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【ゼロ魔SS】不幸せな友人たち(2)―アンリエッタ―

昔某所に投稿した、ゼロの使い魔SSです。
原作1桁巻ぐらいの頃に書いたSSなので設定が古いです。
『不幸せな友人たち』は幸せな男爵様の続きとなっておりますので、まずはそちらからお読み下さい。
 


『不幸せな友人たち(2)―アンリエッタ―』



 長テーブルの向側、上座に座ったアンリエッタが、ナイフに刺した肉を口元に持っていく途中で、不意に手を止めた。どことなく冷めた目つきで、ソースの滴る肉を眺めている。ベロー伯爵は、内心どきりとしながらも笑顔を作って問いかける。

「おや、いかがなさいました、女王様。料理に何か落ち度でも」
「珍しいですね」

 抑揚のない声が返ってきた。アンリエッタは肉を皿に戻しながら、感情の読めない視線で真っ直ぐにこちらを見つめてくる。

「ベロー伯爵家では、毒入りの料理を客に出すのがしきたりなのですか」

 その言葉で、ベロー伯爵は計画の失敗を悟った。予想外のことに慌てながらも、部屋の外に向かって声を張る。

「者ども」

 そこまで叫んだところで、不意に扉が蹴破られた。部屋の外に向いたいくつもの窓が一斉に割られ、幾人もの人間が中に踏み込んでくる。彼らが身を包む制服は、ベロー伯爵家のものではなかった。アンリエッタの側近、銃士隊の紋章である。
 呆然とするベロー伯爵を、銃士隊の隊員たちが速やかに取り囲み、銃剣の先端を突きつけてきた。眼前で鈍く光る鉄の刃に、ベロー伯爵は小さく息を呑む。

「妙な動きをなさいませぬよう」

 警告してきたのは、晩餐が始まってからずっと、アンリエッタの隣に控えていた銃士隊長、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランであった。こちらの生殺与奪を完全に握ったこの状況でもなお、その鋭い瞳は油断なく光っている。

「そうすれば、もう少しだけ長生きできましょう」

 ベロー伯爵は、この後の己の運命を悟った。体から力が抜け、椅子からずり落ちそうになる。

「な、何が……」
「状況が理解できないご様子ですな」

 こちらへの興味を失ったようにワイングラスを傾けているアンリエッタの隣で、アニエスが淡々と言う。

「万一毒に気付かれたときのことを考えて、子飼いの兵をこの部屋の周囲や屋敷中至るところに忍ばせていた。こちらを完全に信用しきった無邪気な女王は、護衛の銃士隊も最低限の人数しか連れてきていない。計画が察知された様子もないし、確実に成功するはずだ。そんな風に考えていたのではありませんか」

 己の考えを見透かされ、ベロー伯爵には返す言葉も浮かばなかった。

「貴族の権限を狭め、逆に平民の発言権を高めようとする。そんな陛下の政策に、あなたが不満を漏らしていたことは当の昔に察知していました。あえて気付かない振りをしていたのですよ、伯爵殿。何も知らない娘のように無邪気に振舞う女王陛下を見て、『こんな娘、いつでも簡単に始末できる』とあなたが思うようにね」

 数日前謁見したときのアンリエッタの姿が、ベロー伯爵の頭に浮かんだ。政治に関するニ、三の相談事に関して答えてやったとき、感極まったようにこちらの手を取って、「あなたほど頼りになるお方は、他には一人もおりませんわ」と目に涙を浮かべていた。所詮箱入り娘と笑っていた少女が、今は自分の向かい側に座り、冷めた表情でワイングラスを傾けている。

(この娘のことを、見誤ったというのか)

 王位につく前の、何も知らぬ少女の姿と、数日前に謁見したときの無邪気な様子が、ベロー伯爵の目を完全に曇らせていたらしい。完全に、手玉に取られたのだ。

(女狐めが)

 心の中で毒づいたところで、もはや何もかも遅い。アンリエッタは自分のことを許しはしないだろうし、銃士の侵入を容易く許しているところを見る限り、屋敷に潜まれていた私兵たちも全て取り押さえられているか、殺されてしまっているだろう。自分に全く気取られずに、そこまでの仕事を成し遂げたのだ。
 ベロー伯爵はガクリと肩を落とした。完全な敗北である。
 そのとき、床を見つめていた視界の隅に、見慣れぬ誰かの足が映った。銃士隊のブーツである。顔を上げると、そこに盆を持った一人の銃士がいた。無言のまま、盆の上にあったワイングラスをベロー伯爵の眼前に置く。
 グラスになみなみと注がれたワインの意味するところが分からず、ベロー伯爵は困惑する。前方に視線を向けると、ワイングラスを片手に持ったアンリエッタが、こちらを見て言った。

「毒杯です。お飲みなさい」

 絶句するベロー伯爵に対し、アンリエッタは静かだが強い口調で続ける。

「あなたは、常日頃から貴族の誇りや伝統のことを何度も何度も繰り返し口にしてきましたね。ならば、主君である女王をその手にかけようとしたことの意味は、もう十分に理解しているはず。恥じる心があるのならば、その毒杯を呷って自ら死を選びなさい。あなたとて、下賎な平民の下賎な刃に刺し貫かれて死にたくはないでしょう」

 ベロー伯爵は、全く揺れぬアンリエッタの表情と、自分に突きつけられた無数の剣先を交互に見た。助かる道はない。ワイングラスを手に取ると、液面にかすかな波紋が生まれた。手が震えている。いや、手だけでなく、体全体が。突如として眼前に迫った死に対する恐怖のためなのか、それとも計画を台無しにしたアンリエッタに対する恨みのためなのかは分からない。

(何故だ、何故こんなことになったのだ)

 女王の勧める通りに毒入りのワインを呷ることもせず、ベロー伯爵はひたすら自問自答を繰り返した。

(何故計画が露見した。何故わたしはこの女狐の能力を見誤った。そもそも、何故わたしは主君たる女王を暗殺しようなどと)
「決心がつきませんか」

 不意に、アンリエッタが言った。長テーブルの向側を見ると、彼女が無表情にワイングラスを掲げている。

「最後の機会です。私自ら、あなたと盃を合わせて差し上げましょう。主君たる女王と杯を合わせて死んでいけるのです。貴族の名誉を重んじるあなたには、最上の手向けでありましょう」

