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【東方SS】時には昔の話を その4

2008/10/27に東方創想話に投稿したSSです。
時には昔の話を その3の続きとなっております。
 


『時には昔の話を その4』



 弾幕勝負を終えて神社の境内に降り立った霊夢と魔理沙は、その場に集まっていた妖怪たちから熱烈な大歓迎を受けた。角が生えているのやら獣のような耳をしているのやら翼の生えているのやら、様々な外見をした者たちが皆一様に笑顔で走り寄ってきて、霊夢の背中を叩いたり魔理沙に抱きついたり頬ずりしたり、挙句の果てには口づけの雨を降らせたりと、好き勝手に感動を表現する。

「だーっ、もう、離れなさいっての!」

 怒鳴って適当に蹴散らすと、「さすが霊夢!」とこれまた大喝采が巻き起こる。もはや何を言っても喜ばれる状態のようだ。霊夢は疲労を感じて肩を落とす。

「駄目ですよ皆さん。初代様もお疲れでしょうから、また後ほど、改めてお言葉を賜ることにいたしましょう」

 悪童を指導する教師のように、318代目博麗霊夢が手を叩きながら言った。彼女の穏やかな声に、従う声が半分、文句を言う声が半分。ともかくも、妖怪たちは霊夢から離れ、また好き勝手に飲み始めた。

「お疲れ様でした、初代様」

 318代目が振り返って丁重に頭を下げる。魔理沙との弾幕勝負が始まる前は完全に出来上がった顔で笑い上戸なところを披露していた彼女だが、今はほとんど平時の状態に戻って、涼やかな雰囲気を見せている。少し頬が紅潮しているのは、酔いではなく興奮のせいだろう。

「さすがは初代様です、まるで弾の方が避けているかのような華麗な動き……私、感服いたしました」

 大げさな賞賛に、霊夢は苦笑した。

「そんな大したもんじゃないって。大体、勝負自体は引き分けだったしさ」
「いえいえ、勝敗なんて大して重要ではありません。やはり、弾幕勝負は美しくあってこそです」

 胸の前で両拳を握り、318代目は子供のように目を輝かせる。神秘的な外見とは裏腹なその仕草に、ちくしょうやっぱり可愛いなあと思いつつ、霊夢は首を傾げる。

「だったら、賞賛されるべきはわたしじゃなくて魔理沙なんじゃないの?」
「いえ、確かに魔理沙さんの弾幕は大変美しいものでしたが、あれほどのものを避けるということは、それだけ相手の心を理解していなければならないということです。ですから、他者とそれほど深く心を通じ合わせられた初代様のお心がとても美しいと、私は」
「いやいや、そういう恥ずかしいのはいいから」

 苦笑しながら相手の熱弁を遮り、霊夢は両腕を天に突き出して伸びをする。それを見た318代目が、慌てて言った。

「あ、申し訳ありません、初代様はお疲れでしょうから、って自分で言ったばかりなのに、私ったら」
「いや、別にいいわよ変に気ぃ遣わなくても。それに、さ」

 霊夢は何気なく目をそらしながら、軽く頬を掻く。

「多分、まだやらなくちゃならないこと、残ってると思うし」

 そう言うと、318代目ははっと気づいた様子で、社の方に目を走らせた。その仕草だけで、霊夢は状況を大方理解する。

「紫は母屋の方にいるのね?」
「はい。藍少女様と橙少女様もおそばに」
「そう。でさ、一つお願いしたいんだけど」

 霊夢が言い終える前に、318代目が真剣な表情で頷いた。

「分かっております。誰の邪魔も入らないように注意いたしますので」
「うん、よろしく。3人で飲む約束だから。あんたにもお礼言っとくわ。いろいろ教えてくれてありがと」
「いえ、お礼を申し上げるのは私のほうです。今日、初代様にはとても大切なことを教えていただき」
「だからそういう重ったいのはいらないってば。気楽にいきましょ、気楽に。じゃあ、元気でね」

 頭を下げる318代目にぴらぴらと手を振って、霊夢は社に向かって歩き出す。
 境内に散らばっている妖怪たちにぶつからないよう注意しながら歩いていると、賽銭箱の前辺りで、突然、誰かに抱きつかれた。ほとんど体当たりに等しい勢いで腰にぶつかられたため、ぐらりと体が傾ぐ。霊夢は足に力を入れてなんとか倒れず踏み止まると、腰に抱きついた誰かを怒鳴りつけようとした。

「ちょっと、いきなりなに」
「凄かったね霊夢!」

 霊夢の怒声よりももっと高い、なにやら妙に興奮した声で叫んだのは、氷精のチルノだった。人間の子供とさほど変わらない体格に、いかにも悪戯っ子といった感じの顔立ちと、無邪気な笑顔。外見も中身も、1万2千年前と全く変わりない。
 まあ妖精なんてそんなものか、と思いながら、霊夢は問う。

「なにが凄かったって?」
「弾幕ごっこ! 最後の弾幕凄かった! 避けた霊夢もやっぱり凄い! ねえねえ、今度はあたいとやろう!」

 チルノは霊夢を見上げて目を輝かせている。

「いや、あたいとやろう、って言ったって」

 困ったなあ、と霊夢は頬を掻く。もちろんそんなことをしている暇はないが、チルノの楽しそうな顔を見ていると、あまり邪険に振り払うのも気が進まない。

「ダメだよ、チルノちゃん」

 霊夢に助け船を出してくれたのは、緑の髪の妖精だった。大妖精、と呼ばれている、清楚で大人しそうな顔立ちの妖精である。彼女は昔と変わらずチルノのお姉さん役を務めているようで、やんわりとした手つきで、氷精を霊夢から引き離してくれる。

「霊夢さん疲れてると思うし、それに、なんだか他にもすることがあるみたいだし」
「えー、そんな、魔理沙ばっかりずるい!」
「そんな風に我がまま言ったら霊夢さん困っちゃうよ。めっ」
「ぶー」

 大妖精が軽く叱りつけると、チルノは不満げに唇を尖らせながらも、大人しくなった。

(なんかますます姉妹みたいになってるわねえ、この二人)

 霊夢はちょっと笑ったあとで、あることに気がつく。今、大妖精は特に冷たそうな様子も見せず、ごく普通にチルノと腕を組んでいる。そう言えば、さっき抱きつかれたときも、冷たさなんて少しも感じなかった気がする。この氷精の周りは冷気が発生していて、あまり長い間そういうことをしていると、下手をすれば凍傷になったりするものなのだが。

「驚きました?」

 霊夢の視線に気づいたらしく、大妖精は誇らしげに微笑んだ。

「チルノちゃん、頑張って訓練して、ある程度なら冷気が他者の体に伝わるのを抑えられるようになったんですよ」
「え、訓練でどうにかなるもんなの、それって?」
「うーん、わたしもあまり頭がよくないので、詳しい理屈はよく分からないんですけど。でも、実際やってるわけですから」

 大妖精は苦笑し、チルノはきょとんとしている。自分の成し遂げたことの凄さを、分かっているのかどうか。

「チルノちゃんも、弾幕ごっこでいろんな人と知り合って、自分ももっとみんなの近くに行きたいって考えたんだと思います。多分、今こうしていられるのは、そういう想いが実った結果なんです。だからわたし、凄く嬉しいんですよ」
「ふーん。そうなんだ」

 霊夢はチルノのそばに歩み寄って、彼女の頭をがしがしと撫でてやった。

「凄いじゃん、あんた」
「お? あたいなんか褒められた!」
「良かったね」
「うん。ま、あたいさいきょーだから当然だけどね!」

 昔と同じように得意げに胸を張ってから、チルノはちょっと真面目な顔になった。

「分かった。そんじゃあたい、我慢する」
「そう?」
「うん。でもさ霊夢」

 にっ、と、歯を見せて無邪気に笑う。

「明日はあたいとやろうね!」

 霊夢は一瞬、どう返答したものかと迷ってしまった。
 霊夢が夜明けと共に元の時代に帰ることは、宴会の参加者全員に、魔理沙の口から説明してあるはずだ。だというのに、どうやらこの氷精、そのことをいまいち理解できていないらしい。

