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【モバマスSS】たまたま

アイドルマスターシンデレラガールズの西島櫂と服部瞳子のSSです。
 


『たまたま』



 まだまだ慣れないレッスンを終えた西島櫂が置き忘れた荷物を取りに事務所に帰ってくると、服部瞳子がテレビの前のテーブルに伏せて静かな寝息を立てていた。

「お疲れさまでーす……」

 小声で挨拶して、そっと近づく。
 余程疲れが溜まっていたのか、瞳子は結構深い眠りに落ちているようだった。明かりがつきっぱなしなのに、全く目覚める気配がない。

(最近なんかの撮影とかで、ずっと忙しそうだったもんな)

 音を立てないように注意しながら、テーブルを挟んだ反対側のソファに、何となく座る。
 そうしてよく見ると、明かりだけでなくテレビもつけっぱなしなのが分かった。
 つけっぱなしと言っても、映像は何も映っていない。

(服部さん、何か録画したのを見ててそのまま寝ちゃったのかな)

 それで録画された映像が終わって、黒い画面のままなのだろう。

(何見てたんだろ)

 少し気になったが、まさか起こすわけにもいかない。疲れて眠っている人を用があるわけでもないのに起こすのは良くないし、増してや相手はあの服部瞳子なのだ。

(そう……よく考えたら、ちょっと前までテレビでしか見たことなかった人が目の前にいるんだよな)

 改めてそう考えると、少し緊張してきた。
 櫂は最近スカウトされてこの事務所に入ったばかりだが、瞳子のことはアイドル候補生になる前から知っていた。
 どこか影のある雰囲気を背負いながらも、決して折れぬ芯の強さを感じさせる演技と歌声で、特に同年代の女性から広く支持を得ている遅咲きのアイドルだ。
 相当前から活動してきた芸歴の長い女性らしいが、櫂はつい最近テレビ番組で目にするまで、彼女のことを少しも知らなかった。
 それもそのはず、服部瞳子はまだ少女の頃にデビューして以来、十年以上もの間ずっと成功の機会に恵まれず、齢二十五の今にしてようやく名が知られるようになってきたという苦労人だった。
 彼女のそんな経歴を知れば、あの深く重みのある歌声は長年の艱難辛苦の末に作り上げられたものか、と誰もが納得するという。
 櫂自身非常に納得し、同時に瞳子に対してある種の感情を抱くようになった。
 それは、尊敬――いや、畏敬の念と呼ぶべきものである。

(……この人から見たら、あたしなんて半端者にすら見えないのかな)

 眠る瞳子をぼんやり見つめていたら、ふとそんな考えが浮かんできた。

(プールに近づかなくなってから、もうどのぐらい経つっけ……なんて、言うほど長いもんじゃないか。スカウトされてからまだ二週間ちょっとだもんな。でも、もう何年も泳いでない気がする)

 自分の手足をじっと見つめてみる。
 幼い頃からずっと水泳を続けてきた結果作り上げられた、泳ぐための筋肉。水中を自由自在に動き回るための、しなやかな肉体。
 今はまだ、スカウトされる前と目に見えて違っているところはない。
 だが、それも今だけのことだろう。

(このままアイドルとしてのレッスンを受け続ければ、この身体はアイドルらしいものに作り変えられて……そしたらもう、昔は泳ぐために使われてたなんてことは、自分でも信じられなくなっちゃうんだろうな。今、そういう自分に変わっていっている最中なんだ)

 そのことを自覚するたび、櫂は不安に囚われる。
 そうして努力を続けて、アイドルとしての自分になりきって……それでもまた、上手くいかなかったらどうしたらいいのだろう。
 そのときの自分は、今度はどこへ流されていくのか。
 流された先で、今度は何になるのか。
 それを考えると、怖くて怖くてたまらない。

「……あーっ、やめ、やめっ!」

 まるで足を絡み取られたようにどんどん暗い深みへ沈んでいきそうになる気持ちを、首を振って振り払う。
 最近一人になるとすぐこれだ、と櫂は力なく笑う。自分はこんなに暗い人間だったのか、と自分でも驚いてしまうほど。

(プロデューサーにスカウトされたとき、こんな風に考えるのはもう止めようって決めたはずなのにな)

 記録が伸び悩んでもうプロになるのは無理だと悟り、では自分は何をしたらいいのだろうと迷っていた、ちょうどその頃の出会い。
 あのときは、これはアイドルになれという天啓に違いない、などと心の底から信じきったものだが。

(なのに、どうしてこうなっちゃうんだろ)

 櫂はため息を吐く。
 本当の所、自分でも理由は分かっていた。
 ここに来る前まで、周りにはいつも、一緒に泳ぐ仲間がいた。
 落ち込んでいるときも一人きりということはまずなかったし、そんなときでも友達と騒いでいるだけで悩みを忘れられたのだ。
 だが、そんな仲間たちももういないし、会うこともできない。

(あたしは水泳を捨ててアイドルの道を選んだんだ。ちゃんとケジメをつけないと)

