【東方SS】お疲れババァ!

八雲紫SSです。
2008/9/15に東方創想話に投稿しました。
 




『お疲れババァ!』



「お疲れババァ!」

 これは久しぶりの難題だな、と八雲紫はこめかみを押さえた。

(満面の笑みで子供からババァ呼ばわりされたとき、人はどういう対応を取るべきなのか。ふむ、少し考えてみましょうか)

 情動に任せてぶん殴るという実に素直な対応も考えられなくはなかったが、それは少々短絡的すぎる。大妖怪たるもの、無数の選択肢を様々な角度から検証すべきなのである。

(……まずは状況を整理しましょう)

 いつもと違って、今日は何故か昼間に目が覚めた。
 乱れた髪を掻きながら「あー、ねむー」と自室の障子を開けた途端、視界が花で埋め尽くされる。なんじゃこりゃーと思う間もなく、その花々がひょいと脇に避けられ、向こう側から二人の少女の笑顔が現れた。
 一人は紫の式神である藍の、そのまた式神である橙で、もう一人は氷の妖精チルノ。二人はよく一緒に遊んでいるので、この組み合わせ自体は別段珍しいものではない。
 どうやら二人は縁側に立って、障子の向こうから紫が出てくるのを今か今かと待っていたらしい。でもなんで二人とも両手に花束なんか持ってるのかしら、と内心首を傾げたとき、満面の笑みを浮かべた彼女らが左右から花束を差し出して、先ほどの台詞である。

(なかなか意味不明の状況だわね。でも大丈夫、私は幻想郷が誇る理系美少女だもの。そう、理系美少女なの。理系の、美少女。次に取るべき行動を決定するぐらい朝飯前だわ)

 紫は静かに、速やかに計算を始める。今現在知覚できる範囲内に存在するありとあらゆる情報を無限とも思える膨大な数の数式として組み立て、あらゆる値を代入し、最適解を追求する。

(……とりあえずスキマに引きずり込んで小一時間説教してあげましょうか)

 少々陳腐でありきたりな結論になってしまったが、これでいいのだ。
 選択肢はほぼ無限だった。この結論を出すに至るまで、紫の脳内のチルノは1万回ほど蒸発し、10万回ほどズタズタに引き裂かれ、100万回ほどジャイアントスイングで投げ飛ばされている。
 そのぐらいの怒りを溜め込んでいるのにこんな平和的な解決策を選択できた自分を、むしろ褒めてあげたい。いよっ、さすが幻想郷一の大妖怪! 理系美少女は伊達じゃないぜ!
 ちなみに橙に対しては最初から説教一択である。きついお仕置きかまそうとすると、脳内の藍が縋りついて泣き喚いて非常に鬱陶しいのだ。

(さて、それじゃ早速説教用のスキマ部屋に……)

 そうしていつも通り空間に隙間を開けようとしたとき、紫はふと気がついた。
 今、満面の笑みで花束を差し出しているチルノと橙の背後に、他にも何人か妖怪が立っている。リグル、ミスティア、ルーミア、大妖精である。いつもチルノや橙と一緒に遊んでいる連中だった。さらに、彼女らを見守るような形で、紫の式神である藍も控えていた。
 チルノや橙と違って、他の少女たちの顔には笑みなど浮かんでいなかった。いや、笑っていると言えば笑っている。ただ、どれもみな、青ざめた顔の中で唇の端がひきつっているだけ、という感じだ。ルーミアだけは状況がよく分かっていないらしく、あっけらかんとしていたが。

(……他の子たちは、さっきのが物凄く失礼で即刻ブチ殺されも文句が言えない類のものだってことを、ちゃんと理解しているみたいね)

 ならば何故チルノと橙を止めなかったのか? 紫の胸に疑問が生まれた。
 考えてみれば、問題の解を求めるには情報が少な過ぎる。どこの誰がどこからどう見ても完璧な美少女である自分に対して、少々悪戯好きで頭は足りないものの、基本的には素直でいい子なチルノと橙が「お疲れババァ!」などと言ったのである。何か理由があると考えるのが当然だ。

(もっとも、どんな理由があったにせよ、こんな永遠の美少女捕まえてババァ呼ばわりなんて許されることじゃないけど)

 だがお仕置きは一旦保留しておいてやろう。まずは真相追究である。

(それにしても、私としたことがこうも結論を急いでしまうだなんてね)

 紫は内心苦笑する。幻想郷の成立に関わり、大妖怪と呼ばれて皆に恐れられ不気味がられ、ついでに胡散臭がられるようになって早数百年。面と向かってババァ呼ばわりされたことなど一度もなかった。そのためか、少々過剰な怒りを抱いてしまったらしい。

(いけないいけない。いついかなるときでも余裕たっぷり、人間味は薄く言動は詩的に素敵に思わせぶり。それでいて多少の無礼は妖艶かつセクスィーに笑って許す寛容さこそが、幻想郷が誇る理系お嬢様的美少女、八雲紫の美点ですものね。こんな童妖怪と馬鹿妖精相手にいちいちブチ切れていたんじゃあ、カリスマは保てないわ、うん)

 ともかくもまずは情報収集だ。紫は目の前のチルノと橙に向かってにっこりと微笑みかけた。
 ちなみに、「お疲れババァ!」と言われてからここまで、1秒ほどの時間も経っていない。隙間妖怪の思考は、人間や並の妖怪など比較にならないほど速いのである。さすが永遠の理系美少女、頭も体も老化とは程遠いぜ! と、紫は心の中で自分を賞賛する。