「ごめんなさい、わたしちょっとトイレに」

 チルノの腕を解いた大妖精が、口元を手で押さえて走り出す。
 ちょっとポカンとしてから、氷精は腹を抱えて笑いだした。

「バカだなー大ちゃん! 妖精がトイレになんか行くわけないじゃーん!」
「バカはあんたでしょ」
「え? なに?」

 目をぱちぱちさせるチルノの頭を、霊夢はもう一度撫でてやった。

「元気でね、チルノ」

 お別れのつもりでそう言ったが、その意図は氷精には伝わらなかったようだ。返ってきたのは、宵闇の中でも白い歯が眩しい、能天気な笑顔。

「うん! あたい、いつも元気!」
「そりゃいいことだわ。わたしもそういうの、好きよ。じゃあね」

 軽く片手を上げて、霊夢はチルノから離れる。
 魔理沙はもう人ごみを抜け出して、社の隅に佇んでいた。歩いてくる霊夢を見て、軽く手を上げる。

「よう。人気者は大変だな」
「うるさいっての。で、勝負は引き分けに終わったわけだけど。こういう場合、報酬はどうなるんだっけ?」

 霊夢が問いかけると、魔理沙は肩をすくめてみせた。

「場合によりけり、だろ? まあ、今回の場合は両方の願いを叶えるってことでいいんじゃないかね」
「つまり、あんたはわたしにいろいろと説明してくれるわけね」
「おう。3人で酒を飲みながら、な。さ、行こうぜ」

 魔理沙は社の横を通り、母屋に向かって歩き出す。霊夢も少し遅れてついていった。318代目が見張ってくれているためか、それともそれぞれ飲むのに夢中なためか、後をついてくる者は誰もいない。

(いや、どっちかって言うと、境内の連中みんなが気を遣ってるのかしら)

 境内に現れた紫が泣きだしたとき、その場にいた連中が居心地悪そうに顔を見合わせていたことを思い出す。何故あんなことになったのか、ほとんど全員がその理由を察していたに違いない。

「ねえ、魔理沙」
「なんだ?」

 返事はしたものの、魔理沙は足を止めようとはしない。霊夢も歩き続けたまま言った。

「あんたはさ、紫がああいう風なことになってる理由、分かってるのよね?」
「まあな。もっとも、深いところは本人しか分からんと思うが」
「出来ればさ、本人に直接会う前に、教えてほしいんだけど」

 幽々子にああも言われた以上、紫が泣いているのを放っておくわけにはいかない。
 だが、霊夢は他人を慰めるのが苦手である。湿っぽい顔をしている奴が目の前にいたら、慰めの言葉をかけたり話を聞いてやったりするよりも、一升瓶を目の前に置いて「まあ飲め」と強引に盃を押しつけるタイプの人間なのだ。
 今回の場合はどう考えてもそれだけでは解決しそうにないから、ない知恵絞る必要がある。そして、そのためには事前の情報が多少なりとも欲しいところなのだ。

「まあ、わたしが教えてもいいが」

 不意に魔理沙が立ち止まり、顎で前方を示した。

「どっちかと言うと、あいつらに聞いた方がいいんじゃないか?」

 見ると、母屋のそばの小さな庭に、二つの人影が佇んでいた。八雲藍と八雲橙だ。そうと分かったのは、宴の灯も遠い深い宵闇の中に、おぼろな炎が漂っていたからだ。狐火である。

「やあ、霊夢」

 橙以上に派手な衣服を身に纏った藍の姿が、ぼんやりとした灯りの中に浮かび上がる。大人っぽくなった橙と違って、こちらは1万2千年と大して変わりない。愛想良く笑って、軽く頭を下げてくる。

「お久しぶり。さっきは挨拶できなくてすまなかったね」
「別に構わないわよ、八雲藍少女様?」

 ちょっとした皮肉のつもりでそう返したが、藍は怒ったり恥ずかしがったりすることはなく、ただ少し複雑そうな笑みを浮かべてみせる。

「相変わらずのようで安心したよ。まあ、お前はあの頃の博麗霊夢その人なのだから、当たり前かもしれないが」

 さて、と息を吐くように言って、藍はじっと霊夢の瞳を見据えた。

「なにか、わたしに聞きたいことがあるようね」
「まあ、ね。何から聞いたらいいのかよく分かんないけど」
「とりあえず、座ろうか」

 藍が狐火を纏わりつかせながら、縁側に腰かける。魔理沙と橙もその横に並んで座ったが、霊夢は少しためらった。縁側の障子は閉め切られているが、その向こうには紫がいるはずである。

「気にしなくてもいいよ。紫様はご自分の心を整理するのに必死だろうし、内にも外にも音が漏れないように結界を張っているからね。現に、今だって紫様が泣かれている声は聞こえないだろう?」

 一瞬耳を澄ましてみたが、確かに虫の声に木々のざわめき、それに遠い宴の喧騒以外は何も聞こえて来ない。藍の言葉は真実のようだ。それを確認して彼女の隣に座りながら、霊夢は問う。

「じゃあ、やっぱり紫はまだ泣いてるんだ」
「ああ。だが、どうか気を悪くしないでほしい。紫様だって、泣きたくて泣いているわけではないんだ。本当なら、1万2千年前と同じように、余裕綽綽の胡散臭い態度で霊夢と酒を飲むおつもりでいらしたんだよ」
「だったらなんであんなことになってるのよ」

 多少の腹立たしさを込めてそう言ったら、藍は困惑したように首を傾げた。

「なんで……って、幽々子様からお話を聞いたのではなかったの?」
「一応は。なんか、1万2千年前のわたしが、魂ごと行方をくらましたから紫が凄く傷ついた、とかなんとか」

 口に出してみるとますます嘘のように思えてくる。霊夢は思わず閉め切られた障子の方を見た。「やーい引っかかってやんのー!」とか言って笑いながら、紫が飛び出して来ないだろうか、と。だが障子は閉まったままで、辺りは静かなままで。

「それが信じられないの?」

 その声に視線を戻すと、藍がもどかしそうな表情でこちらを見ていた。霊夢は深く頷く。

「だって、紫だってやたらと長生きしてる大妖怪なんでしょ? わたしはまあ確かに博麗の巫女ではあったけど、あくまでもその中の一人ってだけに過ぎないわけだし。その上魔理沙みたいに寿命を延ばすこともなく、あくまで普通の人間として死んでったわけでしょ? そんなわたしとお別れしたからって、なんでそこまで……って」
「なるほどね」

 藍はため息をついたあと、苦笑気味に魔理沙の方を見やった。

「魔理沙。どうも、まだ巫女殿にはまだ上手く伝わっていないようだが」
「まあこいつもあんまり頭良くないからな。許してやってくれよ」
「オイ」

 霊夢が頬を引きつらせると、「まあまあ」と藍が笑ってなだめた。それからちょっと真面目な顔になって、

「分かった。それじゃあ、話すことにしようか。紫様がこの1万2千年間、ずっと博麗霊夢を想い続けてきた、その理由をね」

 その言葉に、霊夢は居心地の悪さを感じた。なにか、胸に重しでも乗せられたような感じがある。

(やだなあ、ホント重ったいわ)

 身じろぎする巫女の隣で、九尾の狐は遠くを見るように目を細め、静かに語り出した。

「霊夢がスペルカードルールを作ったのは、確か吸血鬼異変から少し経ったぐらいのことだったか」
「へ? あ、ああ、確か、そうだったと思うけど」

 全く予想だにしないことを言われて少々困惑しながらも、霊夢は頷いた。
 吸血鬼異変、というのは、霊夢がスペルカードルールを作るきっかけともなった異変である。
 その頃幻想入りした力の強い吸血鬼が、長い平穏のせいですっかり平和ボケしていた幻想郷の妖怪たちを無理矢理配下に組み込んで、まるで戦争のような騒ぎを起こした異変だ。
 この異変により、妖怪たちの一部は、長いこと戦いから離れていた自分たちの力がすっかり衰えていることを痛感するに至った。
 そして、このままでは同じような騒ぎが起きたときに対処しきれないだろうから、今の平穏無事な幻想郷のバランスを崩さず、なおかつ妖怪の力を衰えさせないようにするいい考えはないだろうか、と、霊夢に持ちかけてきたのである。

「そんで、『じゃあなんかお遊びみたいな戦いごっこのルールでも考えてみるか』って、スペルカードルールの草案を作ったのよね」

 霊夢自身にとってもすでに懐かしい話である。藍は一つ頷いて、話を続ける。

「あのころの紫様はね、ずっと悩んでおられたんだ」
「悩む?」

 信じられないことを聞いた。

「待ってよ。紫って、なんか知らないけど凄く頭がいいんでしょ?」
「ああ。私など及びもつかないぐらいに聡明なお方だよ」
「そんな奴にも、ずっと解決できない悩みなんてあるの? なに、『最近小皺が増えて乳も垂れてきたわ~』とか、そういうやつ?」
「ちょ、失礼ですよ霊夢さん」
「本当に相変わらずだね」