 そう心に決めているから、プールに足を運ぶことも、まだ水泳の道を志している仲間たちに連絡を取ることもしていない。未練を断ち切らなければと、我慢している。
 一人でウジウジと悩んでしまうのは、そのためだと思う。
 まだ入って日が浅いせいもあるのだろうが、事務所のアイドルたちとも何となく打ち解けられないままだ。

(今だけさ。慣れてくればその内水泳のことだって忘れられるし、この事務所のアイドルの一人として、前みたいに明るく振る舞えるようになるって)

 何度となく自分に言い聞かせているその言葉も、どこか空虚に思えてしまう。
 本当に、上手くいくのだろうか。
 本当に、変われるのだろうか。
 頭に浮かぶのは、そんな疑問ばかりだった。

「……って、まーた暗くなってるし……ダメダメだなあ、ホント」

 言葉と共にため息を吐きだす。
 少し独り言が大きくなってしまったかもしれないが、瞳子はまだ起きる気配がない。

(よっぽど疲れてたのかな)

 そんなことを考えながら、何となく周囲を見回す。
 事務員のちひろもどこかへ出払っているのかあるいは帰ってしまったのか、事務所の中は誰もおらず何の音もせず、ひどく閑散としていた。元々あまり広くはないが、今は尚更狭苦しく思える。
 他のアイドルたちの現状は様々だ。泊まり込みのロケに行っている者もいれば、ドラマや歌番組の収録に出ている者もいる。数は少ないが精鋭揃いの事務所なのだ。
 櫂はたまたまプロデューサーの目に留まってスカウトされたという経緯のため、同期の仲間が一人もいない。
 故に、今は先輩アイドルたちの活躍を横目に黙々と地味なレッスンを積み重ねている最中であり、本当に自分も皆のように活躍出来るんだろうか、と気が焦ってしまうのが本音である。

「……と、ヤバい、まーた考えが暗い方向に……」
「……ん」

 不意に小さく呻いて、瞳子が薄らと目を開けた。
 挨拶すべきだろうか、と迷っていると、ゆっくり身を起こして目を擦り始める。

「……ああ、ごめんなさい。居眠りしていたのね」

 テレビで聞くのと変わらない、非常に落ち着いた声で言いながら、薄らと微笑む。
 それがまた何とも影のある微笑に見えて、ついつい彼女の苦労を連想してしまう。

「ど、ども。お疲れ様です」
「ええ。お疲れ様……恥ずかしいところを見せてしまったわね……」

 照れ臭そうに言う瞳子に、櫂は首を振る。

「そんな、仕方ないですよ。服部さん、全然休んでなかったじゃないですか」
「瞳子でいいわ……ええと、西島さん」
「あ、それならあたしも櫂でいいです」
「そう……よく考えてみたら、こうしてお話するのは初めてかしら……ごめんなさいね、今までちゃんと挨拶出来なくて」
「いやそんな、ははは……あたしなんてまだペーペーですし」

 一応、名目上は櫂も同じアイドルだが、テレビで活躍する女優と話すとなるとさすがに緊張する。
 櫂の表情がぎこちないのを見て取ったのか、瞳子は気遣うように微笑みながらそっと立ち上がった。

「コーヒーでも淹れましょうか……櫂さんもいかがかしら?」
「えっ、いやそんな、あたしが淹れますんで」
「そんなに気を遣わなくても大丈夫よ……少し待っていてね」

 やんわり止められたので、櫂は渋々座り直す。
 そのまま瞳子がコーヒーを用意するのをじっと待っていたが、どうにも落ち着かない。
 芸能界は運動部以上に上下関係が厳しい世界と思い込んでいたが、この事務所はそうでもないのだろうか。

(……いや、それ言ったら大先輩の寝顔をのん気に眺めてた時点で物凄い失礼かも……)

 櫂が一人悔やんでいると、

「どうぞ……」

 と、目の前にコーヒーが差し出された。慌てて「ありがとうございます」と、両手で受け取る。

「櫂さんは礼儀正しいのね……」
「あ、えっと、ずっと水泳部だったもんで、はい」

 しどろもどろになって応えると、瞳子は懐かしむように目を細めた。

「そう、水泳部……きっと、楽しかったでしょうね……」
「ええまあ、気のいい仲間にも恵まれて、毎日毎日泳いでばっかで……ははは、学生なんだからちょっとは勉強しろって感じっすよね」
「ふふ……いいじゃない……友達と思い切り遊んだ時間って、きっと一生の財産になると思うわ……」

 そんなことを言われて、ちょっとじんときた。
 よく考えると別段大したことは言われていないようにも思うのだが、柔らかな優しい声音のおかげか、自然と言葉が胸に染み渡るのだ。
 まるで、聞いているだけで仲間たちとの楽しい思い出が脳裏に甦ってくるような。

(さすが、ベテラン女優は違うなあ……)