「ごめんなさい二人とも、よく聞こえなかったわ。もう一度言ってもらえるかしら?」

 優しい笑顔を浮かべてちょっと屈みながら、紫は可愛らしく首を傾げる。何から何まで完璧だ、さすが永遠の美少女、ババァと言われる要素などどこにもない! と自分を励ます紫の前で、チルノと橙は満面の笑顔のまま繰り返した。

「お疲れババァ!」

 ――とりあえず、聞き違いではなかったということと、自分が「ババァ」という言葉に対して想像以上の怒りを抱くということが分かった。
 紫の想像の中で、チルノが1000万回ほど電車に轢き殺される。その隣では、無残な橙の亡骸を抱きかかえた藍が、悲しみの咆哮を上げながら金色のオーラを吹き上げているところであった。わたしは怒ったぞババァー。ブルータスよお前もか。

(いやいや、空想に浸っている場合じゃないわね)

 紫は煮えたぎるような怒りを無理やり抑えながら、表面上はごく自然に問いかけた。

「ごめんなさいね二人とも、ちょっと、あなたたちの言っていることの意味が理解できないのだけど」
「えぇっ、紫様にも分からないことがあるんですか!」

 橙が驚いて叫ぶ。彼女の言葉はつまり、八雲紫に分からないことなどないと思っていた、というのと同意であり、それ自体は大変結構なことである。だがそれだけでは贖罪にはなりはしない。

「あら橙、よく分かってるじゃない。もちろん、私には分からないことなんてありませんわ。そうねえ、少し言葉を変えようかしら。さっきの発言はどういう意図の下になされたものなのか、あなたたちの口から、直接、この私に説明していただきたいのよ」

 紫はにっこりと笑う。それだけで、大妖精が涙目になり、リグルがガタガタと震え出し、ミスティアが辞世の句ならぬ辞世の歌を小声で唄い始めた。相変わらず状況を分かってないらしいルーミア以外は、紫から放たれるプレッシャーを存分に味わっているらしい。藍も藍でどうにかして主をなだめようとしているらしいが、出るタイミングがつかめない様子だった。
 そんな仲間たちのことなど知らぬげに、チルノが元気よく喋り始めた。

「ゆかりはえらいから、お礼言いに来たのよ!」

 またしてもよく分からない言葉だった。

(わたしが偉いっていうのはまあ分からなくもないけど、お礼言いに来たって……え、なに、じゃあ『お疲れババァ!』ってのは感謝の言葉ってこと?)

 それを感謝の言葉として受け取るなんてどんなマゾだよ、と紫は思う。私はどっかの天人じゃないぞ。
 そもそもチルノに説明を求める行為自体が間違っているのだと、紫は今更ながらに気がついた。溜息をつきつつ、他の面々に目をやる。

「……あなた。この状況、筋道立てて分かりやすく説明していただけるかしら?」
「は、はい!」

 指名された大妖精が、ぎこちない足取りで歩み出てくる。穏やかで清楚な顔立ちが、真っ青な顔色で台無しになっていた。

(そこまで怖がらなくてもいいのにねえ)

 紫は内心苦笑した。チルノが「なんで大ちゃん怖がってんの」と言わんばかりの怪訝そうな顔をしているのも笑いを誘う。

「えっと、あの、紫さんは、今日が何の日だかご存じですか」

 大妖精が緊張に強張った声音で問いかける。紫はごく普通に答えた。

「敬老の日ね」

 そのこと自体には、少し前から気が付いていた。おそらく、先ほどのチルノたちの言葉とも何か関係があるのだろう、ということにも。

「そ、そう、敬老の日、なんです。わたしたち、前に人間の里の慧音先生からそのことを教わってまして。そのう、今わたしたちが生きているこの世界を築き上げてきたお年寄りの方々に、敬意と感謝を捧げる日だ、って」
「ほう。つまりあなたたちは、この私、八雲紫のことを妖怪スキマババアだとでも思っているわけね」

 こめかみの辺りが少し引きつった。「ひっ」と短い悲鳴を漏らしたきり、大妖精が何も喋らなくなる。いや、喋れなくなったというべきか。大妖怪の怒気を間近で浴びて、小便漏らしていないだけでも大したものである。

「そうよー」

 硬直を続ける大妖精の代わりに、またチルノが元気に喋り出した。

「ゆかりは昔から幻想郷のために頑張ってるえらいおばあちゃんだから、ちゃんと敬わなくちゃだめよって言われたの」

 これで確定。やはりこの馬鹿妖精は、自分のことを老婆と認識している。なんたる無礼、なんたる侮辱。

(でも)

 紫は目の前にいる妖精の、全く悪意のない笑顔をじっと見つめた。そう、そこには悪意など欠片もなかった。こちらをまっすぐに見上げる青い瞳は、敬意と尊敬に満ちている、ように思える。
 ちらりと橙に目を移すと、こちらも似たような表情である。彼女の場合、紫は主の主にあたる偉大な妖怪だから、眼差しに敬意が宿っているのはいつものことだ。だが、今日はその感情が一段と深いように見える。

(なんだか、怒りにくくなってきたわねえ)

