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【東方SS】無言抱擁

2010/1/9に東方創想話に投稿したSSです。

『無言抱擁』



 黒い外套を羽織って宴会場である居酒屋から旧都の大通りへと歩み出たとき、頭上から真っ白な雪が舞い降りてきたので、星熊勇儀は目を瞬いた。自然と差し出した手の平に雪が降りてきて、無音のまま融けていく。地上と全く変わらぬ光景だ。
 黙って目を細めながら頭上を振り仰ぐと、遥か彼方、地底の天井付近に何か白い塊が浮かんでいるのが見えた。はしゃぎ声を上げる数人の子妖怪たちにまとわりつかれているその柔らかな塊は、一見すると雲のように見えるが、もちろん雲ではない。そういう形の妖怪である。この雪は、彼と彼の協力者たちが術で降らせているのだ。
 彼は旧都の治安を取り仕切る勇儀とももちろん顔見知りで、地底に追われて幾星霜、研究に研究を重ねて天候を操る力を身に付けた妖怪だった。天候を操るというよりは天候を再現すると言った方がいいかもしれない。地上を懐かしむ彼とその協力者たちの尽力により、地の底にある旧都には雨も降れば雪も降る。無論そんなものは降らない方が生活は楽なのだがそこはそれ、雨も雪も降らねえ生活なんて味気なくってお断りだね、というのが粋な地底住民の心意気なのだ。暗く閉ざされた陰気な地底世界だからこそ、自分たちの手で少しでも楽しい場所に変えていこうという姿勢である。
 勇儀はしばらくの間雪に白く霞む地底の天井を見上げたあと、黙ったまま雪駄を鳴らして道を歩き出した。年の暮ということもあって、普段から賑やかな旧都の街は一層浮かれた喧噪に包まれている。道行く妖怪たちの顔は大概赤らんでおり、肩を組んで陽気に歌いながら道を行く者や、次はどの店で飲もうかと相談しながら品定めしている者たちもそこかしこにいる。道端に広げた御座の上に様々な品を並べて高々と声を張り上げる露店商、それを冷やかしたり戯れに値切り合戦をやって周囲を湧かしている客、一心に三味線を掻き鳴らしたり太鼓を打ち鳴らしたりしている奏者たち、その音に合わせて跳ねるように駆けまわる童妖怪ども。煌々と灯された提灯の下、黒い外套を纏った勇儀は黙って微笑んだまま、人ごみにぶつからぬよう注意しながら、のんびりと歩いていく。
 ところがしばらく行ったところ、道の途中で少々困った事態に遭遇した。少し前方で二つの粗野な罵声が響き合ったと見るや、人ごみの真ん中で取っ組み合いの喧嘩が始まったのである。それだけならまだ良かったのだが、長年旧都の治安を取り仕切ってきた勇儀の目は、派手な喧嘩の影で行われた小さな悪行を見逃さなかった。
 群衆の中に一人、喧嘩に目を奪われてつま先立ちになっている男妖怪の姿がある。その男の懐から、すれ違い様に財布を抜き取った妖怪がいたのである。掏りだ。鮮やかな手並みを見るに、相当年季の入った輩であることは間違いない。掏り妖怪は喧嘩に湧き立つ人々の陰でこっそりとほくそ笑み、通りの隅から分かれた一本の狭い路地へと消えていく。
 喧嘩を止めるべきかそれとも掏りを追うべきか、勇儀はほんの一瞬だけ迷った。そして即座に、両方やろうと判断する。
 そうしてまずは喧嘩の方を止めるか、と一歩足を踏み出しかけたが、そんな勇儀よりも素早く動いた者たちがいた。小柄な影が二つ、群衆の間をすり抜けたと見るや、取っ組み合いを演じていた二人の妖怪を引き離して地に叩き伏せたのである。「鬼」の一字が背に縫いこまれた半纏を身に纏ったその男たちは、背負った文字が示す通り鬼の若い衆である。彼らはもがく二人の妖怪を活劇のような見事さで後ろ手に縛り上げ、周囲の見物人たちから拍手喝采を浴びる。
 一方、先程掏り妖怪が消えた路地からも、件の妖怪をひっ捕らえた鬼の若者が一人歩み出てきて、勇儀に気付くと頼もしい笑みを浮かべて軽く会釈を寄越した。それからまさに鬼の形相へと転じて掏り妖怪を引っ立てて行く。喧嘩していた二人の妖怪も、先程の若い衆に連行されていった。物見高い通行人たちがどやどやと後へ続くのが見える。
 これらのことはほとんど瞬きほどの間に行われ、旧都の街道にはすぐに元の穏やかな喧噪が戻ってきた。勇儀は踏み出しかけた足を一歩戻し、小さく頭を掻く。そんな彼女に、たまたま近くにいたと思しき顔見知りの酒屋の店主が一人歩み寄って来て、からかうように笑った。勇儀も苦笑を返して軽く片手を挙げ、また賑やかな人ごみの間を歩き出す。
 そうしてよくよく目を配れば、通りを埋める人ごみのそこかしこに、先程の者たちと同じような鬼の若い衆の姿が見て取れる。「鬼」の一字が背に縫いこまれた例の半纏に身を包んでいる者もいれば、上手いこと変装して一般妖怪に紛れている者もいる。
 彼らは皆、旧都の治安を守る鬼の一族であり、年の暮で地底全土から様々な妖怪たちが集まるこの数日、いかな悪行も見逃さぬようにと旧都のあちこちで目を光らせているのだ。
 普段から旧都の町中に住み着いている者たちはもちろん、いつもは町から離れた岩場などに寝床を作って生活することを好む者たちも、年の暮となれば町に出てきて浮かれ騒ぐのが慣わしだ。常日頃よりも警戒態勢を強めるのは当然と言うものである。勇儀も今日こそ非番であるが、昨日までは鬼のリーダー格として忙しい日々を送っていた。
 本当のところを言えば少々不安もあったのだが、先程の捕り物を見る限りでは気を患う必要もなさそうだ。後進である若い衆の成長を頼もしく思いながら、勇儀は小さく息を吐く。この百年ほど積み重ねてきた努力の結果をこの目で見ることが出来たような、実に感慨深い心地であった。

 旧都を含む地底世界は、元来忌み嫌われて地上を追われた妖怪たちや、上手く周囲に馴染めず逃げてきた妖怪たちの集まりである。そんな連中が一所に集まって生活しているのだから、先程のような揉め事はほとんど日常茶飯事だ。古い時代の大都市を真似て「酒と喧嘩は旧都の華」というのが粋な住民たちの合い言葉だが、当然野放図にしておいては秩序も何もあったものではない。
 それ故勇儀を始めとする鬼のリーダーたちは旧都の治安を取り仕切る組織を編成し、日夜荒くれ者どもの対処に当たっているのである。鬼という種族は基本的に力の強いものであるし、大半の者が嘘偽りを嫌う性質を持っている。多少やり方が荒っぽくなることはあるものの、警察的な組織には打ってつけの人材と言えた。
