【東方SS】凡人『霧雨魔理沙』

2010/04/25に東方創想話に投稿したSSです。

凡人『霧雨魔理沙』



 魔理沙は思わず顔をしかめた。
 振り返ったルーミアの顔が血まみれで、小さな口元から噛みちぎられた赤黒い腸がぶら下がっていたからである。
 ルーミアはそれを長いソーセージか何かのように咀嚼しながら、きょとんとした顔で瞬きする。

「あれ、魔理沙だ。なんか用?」
「いや、何も。構わず続けてくれ」
「分かった」

 顔を他人の血で汚したルーミアは、いつもの調子で素直に頷いて食事に戻る。
 魔理沙は周囲に漂う血の香に鼻をつまみながら、ルーミアの隣にしゃがみ込んだ。
 血だまりの中に倒れているのは、人間の少女だった。年の頃は魔理沙や霊夢と同じぐらいだろうか。そこそこ整った大人しそうな顔立ちをしていると思われるが、あまり自信はない。なにせ、顎が外れる程に大口開けてだらりと舌を垂れさせ、半分以上白目を剥いている酷い死に顔だから、本当のところどの程度の容姿なのかがよく分からないのだ。
 断末魔の死に顔から下に目を向ければ、胴体の方は今まさに解体されている最中だった。小さな乳房と乳房の間に両手を突き入れて強引にこじ開けたらしく、血の滴るあばら骨が何本かばらばらに飛び出して、月明かりの下で湿った光を放っている。
 さすが妖怪の膂力と言うべきか、ルーミアは特に苦にする様子もなくベリベリと少女の皮を剥ぎ、肉をむしり取って口に運んではむしゃむしゃくちゃくちゃべちゃべちゃと、下品に音を鳴らして咀嚼している。魔理沙から見える横顔はそこそこ満足そうだ。宴会でつまみを食べているときとあまり変わらないようにも見えるが、実際のところはどうなのか。
 その食事風景から、魔理沙はそっと目を背ける。少女は小柄な体格で、切り裂かれた衣服は命蓮寺の村紗が身に纏っているものとよく似ていた。セーラー服とか言って、外の世界では女学生が着るものらしい。いつかの宴会で酔っ払った紫が、「わたしも着てみたいわぁ」だのと漏らして、場の雰囲気を著しく重苦しいものにしていたのが嫌というほど記憶に刻みつけられていた。

「学生さんか。運がなかったなあ」
「んむ?」

 心臓に通じる太い血管をちゅうちゅうと啜っていたルーミアが、怪訝そうな顔で振り向く。

「なに。魔理沙も食べる?」
「いらないよ。黙って食べな」
「あい」

 ルーミアは少女の体を貪るのに夢中らしく、返事はいつも以上にぞんざいだ。余程美味いのか、食事のペースは宴会で見るときよりもずっと速いように思える。心臓を喰らい尽くし、次は肺をちぎり取る。割と乱暴な手つきだったため、結構な量の血が飛び散ってルーミアの服を汚した。彼女の食事は礼儀作法も何もあったものではなかったので、それ以前からもう全身返り血塗れだったのだが。

「お前なあ、もうちょっと静かに喰ったらどうだ。服が汚れ放題だぜ」
「んー、そうだね、血が勿体ないね」
「いや、そういう意味じゃないって」
「えー。でもさ、わたし肉はともかく血の方はそんなに好きじゃないし。やっぱり勿体なかったね。上手いこと集めて吸血鬼のところに持ってけば、メイドのクッキーか何かと交換してもらえたかもしれないのに」

 口に小さな臓物を放り込みながら、ルーミアが少し気難しげな顔で言う。
 だがすぐに気を取り直したように、「ま、いいか」と小さく呟いた。
 そうしてまた、満足げな食事風景が再開される。夢中でつまみ、むしり、咀嚼して、ごくりと飲み込んでは指をしゃぶって舌なめずり。料理のコマーシャルにでも使えそうだ。ルーミアが全身血塗れでなかったらの話だが。
 このままのペースなら、夜明けと同時ぐらいには食べ終わるだろう。少女は明らかにルーミアよりは大きな体格だが、今の勢いだと途中で満腹になって残すことはなさそうだ。一体どこに収まっているのか、少し不思議である。
 そんな、食欲をそそるんだか無くさせるんだかよく分からない光景を横目に、魔理沙は小さくため息を吐いた。

(さて。どうしたもんかねえ)

 何となく考えてみたが、実際のところどうしたもこうしたもないのだった。魔理沙が来るのは少し遅かった。そもそもここにいるのだって、夜の散歩の途中でたまたま眼下に気になる光景が見えたから、何となく降りてみたというだけの話に過ぎない。
 別段、今のルーミアの行動を咎めるつもりはなかった。魔理沙以外の者でも、特に騒ぎはしなかっただろう。これで相手が里の人間だったならちょっとした問題になるところかもしれないが、少女は服装からして明らかに外来人だ。外来人が喰われたところで、「ふーん、ついてなかったね」で済ませるのが人妖問わず幻想郷の住人である。天狗の新聞の三面記事にだってなりはしないだろう。この少女が運よく里に逃げ込んで幻想郷に帰化していたなら、やはり話は別だったのだろうが。
 ともかく彼女がもう捕まって殺されて喰われてしまっている以上、この物語は既に終わっている。後は可愛らしい妖怪少女の可愛らしい人喰い劇場が展開されるだけで、魔理沙が介入する余地は全くないのだった。もちろんそういう光景を見て興奮するような性癖もないので、この場から立ち去ったところで特に問題はない。
 それでも魔理沙は、その場にしゃがみ込んでルーミアの食事を眺め続けた。小さな妖怪の友人はそんな視線など気にすることもなく、悠々と食事を続けている。気がつけば胴体はほとんど喰らい尽くされて、骨ばかりのがらんどうと成り果てていた。

「なあ。骨は喰わないのか」
「んー。食べられないこともないけど、あんまり美味しくないからいっつも食べないよ」
「頭の方は?」
「最後。目玉とお味噌は格別美味しいからね。最後まで取っとくの」
「そういやお前そういうタイプだっけな」

 いつかの宴会のとき、キープしていた鳥肉団子を萃香に横取りされて地団駄踏んでいたルーミアの姿を思い出す。
 今日は割合静かな夜で邪魔も入りそうにないから、彼女も警戒はしていないらしかった。少女の頭は凄絶な表情のまま、しばしの間夜風に晒されることになりそうだ。
 ルーミアの食事もまだ続きそうなので、魔理沙は少し手持ち無沙汰になってきた。
 仕方がないので、喰われかけの死体に向かって手を合わせて黙祷を捧げる。
 それを見たルーミアが、怪訝そうな顔で振り向いた。

「なに。やっぱり魔理沙も食べるの?」
「は? ……いや、これ『いただきます』じゃないから」
「そーなのかー。わたしいっつもやってるから、それかと思った」
「へえ。そりゃお行儀のいいこった」
「うん。ちょっと前に霊夢にも褒められた」

 ルーミアははにかむように微笑みながら、少女の太股の筋繊維を一本はぎ取り、かぶり付いた。以前紫が持ってきた「さけるチーズ」というのにちょっと似てるなあ、と魔理沙は思った。となれば、自分があれを食べていたとき、妖怪連中は「人間の足の肉にちょっと似てるなあ」と思っていたのだろうか。どうでもいい話だが、何となく気になる。
 その後はもう、何をするでもなかった。ルーミアが骨にむしゃぶりついて肉片を一つ残らず綺麗に食べつくしているのに感心したり、剥いだ爪を菓子のようにボリボリと咀嚼しているのを見て何とも言えない気分になったり、食事の合間に「魔理沙はあれだよね、鼻水とか美味しそうだよね」と聞かされて知りたくなかったなあと後悔したり。
 そんなことをしている内に、空が少しずつ白み始めてきた。その頃にはルーミアの食事も大体終わっており、少女の目玉を視神経ごと口の中に放り込んで飴玉のように舐めているところだった。
 それを飲み下して唇の周りを舌で舐め取ったあと、ルーミアは骨と血ばかり残された少女の残骸に向かい、目を瞑って丁寧に両手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 やはり意外と行儀がいいことに感心しつつ、魔理沙は朝日に照らされた残骸をじっと見つめる。
 ルーミアの食事は、食べ方の作法がなってないことを除けば割合丁寧なものだった。食べ残しはもちろんないし、骨にだって肉のカスなどはほとんど残っていない。なおかつ、きちんと一か所にまとめてある。

「で、これはどうするんだ?」
「ほっとけばなくなるよ」
「なくなるって?」
「骨とかそういう部分が好きな連中もいるからね。一時間後にはきれいさっぱりだと思う。わたしには理解できないけど」

 ルーミアは肩を竦めたあと、ゲップを漏らしてお腹を擦った。

「あー、美味しかった。こんなに食べたの久しぶりだなあ。満腹満腹」
「そりゃ良かったな」
「うん。あ、あんがとね魔理沙」

 急に笑顔でお礼を言われたので、魔理沙は眉をひそめた。

「あんがとって、何が?」
「あれ、気付いてなかったの?」

 ルーミアが不思議そうな顔で首を傾げる。

「今日、食べてる途中に邪魔が入らなかったのってさ。他の妖怪が魔理沙を怖がって近づいてこなかったからだよ」
「え、そうだったのか?」
「そう。異変のとき割と派手にやってるじゃない。だからあんまり力のない奴らからは結構怖がられてるよ、魔理沙って」
「そりゃ初耳だな」
「いっつもは大概取り合いになっちゃうからねー。魔理沙のおかげでゆっくり人間が食べられたよ。今度なんかお礼するね」
「人間の肉とか持ってこられても困るぜ」
「分かってるって」

 ルーミアは愉快そうにケラケラ笑うと、「じゃーねー」と血まみれのまま上機嫌に手を振って、朝焼けの空へと飛んで行った。
 その背中が少しずつ遠ざかるのを見送ってから、魔理沙はまた少女の残骸に目を戻す。積み重ねられた肋骨やら大腿骨やらの上に、小ぶりな頭蓋骨がちょこんと乗っかっている。血がこびり付いた眼窩にはもう目玉は残っていないが、何となく恨めしげにこちらを見ているようにも思える。とは言え肉が残っていた頃の凄絶な表情を思い返せば、頭蓋骨の状態の方がまだ幾分見られる代物のような気もした。
 そうしてしばらくの間骨を見つめたあと、魔理沙はおもむろに小さく頷いた。