 遠慮がちに声を挟む橙の横で、藍が苦笑いを浮かべる。

「もちろん、そんなくだらないものじゃあないよ。悩みっていうのは、幻想郷に関することさ」
「幻想郷?」
「そう。紫様が何よりも愛する、この素敵な楽園のこと。ときに霊夢、お前は、スペルカードルール制定以前の幻想郷が、どんな場所だったか覚えているかい?」
「へ? 昔の幻想郷?」

 霊夢は首を傾げた。どんな場所だったか、と言われても、妖怪は昔からいたし、自分はそれを退治していたし。

「別に、大して変わりなかったと思うけど?」
「それが、そうでもないんだな。やはり本人は分かっていなかったか」

 藍は静かに目を閉じる。

「昔の幻想郷はね、そこに住む者にとっては非常に退屈な場所だった」
「そう?」
「そう。妖怪は簡単には人を襲えないし、人も妖怪を警戒して、あまり遠くの方までは行けない。力の強い妖怪は己の力を存分に振るえず、力の弱い妖怪は力の強い妖怪を恐れて、隅っこの方でこそこそしているしかなかった。山に篭った連中は内部の派閥ごっこに熱中するぐらいしか楽しみのない閉鎖的な日々を送っていたし、里の人間たちは相変わらず妖怪を過度に警戒し過ぎていた。そこに生きる者たち一人一人の間に、埋めることのできない深い溝があったのさ」
「当たり前の話じゃないの?」
「でも、その当たり前の話を、とても嫌がっていたお方がいたのさ」

 紫の胡散臭い笑みが、霊夢の脳裏を過ぎった。

「なんで?」
「あの方が、この地を楽園にしようとしていたから。老若男女新古人妖、誰もが関係なく幸せで満ち足りた毎日を送っていける、のん気で素敵な地上の楽園にね」
「子供じみた理想ねえ」

 霊夢が正直な感想を漏らすと、藍もまた特に隠すことなく「そうだね」と笑って頷いた。

「だが本人は本気だった。紫様ご自身、力が強すぎるためにどこでも爪弾きにされていたせいもあったんだろう。どんな嫌われ者でもはみ出し者でもそこでは笑顔でいられる、全てを受け入れる楽園を作ることに、己の全存在を賭けておられた。だが、その望みはなかなか達成されなかった」

 藍はため息混じりに首を振る。

「拡張計画によって消え行く妖怪たちを集め、大結界の構築により外の世界と幻想郷とを完全に遮断する。ここまでは特に問題なかった。だが、それ以上のことがどうしても出来なかった」
「それ以上のこと、っていうと」
「人妖……それに、力の強い者と力の弱い者の距離を縮めることさ。紫様の楽園構想には、どうしてもこれが必要だった。誰かが輪から外されている場所など、到底楽園とは呼べないから」
「ちょっと待って」

 だんだん話が見えてきたぞ、と思って、霊夢は眉根を寄せる。

「つまり、わたしの作ったあのお遊びが、その悩みを解消したってわけ?」
「察しがいいね、巫女殿。まさにその通りだ」

 藍は深く頷いたが、霊夢は「そんなバカな」と笑って手を振った。

「紫は頭がいいんでしょ? あんな間抜けな案ぐらい簡単に……」
「では何故、幻想郷は大結界の構築後百数十年間も、退屈な場所のままだったのだろうね? にも関わらず、あのルールが制定されて以降、異変という名のお祭り騒ぎや、人妖問わずの大宴会が急増した理由は? 忌み嫌われて地上から追われていた地下の者たちと、再び交流が持てるようになったのは、何故だったかな?」

 そう言われると、霊夢には返す言葉がない。なんとか反論しようとして「でも」と言いかけたが、結局何も続けられなかった。
 そんな霊夢を見て、藍は小さく首を振る。

「途轍もなく頭がいいからと言って、なんでもかんでも思いつくわけではないよ。特に紫様は幻想郷に対して非常に誠実で真面目な態度を取っておられるからね。発想の幅が狭くなって、正攻法のアプローチしか考えつけなくなるのも仕方がない。だからこそ、異変も人攫いも妖怪退治も、全てを『遊び』の中に内包してしまおうという霊夢の案が、とても新鮮に思えたのだろうね」

 何かを思い出したかのように、藍はくすくすと笑い出した。

「スペルカードルールの草案が届けられた夜のことは、今でもよく思い出せるよ。紫様も、最初は興味なさげだったんだ。『今の博麗の巫女のことはあまり知らないけど、不真面目で頭の悪いやつだと聞いているし、どうせ大した案でもないんだろう』なんて顔をされていたっけ」
「なにおう」
「怒らず最後まで聞いてくれ。ところがね、一度気だるげにその草案に目を通して……まずは眉をひそめられた。それから姿勢を正して熟読し、目が見開かれる。三度目で鼻息が荒くなり、四度目で顔が赤くなり、五度目で全身が震え出し、六度目でとうとう立ち上がり、七度目で『これだーっ!』と、叫びだしたんだよ」
「マジ?」

 あの紫がそこまで興奮したことなど、もちろん霊夢は見たことがない。

「ねえ、写真とか残ってないの? あとでからかうネタにしたいんだけど」
「残念ながら残っていないよ。思い出として私の心に刻みつけられてはいるがね」

 藍は心底楽しそうに、笑みを深くする。

「わたしが『どうなさいました!?』と声をかけたら、抱きしめられた上に何度も何度も口づけを浴びせられてね。目尻に涙が光っていたのは、たぶん勘違いではないと思う。ともかく、一度発想を得られさえすれば、あとはもうあの方の独壇場だ。そのまま適用するにはいささか不備が多いそのルールは、一昼夜かけて細かく修正が加えられ、発案者のもとに送り返された」

 そう言われて、霊夢もまたその日のことを思い出す。
 確か、ルールの草案を「妖怪の賢者」のところへ送った翌日の夜に、「博麗の巫女殿の署名を願う」という一文とともに、修正案というのが返ってきたのだ。文面が全体的に格調高いものに変更されており、「へえ、妖怪にも頭のいい奴がいるのねえ」と感心した記憶がある。

「あれって、紫だったんだ」
「そう。今でもよく思い出せるよ」

 藍は懐かしそうに目を細めた。

「あの夜、屋敷で一番上等な日本酒を飲みながら、『藍、今に見ていなさい。幻想郷は近いうちに、私の思い描いた真の楽園へと姿を変えていくわ』と、紫様は赤い顔で何度も繰り返し語られていた。正直、そのときのわたしには理解できなかったよ。あんなものはただの遊びではないのか、と。そう言ったら、紫様は上機嫌な顔で、『そうよ。あれは遊び。とても楽しい遊びなの。だからこそ、皆の心を深く結び付けてくれるのよ』と仰っていた。事実その通りだったので、わたしは後で自分の未熟さを酷く恥じたものさ」

 霊夢はふと耳を澄ました。緩やかな風に乗って、宴の喧騒が小さく聞こえてくる。
 今の今まで、あの光景を、当たり前にあるものだと思っていた。それが日常になり過ぎていた。
 だが、本当にそうだったか? スペルカードルール制定以前も、博麗神社の境内はあれほど賑やかだったか?