 大抵の者に胡散臭がられたり煙たがられたりしている現状、紫はこういった真っ直ぐで直接的な好意の表現とは縁が遠かった。そのせいで、珍しく思考に迷いが生じ、何秒か、次に何を言うべきか迷ってしまった。
 その間に、チルノがはしゃいだ声で説明を続ける。

「んでねー、ゆかりのぶゆーでんたくさん聞かせてもらって、あたいが『ゆかりスゲー!』って言ったら、『それなら感謝の言葉と一緒にこれを持っていってあげなさいな』って、この花もらったの。お疲れババァってのもそんとき教えてもらった」

 段々と事の真相が見えてきた気がする。紫は橙に問いかけた。

「その、お疲れババァってのはどういう意味だと教わったのかしら?」
「ええと、『幻想郷には存在しない外の世界の言葉で、お疲れ様ですっていう言葉の派生形よ。頑張った人に対しては最大限の賞賛になるからぜひとも言ってあげなさい。紫は外の世界の知識も深いから、絶対に喜んでくれるはずよ』って」

 説明したあとに、橙は不安そうに紫を見上げた。

「あの、ひょっとして、何か間違ってましたか?」

 当たり前だろうがちったぁ疑えよこのアホ猫が。
 そう罵倒したくなるのを、紫は必死に堪えた。一応、この子らに悪意がないのは分かった。だから、代わりに藍を睨みつける。

(この猫、人を疑うってことを知らなさすぎるんだけど。あなたどういう教育してんの?)
(素直でかわいいじゃないスか。橙かわいいよ橙)
(思考がチルノと同レベルなことに関して何か意見を述べよ)

 一瞬のアイコンタクトの末に、藍は無言で目をそらす。このバカ狐あとでお仕置き決定、と紫は小さく歯ぎしりする。
 そのとき、視界に三つの影が飛び込んできた。

「ごめんなさい!」
「悪気はないの!」
「許してあげてください!」

 土下座せんばかりの勢いで頭を下げているのは、大妖精とミスティアとリグルである。謝らなかったらチルノと橙が塵も残さず消滅してしまう、とでも言わんばかりの必死さだ。それを見たチルノと橙がポカンと口を開け、後ろからルーミアがとことこと歩み寄ってくる。

「みんななんであやまってるの?」
「いいからルーミアも頭下げる!」
「なんでー」
「あとで鰻食べさせてあげるから」
「そーなのかー」

 下げられた頭が四つになった。紫は小さく苦笑を漏らす。

(自分たちとは関係ないんだから放っておけばいいのに、ずいぶんと友達想いだこと)

 微笑ましく思いながら、さて、これはますます怒りにくくなったな、と紫は小さく息を吐く。まあ、状況は完全に把握できたのだから、そもそもこの子らに対して怒る理由はなくなったのだが。

「ねえねえゆかり」

 チルノが不安そうに紫の服の裾を引っ張った。

「あたいたち、なんか悪いこと言った?」
「ごめんなさい紫様」

 泣きそうなチルノと、しゅんと耳を垂れて申し訳なさそうにしている橙を見ていると、なんだかおかしくなってきた。紫はそっと微笑むと、しゃがんで二人を抱きしめた。

「ううん、別に、おかしなことなんか言ってないわよ」

 優しい声音で言いながら、らしくないことをしているな、と紫は心の中で苦笑する。やはり、慣れない状況というのはこの大妖怪にも戸惑いをもたらすものらしい。

(ま、それならいつもの調子に戻せばいいだけのことよね)

 紫は二人から花束を受け取り、隙間越しに藍に手渡した。

「居間にでも飾っておいてちょうだい」
「分かりました」

 藍が穏やかに微笑みながら頭を下げる。チルノと橙の顔がぱっと輝き、他の面々も事態の平和的な解決を見て、ほっと安堵の息を吐く。

「ところで」

 だが、紫にとっては本番はこれからであった。

「私の武勇伝っていうのは、具体的にどんなことを聞いたのかしら」
「えっとねー、紫がずっと昔に幻想郷を作った、とか、住むとこなくした妖怪を外の世界から呼び込んだ、とか、今もその結界が破れないように頑張ってるから、あたいたちがなんの心配もせずに暮らせてるんだ、とか」

 チルノの目がキラキラと輝いていた。

「そんでね、あたいさいきょーだけどゆかりもさいきょーだから、やっぱりさいきょー同士敬意を表さなくちゃならないと思ったのよ」
「あらそう、それは光栄だわね」
「わたしも紫様の偉業を詳しく聞いたのって初めてだったから、凄く感動したんです! それで、身の程知らずかもしれないけど、なにかしなくちゃなーって」

 橙も頬を上気させて一生懸命喋っている。愛い奴よの、と思いつつ、紫は思考を巡らせた。すなわち、誰がチルノたちにふざけたことを吹き込んだのか、である。

(幻想郷を私が作った、ってのは微妙に間違ってるけど、そんな昔のことを割と詳しく知ってるってことは、幻想郷でもそこそこ古参の妖怪ね。で、チルノと橙に『お疲れババァ!』と言わせることで私に精神的打撃を与えようと目論見、なおかつそれに対する報復を恐れない……いや、むしろ誘っている、好戦的で戦闘力に自信のある輩)

 大妖精らがここに来るまでチルノたちを止めなかった、いや、止められなかったのは、おそらくその妖怪に脅しをかけられていたためだろう。

(そこまで手の込んだ嫌がらせをやる奴。そしてダメ押しの)