「うん。なるほど」

 自分が何故今になるまでここにいたのか、ようやく分かったような気がする。
 魔理沙は小さく詠唱して魔法の結界を展開し、少女の残骸をその中に覆い隠した。本当なら布か何かに包み込みたいところなのだが、持っていないのだからしょうがない。
 結界を展開したまま、空に浮かび上がる。回収忘れがないか一応チェックした後、朝焼けの空に向かって飛び立った。
 目的地はすぐに見えてきた。里の外れに建てられた、命蓮寺だ。適当に検討をつけて敷地内に降り立ち、建物に向かって声を張り上げる。

「おうい、誰か起きてないか―? ちょっと頼みがあるんだけどー」
「うるさいなあ、もう」

 近くの障子がスッと開いて、寝ぼけ眼の少女が欠伸まじりに顔を出した。舟幽霊の村紗水蜜だ。寝癖のついた黒髪をぐしゃぐしゃと掻きながら、半眼でじろりと魔理沙を睨む。

「なに。泥棒だったらお断りですけど」
「違うって。これ、ちょっとこっちで供養してほしくてさ」

 言いつつ、中身がばらけないよう注意しながら、ここまで維持してきた結界を解く。
 乾いた音を立てながら地面に転がった人の残骸を見て、村紗は顔をしかめた。

「……ああ。とうとうやっちゃったんだ」
「待て。誰の骨だと思ってる」

 魔理沙が眉根を寄せると、村紗はきょとんと目を瞬いた。再度残骸に目を向けて、

「あれ、あの巫女のじゃないんだ」
「違うよ。なんでわたしが霊夢を殺して綺麗に肉を削ぎ落としてここに持ってこなくちゃいけないんだよ」
「みんなでトトカルチョやってるよ。いつ行動に移るだろうって」
「……そんなに嫉妬丸出しだったか、わたしは」

 魔理沙が首を傾げると、村紗は澄まし顔で人差し指を振り振り、歌うような調子で言う。

「未練たらたら舟幽霊、怨霊大好き変態火車、何でも見通すさとり妖怪」

 片目を瞑ってしたり顔で笑い、

「こんなんがたくさん周りにいるのに、恨みつらみを隠せているなんて思っちゃいけませんね、お尻の青い人間のお嬢さん?」
「肝に銘じておくよ、泥船の船長さんめ」
「そうそう。死んでも覚えてなさい」

 顔をしかめる魔理沙の前で、村紗が爽やかに笑った。

「あら、それはどちら様の?」

 不意に柔らかな声がしたので、そちらに顔を向ける。いつの間にやらやって来た聖白蓮が、少し驚いた顔で地面に置かれた人の残骸を見ていた。
 魔理沙が手短に事情を説明すると、白蓮は静かな面持ちで一つ頷いた。

「そうですか。分かりました、責任を持ってこちらで供養しましょう」
「まあ、頼むよ」
「ええ。ああ、そうだわ村紗。ちょっと、持ってきて欲しいものがあるのだけれど」

 白蓮が村紗に何やら耳打ちすると、彼女は魔理沙の方を見て意味ありげに笑い、

「分かりました、すぐ持ってきます」

 と言って、建物の奥の方へと駆けて行く。と思ったらすぐに戻ってきて、魔理沙の方に小さな紙包みを放ってよこした。手の平に収まる程度に小さいそれを受取り、魔理沙は眉をひそめる。

「なんだ、こりゃ」
「いいから受け取っておきさないよ。すぐに必要になるから」

 村紗はニヤニヤ笑いながら言う。
 訳が分からず眉根を寄せていたら、「魔理沙」と、白蓮が声をかけてきた。
 振り向くと、労わるような微笑みと共に小さく頭を下げられた。

「お疲れ様。お大事にね」
「……はあ。どういたしまして」

 一瞬何を言われているのかよく分からなかったが、魔理沙はとりあえず曖昧に頷いておいた。



 命蓮寺に少女の残骸を託した後、魔理沙は真っすぐ魔法の森の自宅へと戻った。さすがにもう、散歩という気分でも時間でもなかったのだ。
 箒から下りて入口の扉を開け、家の中に入る。いつも通り蒐集物が所狭しと積み上げられた、薄暗くて空気の籠った霧雨魔法店。後ろ手に扉を閉めて、魔理沙はほっと一息吐く。
 ふと顔を上げると、昨日出かける前と何ら変わらぬ店内の光景が目に入ってくる。
 ぼんやりとそれを見つめていたとき、突然脳裏に赤黒い映像の波が襲いかかってきた。
 大口開けて舌を垂れさせた凄絶な死に顔。素手で解体されていく少女の肉体。小さな唇が骨を這い回って肉をしゃぶり尽くす。
 喉の奥から熱いものがせり上がってくる感覚に、魔理沙は目を見開いた。慌てて口を押さえ、蒐集物の山に躓きながらあたふたとトイレに飛び込む。
 十数分ほど後、胃の中のものをあらかた出し終えて魔理沙は、げっそりとした気分で店の中に戻ってきた。
 フラフラと歩いて倒れるように椅子に座り込み、ぼんやりと天井を見上げる。自然と半開きになる口の中には、まだかすかに不快な酸味がこびりついている。
 しばらく経ってから、魔理沙はふとスカートのポケットをまさぐった。命蓮寺でもらった紙包みを取り出し、無言で開いてみる。
 中には折り畳まれた薬包紙が入っていて、「胃腸薬」というメモが添えられていた。

「……食前なのか食後なのか。そもそもこういうときに飲むもんだっけっか、これ」

 ぶつぶつ漏らしつつも粉薬を流し込み、水で飲み下す。さらにコップ一杯の水で口の中をすすぐ。
 それでようやく一息吐いたあと、魔理沙はポケットから手帳を取り出した。香霖堂でもらったボールペンを取り出し、様々なことを書きつける。
 少しの間そうしたあと、手帳をポケットにしまいこんで、魔理沙は呻くように呟いた。

「……あー、ちくしょう。情けないなあ」

 まだ少し気分が悪かったので、昼ぐらいまで眠ることにした。



 起きていつも通りに魔法の研究を進めていると、いつものように夜が来る。
 魔理沙はその日も箒に跨り、冷たく澄んだ夜空へと浮かび上がった。
 外の世界の夜は灯がなければまるで視界が利かぬほど真っ暗だという話だが、幻想郷では月の光が強いため、昼間ほどではないがそこそこ見通しが利く。
 頬を撫でる風に髪をなびかせ、博麗神社のある小山や霧の湖に建つ紅魔館など、馴染みの深い場所を視界の隅に置きながら、魔理沙はしばらく月夜の散歩を楽しんだ。
 そうして、人間の里に程近い街道の上空を差し掛かった頃、不意に眼下から物凄い悲鳴が聞こえてきた。
 嫌な予感を覚えながら下に目を向ける。一人の少年が必死に道を走っているのが見えた。ワイシャツに黒いズボンに肩掛けの鞄。遠目に見ても、外来人の格好だと分かる。

「あはははは、待て待てーっ」

 聞き覚えのある無邪気な笑い声が高らかに響く。少年の背後から、黒い球が追いかけてきていた。周囲の闇よりも一際濃い黒色の球は、間違いなくルーミアだろう。

「二日連続で好物にありつけるとはな。運のいい奴だぜ」

 ぼやくように呟きながら、魔理沙は急降下。必死に走っている少年の眼前に降りる。
 突然箒に乗った少女が目の前に現れて驚いたらしい、眼鏡をかけたその少年は、「ひょわぁっ」と妙な悲鳴を上げながら地面に尻もちをついた。

「ななな、なん、ひとっ、ほうきっ……!?」

 震える腕で魔理沙を指差して、意味の通らないぶつ切りの言葉を喚き散らしている。
 普通必死に逃げているときは声も出ないものだと思うのだが、この少年はそうでもないらしい。そう言えば、さっきの悲鳴も凄かった。

「元気な奴だぜ」

 魔理沙は箒から降りながらため息を吐き、少年に向かって一歩歩み寄る。少年はまた悲鳴を上げ、尻もちをついたまま後ずさろうとする。
 そんな滑稽な姿を無表情に見下ろしながら、魔理沙はふと前方に目をやった。ふよふよと浮かぶ闇の球が少しずつ収縮し、その中央から見慣れた金髪の少女が姿を現したところだった。
 赤いリボンを闇に揺らし、ルーミアが首を傾げて柔和に微笑む。

「あれ、魔理沙だ。こんばんはー」
「おう、こんばんは」

 震える少年を間において、二人はいつも通りののん気な挨拶を交わした。

「機嫌が良さそうだな、ルーミア」
「うん。とってもいい気分だよ」

 ルーミアは犬歯を見せて朗らかに笑う。

「だって、今日もお腹一杯食べられそうだもんね! 昨日の女の子よりは美味しくなさそうだけど、我慢することにするよ」
「だってさ。どうする、兄さん」
「ど、どうするって……!?」

 魔理沙の言葉に、少年は引きつった声を返してくる。返答自体は案外しっかりしており、貧弱そうな見かけに反して割合度胸のある方らしい。
 魔理沙は笑顔のルーミアから目を離さないまま、淡々とした口調で問いかけた。

「多分混乱しているだろうから、大事なことだけ話すぜ。あいつは人を喰う。妖怪だ。あんたはこのままじゃ、あいつに喰われる。喰われるってことは死ぬってことだ。分かるな?」

 少年は一瞬肩越しにルーミアを振り返り、笑顔の彼女と目が合うとぎょっとしてこちらに顔を戻した。状況が理解できたらしい彼に、魔理沙はまた問いかける。

「あんたが助かる道は一つだけ。何とかこの場を切り抜けて、この道の先にある人間の里に逃げ込むことだ。あそこは妖怪の偉いさんに保護されてるから、辿り着ければ安全は保障される。その後はここの住人なるなり、怠け者の巫女様に頼んで外の世界に送り返してもらうなり、好きにすればいい」
「き、君はっ」
「ん?」

 少年は汗だくの顔で魔理沙を見上げ、ゴクリと唾を飲み込んでから縋るように問いかけてくる。

「人間、なのか?」
「一応な。通りすがりの普通の魔法使いだぜ」
「ま、ほ……? い、いや、この際何でもいい!」

 少年は焦ったように体を起こし、地べたに頭を擦りつけた。

「助けてくれ、この通りだ!」

 無様にも思える少年の土下座を見て、しかし魔理沙は感心していた。
 こういったことは前にも何度かあったが、大概の者は状況を理解することすら出来ず、ただ震えるばかりだった。
 しかしこの少年は、先程の魔理沙の説明を聞いただけで大まかな状況を把握したものらしい。
 そうでなければルーミアに襲われた時点で、逃げるという行動すら取れずに喰い殺されていただろうから、当然と言えば当然なのかもしれないが。