「紫様はね、あの頃から、霊夢のことをよくご存じだったんだよ。いろいろと事情があって、初めて会ったときは知らない振りをしていたがね。本当は抱きしめたいぐらいだっただろうな。あのルールの制定以来、よく隙間越しに博麗神社の様子を覗かれていたから。何がおかしいのか、腹を抱えて笑っていることが多くてね」
「失礼な奴ね」
「それだけ楽しまれていたのさ。もっとも、そういう愛情を素直に表現することはなかなか出来なかったが」
「どうして?」
「紫様が妖怪の賢者で、霊夢が博麗の巫女だったから。立場というものがあったんだよ」

 そう言われても、霊夢は納得できなかった。

「でも、永夜異変のときとか、ちょっと前の地下の異変のときだって、紫はわたしの手助けしてたじゃない」
「それは、事が幻想郷全体に関わる問題だったからだよ。そういう状況でなら、『妖怪の賢者が自分の都合のために博麗の巫女を利用している』という体裁を取り繕うことができるだろう? そうでなくとも、あのルールのおかげで人妖の距離が縮まりつつあった、過渡期とも言うべき微妙な時期だ。妖怪の賢者が巫女を寵愛、なんて急激な変化を起こすわけにはいかなかったんだよ。たとえば山の上層部なんかには、物凄く保守的な輩がたくさんいたからね。あまり極端な変化を突き付けると、自分たちの面子を守るために山を完全に閉鎖、なんて不愉快な事態にもなっていたかもしれない。全てを、ごくごく緩やかに運ぶ必要があったのさ」

 だが、と藍は少し寂しそうに付け加える

「そのせいで、紫様ご自身は、それほど霊夢に近づくことが出来なかったんだな」
「そう? 今でも存分にからかわれたりしてるんだけど」
「他の妖怪でもそのぐらいはできるからね。つまり、お前に近づくのは、その辺りの距離が限界ということさ」
「じゃあ、立場とかそういう面倒なのが全部なかったら、紫はどうするつもりだったっていうの?」
「一日中霊夢を愛でただろうね」
「愛でっ……!?」

 霊夢は寒気を感じて、ほとんど反射的に肩を抱いた。

「じょ、冗談でしょ!?」
「冗談じゃないよ。そんなに気持ち悪がらないでくれ」
「いやだって、一日中愛でるって……ぐ、具体的には?」
「そりゃもう甲斐甲斐しく世話を焼くのさ。ご飯作ってあげたりお風呂に入れてあげたり頭を撫でたり頬ずりしたり膝枕したり髪を梳かしてあげたり添い寝してあげたり」
「わたしのお母さんかあいつは!」
「そう、まさにそんな風に振舞いたかったことだろう。なにか誤解があるようだが、紫様はとても母性に溢れたお方だよ。でなければ、こうも永い間幻想郷を愛することは出来なかったはずさ。わたしだって、力の弱い時分は……おっと」

 藍は誤魔化すように咳払いをした。心なしか、ちょっと顔が赤い。

「なに、なにしてたのあんたたち」
「いやいや、その話は置いておいてだ」
「橙、あとで詳しく教えなさいね」
「いや、わたしはよく……」
「と、ともかくだ!」

 藍は大声を出して、強引に話の流れを戻した。

「ともかく、紫様は霊夢のことを本当に好いておられたんだよ。異変のときも、できる限りサポートしようとなさっていたし」
「ああ、それはよく知ってるわ」

 霊夢があっさりそう言うと、藍は大きく眼を見開いた。

「では、霊夢は紫様のお気持ちを分かって」
「いや、勘違いしないでよ? あくまでも『やたらとサポートが充実してるのは、異変解決のために最大限わたしを利用するつもりだからだろうな』って思ってただけだから。それも、事実ではあるんでしょう?」
「ああ、そういうことか。まあ、な。大妖怪として行動しても問題ない範囲で、幻想郷を守りつつ霊夢のことも見守れるわけだから、紫様としてもそういう形で関わるのが一番ではあったんだろう。だが、やはりそうか」

 藍は残念そうに、長い溜息を吐きだした。

「やはり、霊夢には紫様の気持ちは伝わってはいなかったか」
「そんなこと言われても」
「ああ、済まない。別に、責めているわけではないんだ。むしろそれでこそ博麗霊夢、という気もするしな。他者の気持ちなど全く気にせず、ひたすら自分の思うままに振舞って……それでいて、自然と周囲に人妖が集う。お前は生涯、そういう人間だったよ」
「だよなあ」

 不意に、魔理沙が口を挟んできた。

「お前、ほとんど死ぬ直前まで幻想郷を飛び回ってたもんな。娘を差し置いて異変解決することも多かったし」
「それは……我が事ながら、迷惑な婆さんね」
「まったくだ」

 藍が笑う。

「紫様も苦笑いなさっていたよ。『あの子ももう歳なんだから、そろそろ落ち着いたらいいのにねえ』なんて」
「あいつに歳のこと言われるのは微妙に納得がいかないんだけど」
「まあまあ。だが、これで紫様のお気持ちは大体分かってもらえたと思うが、どうかな?」
「そりゃ、一応はね」

 藍の口調が少し変わったので、霊夢はようやく前置きが終わったのだなと思った。少し姿勢を正して、話の続きを促す。九尾の狐がゆっくりと切り出した。

「紫様は、心待ちにしておられた」
「なにを?」
「愛しい博麗霊夢が、全てのしがらみから解き放たれる日を」
「それって、つまり」
「そう。霊夢が天寿を全うするその日さ」

 そう言ってから、藍は「ああいや」と、慌てたように付け加えた。

「別に、早く死んでほしいと思っていたとか、そういうことではないんだよ」
「大丈夫、それは分かってるつもりだから」
「うん。それならいいんだ。それでまあ、霊夢が死んだあとなら、何の気兼ねもなく話せるだろうと考えておられたんだな。なにせ冥界の管理人が友達なんだ、白玉楼へ行けば、いつだって霊夢と話せるはずだ。そういう日々が訪れたら、今までこき使っていた分たっぷり労ってやろう、ずっと伝えられなかった気持ちを、時間の許す限り精一杯伝えようと、そう考えておられたんだ。ところが」

 膝の上で、藍の拳が震えた。

「ところが、どれだけ待っても霊夢は現れなかった。冥界行きの判決を受けたのは間違いないから、いずれここに来るはずなのに。不安になった紫様は、幽々子様にも頼んで霊夢を探してもらった。だが、どれだけ探しても魂の欠片すら見つけられず、とうとう、悟らざるを得なかった。愛しい巫女が、ついに一つの言葉を交わすこともできないまま、自分の手の平をすり抜けていったのだと」

 初夏とは思えないほど冷たい風が吹きつけてきて、霊夢は己の肩を抱いた。

「何故だ」

 不意に、藍が語気を強めた。

「霊夢、お前は何故わたしたちの前から消えた? 何故わざわざ、紫様を悲しませるようなことを? もしあんなことにならなければ、紫様だってああも苦しみは」
「藍様」

 橙がそっと主の袖を引く。藍がはっとして、何度も首を振った。

「……すまない。お前はまだ、そのときの霊夢ではないのだったね。自分には与り知らぬことだというのに、こ
うも責められてはたまらないだろう」
「いや、別に、いいけど」

 霊夢は息苦しさに耐えながら、なんとか声を絞り出す。

「でもやっぱり、質問には答えられない。わたしだって、そのときのわたしの気持ちがまだよく分からないんだもの。今のわたしだったら、死んでもしばらくは白玉楼でのんびりするのになあって思うぐらいよ」
「そう、か。そうだな、あんな問いかけをしても、今のお前から答えが得られるわけはないか」

 藍は疲れたように息を吐き出し、薄目で足元を見ながら、ぼそぼそと語り出す。

「……紫様は酷く悲しまれた。霊夢の葬式のときも、子供のように泣き叫んで……あんな主の姿を見るのは初めてだったから、私もずいぶん混乱したものだよ。もしかしたらこのまま壊れてしまうのではないかと、怖くなったぐらいだ」
「でも、そうはならなかったんでしょう?」

 つまり紫はもう立ち直っているのではないか、という期待を込めて、霊夢は言う。藍は小さく頷いた。

「紫様には、まだ残されたものがあったからね」
「残されたもの?」
「お前の遺言さ。『1万2千年後に若い頃のわたしが幻想郷を訪れるだろうから、それまで幻想郷を今の形に留めておいてくれ』という、妖怪から見てもずいぶん突飛な遺言だ。もちろん、信じる者はほとんどいなかったが、紫様は多分、信じたのだと思う。むしろ縋りついたと言った方がいいかもしれない。その遺言を守るべく、時に無理解な新参者と衝突したり、古参の起こす問題に頭を悩ませながら、ずっとこの幻想郷を守り続けてきたんだ。そこにいる、魔法使い殿と共にね」

 霊夢は思わず魔理沙の方を見る。藍と橙の向こうに座っている黒白の魔法使いは、今は帽子を深くかぶっていて、その表情はよく見えない。

「もちろん、私自身は信じていなかった。魂すら見つからぬ人間が、どれだけの時を経ようと帰ってくるものか、と。信じていたのは二人だけだ。追い続ける者と、想い続ける者。なあ、霊夢」

