ走り去る。
 それを止める言葉を持たない今の自分が、文にはどうしようもなく腹立たしかった。



 疲れた体を引きずるようにして山へ帰りつくと、文はのろのろと自分の住処へ向かった。軍服姿の文とすれ違う天狗たちは、奇妙なものでも見たかのように眉をひそめて通り過ぎていく。チルノもきっと、こんな視線に晒されながら暮らしていたのだろうな、と思うと、彼女に会いたくて仕方がなくなった。
 しかし文は湖へ取って返したりはせず、大人しく自分の住処へと帰り着いた。
 写真や書き損じの原稿、新聞の山に埋もれた狭い部屋の中、簡素な寝台に腰を下ろして黙り込んだまま今後のことを考える。
 当たり前だが、チルノをこのまま放置しておくつもりはなかった。今の自分にその資格があるかどうかは分からないが、彼女が一人で歩いていけるようになるまで、出来る限りの手助けをするつもりだった。
 そうするための方法も、もう頭の中で出来上がっている。皮肉なほどに、今の自分にはお似合いの手段だ。

(……それにしたって、チルノがもう一度顔を上げてくれなければ始まらない。全ては明日、か)

 文は小さく息を吐き、疲れ果てた体を寝台の上に横たえた。



 翌朝早く、文は軍服に身を包んで山を飛び立った。
 薄曇りの空の下には朝靄が立ち込めており、少々見通しが悪い。そんな中を湖に向かって飛んでいた文は、その途上でかすかな音を聞いて、思わずその場に静止していた。
 耳を澄ますと、やはりどこからか騒がしい音が流れてくる。そちらに目を向けると、靄の向こうでたくさんの光が弾けて混じり合うのが垣間見えた。

(……誰かが、スペルカードルールに基づいた模擬戦を行っている)

 スペルカードルールの制定が決定されてから、もう数カ月の時が経過している。当初予定していたほど爆発的ではないものの、あのルールに基づいた模擬戦は幻想郷の一部でそこそこの広がりを見せているらしかった。主に妖怪の少女たちによって織りなされる弾幕の光を、文もチルノと一緒に何度か目にしている。

(弾幕ごっこ、なんて呼ばれているんだっけ)

 いかにも少女の遊びらしい、柔らかなおふざけの混じった呼び名だった。模擬戦などという武骨さからは無縁な、気楽で楽しい遊びに思える。

(……いつだか弾幕を見たとき、チルノも『きれいだねー』なんて言ってたっけ)

 そのときの文はまだ自分の本質から目をそらしていて、チルノにスペルカードルールのことを教えることが出来なかった。
 しかし、今は。

「……よし」

 小さく呟いて気合いを入れ直し、文は力強く羽ばたいた。



 いつもの湖岸に降り立ったが、周囲にチルノの姿はなかった。早く来すぎたのか、それともどこかへ行ってしまったのか。
 いずれにしても、文はチルノを探そうとしたりはせず、岩に腰掛けてただ待つことにした。もしかしたら、チルノは来ないかもしれない。それでも、いつまでだって待つつもりだった。
 そうして座ったまま黙っている文の周囲で、時間は緩やかに行き過ぎる。朝靄が去ると共に薄い雲が少しずつ晴れて、青空が顔を覗かせ始めていた。飛び交う鳥や妖怪たちの姿がちらほらと見え、いかにも幻想郷らしいのどかな景色を見せてくれている。どこまでも穏やかで、のんびりとした空気。

(……来た、か)

 チルノの気配を背後に感じたのは、ちょうど昼を回った頃だった。夏だというのにひやりとした冷気が背筋を撫で、彼女の存在を知らせてくれる。
 しかし文は気付かぬ振りをした。何の反応も見せることなく、ただ黙ってチルノが話しかけてくるのを待ち続ける。
 今、チルノはとても傷ついてるはずだ。そんな彼女に、こんなことを要求するのは少々酷かもしれない。
 それでも文は、チルノに自分から話しかけてきてほしかった。今というこのときを、彼女が一人で歩き出す最初の一歩とするために。
 やがて、チルノの気配と冷気が、じりじりと背後に近付いてきた。おそるおそる、こわごわと、何度も何度も躊躇いながら。それでも着実に、少しずつこちらに向かって歩いてくる。

「……文次」

 か細い声で話しかけられた。文は心臓が高鳴るのを感じながら、努めて冷静な顔でゆっくりと振り返る。
 チルノは今にも泣き出しそうな顔で俯きながらも、二本の華奢な足で確かにそこに立っていた。震える手でワンピースの裾をぎゅっと握りしめながら、つっかえつっかえ、声を絞り出す。

「あの……あのね」

 チルノは小さく鼻を啜りあげ、目に涙を溜めながら必死に言った。

「わがまま言って、ごめんなさい」

 はやる気持ちを抑えながら、文はゆっくりと立ち上がる。
 青い瞳を涙に濡らしながら、チルノはたどたどしく言葉を紡ぐ。

「もう、馬鹿なこと言わないから。わがまま言って、困らせたりしないから」

 今にも崩れてしまいそうな、くしゃくしゃの顔で。

「だから、いなくならないで……」

 もう到底堪えていることが出来なくなって、文は両手を伸ばしてチルノの小さな体を抱きしめた。氷の妖精はとても冷たく、あっという間に体の熱が奪われてゆく。その痛みを感じながら、構うことなく抱きしめ続ける。

「……よく頑張ったね。偉いぞ、チルノ」
 
 頭を撫でながらそう言ってやったら、チルノは今度こそ本当に泣き出してしまった。



 チルノが少し落ち着いてから、二人はまた並んで岩に腰掛けた。

「……生まれてから、ずっと一人ぼっちだったの」

 チルノがぽつりぽつりと語り始める。

「……自分が妖精っていう生き物なんだってことは、何となく分かってたから。だから、みんなの仲間に入れてもらおうとしたの。でもどうしてかみんな遠くから笑うばっかりで、仲間に入れてくれなくて。どうしてって聞いたら、わたしみたいな変なのが仲間だとは思えない、って」

 語り続けるチルノの目から、またぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「でもわたし、本当に変な妖精だったから。氷みたいな羽も、冷たい体も、みんなとは全然違って、わたしだけがへんてこで……だから、仲間外れにされても仕方ないんだって、思って……!」

 話しながら泣くチルノがあまりにも辛そうで見ていられず、文は黙ったまま手を伸ばし、彼女を胸元に抱き寄せてやった。チルノはしゃくり上げながら縋りいてきて、

「も、文次……」
「なに、チルノ」
「わ、わたし、なんか悪いことしたの……? だからこんな変てこに生まれちゃったの……? こんな風に生まれたから、もうずっと一人ぼっちで生きていかなきゃならないのかなあ……」

 心細げに言うチルノに、文は努めて優しく微笑みかけてやった。

「そんなことはないさ、チルノ。君のことを分かってくれて受け入れてくれる妖精だって、きっとこの郷のどこかにいるよ」
「ほ、本当?」
「本当。だって、妖怪のわたしがこうしてチルノと仲良くなれたんだもの。同じ妖精なら、きっともっと仲良くなれるはずだよ」
「でも……」

 チルノは文の腕の中で、恥じるように身を縮める。

「わたし、こんな変てこだし……」
「……チルノは、自分の羽とか冷たい体が嫌いなんだね」
「だって、変だもの」
「そう思うんだ。だから、写真にも写りたがらなかったんだね」
「……わたしのことなんか、見るの嫌だもん」

 拗ねたように小さく鼻を啜りあげるチルノに、文は気楽に笑いかけた。胸に溢れる愛おしさをありったけ込めて、柔らかな声を紡ぐ。

「わたしは、チルノの羽が好きだよ。とてもきれいだと思う」
「うそだ」
「本当。初めて会ったときからずっと思っていたんだ。とてもきれいだ。他の誰にも負けないぐらい、チルノはとてもきれいなんだよ」

 それは偽りなき本心から出た言葉で、それがチルノにも伝わったのだろう。文の腕の中で、気恥ずかしそうに身じろぎする。
 チルノは赤い顔で文を見上げ、疑うような上目遣いで、

「……本当に本当?」
「本当に本当。なんだ、チルノはわたしの言葉を信じてくれないのか。悲しいなあ」

 ちょっと意地の悪い口調で言うと、チルノは慌てたように首を振って、

「違うよっ、そ、そういうわけじゃないけど……でも……」

 やはり急に自信は持てないらしく、チルノの声は尻すぼみになった。残念なことだが、今はまだ仕方があるまい、と文は思う。
 大丈夫、自信はこれから身につけていけばいいのだから。

「チルノ。今から、とても大事なことを聞くよ」
「え……?」

 驚いたように目を見開くチルノを真っ直ぐ見つめて、文はゆっくりと問いかける。

「チルノは、友達が欲しい? 自分と同じ、妖精の友達が」
「友達……でも、それは……」
「でも、とかそういうのはいいんだ。欲しいか欲しくないか。それだけ答えて」

 静かな、けれども力強い問い掛け。
 チルノはまだ迷う様子だったが、やがて真っ直ぐに文の顔を見上げて、こくりと小さく、しかし確かに頷いた。

「……欲しい。わたしも、みんなの仲間に入れてもらいたい。一緒に遊びたい」
「そう。じゃあ、そうしようか」

 文があっさりそう言ってのけると、チルノはまた「でも」と言って俯いてしまう。文は笑って彼女の頭を撫で、

「チルノ。でも、とかそういうのはいらないって言ったろう。大丈夫、わたしも手伝うから。チルノがちゃんと、妖精の仲間に入れてもらえるようにね」
「……本当?」

 不安そうに見上げてくるチルノに、文は深く頷く。出来る限り、頼もしく見えるように。

「だけど、出来るのは手伝いだけだからね。全てはチルノの頑張りにかかってる。チルノが頑張れば、きっと分かってくれる子もいるから」

 チルノは少しの間、自信なさげに俯いていた。だがやがて唇を引き結んで顔を上げると、真剣な顔で一つ頷いた。

「……うん。わたし、頑張る」
「よし、その意気だ」

 いつになく凛々しい顔をしているチルノに、文もまた凛とした声で答えた。



 チルノの意志は固まった。となれば、あとは具体的にどうやって彼女の魅力を分かってもらうかである。

「そのために、打ってつけの方法があるんだ」
「打ってつけの方法?」

 おうむ返しに聞いてくるチルノに、文は一つ頷いて指を立てる。

「スペルカードルール、さ」

 結局のところ、文が考えた案はあの遊びにチルノを参加させることなのだった。ただその目指すところは、チルノを妖精たちに対する広告塔にすることではない。
 チルノが妖精たちから仲間外れにされている理由は、かいつまんで言えば「自分たちと同じはずなのになんか違う、変な奴だから」である。中にはもう少し意地の悪い見方をしている者もいるかもしれないが、大半の妖精は単に無思慮で無邪気なだけだから、積極的にチルノを排除しようとする者はいてもわずかだろう。
 変な奴はいいものじゃない。だから仲間に入れてやらない。至極簡単な理屈だ。
 だからそれを逆手に取る。要するに、「変な奴だけどいいものだ」「変な奴だけど面白い」というように思ってもらえれば、元々陽気な妖精たちのこと、案外あっさり面白がってチルノを仲間に入れるのではないかと思える。
 無論、もっと簡単な方法もあるにはある。妖精にしては飛びぬけて強い、チルノの力を利用する方法だ。要するに、相手を屈服させて仲間ではなく家来にするわけである。妖怪である文にとっては、むしろ馴染み深いとすら言える方法だ。
 だがこの方法では結局他者に好かれることはないから、チルノの望みとは合致しないだろう。彼女の性格を考えれば、むしろより孤独に、寂しくなっていくだけのような気がする。
 だからやはり、選ぶのは前者の手だ。チルノの良さを分かってもらって、仲間に入れてもらうのだ。

「そんなに上手くいくかなあ」
「上手くいかせるのさ。そのためのスペルカードルールなんだ」
 
 スペルカードルール……弾幕ごっこというのは、美しさを競うことを理念とした遊びである。己の心に描く美しいものを、弾幕という形で相手に見せて、魅せる遊びだ。
 だからチルノにもスペルカードを……弾幕を作ってもらって、それを妖精たちに見せる。妖精たちがそこに魅力を感じたなら、それを作りだしたチルノのことだって、きっと面白がって仲間に入れてくれるはずだ。

「わたしにきれいなものなんて作れるの……?」
「大丈夫。チルノはいい目と心を持ってるよ。それはわたしが保証する。君の心の中には、きれいなものがたくさんある。後はそれを表現する意志を持てばいいだけだから」

 文がチルノを弾幕ごっこに参加させようとしているのには、もちろん他にも理由がある。
 今朝見た妖怪たちのように、弾幕ごっこに興じる者たちが少しずつだが確実に増えているからだ。その多くは少女の心を持った妖怪たちで、日々軽やかに楽しげに、弾幕を見せ合っては華やかな笑い声を上げているという。
 仮にチルノが妖精たちに受け入れられなかったとしても、弾幕ごっこに参加していれば妖怪の知り合いが出来るのではないか、と思える。それは最善の手ではないが、この先ずっと一人ぼっちで生きていくよりはずっとマシな選択肢のはずだ。

(何より、チルノに必要なのは自分の気持ちを表現して積極的に伝えていくという意志。弾幕ごっこは、その意志を鍛える上で必ず役に立ってくれるはず)

 文にしてみれば、そういう目論見もある。ともかく、チルノを一人立ちさせるのが一番の目標なのだった。
 そうして一通り説明を終えると、文はチルノの前に立った。

「さて、それじゃあ実際にスペルカードを作る前に、まずはわたしがお手本を見せてあげよう」
「お手本?」
「そう。今からわたしがお空の上で弾幕を展開してみせるから。どういうものだか、よく見ているんだよ」