「分かった、助ける」

 魔理沙は端的に答えて、少年を庇うように進み出た。相変わらず能天気な笑顔を浮かべているルーミアに相対し、懐から取り出したミニ八卦炉を向ける。

「そういうわけだ、ルーミア。食事の邪魔して悪いが、今日は大人しく帰ってくれ」
「えー」

 ルーミアは不満げに頬を膨らませた。

「なにさそれー。獲物の横取りは酷いよー」
「いや、喰うわけじゃないって。ともかく、この兄さんをお前に喰わせるわけにはいかん。あとでなんかかんか埋め合わせしてやるから、今日は帰ってくれよ、な?」
「やだ」
「我がままな奴だぜ」

 だが、大体予想出来ていた答えではある。
 どうするかな、と少し考えたが、選択肢が一つしかないことは分かり切っていた。
 魔理沙はため息混じりに肩を竦める。

「オーケイ、分かった。それならこうしよう」
「半分こ?」
「なんでそうなる」
「不満だったら、わたしが一、魔理沙が三ぐらいでもいいよ」
「割といい奴だなお前」

 魔理沙が呆れて言うと、ルーミアは気さくに笑った。

「気にしない気にしない。友達だもんね」
「ああそうだな、友達だな」

 魔理沙は小さく苦笑し、それから首を振る。

「だが駄目だ。そういう問題じゃないからな、これは。一かゼロか。それ以外の答えはあり得ん」
「そう? 残念だなー」
「仕方ないだろ。だからいつも通り、こいつで勝負をつけようじゃないか」

 魔理沙が懐から何枚かの札を取り出してみせると、ルーミアはニッと唇を吊り上げた。

「弾幕ごっこね。賞品はそこのお兄さん?」
「そうだな。わたしが勝ったら、この兄さんの安全を保障してもらおうか」

 チラッと肩越しに少年を見やると、息を詰め、目を見開いてこちらを見つめている。やはり、常人よりは幾分か冷静に見えた。

「じゃ、わたしが勝ったらその人のこと食べてもいいのね?」
「そうだな。いや」

 少し考えて、魔理沙は首を振った。

「駄目だ。お前が勝ったとしても、この兄さんの安全は保障してもらう」
「えー、なにそれ」

 ルーミアがまた頬を膨らませた。

「それじゃ勝負の意味がないじゃん」
「話は最後まで聞け。もしもお前が勝った場合……」

 魔理沙はミニ八卦炉を持った右手の親指で、自分を指し示した。

「……わたしのことを、喰ってもいいぞ」

 背後から、少年が息を飲む音が伝わってきた。正面のルーミアが怪訝そうに首を傾げる。

「なんでそうなるの?」
「他人の命を賭けて勝負なんて、趣味に合わないからな。別に問題ないだろ? どっちにしたって人間一人喰えるってことに変わりはない」
「そうだね。ううん、むしろ」

 ルーミアはじっと魔理沙の顔を見つめて、ペロリと唇を舐める。

「むしろ、得するね。そのお兄さんよりは、魔理沙の方がおいしそうだもん」
「そりゃ光栄だ」
「昨日は照れ隠しに変なこと言ったけどね、魔理沙の体で一番おいしそうなのはおめめだよ。ずっと食べたいと思ってたんだ、わたし」
「そうかい。そりゃ、毎度毎度我慢させて申し訳なかったな」
「いいよ、それも今日で終わりみたいだし」
「ハッ、わたしに勝てるってか? 舐めちゃあいけないな、妖怪のお嬢さんめ」

 いつものように軽口をたたき合ったあと、「ちょっと待ってろ」と言い置いて、魔理沙は後ろを向いた。
 もはや呼吸もおぼつかない様子の少年が、びくりと震えてこちらを見上げてくる。
 魔理沙は彼のそばまで歩み寄ると、小さな声で詠唱して彼の周囲に結界を展開した。
 突然闇の中に現れた薄い光の膜に、少年が目を丸くする。

「なんだ、これ」
「触るなっ」

 おそるおそる手を伸ばそうとした少年を、魔理沙は鋭く一喝する。びくっと震えて手を引っ込める彼に向かって、平坦な口調で説明する。

「妖怪避けの簡易結界だ。触れると体が焼けるぞ」
「な、なんでそんなこと」
「周りを見てみろ」

 魔理沙に言われて、少年が周囲に目を向ける。そして、雑木林の中からこちらを伺っている複数の影に気がついたらしく、引きつった悲鳴を漏らした。

「あまり力が強くない野良妖怪どもだ。あいつらぐらいなら、この結界で十分防げるだろう。これで手に負えないような大妖怪が、他人の勝負に横入りして飯を横取りするようなケチな真似するとも思えないしな」
「本当か?」
「自分の命がかかってるんで不安になるのは分かるけど、その辺はわたしの言葉を信用してくれ。そうでないと、折角あんたを助けてやろうっていうわたしの努力が無駄になる」
「……分かった、けど」

 少年は結界の中で身を縮こまらせながら、震える息を吐いて何度か首を横に振る。

「一体、何がなんなんだ。申し訳ないが、僕にはさっぱり分からない」
「まあそうだろうけど、わたしはむしろ感心してるぜ? あんたが普通の人よりはお利口さんみたいだからな」

 にっと笑う魔理沙を、少年は不思議そうに見上げた。

「君は、人間なのか?」
「ああ。さっきも言ったろ。通りすがりの普通の魔法使いだぜ」
「あれは……あの女の子は、なんだ。妖怪だって?」
「ああ。普通の人喰い妖怪だな」

 魔理沙はちらりと後ろを見る。ルーミアは待ち切れない様子でウキウキと体を揺らしながら、いつものように大きく両手を広げてふよふよと宙に浮かんでいる。
 その姿を気味悪げに見つめて、少年は余裕のない表情で頭を掻きむしる。

「魔法使いだ妖怪だ……意味が分からない」
「そうかい」

 魔理沙が素っ気なく言うと、少年は眼鏡の奥の目を鋭くして魔理沙を睨みつけた。

「大体あれが人喰い妖怪で僕を……人間を喰おうとしているのなら、なんで君は普通に話をしているんだ。なんであいつはそれに従って大人しくしてるんだ。おかしいだろう、どう考えても。全く理不尽だ、理解できない意味が分からない」

 少年はなおもぶつぶつと文句を言っていたが、やがてはっとした様子で目を見開くと、気まずそうに魔理沙に向かって頭を下げた。

「……いや、すまない。折角助けてくれようとしている人に対して、失礼だったな。許してくれ」
「別にいいよ。そうしたくなるって気持ちもよく分かるからな。むしろ普通に比べて凄く冷静だと思うぜ、あんた。何度も言うけどさ」
「そう、かな。よく分からないが」

 少年は少しの間俯いたあと、おそるおそる、

「君は……どういう手段でかは知らないが、今からあいつと戦うんだよな?」
「まあね」
「負けたら、その。本当に」
「ああ。喰われるぜ」

 頷いたあと、魔理沙は少年を安心させるように笑いかける。

「大丈夫だよ。その場合でもあんたの安全は保障される。里にはあいつが送ってってくれるだろうさ」
「信じれらないんだが」
「信じてくれ。そういう取り決めになってんだ」

 少年に言い聞かせたあと、魔理沙はからかうように笑う。

「まあ、わたしが負けた場合はわたしが喰われてから送られることになるだろうから、少し遅れるかもしれないけど。男の子なんだから、そのぐらいは我慢するんだぜ?」

 ちょっとした冗談のつもりだったが、少年はそう受け取ってくれなかったらしい。これ以上ないほど顔を歪め、息を詰めて問いかけてくる。

「自分の保身ばかり考えて申し訳ないが……向こうが約束を破る可能性は?」
「ゼロじゃあないだろうが、多分大丈夫だろう。今のところ、この取り決めが破られたことはない。あいつらだってお偉い妖怪さんたちは怖いはずだからな」
「その背景が全く理解できない」
「いいから黙って見とけって。どっちにしたって、大丈夫だよ。負けるつもりは一切ないからな」

 言い置いて前に向き直り、二歩ほど歩み寄ると、ルーミアはにっこりと笑って迎えてくれた。

「お喋りはもうお終い?」
「ああ。待たせて悪いな」
「いいよー。っていうか、あれだよね」
「なんだ」

 きょとんとする魔理沙に、ルーミアはにやけた笑みを向けてくる。

「魔理沙の好みって分かりやすいよね。眼鏡の優男」
「……言うじゃないか、マセガキめ」

 魔理沙が口の端をひくつかせながら答える。
 ルーミアはケラケラと笑った。

「ま、こっちにとっては好都合かな。眼鏡のお兄さんにいいとこ見せたいって空回った魔理沙が、致命的なミスをして楽に勝たせてくれるはずだから」
「ハッ、ルーミアのくせに随分頭が回るじゃないか。そっちこそ食意地張りすぎて初弾で落ちないように気を付けるんだな」
「そんなヘマしないもんね。あー、どうしよっかな、今日は一番美味しそうなところから食べたい気分。ね、魔理沙はどこからがいい? リクエスト聞いてあげるよ、友達だから」
「そうかい。だったら、喰われる側にとっちゃどこからでも大して変わりないってことを、そのお粗末な脳味噌に未来永劫刻んでおいてくれ」

 魔理沙が箒に跨って地を蹴ると同時に、ルーミアもまたふわりと空に浮きあがった。
 頭上の月を振り仰ぎ、二つの影が夜空を滑る。叩き落とすか喰われるか。それでも二人は楽しげに、朗々声を張り上げる。

「さて、それじゃあ始めようか。幻想郷らしくな」
「約束忘れないでよ」
「そっちもな」

 ニヤリと笑い、二人は互いに札を掲げ合う。
 そうして、いつもと変わらぬ幻想郷の夜空に、いつもと変わらぬ華麗な弾幕の華が咲いた。



 ルーミアとの勝負を終えた魔理沙は、約束通りあの眼鏡の少年を箒の後ろに乗せて、人間の里近郊まで辿り着いた。
 勘当中の身であるから、さすがに里の中までは入りづらい。入口の辺りで少年を下ろし、言う。