 藍はどこか遠くの方を見るように、目を細めた。

「紫様は、お前との約束を果たすことが出来たのだろうか。幻想郷は、本当に昔と変わりないか?」
「ええ、全く変わらないと思うわ」

 霊夢は迷わずそう答えた。そう答えられるぐらい、幻想郷は本当に何も変わっていない。

「そうか。それは、よかった」

 震える声でそう言った藍に、橙がそっと寄り添う。
 昼間橙にも同じことを聞かれたな、と霊夢は不意に思い出した。
 今なら、あのとき橙が何故あれほど真剣だったのかも、なんとなく分かる気がする。

「霊夢よ」

 黙り込んでしまった藍の言葉を引き継ぐように、魔理沙が言った。

「紫はな、泣かなかったぜ」
「え?
「お前の葬式で派手に泣いて以来、1万2千年間、一度も泣かなかった。なあ、そうだろう?」

 魔理沙の問いかけに、二人の式が同時に頷いた。

「だが、本当はいつだって、泣きたいようなお気持ちだったと思う」

 藍がまた、震える声を絞り出した。

「たまに、問いかけられることがあるんだ。『ねえ藍、今の幻想郷を見たら、霊夢は』と。だが、言葉はいつもそこで止まってしまう。まるで、答えを恐れるように。だからな、霊夢」

 藍はちらりと、障子の方に目をやった。

「今紫様がああも泣かれているのは、もはやかなしいとかなんとか、そういう次元の話じゃないんだ。1万2千年間、ずっと自分の内側にため込んできた感情が、今まさに溢れ出している最中なんだ。泣きたくて泣いているのではないんだよ。だから、あまりまともにお話ができなくとも、どうか怒らないでほしい。お前が湿っぽい雰囲気を好まないことは分かっているが、どうか」
「私からもお願いします、霊夢さん。紫様に、優しいお言葉をかけてあげてください」

 藍と橙が、深々と頭を下げる。放っておくと土下座までしそうな勢いである。霊夢は慌てて二人を止めた。

「いや、そういうのいらないから。湿っぽいのもいやだけど重ったいのもいやだから、わたし」
「では」
「それじゃあ」

 二人の式が、祈るような瞳で霊夢を見る。「だからそういうのはやめてってば」と言いつつ、巫女は頭を掻いた。

「……一応、努力はするけどさ。そういうの苦手だし、上手く慰められるとは限らないわよ」
「それでいいさ。お前は、ただいつも通りの博麗霊夢で、紫様のおそばにいてくれればいいんだ」
「お願いします、霊夢さん」
「話はまとまったみたいだな」

 魔理沙が縁側の上で立ち上がった。月を背に負って、にっと笑いかけてくる。

「それじゃあ、さっさと宴会になだれ込むとするかい」
「ええ。これ以上ないぐらい湿っぽくなりそうで、正直うんざりだけど」

 霊夢もまた、溜息交じりに縁側の上に立つ。
 そうして障子に手をかけたところでふと振り返ると、藍が深く肩を落としたところだった。

「なんか、ずいぶん疲れてるわね?」
「ああ。ようやく、肩の荷が下りた気分でね……わたしにはどうにもならないことだったから」
「まだ解決するとは限らないでしょ」
「いや。わたしたちの巫女様なら必ずやってくれるはずだ」
「あっそ」
「っていうか、霊夢さん」

 橙が苦笑しながら言った。

「藍様、今日だけでもずいぶんご無理をなさってるんですよ?」
「無理って?」
「なにせ、私が連絡を入れてからほんの数時間ほどで、遠く離れた星系からここまで戻ってきて下さったんですから」

 と言われても、霊夢にはそれがどれだけ大変なのかよく分からなかった。

「別に、大したことじゃないよ」

 謙遜する風でもなく、本当になんでもないことのように、藍が言う。

「私とて八雲だ。八雲とは人と妖の隙間にありて、幻想郷の全てを見守る者。愛しい主と可愛い式と、大切な友人のためならば、たとえ20億光年の彼方からだって駆けつけてみせる。そうだ、霊夢」

 ふと、藍がこちらを振り仰いだ。

「一つ言い忘れていたことがあるんだ。まあ老人のたわ言だと思って聞いてほしいんだが」
「なによ藍ババァ少女様」
「……まあいいか。あのな、お前は笑うのも怒るのもとても自然にこなすが、泣くのだけは誰よりも下手な奴だ。だがときには、泣かなくちゃならないときもある。そういうときに、泣くのを我慢してはいけないよ」

 やけに優しい声でそう言われて、霊夢は顔をしかめる。

「意味が分からないんだけど」
「だから言ったろう、老人のたわ言だと。まあ、あまり気にしないでくれ。紫様のことを、よろしく頼む」

 そう言ったきり、藍は庭の方に目を戻す。橙もその場から動かないから、ずっとここにいるつもりなのだろう。

(まあ、別に構いやしないけど)

 霊夢は前を向き、深く深く息を吸った。そして、一気に障子を開け放った。



 確かに、なかなか高性能な結界が張ってあったらしい。障子を開けた途端、霊夢の耳に誰かが啜り泣く声が聞こえてきた。それがあんまり鬱陶しかったので、思わず顔をしかめてしまったほどだ。

(さて、と)

 畳敷きの部屋に、一歩足を踏み入れる。後ろからついてきた魔理沙が、再び縁側の障子を閉める。これで、この部屋には3人きりになった。
 藍の狐火がなくなったため、部屋の中は外よりもだいぶ暗い。その辺に適当に座った魔理沙が灯りをつけないので、霊夢は立ったまま目を凝らした。もっとも、啜り泣く声は絶え間なく続いていたため、いちいちその発生源を探す必要もなかったのだが。

「紫」

 声をかけると、部屋の隅っこで膝を抱えて蹲っていた影がびくりと震えた。一瞬、息をするような間があったあと、返事の代わりにまた啜り泣きが再開される。

(……湿っぽいわね)

 霊夢は頬を引きつらせる。早くも苛々してきた。

「ちょっと、紫。そこの隙間妖怪。返事しなさいよ……オイ、ババァ」
「酷さの度合が一気に飛躍したな」
「うるさい」

 茶化す魔理沙を一言で切って捨ててから、霊夢は躊躇いなくずかずかと紫に近づいた。

「八雲紫少女様?」

 耳元で囁くと、紫の体が大きく震えた。何度も鼻を啜りあげつつ、膝の間からこわごわと顔を上げる。

(うわぁ)

 霊夢は顔をしかめた。下手をすると身を引くところだった。
 今の紫の顔は、それはもう酷い有様だった。涙と鼻水でベチョベチョになっている上に、瞳はしょぼくれて頬は赤くむくんでいて、半開きの唇からは絶え間なく嗚咽が漏れていて。
 霊夢とて、ババァだのなんだの憎まれ口を叩いてはいたものの、紫の美しさを一応は認めていたのである。それが今は、

(凄く不細工だわ)

 美人は泣いても美人だ、というのはどうやら嘘のようだ。あれは単に美しく見える泣き方をしているだけなのだ、と今更ながらに思い知らされる。
 だというのに、ここまで酷い泣き顔を目の前にしては、大笑いすることも出来ない。だから、霊夢は湿っぽい泣き顔が大嫌いなのだ。

「ええと、ひ、久しぶり、紫」

 なんとか笑顔を取り繕ってそう言うと、紫の瞳にじわっと涙がせり上がってきた。不細工な泣き顔が、また膝の間に引っ込む。

(ババァ……ッ!)