 文は言うなり地面を蹴って、ふわりと空に舞い上がる。あらかじめ用意してきた札を取り出し、誰もいない空中に向かって宣言した。

「『幻想風靡』!」

 叫びと共に空を蹴り、文は前方へと飛び出す。縦横無尽に駆け巡りながら、木の葉型の弾を無数にばら撒いた。途中でちらりと眼下に目をやると、チルノが目を丸くしてこちらに見惚れているのが見えて、嬉しいようなこそばゆいような、なんとも言えぬ心地になった。
 そうして弾幕を展開し終えた後、文は軽く息を吐きながら地に降り立つ。すると途端にチルノが駆け寄ってきて、興奮した様子でぴょんぴょんと飛び始めた。

「すごい、すごい! 文次、すっごいきれいだった!」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 そう言ったのは、文の本心だった。一か月ほど前にスペルカードルール公布の任務に従事していたときの、大半の妖怪たちの無関心さを思い起こせば、今のチルノのような反応は非常に喜ばしいものだ。期待通り彼女が弾幕の美しさを理解する心を持っていたというのも、実に好ましい。

「まあこんな風に、スペルカードっていうのは自分が美しいと想うものを弾幕という形で表現するものなんだ。チルノは何か、すぐに思いつくものがあるかい?」
「うん、ある!」

 チルノは嬉しそうに即答した。そんな風にすんなりでてくるとは思わなかったので、文は少々面食らう。

「そ、そう。あるんだ。そのきれいなものっていうのは、なんだい?」
「んとね、んとね……耳貸して」

 チルノがどことなく恥ずかしそうに言ったので、文はしゃがみこんで耳を近づける。
 するとチルノは文の耳元に唇を寄せてきた。冷たい呼気と共に、嬉しそうな声が。

「さっきの文次のやつ」
 
 意外な答えだった。文が思わず顔を離してチルノを見ると、彼女は嬉しそうに、けれども恥ずかしそうに頬を染めて、じっとこちらの顔を見上げている。

「……ええと、その……あ、ありがとう」

 なんともくすぐったいものを感じて、文は我知らず頬を掻く。チルノの赤い顔に、満面の笑みが浮かんだ。
 もちろんチルノが答えたそれを弾幕にするわけにはいかなかったので、候補は他から考えなければならなかった。
 二人は岩に座ってしばらくの間話し合い、結局チルノが去年の冬に一人で見たという、吹雪を題材にした弾幕を作ることにした。

「ごうごうっていう風と一緒に真っ白な雪がぱーってなってね。家に閉じこもってばっかりでこれを見ないみんなは絶対損してるって思ったの」

 両手を広げて一生懸命説明するチルノに、文は満足して頷く。

「そう。確かに、雪景色は美しいものだね。それに、陰の気に属する吹雪の弾幕を美しいと思ってもらえれば、チルノの良さだってきっと伝わるはずだ。うん、いい選択だよ、チルノ」
「ありがとう。でも、わたしに作れるかな?」

 不安げなチルノの前で、文は笑って自分の胸を叩いてみせる。

「作れるように、これから一緒に練習するんだよ。大丈夫、チルノならきっと出来る。真夏の空に季節外れの吹雪を吹かせてやろうじゃないか」

 文がそう言うと、チルノは目を輝かせながら頷いた。気合は十分なようだ。
 かくして、二人の弾幕修行の日々が幕を開けたのだった。



 弾幕というのは、読んで字の如く弾の幕である。となれば当然、その生成には大量の弾を生み出すための力と、それを決まった形に保ち続けるための集中力や制御力が必要となってくる。
 力という点に関して言えば、チルノは何の問題もない。弾も大小の氷塊を生み出して作りだすことにした。ただ制御という面に関してはまだ全くの無知と言ってもよかったので、二人の訓練はまずそこからスタートした。

「チルノは氷を作りだすとき、自分の中にある力をただ放出する感じでやっているだろう? これからはそうじゃなくて、自分が意図した形に整えられるように意識しながらやってみるんだ」

 そんな文の説明を、チルノは真剣な顔でいちいち頷きながら聞く。彼女の理解力に対して文は少なからず不安を持っているが、その辺はやる気でカバー出来ると楽観視することにした。

「じゃあまずは、小さな氷を作ってみよう。はい!」

 文が手を叩くと、チルノは目を閉じて両手を突き合わせ、集中するように細く息を吐き始めた。彼女の周囲の冷気が緩やかに凝集し、手の平と手の平の間に小さな氷の粒を生み出し始める。

(よし、いい感じ……)

 そう思ったのも束の間、

「あっ」

 とチルノが声を漏らし、氷の塊がひび割れて弾け飛んだ。その内のいくつかはチルノの顔に命中し、彼女は小さな悲鳴を上げて蹲る。

「大丈夫か、チルノ」

 文は慌てて駆け寄る。チルノは顔を押さえて「いたたたた」と声を漏らしている。
 これでまた弱気になってしまわないだろうか、と文は危惧したが、次に顔を上げたチルノは涙目になりながらも健気に笑っていた。

「あはは、大丈夫、大丈夫。っていうか今のも弾幕っていうのに使えそうだよね!」
「……ああ、そうだね」

 前向きな言葉を聞いて、文はほっと息を吐く。
 チルノのやる気は十分だし、思ったよりは飲み込みがいいようだ。この調子で続けていけば、小規模な弾幕ならそう遠くない内に作れそうな予感すらする。

「よっし、もう一回!」

 また張り切って氷塊を作り始めるチルノを、文は目を細めて見つめていた。



 そんな調子で、訓練は概ね順調に進んだ。三日も経つとチルノは自在に氷の大きさを整えられるようになり、一週間目には同時に大小様々な氷を無数に生成してみせるようになった。
 それで訓練は次の段階へ進み、二人は雑木林の中でも若干開けた場所に移動する。
 そこで試しに小規模な弾幕を作ってみようということになったのだ。

「どんな形にすればいいの?」
「別に、どんなだって構わないよ。ともかく、チルノがイメージした通りの形に出来ればいいんだからね」
「分かった」

 チルノは目を閉じて小さく唸り始める。同時に周囲の空気が冷えて、涼やかな風が渦巻き始めた。風は氷の妖精の周囲に集まっていき、大小様々な氷を生み出していく。
 目を閉じたままチルノが両手を広げると、周囲の氷塊がゆっくりと動き始める。
 それが何か、丸い形に配置されようとした瞬間、

「ぶはーっ!」

 とチルノが大きく息を吐き、宙を漂っていた氷塊がボトボトと地面に落ちた。

「これ思ったよりも疲れるね……」
「慣れればそうでもないさ。チルノはまだ余計な力を使いすぎているんだよ」

 ぜいぜい息をしているチルノに言ってやりながら、文はふと聞いてみる。

「ところでチルノ、何か丸い形のように見えたけど、どんな弾幕を作ろうとしていたんだい?」
「ん。んーとね……」

 チルノは腰の後ろで手を組み、つま先でモジモジと地面を弄くりながら、

「……ひみつ」
「おや、また秘密か。チルノには秘密が多いんだね」
「もう! いいでしょ、別にっ!」

 文がからかうように笑うと、チルノはちょっと赤い顔で怒鳴った。
 ちなみにチルノが作ろうとしていたものの正体は、その一週間ほど後に知れることとなった。
 彼女の制御力は回を重ねるごとに目に見えて向上していき、ついに思い浮かべた形を氷塊で描くに至ったのである。
 至ったのだが。

「……ええと」

 目の前に展開された弾幕というか氷塊で描かれた絵を見て、文は何とも言えずに頬を掻く。

「……ひょっとして、わたしの顔、かな。これは」
「……ん」

 チルノが小さく、不満げに鼻を鳴らす。多分、肯定なのだろう。
 今、文とチルノの間に浮遊している氷塊は、目に見えない紙に絵を描いたような具合になっている。それは多少稚拙で見えにくいながらも確かに文の顔であり、目を閉じて眠っている表情らしかった。

「これ失敗」

 と、チルノが相変わらず不満げな顔で呟いた瞬間、氷塊はボトボトと地面に落下する。さっきまでの絵は影も形もない。なんだか砂絵みたいだなあ、と文は少し苦笑する。

「でも、どうして失敗なんだい?」
「だって」
「だって?」

 チルノはちょっと恥ずかしそうに、ボソボソ何か言っている。顔を近づけたら、

「……だって、文次はもっとカッコイイもん」

 文は何も言えなくなってしまった。頬がちょっと熱いのは、気のせいだと思いたい。

(……カッコイイ、ね。まあ今は軍服だしね。可愛いとか言われたいわけじゃないから別にいいんだけどね)

 心の中で言い訳のようにブチブチ呟きながら、文はふと疑問に思う。

「チルノ。さっきの似顔絵、どうして寝顔だったんだ?」
「ひみつ」

 チルノは秘密の多い女に成長するらしかった。



 ともかくも、チルノがあそこまで見事に氷塊を制御してみせたので、訓練はいよいよ最終段階に進んだ。即ち、実際に披露する弾幕……もっと言うならスペルカードを作成する段階だ。
 ただ、そうなるとあの小さな雑木林では手狭になってくる。二人はもっと広くて、なおかつ誰にも見つからないであろう秘密の特訓場所に移動することにした。
 それはいつだか出かけた魔法の森の奥にある、広く開けた場所だった。上空には魔法の森の木々が枝を伸ばしているから、高く飛ばない限り誰かに見つかる心配はないだろう。
 森には魔法使いの少女が一人住んでいるが、文が警戒していれば彼女の接近を見抜くことぐらいは容易いことである。

「そんなわけだから、思う存分特訓しよう」
「うん!」

 元気良く頷いて飛び上がったチルノが、真剣な顔で氷塊の嵐を生み出し始めた。訓練を始めてまだ二週間ちょっとしか経過してないことを考えれば、凄まじいまでの成長速度である。

(それだけ、強い想いでやっているということよね)

 文は目を細めてチルノを見上げながら、声を張り上げる。

「チルノ。ここから先は、誰かに見てもらうことを……誰かに伝えることをよく意識して弾を制御するんだ。適当にばら撒いたところで、君が見た吹雪の美しさは誰にも伝わらないぞ」
「分かった!」

 上空のチルノから、気持ちのいい返事が返ってくる。それを合図としたかのように、渦巻く氷の一粒一粒が、まるで意思を持っているかのように動き始めた。腕を広げる氷の妖精の周囲を漂い、巡り、一つの光景を形作ろうとしている。

「おお……」

 感嘆の声を上げかける文の前で、しかし氷の嵐は悲鳴のような音を上げて霧散してしまう。
 はっとして見ると、チルノが腕を下ろして荒い息を吐いていた。やはり、ああまで繊細な動きをさせるのは、今の彼女にとってはまだまだ難しいようだ。
 加えて、季節は真夏に近づきつつある。容赦なく降り注ぐ強い日差しの下では、氷を操るチルノの力もかなり削がれてしまうのかもしれない。

(時間をかけてじっくりやる必要があるか……?)
 
 文は少し迷った末に、そうするべきだと結論を下した。あまり急いで無理をしすぎて、チルノ自身を駄目にしてしまったのではどうしようもない。

「チルノ」
「もう一回!」

 だが、文が上げかけた静止の声を遮るように叫びながら、チルノはまた両腕を広げて氷の嵐を作り始めた。幼い顔には真剣な表情が浮かんでいたが、苦痛のために少し歪んでいるようにも見える。やはり、相当無理をしているように思えた。

(止めるべきか……いや)

 開きかけた口を、文は寸でのところで閉じた。チルノの周囲に渦巻く氷の嵐は、先程よりもさらに洗練された動きを見せている。一秒、また一秒と時を重ねるごとに、彼女が成長していることの証であるかのように。
 今は止めるべきではない、と文は判断した。チルノは今、心の内を表現すべく必死に自分と向き合っている。下手に止めたりすると、折角芽生えた勇気の芽を踏み潰してしまうことになるかもしれない。
 無理をしすぎるようなら止めるべきだが、そうでない限りは見守ってやろう。過保護はチルノのためにならないと文が思ったからこそ、二人は今ここでこうしているのだから。

「……頑張れ、チルノ」

 小声で囁き、目をそらすことなく彼女を見つめ続ける。
 チルノはさらに数回ほど氷の嵐で弾幕を形成しようとしたようだったが、結局その日は完成を見ることなく、全て途中で弾け飛んでしまった。
 最後には力を全て使い果たしたらしく、チルノはぐったりしながら落ちてきた。文は慌ててそれを受け止めると、周囲の風を操って、少しでも気温が下がるよう努めた。

「チルノ、チルノ」

 呼びかけてやると、チルノは文の腕の中で薄目を開き、ぎこちなく微笑んだ。

「……ごめん、思ったより難しくて……」
「当然だよ。実際に、難しいことをやろうとしているんだから」
「……うん。でもわたし、頑張るから。最後まで見ててね、文次」

 その声音はとてもか細く、震えてもいたが、芯には確かな力強さが感じられた。
 だから文も敢えて止めようとはせず、しっかりと頷き返す。

「ああ、もちろん見ているよ。チルノなら、きっと出来る」
「うん」

 チルノは苦しげながらも幸せそうな顔で頷いたが、さすがにこれだけ力を使ってしまっては、すぐに回復するのは無理のようだった。
 疲れた顔で寝息を立て始めた彼女を背負って、文はあの雑木林への帰路を飛び始めた。



 ちゃんとした弾幕を一つ作るというのは、実際なかなか大変な作業だった。
 もちろん、文のように長く生きてきて、力も強い妖怪であればさほどでもない。だが、チルノはまだ生まれたばかりであり、他に比べれば力が強いと言ってもあくまで妖精だ。本来ならば到底こなすことのできない重労働であるとすら言える。
 それでも、チルノは諦める気配など微塵も見せなかった。何度失敗してもすぐに顔を上げ、「もう一回!」と再挑戦する。余程強い想いで向き合っているのだろう、青い瞳の輝きは少しも鈍ることがない。
 この段まで来ると、文に出来ることはただ黙って見守ってやるばかりとなっていた。一秒も目をそらさぬ覚悟で、氷の妖精の姿を見つめ続ける。
 そうして氷の嵐を操っているチルノの姿を見ていると、文は不思議な想いに囚われた。