「ここまで来ればもう安全だ。あとは里長やら守護者の慧音先生辺りにでも話を聞いて、今後の身の振り方を考えてみてくれ」
「……ありがとう」

 礼を言いつつも、少年は何やら納得がいかなそうな表情をしていた。
 どうしたのだろう、と魔理沙が不思議に思っていると、彼はおもむろに口を開いた。

「どうも、よく分からないんだが」
「ああ。何が?」
「君はさっき、あの……妖怪、と、僕の身の安全を保障するために戦ってくれたんだよな?」
「まあ、そうなるか」

 魔理沙はちらりと後方を見やる。さっきルーミアと勝負した場所とは、もうかなり離れていた。
 ここに五体無事で立っているから当然だが、勝負は魔理沙の圧勝だった。元々、ルーミアは弾幕ごっこがあまり強い方ではない。彼女が言った通り魔理沙が致命的なミスでも犯さない限り、負けることはまずなかったと言ってもいいだろう。
 負けて地に落ちたルーミアはスカートの裾を払い、「あー、負けたー」と残念がりながら、惜しむような目で魔理沙を見つめたものだ。

「ね、魔理沙」
「なんだ」
「わたし本当に楽しみだったんだ。魔理沙を食べるの」
「そうか。そりゃ残念だったな」
「だからさ。もし良かったらでいいんだけど」

 ルーミアはちらっと上目遣いで魔理沙を見て、

「残念賞に、味見ぐらいはしてもいい?」
「いいぞ」

 魔理沙はあっさりと頷き、何をどうしていいものだかよく分からなかったが、とりあえず手を差し出してみた。
 背後で少年が「うわっ」と声を漏らす前で、ルーミアは嬉しそうに魔理沙の手を取る。
 そして、人差し指に唇を寄せて、ちゅうちゅうと音を立ててしゃぶり始めた。温かく柔らかな舌が指の表面を這い回る感触はなんともこそばゆく、つい笑いを漏らしそうになる。しかし、同じ舌と唇が昨日人間の肉を貪るのに使われていたことを思えば、別の意味でかすかに背筋が震えるのだった。
 五分ほどそうしていて少しは満足できたらしく、ルーミアは唇を離した。口の端から涎を垂らしながら、どことなく恍惚とした顔でぼんやりしている。魔理沙は苦笑して相手の顔を指さし、

「涎拭けよ。なんかやらしいぞ」
「あい」

 ルーミアは服の袖でゴシゴシと口元を拭い、はにかむように笑った。

「やっぱり魔理沙は美味しそうだね。霊夢とはまた違った味がする」
「霊夢にもやったのかこれ。よくぶっ飛ばされなかったな」
「結構優しかったよ、霊夢」
「霊夢が……やさ……しい? 頭大丈夫か、お前」

 顔をしかめる魔理沙の前で、ルーミアがケラケラと笑う。

「今日はわたしの負けだね、魔理沙。約束通り、そのお兄さんは渡してあげる」
「おう。ありがとうよ」
「後でどんな味だったか教えてね」
「だから喰うんじゃないっての」
「ふうん。勿体ないことするね」

 ルーミアは不思議そうに目を瞬いたあと、ふと思いついたように手を打って、

「あ、そうだ。今度の宴会っていつやるの?」
「あ? ……そうだな、そろそろ提案してみるかね。なんだ、お前またたかりにくるつもりかよ」
「もっちろん。メイドのデザートも庭師の料理も人形遣いのお菓子も食べ放題だもんね。これを逃す手はないよ」
「タダ飯喰らいとはいいご身分だな。たまにはなんか持ってこいよ」
「んー、じゃあ燻製にした人間の肉とか」
「やっぱいい。持ってくるな……いや、妖怪連中には案外好評の可能性もあるか……?」

 そんな風に少しの間お喋りをした後、ルーミアは昨日と同じく手を振って夜空に飛んで行った。
 それで魔理沙は少年の周囲に張っていた結界を解き、彼を箒の後ろに乗せてここまで飛んできたのである。

「何が、なんだか」
「ん? なんだ?」

 回想を中断して振り返ると、眼鏡の少年がこめかみに指を当てて悩んでいた。

「ひょっとして僕は、君たちに担がれていたのか?」
「担がれる? 何が?」
「よく分からないが、あの女の子と君とは友達同士だったんだろう? だったら、喰うだの喰われるだのも僕を驚かすための嘘で」
「いや、嘘じゃないよ」

 魔理沙は答え、腕組みしながら言う。

「そうだな。もしもあそこで負けてたら、わたしは全身の皮という皮をベリベリ剥がされずるずる腸を引きずり出されて、肉片一つ残らず綺麗さっぱり頂かれてただろうな。友達だからってんで早目に殺してくれりゃ、苦しんだり悲鳴を上げたりすることはなかったかもしれないが」
「何故そんなに具体的なんだ」
「昨日あいつが人喰ってるとこ見たばっかりだからなあ。普段ならここまでスラスラとは言えないかもしれない」

 昨日の情景を思い出しながら言う。少年はますます眉間に皺を寄せて、

「……君はそこまで分かってて、あんな約束をしたのか?」
「ああ。そうだけど?」
「僕を助けてくれるにしても……逃げるとか、そういう選択肢はなかったのか?」
「出来なくはなかっただろうけどな。それじゃルーミアに失礼だろ」
「面倒臭い取り決めなんかせずに、普通に撃退したりとかは?」
「んー……ルーミア相手なら出来なくもない、のか? でもそれじゃやっぱり、ルーミアに悪いだろ」
「いや、悪いって。殺されるんだぞ、喰われるんだぞ?」
「だからさっきからそう言ってるじゃないか」

 何言ってんだ、と呆れて少年を見ると、彼はもどかしそうにつま先で地面をほじくったり、ため息を吐きながらガリガリと頭を掻いたりした。

「分からない。さっぱり分からない。さっきの……その、味見? の件にしても。あのまま喰われるとは思わなかったのか?」
「残念賞に味見だけって言ってたしな。仮に喰われたとしても、それは手を差し出したわたしの責任だろ。なら、しょうがないんじゃないだろうか」

 少年はなおも納得出来ない様子で唸り続けていたが、やがて諦めたように盛大に息を吐き出した。

「分かった。納得できないということに納得したよ」
「そりゃいいことだな」
「……しつこいようだけれど」

 少年は眼鏡の奥の目を疑わしそうに細め、

「嘘や冗談ではなかったんだな? 彼女が妖怪だとか人喰いだとか……いや、君らが平気で空を飛んでいる時点で、普通の人間とは違うってことぐらいは分かるんだが」
「嘘じゃないよ。何もかも本当だ。この霧雨魔理沙さんは幻想郷一の正直者で通ってるんだぜ? 信用してくれよ」

 そう言い切ったあと、魔理沙はふと思いついて意地悪く笑った。

「そんなに疑うんだったら、今からあんたを適当な妖怪の巣にでも放り込んでやろうか? わたしが言っていることが嘘かどうかはすぐに分かるぜ」
「いや、遠慮しておくよ」

 少年が慌てて手を振ったので、「冗談だよ、冗談」と魔理沙は笑った。

「まあ、なんだ。そんなに気になるのなら、明日の朝になったら里の誰かにいろいろ聞いてみるんだな。そしたら今夜のあんたがいかに幸運だったか分かるだろうさ」
「……そうすることにするよ。ああ、最後にもう一つ聞かせてくれ」

 少年は目に複雑な色を浮かべて魔理沙を見つめ、

「君は、どうして見ず知らずの僕を助けてくれたんだ?」
「いや、だって。助けてくれって言ったのはあんただろ」
「そうだけど。優先度で言えば、友人であるあの女の子の願いを聞き届けるのが当然だったんじゃないか」
「ふうむ」

 魔理沙は顎に手をやって少し考える。
 どうも、自分たちの関係は奇妙奇天烈なものに思われているらしい。
 冷静に考えてみれば、分からなくもないことではあるが。

「……まず始めに断っておくと」

 魔理沙は誤魔化すように咳ばらいをし、若干目をそらしながら、

「あんたを助けたのは、その、なんだ。別に、あんたが割合知的で嫌味ったらしい感じの眼鏡男子だったこととは、あまり関係がない。そこはいいか?」
「……はあ?」
「ともかく納得してくれ。別にあんたが眼鏡をかけてなくても助けてたさ。本当に重要なのはそこじゃ……いやいや」

 どうも話がそれ気味だな、と魔理沙は頭を掻いた。
 気を取り直し、指を立てて説明する。

「あんたを助けたのは、まず一つとして、巻き込まれたあんたが忍びなかったからだ」
「巻き込まれた?」
「ああ。そういう風習があるとは言え、どうも外来人が喰われるってのは微妙に納得がいかないんだよ」

 闇の中に浮かぶ里の灯りを見据えながら、魔理沙は言う。

「妖怪との関わりってのはな、今となっては幻想郷に住む人間だけが持っていいものなんだ。それが喰ったり喰われたり、ってことだったとしてもな。わたしはごく個人的にそういう思想を持っているんで、あんたがルーミアに喰われるってのは何となく割が合わない話に感じるんだ。分かるか?」
「さっぱり」
「じゃあ根本的に理解できないものだと思って聞き流してくれ」
「そんな理不尽な」
「見知らぬ土地の風習なんて大概理不尽に感じるものだろ。それでだな、あと一つの理由は」

 魔理沙はじっと彼の顔を見つめながら言う。

「わたしが、人間だからだ」
「ああ」

 少年は頷き、沈黙する。
 それから数秒ほども見つめあったあと、彼はふと気がついたように、

「って、それで終わりか?」
「ああ。なんだ、これ以上説明が必要なのか?」

 魔理沙が眉をひそめると、少年は顔をしかめて首を傾げ、

「正直に言って、ますます訳が分からなくなった」
「なんだ。知的かと思ってたらあんまりオツムがよろしくないんだな、兄さん」
「その言い草は全く以って理不尽だと思うよ」

 少年は腕を組み、苛々したように指で何度も眼鏡を押し上げながら、

「君は人間で、助けを求めた僕を助けたが、実際あの人喰いの妖怪とは友達で、一緒に宴会をしたり遊んだりお喋りをしたりする仲だ。でもあの子が人を喰っているところは見たことがあるし、自分のことを喰いたがっていることも知っている。にも関わらず彼女に『勝ったら喰ってもいい』なんてふざけた約束をしたり、味見をさせてくれと言われて快諾したり。その上今度また遊ぼうという約束をしたり……」