 霊夢は歯軋りした。前言撤回。こんな奴を慰める気になど到底なれない。
 心の中で式二人に詫びることもせず、霊夢はおもむろに手を伸ばした。膝の間に埋まっている紫の頬を思い切りひっつかみ、力の限り引き延ばしつつ無理やり顔を上げさせる。

「返事ぐらい、しろっ!」
「ひだいっ、ひだいぃ……ひゃ、ひゃめてぇ……」
「あんたが泣くのをやめるのが先! さあ、大妖怪様が人間の小娘にこれだけのことされてんだから、今すぐ泣き止んで怒るなりなんなりしなさい!」
「ひだいぃ……」
「泣くなっ!」
「おいおい霊夢、あんまり少女様をいじめるなよ」

 魔理沙が苦笑気味にたしなめたので、霊夢はようやっと手を離した。怒りが収まらないまま紫の顔をじっと睨みつけると、彼女は涙にうるんだ目で霊夢を見つめ返し、

「霊夢……」
「そう、霊夢よ霊夢」

 よし、と霊夢は心の中で拳を握る。これならなんとか会話になりそうだ、と。しかし、

「霊夢……霊夢……っ!」

 紫はまたしゃくりあげながら、膝の間に顔を戻してしまう。霊夢は地団駄を踏んだ。

「何がやりたいのよあんたは!」
「そう焦るなよ。夜はまだ長いんだ、いつも通りのん気に行こうぜ。ほら、二人ともこっち来いよ」

 魔理沙の誘いに振り返ると、彼女はどこからか焼酎の瓶を二本、ぐい飲みを三つ取り出したところであった。よく見慣れた、物凄く安い酒である。これを冷やしもせずに水で割って、まずいまずいと言い合いながら飲むのが霊夢と魔理沙の日常であった。

「よくそんなことまで覚えてるわね」
「何度も言わせんな、なんだって覚えてるよ。さ、来いよ」

 魔理沙が手招きするので、霊夢は渋々彼女のそばに座った。が、紫は部屋の隅っこで泣き続けており、一向に近づいてくる気配がない。

「ちょっと、早く来なさいよ、紫」
「言い方が悪いんだよお前は」
「なにが?」
「おい紫、泣いたままでもいいからこっちに来てって、霊夢が頼んでるぜ」

 魔理沙がそう呼ぶと、本当に来た。膝の間に顔を埋めたまま、尻で畳の上を滑ってこちらにやってくる。と思ったら、霊夢ではなく魔理沙の隣に落ちついた。
 霊夢は頬をひきつらせる。

「……え、なに、わたし避けられてる?」
「ち、ちがっ」

 紫が慌てたように一瞬顔を上げたが、霊夢の顔を見たらまた涙が溢れ出してきて、結局弁解しきれないまま元に戻ってしまう。霊夢は思わず舌打ちしてしまった。

「いちいち突っかかんなよ。藍が言ってたろ、泣きたくて泣いてるわけじゃないってさ。この少女様は、お前に泣き顔を見られるのが恥ずかしくてたまらないんだよ。隙間に潜って逃げないだけ大したもんだと思ってやれ」

 魔理沙がぐい飲みに焼酎を注ぎながらフォローする。どうやら二本ある瓶の内の一本には水が入っているらしく、それで焼酎を割っているようだ。
 そんな魔理沙と泣いている紫を交互に見ながら、霊夢は唇を尖らせてそっぽを向く。

「なにさ。ずいぶん仲がいいじゃない」
「そりゃ、お前がいなくなってからあれこれと協力してきたからな。昔よりは、距離も近くなるさ」

 お前がいなくなってから、という言葉に反応するように、紫の嗚咽がますます大きくなった。霊夢はすでにうんざりしかけている。
 その内に、酒の用意が終わったらしい。ぐい飲み一杯になみなみと注がれた焼酎が、それぞれの眼前に置かれる。

「乾杯しようぜ」
「なにに?」
「そりゃもちろん、1万2千年ぶりの再会にさ。ほら、いいから杯を上げろよ」

 霊夢はぐい飲みを手に取った。紫もゆっくりと顔を上げ、鼻を啜りあげながらそれに倣う。

「じゃ、乾杯」
「乾杯」
「か、かんぱい」

 3人は同時に酒に口をつける。一番最初にぐい飲みから唇を離したのは、紫だった。泣き顔をさらに歪めて、嫌そうに言う。

「まずい」

 それから、また心底かなしそうな目で霊夢を見る。「過去から引っ張り出された挙句にこんなまずい酒飲まされるなんて、霊夢はなんてかわいそうなんだろう」とでも言いたげな哀れみの目だ。

「いいのよ、これがわたしらなりの流儀ってもんなんだから」
「でもまずいわ」
「まずいからいいんじゃないの、ったく」

 霊夢はぐい飲みの中の焼酎を一気に飲み干した。紫の言葉通り、非常にまずい。普段魔理沙と飲んでいるときは、馬鹿話をしながらだからあまり気にもならないのだが。

「ええいまずい、もう一杯」
「ペース速すぎだろ」
「いいからさっさと注ぐ!」
「へいへい、分かりましたよ巫女様」

 魔理沙は呆れた様子で焼酎を注ぎ、また水で割る。霊夢は苛立ちながらそれを一息で飲みほし、またぐい飲みを魔理沙に突き出した。

「まずすぎ。もう一杯」
「なんの罰ゲームなんだそれは」
「いいから注ぐ!」
「へいへい」

 まずすぎる3杯目を、霊夢はまたも一息に飲み干した。

「あー、ホントまずい。もう一杯」
「はいストップ」

 魔理沙が手の平を突き出して止めた。

「なに無茶苦茶やってんだお前は。その内死ぬぞ。自棄になるなよ」
「なってない」

 目をそらした拍子に、紫の顔が見えた。涙に濡れた赤い目が、心配そうにこちらを見ている。霊夢にとっては見たこともない表情で、それを見ているのはたまらなく不快だった。

(なんなのよ、あんたは)

 紫の泣き顔からも、霊夢は目をそらす。

(あんたの大好きな馬鹿巫女がこんな馬鹿なことやってんだから、いつもみたいに大笑いするなり。からかうなりすればいいじゃない。なんでそんな湿っぽい泣き顔してんの、あんたは)

 それを直接言ってやったところで、紫は泣き止んではくれないだろう。と言うか、今の紫は霊夢が何をしても泣くだけのような気がする。これでは泣き止ませることなど到底不可能だ。

(こいつを笑わせるのがこんなに難しいとは。いつもはわたしが何やっても胡散臭く笑ってるくせに)

 霊夢は舌打ちをしながら、自分の膝をトントンと指で叩く。もちろん、そんなことでは苛立ちは少しも紛れない。

「ま、ちょっと落ち着けよ、霊夢」

 焼酎の入ったぐい飲みを差し出しながら、魔理沙が言った。

「さっきも言ったが、夜は長い。いつも通りの馬鹿話を肴に、のんびりやるとしようぜ」
「はいはい」

 霊夢はぐい飲みを受け取ったが、口はつけなかった。この重ったくて湿っぽい雰囲気を払拭できない以上、今飲んでもただまずいだけだ。

「しっかし、残念だよなあ」

 魔理沙が頭を掻いた。

「もうちょっと時間があれば、お前に今の幻想郷をもっとよく見せてやれたんだが」
「なら、あんたの話だけでもいいから聞かせなさいよ」

 それで紫を笑わせてやってくれ、という期待も込めてそう言ったが、魔理沙は首を横に振った。

「残念だが、言葉にしてもあまり意味がないんだよ」
「どうして?」
「だって、話そうとすると、『この星はどこまで言っても幻想郷だ』って一言で終わってしまうからな」
「どういう意味?」

 霊夢が首を傾げると、魔理沙はぐい飲み片手に笑いながら答えた。

「言葉通りさ。この星は、どこまで行っても幻想郷だよ。人やら妖怪やら宇宙人やら、種族も生まれた星も何もかも違う奴らがそこら中にゴロゴロしてて、たまに誰かが異変起こしては誰かがそれを解決しに行き、弾幕ごっこでそこそこ平和的にケリをつけて最後はみんなで酒飲んで。どこへ行ってもそういうことやってる、宇宙で一番のん気で幸せな楽園なのさ」

 昼間、どこか遠いところにあるという分社と連絡を取っていた318代目の姿が、霊夢の頭の中に浮かんだ。

「不思議ね」
「なにが?」
「そんなにたくさんいろんな奴がいたらさ、誰かがルール無視して暴れたりしそうなもんだけど」
「いないよ、そんな奴は」

 魔理沙はあっさりと断言した。

「どうして?」
「ここがどんな場所だか忘れたのか? 世界中から忘れ去られた、他のどこにも行き場のない、寂しいはみ出し者の集まりなんだぜ? そんな連中でも笑って暮らしていけるのがここなんだ。そんな楽しい楽園を、自分から壊す奴がいるわけない。ここは今も昔も、はみ出し者の素敵な楽園なのさ」

 魔理沙は何かを誇るような表情で、霊夢を見た。

「そして、そんな素敵な楽園を維持しているのが、お前の作ったスペルカードルールってわけだ」

 昼間そう聞いたときと違って、霊夢は反論しなかった。魔理沙が嬉しそうに笑う。

「ちょっとは分かってくれたみたいだな」
「一応はね。でも、他の星の人、とやらにもそれが通じるってのはどうも信じられないけど」
「関係ないよ、そんなことは。あの連中だって、わたしたちと同じく心を持つ者なんだ。楽しくやろうって姿勢に変わりはないのさ。なあ、霊夢」