(……最初は、内気で弱々しい子にしか見えなかったのに)

 いちいちこちらの顔色を窺って、自分の気持ちを一つも言えずにもじもじするばかりだった幼子。そんな彼女が今、歯を食いしばって氷の嵐を操り、自分の心の中にあるものを表現しようと必死に努力している。
 チルノはいつの間にそんな強さを手に入れたのだろう。それは、文が与えたものなのだろうか。
 少し違う気がした。今チルノが見せてくれている強さは、元々彼女の中に眠っていたものなのだ。孤独に傷つき隠れていたものが、前を向こうとする勇気に応えてまた姿を現したに過ぎない。

(……きれいだなあ、チルノは)

 文が見つめる先で、氷の風は緩やかに巡る。チルノを優しく包みこみ、歌うように鳴りながら、その壁を越えて彼女の手を握ってくれる誰かを待ちわびているように。
 半ば無意識のまま、文は誘われるように手を伸ばしかける。
 だが次の瞬間、氷の風は鈴のように澄んだ音を発しながら弾け飛んだ。無数の透明なかけらが雪のように舞い踊り、真夏の日差しの中できらきらと光り輝く。
 その白い輝きに包まれながら、目を伏せたチルノがゆっくりと降りてきた。その姿があまりにも眩しく見えて、文は伸ばしかけた手を自然に引っ込める。

「……できた」

 地に降り立つなり、チルノは震える声を吐息と共に吐きだした。

「……できたよ、文次」

 開かれた青い瞳に、薄らと涙が溜まっていた。

「できた。できたんだよ、わたし! 思った通りに、弾幕作れた!」

 興奮したように叫んだあと、チルノはふと声を潜めて、

「……と、思うんだけど……あの、ちゃんと出来てた? きれいに見えた?」

 文はそっと微笑み、チルノの頭を撫でながら答えた。

「ああ。きれいだったよ、とても」

 チルノは堪え切れないように両手を上げ、高い高い歓声を上げる。
 二人が弾幕訓練を始めてから、ちょうど一カ月経った日のことだった。



 吹雪を模したあの弾幕が完成すると、チルノはすぐにそれを誰かに見せたがった。
 文は安定して作れるようになるまでもう少し練習した方がいいのではないかと考えたが、チルノは首を横に振る。あまり隠したままにしておくと、かえって自信がなくなってくる気がするのだという。その上、どうしようもなく気持ちが昂ぶっていて、ずっと抑えたままにしておくことなどとてもできない、とも言った。
 少々心配ではあったものの、文は最終的にはチルノの気持ちを尊重することにした。

「じゃあ、明日みんなに見てもらうことにしようか。湖の上空でやれば、きっと物珍しがって集まってくるだろうから」
「うん、分かった」

 話しながら、二人はいつもの湖岸への帰路を飛ぶ。
 帰り着く途中、はしゃぎ声を上げている小さな妖精たちの一団が向こうからやってきた。彼女らはこちらに気付くと、チルノを見て目を丸くし、それからくすくすと笑い始める。いつか見た妖精たちと同じ、邪気はないがそれ故に不快な笑いだ。
 文はまたチルノのことが心配になったが、彼女は特別何の反応も見せなかった。何も言わず、表情も変えず、ただ黙ったまま自分を見て笑っている妖精たちの横を通り過ぎる。

「チルノ」
「大丈夫」

 妖精たちとすれ違った後に文が声をかけると、チルノはしっかりした声で答えて、初めて見る不敵な笑みを浮かべてみせた。

「ああやって笑ってられるのも今の内だもんね。明日になったらあいつらのこと、わたしの魅力でメロメロにしてやるんだから」
「……うん、その意気だ。頑張ろうな、チルノ」
「もちろん!」

 元気一杯に頷くチルノの顔には、明日のことを恐れる不安など微塵も感じられない。どうやら要らぬ心配だったらしいと気付かされ、文はほっと息を吐く。
 そうして湖岸に降り立つと、周囲は夕闇の光に包まれていた。緩やかに吹く風の中、湖の向こうに夕陽が沈んでいく。

「きれいだね」
「ああ。きれいだね」

 もう決まり事のようになってしまったやり取りを今日も同じように繰り返しながら、二人は自然といつもの岩に並んで腰かける。そうして何も言わないまま、ただ黙って夕暮れの湖を見つめ始めた。
 隣にいるチルノの穏やかな横顔を盗み見ながら、文はそっと息を吐く。

(……この日々も、明日で終わりね)

 明日。チルノがあの弾幕を披露してみせる日。その結果がどのようであったとしても、文は彼女のそばから去るつもりだった。
 チルノはもう大丈夫だろうと思う。きっと、自分がいなくても一人でやっていける。仮に今回駄目だったとしても、いつかは誰かに受け入れてもらえるはずだ。
 もちろん、偽りなき本心を言うならまだまだ心配なところはある。教えてあげたいことだって山ほどあるし、話したいことも数えきれないほどだ。ずっと彼女のそばについていてやれたら、どれ程幸せだろうと思う。
 けれど、それは許されないことだ。元々、文はチルノをスペルカードルールの広告塔にするために近づいたのだ。その目的が果たされたのなら、最初決めていた通りに去らねばならない。
 今更優しい保護者面してチルノのそばにいることなど、許されるはずがない。今になってそんな想いを抱くなど、虫が良すぎる話だ。直視しがたいほどに汚らわしい。そんな生き方は、誰よりもまず文自身が許せない。
 チルノが心の底から慕ってくれていると分かっているからこそ、文は尚更強くそう思わずにはいられないのだった。

「……文次、大丈夫?」

 不意に心配そうに声をかけられたので、文は驚いて振り向いた。いつの間にか、隣のチルノが気遣うように眉を曇らせてこちらを覗きこんでいる。
 文は慌てて笑みを取り繕った。

「なに。急にどうしたんだい、チルノ。大丈夫って、なにが?」
「だって、今なんだか凄く辛そうな顔してたもん。大丈夫、文次。具合悪いの?」

 あらゆる虚飾を見透かすように澄み切ったチルノの瞳を前に、文はひどく落ち着かない気分になる。激しく動揺していると、自分でも分かった。

(……他人の痛みが分かる子なのね)

 チルノがそういう少女であることは、とても喜ばしいことだ。それ故に、胸が締め付けられるように痛む。

「……何でもないよ。気のせいじゃないかな」

 表情を上手く取り繕えず、文は顔を背けながらそう言う。チルノは少しの間を置いて、「そうなんだ」と呟いた。

「ねえ、文次」

 今度はやけに明るい声で呼びかけられる。怪訝に思って振り向くと、チルノは岩から立ち上がって嬉しそうにこちらを見ていた。

「かくれんぼ、しよ」
「え?」

 虚を突かれて目を瞬く文の前で、チルノは弾むような動きで身を翻す。

「かくれんぼ。隠れるから、文次、わたしを見つけてね!」

 そう言うなり、チルノは止める間もなく雑木林の中へと走り去っていく。
 文はしばらくの間呆気に取られていたが、やがて苦笑しながら立ち上がった。
 もうすっかり馴染みの場所となった小さな雑木林は、今日も静かな佇まいを見せていた。真夏という季節にあっても涼しい空気に満たされたこの場所で、文はチルノに出会ったのだ。

「チルノ、どこだい?」

 草を踏みしめ呼びかけながら、ゆっくりとした足取りで歩く。チルノに出会った日のことも、彼女とこうしてかくれんぼをした日々のことも、もうずっと昔のことのように思えた。

「どこにいるのかな。チルノは隠れるのが上手いものな」

 一人呟きながら、しかし文は迷うことなくある方向へと足を進める。多分、彼女はあの場所にいるような気がしていた。
 そこは小さな雑木林の奥。木々の隙間を抜け、いくつもの茂みを踏み越えたところ。
 枝の重なりの下に、一人の少女が取り残されたようにぽつんと佇んでいた。けれどもその姿は、最初に彼女を目にしたときよりもずっと色鮮やかに見える。

「……見つかっちゃった」

 背を預けていた木から身を離し、チルノが嬉しそうに笑う。少し前までかくれんぼをしていたときと変わらず、彼女は鬼に見つかったというのにとても幸せそうだった。

「ねえ、文次」
「なんだい」

 文が答えると、チルノは秘密を打ち明ける子供の笑顔で言った。

「いつか聞いてたよね。どうしてわたしがかくれんぼするの好きなのか、教えてあげる」

 無言で続きを促す文の前で、チルノは頭上を見上げた。遠くを見るように、目を細める。

「ほかの子たちの仲間に入れてもらえなくて、ずっと遠くからみんなのこと見てたの。みんなは毎日楽しそうに、いろんな遊びをしてた。その中に隠れた子を見つける遊びがあって、いいなあって思ってたんだ。あの子たちの仲間に入れてもらえたつもりになって、一人で隠れて『もーいーよ』なんて言ってみたりして。馬鹿だよね、誰も探しに来るはずないのに。だけどそうやって隠れてる間、ずっとドキドキしてたんだ」

 チルノはおかしそうに笑って、それから文を見上げた。懐かしそうな、穏やかな顔だった。

「わたしね、誰かに見つけてほしかったの。誰も探しに来てくれるはずがないって分かってたけど、でも、誰かがわたしのこと見つけてくれるんじゃないかって、ずっと待ってた」

 一歩一歩、チルノはゆっくりと近づいてきた。体が触れそうなほどに近い距離で文を見上げ、柔らかな笑みを浮かべる。冷気のために肌がひやりとした。

「文次が見つけてくれなかったら、わたし、今も一人ぼっちでこの森の中に隠れてたと思う。だからありがとう、文次。わたしを見つけてくれて、ありがとう」

 氷の妖精の暖かな声音に、文はぎゅっと目を細めた。胸の奥から何かが溢れだしそうになるのを必死に堪え、努めて無機質な声音で言う。

「……それは、ただの偶然だよ。君を見つけてあげようと思って、見つけたわけじゃない」
「うん。それは分かってる」

 小さく頷きつつ、「でもね」と、氷の妖精は続ける。

「出会ってから今日まで、文次は一生懸命見つけようとしてくれたよね。一人ぼっちで弱虫な、わたしの心の中にあるもの。文次がそれを見つけてくれたから、わたし、今日まで頑張ってこられたんだよ」

 その何かを確かめるように、チルノはそっと胸を押さえる。息を呑む文の目の前で、彼女は再び、その言葉を口にした。

「だからありがとう、文次。わたしと、わたしの心を見つけてくれて」

 何も言えない文に向かってそう伝え終えると、チルノはちょっと気恥ずかしそうに頬を染めて笑った。

「文次、わたし、頑張るから! 文次が見つけてくれたものはとってもきれいなんだってこと、他のみんなにも分かってもらえるように。じゃあまた明日ね、文次。おやすみなさい!」

 立ち尽くす文の横を通り抜けて、氷の妖精が元気に駆けていく。その足取りに迷いはなく、その足音に恐れはない。
 一人取り残されて、文は小さく息を吐いた。
 笑いたいような泣きたいような、不思議な気持ち。そこから無理に目をそらしながらふと顔を上げると、近くの茂みの向こうから、何か薄いものが突き出しているのが見えた。
 それは、一対の羽だった。チルノの背にある氷の羽とは全く違う、透き通った妖精の薄羽。

「……出ておいで」

 文が静かに呼びかけると、妖精の羽がびくりと震えた。ややあって、羽の主がこわごわと顔を出す。緑の長い髪をサイドで結わえた、大人しそうな顔立ちの少女だ。妖精という種には珍しく、どことなく思慮深そうな雰囲気。そこらにいる小さな妖精たちよりは、幾分か力も知恵も強いように見える。
 果たして彼女は何の目的で、どこから聞いていたのか。いずれにしても好都合だ、と文は思う。

「君は、この近くに住んでいる妖精かな?」

 問うと、緑の髪の妖精は戸惑いながらもこくりと頷いた。

「そう。それじゃあ一つ、頼んでもいいかな」

 驚く妖精が返事をするのを待たず、文は頼みごとを告げる。

「明日の朝、出来る限りたくさんの妖精を、この近くに集めてくれないか? 素敵なことが起きるんだ。とてもね」

 言いながら、文はじっと緑の髪の妖精を見つめる。彼女はしばらく躊躇いがちに文の様子を観察していたが、やがてこくりと小さく頷き、雑木林の外へ向かって飛び去っていった。

「……準備は万端、か」

 妖精の背を見送ってから一人小さく呟き、文もまたその場を後にした。



 山に帰り着いた頃には、もう夜中になっていた。夜は妖怪の時間だ。家路を辿る文の周囲を、たくさんの天狗たちが笑いさざめきながら通り過ぎていく。

「よう、文の字」

 呼びかけられて俯いていた顔を上げると、洞窟の壁際に無精髭の老天狗が佇んでいた。

「ああ。爺さんか。久しぶりだね」
「そんなでもねえだろ。なんだお前、浦島太郎じゃあるまいし」

 雑踏を抜け出してきた文に向かって、老天狗がカラカラと笑う。
 それから彼は皺に埋もれた小さな目を思慮深そうに細めて、

「いよいよって感じか?」
「……分かるか?」

 文が問うと、老天狗は「やっぱりな」と言いながら苦笑した。

「結局深入りしてんだな、お前さんは。それも新聞記者の性ってやつか?」
「まあね。そんなところだ」

 文はため息を吐き、地面を見ながらぽつりと、

「そんな程度の話なんだ、わたしにとっては」

 自分に言い聞かせるように声を落とす文を見て、老天狗は「仕方がねえなあ」とでも言いたげに眉を傾ける。そして、穏やかな声で言った。

「事情はよく分からんが、難しく考えすぎなんじゃねえのか」

 文が返事をしないでいると、老天狗はさらに言葉を重ねた。

「やっぱあれだな。真面目なんだな、お前さんは。ここまでだとは思わなかったけどよ」
「……わたしだって知らなかったさ」

 文が拗ねたような心地で言うと、老天狗は無精髭を撫でながらニヤニヤと笑った。

「ま、若いときってのはそんなもんだ。一つの経験だと思うんだな」
「若いって。これでも千は超えてるぞ、わたしは」

 文が眉根を寄せると、老天狗は唇をすぼめて澄まし顔を作った。

「千や二千がなんだってんだ。俺から見ればお前さんなんざ、まだまだケツに殻のついたひよこちゃんよ。それこそ、ミニスカートで生足晒しててもおかしくねえぐれえのな」
「物言いがいやらしいぞ、爺さん」