 無論、鬼という種族自身酒と喧嘩が大好きだ。掏りのように他者の害にしかならぬ犯罪はともかく、喧嘩の方は厳しく取り締まるのではなくて、他の者の迷惑にならぬ場所に移して殺傷沙汰に及ばぬ範囲で気の済むまでやらせる場合が多い。先程も、物見高い暇人どもが、引っ立てられた妖怪二人や鬼の若い衆の後について歩いて行った。場所を移した先で喧嘩を肴に酒盛りするのだろう。その辺の仕組みは、喧嘩している当の本人たちも見物人たちもよく理解している。見せもんじゃねえぞ、ではなくて、俺の生き様よーっく見やがれ、と大見得を切って堂々と喧嘩するのが慣わしだ。暗い地底で鬱憤晴らしのネタまで奪われたのではたまらない、というのが大半の地底住人の考え方であり、鬼たちもそれを支持しているため、荒事はいつの時代も絶えないのである。
 このように、地底世界における鬼たちは、悪行三昧であった地上にいた頃と違って体制派とすら呼べるような役目を担っている。だが、そういったことを始めた当初から、どんな無頼の輩にも容易く対処出来たというわけではない。そもそも鬼が地底に移り住んだ理由は、戦に際して卑怯な手を使うようになった人間たちに嫌気が差して、というものである。このことからも分かる通り、地獄から切り離されて無人になった地底へと移り住んだ時点で、鬼という種族は昔に比べて相当数を減らしていた。それだけ人間の鬼狩りが凄まじかったということで、どんな相手も圧倒できるほど力の強い鬼となれば、文字通り数えるほどしか生き残っていなかった。
 加えて旧都の興隆期は、忌み嫌われて地上を追われたばかりの気が荒みきった妖怪たちが揃っており、彼らが徒党を組んで騒ぎを起こすたび、対処に当たった鬼側からは夥しい数の犠牲者が出ることとなった。勇儀自身も仲間たちと共に日夜荒くれ妖怪どもとの戦いに明け暮れ、その身に幾多の傷を負いながらも、今日まで地底世界の治安を守ってきたのである。
 そんなことを続けてきて、もう百年以上にもなる。勇儀を始めとする多くの者たちの尽力によって、旧都を含む地底世界は、かつての寂れた様が思い出せないほど活気のある場所となった。先程の若い衆たちのように後に続く者たちも立派に成長を遂げ、最近では勇儀自身が現場に出なければならないような危急の事態は滅多に起こらない。
 ようやっと、肩の荷が下りた気分である。提灯の明かりに浮かび上がる旧都の中を歩き、楽しげに笑いながら傍らを駆けて行く童妖怪たちや、手を繋いで睦まじく歩いている若夫婦、それにやっかみ半分の声を投げかけている若い妖怪たちなどを見ていると、自分たちが払ってきた犠牲は決して無駄ではなかったのだということが実感できる。
 そんな勇儀は当然顔が広く、歩いていれば通りがかった知り合いや道の両脇に軒を連ねる店の列から、次々と誘いの声がかかる。しかし今日はそのどれにも応じることはなく、ただ黙ったまま微笑み返して手を振り、無言のまま歩いていく。一度酒を買って行こうかと酒屋に寄りかけたが、首を振って止めた。恐らく、これから向かう先ではもう熱燗が用意されているだろうと思ったからだ。
 今日勇儀は、長い間苦楽を共にしてきた友人と二人きりで会う予定だった。鬼の仲間たちや旧都に散らばる各方面の協力者ともまた違う関係の友人で、一年に一度、今日この日にだけ会うのが二人の間の約束事である。かつて立場上人目を避けて話し合わなければならなかったころの名残で、旧都の情勢が大分落ち着いてきた今も、そういった取り決めは変わることなく保たれている。勇儀としてはもう普通に会ってもいいのではないかと思うのだが、相手の方がそれを承諾しない。
 今年こそはどうにか、と考えるでもなく考えたとき、勇儀はふと、懐かしい笛の音を耳にして立ち止まった。その方向を見ると、ある居酒屋の店先に立った細身の少女妖怪が、目を伏せて熱心に横笛の演奏を行っている最中だった。笛から生み出される旋律は少女らしく未熟で不器用で、道行く者たちもほとんど関心を示さず通り過ぎて行くばかり。しかし勇儀は心を惹かれ、小さく謝罪しながら人ごみを抜け出し、演奏を続ける少女の前に立った。予想通りと言うべきか、少女の足下に置かれた小さな器にはほとんど銭が入っていない。しかし勇儀は構わず、少女の前に立ったまま笛の音色に耳を傾け続けた。何とも言えぬ懐かしい思いが染み渡り、胸が静かに熱くなる。
 単純ながらも素朴な趣きのあるその旋律は、ずっと昔から変わらず奏でられ続けてきた曲目だ。勇儀や彼女の友人たちはもちろん、とうの昔に去ってしまった仲間たちや、目の前の少女のように地底で新たに生まれた妖怪の子供たちも、誰もが知っている調べ。勇儀自身も先ほどまで参加していた宴の席で、同じ曲を吹奏してきたばかりだ。
 耳を澄ましながらそっと目を閉じてみれば、宴の灯を囲んで陽気に笑うたくさんの顔が見える気がした。
 やがて少女は演奏を終え、横笛から唇を離して小さく息を吐いた。そして自分の視界に影が落ちているのに気付いたか、きょとんとして顔を上げ、目を見開いた。勇儀の顔を知っていたらしく、驚いたように硬直したまま何か言おうと唇を戦慄かせている。勇儀は黙って懐から財布を出すと、いい音を聞かせてもらった礼として、少女の手に数枚の銭を握らせた。慌てて何か言おうとする彼女に軽く笑いかけ、少女の唇を己の人差し指でそっと塞ぐ。頬を染めて押し黙る少女の頭を撫でた後、励ますように軽く肩を叩き、勇儀は踵を返して歩き出した。

 その後勇儀は旧都の大通りを抜け出し、中心街からかなり離れた町外れへと足を踏み入れた。旧都を見下ろす、高い岩場に築かれた区画だ。賑やかな大通りや人が密集している長屋町などと違って、もうほとんど誰も住んでいない廃屋が立ち並ぶ、寂れた場所である。
 まだ旧都の治安が乱れていた頃、この一帯には荒くれ妖怪どもが徒党を組んで隠れ住んでいた。治安が良くなった今となっては、街からかなり離れていることや恐ろしい覚り妖怪が居を構える地霊殿が近いことなど、主に地理的な要因のために住み着く者がいない。
 そんな寂しく暗い街の中を、勇儀は一人黙々と歩く。雪の中を歩いてきたために黒い外套の肩が白く染まっており、流石の勇儀も少々肌寒さを感じている。無論、これから向かう先で振る舞われるであろう熱燗がさらに味わい深く感じられるだろうという目論見があるので、寒さも嫌なものには思えないのだが。