 ベロー伯爵は目を見開く。急に頭がすっきりしてきた。ワイングラスをテーブルの上に置く。腹の底から上ってくる震えを、哄笑にして吐き散らした。

「名誉。最上の名誉ですと? あなたと杯を合わせることが? ふざけるな、王家に尽くす貴族を蔑ろにし、卑しい平民にすり寄る売国奴め! 貴様は、このわたしが」

 ベロー伯爵は胸元に手を差し入れる。そこには杖と短銃が隠されていたが、状況から考えて詠唱など成功するはずがない。ならば銃を使った方が僅かなりとも女王を道連れに出来る可能性が高い。一瞬でそう判断し、力いっぱい銃把を握って腕を引き抜き、銃口をアンリエッタに向ける。引き金にかかった指に力を込めた。

「意外ですね」

 アンリエッタがそう言うのと、周囲の銃士たちがベロー伯爵の体を銃剣で一斉に刺し貫くのとは、ほぼ同時だった。ベロー伯爵の口から大量の血が溢れ出す。なんとか引き金を引こうとするが、指からはどんどん力が抜けて、ついに引き金から離れてしまった。
 さらに大量の血が、口から溢れてくる。体の端から急激に体温が失われ、最後には全身から力が抜けた。支えるものをなくした体が椅子から滑り落ち、意識が闇に溶ける直前、ベロー伯爵はアンリエッタの冷たい声を聞いた。

「平民の知の結晶である銃を手に、平民の磨いた牙である剣を胸に受けて息絶えるとは。貴族の名誉を重んじるあなたには、似合わぬ最後になりましたね」

 ベロー伯爵は、最後の力を振り絞って銃を放り出そうとする。だが、力一杯握り締めていたために、銃把は最後まで離れることなく、彼の右手に収まったままだった。
 アンリエッタに対する怨嗟の声を胸の中に響かせながら、ベロー伯爵は事切れた。



 数十分後、ベロー伯爵の邸宅の中を、銃士隊の隊員たちが忙しく行き来していた。捕えた私兵たちを連行したり、まだ暗殺者がどこかに潜んでいないか念入りに調べたり、また、王宮に帰還するルートに危険がないか偵察したり、やることはいくらでもある。幸い、以前に比べれば銃士隊の規模もかなり大きくなっているため、人手不足ということにはならないが。

(と言っても、無謀な作戦だったことに変わりはないが)

 先程までベロー伯爵の処刑劇が演じられていた広間の外、大扉を背に、アニエスは深々とため息を吐く。上手くいったから良かったものの、相手がもう少し知恵の働く男だったら、今頃死んでいたのはベロー伯爵ではなくアンリエッタの方だったはずである。

(ひょっとしたら、それでも構わないなどとお考えなのかもしれないが)

 近頃すっかり常態と化した感のある、アンリエッタの冷たい無表情が頭に浮かぶ。そのとき、アニエスは不意に声をかけられた。

「隊長」

 見ると、副官がそばに立っていた。アニエスと同じくうら若き乙女ではあるが、やはり彼女も相当な銃と剣の使い手である。

「何か」
「はっ。反逆者たちを連行する準備が整いました。また、屋敷を改めてくまなく捜索させましたが、暗殺者などの影は見当たりません。帰還ルートに関しても、危険はないとのことです」
「ご苦労。陛下への反逆に加担しようとした不逞の輩だ。連行には十分な注意を払うように」
「了解いたしました」

 副官は一礼したが、どことなく迷っているような表情で、ほんの少しだけその場に留まった。

「どうした」
「いえ」

 副官は一度そう答えてから、声を落として話し出した。

「ずいぶんと、お変わりになりましたね。女王陛下は」

 アニエスはちらりと背後の扉に目をやる。アンリエッタはまだ広間の中にいるはずである。中にも外にも多数銃士を配置しているので、危険はないはずだ。

「変わられた、か。そう思うのか」
「ええ。冷たくなられた、というか、隙を失くされた、というか。いえ、政治家としてはむしろ優秀になられましたし、喜ぶべきことなのでしょうが」

 この副官は、アニエス同様真面目な性格であり、いつもならばこんな風に少々不敬とも言える噂話などしない。それでもなお無駄口を叩いているのは、それだけアンリエッタ女王の急激な変化に戸惑っているということなのだろう。

「我々は何よりも優先して陛下をお守りする盾であり、敵を排除する剣でもある。陛下のなさることについて、あれこれと疑問を差し挟むのは感心せんな」
「はっ、申し訳ございません。過ぎたことを申しました」

 副官が慌てて居住まいを正す。「が、まあ」とアニエスは言った。

「気持ちは分からんでもない。確かに、女王陛下はお変わりになった。王族としての自覚がそうさせるのだろうが」
「王族としての自覚、ですか」
「そうだ。陛下とて、アルビオンとの戦争を始めとする様々な難局を乗り越えてこられたのだ。政治家として成長もされようし、国を守る覚悟も自然と身につこう」

 アニエスは、副官の肩を軽く叩いて微笑んだ。

「頼もしいことではないか。即位した当初は何も知らぬか弱い少女に過ぎなかった陛下が、王としての自覚を持ち、我々を手足として治世を行う優れた為政者になられたのだ。我々としても、命を賭けて戦う甲斐があるというものだろう」

 副官は深々と頭を下げた。

「申し訳ございません、任務中だというのに、いらぬことを申し上げました」
「気にするな。我々の任務は責任重大だ。迷いを持ったまま行動される方が困る。今後のこと、任せたぞ」
「はっ」

 副官は一礼して、今度こそ立ち去った。迷いのなくなったその瞳を思い出し、アニエスはため息を吐く。

「国を守る覚悟、王としての自覚、か」

 苦笑が漏れた。

「我ながら、心にもないことを言ったものだな」

 呟き、アニエスは広間の扉を開いた。途端に、血の臭いが鼻をつく。先程までの処刑劇の残り香だ。扉のすぐそばに控えていた銃士隊員に外に出るよう指示し、人払いをする。

「陛下」

 未だに長テーブルの椅子に座り、ワイングラスを傾けていたアンリエッタのそばに歩み寄る。

「なんですか、アニエス」

 グラスの中に目を落としたまま、アンリエッタは興味なさげな声で答えた。まだ死体を片付けたばかりで、部屋の中には血の臭いが強く漂っている。だと言うのに、そのことを嫌悪する素振りなど全く見せない。その様子は冷静と言うよりは投げやりと言ったほうが正しく、アニエスの胸にはっきりとした不快感をもたらした。