 文が睨むと、老天狗は「おお、おっかねえ」とふざけたように肩をすくめた。
 そうしてからふっと頬を緩め、どこか懐かしそうな目で文を見た。

「……本当のこと言うとな、ちっとばかし羨ましくもあるんだわな」
「なに?」

 驚く文の前で、老天狗は地面に目を落とす。静かな諦観が漂う表情。

「お前さんが語ったスペルカードルールの有用性とか意義とか、最近たまに見かけるようになった……弾幕ごっこだったか。あれの光とかな。俺みたいな年寄りにゃ、ちょいと眩しすぎるのさ。この狭い郷に新しい時代が訪れようとしてるってのは何となく分かるんだが、こっちの方はもう変われる気がしねえ。どんだけ楽しそうに見えても、ついていける気がしねえんだな」

 老天狗はそう言って、かすかに寂しげな笑みを浮かべる。

「だから、お前さんみたいな若い連中が羨ましいのさ。まだまだ活力に溢れてるお前さんらなら、きっとこれから来る賑やかな時代も存分に楽しんでいけるんだろう。きっと、幸せなことだろうな。それがどんな世界だろうと、俺には遠くから見てることしか出来んがね」
「そんなことは、ないと思う」

 老天狗が語り終えるのとほぼ同時に、文はほとんど反射的にそう言っていた。彼は驚いたように目を見張ったが、驚いたのは文も同じだ。自分が何を言おうとしているのか分からぬまま、それでも唇は自然に動く。

「爺さんみたいな年寄りだって、これから来る時代を楽しむことは出来るさ。変われないと思ってるのは、変われる自分に気付いていないからだ。それを見つけ出してやれば、今からだってきっと……」

 そこまで言い終えたところで、文はふと、老天狗にまじまじと見つめられていることに気がついた。
 急に気恥ずかしくなってきて、口を噤む。

「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
「いやいや。忘れねえよ。確かに聞いたぜ。ありがてえこったな」

 老天狗は愉快そうに笑い、またにやけ面で文を見た。

「なんだかな。お前さんがクソ真面目な奴だってことは知らなかったが、こんな優しい奴だとも知らなかったな。一体何があったんだ、オイ」
「……そんなんじゃない」

 一瞬チルノの顔が頭に浮かびかけて、文はそっと目を伏せる。

「優しいなんて。そんなんじゃ、ないんだ」

 文が沈んだ声で言うと、老天狗は何かしら察したらしかった。気楽な口調で「ま、なんだな」と話題を切り替え、面白がるような顔で無精髭を撫でる。

「お前さんの言葉を聞いたら、なんかちょっと気力が湧いてきた気がするな。どれいっちょ、俺も弾幕ごっことやらに参加してみるかねえ」
「爺さんが? 弾幕ごっこに?」

 文が思わず眉をひそめると、老天狗は顔中の皺を深くして笑った。

「おうよ。聞けば弾幕ごっことやらに参加してんのは綺麗どころばっかりって噂じゃねえか。ここは一つ年寄りの貫録見せつけて、いざ青春よもう一度っても悪かねえやな」
「よく言うよ、全く」

 少しだけ気が楽になって、文は小さく笑う。それから皮肉っぽく唇をつり上げ、

「だがまあ、確かに爺さんなら出来るかもしれないな。何せ、若い女の生足に年甲斐もなく興奮しているぐらいだし」

 文は意趣返しのつもりで言ったが、老天狗はきょとんとした顔で目を瞬き、ごくごく真面目な顔で、

「いや、別に興奮はしてねえよ?」
「蹴るぞジジイ」

 文が睨むと、老天狗は顔を青くして「おお、こわいこわい」と肩をすぼめる。
 そうしてから、ふっと励ますような笑みを浮かべてみせた。

「ま、なんだな。後悔のねえようにな、文の字」
「……ありがとう」

 文は礼を言って、老天狗と別れた。
 自宅に帰り着いた文は、堅苦しい軍服を脱ぎながら書き損じの原稿と写真に埋もれた机に向かった。机上に置いてあるカメラを、そっと手に取る。久方ぶりに持つはずだったが、その頼もしげな重みは、やはり手の平にしっくりと馴染んだ。

「……新しい時代、か」

 スペルカードルールが幻想郷に新たな流れを作り出すだろうという文の確信は、今に至ってもなお変わっていない。それどころか、チルノとの交流を経てどんどん強く、深くなっていくような気すらしている。
 そして今、射命丸文という一人の天狗にもまた、新たな時代が訪れようとしているのかもしれなかった。この数ヶ月間ほどやってきたことの結果が、もうすぐ出ようとしている。それがどんな形になろうとも、明日からはまた新たな日々が始まるのだ。
 ――後悔のねえようにな。

「……そうね。後悔のないように」

 商売道具のカメラを手に、文は確かな声で呟いた。



 翌朝早く、文が洞窟の入口に出てみると、朝焼けの空には雲一つ浮かんでいなかった。明けゆく空の群青色が、幻想郷の果てまで広がっている。

「……いい弾幕日和だ」

 何とはなしに、そんなことを呟いてみる。弾幕日和。晴れた空に弾幕の華が描かれる日。たった今勝手に作った造語だが、何となく気に入った。
 文は無言で自分の姿を見下ろした。天狗が公務に従事する際身に纏う、堅苦しい軍服。今日を終えれば、この服に身を包んで出かけることもしばらくはなくなるだろう。

「……行くか」

 首から下げた愛用のカメラをしっかりと両手で抱いて、文は朝焼けの空に向かって飛び立った。
 霧の湖へ向かう途中、薄暗い空のあちこちに、小さな光がいくつも瞬いているのを見つけた。緩やかな風に乗って、軽やかな破裂音と楽しげな笑い声が流れてくる。弾幕ごっこに興じている少女たちの放つ光は、夜明けと共に身を隠す小さな星々のようにも見えた。
 いずれはこの光景が、もっと広まり、ありふれたものとなっていくのだろう。幻想溢れるこの郷で、人も神も妖怪も、妖精までも巻き込んで、どこまでもいつまでも広がっていくのだろう。
 その輪の中には、自分とチルノもいるはずだ。一体どんな形で、その輪の中に居場所を見つけているだろう。
 文が目を細めて見つめる先で、弾幕の光は少しずつ消えていき、朝日が大地を白く染める頃には完全に見えなくなってしまった。



 チルノはいつもの湖岸にいた。岸辺から身を乗り出して、澄んだ湖面をじっと覗きこんでいた。

「おはよう、チルノ」
「あ、おはよう、文次」

 声をかけられると、チルノは慌てた様子で身を起こした。

「何を見ていたの?」

 歩み寄りながら問うと、やや答えにくそうに口ごもりながらも、

「……水に映ったわたし」
「そう。見て、どう思った?」
「やっぱり、ちょっとへんてこ。でも、前よりはちょっとマシになった……かな?」

 自信なさげに言うチルノの頭を、文は微笑んで撫でてやる。そして、表情を引き締めて言った。

「チルノ、いよいよ本番だ。準備はいいかい?」
「うん。もちろんだよ。絶対、みんなにわたしのこと分かってもらうんだ」

 チルノは拳を握って力強く言ったが、その小さな手がかすかに震えているのを、文はしっかり見つけてやった。
 小さな冷たい手を、両手で包みこむように握ってやる。 チルノは一瞬びっくりしたように目を丸くしてから、照れたように頬を染めた。

「……やっぱり、ちょっと怖いかな」
「緊張しているだけさ。大丈夫、チルノなら必ずやれるよ」
「うん!」

 チルノは満面の笑みで答えてくれた。
 それから少しの間、二人はいつもの岩に腰掛けて他愛ない雑談を交わした。緊張を解す意味もあったし、妖精たちが集まってくるのを待つ意味もある。なんだか楽屋で待っている芸人とその付き人のようで、文はちょっと笑ってしまう。
 そうしてしばらくして、時間が朝から昼へと向かい出す頃。

(そろそろ、頃合いか)

 チルノと雑談しながら周囲の様子を探っていた文は、一つ頷いた。背後の雑木林の中に、多数の微弱な気配を察知する。たくさんの妖精達が、遠巻きにこちらを見つめている。中には昨日会った緑の髪の妖精と思しき気配もあった。約束通り、ちゃんと集めてくれたようだ。

「チルノ」
「……うん」

 文の言わんとすることをすぐに理解したらしいチルノが、緊張した面持ちで立ち上がる。
 気まぐれな妖精たちの飽きっぽさを考えれば、躊躇っている時間は全くないに等しい。二人は視線だけで頷き合うと、ほとんど同時に空へと飛び上がった。
 霧の漂う湖の上空。ある程度の距離を置いて、チルノと向かい合う。まだ少し表情が硬いように見えたので、文は柔らかく笑いかけてやった。少々ぎこちないながらも、確かな微笑みが返ってきた。

「では、スペルカードルールに基づいた模擬戦闘を始める!」

 文は以前妖怪たちに説明して回っていたときと同じように、朗々とした声で宣言する。最近郷の各所で弾幕ごっこに興じている少女たちはいちいちこんな堅苦しい宣言などしていないらしいが、今に限っては多少演劇的に見えるぐらいに分かりやすい方がいいだろう、と考えてのことだ。
 案の定、文の声で何かが始まったことを察知したらしく、隠れている妖精達がひそひそと何かを囁き合う声がかすかに聞こえてきた。
 舞台は整った。後は見事に演じきってみせるだけだ。

(頑張れ、チルノ。あなたならきっとやれる……!)

 文は心の中で願いながら、さらに声を張り上げる。

「スペルカードは一枚のみ。わたしが避け切ればわたしの勝ち、避けられなければチルノの勝ちだ。いざ!」

 文の宣言が終わると同時に、チルノが静かに一枚の札を取り出した。
 初めて作ったスペルカード。この一ヶ月間、努力を重ねて組み上げてきた弾幕。陰気に属する一人ぼっちの妖精が、その目と心で捉えた、冷たい世界の美しい光景。
 チルノが真剣な顔で札を掲げ、文がカメラを構える。
 さあ、今こそ、胸を張って高らかに叫べ。
 わたしの世界は美しいと!

「氷輝『ブリザードウォール』!」

 吹き荒れる氷の壁を越えて、彼女の手を握ってくれる者がいますようにと。そんな願いを込めてつけられた名前。
 チルノの宣言と同時に、文はシャッターを切りながら前方に向かって飛び出した。
 薄く漂う霧を散らしながら、軽やかに涼やかに風が躍る。チルノの操る氷のかけらが、渦を巻きながら大きく広がり始めた。真夏の空に描き出された陰気の嵐は、陽気な日差しに照らされて、世界の何よりも強く、美しく光り輝く。
 驚異的な速度と動体視力で吹雪の隙間をかいくぐりながら、文は縦横無尽に飛び回ってシャッターを切りまくった。あらゆる距離、あらゆる角度からチルノの生み出す弾幕を撮影し、一瞬の間に生み出されては消えていく儚い美を見つけ出し、ひたすら無心に切り取っていく。
 やはり、チルノの目と心は素晴らしかった。渦を巻いて吹き荒れる氷の嵐は、本物の吹雪に劣らぬほど美しい。一人ぼっちで泣いていたあの幼子が、これほど素晴らしいものを生み出すまでに成長したのだと思うと、誇らしい気持ちになった。同時に、ひどく寂しくも思う。チルノの心が生み出したこの光景は、今写真に収めておかなければ誰の目にも触れることなく消えていったに違いないのだ。これほど残念なことは他にない。

(そうだ、わたしは写真を撮っていこう)
 
 また一つ氷の壁の美しさを写し撮りながら、文はふとそんなことを考える。

(誰かが心に想う美しさを。それを描き出し、伝えていこうとする意志が生み出す光景を。一つ残らず見つけて写真に収め、ずっと後の世まで残し、広く人々に伝えていこう。これから先、ずっと)

 見つけ出した未来を思い描き、文は微笑みながらまたシャッターを切る。まだまだ見つけ足りない。まだまだ写し足りない。長く生きてきてそれなりに経験も積んだつもりだったが、どうやらまだまだだったようだ。やりたいことも見たいものも、この世界にはたくさん溢れている。種族も齢も力の差も関係ない。目と心を開いている限り、それは必ず、いくらだって見つけられるものなのだ。
 ああ、この世界はなんと美しく、素晴らしいものに満ち溢れていることだろう。この気持ちがある限り、いつまでも、どこまでも飛んでいける。
 わたしもあの子も、それ以外の全てのものも。

「……おしまい!」

 凛としたチルノの声と共に、真夏の空の下で渦巻いていた氷の嵐が、甲高い歓声のような破裂音を立てて一つ残らず弾け飛んだ。青く広がる空の下、散りばめられた氷の飛沫が白い光を放ちながら、涼やかな風に乗って吹き散らされていく。その中心にいるチルノの顔には、この上もなく満足げな笑みが浮かんでいた。ベストショット。文は機を逃さず、彼女の笑顔を写し撮ってやる。
 そうして二人は何も言わないまま、ゆっくりと湖岸に降り立った。
 何も言わずに立ちつくしたまま、祈るような気持ちで時を待つ。
 チルノは見事にやり遂げた。これ以上ないほどの出来栄えで、己の心に抱く美しさを描き出してみせた。たくさんの妖精達が、それを見ていてくれたはずだった。

(……誰か、お願い。あの子に歩み寄ってあげて。あの子の手を握ってやって……!)
 