 そうして勇儀は連なる廃屋が作り出す入り組んだ路地へと入り込み、一番奥に建っている一軒の前へとたどり着いた。この旧都を見下ろす岩場の一番端に建っている、二階建ての家屋である。周囲の建物と何ら差異のない、もうずっと使われていないのが一目でわかる廃屋だ。当然人は住んでいないが、今、この家屋の中からはかすかに人の気配が感じ取れる。こちらと同じく相手も気配を殺しているようだが、鬼である勇儀にはすぐに相手が中にいるのが分かった。今年も来てくれたと分かって、自然と口元に微笑みが浮かぶ。
 閉じ切られた木戸を叩く前に、念のため周囲を確認する。尾行の気配がないことは、ここに来るまで何度も確認済みだ。今一度探ってみても、やはりない。どうやら邪魔は入らないようだ。
 勇儀は安堵の息を吐きながら、おもむろに木戸を叩く。周囲の静寂を乱さぬよう配慮した、軽い叩き方だ。
 そうしてしばらく待っていると、かすかに階段を下りる足音が聞こえてきて、戸の向こうで立ち止まった。こういうとき、普通ならば来訪者が予想した通りの相手かどうか確かめるために、目の幅程度に戸を開くものである。しかし、今日会う相手の場合はそうする必要もない。勇儀もそれを分かっているので、ただ一言、来たよ、という言葉を心に思い浮かべた。
 それと同時にゆっくりと木戸が開き、向こうから一人の少女が姿を現した。女性にしては大柄な勇儀と比べるまでもなく小柄な少女で、やや幼い印象を与える衣服に身を包んでいる。寒い戸口へ出てくるためにか、細い首には赤いマフラーが巻かれていた。その少女はやや癖のある薄紫の髪をかすかに揺らしながら、小さく首を傾げて目を細める。小柄な体に装身具のように取り付いている第三の目が、少女の胸元から物も言わずじっと勇儀を見上げていた。
 彼女の名前は古明地さとり。忌み嫌われて地上を追われた妖怪たちの集う地底世界の中にあっても、なお嫌われ恐れられる、覚りの力を持つ少女。現在は灼熱地獄跡の上に建てられた地霊殿という屋敷で暮らしており、浮かばれぬ怨霊たちの管理を閻魔から任されているという立場もあって、外に姿を現すことは滅多にない。
 そんな彼女が今日こんな場所にいることを知っているのは、地底中を探しても勇儀ぐらいのものだろう。
 さとりは勇儀に親しげな笑みを向けたあと、ふと可笑しそうに笑いをこぼしながら、つま先立ちになって手を伸ばしてきた。何をする気かと思ったら、勇儀が羽織っている外套の肩に被った雪を、優しい手つきで払い落としてくれた。勇儀は礼を言おうと口を開きかける。
 するとさとりは黙ったまますっと右手を滑らせ、勇儀の唇に己の人差し指を軽く押し当てた。思わず押し黙る勇儀の顔を見上げながら、ゆっくりと首を横に振る。
 今年もか、と勇儀が眉をひそめると、さとりは黙ったまま微笑んで頷く。覚りの力を持つ彼女であればこちらの不満は分かっているだろうに、まるで気づいた素振りすら見せないまま、手際良く勇儀の体についた雪を払いのけ終えた。
 そうしてさとりは少し脇に避けると、案内するように屋内に向かって右腕を伸ばした。中は明かりもなく薄暗かったが、さとりが示す先から二階への階段が伸びているのが見て取れた。勇儀が誘導に従い、少しかがんで戸口をくぐると、背後に回り込んださとりが静かに木戸を閉じた。

 表向き地底社会の頂点に立っているのは体制派とも言える鬼の集団であるが、その裏側でもっとも恐れられているのは古明地さとりという少女である。なにせ彼女は覚り妖怪であり、相手の心の内を見透かす力を持っている。彼女の前ではあらゆる策謀がほぼ意味を為さないと言ってもいいし、たとえ高度な術か何かで心を読まれることを防いだとしても、そういう術を用いること自体が疑いを招く種になり得るのだ。大体にして心にやましい部分が一点もない者などまず存在しない以上、心を読み取る覚り妖怪と好き好んで会いたがる者など皆無と言ってもいい。正々堂々とした態度を好む鬼の一族にあってすら、彼女と会って全く不快感を抱かぬ者はほとんどいないほどだ。陰で囁かれる地底一の嫌われ者という蔑称も、さほど間違ったものではない。
 ところで、星熊勇儀は鬼のリーダー格として旧都の治安を取り仕切ってきたが、時に地霊殿の長である古明地さとりの手を借りて厄介事を解決することもあった。忌み嫌われている能力とは言え、複雑に入り組んだ事件を解決する手段としては最適とも言える。と言うより、犯人に会わせさえすれば一発で真相が判明する最強の武器である。
 そもそも鬼というのは愚鈍とまではいかなくても、知恵に特化しているとは到底言い難い種族である。勇儀自身、悪知恵の回る無頼妖怪どもの策謀に引っ掛かって辛酸を舐めさせられた経験は一度や二度では済まなかった。
 そんな事情があったから、鬼の手に余る事件を解決しようとするとき古明地さとりに助力を求めるのは、勇儀にしてみれば至極真っ当な理屈だった。何より彼女は灼熱地獄跡の上に建てられた地霊殿の主である。それはつまり、旧地獄跡を漂う怨霊たちの管理という役割を閻魔直々に任命されているということ。たとえ誰に嫌われていようとも、旧都の体制派と呼んで差し支えない立場だ。秩序と治安を守るための助力を求めるのは、何らおかしなことではないはずなのだ。
 しかし、勇儀が最初さとりに助力を求めようと提案したとき、鬼の仲間たちの中には渋る者が多かった。実質リーダーとも言える勇儀の手前、露骨に反対する者はいなかったが、あんな不気味な奴に手を借りるなど絶対に嫌だ、と多くの者たちの顔に書いてあったのだ。
 結局、さとりと話をするのは勇儀のみという結論に落ち着いたため、彼女は一人地霊殿に赴いてさとりに頭を下げた。そこに至るまでの経緯など、心を読み取る彼女にはお見通しだったはずだ。ところがさとりは嫌な顔一つせず、わたしの力が役に立つのならばと快諾してくれたのである。
 その後、勇儀とさとりは度々手を組んで様々な事件の解決に当たることとなった。当事者である勇儀自身、さとりの力がなければ絶対に解決できなかったであろう事件も数多くあると思っている。しかし、そういったさとりの活躍が表に出ることはただの一度もなかった。覚り妖怪が鬼に協力していることがばれてはやりにくいという事情もあったが、他ならぬさとり自身が、そうした事実を伏せておくよう望んだのが大きな理由だった。