 おもむろに、魔理沙が呼びかけた。

「弾幕って、なんだと思う?」
「あんたのことだから、弾幕はパワーだぜ、とかなんとか言うんじゃないの?」
「そういうこと言ってた時期もあったっけな」

 魔理沙が、どこか恥ずかしそうに苦笑する。

「でも、今は違うと思ってるよ。いいか霊夢、弾幕は全てを吹き飛ばすパワーでもなけりゃ、氷のような冷たい計算で相手を追い詰めるブレインでもないんだ」
「じゃあなによ?」
「ハート。弾幕は、全てを包み込むハートなのさ」
「つまり?」
「愛だよ」

 部屋の中に沈黙が降りた。紫が一度鼻を啜りあげた以外、何の音もしない。
 しばらくして、魔理沙がどことなく意外そうに、頬を掻いた。

「あれ、笑わないのか?」
「そうしようかとも思ったんだけどね」

 霊夢は小さく息をつく。

「なんだか、妙にしっくり来ちゃってさ。失敗した」
「そうか」

 魔理沙は頬を緩め、くすぐったそうに鼻の頭を掻いた。

「へへ、なんかこう、照れるな」
「照れないでよ。こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない」
「悪い悪い。でもさあ、霊夢。今言ったの、間違いなくわたしの本心だぜ」

 胡坐をかいた足の先を両手でつかみながら、魔理沙は子どものように目を輝かせる。

「弾幕ごっこって、物凄く愛に満ちた遊びだよ。人も妖怪も宇宙人も強者も弱者も関係なく、わたしたち全てを結び付けてくれる、愛に溢れた遊びなんだ」
「知ってるわ。あんたが、教えてくれたから」

 そう言ったら、魔理沙は顔の半分を変な形に引きつらせた。

「泣かせるなよ」
「知らない。あんたらが勝手に泣いてるんでしょ」
「霊夢らしいや」

 結局涙は流さず、魔理沙はまた笑う。そうしてから、スカートのポケットをごそごそとまさぐり、何かを取り出して霊夢に投げ渡してきた。受け取ってみると、それはずいぶん黄色く変色して、かなりボロボロになった小さな冊子だった。

「なにこれ」
「詩人霧雨魔理沙さんの最高傑作さ」
「ああ、文が言ってた奴ね。読めってこと?」
「そういうこと」

 中身を読む前に、霊夢は何気なく表紙を眺めた。「我が弾幕」と素っ気な文体で書かれた題字の下に、「著者」という文字が記してある。だが、その横に書かれた文字は、かすれ切って既に読めなくなっていた。

「これじゃ誰が書いたか分かんないじゃない。本当にボロボロね」
「初版本だからな。それでも魔法で多少は保護されてるんだぜ? お前に渡そうと思って大事に取っておいたんだ」
「どうせなら新品寄越しなさいよ」
「風情のないこと言うなってば」

 苦笑する魔理沙を横目に、霊夢は表紙をめくる。本当に小さく薄っぺらい冊子で、せいぜい数ページしかない。
 最初のページに、一文書いてあった。我が親愛なる友、博麗霊夢に捧ぐ。

「捧げられてもねえ」
「いいから読めよ」

 霊夢はまたページをめくった。黄ばんだページに、短い詩歌が現れる。



 弾幕は愛の交感だ。
 弾幕を理解することは、すなわちその者の心を理解するということである。

 弾幕は愛の創造だ。
 弾幕を作るとき、我々は必ずどこかに隙間を開く。

 弾幕は愛の表現だ。
 弾幕の隙間は、あなたを受け入れますという意思の証に他ならない。

 苛烈で容赦のないものに思える弾の海も、必ずどこかに隙間はある。
 それを探し出そうとすることは、相手を理解しようと努力することと同意である。

 避け損ねても諦めず、努力して隙間を探せ。
 相手が弾幕を展開している限り、いつかは必ず分かり合うことができる。

 この世で何より見苦しいのは、隙間の存在しない弾幕である。
 それは相手を受け入れる余裕を持たない、臆病者のクソ野郎の烙印である。



 読み終えて、霊夢はつい笑ってしまった。

「仮にも愛について語る詩で『クソ野郎』はないでしょうよ」
「幻想郷らしいだろ」
「っていうか、こういうのって詩って呼べるの? いろんな意味で無茶苦茶なんだけど」
「わたしらしいだろ」
「はいはい。しっかし、こんなのが一家に一冊、ねえ」
「大人気なのさ」
「凄いわね、大金持ちじゃない」
「そうでもない。なんせ無料配布なもんでね。印刷代だけで大赤字で、ため込んだ小金が全部吹っ飛んだぜ」
「馬鹿じゃないの」
「愛に溢れてるだろ」
「全くだわ」

 魔理沙と一緒に笑ったあと、霊夢はふと疑問を覚えた。

「ねえ、魔理沙」
「なんだ?」
「あんたは、どうしてこんなことをしてるの? わたしの変な遺言を疑いもせずに信じたり、それを守るためにこういう努力を重ねてきたり……まるで、わたしの存在をいつまでも皆の心に刻みつけようとするみたいな」

 そこまで言って、不意に気がつく。

「まさか、捨虫の魔法を使ったのって、そのため?」
「ご名答。驚いたな、説明抜きでそこまで理解してもらえるとは思ってなかった」

 魔理沙が嬉しそうに笑う。

「その通り、わたしは、お前の存在をいつまでもこの世界に刻んでおきたかったのさ。そのために、人間の身を捨てて魔法使いになったんだ」
「なんのためにそんなことを?」
「決まってる。永遠に、お前の背中を追い続けるためさ」
「わたしの背中を?」

 魔理沙は深く頷いた。

「昔も今も、お前はわたしの目標なのさ。夢なんだよ、お前を追い越すのがな。人間としての短い一生を賭けて努力してもお前に追いつけないと知ったら、選択肢は一つ。もっと長い間努力して、必ず追いついてみせる。それだけだ。だから、みんなも自分もお前のことを忘れないように、努力してきた。幻想郷をお前がいた頃の形に留めて、新しく生まれてくる世代にも、お前の偉業を伝えて。実際、お前の遺言を守ること自体は二の次だったんだよ。たまたま、お前の望みとわたしの望みが一致しただけだ。また会えて嬉しいのは本当だけどな」
「あんたねえ」

 スケールが大きいのか小さいのか分からない話に、霊夢は呆れ返ってしまった。だが、こういう自分勝手な動機の方が、むしろ魔理沙らしいとも思える。

(馬鹿な奴。追いついてみせるって言ったって、わたし自身はもういないのに。どうやっていない人間の背中を追いかけるっていうのよ。こんな恥ずかしい詩まで作っちゃってさ)

 ボロボロの冊子の表紙に目を落としたとき、霊夢はふと思った。
 こんな、詩とも呼べない詩が好まれている世界というのは、実際どんな場所なのだろう、と。

「ねえ、魔理沙」
「なんだ」
「本当に、どこに行っても同じなの? みんな、毎日のん気に暮らしてるの?」

 冊子の表紙を眺めながら問いかけると、魔理沙は大きく頷いた。

「ああ、そうだよ。この星はどこまで行っても幻想郷さ。お前の大好きな、のん気で平和ボケした世界だよ」
「本当に? 一人で湿っぽい顔してる奴はいないの?」
「いないよ。そんな奴は見つけ次第宴会に引っ張り込まれて、いつの間にか馬鹿笑いしてるのさ。この星で今泣いてるのは、そこにいらっしゃる少女様ぐらいのもんだよ」

 その言葉に抗議するように、紫が小さく鼻を啜りあげる。

「そっか。そうなんだ」

 霊夢は束の間目を閉じて、おそらくもう二度と見ることはないであろう、この星のことを想像した。そんなことは考えたことがなかったので、とても漠然とした想像にしかならなかったが、どこへ行っても弾幕ごっこと宴会で馬鹿騒ぎしている、というのは、なかなか愉快な光景のように思える。
 霊夢としては悔しいことに、その光景の源となっているのが自分の発案したルールなのだ、と思うと、胸の奥からじわりと誇らしさが湧いてくるぐらいだ。