 撮りためた写真を手に、文は一心に祈り続ける。チルノも静かな表情で待っていた。
 しかし、いくら待っても出てきてくれる者は誰もいなかった。束の間の吹雪が過ぎ去って静寂を取り戻した霧の湖に、ただ遠い鳥の鳴き声だけが木霊する。
 その内、周囲に隠れ潜んでいた妖精たちの気配が、一つ、また一つと離れ始めた。そのあまりの呆気なさに、文は愕然としてしまう。
 誰も、何も思わなかったのだろうか。あれほどまでに美しい光景を目にしながら、少しも心が震えなかったのか。
 だが、どれだけ納得しがたく思っても、事実は事実だった。妖精たちの気配は次々に離れていき、チルノはまた一人ぼっちで、世界にぽつんと取り残される。

(……いや、違う)

 落ち込みそうになる心を、文は力一杯奮い立たせた。下を向きかける顔を決然と上げ、立ち尽くしているチルノを真っ直ぐに見つめる。彼女もまた傷ついている様子で、ワンピースの裾をぎゅっと握りながら、耐えるように俯いていた。
 かわいそうに、とは思わなかった。誰が何と言おうとも、チルノは立派にやり遂げたのだ。哀れむ必要など少しもない。胸を張って顔を上げ、堂々と笑ってやればいいのだ。
 そのためにも。

「チルノ」

 文はチルノのそばに歩み寄り、優しく声をかけた。チルノは唇を噛みしめながら顔を上げる。青い瞳が涙に濡れて、申し訳なさそうに文を見上げていた。

「も、文次……わたし、あの……」
「これを見て」

 文は怯えるチルノの声を柔らかく遮り、写真の束をそっと差し出した。
 怪訝そうにそれを受け取ったチルノが、そこに映し出されているものを見て目を丸くする。

「わぁ……」

 感嘆の声が小さく漏れた。チルノは、自分が作り出した弾幕を様々な角度から映し出した写真を食い入るように見つめ、一枚一枚夢中で捲っていく。
 そして、ある一枚を目にしたとき、とうとう夢を見るような声でこう漏らした。

「きれい……」

 言ったあとで、チルノはびっくりしたように目を見開く。それから眼前に文がいることをようやく思い出したらしく、急に真っ赤な顔であたふたし始めた。

「あ、いやその、き、きれいに撮れてるよね! やっぱり文次って写真撮るの上手」
「チルノ」

 文はチルノの肩に手を置いて、首を横に振った。その目を真っ直ぐに見つめ、言い聞かせるように語りかける。

「照れたり、恥ずかしがったりしなくてもいいんだよ。この写真を見て……自分の弾幕を見てどう思ったのか、本当の気持ちをわたしに教えてくれ」

 そう言われても、チルノはまだ躊躇う様子だった。文の顔と写真と自分の体と背中の羽と、あちこちに視線をさまよわせてから、自信のなさそうな声で、

「……これ、本当にわたしが作ったの? こんなにきれいな弾幕を」
「もちろんさ。こんなにきれいな吹雪を吹かせられるのは、この世界でチルノ一人だけだよ。わたしも、とてもきれいだと思う」

 文が迷いなく言い切ると、チルノの顔に安堵したような微笑みが広がった。また写真を眺めながら、目を細めて愛おしそうに呟く。

「……そっか。本当に、わたしが作ったんだ」

 その声音に、微笑に、静かな自信が宿りつつあるのを、もちろん文は見逃さなかった。
 今チルノは、生まれて初めて認めることが出来たのだ。自分もこの素晴らしい世界の一部であり、その美しさを見つけられる者だということを。

(……良かった)

 写真を眺めているチルノを見つめながら、文は内心ほっと息を吐く。
 最善の結果とは言い難いが、最悪では決してない。妖精達にこそ分かってもらえなかったが、チルノ自身の胸に自信の種を植えつけてやることはできた。今の気持ちを忘れない限り、きっとチルノは歩いていけるだろう。いつか彼女の魅力を分かってくれる者と出会える日まで、胸を張って生きていけるに違いない。

(そう。本当に大切なのはそのことなんだから……)

 文がそう考えたとき、不意に背後でがさりと音がした。
 チルノ共々驚いて振り向くと、雑木林の茂みを分けて、一人の妖精が姿を現したところだった。緑色の長い髪を、サイドで結わえた大人しそうな妖精。間違いなく、昨日見たあの少女だった。
 てっきり、観客はもう一人残らずいなくなったと思っていたので、文とチルノは揃ってポカンと口を開けたまま、その妖精の姿を見つめていた。
 妖精は何か、思いつめたような険しい表情で、一歩一歩と近づいてくる。文の横を通り過ぎて、チルノの目の前に立った。

「え、ええと……?」

 戸惑ったように彼女を見るチルノを前で、緑髪の妖精は何か言いたげに唇を戦慄かせた。しかし結局何も言わず、ただもどかしそうに顔をしかめながら、ゆっくりと両手を持ち上げる。
 そのほっそりとした手が、少しずつ少しずつチルノに近づいていき、冷たい小さな手をぎゅっと、熱烈に握りしめる。

「え……!?」

 驚くチルノの目の前で、緑髪の妖精は突然ぶわっと涙を流した。
 ぎょっとする二人の視線など気にならないかのように、彼女は感極まった様子で鼻を啜りあげながら、震える声を絞り出す。

「す、す、す、す、す……!」
「す?」
「すっごく、きれいだった!」

 チルノが目を見開き、文が信じられない想いで見守る前で、緑髪の妖精は大きく身を震わせる。

「ああ、本当に、何て言ったらいいのか分かんないぐらい……本当に、本当に、きれいだったよ! あなたの弾幕!」

 緑髪の妖精が鼻を啜りあげながら言い終えた瞬間、突如として周囲から高い歓声が上がった。何事かと思って見てみれば、茂みの向こうや木々の木陰や葉に隠された低い枝の上や、ともかくあらゆるところからたくさんの小さな妖精達が次々と姿を現し、一生懸命に手足をばたつかせながら走ってくるところだった。
 妖精達が走る先にいるのは、もちろんチルノだ。小さな友人たちは目を白黒させている氷精を取り巻くように纏わりついては「すごかったー」「ひゃあ、つめたいー」「あれどうやってつくんの」「おせーておせーて」「わたしもやるー」と、てんで好き勝手に騒ぎ立てる。
 チルノは最初、呆然とするばかりで何がなんだか分からない様子だった。
 だが、文が気を利かせて「チルノ」と呼びかけてやると、はっとした様子で正気に立ち返り、

「あ、あのっ……」

 と、周囲に向けて声を上げる。すぐそばにいた緑髪の妖精も、溢れかえるほどたくさん集まった小さな妖精達も、一斉に黙り込んでチルノを見つめた。無邪気な好奇心に溢れた、けれども今までとは違って暖かみのある視線。
 そんなものに取り囲まれたまま、チルノは何度か口を開きかけて何か言おうとしたようだった。けれども結局言葉にはならず、可愛らしい顔が少しずつ歪み始める。

「わ、わたし、わたし……わだじぃ……っ!」

 ついにチルノはたくさんの妖精達に取り囲まれたまま、声を上げて泣き出してしまった。周囲の妖精達がみんなびっくりして、「どうしたのー」「だいじょうぶー?」と心配そうに声をかけ始める。
 少し離れた場所からそんな光景を見つめて、文はようやく安堵の吐息を漏らした。



 そうして、いつも静かだった湖岸が急に騒がしくなった。あっちこっちに妖精の影が溢れかえり、チルノとあの緑髪の妖精が、まるで保護者のように忙しく駆け回っている。見様見真似で弾幕をやりたがった妖精たちに、チルノが熱心に教えて回っているところなのだ。

「これでいいのー?」
「うんそうそう、そうやってちょっとずつ形を整えてね」
「こうー?」
「あー、それだと大きすぎてすぐ疲れちゃうんじゃないかなあ……あー、ちょっとちょっと、他の子にぶつけて遊ぶのはまた今度! あーもう、泣かない、泣かないの……!」

 チルノは幼い妖精達の世話という不慣れな役目にあたふたしながらも、緑髪の妖精の助けを借りてどうにかこうにか動き回っているようだ。周囲には騒がしくも賑やかで明るい笑い声が溢れていて、近くにいるだけで幸せな気分になってくる。
 そんな平和な光景を、文は一枚だけ写真に収める。フレームの中心に置いたのは、もちろん愛しいチルノの姿だ。
 出会ったときとは比べ物にならないぐらい立派になった氷精は、妖精達の相手にかかりきりでこちらのことなど見る余裕もないようだった。

(……もう、大丈夫ね)

 文はファインダーから目を離して、そっと息を吐いた。小さな妖精の頭を撫でているチルノの姿を、目に焼き付けるようにじっと見つめる。

(さよなら、チルノ)

 文は心の中でだけそう言い置くと、踵を返してそっと地を蹴った。
 一度二度と羽ばたくと、妖精達の声が少しずつ遠ざかっていく。音を立てず気配を消して飛ぶなど、鴉天狗である文にしてみれば歩くよりも簡単だ。気付かれる心配はまずない。
 これでいい、と文は思う。チルノをスペルカードルールの広告塔にすべく近づいた文次天狗は、狙い通りに目的を果たし終えた。後は放っておいても、彼女を中心として妖精達の間に弾幕ごっこが広がっていくだろう。チルノ自身もその中心にいて、友達と一緒に明るく笑いながら生きていくに違いない。
 だからもう、あの子の傍にいる理由など一つもない。あとは見つからないよう山に帰り、軍服を脱ぎ捨てて文次天狗から射命丸文に戻れば、話はそれでおしまいだ。チルノだって、楽しく過ごしている内に風変わりな天狗のことなど忘れてしまうだろう。
 それでいい。そうすれば、全て丸く収まる。
 収まるというのに。

「……文次!」

 ――どうして君は、わたしを見つけてしまうのか。

「文次!」

 呼びかけを無視しきれずに、文はゆっくりと振り返る。後悔していた。もたもたせずに、全速力でこの場を離れるべきだった、と。
 あるいは、彼女が追いかけてきてくれることを期待していたのか。また一つ見つけてしまった自分の弱さに、反吐が出そうになる。

「……なにか用か、チルノ」

 努めて冷たい声音で、文は答える。
 慌てて追いかけていたらしく息を荒げているチルノは、文の声の冷淡さに少し戸惑った様子だった。しかし、すぐに柔らかい笑みを浮かべて話しかけてくる。

「文次、ありがとうね。わたし、こんなに上手くいくなんて思ってなかった。全部、文次のおかげだよ」
「知らないね。君がやったことだろう。わたしはもう何の関係もないよ」

 自分の言葉に吐きそうになりつつも、文は可能な限り冷淡な声で返す。本当は強引に振り切って即座にこの場を離れるべきなのだろうが、どうしてもそうすることができなかった。

「まあ、たくさん友達が出来て良かったじゃないか。これからはあの子たちと遊ぶんだね」
「え……文次は?」

 驚くチルノの声を聞き、文は馬鹿にするように鼻を鳴らす。

「わたしは山へ帰るさ。天狗なんだから。当たり前のことをいちいち聞かないでくれ」
「ご、ごめん……」

 急に態度が変わった文に、チルノは戸惑いを隠せない様子だった。それでもなお笑顔を作って、問い掛けてくる。

「でも文次、明日になったらまた来てくれるよね。わたし、また新しい弾幕思いついたんだ。だから」
「もう来ない」

 文は声を絞り出す。

「もう、来ない。君にも二度と会わないよ」
「え……?」

 何を言われたのかすぐには分からなかったらしく、チルノは呆然と目を見開く。だがすぐに、その顔に悲しみの色が広がり始めた。戸惑いに満ちた心細げな視線が、文の胸に深く突き刺さる。

「……そうなんだ」

 てっきり泣かれるかと思っていたが、意外にもチルノは泣かなかった。ただ、相当に無理をしていると一目で分かる笑みを浮かべて、文に話しかけてくる。

「そうだよね、仕方ないよね。文次はお仕事してるんだもん、いつまでも妖精なんかに付き合ってられないよね」

 文は何も答えない。何をどう言ったらチルノを突き離せるのか、答えが出ない。

「でも文次、あの、たまにでいいから、会いに来てほしいの。わたし、また面白いものたくさん見つけて」
「会わない、とさっき言ったはずだ。本当に頭が悪いな、君は」

 縋りつくような声を、文は冷徹に切り捨てた。チルノが顔を歪めて俯き、ぎゅっとワンピースの裾を握りしめる。
 それでも彼女は、まだ諦めてくれなかった。顔を上げ、薄らと潤んだ青い瞳で文を見つめながら、必死に問い掛けてくる。

「も、文次……わたし、何か文次を怒らせるようなことしちゃったの……? わたし頭悪いから、文次がどうして怒ってるのか分からないの……謝るから、もう二度としないから、どうして怒ってるのか教えて……」
「どうして、だって?」
 
 文は皮肉っぽく唇の端をつり上げた。

「怒らせるようなことだったら、ずっとしてきたじゃないか」
「え……? ど、どういうこと……?」
「まだ分からないのか。全く、最後まで苛立たせてくれる……!」

 逃げ出しそうになるのを必死に堪えながら、文は鉄の意志で演技を始めた。盛大にため息を吐き、苛立たしげにチルノを睨みつけ、出来る限り冷たい声音で吐き捨てる。

「君と来たら、頭が悪いわ飲み込みが悪いわ……この仕事の最中ずっと苛々させられっぱなしだったよ、わたしは」
「仕事……? 仕事ってなに?」
「おや、君にしてはいいところに気がつくじゃないか。分かった、説明してあげよう」