 何故だと問えば、決まって同じ答えが返ってきた。心を読む妖怪がうろつき回って事件を解決しているなどという噂が広まれば、折角穏やかになってきた旧都住民の心に要らぬ不安を与えかねないからだ、と。どこに覚り妖怪がいるのか分からないなどという、いつも見張られているかのような感覚を与えてしまうのは良くないことだと言うのである。
 覚り妖怪として生きてきた経験からかそれとも生まれついての性格か、さとりは事こういった問題に関しては非常に配慮の行き届いた女性だった。脅しが必要な状況でもない限り、己の能力を用いて他者の弱味を突くような真似を良しとしなかったのである。
 そういった諸々の事情があったため、鬼と覚り妖怪……もっと言うなら勇儀とさとりが協力していることは、他の誰にも秘密にしておかなければならなかった。何か相談事があるときでも、二人が会うのは今いるような秘密の場所に限られていた。さとりは身を隠して行動するのも相当に上手かったし、勇儀にしても後をつけられるようなドジを踏んだことは一度もなかったため、二人が秘密裏に会っていることは今まで誰にも知られていない。
 さて、こうした会合を始めるにあたって、さとりは一つのルールを取り決めた。それは、相談事をするために会っている最中、お互いに口を利かないという決まりである。どこで誰が聞いているか分からない以上念には念を入れるべきだし、そもそも自分は心が読めるのだから口頭で事情を説明してもらう必要がない、というのがさとりの言い分であった。実際そういった形でも話し合いは問題なく進んだし、どうしても言葉を必要とするときは筆談で事足りた。
 だから勇儀はこの決まり事を作って以来、さとりと声を交わしたことがほとんどない。無論こちらの考えは余すことなく伝わっているのだから仕事をする上での問題はないのだが、陽気な性質の勇儀としては少々複雑な思いを抱いたりもする。
 特に事件を解決するべく動いている最中、文句の一つも言わずに黙々と働くさとりを傍らで見ていると、やりきれない想いに囚われることがよくあった。結局さとりを体よく利用する形になっているのに、その恩を全く返せないのは鬼の名折れと言うものではないだろうかと。そういった想いはさとりにも当然伝わっているはずなのだが、彼女は静かな表情のまま何も言ってはくれない。耐え切れずに口を開いて何か言おうとすれば、すかさずさとりの腕が伸びてきて、人差し指でそっと唇を塞がれてしまう。そうして穏やかに微笑まれると、勇儀は何も言えなくなってしまうのだった。
 そんな風にさとりと無言の密会を続けること数十年、彼女らや鬼の仲間たちの真摯な活動の甲斐あって、乱れに乱れていた旧都の治安もかなり落ち着いた。そうした平和な環境下で地底暮らしを快適にするための様々な技術がたくさん生み出され、旧都の生活水準は格段に向上した。力の弱い妖怪でも穏やかに暮らせる日々がやって来たのだ。
 ところで、その頃になると悪どい連中も大概懲らしめられて大人しくなっており、各方面に力の強い協力者たちが増えたことや、鬼の後進たちが着々と育ちつつあったこともあって、さとりの手を借りなければ解決できないほど性質の悪い事件は滅多に起こらなくなっていた。
 だから当然、勇儀とさとりが会う機会は時が経つにつれて減っていった。それはつまり旧都が平和になった証だったから悪いことではなかったのだが、勇儀としては内心焦りを感じてもいた。
 結局、ここまで貢献してくれたさとりに何一つ恩を返せないまま会えなくなってしまうのではないか、と。
 さとりは事件解決のため以外ではまず地霊殿から出てきてくれなかったし、密会を続けている理由から考えれば、勇儀の方から地霊殿に出向くことも出来ない。
 鬼であれば無理矢理押し通るのが道理なのかもしれないが、勇儀はそういう無礼な真似をするつもりは全くなかった。旧都の治安を守る鬼の一員として、あるいは星熊勇儀という一個人として、彼女は長年苦楽を共にしてきた古明地さとりに深い尊敬と親愛の念を抱いているのである。相手の方で許さぬ限り、こちらから約束を破るわけにはいかなかった。何一つ恩を返せていない現状を鑑みれば尚更だ。
 だが現実として、会う機会は目に見えて減っていく。このまま会えなくなるのは嫌だ、何とか恩を返したい、というこちらの気持ちはさとりにも伝わっているはずだが、彼女の方では何も言ってくれない。
 焦りが募って遂に耐えきれなくなり、勇儀はあるときさとりに決断を迫った。と言っても、何か恩返しをさせてくれと心に思い浮かべて相手をじっと見つめるという、全く鬼らしくない消極的な迫り方だったのだが。
 そんな勇儀の求めに対して、さとりはとても困っている様子だった。嫌がっているようには見えなかったが、かと言って承諾してくれそうにもない。深く考え込むさとりを前にして、心を読めぬ勇儀はひょっとして断る言葉を探しているのではないかと柄にもなく不安になったものである。
 結果的に、さとりは勇儀の求めを受け入れた。そのとき既に二人の密会場となっていたこの廃屋の片隅から紙を探してきて、静かに答えを書き記してくれたのだ。
 それが今なお続けられている、毎年一度、年の暮のこの日にだけこの場所で会うというささやかな願いだった。お互い一言も口を利かぬこと、という取り決めをそのままにして。
 そんな程度で恩を返したと言えるのか、と勇儀は少々不満に思いもしたが、長い間一度も己の願いを言ってくれなかったさとりが、初めて何かしら願い事をしてくれたというのは素直に嬉しいことだった。それで思わず口を開いて感謝の言葉を伝えようとしたら、さとりはすかさず人差し指を伸ばしてそっと勇儀の唇を塞ぎ、優しく微笑んだものである。

 そんな年に一度の会合が、今年もようやくやってきた。ほとんど毎日のようにいろいろな場所でいろいろな妖怪たちと酒を酌み交わしている勇儀にとっても、今日の密会は特別楽しみなものだった。昔と違って事件に関する相談をするわけでもないから、なおさら気分が浮き立つというものである。
 勇儀の気の昂ぶりが伝わっているのだろう、先に立って二階の廊下を歩くさとりが、かすかに含み笑いを漏らしているのが分かる。無論彼女が笑っているのは喜ばしいことで、勇儀は少しも不快には思わなかった。