「撤収の準備が整いました。引き続き、我々が王宮までお守りいたします」
「そう急ぐこともないでしょう。もう少し、ここでゆっくりしていきます。この屋敷の中で最上のワインを持ってこさせなさい、アニエス」
「陛下、恐れながら申し上げます」

 我慢しきれず、アニエスは苦言を呈した。

「どうか、ご自愛ください」
「何の話です?」
「今回の件についてもそうですが、わざわざ陛下の御身を危険に晒さずとも、他にやりようはいくらでもありました」
「あら、特に問題はないでしょう。ベロー伯爵は叛意を抱いていました。ですが、警戒心が強く、なかなか尻尾を出さなかった。だから私が愚かな少女の演技をして、彼の油断を誘ったのです。実際彼は計画が露見していることになど全く気付かず、今日を好機と見て私を暗殺しようとした。結果は見ての通りですが」

 アンリエッタは口元に薄く微笑みを浮かべた。

「反乱分子の筆頭でもあったベロー伯爵が粛清されたとなれば、他の者たちも少しは大人しくなるでしょう。改革は滞りなく進み、私はますます王としての評価と、国民からの支持を高めることになる。何か問題がありますか、アニエス」

 改革というのは、近頃のアンリエッタが強硬に推し進めている、平民の権利を拡大させんとする政策に関するものである。
 魔法を操る貴族が支配権を握り、平民を抑圧している社会。始祖ブリミルが与えた魔法をただ伝えるだけで、新たなものを生み出そうとしない社会。数千年前からこの世界の文明がほとんど進歩していない原因はそこにあると唱えた女王アンリエッタは、今後は正式に平民からも有用な人材を登用していくと発表。平民出の銃士からなる銃士隊の権限と規模が拡大し、銃の製造や化学など、魔法を必要としない技術の研究に、以前とは比べ物にならないほどの資金や労力が注がれることとなった。
 そういった平民の台頭を、多くの貴族が快く思わなかったのは当然である。中には堂々とアンリエッタへの不満を唱える輩もおり、トリステイン中に不穏な気配が広がりつつある。
 今回のベロー伯爵の暗殺計画も、そういった風潮の中で持ち上がってきた企てであった。

「それは結果論です、陛下。一歩間違えれば、死んでいたのは陛下の方だったかもしれませぬ」
「そうならないためにあなたたちがいて、実際そうはならなかったでしょう。何が気に入らないのですか、アニエス。私は女王として、常に最善の選択をしているつもりですよ」

 女王として、という部分を、アンリエッタは殊更に強調する。最近、彼女はこういった物言いをすることが多い。その理由を、アニエスはよく知っていた。

「……まだ、あの男のことを気に病まれているのですか」
「何のことかしら」

 アンリエッタは素っ気なく言って、空になったワイングラスを手で弄ぶ。

「サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガは、陛下の苦悩になど全く頓着せずに逃げ出した、見下げ果てた男です。ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールに関してもそれは同様。陛下が気に病まれる必要など全くございませぬ」
「だから、何のことですか、アニエス。私は彼らのことなど一度も口にしていませんよ」

 あくまでも、アンリエッタは素っ気ない口調で答える。が、ワイングラスを持つその手が震えていることに、アニエスは気付いていた。気付いていながら、あえて気付かぬ振りをして、頭を下げる。

「出立の準備をなさってください。王宮までお送りいたします」

 アンリエッタは返事をしなかった。



 残った仕事を全て済ませて王宮内の兵舎に戻り、自室の寝台に入っても、アニエスはなかなか寝付けずにいた。アンリエッタの冷めた表情が、いつまで経っても頭から離れない。

(これというのも、全てはサイトたちが逃げ出したのが原因だ)

 今はもう遠く離れた地にいるのであろう少年たちに、胸の中で呪詛の言葉を吐きつける。
 アンリエッタの変化は、明らかに彼らが東方に旅立ったのが原因である。彼女自身才人という少年には心を惹かれていた様子である。本当ならば、何もかも放り出してついていきたかったに違いない。
 だが、ガリアの王位継承問題やゲルマニアの内紛等、刻々と移り変わる状況がそれを許さなかった。そして、そういった難しい問題に直面することとなったアンリエッタを見捨てるような形で、才人たちは旅立った。
 彼らが西方を去ったこと自体は、さほど間違った判断ではない。ガリアの問題にしろゲルマニアの問題にしろ、才人たちはそれらに深く関わっていたのだ。西方に留まり続ける方が、むしろ問題は大きくなっただろう。
 しかし、状況が慌しすぎたせいか、彼らはアンリエッタには何一つ言い残すことなく旅立ってしまった。彼女は根本的に情が豊かな人間である。これでは、自分が見捨てられたのだと解釈してしまうのも無理はない。

(陛下は、女王という立場に留まらざるを得ない自分に嫌気が差しているのかもしれない)

 平民の権利拡大を歓迎するような政策も、そういった情の表れなのではないかとアニエスは考えている。
 だが、それでも、アンリエッタはまだ決定的に変わってはいない。
 見捨てられたのだという思い込みのせいで多少自暴自棄になっているものの、女王という立場を嫌悪する向きがあったのは昔からだ。政策に反対する貴族への対策に関しても、時に今日のような無茶をすることがあるが、判断自体は割と冷静である。これが、たとえば女王として振舞わなければならない自分に完全に嫌気が差して引きこもってしまうとか、あるいは自殺するだとか、そういった破滅的な行動に向かっているのならば相当問題である。だが、今のアンリエッタは、恋人に捨てられた女が、それを忘れるために我を忘れて仕事に打ち込んでいるようなもので、さほど病的な訳ではないのだ。

(どちらにしろ感情に振り回されている訳で、王としては致命的な欠点だがな)

 それでも、今はまだ上手くいっている。平民からの支持はむしろ向上しているし、貴族の中にも、世の流れを読んでアンリエッタの政策に協力する者もいるほどなのだ。事実だけを見れば、アンリエッタの施政は決して悪いものではない。
 だが、それは今だけに限った話である。想い人や友人に見捨てられたという思い込みを抱えたままでは、いつか精神が限界を迎えて、抜け殻のようになってしまう可能性がある。貴族達の大部分の反感を買っているこの状況でそんなことになってしまったらと考えると、ぞっとする。

(サイト、お前達は今どこにいる。私では、お前達の代わりにはなれないのだぞ)

 アニエスの情報網と言えども、さすがに人類未踏の東方に消えた才人たちの行方を知ることはできない。
 アンリエッタの心を癒すことが出来る唯一の人間がどこに行ったか分からないのでは、手の打ちようがないのだった。
 苛立ち紛れにアニエスが寝返りを打ったとき、部屋のドアがノックされた。深夜の訪問である。枕元に置いてあった剣を取り、警戒しながら入り口の扉に向かう。