 文は肩を竦めて、小馬鹿にするような口調で語り始める。

「いいか、チルノ。わたしの仕事はな、君ら頭の悪い妖精達に、スペルカードルールを教えてやることだったんだよ。ところが君らときたら、思った以上に頭がおつむが弱くててんでお話にならない。だからわたしは一計案じることにしたのさ……」
 
 文は淀みのない口調で、チルノに真実を話して聞かせた。
 チルノの力に目をつけ、妖精達に対する広告塔にしようと目論んだこと。優しい顔を見せて仲良くなろうとしたのは、チルノを自分の思うままに操るためだったこと。そして今日、その目的が達成できたので、もうそばにいる必要がなくなったことなど。
 無論、その過程で心に生じた変化のことなどは話さなかった。だが、チルノに聞かせた内容は確かな真実でもあったから、途中でつっかえたりすることなく、最後まで話し終えることができた。

「……とまあ、こういうわけだ。思い返してみれば、君はまあそこそこに使える駒ではあったな。その点に関しては一応感謝はしているよ」
「で、でも、でも……!」

 チルノは大きく皺が寄るほどにワンピースの裾を握りしめながら、なおも必死に食い下がった。

「だって、文次はわたしのこといろんな場所に連れてってくれて……それに、弾幕のことだってあんなに一生懸命教えてくれたのに」
「だからそれは仕事のためだと言ってるだろう。この仕事の結果が自分の評価に大きく影響してくるんだ、そりゃ必死にもなるさ」

 文は興味なさげな呆れ声で言いながら、軽薄に笑って付け足した。

「弾幕の件だってそうだろう。君に友達を作ってやるだけなら、そんなことをしなくたって他にいくらでも手段があるさ。なんだってわざわざ回りくどい方法を選ばなくちゃならないのか。裏があることぐらい、少し考えれば子供にだって分かる」
 
 言ってから、文は思い出したように笑う。

「いや、あのときの君は傑作だったな。誰だってすぐ無茶苦茶だと気付く理屈を、全く疑うことなく信じ込んで。本当にこんな馬鹿に広告塔なんか務まるのかって、さすがのわたしも心配したぐらいだよ。ま、結果はご覧の通りだから、苦労した甲斐はあったがね」
 
 言い終えた文が冷たい瞳で見つめると、チルノは肩をすぼめて小さく震え始めた。

「……じゃあ」

 か細く弱々しい声が、文の耳にかろうじて届く。

「……じゃあ、全部嘘だったの? 優しくしてくれたのも、わたしのこときれいだって言ってくれたのも、全部……」

 その問いに答えるために、文は全身の気力を振り絞った。崩れそうになる顔に冷淡な笑みを浮かべ、この日々を完全に終わらせるための言葉を吐き出す。

「だから、そうだと言ってるんだ。わたしは君に一欠片の好意すら抱いちゃいない。何度も言わせないでくれないか」

 言い切った瞬間、終わった、と文は思った。チルノは止めを刺されたようにだらりと腕を下げ、もう何も言えなくなったように俯いている。

(さあ、チルノ。これでもう分かったでしょう)

 ぴくりとも動かないチルノを見つめながら、文は心の中で必死に願う。

(わたしはこういう酷い奴なのよ。最初から、あなたの友達なんかじゃなかったの。だから、さあ、こんな奴のことなんか忘れて、本当の友達のところに帰りなさい)

 願い続ける文の前で、チルノは死んでしまったかのように動かない。
 このまま彼女を打ち捨てて去るべきか、と文は一瞬迷う。しかし結局、チルノが次の動きを見せるまでは待つことにした。
 かわいそうに、あれだけ信じて、慕っていた存在にこうまで手酷く裏切られたのだ。今は悲しいだけだろうが、やがて怒りが湧いてくるはずだ。
 言いたいことは山ほどあるだろう。殺してやりたいと思われてもおかしくはない。
 文はその全てを、避けることなく受け止めてやるつもりだった。それが自分に与えられるべき罰であり、散々振り回してしまったチルノに対してしてやれる、唯一の償いだと思ったから。
 そうして、どれほどの時間が経っただろう。
 それまでぴくりとも動かなかったチルノが、不意にゆっくりと顔を上げ始めた。来たか、と文は内心で覚悟を決める。どれほど激しい怒りをぶつけられても、目をそらすことなく全て受け止めるために。
 しかし、顔を上げてこちらを向いたチルノの表情を見たとき、文は演技するのも忘れて目を見開いてしまった。
 彼女の顔には、怒りなどほんの一欠片も浮かんではいなかった。口元には柔らかな微笑。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳には静かな決意の光が宿っている。
 今まで一度も見たことがない、大人びた表情だった。何もかもを見透かし、全てを許すかのようなその微笑に、文の背筋が大きく震えた。

「わたし、信じないよ」
 
 優しくすらあるほど柔らかな声音で、チルノが言った。頭が真っ白になって何も言えずにいる文の前で、彼女はただ穏やかに言葉を紡ぐ。

「わたし、信じない。だって、ずっとあなたの優しさに包まれてきたんだもの。ずっとあなたに見守られて、ここまで頑張ってこられたんだもの」
 
 チルノはそっと目を伏せて、自分の胸に手を添えた。

「どんな言葉を聞いたって、あなたからもらったものは絶対に消えないよ。あなたが嘘だと言ったって、わたしはちゃんと知っている。与えてもらった優しさと温もりが、決して偽物なんかじゃないってこと」

 そうしてまた顔を上げたとき、チルノの口元には先ほど以上に暖かな微笑が浮かんでいた。
 その微笑が、穏やかな視線が、柔らかに投げかけられる言葉の一つ一つが。文の胸に深く深く染み入って、虚飾の仮面を溶かしていく。
 その抗い難い暖かさに、文は心底から震えあがった。
 やめてくれ、と思う。

「だから文次、本当のことを聞かせて」

 そんなんじゃない。わたしはそんな、きれいなものなんかじゃない。

「あなたがどうしてあんな嘘を吐いたのか、わたしにはまだ分からないけど」

 もう何も言わないでくれ。優しい言葉をかけないでくれ。

「だけど必ず、受け止めてみせるから」

 お願いだから、これ以上わたしを――!

「だから文次、本当の気持ちを」
「うるさいっ、黙れっ!」

 とうとう耐え切れなくなって、文は悲鳴のような声を上げていた。
 息を呑むチルノを睨みつけ、息を荒げて叫び声を叩きつける。

「本当の気持ち? 何を馬鹿なっ、そんなものなんかどこにもない! わたしはただお前を利用してただけだ! それ以外の感情なんか、ただの一つもありはしないっ!」
「文次……っ!」
「黙れと言ってるんだ!」

 もう自分でも、何をしたいのかよく分からなくなっていた。
 ただ、この優しさを受け取ってはいけない、そうする資格は自分にはないと。その想いだけにしがみつき、文は必死に声を張り上げ続ける。
 そんな文のことを、チルノはただただ悲しげな顔で見つめていた。澄んだ青い瞳から、ぼろぼろと涙が零れ始める。

「だったら……っ!」

 不意に、チルノが叫び声を上げた。ぼろぼろと涙を流しながら、真っ直ぐに言葉を伝えてくる。

「だったら、それでもいい。文次が嘘だって言うのなら、嘘でもいいよ。わたしにしてくれたことは全部自分のためで、そこには優しさも愛情も、ただの一かけらだって存在してなかった! 文次がそう言うんだったら、それでいい! わたしも、その言葉を信じるよ!」
「チルノ……」

 やっと分かってくれたのか、と、文は虚ろな笑みを浮かべかける。
 しかし。

「いつか、見つけるからっ!」

 チルノは、笑ってそう言った。呆然とする文の前で、止め処なく涙を流しながら、顔をクシャクシャにして笑ってみせる。裏切られて打ちひしがれて、それでも少しも曇らない、強く明るい泣き笑い。

「いつか、見つける! 見つけてみせる! 文次の心の中にある優しさ、あなた自身も知らない暖かくてきれいなものを、きっとわたしが見つけてみせるっ! 文次自身がどんなに否定したって、必ず見つけ出してやるからっ!」

 とてもその笑顔を見ていられず、文はチルノに背を向けた。彼女の叫びに何一つ答えを返さないまま、ただ黙って、逃げるように飛び始める。

「だから待ってて、文次。わたし、いつか必ずあなたを見つけるから!」 

 労わるように世界を包む優しい夕闇の中、力強い決意の声が追いかけてくる。
 逃れられずに捕まって、文は一瞬、空中で立ち止まってしまう。
 その背中に。打ちひしがれ、疲れ果てた少女の背中に、声が。

「文次の心の中にある優しさを、愛情を。いつか必ず、見つけてみせるから。あなたがわたしの勇気を見つけてくれたように!」

 文は大きく、震える吐息を吐きだした。喘ぐように短く息を吸い、振り返りはしないまま、

「……勝手にしろ」

 全力で飛び去る直前、小さく吐き捨てる。
 背後でチルノが笑ったのが目で見なくても分かって、強く強く、唇を噛みしめた。



 勢いよく飛びすぎて山肌に突っ込みそうになりつつも、文は何とか妖怪の山の天狗居住区に辿りついた。
 夕暮れに赤く染まる洞窟の入り口には、無精髭の老天狗が立っている。いつからそこで待っていたのだろう、文を見つけた彼は無言のまま歩み寄ってきて、彼女の肩を軽く叩いて言った。

「お疲れさん。しばらくは、ゆっくり休め」

 文は何も言わずに彼の横を通り過ぎると、ふらつく足取りで家路をたどり始める。
 そうして気がついたときには、自室の入口でぼんやりと立ち尽くしていた。
 まず首から下げていたカメラをはずして机の上に置き、破り捨てるようにして軍服を脱いだ。もう二度と着たくないとすら思う。
 サラシを解いて部屋着を身につけたとき、机の上から一枚の写真がひらりと舞い落ちた。
 拾い上げてみると、それはつい数時間ほど前に撮ったばかりの写真だった。たくさんの妖精達に囲まれて、穏やかな笑みを浮かべて走り回っているチルノの写真。
 じっと眺めている内に、胸の奥から何かが込み上げてきた。

「……っ」

 とても堪えていることができず、文は寝台に飛び込んで毛布にくるまり、声を押し殺して泣いた。
 身を丸めて泣きじゃくっていると、自分が年端もいかぬ童に戻ってしまった気がして、酷く恥ずかしく、頼りない心地になった。






 そうして、いくらかの時が流れた。
 幻想郷は一見何も変わらないように見えたが、郷中を飛び回って記事の種を探す文の目は、その緩やかだが着実な変化の一つ一つをしっかりと見つけ出していた。
 スペルカードルールに則った初の異変騒ぎである紅霧異変を始め、長い冬をもたらした春雪異変、神社を中心とした連日の宴会騒ぎや終わらぬ夜の永夜異変など、長らく退屈な平穏の中にあった郷がにわかに騒がしくなり始めたのだ。
 そうした騒ぎが頻発するようになったのに伴い、弾幕ごっこの輪も少しずつ広がっていった。異変における決闘手段であり解決手段でもあるこのルールは、文が予想していた通り多くの者たちに楽しまれるものとなったのである。この遊びを通じて知り合ったり理解を深めあった者たちも、今の郷には数多く存在している。未だに女子供の遊びという見方が強いのは少々残念なことだが、これから先どうなっていくかはまだ分からない。昔は女子供の読むものと馬鹿にされていた小説という類の読み物のように、いずれは弾幕ごっこも老若男女問わず楽しまれる遊びになるかもしれない。文としては、もちろんそういう未来が来ることを願って止まなかった。
 文自身はあの夏の日にチルノと別れて以来、鴉天狗の新聞記者に戻っていた。それ以前と以後とで何か変わったことがあったかと問われると、少々返答に困るところだ。発行している新聞は相変わらず部数が少ないし、熱心に読んでくれる者もあまりいない。客観的に見れば、前と同じように見えるだろう。
 ただ、文自身の心にはそれなりに変化が生じていた。これは自分にしか分からぬことだし本当にそうかと問われると少し自信がないが、世界に向ける視線が少し優しく、柔らかくなった気がするのだ。記事を書いたり取材をしたりしていても、以前なら書けなかったかもしれない、とか、以前だったら気付かなかったかもしれない、と思うことが多くなっていた。
 もう一つ大きな変化は、弾幕の写真を撮り歩くようになったことだろうか。特別製のカメラを使った突撃取材のようなもので、被写体の皆さんには呆れられたり迷惑がられたりしている。それでも中には楽しんでくれる者も少なからずいて、たまに写真の焼き増しを頼まれることもあった。
 そんな日々の中で、チルノらしい妖精の噂を聞くことも何度かあった。そういうときは、必ず耳を澄ましていた。聞きながらあれこれと気を揉むことも多かったが、幸いなことに悪い噂はあまり聞こえてこない。馬鹿な悪戯をして散々な目に遭っただとか、そういう類の話ばかりだ。あの頃のチルノからするとちょっと信じがたい話だが、とりあえず元気に過ごしているらしいと知って、文はほっと息を吐くのだった。
 チルノと過ごしたあの日々のことは、思い返すと顔が熱くなって転がりまわりたくなるような、今となっては少々気恥かしい思い出である。
 射命丸文らしからぬ、あの頃の少々大袈裟すぎるほど真面目で誠実な葛藤については、多分チルノのそばに近づきすぎたせいだろうな、と解釈している。彼女があまりに純真だったために、相対的に自分の心がひどく汚いものに見えていたのではないか、と。
 実際、あれほど思い悩んだことはここ最近全くない。天狗らしく無許可の撮影だってバンバンするし、誰かの失敗に関する記事だっていくつも書いている。そういうことをしながら、ほらやっぱりわたしは優しくない、なんて変な満足感を抱くのが、半ば習慣のようになっていた。やはり、優しく親切な文次天狗などどこにもいなかったのだ、と。
 チルノに会わないように気をつけているのは、そういう判断に基づいてのことである。いくらあの頃軍服を着て男のように振る舞っていたと言っても、変装していたわけではないのだ。会えばバレるのが当然だし、バレたらあれこれと面倒臭いことになる。
 それに、チルノの方でもまだ文次天狗のことを覚えているかは分からなかった。あれほど劇的に別れたにも関わらず、彼女が文次天狗を探しに山へ迷い込んできたことなどは一度もないのだ。それで当初は警戒していた文も、「どうやら忘れてくれたらしいな」と思ってほっと息を吐いたものである。
 そのことをほんの少し残念に思っている自分については、気付かぬ振りを貫いていた。