 廃屋とは言え密会場として使ってきたのであるから、家の中はそこそこ小奇麗に片付けられている。隙間風が吹き抜けていた場所は目立たぬ程度に補修されているし、がらくたなどは全て処分するなり一階の隅に押し込むなりしてあるので、見た目もそれほど酷くはなかった。
 さとりは大分くたびれた感じのする襖を開き、二階の一室へと勇儀を招き入れた。大きな窓に鎧戸がはめ込まれたこじんまりとした一室で、部屋の中は四隅に浮かべた妖火によって明るく照らし出されている。中央には大きな長火鉢が鎮座しており、銅壺の中で酒が入っていると思しき銚子が温められていた。予想通りの光景に、勇儀は小さく指を鳴らす。さとりがきょとんとした顔で振り返り、それから口元に手を添えておかしそうに笑った。
 勇儀がいそいそと外套を脱ぐと、自身もマフラーを外したさとりが、無言で腕を差し出してきた。勇儀は遠慮したが、さとりは腕を伸ばしたままにっこりと微笑むばかり。観念した勇儀が苦笑しながら外套を預けると、さとりは壁際に掛けに行こうと歩き出して、ふと立ち止まった。既に長火鉢のそばに座っていた勇儀が何事かと目を向けると、さとりは振り返って呆れたように外套の裾を指さした。見ると、その辺りが結構深く裂けてしまっていた。全く気にしていなかった勇儀が苦笑いと共に頭を掻くと、さとりはため息を吐いて首を振った。部屋の隅に放置されていた小さな裁縫箱を取って戻って来ると、勇儀のそばに正座して、膝の上に外套を広げる。裁縫箱から針糸を取り出すと、慣れた手つきで繕い始めた。
 勇儀はさとりの隣に座ったまま、彼女の手つきを感心しながら眺める。地底住人から広く恐れられている覚り妖怪の少女は、その実非常に家庭的な面があって、家事は一通りこなせるとのことだった。共に暮らす数多くのペットたちと一緒に、その腕を持って常に地霊殿を整え、放浪癖のある妹がいつ帰って来てもいいよう快適な状態に保っているのだそうだ。一応同じ女性であるとは言え、家事などしようと思ったことすらない勇儀には想像もつかない心情である。だがさとりの白く繊細な指先が自分の外套を丹念に繕っていく様を眺めているのは嫌な気分ではなく、それどころかとても落ち着いた心地にさせられるのだった。
 そうして気分が落ち着いてきたせいか、勇儀の口から少し長めの欠伸が漏れた。最近とみに忙しかったためだろう、頑強な鬼の体にも少なからず疲れが溜まっているらしい。目を擦ってからふと顔を上げると、いつの間に取りだしたものやら、銚子を持ったさとりがこちらに身を乗り出して穏やかに微笑んでいる。勇儀も微笑み返しながら、右手に持った猪口を軽く差し出す。さとりは淀みない手つきで猪口に酒を注ぐと、勇儀が一口含むのを見届けてから、また裁縫に戻った。そして猪口が空になるとまたすかさず銚子を差し出し、勇儀が口をつけるのを見届けては裁縫に戻り、空になるとまた銚子を差し出し……
 そういったやり取りを、幾度も繰り返した。約束事があるから、お互い一度も口は利かない。勇儀はこの取り決めが昔と変わらないことに対しては少なからず不満を持っていたが、こういう状況自体が嫌いなわけではなかった。いつもは鬼らしく陽気に浮かれ騒いで飲むことばかりだが、穏やかな静寂に浸りながら飲む酒にもまた違った味わいがあると認めているのである。
 特にさとりを前にしているときは、やはり静かに飲むのが相応しいと認めざるを得ない。ペースもいつもより格段にゆったりしている。ほろ酔い加減にちびりちびりと飲みながらさとりの繕い物を見物し、凄いねえ感心するなあと心に浮かべてじっと見つめると、彼女は少々くすぐったそうに小さく息を漏らしながら、一針一針丁寧に針を通していくのである。
 ペットたちや妹の服もこんな風に縫ってやっているのだろうかと疑問に思えば、さとりは手を止めないまま小さく頷いてくれる。それで彼女の関心がこちらにも向いているのが理解できて、勇儀は酷く安堵するのだった。その安堵があちらにも伝わったためか、さとりの微笑みがより穏やかになった気がした。
 そうして二人は無言のまま、様々なことを取り留めなく語り合う。勇儀が何か思い浮かべると、さとりが頷いたり首を振ったりして返してくる、というやり取りだ。こんな風に声を出さずに会話をするのはもう何十年も続けてきていることで、勇儀は既に欠片の違和感も感じなくなっている。もともと鬼らしく、言葉でくどくど説明するのはまどろっこしく感じる性質なので、むしろ手っ取り早くて助かると思っているほどである。
 何よりも嬉しいのは、言葉で容易には説明しがたい絵的なイメージを、そのままの形で伝えられるということだ。それに対する反応も悪くない。さとりはいつも物静かな雰囲気を纏っているが、決して感情表現に乏しい少女ではないのだ。勇儀が以前宴会等で体験した笑い話を思い浮かべれば、繕い物の手を休めて可笑しそうに笑うし、街角で見かけた心和む光景を浮かべれば、こちらを見つめて嬉しそうに微笑んでくれる。下品な冗談には非難するような冷たい視線が返ってくるし、からかってやれば拗ねたようにそっぽを向く。謝れば呆れたように息を吐いて苦笑し、礼を思えば小さく頷き、柔らかな手つきで猪口に酒を注いでくれる。それで勇儀はまた礼の言葉を思い浮かべて、猪口を傾けながらさとりの横顔をじっと見つめるのだ。
 長年苦楽を共にしてきたさとりのそばでこんな風に過ごす時間は、勇儀にとっても決して悪いものではない。毎年こうして、何をするでもなくただ静かに過ごしては別れることを繰り返している。陰惨な事件に関する話し合いをしながら二人で暗い顔を突き合わせていた頃と比べれば、なんと平穏で満ち足りていることか。
 それでもやはり、彼女が未だ口を利いてくれないことには少なからず不満があった。昔よりもずっと平和になった今の時代、声を出さぬという約束事をいつまでも保ち続けていることにどれ程の意味があるというのか、と。勇儀は毎年そう心に浮かべてみるのだが、さとりはその疑問にだけはまるで気付かぬ振りを通すし、この決まり事を守り続ける理由を教えてもくれない。心を読めない勇儀にはこの少女の考えを覚ることは不可能であるし、あれこれ推し量ったとしても本人が答えてくれぬ以上は下手な考え休むに似たりというものである。
 さとりの声が聞きたい、と勇儀は思う。あるいは自分の声で語りかけたいと。たとえ声を出さずに意志の疎通が出来る仲であるとしても、いや、それほど深い仲であるからこそ、物足りないと思うことも多い。