「誰か」

 問うと、聞き慣れた銃士隊員の声で返事が返ってきた。扉を開ける。

「何だ。こんな時間に扉を叩いたのだ、火急の用なのだろうな」
「は、おそらく、そう思われますが」

 銃士隊員は歯切れの悪い声で言いながら、用件を口にする。

「アニエス様の邸宅に客人がいらしたと、侍従の者が伝えに参りました」
「客人? こんな時間にか」
「はい。客人のお名前は」

 銃士隊員が口にした名前を聞いて、アニエスは目を見開いた。

「ギーシュ・ド・グラモンだと。それは本当か」

 念のため確認すると、銃士隊員は困惑した様子で頷いた。アニエスは数瞬押し黙った後、銃士隊員に命令する。

「わたしの馬を用意させろ。今すぐ邸宅に戻る」
「了解しました」

 銃士隊員が一礼して去った後、アニエスは流行る気持ちを抑えて夜着から銃士隊員の制服に着替えにかかった。
 東方に旅立った一団の中には、ギーシュ・ド・グラモンの名前も含まれていたはずである。その彼がアニエスの邸宅を訪れたということは、才人たちもまた西方に帰還しているということだ。
 何故才人ではなくギーシュが来たのか、またその用件は何かなど、分からないことはいくつもある。が、今はともかく邸宅に向かってギーシュの姿を確認するのが第一だ。

(お喜びください陛下、あなたの想い人が、東方から帰ってきましたよ)

 才人とルイズが頭を下げ、非礼を詫びるのならば、根が優しいアンリエッタは彼らの罪を許し、その関係はまた元に戻るはずである。そうすれば、彼女も今日のような無謀な行動は取らなくなるだろう。
 この数ヶ月ほど、常に心を悩ませていた問題に解決の兆しが見えてきたことを喜びながら、アニエスは部屋を出た。



 深夜にも関わらず明りを灯された執務室に立ち、アンリエッタはアニエスが来るのを今か今かと待っていた。
 東方探検隊が帰還したらしいという報告を受けたのは、ほんの数十分ほど前の話である。
 既に就寝中だったアンリエッタだが、報告を受けるや否や跳ね起き、服を着替えつつ執務室の明りを灯させた。
 もうすぐ、アニエスが、彼女の屋敷を訪れたという探検隊の人間を伴ってやってくるはずである。
 深夜、急な話ということもあって、部屋の中はまだ少し寒い。だが、そんな寒気など気にならないほどに、体が興奮で火照っていた。

(サイト殿が、帰ってきてくださった)

 そう思うだけで鼓動が激しくなり、アンリエッタはたまらず胸を強く抑える。
 彼女にとって、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガというのは、他には誰一人としていないというぐらい、特別な存在である。
 過ちを犯しかけた自分を、体を張って何度も止めてくれた人。
 自分のことを「アン」と呼んで、優しく肩を抱いてくれた人。
 世界でただ一人だけ、自分のことを女王ではなく、アンリエッタという一人の少女として扱ってくれる人。
 才人がいてくれれば、ほんの一時とはいえ、女王でもなんでもないただの少女に戻ることができるのだ。
 今や一日のほとんどを政務に費やすことになったアンリエッタにとって、それは他の何よりも得難く、幸福な時間だった。
 そのほんのわずかな幸せすらも、アンリエッタは手にすることができなかった。愛しい彼のそばに、一人の少女の姿があったからだ。
 ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール。アンリエッタにとっては幼馴染であり、今や殺しても足りないほどに憎い恋敵ともなった少女である。
 才人を束縛し、独占しているルイズ。
 才人が与えてくれる幸せを、欠片も残さず奪っていくルイズ。
 才人を無理矢理引っ張って、自分から引き離してしまったルイズ。

(今回の東方行きの件だってそう。きっと、ルイズが無理を言ってサイト殿を連れて行ってしまったんだわ)

 アンリエッタはほとんど確信に近い気持ちで、そう信じていた。
 彼女は才人のことを覚えている。あの優しい眼差し、弱い自分を受け止め、支えてくれた彼の体の温もりを、今でも忘れてはいない。
 そんな彼が、今、苦境に立たされているアンリエッタを放っていくはずがない。
 そう、彼は無理矢理ルイズに引っ張られていっただけであって、決してアンリエッタが苦しんでいることを忘れてしまった訳ではないのだと、彼女はよく自分の心に言い聞かせていた。

(そうよ。サイト殿が悪いんじゃないの。ルイズよ。全部、あの子がいけないんだわ)

 もちろん、ルイズがいなければ、そもそも才人はアンリエッタの前に現れることすらなかっただろう。そんなことぐらいは、彼女にもよく分かっている。分かっていてもなお、ルイズに嫉妬する気持ちが止められないのだ。偽物だと知りつつ、蘇ったウェールズ王子についていってしまったときのように。あのときは抑えがたい愛情が体を突き動かしていたが、今は身を焦がさんばかりに激しく燃え上がる嫉妬の念が、胸の中で渦を巻いているようだ。

(でも、もういいの。サイト殿さえ戻ってきてくだされば、私は全てを許すことができる)

 もしも東方を旅している間に、サイトの心が完全にルイズに捕われてしまったのだとしても、それはそれで構わない。
 それでも、彼は自分のことを覚えていてくれるはずだ。女王としてのアンリエッタではなく、一人の少女としてのアンリエッタを覚えていてくれるはずだ。
 自分には、その現実だけがあればいい。女王という立場に振り回されて疲れきった自分を、一時だけでもただの少女として扱ってくれる、彼さえいてくれれば。
 ただのアンリエッタを知っている才人がいてさえくれれば、それだけでルイズのことも許せるし、この後も女王としての責務に耐えていける気がするのだ。
 そのとき、不意に執務室の扉がノックされた。

「アニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン、参りました」

 また、心臓が早鐘を打ち始める。アンリエッタは声が震えないように注意しながら返事をした。

「お入りなさい」

 扉がゆっくりと開けられ、制服姿のアニエスが部屋に入ってくる。その後ろに、見たことのある少年が付き従っていた。

(サイト殿ではないのね)