 そこでふと気がついたように顔を上げ、

「ひょっとして、君はあれか。彼女に喰われても別段構わないと思っているのか? そのぐらい深い仲で」
「んなわけないだろ」

 魔理沙は気色悪く思って顔をしかめ、

「あいつとは友達のつもりではあるが、そこまで深い仲じゃない。大体わたしたちは女同士で、わたしにそういう趣味はないからな。わたしの好みは眼鏡……いやいや」

 ごほごほとわざとらしく咳ばらいをし、魔理沙は再び少年を見る。

「それと、もう一つ」
「なんだ」
「わたしは妖怪に喰われても構わないなんて思ったことは、今の今まで一度もない」

 魔理沙が断言すると、少年はとうとう本当の本当に観念した様子で特大のため息を吐き、

「霧雨魔理沙さん、といったかな」
「ああ。そうだが」
「君の言っていることは、矛盾だらけだ」
「……そうか?」

 魔理沙は腕組みをして首を傾げ、さっき少年に言われたことなどを反芻してみる。
 そして数秒ほど考え、納得して頷く。

「言われてみれば、そうだな」
「……そうか。よく分かったよ。つまりまともに会話するつもりがないんだな、君は」
「そういうつもりは全くないぞ」
「いや、もういい。君と会話していると頭がおかしくなりそうだ」
「そうか。そうなったら永遠亭ってところのお医者さんに診てもらうこったな。財政難らしいから喜ばれると思うぜ」
「ああそうかい。よく覚えておくよ」

 皮肉っぽい口調で言って踵を返し、少年は里の中へ向かって歩いていく。
 だが足を踏み入れる直前でふと振り返り、また早足にこちらに戻ってきた。
 なんだなんだと眉をひそめる魔理沙の前で、少年は礼儀正しく頭を下げる。

「助けてくれてありがとう。そこのところには本当に感謝している。君がしてくれたことは一生忘れないだろう。君はそのことを忘れず、自分がなしたことを誇りに思ってくれてもいいし、取るに足らぬことだと言って忘れてくれてもいい」
「ああ。そうか」
「だが」

 と、少年は顔を上げて睨むように魔理沙を見つめ、

「君の考えを非常に理不尽で矛盾だらけでおかしいものだと思っている、ということもはっきりと伝えておく。このことも忘れないでくれ」
「……ああ。そうか」
「それじゃあ。本当にありがとう、助かったよ」

 少年は魔理沙に背を向け、今度こそ人里の中へと入っていく。
 彼を見送り終えた後、魔理沙はぼりぼりと頭を掻いて呟いた。

「変な奴だなあ」

 だからこそこんな場所に迷い込んだのかもしれない。案外、彼なら理不尽だ理不尽だと文句を言いつつもここに残ることを選ぶのではないかとも思えた。
 だが、それは魔理沙には関係のないことだった。この先彼がどういう人生を歩んでいくのだとしても、あの様子では今後彼と道が交わることはないだろう。

「……矛盾だらけ、か」

 明るく輝く月を振り仰ぎ、魔理沙はぽつりと呟く。ポケットから手帳とボールペンを取り出し、今日のことを含めて、様々なことを書きつけた。
 そうして出来あがった今日の分のメモと、昨日取ったメモやそれ以前からのメモなどを何度か見返し、しばしの間その場で沈思黙考する。
 昨日ルーミアが人を喰っているのを見たときから、何か胸の内で揺れているものがあるような気がしていた。

「気になることは追究すべし、だな」

 魔法使いらしく呟き、手帳とペンをしまいこむと、魔理沙は気が進まないながらも里の中へと足を踏み入れた。



 妖怪向けに終夜営業している酒屋から出てきたとき、魔理沙は自分のことを幸運だと思った。
 すぐ目の前の道を騒ぎながら歩いていく妖怪の集団の中に、見知った顔を見つけたからである。

「おうい。そこ行くリグ坊、リグ坊やい」
「あれ、魔理沙だ」

 緑の髪の蟲妖怪が、触角を揺らしながらこちらに駆けよってきた。

「珍しいね、里の中で会うなんて」
「ああ。ちょっと用事があってな。お前は?」
「蟲妖怪の集まり。いろいろ付き合いがあんの。なんたっておーさまですからね」

 えへん、と胸を張るリグルに、「そうか、偉いなお前」と目を細めたあと、魔理沙はおもむろに問いかける。

「ところで、聞きたいんだが」
「え、なに?」
「ルーミアの寝床、どこだか知ってるか?」

 魔理沙が真剣な声で問いかけると、リグルはきょとんとして目を瞬いた。



 一度家に戻って準備してから教えられた場所に行ってみると、大きな木の陰に小さなあばら家があった。リグルは最初こそ渋っていたが、酒屋で買ったつまみの菓子を渡したら快く教えてくれた。正直どうかと思う。

「可愛い女の子が住んでるとは思えない場所だな、全く」

 魔理沙は顔をしかめながら、木の扉に手をかける。鍵はかかっていなかった。「不用心な奴め。変態男に狙われたらどうするんだ」とぶつくさ文句を言いながら、家の中に侵入する。
 中は一階建ての一部屋で、家具らしきものはほとんど置かれていなかった。床にはゴミだかガラクタだかよく分からぬものが散らばっていて、魔理沙の家に勝るとも劣らぬ散らかりぶりである。ふと部屋の片隅を見ると、見覚えのある黒いツーピースや白いブラウスなどが何着も脱ぎ散らかしてあって、「同じデザインの服を何着も着回してたのか」と魔理沙は変に驚愕した。
 部屋の奥には小さなベッドがあった。シーツが小さく上下して、寝息が漏れてきている。
 無言で近づきシーツを引っぺがしてみると、ちょっと大きな枕を抱きしめて、ルーミアが幸せそうな顔で寝息を立てていた。涎を垂らして枕を噛み、

「えへへ、もう食べられなーい……」
「ありがちな寝言ほざいてんじゃないよ」

 ちょっと腹が立ったので、魔理沙は軽くルーミアの頭を叩いた。
 ルーミアは吃驚したように飛び起きて周囲を見回し、

「え、なに、なに……あれ、魔理沙だ」
「よう、こんばんは」
「……こんばんは」

 小さく欠伸をして、ルーミアはしょぼしょぼする目を擦る。

「どうしたの、魔理沙。なんか用。なんでわたしのおうち知ってんの?」
「それを聞くなら友達は選ぶべきだぜ、お前」
「そうだね。ドブネズミみたいな魔法使いと付き合ってたら品位が落ちるよね」
「お前の口から品位なんて言葉を聞く日が来るとは思わなかったな。それにしても」

 ルーミアはベッドの上にぺたんと座って、ぼんやりと魔理沙を見つめている。服装はもちろんいつもの服ではなくて、肌着一枚きりだった。少々子供っぽいが割合品のいいデザインの、白いネグリジェである。どこで手に入れたんだろうというのが少し疑問だったが、それ以上に注目すべき点が一つ。

「……案外むっちりしてんだなお前。もっと痩せっぽちかと思ってたぜ」
「え? ……やだ」

 ルーミアは頬を赤らめ、シーツを手で引っ張って、意外なほど肉付きのいい太股を恥ずかしそうに隠した。
 赤い顔のままちらちらと魔理沙を見たり目をそらしたりしながら、

「魔理沙ってば、そういうつもりだったんだ。わたしの体が目当てだったのね?」
「どこでそういう言葉を覚えてくるのかねこの子は」
「あいたっ」

 軽く叩いてやると、ルーミアは手で頭を押さえる。その姿を見下ろしながら、魔理沙は小さくため息を吐いた。

「大体、体が目当てなのはそっちの方じゃないのか?」
「ん? あー、まあ、そうだね」

 ルーミアは悪戯っぽく笑いながら、ちろりと唇を舐める。
 魔理沙の体の隅々まで視線を這わせながら、

「なに。もしかして、食べさせてくれるの?」
「ああ。いいぞ」
「へ?」

 あっさり言って左の袖をまくって腕を差し出してくる魔理沙に、ルーミアは目を丸くする。
 そのまま動く気配がないので、魔理沙は眉をひそめた。

「なんだ。食べたいんじゃなかったのか、お前」
「え。だって、いいの?」
「いいよ。その代わり、ここんところだけな」

 魔理沙は左腕の一部、肘から程近い辺りの肉を右手でつまんで見せる。

「ここの部分なら喰ってもいい。そこ以外のところを喰ったら零距離マスタースパークで頭を飛ばす。いいな?」
「いいな? って言われても……え、よく分かんないんだけど」

 戸惑うルーミアに、魔理沙は意地悪く笑う。

「あ、そう。じゃあ喰わなくていいんだな」
「えっ」
「残念だなー。可愛い人喰い妖怪のルーミアちゃんは、折角御馳走を食べるチャンスがあったのに、間抜けにも見逃してしまいましたとさ。めでたしめでたし」
「だめぇっ!」

 魔理沙が腕を引っ込めようとすると、ルーミアが慌ててしがみついてきた。魔理沙は危うく転びそうになる。

「お、おい、慌てるな。冗談だって、ちゃんと喰わせてやるから」
「うー……ホント?」

 ルーミアは疑るように魔理沙を見上げる。

「歯を立てた瞬間マスタースパーク! とか、嫌だよ?」
「しないよそんな酷いこと。なんでそう考えるんだ?」
「昔似たようなことやられたもん。地面に散らばってる人肉に手を伸ばしたら、バチンとトラバサミが。しかも聖水噴射装置と御札発射機構のオマケつきで」
「人間ってなんでもやるんだなあ」

 感心して頷いたあと、魔理沙は安心させるように笑った。

「でも大丈夫だ、そんなことはしない。お前がここんとこだけ食べるって約束を守るんなら、わたしも約束を守る」
「本当に本当?」
「信じろよ。友達だろ」
「まあそうだけど」

 ルーミアはようやく納得したらしく、おとなしく魔理沙の腕から手を離してベッドの上に戻った。
 魔理沙もまた姿勢を正し、自分の左腕を厳かに差し出す。

「よし。じゃあ召し上がれ、だぜ」
「うん。いただきます」

 ルーミアは行儀よく手を合わせたあと、苦笑いを浮かべた。

「なんか、変な感じだね」
「分からんでもないが、まあ気にするな」
「うん。それじゃあ……」

 ルーミアは差し出された腕をつかむと、おそるおそると言った感じに唇を寄せた。

「ん、ぅ……」

 妙に艶めかしい声を漏らしながら、頬を上気させ目を潤ませて、魔理沙の腕の表面を丹念に舐め始める。
 魔理沙はゴクリと唾を飲み干し、息を詰めてその瞬間を待ったが、ルーミアはなかなか歯を立てようとしなかった。ただ湿っぽい水音を立てて魔理沙の肌を舐め続け、時折何やら悩ましげな吐息を零している。
 魔理沙は最初こそ我慢していたが、その内耐えられなくなってきた。