 紫はチラリと藍の方に目をやる。この式神に先ほど手渡した、色とりどりの花の束。
 ジンチョウゲ、スターチス、ゼラニウム、グロリオーサ、シャクナゲ、テッポウユリ、キク、カトレア、ハボタンなどなど。
 よくよく見てみると、春夏秋冬様々な季節の花がごちゃ混ぜになっていて、まるで統一感がない。
 そして何よりも、その花々の真ん中で花弁を広げる、大きな大きなヒマワリ。

(うん、間違いないわねこれは)

 まあ別に間違っていても構いやしないのだが。
 紫は空間に隙間を開けると、無造作に腕を突っ込んで、向こう側にいた人物の襟首をひっつかんでこちら側に引きずり込んだ。抵抗は全くない。果たしてふわりと紫の部屋に降り立ったその人物は、日傘の下で優雅な微笑みを浮かべてこうのたまった。

「あら、ごきげんようおばあちゃん」

 やはり貴様か風見幽香。

(……いや、考えるまでもなくそれ以外あり得ないんだけどね)

 このドSが、と内心怒りの咆哮を上げつつ、紫は表面上はたおやかに微笑む。

「ごきげんよう。あなたからの贈り物はありがたくいただいたわ」
「へえ。じゃあ上手くいったのね。よかったわぁ」

 幽香が口元に手をやってクスクスと笑う。だが、細められた瞳にはこちらへの敵意しかない。無論、紫は臆することなくそれを受け止めた。

(やってくれるじゃないの花の妖怪風情が)
(あら、わたし何も間違ったことは言ってないわよ)
(じゃあ『お疲れババァ!』ってなによ)
(間違ってないでしょ、おばあちゃん?)
(間違いだらけでしょうに。全く、何も知らない童に嘘を教えるなんてね)
(ま、確かにそれが賞賛の言葉だっていうのは嘘だけどね。でも、重要なことをお忘れじゃないかしら?)
(なによ?)
(仮にそれが嘘だったとしても、あなたが幻想郷の妖怪の中では老人という位置にあり、敬老の日に敬われるべき存在であると、この子たちが認めたこと。その事実には何の変わりもないのよ?)
(グッ……)

 ぶつかり合う視線に交じって飛んでくる、筋道立った理屈に紫が少し怯むと、幽香は実に爽やかかつ嬉しそうに笑った。

「そういうわけで、いつもお疲れババァ! 紫おばあちゃん?」
(野郎……ッ!)

 表面上は笑顔を保ったまま、紫は強く拳を握り締める。これほどまでの怒りを感じたのは、先の博麗神社局地的大地震騒動のとき以来である。
 本当なら今すぐに幽香と愉快不愉快血みどろ幻想郷演武を演じたいところだが、ここで戦ったりしたら間違いなく周囲にいる童妖怪たちを巻き込んでしまうだろう。それは望むところではない。

(落ち着くのよ紫。誰が何と言おうと、私は幻想郷が誇る永遠不滅の理系お嬢様的美少女。冷静に速やかに人払いを済ませた後、この腐れ花をスキマの向こうの魔空空間に引きずり込んでやればいいのだから)

 そうして紫と幽香が微笑みと視線をぶつけ合っていたとき、不意に二人の間に割って入る影があった。

「ゆーか、ゆーか」
「あらチルノ。どう、大成功だったでしょ?」
「うん、ゆかりスゲー喜んでくれた! あんがとゆーか」
「うんうん、そうでしょそうでしょ。やっぱり敬老の日はお年寄りを敬わなくちゃねえ」

 チルノの頭を撫でながら、幽香がにやついた笑みを向けてきた。どうやらまだまだ紫をからかう気満々のようである。

「んでね、ゆーか」

 と、不意にチルノが能天気に言った。

「なあに」
「あたい、ゆーかに渡すものあるの」
「え、わたしに?」

 幽香が怪訝そうな顔をする。どうやら予想外の事態らしい。戸惑っている彼女の前で、チルノはおもむろに両手を差し出した。見ると、彼女の手の中で、見事な氷の花が咲いている。驚く幽香に向かって、氷の妖精は満面の笑みで言った

「お疲れババァ!」

 空気が凍った。パーフェクトフリーズである。さすが、冷気を操る程度の能力は伊達ではない。
 そんな凍りついた時の中、幽香はしばらく無言で佇んでいたが、やがておもむろに尋ねた。

「これはどういうことなのかしら、チルノ」
「んとね、あたい頑張って作ったんだよ。えへへ、綺麗でしょ? あたいの力を込めた特別な氷だから、たぶん太陽の下でも一週間ぐらいは大丈夫だと」
「そうじゃなくて! え、なに、なんでわたしに『お疲れババァ!』なの?」
「え、だってゆーかおばあちゃんじゃん」

 チルノはなんの躊躇も罪悪感もなくそう言い切った。その一瞬だけで、幽香の左手による計13発もの拳打がチルノに向かって叩き込まれたが、いずれも隙間越しに手を伸ばした紫によって払い落される。

(くっ、邪魔すんじゃないわよババァ!)
(あら、その子にとってはあなただってババァみたいよ? 話ぐらいは聞いてあげたら?)