 櫂がしみじみとその気持ちに浸っていると、瞳子はその柔らかな声音のまま、

「私はその頃、毎日一人でレッスンしていたわ……」
「……えっ」
「……ちょうど、仲間が皆アイドルを辞めてしまった頃で……事務所にお金もなかったものだから、あまり良いレッスン場が借りられなくてね……年配のトレーナーさんと一緒に、雨漏りの修繕をしたりしたわ……」
「……」

 ――どう返せばいいんだ、これ。

「……そ、そうなん、ですか」
「ええ……そのトレーナーさんはとても優しい方だったのだけれど、労働環境のせいか体を壊してしまわれて……そのままそのレッスン場は閉鎖されてしまったの……」

 静かに語ってコーヒーを一口啜ると、

「懐かしいわ……青春の思い出ね……」
「……」

 このコーヒーはこんなに苦かっただろうか。
 暑くもないのに、背中に汗が滲んでくる。
 自分が楽しい青春を送ってきたと話したばかりだから共感を示すわけにはいかないが、かと言って笑ったり茶化したり出来るはずもない。
 ちなみに薄暗い青春を送った当の本人は別段こちらを困らせる意図はないらしく、むしろ懐かしい思い出を振り返ってちょっと上機嫌そうですらあった。
 もちろん、アイドル業界はそんな甘いもんじゃないのよ、という説教の類でもなければ、同情を引くための不幸自慢でもないようだ。
 本当に、ただ普通に、話の流れで自分の思い出を語ってみせただけ、らしい。

(もしかしてちょっと天然入ってるのかな、この人)

 そんな、失礼なことまで考えてしまう。

「……ああ、そうだわ」

 ふと、瞳子が何か思い出したように目を細めて、

「レッスン場と言えば……こんなこともあったわ……」

 ――続けるんすか、この話。

 急速に事務所の空気が重くなっていくような錯覚に、櫂はごくりと唾を飲み込んだ。



 そうして三十分ほども、櫂は瞳子が歩んできた苦難の過去を聞かされる羽目になった。
 曰く、地方で仕事だというので聞いたこともないような田舎にバスを乗り継いで行ったら、客がいない夜の体育館で二時間も歌い続ける羽目になったとか。
 曰く、所属した事務所が五回ほど連続で潰れてあちこち転々とする羽目になり、極めつけに裏ビデオに出演させられそうになったとか。
 曰く、やっと仕事が取れて現場に行ってみたら聞いていた内容と全然違い、ほとんどスタントマン同然の危険な汚れ仕事をやらされて危うく死にかけたとか。
 その他にも、アイドルどうの以前によく生きてるなこの人、と感心したくなるエピソードが盛り沢山。

「……大変だったけれど……こうして振り返ってみれば、みんないい思い出だわ……」

 瞳子は懐かしそうにそう言うが、聞いていてとてもそうは思えなかった。
 櫂としてはただ曖昧に笑って誤魔化すしかない。

(本当に苦労してきたんだなあ、この人……)

 とりあえず、そのことだけは嫌というほどよく分かった。
 改めて間近で見てみると、テレビ画面越しにも窺えた苦労人オーラが、より一層強く感じられるような気がする。
 もっとも、やはり本人の方はただ自分の思い出話を語っているだけという感じの、ある種のほほんとした雰囲気なのだが。

(辛いのに慣れ過ぎちゃって感覚が麻痺してんのかな……いや、そんな言い方は失礼か)

 つまるところ、これも長年の苦労で培われた精神的な強さというやつなのだろう。
 その強さが彼女の言葉や仕草に重みを与え、辛い現実に打ちのめされている者たちに、再び立つ力を与えるのだ。
 何があっても諦めず、歯を喰いしばって一つの道を歩み続けてきた服部瞳子だからこそ、つかみ取ることが出来た武器。

(きっと、あたしにはもう手に入れることのできない、武器)

 櫂はぎゅっとマグカップを握りしめる。

「あの」

 思い切って、訊いてみた。

「瞳子さんは……アイドル辞めたいって思ったこと、なかったんですか」

 不躾だと知りつつも、訊かずにはいられなかった。
 瞳子は急な質問に少し驚いたようだったが、特に気分を害してはいないようだった。

「……辞めたいと思ったこと……」

 呟き、今までと同様また懐かしそうに目を細め、

「あるわ……数え切れないぐらい」
「……そうですか」

 櫂は、ただ一言そう返すしかなかった。
 考えてみれば当たり前だ。聞いているだけで気が重くなってくるような過去なのに、実際にそれを体験してきた本人が一度も辞めたいと思わないなど、あり得ないことではないか。
 そもそも、どんな答えを期待していたのだろう。仮に「ない」という答えが返ってきたところで、既に一つの道を諦めてしまった自分がそれを参考にしたり、真似したりできるはずもなかったのに。

(バカだな、あたし。なんでこんなに未練がましいんだろ)