「おい。ルーミア」

 水音。

「ルーミアってば」

 吐息。

「聞けって」

 肌がふやける。

「聞けっつーの!」
「あいたぁっ!?」

 右手で殴ったら、ルーミアは悲鳴を上げてベッドの上を転がった。
 それを見ながら、魔理沙はニヒルに笑う。

「フフ……強化魔法込みの拳は、痛かろう!」
「痛いに決まってんじゃん!」

 ルーミアは頭を押さえて涙目で起き上がった。

「いきなり何すんの、魔理沙! やっぱり罠だったんじゃない!」
「罠じゃないっつーの! そっちこそ何すんだ、散々焦らしやがって」
「え、焦らすって……あ、ああー……」

 ルーミアは何故魔理沙が怒っているのかようやく気がついたらしく、気まずげに目をそらした。
 少しの間視線を泳がせたあと、ぎこちなくも可愛らしく笑って首を傾げながら、

「えっと、その」
「ああ」
「……わたしってば、テクニシャン?」
「帰る」
「ああ、待って!」

 踵を返して歩き出そうとした魔理沙の背に、ルーミアが必死でしがみついた。

「ごめん魔理沙、でもだって、なんか勿体なかったんだもん。食べる前にほら、毛穴の一つ一つまでしゃぶって味わい尽くしたかったっていうか!」
「ええい離せ、そもそもわたしの柔肌に毛穴なんて汚らわしいものはない」
「……魔理沙って意外と可愛こぶってるよね。男に媚び売るタイプ?」
「帰る」
「だから待ってってば! 大丈夫、今度は一息でやるから! 今一度、今一度チャンスを下され!」

 必死に縋りつくルーミアに、魔理沙はため息を吐いて振り返った。

「本当だな?」
「本当、本当。ガブリといくよ、いっちゃうよ」

 ルーミアが真剣な顔で何度も頷いたので、魔理沙は一応納得してやることにした。
 ぞんざいに腕を差し出して、

「ほれ。三秒で行け」
「えっ、は、はやっ」
「はい、いーち、にーぃ……」
「いただきます!」

 ルーミアは無我夢中で噛みついてきた。生温かさ、湿っぽさ、肌に歯の当たる硬い感触。
 次いで、ぶちりと肉を噛み千切られる激痛が襲ってきた。

「……ぐっ」

 ある程度覚悟していたとはいえ、魔理沙は顔を歪めずにはいられなかった。
 ダラダラと血が流れ落ちるその部位を、軽く手で押さえる。額に脂汗が浮くのを感じながらそこを見ると、見事に肉が食いちぎられていた。約束はちゃんと守ったらしく、指定した場所以外にはもちろん傷はない。
 そう言えばルーミアはどうしたのか、と思ってベッドを見ると、幸せそうな顔でむちゃむちゃと魔理沙の腕の肉を咀嚼しているところだった。涎を垂らし目に涙を浮かべ、至福の表情である。
 その顔を見て自分の背筋に怖気が走るのを確認しながら、魔理沙は大きく息を吐く。ベッドの縁に腰かけながら、肩にぶら下げてきた鞄を置き、中を漁って包帯や褐色の瓶などをいくつか取りだした。

「……んぁ。魔理沙、それ、なに?」
「ああ、これか」

 ぼんやりした声で問いかけてくるルーミアに、魔理沙は顔をしかめながら答える。

「包帯やら薬やら……まあ、要するに治療用具だな。すぐに措置しないと、何がどうなるか分かったもんじゃない」
「ふうん。人間って不便だね」

 くちゃくちゃと肉を噛みながら、ルーミアが首を傾げる。美味そうに喰いやがって、と苦笑しながら、魔理沙は慣れた手つきで治療を始めた。
 自分から喰わせるのは初めてだったとは言え、まがりなりにも妖怪退治なんて稼業をやっているぐらいだ。これよりも大きな怪我を負ったことだって、一度や二度ではない。そのたび魔法の研究が遅れては困るからと、強い薬を使って無理矢理速やかに傷を治してきたのだ。
 ちなみに同じく妖怪退治稼業を営んでいるはずの博麗霊夢の方は、少なくともその仕事において魔理沙ほどの大怪我を負ったことはない。その事実が、魔理沙にとっては少々腹立たしくもあった。
 ともかく、治療は迅速だった。消毒して止血を終えた後包帯を巻き、特製の魔法薬を口に流し込む。とんでもなく苦いが、そこのところは我慢の一手。これで、明日には腕は元通りになっているはずだ。

「腕の怪我なのに飲み薬なんだね」
「そういう薬なんだ。一時間ぐらいすると物凄く眠くなるのが欠点だが」
「え、ここで寝てくの?」
「お前が送ってってくれよ。わたしの家の場所は知ってるだろ」
「えー、面倒臭い」
「割に合わないか?」

 魔理沙が問いかけると、ルーミアは少し口をもごもご動かして肉を味わった後、にっこり微笑んだ。

「お釣りがくるぐらいだね」
「なら、頼む。お釣りの分はサービスにしといてやるよ」
「あいよ、分かりやした、旦那」

 真面目くさった顔つきで敬礼したあと、ルーミアはようやく、魔理沙の肉を飲み下したらしかった。

「あー、あ」

 名残惜しそうに自分の腹を撫でたあと、上目づかいにちらちらと魔理沙を見る。
 包帯を巻き終わった彼女に甘えるように寄り添ってきて、

「ねぇ、魔理沙ぁ……」
「もう駄目だぞ」
「えー、そんなぁ」

 不満げに唇を尖らせ、ルーミアは媚びるような笑みを浮かべる。

「ね、ね。このぐらい、ちょびっとでいいから」
「駄目だ。あんまり喰わせると味を占めるからな」
「そんなこと言わずに。さきっちょだけ、ほんのさきっちょだけでいいから」
「何を訳の分からんことを言ってんだ。ともかく、あれっきりだ。我慢しとけ」
「ぶー」
「可愛こぶったって駄目だかんな」

 不満げに頬を膨らませるルーミアの隣、ベッドの縁に腰かけたまま、魔理沙はポケットから手帳とボールペンを取りだした。

「……恐怖、嫌悪感……仮説は否定……」

 ブツブツと呟きながら、先程のことを中心にメモを書きつける。
 ルーミアはそんな魔理沙の様子を怪訝そうに見つめたあと、ふと首を傾げた。

「ねえ、魔理沙」
「……そうなると、やっぱりまだ割と普通の……あ、なんだ? ルーミア」
「ん。えーとね」

 魔理沙の腕の包帯を見て、不思議そうに目を瞬きながら、

「麻酔とか、かけてなかったんだね」
「へえ。意外に物を知ってるな」

 魔理沙は感心したあと、笑って首を振った。

「そりゃ、そんなん使ってないさ。よく分からんが、そういうのがかかってると味が落ちるかもしれないだろ」
「わ。なんか親切」
「フフン、お前ならよく知ってるだろ。この魔理沙さんは、幻想郷一の世話焼きさんで通ってるんだぜ」
「幻想郷一の世話焼かれさんのことだったらよく知ってるよ」
「ふうん。困った奴がいるもんだな」

 気のない口調で答えたあと、魔理沙は吐息混じりに手帳を閉じる。
 それをポケットにしまっていると、ルーミアが狐につままれたような顔で首を傾げた。

「……違ったんだね」
「ん、何が?」

 魔理沙が目を瞬くと、ルーミアはどことなく大人っぽい仕草で髪を掻き上げながら、じっと魔理沙を見つめてきた。

「てっきり、今日わたしの獲物を奪ったお詫びに、自分の肉を差し出しに来たのかと思ってたんだけど」
「お詫びだ? 馬鹿なこと言うなよ」

 魔理沙は鼻を鳴らす。

「お前は妖怪として人間を喰おうとしただけだし、わたしは人間として人間を助けただけだ。誰か、謝らなきゃならないことをしたか?」
「……してないね」
「だろ。だから別に、あのこととは関係ないよ」

 魔理沙がそう言うと、ルーミアはますます不思議そうに首を傾げ、

「じゃあ、結局、なんだったの?」
「ん。ああ、まあ……ちょっとした実験だな」
「実験?」
「そう」

 頷き、魔理沙は説明を始める。

「昨日今日と、いろいろと考えさせられることが多かったからな。試しに来たんだよ」
「だから、何をさ」
「わたしが頭のおかしい人間かどうかだ」
「そんなの分かり切ってるじゃん」
「ああ。至極真っ当で普通な人間だったぜ」
「えー」

 顔をしかめるルーミアに、魔理沙はにやりと笑う。

「納得できないようだがな。わたしは案外普通らしいぜ」
「らしいって?」
「だって、さっきお前に喰われたとき、怖かったもんな」
「……そうなの?」

 ルーミアは意外そうに魔理沙を見つめた。

「じゃあ、なんでわたしにお肉を食べさせてくれたの?」
「だから、それで自分がどう感じるか確かめるつもりだったんだよ」
「どう、って?」
「お前らに喰われても構わないと思えるかどうか、だ」

 魔理沙は肩を竦める。

「結果はまあ、予想通りだがな。喰われても構わないなんて、イカれた人間の発想だぜ。喰われるのは痛いし怖い。わたしはまだ普通だ」

 内心ではため息を吐きたい気持ちだった。
 あの外来人の少年の反応からして、もしかしたら自分は旧い人から見れば明らかにおかしな感覚を当たり前だと思う、新たな人類に生まれ変われたのではないか、と、ほんの少しだけ期待していたから。

(ま、そうそう上手くいくわけもなし、か。やっぱりわたし一代じゃ難しいかもしれんな)

 そんな風に残念がる魔理沙の前で、ルーミアは腕を組んで首を傾げる。

「そういうのって、自分で分からないものなの?」
「意外とな。大丈夫だと思ってたことが、実際そういう場面に遭遇すると予想以上に怖かったり。逆に思っていたほど怖くなかったり。そういうことがよくあるんだよ。少なくとも、人間にはな」
「で、わたしに喰われるのは怖かったって?」
「そう。やっぱ怖いな、人喰い妖怪って。嫌だな、喰われるのって。『妖怪と接していると普通の人間はその内喰われてもいいと感じるようになるのではないか』というわたしの仮説は否定されたらしいぜ」
「ふうん。そうなんだ、残念」
「何が?」