 少し気持ちが落ち込んだが、その少年も、記憶する限りでは東方探検隊の一員だったはずだ。つまり、彼らが帰還したのは間違いないということである。

「ギーシュ・ド・グラモン殿をお連れしました」
「ご苦労様です、アニエス。彼の報告は、今後の政情にも関わってくるかもしれません。あなたもここにいて、共に話を聞いてください」
「はっ」

 アニエスが隣に立つ。アンリエッタは、跪いて頭を垂れているギーシュに声をかけた。

「お久しぶりですね、ギーシュ・ド・グラモン殿」
「はっ。このような夜分に申し訳ございません。女王陛下につきましては」

 緊張して固くなっているギーシュの声を、アンリエッタはもどかしい気持ちで遮った。

「口上は不要です。顔を上げてください」
「はっ」

 若干困惑したように、ギーシュが躊躇いがちに顔を上げた。

「まずは報告を聞きましょう。このような夜分に参ったのですから、急いで話さなければならないことがあるのでしょう」
「はい。仰る通りです。至急陛下のお耳に入れ、また、恐れながら陛下のご助力をお借りしたい儀がございます」

 硬い声で話すギーシュは眉間に皺を寄せており、何か非常に苦悶しているような様子だった。こんな風に緊張した表情を浮かべるような少年だっただろうか、と少し疑問に思いながら、アンリエッタは話の先を促す。

「分かりました。私に出来ることであれば、力になりましょう」

 それは偽らざる本心だった。東方探検隊のギーシュが力を借りたいというのは、才人が力を借りたいと言っているのと同じである。たとえ誰が何を言おうが、必ずや才人の窮地を救おうという気持ちだった。

(そうよ。私は今度こそ守ってみせる。私の愛しい人、私の小さな幸せを)

 強く心に言い聞かせるアンリエッタの前で、ギーシュは何か決心がつきかねるように、しばらく目を閉じて唇を真一文字に引き結んでいた。次に目蓋を上げたとき、その目には痛々しく感じられるほど力がこもっていた。

「では、お話いたします。ですが、その前に一つだけ、どうしてもお伝えせねばならないことがございます」
「なんでしょうか」
「陛下は、サイトのことを覚えておられますか」

 心臓が大きく脈を打つ。それを悟られないよう、アンリエッタは平静を装って頷いた。

「ええ、もちろんです。サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ殿ですね」
「そうです。陛下、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガは」

 ギーシュはそこで言葉を切って、大きく一度、呼吸をした。そして、絞り出すような声で続けた。

「東方の地にて、命を落としました」



 一瞬、ギーシュが何を言っているのか分からなかった。

(サイトが、死んだ?)

 心の中で反芻してみても、やはり信じられない。
 ほんの少しだけ、悪質な冗談なのではないかと思ってもみた。しかし、ギーシュの顔はこれ以上ないぐらいの苦痛に歪んでいるように見え、とても嘘をついているようには思えなかった。

(それは本当ですか)

 と、思わず質問しそうになって、寸でのところで踏みとどまった。主君であるアンリエッタを差し置いて、自分が言葉を発する訳にはいかない。

(そうだ、陛下は)

 アニエスは慌ててアンリエッタの顔を窺う。彼女の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。ただ目を見開いて、瞬きもせずに硬直している。無反応ではなく、あまりに衝撃的な事実に反応することができないといった様子である。

(サイトが、死んだ)

 アンリエッタの様子を伺いながら、アニエスはもう一度心の中で繰り返してみる。
 だが、やはりどうにも信じられなかった。
 七万の大軍に突撃して満身創痍になりながら、それでも死ななかったような男である。見かけこそ頼りない少年だったが、彼が死ぬなどとは想像もしていなかった。前人未到の東方に旅立ったとは言っても、死にかけながらも生き延びて、いつかは平気な顔で帰ってくるだろうと、信じて疑わなかったのだ。

(だが、そうか。サイトは、死んだのか)

 考えてみれば、別段おかしな話ではない。何せ、東方は人間を敵視する危険なエルフの支配地である。並の人間ならば、足を踏み入れただけでも殺されてもおかしくはないのだ。

(そうだ、おかしな話ではない。サイトは、死んだのだ)

 心に無理矢理言い聞かせて、アニエスは何とか納得した。
 彼女自身彼とは友好があったが、職業柄と過去の出来事から、他人の死には慣れている。悲しみに胸が痛まないと言えば嘘になるが、正気を失ってしまうほど動揺することはなかった。

(しかし、陛下はどうか)

 改めて、アニエスはアンリエッタの様子を窺った。年若き女王は、まだ呆然としたままだったが、やがてぎこちない口調で呟くように言った。

「死んだ。サイト殿が」
「はい」
「間違いないのですか」
「間違いようがありません。わたしたちは、オストラント号に彼の亡骸を乗せて、この地に帰ってきたのですから」
「そう、ですか。サイト殿が、死んだ」

 アンリエッタはもう一度呟いたあと、顔を伏せて押し黙ってしまった。
 執務室内に、重い沈黙が満ちる。アンリエッタは何も言わないし、そうすると続きを話すことも憚られるらしく、ギーシュもまた床に視線を落として押し黙っている。
 止むを得ず、アニエスは話の続きを促した。

「ギーシュ殿。そのことについて、もう少し詳しくお聞かせ願えないだろうか」
「詳しく、ですか。そうですね」

 ギーシュは困惑しながら、才人が命を落とすに至った経緯を話し始めた。
 俯いていたアンリエッタが反応を示したのは、才人が命を落としたその瞬間について、ギーシュが語ったときだった。

「それで、わたしたちが止める間もなくルイズが飛び出して、それを追ったサイトが、彼女の盾になり」
「ルイズですって?」

 不意に、アンリエッタが顔を上げた。呆然と見開かれていた瞳が、急に焦点を結び、強くギーシュを見据えた。

「では、サイト殿は、ルイズを庇って命を落とされたのですか」

 その部分がとても重要だとでも言わんばかりに、アンリエッタは念を押すような強い口調で問う。やや気圧されながら、ギーシュは躊躇いがちに頷いた。

「そういうことに、なると思います」
「そうですか」

 そう言ったきり、アンリエッタはまた俯いてしまった。垂れた前髪に隠れて目元は窺えないが、閉じられた口元からは何の感情もうかがい知ることが出来ない。
 また沈黙が訪れるかと思いきや、アンリエッタが不意に静かな口調で呼びかけた。

「ギーシュ殿」
「はい」
「サイト殿は、最後に何と言い残されましたか」

 その声はとても静かだったが、底冷えがするほどに深い響きを持っていた。まるで、その質問に自分の全存在を賭けてでもいるかのような、背筋が震えるほどの凄みを感じさせる声音だった。
 ギーシュもそれを感じ取ったらしく、答えるまでには若干間があった。