 さとりは友人だ。勇儀にとっては、鬼の仲間たちに勝るとも劣らぬぐらいに大切な存在なのだ。
 ただでさえ、一年に一度しか会わぬと約束している仲だ。寄り添い、触れ合い、語り合い……出来る限りのやり方で心を通わせたいと思うのが当然ではないかと、勇儀は思う。
 それとも、さとりは違うのだろうか。そんな、鬼には似合わぬ弱気な疑念すら心に浮かんでくる。そんな勇儀に対し、さとりはやはり無言のまま何も答えてはくれないのだった。
 いかんな、と思って勇儀は小さく首を振る。せっかく友人と過ごせるわずかな時間を、こんな風に煩悶したまま終えるというのは実に馬鹿らしいことだ。
 喉の辺りに引っかかっている不満を飲み下すように、勇儀は猪口に注がれた酒を一口に流し込む。そうしてふと前を見ると、さとりが銚子ではなく外套を差し出していた。繕い物が終わったらしく、ほっそりした顔には穏やかな微笑みが浮かんでいる。
 心に柔らかな感謝の言葉を浮かべながら、勇儀は片手で外套を受け取る。何となく立ち上がって袖を通してみると、いつもよりも着心地がいいような気がした。そう思ってさとりを見下ろすと、おかしそうな苦笑いが返ってくる。破れ目を繕った以外は特に何もしていないらしい。
 大事そうに裁縫道具を片付け始めるさとりのそばにまた座り直しながら、勇儀は外套の裾を走る縫い目を指で静かになぞった。丁寧で細やかな糸の波は、外套と同色の黒い色だ。遠目に見れば補修されていることは分からないだろうから、みすぼらしい印象はまるでない。そんな縫い目にさとりの心遣いが現れているようで、勇儀は自然と頬を緩ませる。
 この外套に身を包んで街を行けば、たとえ一人のときでもさとりの存在を身近に感じられるだろうか。偽りなき本心を言ってしまえば、彼女自身がそばにいてくれるのが一番望ましいのだが。
 しかしさとりは、そんな想いに対してもやはり答えを返してくれない。こちらに背を向けたまま何事もなかったかのように裁縫箱の蓋を閉め、また元の場所へと戻しに行く。
 例年と何ら変わらぬさとりの態度に、勇儀は小さく息を吐いた。さとりは今も昔と同じように、こちらの立場を考えて遠慮しているのだろうか。それにしたって、声を出して会話することぐらいは構わないと思うのだが。
 彼女がこの決まり事を今も守り続けようとする理由について、勇儀は幾度も想像を巡らせたことがある。無言の中で培われてきた二人の友情を大事にしようとしてくれているのだ、と好意的に解釈することもあれば、これ以上親しくするつもりはないという拒絶の意思表示なのではないかと、柄にもなく弱気なことを考えることもある。
 本来の勇儀であればこんな風にグダグダと考えたりはせず、相手に直接問いただしているところだ。しかし、さとりに対してはいくら返しても返しきれない程の恩義がある。手前勝手な都合で彼女の意志を無視するわけにはいかなかった。さとりがその他に何の要求もしていないことを考えれば尚更、この決まり事だけは絶対に守らなければならない。
 だが、そうと心に決めていても……いや、決めているからこそ、勇儀は思い描かずにいられない。
 二人が多くの妖怪たちと共に長い時間を賭けて守り、慈しんできた旧都の街並み。静かに雪が降りつのる町中の道を、何一つ思い煩うことなく、笑い合いながら歩いていく。地底の闇に浮かぶ提灯の灯火の下、賑やかな囃しと懐かしい笛の調べに耳を澄ませながら。
 そんな遠い光景に想いを馳せていた勇儀は、ふと、さとりが動きを止めていることに気がついた。部屋の隅に戻した裁縫箱の蓋に両手を置いたまま、微動だにしない。
 何故かその背中がさっきよりも小さく見えて、勇儀は思わず口を開きかけた。だが呼びかけるよりも早く、さとりが慌てて振り返ったため、苦笑混じりに再び口を閉じた。声をかける機会を逸したのは少し残念だったが、緩やかな足取りでこちらに戻ってくるさとりが安堵しきった微笑みを浮かべていたため、とりあえず良しとしておくことにした。
 そうしてまた傍らに座ったさとりの姿を見たとき、勇儀はあることを思いついた。その思いつきを心に浮かべてさとりの顔をじっと見つめると、彼女は数瞬困ったように俯いたあと、薄らと頬を染めて小さく頷いてくれた。
 さとりに感謝の微笑を向けた後、勇儀は立ち上がって窓際に歩み寄った。障子を引き開け、固く閉ざされた鎧戸を力強く開け放つと、地底を渡る冷風が雪と共に勢いよく吹き込んできた。遠い地底の闇に煌めく旧都の灯に目を細め、勇儀は再びさとりのそばに戻る。
 もうこうなることが分かっていたためか、さとりは今日最初に勇儀を出迎えたとき身につけていたマフラーを、今また首に巻き付けていた。それでもやはり寒いのか、小さく肩を縮めている。勇儀は彼女の隣に座って、外套の袖から腕を引き抜くと、誘うような仕草で大きく布地を持ち上げた。さとりは外套と勇儀の顔とを困ったように見比べていたが、こちらが姿勢を変えずに黙って待っていると、やがて躊躇いがちにすり寄ってきた。勇儀は歯を見せて笑い、さとりの細い体を外套で包み込む。少女は小さく息を漏らしながら、半ば引き寄せられるような形で鬼の体に身を寄せた。かすかに頬を染めながら、ほんの少し気恥ずかしそうに身じろぎする。
 そうして二人は、外套の中で身を寄せ合う。だが、いくら勇儀の長身に合わせて仕立てられたものとは言え、本来あくまでも一人で着るためのものである。二人の体をすっぽり包み込むほどには大きくない。さとりが勇儀に密着しても、外套の前面は開いてしまっていて、窓から吹き込んでくる寒風を防いではくれない。それでもさとりの体温を肌で感じているから、勇儀は少しも寒い気がしないのだった。
 そうして寄り添ったまま上手く姿勢を整え、勇儀は長年愛用している横笛を取り出した。今日、ここに来る前に出席していた宴会で一芸を披露していたため、外套の内ポケットに入ったままになっていたのだ。
 開け放たれた窓の向こう、遠い闇に煌めく旧都の灯をさとりと共に見つめながら、勇儀は横笛に唇を寄せる。高く柔らかな音色が、吹き込んでくる風の中で伸びやかに響き始めた。笛の音は、旧都の町中で少女妖怪が奏でていたものと同じ旋律を紡ぎ出す。単純だが素朴な趣のある、いつの世も奏でられ続けてきた、古くも新しくもある曲。勇儀もさとりも地上を追われてきた妖怪たちも、地上を知らない地底生まれの子供たちも、時の彼方に去っていった仲間たちも、誰もの胸に根付いている懐かしい音色。