 魔理沙が眉をひそめると、ルーミアはぺろりと指先を舐めた。

「魔理沙がわたしのこと怖くないって言うんだったらさ。これから夜通し、たっぷり愛情込めて食べてあげようと思ったのに」

 誘うような視線が自分の体を滑るのを感じながら、魔理沙は小さく微笑む。

「へえ。そりゃ、ちょっと残念だったな」
「そう思ってくれる?」
「ああ。これでもわたし、お前のことちょっとは好きなつもりだぜ? 金髪が柔らかそうだし、脳味噌空っぽみたいな底抜けに馬鹿っぽい笑顔がかわいいからさ……愛してるぜ、ルーミア……」
「いやん、ばかん……」

 恥じるように体をくねらせながら、そっと身を寄せてくる。
 華奢な腰に手を回して、魔理沙はルーミアを抱き寄せた。

「ルーミア……」
「魔理沙……」

 濃密な宵闇の中でじっと見つめ合う。
 うっとりとした声音で呼び合いながら、二人は少しずつ顔を近づけ……

「……とまあ、これが上手くいくパターンの一つだろうな」
「ふぎゃっ」

 魔理沙が唐突に腕を離したので、抱き寄せられていたルーミアは勢い良い余って相手の膝の上に倒れ込んだ。

「おいおい膝枕を御所望か。甘えん坊だなルーミアちゃんは」
「いや、違う……あ、でもなんか割と落ち着くこの姿勢。新発見」
「ほれ見ろ、自分じゃ分からんこともあるぜ」
「うん……ね、しばらくこうしててもいい?」
「わたしの腿の肉を喰わないんならな」
「難しい注文だね」

 小さく唸りつつも、ルーミアは魔理沙の腿を枕にして体を丸める。
 彼女の柔らかな金髪を梳くように撫でてやりながら、魔理沙はまどろむような口調で語りかけた。

「……つまりな、お互いに愛情を持っていれば、喰った喰われたって関係もさほど殺伐としない可能性があるんだ」
「そうかな」
「想像に過ぎないがな。ただ、喰って相手を失うことと、喰われて相手を失うことを許容出来る程深い愛情と思いやりがあれば、案外穏やかにそういう関係を始めて終わらせられるんではなかろうか、と想像してはいる。問題は……」
「問題は?」
「周囲の人間が黙っちゃいない場合も多いだろうってことと、その境地に辿り着けるような変態はごく少数だろう、ってことだ」

 魔理沙が肩を竦めると、膝の上のルーミアがおかしそうにクスクスと笑った。

「そりゃそうだよ。そんな変な連中見たことも聞いたこともないもん」
「だが、あと百年もすりゃ、そう珍しいもんでもなくなるかもしれないぜ?」
「どうして?」

 不思議そうに呟くルーミアに、魔理沙は肩を竦める。

「今の時代がそういう方向に向かって動いているからさ」
「時代?」
「そう、時代。歴史の流れってやつだな。考えてもみろ」

 魔理沙は指を立てて気だるげに説明する。

「……長い平穏というぬるま湯のような空気に沈んでいた幻想郷に、吸血鬼異変という大事件は強い衝撃をもたらした。それがきっかけで生み出されたスペルカードルールは、単純に戦闘力の向上維持という役割だけを果たすものじゃあない。人間と妖怪、妖怪と妖怪の交流を促進させるものだ。お前だって、弾幕ごっこを通じて知り合った奴は多いんじゃないのか?」
「んー、まあね。人間は魔理沙や霊夢ぐらいのもんだけど」
「だろ。少しでも交流があるのと全くないのとじゃ、大違いだ。わたしはな、ルーミア。スペルカードルールって奴は、わたしのような何の変哲もない凡人に、ある一つの生き方をもたらしてくれたものだと思っているんだ」
「生き方って?」
「お前らとよろしくやってくって生き方さ」

 そう言って、魔理沙はにへらと笑う。

「考えてもみろ。こいつが生まれる以前は、誰だって考えもしなかっただろうさ。人間と妖怪が喰った喰われた以外の価値観で砲火を交えて、戦い終わったあともヘラヘラ笑いながら酒飲んだり飯食ったりしてるだなんてさ。自由という名の不自由って言葉を知ってるか? そういう取り決めがないってことは、そういうやり方が出来るってこと自体が分からないってことでもあるんだよ。既存の価値観や風習に囚われる平凡な輩にとっては、特にな。考えても思いつけないのさ。お前らと上手くやってくためのやり方って奴がな」
「スペルカードがその『やり方』になるってこと?」
「少なくとも、きっかけにはなるだろうな。将来的には、もっといいやり方が生み出されるはずだ」
「ふうん。でもさあ、魔理沙」

 ルーミアが馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「それって、わたしたちがルールを破っちゃったらもうお終いじゃない? たとえばわたしみたいな食いしん坊が、我慢できずに魔理沙をガブリとやっちゃったらさ……それで、ゲームオーバー。やっぱり人間と妖怪が上手くやれるはずがないんだって言って、みんなまた元に戻っちゃうって思わない?」

 問いかけながら、ルーミアがガバリと顎を開いた。妖しく瞳を光らせながら、ゆっくりと魔理沙の腿に向かって顔を近づける。
 魔理沙はそれを止めるでもなくただじっと見つめながら、一言。

「そうは思わないね」

 ルーミアがぴたりと動きを止めた。ちょっと不思議そうに、魔理沙の顔を見上げる。

「どうして?」
「わたしが凡人だからさ」

 魔理沙はあっさりとそう答える。ルーミアが首を傾げた。

「よく分かんないんだけど」
「言った通りだよ。わたしという凡人がここにこうしているという事実自体が、わたしの仮説が正しいってことの何よりの証明なんだ」

 魔理沙は面白がるように笑いながら、ルーミアの顔を覗き込む。

「いいか、ルーミア。仮にお前が言った通りになったとしよう。わたしがいつの日かヘマをやらかして、お前らを怒らせたり入り込んじゃいけない領域に入っちゃったりして、ガブリとやられたりグサリと刺されたりして、ちくしょうちくしょうこんな生き方しなけりゃ良かったって泣き喚いて後悔まみれになりながら、馬鹿で間抜けな人生を終えたとするよな? それを見た他の凡人たちは、どう考えると思う?」
「『ほれ見ろ、やっぱり駄目だった』?」
「違う。こう思うんだ。『なるほど、こうすると駄目なのか。俺はもっと上手くやるぞ』ってな」

 ぽかんとするルーミアに、魔理沙はなおも笑いかける。

「いいか、ルーミア。わたしは凡人だ。博麗の巫女様みたいに出自からして特別で才能溢れるお方とは似ても似つかぬ、単なる人間の里の道具屋の娘なんだ。そして誰もがそのことを知ってる。わたしが今ここでこうしているのは、他ならぬわたし自身がわたし自身の意思でいろいろなものを積み上げてきた結果だってことをな。そしてもう一つ、重要なことだが……里の人間ってのはな、特に若い奴らの中には、あそこでの生活を退屈だと思ってる連中も少なくないんだ」
「そうなの?」
「そのはずだ。だってわたしがそう感じていたんだもんな。単なる道具屋の娘だけが突飛な考えを持っているとは思えない。仮に気が付いていなかったとしても、わたしの姿を見て自分がそういう考えを持ってるってことに気がつかされたって奴もそこそこいるはずさ。そういう連中は羨ましがってることだろうよ。『なんであんな、俺と大して変わらないような奴だけが毎日楽しそうに暮らしてるんだ、不公平だ!』……そういう奴は、自分でもちょっと頑張れば手が届く範囲の『やり方』さえ知れば、喜び勇んで里の外に飛び出していくさ。そして、今のわたしと同じように弾幕やったり魔法やなんかの技術を研究したりして、お前らの中に入り混じりながら面白おかしく日々を過ごし始めるだろう」

 そこで魔理沙はふと思い出して、鞄の中を漁った。実験に付き合わせるルーミアへのお礼として、里で酒やら菓子やらつまみやらを買ってきていたのだった。それらを全部ベッドの上にぶちまけて、「良きにはからえ」と言ってやったら、ルーミアは顔を輝かせてそれに飛び付いた。
 酒を飲んで菓子を貪っているルーミアを横目に、もう聞いちゃいないかもしれないな、と思いながら、魔理沙はぼんやりと語り続ける。

「……仮に、百人そういう連中がいたとしようか。その内の九十九人は、さっきお前が言ったみたいなヘマをやらかして、後悔したり泣き叫んだりしながら糞ったれな生涯を終えるだろうな。だが、残りの一人は? 一人ぐらいは、勘と経験と運とに恵まれて、お前らとよろしくやってくための今よりもいいやり方を思いつくはずだ。それを見た次の世代の若者たちは、こう思う。『なるほど、ああすればいいのか。じゃあ俺も』と。そうして次の百人の内九十九人はまたヘマしてくたばるだろうが、一人は生き残って前の世代よりもいいやり方を思いつく。すると次の世代がまた思う。『なるほど、ああすればいいのか。じゃあ俺も』そうしていく内に、より上手いやり方が生み出されて、それに従う奴がどんどんどんどん増えていく。失敗して喰われる奴の数は相変わらず多いだろうが、上手いことやる奴の数も段々と増えていくだろう。そしていつしかその割合は逆転して、大概誰もが上手くやるようになる。『喰われて当たり前』は『喰われなくて当たり前』になり、『喰われる奴は普通』が『喰われる奴は普通よりも下手くそ』という価値観に取って変わる。失敗した例を反省材料にする奴はいても、それが絶対的だと考えて自分の願望を引っ込める奴はいない。だって、そいつは単に自分よりも馬鹿だっただけで、『俺はあいつより上手くやれる』って考えるのが、凡人って奴だからな」

 淡々と語り終えて、魔理沙は小さく息を吐く。ルーミアはまだ菓子に夢中だ。

「……わたしはな、ルーミア。人間の聡明さって奴は欠片も信じちゃいないが、人間の馬鹿さ加減と愚かさと傲慢さと欲深さと、そういった諸々の糞ったれな部分のことは誰よりも信じてもいるつもりなんだ。だからこそ誰もがこの流れに乗りたがるし、少々の犠牲には目もくれずに前に進んでいくことだろうと思っている。そうして最終的には本当の本当に完全無欠にお前らとよろしくやってく方法が生み出されて、ついにこの郷は人妖共存の楽園となり果てるって寸法だ。聡明だからじゃなくて馬鹿で愚かだからこそ、そこに辿り着けるのさ。そして誰もがそういう上手いやり方を知ってる世の中なら、喰った喰われたすら幸せな内に終わらせられる奴らだっているかもしれないわけで」
「ねえ、魔理沙」