 思いも寄らない形勢逆転の糸口を、もちろん紫は見逃さなかった。先ほどの鬱憤を晴らすべく、ありったけの嫌味を込めたニヤニヤ笑いを幽香に送る。
 花の妖怪は少々微笑みを引きつらせつつも、まだ冷静な口調でチルノに尋ねかけた。

「そう。チルノにとって、わたしはおばあちゃんなの。どうして?」
「あのね、前に大ちゃんに」

 チルノがそこまで言った瞬間、後ろで事の成り行きを見守っていた大妖精に向かって、無数の花の種が飛んだ。それもやはり紫がガードする。
 そんな超高速の攻防には気づく様子も見せず、氷の妖精は無邪気に続ける。

「げんそーきょーえんぎっていうの、ちょっと読んでもらったんだけど」
「ああ、あのなんとかって人間が書いた本?」
「そー。んでね、その中にゆーかのことも書いてあったの」
「なんて?」
「えっとね」

 チルノが一生懸命語った本の内容を要約すると、このようになる。
 曰く、長い間生きた妖怪はだんだん活動が活発ではなくなる。
 曰く、風見幽香はかなり昔から確認されている妖怪である。
 曰く、風見幽香は最近あまり花畑から動かなくなっているらしい。

「それに、動きもゆっくりずっしりしてるし」

 そう締めくくったチルノは、にっこり笑って言った。

「だから、ゆーかはおばあちゃん!」

 その一瞬の内に幽香が繰り出した攻撃は、拳打、蹴り、傘による刺突と斬撃、頭突きに投げ技まで、実に百通りにも及ぶ。紫はそのことごとくをスキマ越しに払いのけ、防ぎ、完璧にチルノを守りきった。

(ふふん、幻想郷が誇る永久不滅にして唯一無二の理系お嬢様的美少女を舐めないでいただきたいわね。いかにあなたが蛮勇を振るおうとも、怒りに任せた攻撃を見切るのは一桁同士の掛け算よりも容易いわ)
(クッ、妖怪スキマババァが……!)
(言ってなさいな、妖怪枯れ花ババァ)

 幽香は小さく舌打ちすると、どことなく必死さを感じさせる笑みを浮かべながら、チルノの肩をつかんだ。

「チルノ、よーく考えてみて。本当にわたしっておばあちゃん? むしろ全然若い方だと思うんだけど」
「えー、若くないよー。あたいたちよりずっと年上じゃん」
「そんなことないわよ、大して変わらないわ」
「うーん、でも、格好もおばあちゃんみたいだし」
「か、格好……!?」
「うん。スカートずるずるで日傘両手で持ってゆっくり歩いてお辞儀して。なんか、人里にいる人間のばあちゃんによく似てる」

 食い下がる幽香に完膚なきまでにとどめを刺したあと、チルノは再び笑って氷の花を差し出した。

「だからお疲れババァ! ゆーかも花畑守ってるからえらい! それに、げんそーきょーえんぎにもさいきょークラスって書いてあったし。あたいもさいきょーだから敬意を表するよ」
「……そう。ありがとう」

 ついに諦めたのか、優香は微笑みながら氷の花を受け取った。てっきりそのまま握りつぶしたりするのかと思いきや、そんなことをする気配も見せず、ゆっくりと藍に歩み寄る。

「悪いんだけど、ちょっと預かっておいてもらえる? ちょっと用事ができちゃってね。あとで取りに来るから」
「はあ」

 藍が少々困った表情で、それでも丁重にそれを受け取る。そうしてから、幽香は再び紫の前に戻ってきた。
 二人はしばらく無表情で見つめあったあと、全く同時に微笑みあった。

「良かったわねー、普段別に何もしてないくせに敬ってもらっちゃって。一年中お花に囲まれてずっしりのたのた動いて、それでいて子供に懐かれて。いやー、年寄りって本当にお得よねー、幽香おばあちゃん?」
「そうねえ、毎日のんびりで、本当に恵まれてるわー。どこかの誰かさんなんて、今だに老骨に鞭打って必死に働いてるんだものねー。こういうのなんて言うんだったかしら。年寄りの冷や水? いえ、死に水だったかしら? ねえどうだっけ、紫おばあちゃん?」

 ビキッ、と音を立てて大気が鳴動し、屋敷全体がガタガタと震え出す。大妖精とリグルが悲鳴を上げて抱き合い、橙が毛を逆立てミスティアが再び辞世の歌を歌い始めた。
 そのとき、またも異常に気付かずぼけーっとしていたチルノとルーミアの横を通り抜け、一人の式神が決死の覚悟で二人の大妖怪の間に割って入った。

「お、お二人とも、どうかお待ちを」
「黙りなさい」
「引っ込んでなさい」

 二人から同時に言われ、藍が半泣きで身を引く。が、いよいよ最初の攻撃が放たれようかというときになって、突如思い出したように叫んだ。

「ああ、そ、そうだ! ねえ子供たち、居間の方におやつを用意してあるんだけど、食べていくかい?」
「ほんと!?」
「たべるーっ!」

 真っ先に反応して競争するように部屋を出て行ったのは、言うまでもなくチルノとルーミアである。ワンテンポ遅れて、他の面々も続く。

「わーい、やったー」
「ごちそうになりまーす」
「藍様のおやつは絶品なんだよー」
「楽しみねー」

 物凄い棒読みで叫びあいながら、童妖怪たちが脱兎のごとく部屋から脱出する。
 そうして三人だけになったあと、藍はおそるおそる提案した。

「ええと、お二人もいかがですか」
「いらないわ」
「あとで食べるから、わたしの分は残しておきなさいね、藍」
「あら年の割に意地汚いわねババァ」
「そっちこそ年のせいで食が細くなったんじゃないのババァ」