「ルイズを、幸せに……と。それが、サイトの最後の言葉です」
「それだけですか。他には、何か」

 何かにひどく恋焦がれるように、アンリエッタが食い下がる。ギーシュはゆっくりと首を横に振った。

「他には、何も。船に連れ戻したときには、もう完全に手遅れの状態でしたから」

 そのときのことを思い出したのか、ギーシュは少し、唇を噛んだ。

「本当に、最後の力を振り絞って、言い残したのだと思います」
「そうですか。ルイズを幸せに、と……そうですか」

 小さく呟き、アンリエッタはまた顔を伏せてしまった。先程才人の遺言を問うたときの奇妙な迫力が、見る見る内に消えていく。それと同時にアンリエッタ自身の体も小さくなっていくように思えて、アニエスは居た堪れない気持ちになった。
 そのとき、アンリエッタがゆっくりと顔を上げた。驚くべきことに、その表情はとても静かなものだった。と言っても、ここ最近アニエスが見慣れていた、自暴自棄を窺わせるような冷めた表情ではない。特にその瞳は、奥深くに氷河の存在を感じさせるほどに、冷たく澄んだ光を放っている。

(お変わりになられた)

 アニエスは瞬時に確信した。今この瞬間、アンリエッタの中で何かが変わったのだと。怖気を覚えさせるほどの何かが、この年若い女王の中で生まれ落ちたのだ。

「話してくださって、ありがとうございました」

 労うような慈愛に満ちた口調にも関わらず、どこか相手をぞっとさせるような声音で、アンリエッタが言った。

「大変な旅路だったようですね。ギーシュ殿、よく無事に帰還なさいました」
「はっ、いえ、わたしは」

 喜びを表す気にはなれないらしく、ギーシュは曖昧に言いよどむ。

「ところで、私の助力が必要だという件に関してですが。それはもしかして」

 アンリエッタの口元に微笑が浮かぶ。

「ルイズに関すること、ではありませんか」

 その微笑の裏に言葉では言い表し難い何かが潜んでいるような気がして、アニエスは背筋を震わせた。



 アンリエッタとギーシュは、ルイズの処遇について話し合った。目的はルイズを死ぬまで幸せにしておくことである。シエスタの提案どおり、才人の死に関する記憶を奪い、彼が元気に生きていると思わせておく、というのが計画の根幹だった。

「そのためには、ルイズを徹底的に外界から引き離し、なおかつその状況を彼女が不審に思わないようにしなければなりません」
「そこで私の力が必要になるのですね?」
「はい。具体的には……」

 計画自体は既にほとんど完成されていた。だからこそ、アニエスは余計に不安だった。

(陛下は、この計画を強引に変えさせて、ルイズを取り巻く嘘を壊してしまうつもりなのではないか?)

 先ほどのアンリエッタの微笑から、そんな風に勘ぐってしまう。
 だが、傍らでアニエスが聞いていた限り、アンリエッタは計画に対して非常に協力的だった。不安が残る箇所を指摘し、その穴を的確に埋めてみせたのである。そうして数刻ほどの時間が過ぎ、空が白み始めたころ、計画は持ち込まれた当初よりもかなり完成度の高い状態に仕上げられていた。

「女王陛下」

 部屋を辞する直前、ギーシュはアンリエッタの眼前に膝を突き、頭を垂れた。その声は細かく震えていた。

「私たちの力だけでは、ルイズの幸福を保つのは困難だったでしょう。ですが、こうして陛下のご助力を賜った今、それはもはや不可能な話ではなくなりました」

 アンリエッタは労わるような微笑で応えた。

「お気になさらないでください、ギーシュ殿。私はただ、大切な親友の幸福に、少しでも寄与したいと思っただけなのですから。あれほど愛していたサイト殿を失ってしまうだなんて、可哀想なルイズ……ギーシュ殿、どうか、生ある限り、彼女の幸福の助けになってあげてくださいましね」
「はっ……」

 ギーシュはさらに深く頭を下げた。その肩が小刻みに震えている。泣いているのかもしれなかった。
 彼はやがてそっと目元を拭ったあと、立ち上がってきびきびと一礼した。

「それでは、失礼いたします。夜半突然の来訪の上、このような慌しい出立になるのは非常に無礼であると承知しておりますが」
「構いません。すぐに準備を整え、ルイズを迎えに行ってあげてください。あまり遅れて、彼女が不審がってはいけませんから」

 ギーシュは再度礼を述べて、慌しく部屋を出て行った。彼はそのままトリステイン近郊に停泊しているというオストラント号に戻り、ルイズを迎える準備に奔走することになっている。
 アニエスと二人だけになった途端、アンリエッタは長く息を吐き出して、椅子に深く身を沈めた。顔を伏せ、沈黙する。それから、不意に肩を震わせ、低い笑い声を漏らし始めた。その笑いはじょじょに大きくなり、ついには全身を揺さぶるほどの狂笑と化した。
 その笑い声から滲み出る強烈な悪意に背筋を強張らせながら、アニエスは慎重に問うた。

「いかがなさいましたか、陛下」

 アンリエッタは狂おしく笑いながら応えた。

「だって、あんまりおかしいんですもの。アニエス、聞いたでしょう? あの子が今どんな様でいるのかを。ああ、なんて馬鹿なルイズ。愛しい愛しいサイト殿が目の前で死んだこともきれいさっぱり忘れ去って、よりにもよって彼と幸福な結婚をしたと信じ込んでいるだなんて。でもそうね、あの子にはそれがお似合いだわ。だって昔から道化だったんですものね、あの子は。ねえアニエス?」
「なんでしょうか、陛下」
「あなたは、私があの子を取り巻く偽りの幸せを、壊すつもりだと考えているのでしょう?」

 実際その通りだったが肯定することも躊躇われ、アニエスはすぐに返事を返せなかった。アンリエッタは構わずに、奇妙なほど優しい微笑を浮かべて言った。

「でも、そんなことをするつもりはありません。私は、あの子が一生、サイト殿が生きているという幻想に抱かれながら生きていく手伝いをするつもりです」
「それは、陛下のルイズに対する友情故でございましょうか?」

 違うと知りつつも、アニエスは問いかけた。案の定、アンリエッタはゆっくりと首を横に振った。その瞳には、死にかけて痙攣している獲物を面白がって見下ろすような、冷酷な光が宿っていた。