 饅頭をむしゃむしゃやりながら、ルーミアが首を傾げた。

「さっきから一生懸命喋ってるけどさ」
「ああ。なんだ」
「その、上手い方法って、具体的にはなに?」
「そんなもんは知らん」

 魔理沙はあっさり言って、肩を揺らして笑った。

「知るわけないだろ、そんなもん。わたしだって日々それを追究してる最中なんだからな。まあわたしがその答えに辿り着けなくても、いつか誰かが辿り着くだろうさ」
「いい加減だね」
「そうでなけりゃ凡人なんかやってられんよ」
「言ってること、大半へ理屈の妄想だし」
「そうだよ? 凡人が生きるためには必要不可欠なもんだ、へ理屈やら思想やら模範ってやつはな。こうすれば幸せになれますよって確約されてなけりゃ……確約されてると錯覚しなければ、大概の奴はおっかながって足を踏み出すことすら出来ないのさ。そういうもんだ」
「ふうん。大変なんだね」
「大変だよ。だからお前も真剣にぶつかってやるんだぜ?」
「うん、分かった」
「ようし、いい子だ」

 ふざけて頭を撫でてやったら、ルーミアは餡子でベタベタになった頬に嬉しそうな笑みを浮かべてみせた。
 それを穏やかに見つめながら、魔理沙は大きく息を吐く。
 薬のせいか喋りつかれたせいか、瞼が重くなってきた。意識が少しずつ遠のいていく。

「……だからなあ、ルーミア……」
「うん?」
「……わたしはさ、手本とまではいかずとも……モデルケースになりたいんだよ。多少努力してるだけの凡人が……こういう風にふるまったら、こういう風になるんだって例を、可能な限り、残しておくんだ。出来る限り幸せそうに、楽しそうに振る舞いながら、さ……そしたら、次の連中が、もっと、上手いやり方を……」

 とうとう耐えられなくなって、魔理沙はポテンと横に倒れ込んだ。ベッドにしては妙に温かいなと思ったら、ルーミアの膝の上だった。

「ね、魔理沙」

 優しく、撫でるような声。

「本当に、そうなると思う? いつか、わたしたちですら想像できないような世界がやってくるって」
「……思うよ……そうならなけりゃ、おかしいんだ。今はそういう流れなんだから……」
「その前に幻想郷自体が駄目になるかもよ?」
「……そんなデカイことは知らん……紫辺りが……何とかするだろ……」
「人任せなんだ」
「……自分じゃ頑張っても出来ないことをやろうとする奴は、阿呆だ……凡人じゃなくて、ただの阿呆……」

 本格的に意識が朦朧として来て、何も考えられなくなってくる。ルーミアはなおも何かを聞いて、魔理沙もそれに答えた気がする。しかし具体的に何を言ったのかは、よく分からなかった。
 そうして、完全に眠りに落ちる直前。

「どうして、そこまでやろうとするの?」

 その問いかけだけはやけにはっきりと聞こえて、答えも瞬時に浮かんだ。
 理由はたくさんあった。退屈な世界が嫌だから変えたいという想い。上手くいくわけがないと言っていた全ての連中を見返してやりたいという想い、自分の可能性を追究してみたいという野心。
 だが。
 そんな風にドロドロと渦を巻く想いの根底に、一つの光景がある。
 それは、小さな神社で一人箒を動かしている、黒髪の少女の姿。
 別に、寂しそうには見えないし、かわいそうだとも思わないのだけれど。

「……霊夢がさ……喜ぶ気がするんだ……」

 言葉にすると、ずいぶんくすぐったい感じがする。

「……妖怪だの、神様だの、変人だの……おかしな連中を、いっぱい、いっぱい集めるんだ……あの神社に……」

 落ちる直前に誰かの笑顔を見た気がして、魔理沙は幸せな心地で微笑んだ。



 眠ってしまった魔理沙を膝の上に乗せて、ルーミアはしばらくの間無表情だった。
 彼女の頭を撫でながら、美味しそうだな、と思う。
 なんて無警戒な姿だろう。こちらがどれだけ我慢してるのかも知らないで。

「……いただきます……」

 小さく呟き、ルーミアは上半身を屈める
 大きく顎を開き、少しずつ顔を近づけて……ふと、止める。
 身を起こして窓の方を見ると、うすぼんやりとした光がかすかに室内を満たし始めていた。
 その光に目を細めながら、宵闇の少女は考える。
 果たして、自分がここで魔理沙を喰ってしまったらどうなるだろう、と。
 そうしたところで、問題はないのだ。里を出て暮らし始めた時点で、魔理沙は賢者の保護から外れている。
 誰に襲われても、誰に喰われても、決して文句は言えない存在。文句を言っても、聞いてはもらえない存在。
 彼女を喰えば、今の流れとやらは止まってしまうだろうか。

「……変わらないだろうね」

 結局魔理沙が言った通りなのだということを、認めざるを得なかった。根拠は全くないのに、疑う余地が見つからない。
 多分、もう手遅れだろう。誰かが、少し前までの幻想郷の方が都合がいいと考える誰かが、今になってこの流れを止めたいと願ったとしても、もう手遅れだ。
 今、魔理沙がここにこうしているということが、その全て。たとえ少しの間だけでも今のような生活を満喫して存分に楽しんだという事実が、全てだ。そこに憧れる人間は必ずいる。華麗に咲き誇る弾幕の華や、夜空を舞う星の少女に惹かれ、自分も飛び出してしまう幾多の人間たち。愚かで醜い、愛すべき凡人たち。
 彼らはどれだけ失敗した前例を示されても、止まりはしないだろう。むしろ教訓と成り得るデータが増えたと喜びすらするかもしれない。そうして思うのだ、「俺ならもっと上手くやる」と。
 八雲紫を始めとする妖怪の賢者たちも、彼らが上手くやっていけるよう、それとなく便宜を図るはずだ。たくさんの人間が妖怪と戦ってお互いに高め合っていくことが、今の幻想郷には必要不可欠であると、吸血鬼異変の混乱で嫌というほど思い知ったはずだから。
 つまるところ、この先どうなろうとも、霧雨魔理沙の勝利は動かないのだった。
 たとえ空から落ちて死のうが、妖怪に喰われて死のうが、彼女がそのことをどれ程後悔しようとも。
 魔理沙がスペルカードルールに彩られた戦いの中に飛び込んだ時点で。
 そうした新たな取り決めの中で、ただの人間が楽しくやっていけることもあると示してみせた時点で。
 前へ進もうとする彼女の意思は、永遠の勝利を約束されたのだ。

「人間、か」

 小さく呟き、ルーミアはまた魔理沙の顔を見下ろす。
 幸せそうな、満ち足りた寝顔だった。

「人間って、こうなんだよね。愚かだけれども力強く、犠牲を顧みずにどこまでも前へ進んでいく存在」

 だからこそ自分たちは置いていかれたのだと嘆く者も、妖怪の中には数多い。
 今度こそ失敗しないようにと、里の人間たちを一生懸命監視して、彼らが変わりなく自分たちを見つめてくれるよう苦心する者たち。
 その者たちを、今、ルーミアは笑ってやりたい気分だった。
 さっきまでの魔理沙の話を聞いて、それが馬鹿げたことであるのがよく分かったから。
 悲しむべきは、人間の性質そのものではないということだ。

「嬉しいな。この人たちは、わたしたちから離れるんじゃなくて、近づく方向に進んでくれるんだもんね」

 ルーミアは微笑み、魔理沙の髪を撫でた。
 彼女を食べてやりたいと言う気持ちは変わりない。むしろ、強くなったようにすら思う。
 しかし、ルーミアは今すぐ魔理沙を食べようとは思わず、我慢した。
 彼女が今後どれだけの者を巻き込んでいくのか、見てみたくなったから。
 そして何より、ルーミア自身が美味しいものは最後まで取っておくタイプだから。

「……待ってるよ、魔理沙。大好きだからね……」

 いつか「お前になら喰われてもいい」と魔理沙がその身を差し出す光景を想像しながら、ルーミアはそっと、愛しい凡人の頬に唇を寄せた。



 目を覚ましたとき、魔理沙は魔法の森にある自宅の壁に寄り掛かって眠っていた。
 鬱蒼とした木々の向こうに、真昼の太陽が見えている。
 どういう状況なのかすぐには思い出せず、しばらくの間ぼんやりする。
 そしてふと、自分の左腕に包帯が巻かれているのに気がついて、「ああ」と声を漏らした。

「……無事に帰ってこられた、か」

 思い返すと、随分危ういことをしていたと思う。もしもルーミアに喰われていたら、と想像すると、やはり背筋に悪寒が走った。
 早速ポケットを探ってメモ帳を取り出し、今の感覚に基づいた考察を書きつける。

「……やはり、喰われることへの恐怖を捨てるのは難しい……となれば、恐怖を抱きながらも接していける方法を考えるべき……あるいは状況設定によっては恐怖を感じないことも……条件を変えた追試験の必要あり……うへぇ、追試験だってよ。ぞっとするね。道はまだまだ遠そうだな……」

 顔をしかめて舌を出し、魔理沙は首の骨を鳴らした。
 とりあえず顔を洗って、また夕方ぐらいまで眠ろうか、と家の中に入る。
 そうして洗面台の鏡に向かったとき、魔理沙はふと気がついた。
 首筋に、小さな歯型がある。食いちぎられてはいなかったが、歯型は結構深くまで残っていた。
 ぼんやりとそれを撫でさすると、また背筋に悪寒が上ってきた。

「おっかねえ、おっかねえ」

 呟きながらまたメモ帳を取りだしたとき、その隙間から一枚の紙が滑り落ちた。
 なんだ、と思って拾い上げ、折り畳まれているそれを開くと、やけに可愛らしい丸文字でこう書いてあった。

『魔理沙が美味しそうだったので、ちょっと我慢できなくなりそうでした。頑張って堪えたわたしに感謝しつつ、歯型のことは笑って許してくれると嬉しいな ルーミア』

 読み終わって、

「ふむ」

 顎に手をやって頷きながら、魔理沙はもう一度鏡を見る。
 歯型に対する感情が、さっきまでとはほんの少しだけ違って思えた。
 それがどういった感情なのかはよく分からないまま、

「ま、誤差ってやつだな」

 素っ気なく呟き、何も書かないままメモ帳をしまいこむ。
 そうして欠伸を噛み殺しながら、魔理沙は寝室へ向かって歩いて行った。



 <了>

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