 白い半袖のブラウスに黒いミニスカートといういつもの出で立ちで洞窟の入口に立った文は、明るい日差しに輝いている幻想郷の大地を見渡して目を細めた。首から提げたカメラを手に、にっこりと微笑む。

「いやぁ、今日もいい弾幕日和ですねえ」
「おう、文の字じゃねえか」
 
 呼ばれて振り返ると、洞窟の通路に無精髭の老天狗が立っていた。文を見てにやにや笑いながら、気軽に片手を上げて歩いてくる。その格好はアロハシャツに半ズボンにサンダル、頭にはサングラスまで乗っけているという、なんともおちゃらけた格好だった。

「あやややや、相変わらずお盛んでいらっしゃいますねえ、ご老公」
「相変わらずはお互い様だろ。ったく、コロコロ態度変えやがって」
 
 苦笑しながら近づいてきた老天狗は、頭に乗せていたサングラスを目元に下ろしてニヤリと笑った。

「ところでどうだ、これ。似合ってっか?」
「まあ、似合っていなくはないですがね」

 得意げな顔の老天狗に、文はつい苦笑してしまう。
 この爺さん、以前文と交わした会話に何か思うところあったのか、あれ以来随分と活発に動き回るようになったのだ。と言ってもほとんど隠居同然の身、文のように新聞作りに精を出しているわけではない。

「今日も弾幕ごっこにお出かけですか?」
「おう。愛しのハニィと約束してっからな。今日もブイブイ言わせてくるぜ」
「本当にお盛んですねえ」

 少女たちに混じって弾幕ごっこを楽しんでいるという元気な老人を前に、文は苦笑するしかない。まさか本当にやるとは思ってもみなかった。しかも、他の者には見られぬ渋みと深みがある弾幕を作るとかなんとかで、結構評判が良かったりする。

「まあなんだ、やろうと思えば案外出来るもんだよな、なんでも」
「あんまりはしゃぎすぎて腰折ったりしないで下さいよ。もういいお年なんですから」
「それだってお互い様だろうよ。そろそろきつくねえか、その格好」
「あやややや……捻るぞジジイ」
「やめてくれ」

 青い顔で首を振ったあと、老天狗はふと文の手元に目をやった。

「お前さんは今日も取材かい。熱心なこったな」
「ええ、まあ。ほら、今異変の真っ盛りじゃないですか。あっちこっちでいろいろ面白いことが起きてるみたいなんですよ」

 異変というのは、本来開花の時期がばらばらなはずの多種多様な花々が、一斉に咲き乱れている現象のことである。少し前から今に至るまで継続中の異変で、博麗の巫女もこれにはお手上げという噂だ。

「異変ったってなあ。これは何十年か一度に起きるアレだろ。年寄りならみんな知ってるぜ」
「そりゃそうですが、若年層の中には分からない方もいらっしゃるでしょうからね。みんなお祭り気分で浮かれているみたいですよ」
「平和なこったな」

 しみじみとした声で呟いたあと、老天狗は「さて」と腿を叩いた。

「愛しのハニィを待たせちゃいけねえ。俺はそろそろ行くぜ」
「本当にお盛んですね」
「その内俺とハニィのラブラブっぷりを撮りに来いよ」
「残念ながら、美しいものしか撮らない主義ですので」
「言いやがるぜ」

 歯を見せて笑ったあと、老天狗は「じゃあな」と手を上げ、翼を広げて空に飛び上がった。

(元気だなあ、本当に)

 文はおもむろにカメラを上げると、力強く羽ばたいていく老天狗の背中を一枚、写真に収めた。
 ファインダーから目を離し、ふと考える。他の者からしたら、自分もあんな風に前とは違って見えるのだろうか、と。

 予定通り、文は幻想郷中をフラフラと当てもなく飛び回った。どこへ行っても色とりどりの花々が咲き乱れ、空気には甘ったるい香りが充満している。その中でも珍しげな花を撮ってみたり、いつもよりも頻繁に見かける弾幕ごっこを観戦してみたり、勝利者に対してその場で取材を敢行したり。
 そんなことをやっている内に、時刻は昼に差し掛かっていた。文は妖怪の山に程近い草原に降り、そこに生えていた一本の木の根元で羽を休めることにした。柔らかい草の上に腰を下ろし、手帳を捲りながら今日撮った写真を眺める。そのほとんどが、花弁舞う空に描かれた美麗な弾幕の写真だ。もう何枚撮ってきたか分からないが、何枚撮ったって極められた気がしない。

(これはちょっとタイミングがずれちゃったわね……こっちはもう少し右から撮った方が良かった気がするし)

 頭の中で反省点を列挙しながら、割合上手く撮れているなと思えた写真を何枚か選び出す。巫女や魔法使いやメイドなどの弾幕が主だ。「花の異変弾幕特集」などと題して、新聞の増刊号を作る予定である。何となく、いつもよりも多くの人に読んでもらえそうな気がした。
 
(記事の方はどうするかな……弾幕強者の巫女に『弾幕ごっこで勝つコツは?』って聞けたのは良かったけど、その答えが『避けて撃つ。それ以上に何かあるの?』じゃねえ……ある意味面白いと言えば面白いけど、そこんとこ掘り下げたら巫女の記事になっちゃうし……)

 ペンでこつこつ頭を叩きながら、文は小さく唸る。
 何かヒントになるものはないか、と今日撮りためた写真の束を見返して、ふと指を止める。
 それは丘一面のひまわりが空を仰ぐ、太陽の畑で撮影した写真だった。ここに住んでいる花の大妖怪はいろいろな意味で要注意妖怪なので、少しびくびくしながら撮影したものである。
 その写真の片隅に、何かきらりと光るものが写り込んでいる。
 思わず顔を近づけて、目を細めてじっと見つめて……それがただの光弾であることに気付くと、肩からがくりと力が抜けた。
 
(……だめだなあ)

 その光を見つめて、文は憂鬱なため息を吐く。どうにも、心がざわついて仕方がない。
 いかに頭の中で理屈を捏ね回して自分の気持ちを都合よく解釈しても、心が揺れるのを抑えることはできない。

(……どうしてるかな、チルノ)
 
 写真を見つめたまま、文はぼんやりと考え始める。
 友達とは上手くやっているだろうか。また何か問題があって、仲間外れにされたりしていないだろうか。あるいは逆に、嫌なことがあったのに我慢して、誰にも言えずに悩んでいたりはしないだろうか。
 一度考え始めると、努めて意識しないようにしていた気持ちが胸の奥から溢れだしてきた。あっという間に、頭の中がチルノのことで一杯になる。
 
(会いたいな。あの子に)

 文が素直にそう思った瞬間、

「みーつけたっ!」
 
 突然、背後で元気一杯な声が響き、文は飛び上がらんばかりに驚いた。
 
「……って、あれ。妖精じゃないや」

 きょとんとした、聞き覚えのある声。背後にいる。首筋に季節外れの冷気を感じた。冷えていく肌とは裏肌に、鼓動が聞こえるほど心臓が高鳴り始める。
 
「ごめん、お姉さん。友達と間違えちゃった」

 文は驚きが顔に出ないよう細心の注意を払いながら、立ちあがって振り返る。巡る視界の片隅で、日差しを浴びた何かがきらりと光った。
 
「あ、天狗……」

 そこに立っていた少女が、かすかに驚いたような声を漏らす。
 見覚えのある少女だった。空色の髪、青い瞳、華奢な手足。けれども背に生えた氷の羽は少し大きくなっているし、背丈もそれなりに伸びたようだ。顔立ちだってどことなく生意気そうというかお転婆な雰囲気を漂わせていて、文の記憶の中に残る姿とはかなり違うように見える。
 
(元気そう、ね)

 そのことに大きな喜びを感じながら、文は慎重に口を開く。

「……こんにちは。はじめまして、妖精さん」

 心配だった。声が震えていないだろうか、微笑みが硬くはないだろうか。

「私、射命丸文と申します。あなたのお名前、教えて頂けますか?」
「あたいの名前? あたいはね……」

 氷の妖精の瞳が活発な光を湛え、太陽のように明るい笑みが閃いた。
 
「あたい、チルノっていうの! よろしくね、文!」
「……よろしく、お願いします」

 そう言うのが精一杯の文に対して、チルノは元気一杯だった。好奇心に瞳を輝かせながら、跳ねるような足取りで文に駆け寄ってくる。
 
「ねえねえ、文はこんなところで何やってるの? あ、カメラ……弾幕の写真! 文も弾幕の写真撮ってるんだ! あ、これ霊夢の弾幕だ。よく撮れてるー」

 チルノは文の手元を覗きこんで、はしゃいだ声を上げる。無邪気で無思慮が妖精に共通の特徴だが、それにしたって懐くのが早い。ひょっとしたら、文の姿に誰かを重ねているのかもしれなかった。
 
(……バレてない、わね)

 表情に一片の陰りすら見えないチルノの横顔を見ながら、文は心の中で確認する。
 チルノが少しも気付かないというのが、意外であると同時に妙に納得できるような気もしていた。
 この子もたった二、三年で相当変わったように見えるが、自分だってあの頃とは大分違っているのだろうから。
 そう思うと少しだけ気が楽になって、文は自然とチルノに笑いかけていた。
 
「チルノさんは、弾幕の写真に興味がおありなんですか?」
「うん! あたいさいきょーだから、きれいな弾幕たくさん作れるのよ! 文にも今度撮らせてあげるね!」
「それは、ありがとうございます」

 つい苦笑が漏れたのは、チルノの様子があんまり自信満々だったからだ。本当に、一体どんなことがあったらこうも明るくなるのだろう。
 
「ところでチルノさんの方は、こんなところで何を?」
「あ、そうだった」

 チルノは思い出したように振り返る。文が根本に座っていた木の後方、色とりどりの花が咲き乱れる草原に向かって手をかざしながら、
 
「今ね、かくれんぼやってんの」
「かくれんぼ、ですか」
「そうそう。ここに何人か隠れてるはずだからね、あたい鬼だから、全員見つけてあげるのよ」
「それはそれは。早く見つかるといいですね」
「うん! さーって、どこだどこだー?」

 はしゃいだ声を上げながら、チルノが駆け出す。草むらの草丈はそれほど高くないが、妖精であればしゃがんだだけで姿を隠すことができるだろう。実際、意識を集中すれば妖精らしき微細な気配がいくつも散らばっているのが分かった。
 
「みーつけたっ!」
「わーっ、みつかっちゃった!」

 チルノに草むらから引っ張り上げられた小さな妖精が、歓声を上げながら羽をばたつかせる。その後もチルノは休むことなく草むらを駆け回り、三分も経たない内に他の妖精達を見つけてしまった。
 
「うわー、すごいすごい」
「なんでみんなのいるとこ分かったのー?」
「フフン、あたいはさいきょーの妖精だからね。かくれんぼもさいきょーなのよ」

 小さな妖精達に囲まれて鼻を高くしているチルノを見て、文は苦笑する。あたいだのさいきょーだの、随分蓮っ葉な娘になったものだ。文と一緒に過ごしていた頃のチルノからは想像も尽かない変わりようだ。それだけたくさん妖精の友達と遊んできたのだろうな、と思うと、悪い気はしなかったが。
 文は何気なくカメラを構えて、妖精達に囲まれているチルノを撮ろうとした。ちょうどよく彼女が振り向いて、ファインダー越しに目が合う。
 チルノは歯を見せて笑いながら、元気良くピースサインを決めてみせた。
 文は束の間息をするのも忘れて、ファインダーから目を離して呆然とチルノを見る。氷の妖精はきょとんとした顔で、
 
「あれ、どうしたの。撮ってくれないの?」
「え。ああ、いや」

 文は誤魔化すように空咳をして、
 
「……撮られるの、平気なんですね」
「え? なに? よく分かんないけど、カッコよく撮ってね!」

 そう言って、チルノはまたピースサインを決める。ところがそんな彼女に周囲の妖精達が気付いたらしい。あっという間にまとわりつかれてもみくちゃにされてしまう。「ずるいずるいー」「あたちも写るの、あたちも写るの!」「チル姉ちゃんの隣がいい!」と、チルノの周囲に群がった妖精達が好き勝手に喚き出す。
 
「ああもう、暑苦しいのよ、あんたたちっ!」

 叫んだチルノが花畑に涼風を巻き起こした。舞い上がる花弁と共に空に散らばった妖精達が、風に乗って楽しげな笑い声を響かせる。
 
「あたいはこのお姉さんとちょっとお話するから、あんたたちはあっちで遊んでな!」
「えーっ」

 草むらの向こうを指差すチルノに、妖精達が声を揃えて不満を露わにする。
 
「おのれ、反抗的な……」

 顔をしかめたチルノは、しかし次の瞬間名案を思いついたようにきらりと目を光らせ、不敵な笑みを浮かべながらごそごそとポケットを漁りだした。
 
「いい、あんたたち。これからとっておきの遊びを教えてあげるわ」
「なにー?」
「これを見よ!」

 と、チルノがポケットから取り出して掲げてみせたのは、何やら小さな細長い紙片らしかった。くしゃくしゃになったその紙に、何か緑色のものが平べったく押し伸ばされている。
 
(あれは……!)