「違うわ。私はねアニエス、表ではあの子の幸福を喜びながら、裏では思う存分あの子を笑ってあげるつもりなのよ。私が手に入れられなかったサイト殿の愛情を一身に受けているつもりで、実際にはお節介な友人方がお膳立てした、偽物の幸福の中で無邪気な夢を見ているあの子をね」

 アンリエッタは小さく身震いした。

「ああ、なんて素敵なのかしら! 本来なら、私があの子から哀れまれ、見下される立場だと言うのに、今やそれは完全に逆転したのだわ。私は確かにサイト殿の愛情を勝ち得ることは出来なかったけれど、ただ本当の記憶を持って生きている、あの子が気付かない本物の現実を知っているという点において、あの子の全てを嘲笑い、見下すことが出来るのだから」

 そうしてまたひとしきり哄笑を上げたあと、アンリエッタは不意に押し黙り、俯いた。
 少しの沈黙の後、彼女の頬を一筋の涙が流れた。

「でも、私がサイト殿の愛情を受けることは、もう二度とない。いいえ、愛情どころか、言葉ですらも」

 ぽつりとした呟きと共に、アンリエッタの頬を滂沱の涙が流れ落ちた。彼女は声を詰まらせながら言った。

「ねえアニエス、あの方の最後の願いを覚えているかしら? あの方は最後にこう言い残したそうね――『ルイズを幸せに』と。その一瞬、あの方の心を占めていたのはルイズの行く末を案ずる感情だけだったでしょうね。きっと、あの方の死を看取ることも出来ず、最後の眼差しの一片すら受けることができなかった私のことなど、あの方の心には微塵も浮かばなかったことでしょう。私はこんなにも、この身が引きちぎれるほどに激しく、あの方の愛情だけを求めていたと言うのに」

 震える声は、いつしか悲痛な叫びに変わっていた。

「どうしてあの子だったの? どうして私ではなかったの? 私だって、あの方と一緒にいることさえ出来れば、あの方の心の片隅にでも存在していることが出来たでしょうに。最後の瞬間まで、あの方があの子だけに心を奪われたまま死んでゆくことなんて、絶対に許さなかったでしょうに。ああアニエス、どうして? 何故なの? 何故私は、こんな遠く離れた場所で、あの方が死んだことも知らずに、帰ることもない彼の帰りを待ち続けていなければならなかったの? どうして、どうして……!」

 その慟哭は、アニエスの胸に陰鬱な痛みをもたらした。
 哀れな恋敵を嘲笑し、己の不幸だけを嘆くアンリエッタのことを、身勝手で無様な女だと軽蔑することは出来ない。

(この方は、ただ他の誰よりも情が深いだけなのだ)

 愛情、優しさ、憎悪、嫉妬。全てが常人の何百倍も強く、また深くもある。アンリエッタはそういう女だ。誰よりも女らしい女だ。だからこそ、これほどまでに強くルイズを憎み、愛しい才人の死を嘆くことが出来る。

(サイト、何故貴様はこの方を残して死んでしまったのだ)

 死人に問いかけても無駄なことだとは知りつつ、アニエスはそう思わずにはいられなかった。

(貴様さえ無事に帰ってきてくれれば、この方の心がこうも深い闇に捕らわれてしまうことはなかっただろうに。貴様がこの方に笑顔を向けてくれさえすればよかったのだ。そうすれば、かつての親友をこれほどまでに憎悪することもなく、全てが平穏の内に治まったかも知れないというのに)

 だが、その幸福な未来はもはや永遠に幻となってしまった。才人の死は、間違いなくアンリエッタの最後の希望を打ち砕いたのだ。
 もう二度と、彼女が他人の愛に期待することはないかもしれない。
 その事実はアニエス自身の心にも暗い影を落としたが、打ちひしがれている暇はなかった。今もまだ、アンリエッタは押し殺された声で泣き続けているのだ。
 どうするべきか、アニエスは少し考えた。まさか自分の慰めなどが彼女の心を癒せるはずもないが、かと言って彼女をこの部屋でずっと泣かせたままにしておくわけにもいかない。

(せめて寝室までお送りしよう。今日の執務はなんとか取りやめにして……)

 考えながら、アニエスは声をかけた。

「陛下」

 泣き声がぴたりと止んだ。

「陛下?」

 アンリエッタが繰り返す。非常に小さかったが、それでも聞き逃すはずないと思わせる、不気味な迫力の篭った声だった。アニエスの背筋が震えた。

(……なんだ?)

 心臓が早鐘を打ち始める。椅子に座って俯いたまま、微動だにしないアンリエッタが、平坦な声で問いかけてきた。

「アニエス。今、あなたは私のことを何と呼びましたか?」

 わけの分からぬまま、アニエスは答えた。

「はっ。陛下、と」
「陛下。陛下……そう、そうだったわね」

 アンリエッタの肩が震え出した。続く声音で、泣いているのではなく笑っているのだと知る。

「私は、このトリステイン王国を治める、アンリエッタ・ド・トリステイン女王陛下だったわね!」

 笑い声はじょじょに高まり、部屋全体に反響するほどになった。そのただ中で、アニエスは不意に眩暈を感じた。足がふらつき、よろめきそうになる。何か、悪夢の中に突然引きずり込まれたような不快感があった。
 笑い声が止んだ。

「ありがとう、アニエス」

 アンリエッタがにっこりと微笑む。

「あなたのおかげで、私は自分の望みがはっきりと分かったような気がします」
「はっ。左様で、ございますか」

 どう返事をしたものか、アニエスは迷った。
 今、目の前のアンリエッタはとても透き通った美しい微笑を浮かべている。ここ数ヶ月ほど、彼女の顔に常に付きまとっていた倦怠と悲嘆の色がすっかり消えうせていた。だが、直前までの嘆き様から一転してこの表情である。どう考えても尋常ではない。

「ねえアニエス。私はね、全て分かったような気がします」

 表情を変えないまま、アンリエッタが穏やかな表情で語り始める。

「私の不幸の源が、一体どこにあるのか」

 アンリエッタは己の胸に手を置いた。

「それは、私が女王陛下だから。想い人と共に在ることどころか、心のままに振舞うことすら許されぬ、王という人種だから。かつて『王になどならなければよかった』と私が嘆いたとき、マザリーニ枢機卿は私に言われました。『そう思わぬ王はおらぬものです』と」

 アンリエッタが薄く目を開く。剣のような鋭さだった。

「『王になどならなければよかった』あの頃の思いは、今もなお変わっていません。それどころか、今日という悲惨な日を経て、より一層強くなったような気がいたします。だからアニエス、私は」