 そんな誰もが知る曲を吹奏しながら、勇儀は旧都の灯に視線を注ぐ。遠く過ぎ去っていった日々の記憶が、次々と脳裏に浮かび始めた。
 地獄から切り離され、打ち捨てられた旧都に、鬼狩りから生き延びた仲間たちと共に逃れてきた日。忌み嫌われて地上を追われた日陰者の妖怪たちに安息の地を作ってやろうと決意したこと。地上を追われた怒りや絶望から立ち直ったたくさんの友人たちと手を取り合い、過酷な日々の中で次々と倒れていく仲間の骸に涙をこぼし、冷たい地底の闇の中で新たな命が産声を上げるのに体が打ち震えんばかりの歓喜を覚えた。
 笛を鳴らし続けながら、勇儀は遠い旧都の灯に目を細める。深く閉ざされた地底の闇の中では頼りなくすらあるあの光が灯るまでに、これまでどれほどの者たちがどれだけの想いを注ぎ込んできたものか。自分たちが流れ着いた当初、この世界には途方に暮れてしまうほど何もなかった。あったのは打ち捨てられて半ば朽ち果てた旧い街の跡と、死してなお浮かばれずに嘆きの声と共に蠢く怨霊たち、そしてはぐれ者の楽園であるはずの幻想郷にすら受け入れてもらえず、傷つき疲れ果てて自暴自棄になり果てた心寂しい妖怪たちばかりだった。
 そんな何もない荒れ地に鍬を入れて、早百数十年。
 今この目に見えているあの暖かな灯も降りつのる雪も、ここにあるのは何もかも自分たちがこの手で作り上げてきたものだ。あれらが持つ意味は、単なる照明とか技術の結晶だとか、その程度に留まるものでは決してない。あれは意志の塊なのだ。たとえ誰に否定されようとも力強く立ち上がり、自分たちの手でこの場所を住みよいものに変えていこうと、後に産まれてくる者たちをほんの少しでも心地よい世界に迎え入れてやろうという、切なる願いが作り上げたもの。
 去っていった仲間たち一人一人の顔を思い浮かべながら、勇儀は彼らに向かって胸の中で問いかけてみる。
 友よ、あの灯が見えているか。鬼狩りから逃れて折角拾った命を散らしてまで、お前たちが無心に守ろうとしたもの。地底の深い闇の中ではほのかで頼りなく、しかし力強いあの輝き。
 出来ることなら彼らと一緒に宴の火を囲んで酒を酌み交わし、陽気に笑いながらあの灯火を見つめてみたかった。過酷な日々に傷つきながらもなおここにあることに堂々と胸を張りながら、共に肩を組んで生きる喜びを唄ってみたいと。
 今はもう、叶わない願いだけれど。
 そのとき下の方からほっそりとした人差し指が伸びてきて、勇儀の目元を労るように撫でた。まるで涙を拭おうとしたかのようなその仕草に驚いて見下ろすと、腕を伸ばしたさとりが泣きそうな顔でこちらを見上げている。勇儀が目を瞬いて見返すと、さとりははっとしたように慌てて腕を引っ込め、ほんのり赤い頬を隠すように体ごと顔を背けた。胸元に抱きしめられている指先は、もちろん涙で濡れてなどいない。
 勇儀はさとりが何をしようとしてくれたのかを悟って、にんまりと唇をつり上げた。外套にくるまったまま横笛を仕舞いこみ、彼女の肩に腕を回して少し強引に抱き寄せる。そうしてにやけたまま顔を近づけてやると、さとりはますます顔を背けた。さらに近づくと、座ったままこちらに背を向けてしまう。心を読めずともさとりの胸の内が伝わってきて、勇儀は小さく微笑んだ。
 そうして間近にあるさとりの細い背中を見つめていると、一つのことが確信できる。やはり、自分と彼女の胸の内には、同じものが深く根付いている。声を出すのを拒んでいるのに笛を吹くことを許してくれたのは少々不思議だったが、あの音色に包まれて旧都の灯火を見つめた今となっては、もはや疑いようもない。さとりのことを親友だと思っているのは自分の独りよがりや思いこみなどではなく、彼女の方でもその気持ちを共有してくれているのだと、疑いようもなく信じられる。
 だからもう、いいのではないだろうか。
 今は昔と比べれば格段に平和な時代だ。平和な時代を作り上げることが出来たという確信がある。覚り妖怪と鬼とが協力関係にあると知れたところで、さほど不都合なことはあるまい。今までさとりが旧都のためにどれだけ尽くしてくれたのか、その献身と功績を公開し、彼女がとても素晴らしい女性であると皆に分かってもらっても、いいのではないだろうか。恩義に報いるとはそういうことなのではないのか。
 その第一歩として、声を。封じていた声を発して語り合い、新たな関係の始まりとしたいと、勇儀は思う。
 細い背中を見つめていても、さとりは何の反応も寄越さない。こちらの考えは伝わっているはずだし、これは了承してもらったと考えてもいいのだろうか。
 ほんの少し期待しながら、小さく口を開きかける。しかしその瞬間さとりが素早く振り返り、先ほど勇儀の目元を拭った人差し指を、唇に強く押しつけてきた。
 口を閉じ、無言で見つめる勇儀の視線の先で、さとりは俯いたまま表情を見せてくれなかった。



 その後もしばらく無言のままで過ごした後、二人の密会はあらかじめ決めていた時刻に何事もなく終了した。勇儀はこの後また鬼としての仕事に従事するし、さとりは地霊殿で妹やペットたちと共にのんびりと年越しをするのだろう。何もかも例年通りである。
 一人外套に身を包み、雪駄を履いて入り口の木戸を開けると、雪の勢いが来る前よりも少し強くなったようだった。年の暮れだからと言って少し張り切りすぎなのではないか、と勇儀は苦笑を漏らしてしまう。
 外套の裾を翻して振り返ってみれば、戸口まで見送りにきてくれたさとりの姿がある。また細い首に赤いマフラーを巻いて、雪の舞う地底の闇を勇儀の肩越しに思案げに見上げている。
 と、さとりは微笑みながら小さく手招きした。何のつもりか、と困惑しつつも軽くかがみ込むと、さとりはマフラーを外しながら背伸びをし、優しい手つきで勇儀の首に巻き付けた。
 それで首回りが随分暖かくなったが、しかしこれではさとりが困るのではないか、と勇儀は思う。
 だが口を開こうとするとまた人差し指でそっと唇を塞がれてしまったため、もはや苦笑を漏らして受け入れるしかなかった。
 やや名残惜しさを感じながら軽く手を上げると、さとりは折り目正しく頭を下げた。彼女の小さな体を見つめていると、様々な想いが胸の中で複雑に渦巻いたが、勇儀は敢えてそれらを無視して踵を返す。うじうじと留まれば留まるほど、それだけ長くさとりの身を寒風の下に晒すことになると思ったからだ。