 目の前に瞳子がいるのに、ため息が零れてしまう。
 そんな櫂の様子を見ても、瞳子は特に何も言わなかった。かと言って冷淡に無視しているわけでもなく、ただ思慮深く穏やかな眼差しで、こちらの言葉を待ってくれている様子だった。
 きっと、悩みを打ち明ければ真摯に聞いてくれるだろうし、彼女なりにアドバイスもしてくれるのだろう。

「そういえば」

 しかし、櫂は敢えて無理矢理話題を変えた。
 瞳子が受け入れてくれるからこそ、甘えたくない。
 それは馬鹿げたプライドだったが、だからこそ守らなくてはならないものだと思えた。

「瞳子さん、テレビで何を見てたんですか?」
「……ああ……」

 瞳子は、思い出したように頷いた。

「昔の録画映像を見ていたの……わたしの」
「え、昔の瞳子さんですか?」

 櫂は驚いた。
 服部瞳子は長い間売れずに燻っていて、最近になってようやく知られ始めた遅咲きのアイドルだ。
 それなのに、昔の映像なんてものが残っていたとは。

「って言うと、レッスン風景とかですか?」
「ううん……テレビの、歌番組に出たときの映像よ」

 瞳子はほんの少しだけ誇らしそうに言う。

「歌番組って……瞳子さん、昔もそういうの出たことあったん……っと、すみません!」
「ふふ……いいのよ。もう知っている人も少ないでしょうし」

 櫂の失言にも、瞳子はやはり気分を害した様子はない。
 むしろ何か、名案を思いついたような様子で手を合わせ、

「そうだわ……せっかくだから、一緒に見てくれる?」
「え、いいんですか?」
「ええ……昔の私の姿、今の仲間にも知っていてもらいたいの……櫂さんが嫌でなければ、だけど」
「い、嫌だなんてそんな! 是非お願いします!」

 櫂は勢い良く頭を下げる。
 あの服部瞳子の昔の映像なんて、まだテレビでも放映されていない非常に貴重なものだろう。
 その上、彼女自身から身の上話を聞かされた今となっては、余計に気になる。
 一体、昔の彼女はどんなアイドルだったのだろう。

「ありがとう……じゃあ、見ましょうか……」

 瞳子がリモコンを操作して映像を巻き戻す。
 最近のものよりは若干古めかしい雰囲気の歌番組映像が流れ出し、司会がはきはきとした声で言う。

『……それでは、最近CDデビューしたばかりのフレッシュなアイドルに登場して頂きましょう。服部瞳子さんです!』

 拍手と共に、一人の少女がステージに歩み出る。
 見るからに華奢で心細そうで、儚げな雰囲気の少女だった。
 多分、今の櫂よりも一回りほど年下だろうが、顔には現在の服部瞳子の面影がある。

「ふふ……なんだか恥ずかしいわね……」

 瞳子が少し照れくさそうに言う。

「昔の私、子供っぽくて……苦労知らずのお嬢ちゃんっていう感じでしょう……?」
「そ、そう、ですね」

 櫂はそう答えるしかなかったが、本音を言えば全く違う感想を抱いていた。
 苦労知らずどころか、相当な苦労を背負いこんでいそうな雰囲気だった。歳に似合わぬ悲壮感のようなものが全身から滲み出ているようで、テレビの画面越しに見ていてもこの子は大丈夫なんだろうか、と意味もなく不安になってくるほど。
 どこがフレッシュなんだろう、というのが正直な感想だ。

(下手すると今の瞳子さん以上に苦労してそうだ……)

 もちろん、口に出しては言えない感想である。
 どうやら当時の共演者たちも同じ感想を抱いたらしく、歌い終えた瞳子がゲスト席に戻って司会と話している間も、なんだか見てはいけない物を見てしまったような気まずそうな顔をしていた。
 司会者自身も地雷を踏まないように相当気を遣って話しているような感じで、下手すると罰ゲームに見えるほどだ。

『えー、それでは次の方……』

 トークの時間が終わって次の歌手を紹介し始めたら、共演者も司会者も露骨にほっとした空気になった。
 そんな中、少女の頃の瞳子は一人俯いて黙っている。なんだかそこだけ照明も暗くなっているように錯覚するほど。

「こういう仕事苦手だったの、昔……人と話すのも苦手で、このときもとても緊張していて……周りも年上の人たちばかりで、怖かったのよね……」

 多分周りの人たちはもっと怖かったと思いますよ、とは口が裂けても言えない。

(当時のプロデューサーはなんで生放送の歌番組に出したんだろう……?)