 もはや争いは避けられないと見たか、藍はため息をついて肩を落とす。そのとき、どたどたと足音が聞こえて、チルノが障子の向こうから顔を出した。

「ねー、どうしたの、藍? みんな待ってるよ?」
「あ、ああ、すまないね、今行くよ。あー、ところで、チルノ?」
「なにさ?」
「わ、わたしも十分年取ってると思うんだけど、紫様たちみたいに敬ってくれないのかなー、なんて」
「えー、藍はまだおねーちゃんって感じじゃーん。お疲れババァ! って言ってもらえるにはまだ早いんじゃない?」
「そ、そーなのかー」
「あはは、なにそれルーミアのマネ?」
「藍、あとで覚えときなさいね」
「そ、そんなぁ」
「それと、チルノ」
「なに?」

 紫は幽香への警戒は解かないまま、肩越しにチルノを振り返り、微笑んだ。

「ありがとうね。とっても嬉しかったわ」

 チルノがきょとんと瞬きして、それから無邪気に笑った。

「なに言ってんの、お礼言うのはあたいの方だよ!」

 勢いよく頭を下げる。

「ゆかり、いつもありがとう! これからも頑張ってね!」

 頭を上げたチルノの顔には、とても幸せそうな笑みが浮かんでいた。
 それをじっと見つめて、少し俯いて、小さく息を吸って。
 紫もまた、笑った。

「ええ、もちろんよ。まだまだ頑張る、頑張れるわ」

 そうして、チルノに引っ張られるようにして藍が出て行き、部屋には大妖怪二人だけが残された。
 互いに静かに睨みあう中、紫が提案する。

「場所、変えない?」
「いいわよ」
「あら、素直ね」
「巻き添え食らった童どもにピーピー泣きわめかれたんじゃ、興がそがれるからね」
「気が合うわねえ」

 くすくす笑いながら空間に大きめの隙間を開いた紫は、すっと表情を消した。

「スキマの向こうの魔空空間へ行こうぜ……」
「久々に、キレちまった……」

 激闘は夜まで続いた。



「……で、ボロボロになって今帰ってきた、と」
「引き分けよ、引き分け。クロスカウンターで」
「殴り合いだったんですか」
「野蛮な上にしつこいのよね、あいつ」
「能力は使わなかったんですか?」
「それじゃ面白くないでしょう」
「楽しんでおられたのですか」
「二割ぐらいはね」

 つまり8割は本気だったということか、と蘭はひっそりため息をつく。
 月の明るい夜である、童妖怪たちはびくびくしつつもしっかりおやつを食べて帰り、橙も自分の住処に帰ってしまったので、今この屋敷には紫と藍しかいない。
 そして今、藍は紫の部屋の縁側で、ボロボロになって帰ってきた主の腕に包帯を巻いているところであった。いつも真っ白で細い二の腕に無数の切り傷が刻まれているのは、間近で見るととても痛々しい。

「というか」
「なあに」
「何故わたしはこんなことをしているんでしょう」
「あら、悪い式神ね。怪我をしてる主を放っておくっていうの?」
「いえ、そうではなくて、紫様ならこんなことせずとも服ごと再生できるはずでしょう」
「ええ、そのとおりでございますけど、ね」

 紫はクスクスと、楽しそうに笑った。

「たまには、こうやって甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうのも悪くはないわ」
「たまには?」
「ん?」
「いえ、別になんでもありません」

 常日頃からぐうたらな主を思い出すと、なんだか釈然としない藍である。
 そんな式神の心を知ってか知らずか、紫は「あー」と声を漏らしながら、空を振り仰いだ。

「それにしても、おばあちゃん、か」
「まだ気にしてたんですか」
「それはそうよ。なにせ、幻想郷の中でも比類する者なき、永久不滅にして唯一無二の理系お嬢様的美少女であるこの私が、ああも露骨におばあちゃん扱いですものねえ」
「……」
「何故黙る」
「いえ別になんでもないですはい」
「……でも、仕方のないことかもしれないわね」

 主の声があまりにも穏やかだったので、藍は驚いてつい手を止めてしまった。

「どうしたの」
「ああ、いえ、その」

 藍は包帯を巻くのを再開しながら、躊躇いがちに答える。

「……まさか、ご自分でお認めになるとは思いもしませんでしたので」
「だって、ねえ」

 紫がおかしそうに苦笑した。

「確かに、あの子たちから見れば、私はおばあちゃんだもの。そう呼ばれてもおかしくないぐらい、ずーっとこの幻想郷にいるわ」
「結界が張られて、ここが生まれた当初から、ですからね」
「そう。強者弱者人間妖怪、全てのものを受け入れてくれる、私の大好きな、愛しい愛しい幻想郷」

 柔らかく、歌い上げるような声音だった。

「藍。私はね、この幻想郷が大好きよ」
「よく知っております」
「外の世界では人間の勢力に押され、存在すら否定されてしまう妖怪たちも、ここでは元気にのん気に暮らしていける。それは私も、あの幽香だって変わりないわ」
「でしょうね」