 そうしてまた例年通り一人で旧都への帰路を辿りながら、勇儀は小さくため息を吐く。今年こそはと思っていたが、結局何も変わらないままだ。恩義に報い切れていないというもどかしさと、それがさとりの望みなのだからこれでいいのだという想いとが、相変わらず胸の底にわだかまっている。さとりが決まり事を変えない理由も未だ分からぬままだ。
 どうやら来年もまた、このことについてはあれこれと煩悶する日々を送ることになりそうである。豪放磊落を旨とする勇儀も、こればかりは自分の考えを押し通す訳にはいかないのだった。
 雪の降る道を歩きながら、勇儀はふと、昔さとりに協力を頼みに行ったときのことを思い出す。あのとき彼女は勇儀の話を聞くと、ほとんど逡巡することなく申し出に応じてくれたものだった。理由を聞けば照れくさそうな笑顔と共に、妹やペットたちが暮らす世界がいい場所であってほしいからだ、という答えが返ってきた。
 要するにとことんまで無欲な少女なのかもしれないな、と勇儀は思う。さとりはもう地底が住みよい世界になったというだけで満足していて、これ以上何も望んでいないのではないかと。恩義に報いたいという勇儀の気持ちを酌んで会ってくれているだけで、本心を言えばこれ以上は特に何もしてくれなくていいと思っているのではないか、と。
 そう考えるとますますどうしていいか分からなくなってきて、勇儀はまた似合わぬため息を漏らしてしまう。
 誰かにマフラーのことを尋ねられたら情婦にもらったとでも答えておこうかと、苦し紛れにそんなことを考えた。



 入り組んだ路地の陰へと勇儀の姿が消えるのを確認し、さとりはようやく口元から微笑を消した。細く震える息を吐き出し、戸口に寄りかかるように身を寄せて、木の枠をぎゅっとつかむ。唇を噛みしめながら、痛みを堪えるように目を閉じた。瞼の裏に勇儀の背中が浮かんできて、思わず声を漏らしそうになってしまった。
 なんて大きな背中だろう、とさとりは思う。あの人は昔と変わらず、いや、昔よりもずっと広く、寄りかかりたくなるような背を見せて歩き去っていった。
 何もかも忘れて、あの背にすがりついてしまえたら。妹にもペットたちにも明かすことの出来ない胸の内の孤独や苦しさを、泣きながら打ち明けることが出来たら、自分はどれほど救われるだろう。
 何度も夢見てはそのたび封じてきた想いを、さとりは今も強く戒める。それは許されないことだ、と。
 声を出さないという決まり事を今も頑なに守っているのも、似たような理由だ。一言でも言葉を交わしてしまえば、もう堪えきれずに何もかも打ち明けてしまいそうだから。だがやはり、それは許されないことなのだ。
 勇儀はもう平和な時代になったのだからと楽観的に考えているようだが、さとりはそうは思わなかった。確かに地上を追われてきた当初と比べて、住人の心はずっと穏やかになっている。だが世界から拒絶されたという傷は消えてしまったわけではない。心の奥深くに隠され、今も時折痛みを走らせるのだ。
 心を見透かす覚り妖怪の存在を意識するとき、彼らは自らの胸に隠した傷跡を思い出さずにはいられないだろう。それら全てが他人に暴かれてしまうかもしれないという恐怖に、心を乱さずにはいられないだろう。だからさとりは、たとえどんな世界であっても、自分のような存在は人前に出るべきではないと思っている。
 そんな考えを勇儀が知ったら、きっと鼻で笑い飛ばすだろう。彼女の大らかな優しさや、義理を重んじ恩に報いようとする実直さは、何とかしてさとりをこの世界に受け入れさせようとするに違いない。たとえその行動で、周囲に少なからぬ波紋を起こそうとも。
 だからこそ、さとりは自分の胸の内を勇儀に知られるわけにはいかなかった。彼女がどれほどこの地底世界を大切に思い、愛しているかを、さとりは誰よりもよく知っている。その気高い誇りを、嫌われ者の覚り妖怪ごときのために台無しにしてしまうなど、絶対に許されないことだ。
 だから、これでいい。
 自分が何を考えどういう感情を抱いていたとしても、それが勇儀に伝わってほしいとは思わない。
 思っては、いけないのだ。
 さとりはしばし戸口に佇み、寒風に身を晒しながら気持ちを落ち着けようとした。さすがに少々肌寒いが、マフラーを渡したことは微塵も後悔していない。この日のために何日もかけて編んだものなのだから。勇儀が少しも気づいていなかったのは、おかしくもあり寂しくもあったが。
 そうしてさとりは木戸を閉じると、靴を脱いで二階に上がり、先ほどまで勇儀と共に過ごした部屋へと戻った。今はもう鎧戸も閉じられ、部屋の中は四隅に浮かべた妖火で明るく照らし出されている。隅には裁縫箱があり、中央に鎮座した火鉢のそばには空の銚子と猪口が転がっている。
 そのそばに座りながら、さとりはふと、勇儀が協力を申し出に来た日のことを思い出した。こちらを真っ直ぐに見つめる真剣な瞳と、それと同じぐらい純粋に、地底世界や追われてきた者たちの平穏を願っていた、大きな優しさに溢れた心。
 妹やペットたちが暮らす世界がいい場所であってほしいからだ、と勇儀に語った言葉は、嘘ではない。だがさとりが勇儀の申し出を受け入れたのは、どちらかと言えば彼女の心に触れてしまったがためだった。
 こんな大きな心の持ち主にずっと寄り添っていたいと、願ってしまったから。
 願うべきではなかったのかもしれない。勇儀にはもはや自分の協力など必要ないのだから、もう二度と会わないべきなのかもしれない。
 それでも、彼女の気持ちを完全に無碍にするのは申し訳ないから、などと言い訳して一年に一度の密会を続けているのは、さとりの心の弱さ故だった。そのために勇儀を悩ませ、だからと言って恩義に報いたいという気持ちを全て受け入れることも出来ず。かえって事態を悪くしていることを分かっていながら、どうすることもできずにいる。
 今出来ることはただ、声を封じて気持ちを隠しながら、無言の抱擁に応えることだけ。
 嗚咽の衝動がこみ上げてきてどうしようもなくなり、さとりはぎゅっと目を閉じながら傍らに向かって手を伸ばす。
 空の猪口に唇を寄せて、瞼の裏が熱いのは酒のせいだと思うことにした。

 <了>

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