 一瞬疑問に思ったが、よく考えてみれば分かり切ったことだった。
 それだけ、この機会に賭けていたということだろう。
 瞳子が苦手とする場に押し出してでも、彼女にチャンスをつかませてやりたかった。

(でも、その結果は……)

 現在の彼女の経歴を思い出してみれば、いちいち考えるまでもない。

「……成功、できなかったのよね……」

 ぽつりと、瞳子が寂しそうに言う。

「テレビに出たのも、この一度きりだけ……CDもほとんど売れなくて……事務所の経営にも随分悪影響が出たって聞いたわ……このときのプロデューサーさん、頑張って下さったのだけれど……私は、その期待に応えることが出来なかった……」
「そんな……瞳子さんのせいじゃないですよ」

 空虚で無意味な慰めだと知りつつ、そう言わずにはいられなかった。
 実際、歌自体は非常に素晴らしかった。
 確かにまだ洗練されていないところはあったが、深みのある歌声だった。今多くの人の心を奮い立たせている服部瞳子の原型を、強く感じることができた。
 それでも見る人の心をつかめなかったのは、やはり年若い少女の歌にしてはあまりにも重すぎたということだろうか。
 陳腐な言い方をするなら、華がなかったのだ。

(今になってようやく、時代が……というか、本人の年齢が追いついたのかな?)

 重苦しい人生が作り上げた人格と、そこから醸し出される雰囲気が、生来の深みある声音と合致したのだろう。
 ブカブカだったドレスが成長した身体にはぴったりだったかのように、今や彼女は大輪の華となった。
 つまりこれも、服部瞳子が途中で諦めずにこの世界で生き続けてきたからこその成功ということだ。
 もしも彼女が、その道の途上で「最悪の、どん底の今」に絶望して逃げ出していたら、服部瞳子の歌はあの一つきりの映像の中に埋もれてしまったまま、二度と世に出ることはなかっただろう。

(あたしは……どうなんだろう)

 再び、思考がそこへと戻る。

(もしもあのまま水泳を続けていたら……)

 瞳子のように、いつか栄光を手にすることが出来ていただろうか。

(でも、私はもう高校の途中ぐらいから自分の限界を感じてて……意地を張って続けてはいたけれど、記録も伸び悩んでて、もうプロになるのは諦めなくちゃいけないって思って。それで、プロデューサーの誘いをまるで天啓みたいに感じたんだ……だからもう未練を断ち切らなくちゃいけないって思ってるのに、まだグダグダとバカみたいに……)

 櫂はまた、ずぶずぶと深いところに沈んでいく。
 もがいてももがいても、水面の光がどんどん遠ざかっていく。
 どこまでも暗く閉ざされた深海で、水圧に押しつぶされるように、息が苦しくなってきて、

「櫂さん」

 その声が、やけにはっきりと頭に響いた。
 はっと正気に立ち返ってみると、瞳子が控え目に、しかし心配そうな眼差しでこちらを見つめていた。

「ごめんなさい……でも、なんだか苦しそうだったから……」
「あ……す、すみません、ちょっとボーッとしちゃって。慣れないレッスンで疲れてるのかな、ははは……」

 笑って誤魔化そうとしたが、どうも上手く笑顔が作れていないような気がした。
 しかし瞳子はそれ以上踏み込んでくることなく、「そう」と穏やかに言っただけだ。
 ため息が零れそうになるのを櫂が何とか堪えていると、不意に瞳子が穏やかに言った。

「実は、この録画を見るの、初めてだったの……」
「……え?」
「手元には残していたのだけれど……見たのは、これが初めて」
「初めてって……だけど」

 櫂は混乱する。
 一度きりとは言え、テレビに出て歌声を響かせたのだ。
 今はともかく昔の彼女にとっては絶頂期だったはずだし、栄光の記録でもあるはずだ。

「瞳子さんは……これを支えに今まで頑張ってこられた、わけじゃないんですか?」
「……そうすることも、できたかもしれないわね……」

 瞳子の視線が、また過去へと向かう。

「でも、そうするのはなんだか怖かった……自分が、一度きりの過去の栄光に縋ってしまうんじゃないか、って……これが絶頂期だったのだから、この先はもう前へ進めなくてもいいじゃないかって思ってしまうんじゃないかって、怖かったの……だから、もうこのときのことはきっぱりと忘れて……今の、新しい自分として頑張らなきゃって、思ったのよ……」
「それは……」

 誰かに、とてもよく似ている気がした。

「でも、それじゃ、どうして今になって……?」
「最近は、プロデューサーさんのおかげで上手くいってるから……今なら、あのときの自分のことも、少しは冷静に見られるかなって……」

 そう言って、瞳子はおかしそうに微笑む。

「……思っていたほど、凄いものじゃなかったわ……今と同じでただただ必死だった、あの頃のわたしがいただけ……本当に、大したものではなかったの……」

 苦笑混じりに吐息を漏らし、

「こんなことなら、もっと早く見ていれば良かったかも……そうした方が、『なんだ、こんなのよりなら今の方がマシだ』って、かえって成長を実感できたかもね……」
「そんなもの、ですか……」

 なんだか、納得がいかない。

「瞳子さん」

 無遠慮すぎるとは思いつつも、尋ねずにはいられなかった。

「じゃあ、瞳子さんは、どうして今まで辞めずに続けてこられたんですか? 何度も辞めたいって思って……それでも辞めずに頑張って、今の成功に辿り着けたのは……どうしてなんですか?」