 答えながら、藍は今日紫に贈られた花々に目をやった。花はいくつかの花瓶に分けて、屋敷の各所に飾られている。紫の自室の床の間にも、一つ置いてある。

「……花言葉、不滅やら威厳やら愛情やら、そんなのばっかりでしたからね。そもそも、チルノが持っても凍っていなかった辺り、何か特別に造り出した花なんでしょうし」
「花を操る程度の能力、ね。まあそもそも、彼女が自分の象徴みたいなヒマワリを贈ってきた時点で、ねえ」
「それでいて表向きは罵倒したり挑発したり殴り合ったり、ですからね」
「あれね、ツンデレってやつ」
「なんですかそれは」
「外来語。ツンツンデレデレ、みたいな」
「なんとなく意味はわかりましたが、そんなの使ってると威厳がなくなりますよ」
「それにしても、季節感のない組み合わせよねえ、あの花たちは」
「そうですね」
「ふふ、枯れない花なんて、まるで私みたいね」
「……」
「何故黙る」
「いえ別に」
「まったく。あなたもあの子らを見習って、少しは主人を敬いなさいな」
「ふむ。つまりは老人として扱えということですか?」
「生意気言うんじゃないの」
「申し訳ありません」

 藍は少し笑った。

「ところで、紫様」
「なにかしら」
「わたしは笑いませんよ」

 会話の流れからすると、かなり唐突な言葉である。だが、紫にはちゃんと意味が伝わったらしい。
 彼女の背後にいる藍には、主の表情が見えなかった。ただ、少し黙り込んだ紫がそっと目元を拭ったので、ああやっぱり、と思った。

「嬉しかったんですね」
「そうね、嬉しかったわ」

 紫が素直に頷いた。

「結界の管理に修復、幻想郷のバランスを維持するための諸々の活動。別に、その全てが幻想郷に住む皆のためってわけじゃない。むしろ、どちらかと言えば私自身が安穏と暮らすためという理由の方が大きいかもしれない」
「実際に結界の修復やってるのはわたしですし」
「まあそれは置いといて、ね」
「置いとかないでくださいよ」
「老骨に鞭打てっていうの?」
「そんな、都合のいいときだけ……」

 藍のぼやきに少し笑ってから、紫は長く、緩やかに息を吐き出した。

「幻想郷の住人に感謝されるような存在じゃないのよ、私は。自分のためにやってることだもの。結界引いて、いろんな妖怪を巻き込んで、無理矢理こっちの都合の中に引きずり込んで……そりゃ、それで助かったって妖怪もいるにはいるかもしれないけど、それを目的としてやったことじゃないもの。私は他の妖怪を利用して、他の妖怪は私を利用して。そういう、打算的で乾いた関係なんだと思ってたわ」
「過去形ですか」
「ある日、ね」

 紫の声が温かみを帯びる。

「いつのことだったかは忘れたけど。博麗大結界の構築よりも前だったかしら。いつものように暇に飽かして幻想郷のいろんなとこ覗いてたんだけどね。妖怪が二人、並んでぼんやり座ってたのよ」
「どんな妖怪ですか」
「さあね。覚えてないわ。二人がどこに座ってたのかも、よく覚えてない。ただはっきり覚えてるのは、二人の体の至るところに、たくさんの傷痕があったってこと。『ああ、こいつらはあんまり強くない妖怪で、人間に追い立てられて、止む無くここに流れ着いた手合いだな』って、ぼんやり考えたわ。そういう妖怪は、この幻想郷では大して珍しい存在でもないのに、私は何故か、その二人の姿をしばらく眺め続けた」
「どうしてです?」
「どうしてかしらね。よく分からないけど。でも、ただじーっと、黙り込んだまま座ってる二人が、妙に気になったのよ。なにやってんだろ、って。不思議と、ちょっかいかける気にはならなかったわ」

 穏やかな風が吹き、たまに鳥や虫の鳴き声が響き、柔らかい日差しが降り注ぐ。そんなのどかな光景の中、二人はじっと座っていた。紫もじっと、ただ二人を見つめていた。
 そうして、どれぐらい時間が過ぎたことだろう。不意に、二人の片割れがつぶやいた。

 ――なんもねえとこだな。

 もう一人が答えた。

 ――そうだな。

 ぽつり、ぽつりと、言葉が交わされる。

 ――人間、いねえな。
 ――いるだろ。数がすくねえだけだ。
 ――すくねえんなら、大してこわくねえな。
 ――そうだな。
 ――いつ以来だっけ。
 ――なにが。
 ――こうやって、ボケーッとすんの。
 ――さあな。でもかなりひさしぶりだよな。
 ――ここなら、ボケーッとしててもいいんだな。
 ――そうらしいな。
 ――石も飛んでこねえし刀で斬られる心配もねえし。
 ――術で焼かれねえし式神けしかけられたりもしねえし。
 ――ほんと、なんもねえとこだな。

 そして最後に、二人の声が重なった。

 ――来て良かったな。

「そんな、なんでもない話よ」

 紫はそう締めくくったあと、どこかくすぐったそうな吐息を漏らした。

「でもねえ、どうしてかしらねえ。それ見てて、なんかこう、胸がいっぱいになっちゃってね。ああ、今まで全然気づいてなかったけど、私は案外、大したことをやってるんじゃないのかなあって」

 紫の声はとても嬉しそうだった。藍は数瞬、遠い過去に想いを馳せる。確かに、昔の紫は今と違ったかもしれない。怠惰なのは変わらなかったが、それ以上に退屈そうで、それでいて何かを面白がるでもなく、ただただ冷たい印象だけがあった、ような気がする。今はもうかなり曖昧になってしまっている記憶だが。