 アンリエッタは強い声音で宣言した。

「私は、王をやめます」
「陛下!?」

 アニエスが目を見張ると、アンリエッタは口元を手で隠して笑った。

「アニエス。まるでこの世の終わりが来るのを知ったような驚きようね」
「同じようなものです。陛下、どうかお考え直しください。陛下なくして、このトリステインは」

 早口に説得しようとするアニエスを、アンリエッタは手の平で遮った。その顔には、澄ました表情が浮かんでいる。

「落ち着きなさい。何も、今すぐにやめると言っているわけではありません。私なくして、今のトリステインが保たないことは十分に理解しているつもりです」
「では……?」
「つまり、私などいなくてもいい状況を作り出せばいいのです。そのために……アニエス、協力してくださいますわね?」

 問いかけるアンリエッタの瞳の奥底に、暗い悦びが宿っていた。

(この方は、己の激情をぶつけるべき相手を見つけたのだな)

 アニエスは踵を揃え、背筋を伸ばした。

「分かりました。このアニエス、及ばずながら、陛下のお力になりましょう」
「ええ、お願いしますね、私の隊長殿。まずはね」

 アンリエッタは楽しげな様子で、己の策を語り始める。今この場で考え出したとは思えないほど、綿密かつ具体的な計画が、歌のようにその唇から流れ出す。

(いや、今この場で考え出したのではない。この方は、今までも同じようなことを取りとめもなく考えていたに違いない)

 今までそれは、単なる妄想や思いつきの類に過ぎなかった。だが、今や一つの目標のために筋道立てて並べ立てられ、より洗練され、現実的な計画に仕立て上げられていく。
 その原動力となるものが何なのかがよく分かっているだけに、アニエスは余計悲しかった。

(陛下、憎悪以外の情を全て失くされましたか。ですが、それも致し方ないこと。私は止める術を知りませぬし、止めようとも思いませぬ。せめてあなたの傍らで、この復讐劇が終わるまでのお供をさせていただきましょう)

 アンリエッタの声に相槌を打ちながら、アニエスは心の中で強く決意を固めたのだった。



 アンリエッタ・ド・トリステインは、トリステイン王朝最後の王となった。
 とは言え、それは同時代のガリア王であるイザベラや『一代王朝』と呼ばれた帝政ゲルマニア・ツェルプストー王朝の女帝キュルケにしても同様であるから、そのこと自体は特筆するには値しない。
 違っていたのは、ほぼ全ての国において、革命が武器を手にした民衆の武力闘争によってなされたのに対し、唯一トリステインのみは無血の革命を成し遂げたことである。そのためにトリステインは国力を損なうこともなく、この混沌とした時代にあっても、一度として国土を他国に蹂躙されることはなかった。
 この穏やかな政権の譲渡は、アンリエッタ女王が事前にこういった事態を予測し、有力貴族の勢力縮小や平民の登用などに心血を注いできた、努力の結果であるといえる。彼女は非常に冷静かつ慎重に事を運び、誰にも気付かれぬまま、全ての準備を終えた。その政治家としての有能さは、同時代の学者の一人が、彼女を評価した有名な言葉に表されている。

「トリステインの白百合は、剣でも切れぬ鉄の華」

 鉄の華に例えられるほど、彼女は政治の場において無慈悲であり、なおかつ冷静な人物であったということだ。
 故に後世の人々は、彼女のことを人間的な情とは縁の薄い、冷徹で意志力の強い人物として思い浮かべることが多い。
 しかし、近年発見された一冊の手記は、そういったアンリエッタ女王像を覆すものとして注目を浴びている。終生女王の剣としてその傍にあった、近衛隊長アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランが残したとされるものだ。
 以下が、その内容を一部抜粋したものである。

「――アンリエッタ・ド・トリステインは、非常に感情の激しい女性である。多くの者たちは、それを知りはすまい。彼らの中に、あの強烈な感情の発露を見た者は誰一人としていないだろうから。彼女は実に冷静に政務を遂行している。そのたゆまぬ努力の向かう先が何であるのか、私は痛いほどよく知っている。彼女は、女王である自らの手で、長く続いた王政に終止符を打とうとしているのだ。
 だが、それは多くの者たちが評価しているように、時代の流れを見据えているからでもなければ、彼女が国や民のことを一番に考える政治家の鑑だからでもない。
 私は今、ここに彼女の真の姿を記しておくことにする。
 アンリエッタ・ド・トリステインは、強い意志力を持った優秀な指導者などではなく、魂の奥底までが激しい情に満たされた、どこまでも女性らしい女性なのだ、と。
 彼女の行動は、全てがそのあまりにも人間的な感情に基づいたものである。王政を終わらせ、平民達に政権を譲渡しようとしているのは、単にそれが王政に対する一番激烈な復讐になると考えているからだ。
 そう、彼女は王政という制度そのものを憎んでいる。王政が自分自身の運命を翻弄し、生の喜びを全て奪い去ったと考えているからだ。――常に彼女の傍らにあった身としては、その認識はさほど間違っていないようにも思う。
 王政の象徴とも言える王自らの手で、王政を終わらせること。高々と翻る白百合の旗を地に引き摺り下ろし、嘲笑いながら自らの手で泥を塗りたくること。それだけが、彼女の望みなのだ。だからこそ、あれほど激しい情を持つ女性が、あれほど冷徹に行動できるのである。
 今、私の耳には王政の終わりを告げる鐘の音が聞こえている。おそらく、女王の目論みは完璧に実現するだろう。トリステインは、平穏のまま革命を終えることとなる。
 それ自体は女王の功績ではない。たまたま、時代の流れが彼女の望みに合致しただけのことである。彼女としては、無血だろうが多くの血が流されようが、自分を散々苦しめた王政を破壊することさえ出来れば、あとはどうでも良いのだ。
 一人の女性として運命に愛されなかった女王が、政治家として時代の流れに愛されたというのは、実に皮肉なことだ。おそらく、これからもそれは変わらないだろう。彼女が狂おしいほどに求め続けた、たった一つの愛を勝ち得ることは永遠にない。
 我が哀れな主の魂が、死後天上でゼロの使い魔と共にあることを、私は願わずにはいられない」

 ――アンリエッタ・ド・トリステインは、各国歴代の王の中でも、最も優秀な政治家として、歴史にその名を留めている――

 不幸せな友人たち(3)―罪人―
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