 過去の成功を根拠に、私には実力があるのだからいつかもう一度、と夢見ていたわけでもないのならば。
 辞めずに続けて来られたのはどうしてなのか。
 そこに、どんな強い想いや、秘めたる信念があったのか。

「……そうね……」

 やはり、瞳子は気分を害した様子は見せなかった。
 顎に手を当て静かに目を閉じ、じっくりと過去を振り返る様子だった。
 櫂は両手を膝に、背筋を伸ばして身構える。
 一体、どんな答えが返ってくるのだろう。
 それを聞いて、自分の中にどんな感情が生まれるのか。
 その感情が、今度こそ水泳への未練を断ち切って、自分を新たな道へと歩ませてくれるのだろうか?
 そんな風に息を潜めて見守る櫂の前で、瞳子は長いこと黙りこんでいた。
 やがて、考え始めたときと同じように、静かに目を開ける。

「……私が辞めなかった理由……それは……」
「そ、それは……!?」

 身体に力が入り、自然と身を乗り出す。
 そんな櫂の前で、瞳子は妙に可愛らしく首を傾げると、

「……たまたま、かしら……?」

 どことなく気の抜けた声で、あっさりとそれだけ言った。
 櫂は身構えた姿勢のまま、数秒ほども硬直する。
 今言われた言葉を数回ほども頭の中で繰り返し、ようやくその意味を悟ると

「……はい?」

 ぽかんと、口が開いた。
 それを見た瞳子は、なんだか少しはしゃいだ声で、

「あら……櫂さん、その表情、ちょっと可愛いわ……」
「え……あ、いや、どうも……じゃなくって!」

 思わずテーブルを叩いてしまう。

「たまたまって……ど、どういうことですか!?」
「ああ……ごめんなさい、何か、ご期待に添えない答えだったかしら……?」
「え……あ、いや、そ、そういうわけじゃ……」

 本当は図星だったので、櫂は動揺する。
 瞳子は相変わらず穏やかに微笑んだまま、

「でも、本当に……思い返してみると、たまたまとしか言いようがなくて……」
「いや、だって……さっき散々大変な目に遭った話ばっかり聞かされたのに、それでも辞めなかった理由がたまたま、ってのは、なんかどうも……」

 もう礼儀も何もあったもんじゃないことを言っているような気がしたが、あまりにも力が抜けすぎて気にしている余裕がない。
 瞳子の方も別段気にした様子はなく、また思い返すように遠い目をして、

「本当に……思うだけじゃなくて、何度も辞めかけたのよ……口で伝えるのは無理かもしれないって思ったから……辞める意志と謝罪の言葉を書いた手紙を握りしめて、事務所のドアを開けた朝もあったわ……」
「辞表みたいなもんですか」
「そうね……」
「でも、受け取ってもらえなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……出せなかったの」
「どうして?」
「そういうことがある朝に限って、決まって小さな仕事が舞い込んできていて……事務員さんもプロデューサーさんも、良かったね、良かったねって凄く喜んでくれて……そんなときに辞めるなんて言い出すのは、あまりにも迷惑だから、また仕事がないときにしようって思って……そのたび、手紙をしまい込んだの」
「……間が悪かったってことですか」
「ええ……思い返したら、本当にそういうことばかりでね……だから、たまたま」

 瞳子はくすっと微笑んで、

「でも、結果的には良かったのでしょうね……その間の悪さがなければ、きっと本当に辞めていたでしょうから……」
「はあ……」
「少し歯車がズレていたら……今頃、死にそうな顔でスーパーのレジ打ちでもしていたかもしれないわ……」

 想像してみたらあまりにも似合いすぎていて、櫂は何とも言えない気持ちになる。

「そうそう……実家の母にも、よく泣きながら電話してね……『もう私アイドル辞める。明日プロデューサーさんに伝える』『そう、頑張ったね』なんて……でもそういうことが何度もあったものだから、その内母も呆れてしまって……『あんた本当は全然辞める気ないでしょ』なんて言うものだから『今度こそ絶対やめうぅ!』なんて泣き喚いたりして……」
「なんかもうコントみたいっすね……」
「本当ね……」

 瞳子がおかしそうに笑うので、櫂としても笑うしかない。
 多分、思い切り疲れた笑いになってしまっているだろうが。

「……本当のことを言うとね……」

 不意に、瞳子は懐かしむように言う。

「そういう間の悪さを、天啓のように感じたこともあったわ……」

 天啓、という言葉に、櫂はドキリとする。

「もしかしたら、これは神様がまだ辞めるなって言ってくれてるんじゃないか、なんて思い込んで……でも、そんなのは自分勝手で都合のいい思い込みだったわ……そんな気持ちはその内萎えてしまって、またすぐに辞めようって思うようになっていたから……」
「……そんなもん、ですか」
「ええ……そんなものだったわ。強い意志や信念なんていつまで経っても持てなくて、すぐに挫けて、いじけて、揺らいで……」