 思わず声を漏らしそうになる文の前で、チルノは宝物を見せびらかすように声を張り上げる。

「これをよく見な、あんたたち! この草はクローバーってんだけどね、これはただのクローバーじゃないんだ。普通の三つ葉のやつとは違って四つ葉っぱがついてる、四つ葉のクローバーなんだよ!」
「ほんとだー」
「葉っぱ四つ―」
「ふしぎー」

 群がった妖精達が、押し花の紙片を見上げてぽかんと口を開けている。チルノはそれを満足げな笑顔で見下ろしながら、
 
「でね、この四つ葉のクローバーを見つけると、ものすっごい、超ウルトラでさいきょーにラッキーなことが起きるから! だからあんたたちも、向こうで頑張って探すのよ!」
「おー」
「すげー」
「チル姉ちゃんにはどんなことが起きたのー?」
「そりゃもう、凄く幸せなことよ。だからあんたたちも頑張って探すんだよ! いざゆけ!」
「おーっ!」

 びしっと指差すチルノの声に従って、妖精達が一斉に走り出す。その見事なリーダー振りに、文は心底から感心してしまう。
 そうしてふと、一人その場に残ったチルノに目をやると、彼女は懐かしそうに目を細めて押し花を見つめていた。

「……そう。凄く、幸せだったんだよ」

 遠くの誰かに語りかけるような、穏やかな声音だった。どきりとする文の前で、チルノは振り返って駆け寄ってきた。

「お待たせ! いやー、リーダーも楽じゃないよね。まああたいはさいきょーだかららくしょーだけど」
「……お疲れ様です。それで、話っていうのはなんですか?」

 半ば答えを予想しながらも、文は何気ない口調で問いかける。
 チルノは急に真剣な表情になって、文の顔をじっと見つめながら言った。
 
「あのね、文。文次っていう名前の天狗のこと、知らない?」

 やはりそうきたか、と思いながら、文は空とぼけた顔で首を傾げる。
 
「さて、もんじ、文次さんですか……少なくとも、わたしの知り合いにはいないと思いますねえ」
「……そっか。うーん、誰に聞いても知らないって言うんだよねえ……」

 チルノは残念そうな顔で首を捻る。いつ勘付かれるだろう、と文はひそかに身を硬くする。
 実際わたしはどう思っているんだろう、と文はふと考える。気付いてほしいのか。気付いてほしくないのか。

「あたいね、文次にたくさんのものをもらったんだ」

 ふと、チルノが懐かしむような口調で語り出した。

「本当に、たくさん、たくさんもらったの。でもあたい、その頃は文次のこと何も分かってなくて……あの人がずっと苦しんでたことにも、気付いてあげられなかった。今なら気付ける、なんてことは言えないんだけど、話ぐらいは出来そうな気がするんだ。今なら」

 労わるような慈しむような、優しい声音だった。その穏やかな表情に、文は別れたあの日の面影を見た。いつか必ずあなたを見つけてみせる、と泣きながら笑っていた、あの日のチルノ。
 
「……そうですね」

 気付けば、文もまた優しい声でそう言っていた。心の底に残っていた何か重苦しいものが、少しずつ溶けていくのを感じる。
 驚いたように振り向くチルノを真っ直ぐに見つめながら、文は穏やかに語りかけた。
 
「今のチルノさんになら、全て話して下さると思いますよ。その……文次さんという方も」
「……そっかな」
「ええ。きっと、大丈夫です」

 文が力強く頷くと、チルノははにかみ笑いを浮かべて頷いた。
 
「ありがと、文。なんか自信出てきたかもっ」

 チルノは拳を握りしめ、「よーしっ、頑張るぞっ!」と張り切って両手を上げる。本当に、元気になったものだ。

(……さて)

 文は小さく咳払いし、気息を整えた。
 張り切っているチルノの背中に、さり気ない含みを持たせた口調で話しかける。

「ところで、チルノさん」
「ん。なに?」

 きょとんとした顔で振り向くチルノに胸の高鳴りを覚えながら、文は大きな期待を込めて言う。

「その、文次さんという方なんですけどね……案外、その……今、すぐ近くにいるかもしれませんよ?」
「えぇっ!?」

 チルノが驚嘆の声を上げながら飛んできて、鼻と鼻が触れるほどの至近距離で文を見上げた。
 
(近っ……)

 視界一杯に広がったチルノの顔に、文は思わず息を呑む。鼻先に、頬に、唇に、懐かしい冷気を感じた。
 チルノは信じられないような表情で、まじまじと文の顔を見つめている。文はごくりと唾を呑みこんだ。さすがにこれはバレるだろう。いや、ひょっとしたらもう気付いているのではあるまいか? 今、彼女は再会の言葉を探しているのではないだろうか。
 
(ああ。どうしよう。何て答えたらいいんだろう……!)

 自分でこの状況を作っておきながら、文は頭が真っ白になるほど混乱していた。チルノが次に何を言うか、自分はそれにどう答えるか。想像しただけで、鼓動が早まってくる。

「文……」

 不意に、チルノが呼びかけてきた。文はまたどきりとしながら、「なんですか」とぎこちなく返す。

「文、もしかして……」
「は、はい」

 来るぞ、来るぞ……と文が息を殺した、その瞬間、

「もしかして、近くにいる天狗の気配が分かるの!?」
「……はい?」

 呆けて間抜けな返事をする文から、チルノは飛び退るように離れた。踊るようにくるくると回りながら、「どこ、どこ、どこにいるの!?」と騒ぎ立てる。
 
「え、ええと……?」
「ねえ文、その天狗ってどこにいる!? こっから見える!?」
「ああいや、あの……」

 何がなんだかよく分からないが、とりあえずチルノがまだこちらの正体に気付いていないということだけは、はっきりと分かった。
 文は困惑しながらも一つ咳払いをして、

「……ええと、あの、チルノさん」
「なに、文?」
「いや。よーく、考えてみて下さいよ? わたしはあの……その文次という天狗がね、たった今、このときに、案外あなたの近くにいるのかもしれませんよー、って言ったんですよ?」
「……? うん、そう聞いたけど……」

 チルノはきょとんとした顔で目を瞬き、またせわしなく周囲を見回し始める。

「だから、どこにいるの? 事情があって場所を教えられないんだったら、ヒントだけでもちょうだい!」
「いやその、ヒントっていうか……」

 目の前にいるじゃないですか、と言いかけて、文は言葉を飲み込んだ。
 何となく、チルノに自分で気付いてほしいという願望があった。あの日の言葉を覚えているから、尚更。
 しかしチルノはそんな文の願いに気付くこともなく、当然文の正体にも全く気付かない様子だ。ひたすら「どこ、どこ」と言いながら、一生懸命周囲を見回している。
 その内ふと、チルノの目に涙が浮かび始めた。
 
「ああ。でも、この近くにいるんだ。あたい……わたしのこと、見ててくれるかもしれないんだ。文次……」

 熱っぽい声音、潤んだ瞳、ぎゅっと胸を押さえる華奢な両手。
 それを見た瞬間、文は非常に嫌な予感を覚えた。なぜか、背中に脂汗が滲んでくる。

「……あのー、チルノさん……」
「……なに?」

 文がおそるおそる声をかけると、チルノは目元を拭いながら振り返った。その仕草一つ一つが、なんだか妙に柔らかいというか女性的な感じがして、嫌な予感がますます強くなってくる。
 
「つかぬことをお伺いしますが」

 ごくりと唾を飲み込んで、

「……その文次さんって天狗、あなたにとってどういう存在なんですかー、なんて……」
「……文次、は」

 チルノの頬が、薄らと赤くなった。幸福な夢の中にいるように、青い瞳がうっとりと遠くを見る。

「文次はね、とっても優しくて、物知りで、頼りになって、暖かくて……一人ぼっちで泣いてたわたしを明るい世界に連れ出してくれた、世界で一番素敵な天狗なの。そう、文次、文次はね……」

 チルノは火照りを冷ますように両手で頬を挟み、恥ずかしそうに微笑みながら、

「文次は、わたしの王子様……」

 ――これはトムですか? いいえ、それはしょうゆです。

(なるほど。道理で気付かれないわけだ……!)

 ショックのあまりくらくらしてきた頭の片隅で、文は奇妙なほど冷静に考えていた。
 文は別に、変装していたわけではない。単に軍服を着てちょっと男っぽい雰囲気と口調で、チルノに接していただけだ。普通に考えて、別人だと思われるほど見かけが変わっているとは思えない。
 だが、恋は盲目という言葉がある。おそらくチルノは、あの別れの日以降、毎日のように文次のことを想い続けたのだろう。残された弾幕の写真やクローバーの押し花を見つめ、彼と過ごした日々を思い返しながら。その暖かな記憶に浸っている内に、思慕の情が恋心へと変わっていったとしても何らおかしくない。たった二、三年でこれほど外見が成長したのも、ひょっとしたらその恋心のためかもしれない。妖怪や妖精の外見は、精神の在り方に強く影響されるから。
 つまるところ、今のチルノにとって文次天狗は完全無欠の王子様なのだった。多少似た顔の天狗……しかも女の天狗が現れたところで、同一人物だなどと思うはずがない。

(だからってこんな近くにいるのに気付かないとか、どう考えたってあり得ないでしょうが!? それともやっぱり色気か、色気がないせいなのか!?)

 だが、どれだけ心の中で叫ぼうとも、現実は全く変わらない。
 文は混乱の極みの中でガックリと膝を突き、地面を叩きながら叫ぶ。

「どうしてこうなった……!」
「文、大丈夫?」

 気遣いの声にノロノロと顔を上げると、チルノが心配そうな表情でこちらを覗きこんでいた。文は力なく笑う。

「……いえ、大丈夫です。あの、チルノさん」
「なに?」
「ええと。さっきの話ですけど……すみません、勘違いだったみたいです。あなたの探してる文次さんは、この近くにはいないようで……」

 なんだか泣きたい気持ちになりながらそう言うと、チルノは「そっか」と言って、残念そうに肩を落とした。

「お役に立てなくてすみません。いや、ホント、すみません」
「ううん、いいの。気にしないで」

 チルノは優しく微笑み、青い瞳を輝かせて拳を握りしめた。

「他人の助けなんか借りてちゃ駄目だよね。だってわたし、文次と約束したんだもの。必ずあなたを見つけてみせるって。わたしの王子様は、わたしが自分で見つけなくちゃいけないの。大ちゃんもそう言ってたし!」
「大ちゃん?」
「わたしの友達。文次のことで落ち込んでたわたしを励まして、いろんなこと教えてくれたの」

 その口ぶりからして、大ちゃんとやらがこの面白すぎる状況を作るために一役買ったことは間違いない。余計なことしやがって、と文は歯軋りする。

(ああ、どうしよう。まさか今更「わたしが文次です」なんて言えるはずもないし……)

 もどかしさのあまり転げ回りたくなるような心情で、文はチルノを見つめる。
 そのとき、草むらの向こうで四つ葉のクローバーを探していたはずの妖精達が、皆一様に不満げな表情を浮かべて戻ってくるのが見えた。
 
「あれ、どうしたの、あんたたち?」
「チル姉ちゃーん」
「四つ葉のクローバー、どこにもないよー」
「本当にあるのー? ここにはないんじゃないのー?」

 妖精達はチルノの周囲に群がって、頬を膨らましながら口々にぶうたれる。
 チルノはそれを見て優しく微笑むと、柔らかな声音で話し始めた。

「そんなことないよ。必ずある。探せば絶対、見つけられるよ」
「ホントー?」
「本当」

 疑わしそうな妖精たちの前で、チルノはふと顔を上げた。遠くの空よりもっと遠くを見つめて、静かな、揺るぎない声で言う。

「見つけてあげようって思いながら探せばね、絶対に見つけられるよ。どれだけ時間がかかっても、いつか、必ず」

 凛とした笑みを浮かべたその横顔に、文は小さく息を呑む。気付くとファインダーを覗きこんで、シャッターを切っていた。

「あれ、文」

 チルノがきょとんとした顔で振り返る。

「今、写真撮ったよね? 何か、面白いものでもあった?」
「……ええ。とても、きれいなものを見つけたもので」

 文が深く頷きながら答えると、チルノは「ふうん、そうなんだ」と不思議そうな声で言いながら目を瞬いた。
 それから愛想よく笑って、

「じゃ、あたいもそろそろ行くよ。この子たちを手伝って、一緒に四つ葉のクローバー探してあげるんだ」
「そうですか。チルノさんは、いいお姉さんになりましたね」

 文がそう言うと、チルノはおかしそうに笑った。

「なりましたねって、それじゃ文、わたしのことずっと昔から知ってるみたいだよ。なんか、お姉さんみたい」
「案外、本当にそうかもしれませんよ?」
「なにそれ」

 チルノはくすくす笑うと、「さ、行くよ」と周囲の妖精達を促した。先を争うように飛び立つ妖精たちを追って地を蹴る直前、彼女はふと振り返り、悪戯っぽく微笑みかけてくる。

「じゃあまたね、天狗のお姉さん! これからよろしくっ!」

 言って、軽やかに舞い上がる。自分よりも小さな妖精達を見守るように、チルノはゆっくりとその後を追いかけていく。

「天狗のお姉さん、か。再会の日はまだまだ遠そうね」

 遠ざかるチルノの背を見つめながら、文は一人苦笑を零す。
 けれども、心は晴れやかだった。澄み切った快晴の空のように、文の胸には一かけらの不安も浮かんではいない。
 見当違いの方向に向かって飛んで行く彼女。それでもいつかは、わたしのそばに辿りついてくれるだろう。いつかは、わたしを見つけてくれるだろう。
 心の底から、そう信じることができる。

「もーいーよ……なんて、ね」

 文は一人呟きながらカメラを構え、ファインダーを覗きこむ。
 前へ向かって飛んで行くチルノの行く先に、誰かが咲かせた弾幕の華が見えた。

 <了>
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