「それからちょっとずつ、幻想郷を見る目が変わっていったわ。目というか、心が変わったのかしらね。何を見ても楽しく思えるようになった。妖精が無意味に騒いでるのも、妖怪が退屈まぎれに喧嘩してるのも、人間が変わらない日常を過ごしているのも。全てが私の中で意味を持ち、幻想郷の何もかもが、どうしようもなく愛しくてたまらなくなった」

 熱っぽく、それでいて静かに語ったあと、紫はまた大きく息を吐いた。

「それでも、根本的には何も変わってないと思っているわ。私は誰かのために幻想郷を維持しているわけじゃないし、それで感謝される謂れもない。ただ、ここにいられるんだというだけでとても幸せなのよ。なのにね」

 紫が小さく鼻を啜り上げる。

「あんな、幸せそうな笑顔で『ありがとう』なんて言われちゃうと、ね」
「さっきも言いましたけど、わたしは笑いませんからね」
「ありがとう」

 紫がしばらく無言で目頭を押さえていたので、藍も何も言わず、ただそっと主の肩に手を置いていた。
 紫はやがて手を離し、「あー」と、どことなく照れくさそうな声を漏らした。

「ホント、今日は全然らしくなかったわね」
「そうですね。でも、たまにはそういう日があってもよろしいのではないですか」
「そうね。そうかもしれないわね」
「わたしもいろいろと興味深い話を聞かせていただきましたし……そういえば、紫様がご自分のことをこんなに語ってくださるのは、確かに珍しいですね」
「敬老の日だからね。普段こき使ってるあなたのことも敬ってあげたのよ」
「わたしはまだおねーちゃんらしいですが」
「妖精と主の言うこと、どっちを信用するのかしら」
「わたしの主はみんなに胡散臭がられているお方ですからねえ」
「っていうかそう、それよ! なんで幻想郷の中でも比類する者なき、永久不滅にして唯一無二、天上天下唯我独尊の理系お嬢様的美少女の私がおばあちゃんで、その辺の古狐に式神張りつけただけのあなたがおねーちゃんなのかしら?」
「長いですよ……っていうかいくら比較とは言え、自分の式神のことをそこまでこきおろしますか普通」
「どうでもいいでしょそんなことは。それより質問に答えなさい」
「まあ、あれですよ。わたしなどまだまだ紫様の足元にも及びませんってことでひとつ」
「いつからそんなに口が達者になったのかしら」
「よいお手本が身近にいらっしゃいますので」
「ああ言えばこう言う」

 紫は苦笑したあと、大きく欠伸をした。

「さて、そろそろ寝ましょうか。藍、布団の準備よろしく」
「え、敬ってくれるんじゃなかったんですか?」
「あら、あなたはおねーちゃんなんでしょ」
「本当に都合が良くていらっしゃる」
「どうでもいいから早くしなさい。眠くて眠くてたまらないわ」
「いつもなら起きておられる時間ですが」
「今日はらしくなく昼間から起きっ放しだったしいろいろあって疲れたの。明日の夜までは眠りたいわ」
「いくらなんでも寝過ぎでしょうそれは。冬でもないのに」

 藍が呆れると、「だってね」と紫は悪戯っぽく微笑んだ。

「近い内、また昼間に起きださなきゃならないときがあると思うから」
「どうしてですか」
「またあの子たちが来るはずなのよ」

 それが楽しみでならないというように、紫は含み笑いを漏らした。

「多分、ワーハクタクの教師か、それとも阿求か。もしくは今日のことで罪悪感を抱いてる大妖精辺りから、事の真相を教えられて、ね。いい子たちだもの、きっと泣きながら謝りに来るわねえ」

 紫の笑みは実に嫌らしい。藍は小さくため息をつき、一応頼んでみた。

「あまり酷いお仕置きはなさらないでくださいよ。悪気はなかったんですから」
「いいえ、ここは隙間に引きずり込んでたっぷりお仕置きしてあげないとね」
「嬉しかったんでしょう」
「それとこれとは話が別よ。幻想郷の中でも比類する者なき、永久不滅にして唯一無二、
天上天下唯我独尊、至高にして究極の理系お嬢様的美少女であるこの私の小鳥のように繊細で脆い心を傷つけた罪は、一発で地獄行きになるほど重いのよ!」
「さいですか」
「ふふふ。今からたっぷり睡眠とって体力蓄えて、一昼夜に渡る隙間説教をたたきこんであげるわ」

 不気味に胡散臭く嫌らしく笑う主を見て、「ああすっかりいつもの調子だな」と、藍は深く嘆息する。

(橙。強く生きろよ)

 心の中で自分の式に呼びかけながら、藍は主の寝床の準備にかかる。
 布団を敷いている間にちらっと見てみると、紫はまたスキマ越しにどこかを眺めているようだった。縁側から下ろした足をぶらぶらさせているその後ろ姿は、本当に楽しそうだった。

(お疲れババァ! なんてね)

 実際に言ったら無茶苦茶に怒られることは分かっていたので、藍は心の中で囁いた。

(わたしの主は幸せなお方だ)

 実に結構なことだな、と思いつつ、藍もまた微笑した。



 それから三日後、予想通りチルノと橙が泣きながら謝りに来た。
 紫は黙って二人の頭をそっと撫でてやり、笑って抱きしめて、許してやった。



 <了>
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