 それは、ともすれば失望を誘うような、情けない告白のはずだった。
 しかし、瞳子は少しも恥じる様子がない。
 苦難に満ちた過去を、何でもない思い出話のように語っていたときと同じように。

「そう……最近ね、あの頃の友達と、連絡を取り合うようになったの……」

 急に、瞳子がそんなことを言い出した。

「友達って言うと……アイドルの、ですか?」
「そう……と言っても、その子たちは私が歌番組に出た頃には、もうとっくの昔にアイドルを辞めていたけれど」
「それは……なんていうか、気まずい、ですね」

 また自分と重なる話で、櫂はそっと胸を押さえる。
 瞳子は「ええ」と一つ頷き、

「そう、気まずかったわ……本当は、弱音や愚痴を聞いて欲しかったのだけど……そしたら、『ほら見ろ、やっぱりあんたも駄目だったじゃないか』なんて言われてしまう気がして、怖くって……そんな意地の悪いことを言う子たちじゃないって分かっていたのに、そんな風に疑ってしまう自分がまた嫌で……尚更、連絡を取れなかった。アドレスも番号も、変わっていなかったのにね」
「……あの、もしかして、なんですけど」

 少しばかり嫌な予感のようなものを覚えて訊く。

「その友達と連絡を取り合うようになったのも、やっぱり……?」
「ええ……たまたまよ……」
「やっぱり……」
「携帯を変えても、ずっとその子のアドレスと番号を登録したままだったのだけれど……他の人にかけるとき、押し間違えてしまって……」
「びっくりしたでしょうね」
「ええ……わたしも、その子も。だけど、話し始めたらすぐに昔みたいに打ち解けられて……嬉しかったわ、とても」

 そう言って、瞳子はまたおかしそうに笑う。

「それでね、笑ってしまうのが……向こうも、私と同じようなこと考えていたのですって」
「同じことって言うと……」
「私に連絡して、いろいろと話したいことがあったのだけれど……ずっとアイドルを続けている私に電話したら、『とっくに逃げ出した裏切り者が何の用だ』なんて軽蔑されるんじゃないかと思って、怖かったんですって……私がそんなこと言うはずないって分かっていたのに、そんな風に疑ってしまう自分がまた嫌で、尚更かけられなかったって……」
「本当に丸っきり同じですね」
「おかしいでしょう……?」
「……はい」

 案外、そんなものなのだろうか。
 勝手に、怖いものを自分の中で作り上げてしまって、勝手にその幻に怯えてしまって、本当は何でもないことを滑稽なほど怖がり続けて。
 そんなものなのだろうか。

「これ……見てもらえる?」

 瞳子が携帯電話を開いて差しだしてきた。
 なんだろうと思って見てみると、小さな女の子を抱いた女性が映っていた。

「これが、その友達……今はもう結婚して、子供もいるんですって……」
「幸せそうですね」
「ええ、旦那さんがとても優しい人で……上手くいってるんですって。それからね……」

 瞳子が次の画像を見せてくれる。
 今度は、大勢の少女たちに囲まれたスーツ姿の女性だった。眼鏡をかけた女性で背筋がピシッと伸びていて、いかにもデキる女という風情。

「これは、別の友達……今はプロデューサー業をしているんですって……」
「え、プロデューサーって……アイドルの?」
「そう……アイドルにはなれなかったけど、やっぱり何かの形で業界に関わっていたかったからって……」
「経験を活かしたってことですか」
「そうね……それから、これは」

 瞳子は次々と、何人かの女性の画像を見せてくれた。
 そこに映っている女性たちの様子は、様々だった。スナックらしき場所で煙草を吹かしている女性もいれば、トラックの前で堂々と仁王立ちしている女性もいる。幼稚園児に囲まれて優しげに微笑んでいる女性もいれば、どこかのビルの前に立つOLもいた。
 敢えて共通点を挙げるとすれば、大体の年齢層と、あとはアイドルではない、ということぐらいだろうか。

「最初に言った友達が、連絡を取ってくれて……もう十年ぐらいは会っていなかったけど、皆、元気そうだったわ……」

 瞳子は懐かしそうに言い、小さく息を吐く。

「全員と、連絡が取れたわけではないのだけれど……」
「それはやっぱり……上手くいってない人もいる、ってことですよね」
「そうね……だけど」

 と、瞳子は少しだけ明るい声で言う。

「それは、今だけかもしれないわ……もしかしたら、今は大変でも、いつか……私のように、誰かと巡り合って……全てが、明るい方向に動き始めるかもしれない……そしてそのとき、今度は私が上手くいっていなくて……今まで以上に、どん底の状態にあるかもしれない……けれど、ね」

 大切な宝物のように、そっと携帯電話を胸に抱く。

「私、もしもそうなっても……今度は、繋がりを断ってしまったりはしないわ……そんなこだわりに大した意味なんてないんだって、もう、分かったから……」

 語り終えて、瞳子は小さく息を吐く。
 黙って聞いていた櫂は、ふと、自分の体が軽くなっているのに気がついた。
 変にもがくのをやめて、力を抜いたおかげだろうか。
 光に揺らめく水面が、いつの間にか自分のすぐそばにある気がした。

(たまたま、瞳子さんの話を聞いたおかげなのかな……?)

 何とも言えない気持ちだった。
 どんな表情を浮かべたらいいのか、よく分からない。

「ああ……ごめんなさいね」

 ふと、瞳子が気遣わしげに言った。

「櫂さんが聞いてくれるものだから……つい、自分のことばかり話してしまったわ……退屈だったら、ごめんなさいね」
「いや、退屈なんてそんな。そんなことないっすよ、本当に、全然」

 重ねて否定すると、瞳子は「そう?」と少しだけ安心したようだった。

「ありがとう……そう言ってもらえると、少し気持ちが楽だわ……私、よく言われるの……」
「何をですか?」
「……お前と話してると、何でもない内容でもどうしてだか気が重くなってくるって……櫂さんも、そうでないといいのだけれど……」
「……むしろ、軽くなりましたよ」

 本心からそう言って、櫂は勢い良く立ち上がる。
 本当に、事務所に入ってきたときに比べると、体の軽さが段違いだ。
 今なら、いつまでもどこまでも、進んでいけそうな気がする。
 何のしがらみもなく自由に水の中を泳いでいた、あの頃のように。

(本当は、ずっとそうだったんだろうな。自分で勝手に重りをつけてただけで)

 櫂は小さく息を吐くと、瞳子に向かって頭を下げた。

「すみません、これから寄るところがある……いや、出来たんで、あたしはこれで失礼します」
「そう……もう遅いから、気をつけて帰ってね……」
「瞳子さんは?」
「私は……話したい人が、いるから……」
「……プロデューサーですか?」
「……ええ……」

 瞳子がはにかむように微笑み、薄らと頬を染める。まるで、少女のような仕草だった。
 やっぱり可愛い人だな、と微笑み、櫂は「失礼します」ともう一度頭を下げて入口に向かう。
 扉を開けて外に出かけたところで、

「あ、そうだ」

 と、振り返った。
 不思議そうな顔をする瞳子に笑いかけて、

「あたし、何となくなんですけど……瞳子さん、もしも少し歯車がずれてたとしても、やっぱりアイドルやってたと思いますよ?」
「え……どうして……?」
「辞めるって伝えて本当に辞めたとしても、またどこかで何かのきっかけで誰かに出会って、アイドル活動再開して……遅かれ早かれ、ここに戻ってきてたと思います」

 それは何の根拠もない決めつけだったが、櫂は不思議とそう信じられた。
 流れに逆らえず、力なく流れ流れて流されたとしても、小さな意志の一欠片でも残っていれば、いつの間にか収まるべきところに収まっている。
 そんなものなのだろうと思う。
 櫂の言葉に、瞳子は少しだけ考えるような仕草を見せた。
 それからぎこちなく笑って首を傾げ、

「本当に……そうかしら」
「そう思いますよ、あたしは」
「そう思うのは、どうして?」
「んー……強いて言うなら……」

 櫂は歯を見せて笑い、

「たまたま、っすかね。それじゃ、お疲れさまでした」

 外に出て扉を閉める直前、瞳子がひどく納得したように微笑んでいるのが、確かに見えた。



 事務所のあるビルの外に出たら、夜空に輝く星の海のただ中に、金色の月がぷかりと浮かんでいるのが見えた。
 軽く体を伸ばし、深く息を吸い込んでみる。家路を急ぐ人々で埋もれてごみごみしているはずの通りが、やけに広く感じた。
 まるで、長い時間潜ったあとで、水上に顔を出したときのような心地。

「……さて、行きますかね」

 一人呟き、歩き出す。
 ゆったり流れる波間を泳いでいると、行き交う人たちの顔が次々と視界を通り過ぎていく。
 今は自分と何の関わりもないように思える、たくさんの人々。
 もしかしたら、あの疲れた顔のサラリーマンも、かつては水の中に生きていた同志だったかもしれない。
 もしかしたら、あの能天気そうな少女たちも、いつかは自分と同じように輝く舞台を目指して歩き始めるかもしれない。
 もしかしたら、あの真面目そうな少年とは、ここですれ違ったきり二度と会わないかもしれない。
 大きなうねりと共に世界を巡る海のように、何もかもに境界がなかった。線引きをするのは人間だけで、本当は今というこの時間において全てが混ざり合い、溶け合い、曖昧になっている。
 力を抜いて海を漂い、気楽に無意味にそんなことを考えながら、櫂は鼻歌混じりに歩いていく。

(さて、ひとまず家に帰って……水着、引っ張り出さなくちゃな。それから、夜も営業してるプールを探して、駄目元で皆も誘ってみて……)

 とりとめもなく楽しいことを考えながら、櫂は遮るものもなく軽やかに流れていった。

 <了>
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