(ああ、ちくしょう)

 胸の中で毒づきながら、霊夢はとうとう認めた。

「ここは、いい場所だわ」
「ほんとう?」

 急に、魔理沙以外の誰かが声を上げた。驚いてそちらを見ると、紫が涙に濡れた顔を上げて、どこか不安そうに霊夢を見つめていた。

「本当に、そう思ってくれるの?」

 か細く震えたその声に、どう答えたものか、霊夢は少し迷う。すると、魔理沙が励ますように肩を叩いた。

「思った通りに言ってやれよ、霊夢。それで十分だから」

 そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。霊夢は紫の泣き顔を見ながら、笑顔で言ってやる。

「うん。わたしたちの幻想郷は、すごくいいところだと思う」

 これで泣き止んでくれないものだろうか、と少し期待して言ったのだが、残念ながらそうはならなかった。紫は目に涙をためて、膝の間に顔を埋めてしまう。
 またこのパターンか、と霊夢はため息をつく。

「なんなのよ、一体」
「だ、だって」

 驚いたことに、今度はちゃんと返事が返ってきた。嗚咽交じりで非常に聞き取りづらかったが、一生懸命、こちらに意志を伝えようとしてくれているようだ。霊夢も紫に顔を近づけて、できる限り聞き取ろうと意識を集中する。

「私、私ね」
「うん」
「れ、霊夢は、幻想郷が嫌いになったから、どこかに行っちゃったんだと思って、ずっと……」

 一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。考えて考えて、ようやく意味が理解できたところで、霊夢は目一杯首を傾げる。

「……は?」

 紫の体がびくりと震えた。膝を抱いたまま、また尻で滑って後ずさろうとする。

「いやいやいやいや! 待って、いいからちょっと待って!」

 激しく混乱しながら、霊夢は紫に問いかける。

「は、なに、どういうこと? なんだかよく分からないんだけど」
「だから、ほら」

 紫は苦しそうに、鼻を啜りあげる。

「私、霊夢のことずっとこき使ってたし……異変を解決するためだってたくさん危ない場所に行かせてたのに、あんまり労ってもあげられなくて……だ、だから、霊夢はうんざりして私の前から消えちゃって」

 自分の言葉でまたかなしくなってきたらしく、紫の目からまたぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 しかし、今の霊夢にはそれをどうこうしている余裕などなかった。

(……なにこれ)

 ひょっとして冗談なのだろうか、と思ったりもしたが、紫の表情はどこまでも真面目である。真面目に、痛々しい涙を零している。

(つまり、なに? 紫は、わたしに嫌われたんじゃないかと思って泣いてたと。そういうこと?)

 クラクラしてきて、霊夢は頭を抱える。これはもしかして笑う状況なのだろうか。

(なんで大妖怪の八雲紫様が、バカ天人と同レベルのこと考えてんのよ!?)

 そう思うと、何故か怒りがこみ上げてきた。霊夢はじろりと紫を睨みながら、声をかける。

「ねえ、紫」
「な、なに?」
「あんた、バカでしょ」

 そのストレートな物言いに、紫はぐっと言葉を詰まらせた。そうしてから、またぽろぽろと涙を零して、拗ねたように唇を尖らせる。

「そ、そうよ。どうせ私は馬鹿よ。1万2千年間考え続けても、霊夢の気持ちが分からなかったお馬鹿さんだもん。だから、あなたにも嫌われて」

 そこまで言って、また膝の間に顔を埋めてしくしくと泣き出してしまう。無力でか弱い小娘のようなその姿に、霊夢はどっと疲労を感じた。まさか、こんな理由で泣いているとは思いもしなかった。

(いやまあ、よく考えてみりゃ、確かにそれ以外はあり得ないのかもしれないけど)

 今となっては、むしろ幽々子や藍の話を聞いてもなおその結論に至れなかった自分に、驚きを感じるほどだ。
 それだけ、八雲紫と言うのが霊夢の中で絶対的な存在だったということだろうか。
 そして、まさに小さな女の子のように泣き続けている紫を見続けていて、もう一つ気づいたことがある。

(なるほどね。八雲紫少女様、か)

 橙は「面白がって」などと言っていたが、そうではなかったのだ。少女様、というふざけた呼び名は、むしろ自嘲だ。いつまでも子供のような感情を捨てきれない自分への強烈な皮肉なのだと、今更ながらに気づかされた。

(ホント、あんたってバカだわ、紫。そんなに頭がいいんだったら、忘れたいことを忘れる方法ぐらいいくらでも思いつくでしょうに。さっさと忘れればよかったのよ、わたしのことなんて。そうすれば、1万2千年間も悩み続けたり、今こうやって不細工な面晒して泣くことだってなかったのに)

 そう思うと、なんだかたまらなくなってきた。霊夢は膝の間に頭を埋めている紫の目の前にしゃがみ込む。

「ねえ、紫」

 また、紫の体が大きく震えた。返事はない。できないのかもしれない。
 だから、霊夢は構わず続ける。

「あんたさ、勘違いしてる。わたしは別に、あんたのこと嫌いじゃないよ。幻想郷のことだってそう。自分の故郷だもの、嫌いになるわけないじゃない。だから、わたしがあんたの前から消えたのは、それが理由じゃない。絶対に」
「で、でも」

 ようやく返事がきた。紫は少しだけ顔を上げ、しゃくり上げながら声を絞り出す。

「あ、あなたは、あのときの霊夢じゃない。これからたくさん、大変な異変があるのよ? そのたびに危ない場所へ行かされたり、死にそうな目に遭ったりするのよ? もしかしたら、そういう人生にうんざりしたのかも」
「だからさ、それが勘違いなんだって」

 なんで頭いいくせにそんなことも分からないのかなあ、とため息をつきながら、霊夢は言う。

「あのね紫。わたしはなに? 博麗の巫女でしょ? この幻想郷の博麗大結界を守護する、その要となる人間でしょ? 異変を解決するのは当たり前だし、妖怪と切った張ったやるのも当たり前のことなの。別にあんたがわたしをこき使わなくたって、結局は同じことしてたわよ」
「だよな」

 魔理沙が笑う。

「そもそも、紫と知り合う前から同じようなことしてたわけだしな」
「そう。だからさ、あんたがその辺に罪悪感を感じる必要なんて全然ないのよ。むしろ、本当なら受けられないサポートを受けられて感謝するべき立場でしょ、わたしは。なんだかんだ言って、あんたはちゃんとわたしのこと助けてくれるしさ。そのぐらいは分かってるつもりだから」
「おー、霊夢にしちゃずいぶん殊勝だな」
「うるさい、あんたは黙ってなさい」
「へいへい」

 茶化す魔理沙を黙らせて、霊夢は再び紫に向き直る。今はもうちゃんと顔を上げて、しかしちょっとだけ目を伏せている少女様の泣き顔は、さっきに比べるといくらかマシになっていた。マシになっていたから、もう目を背けずに話すことができる。

「だからさ、紫。わたしは」

 その次の言葉を口にすることを、霊夢は一瞬だけ躊躇った。

「わたしは、あんたのこと、結構好きよ」

 ああ、言ってしまった、と霊夢は思う。あの博麗霊夢様が、他人に向かって好きなどと。

(世も末だわね、これは)

 しかし紫はまだ納得しきれない様子だった。「でも、あなたは」と何か言おうとする彼女の声を、霊夢は強い声で遮る。

「わたしがそのときの博麗霊夢でなかったとしても、同じことよ。きっと、あんたや幻想郷が嫌いだったんじゃない。嫌いだから逃げようとしたんじゃない。他に、理由があったの」
「だけど」
「それになにより」

 霊夢は苦笑した。

「もう1万2千年前の話なんでしょ? 万一そのとき怒ってたとしても、わたしだったらとっくに許してるって。そんな昔のことをいつまでも引きずるなんて重ったくて湿っぽい真似、誰よりも一番、わたしが嫌いなんだから」
「そもそも霊夢の頭じゃ覚えてられないよな」
「だからあんたは黙ってなさいって」

 魔理沙に文句を言おうとした瞬間、突然、霊夢は何か温かいものに包みこまれた。

「霊夢」

 かなしげな声で上から呼びかけられて、ようやく紫に抱きしめられたのだと気付く。となると、目の前にあるのは紫の胸か。温かいと同時になんだかやけに湿っぽいのは、服に彼女の涙やら鼻水やらがしみ込んでいるせいだろう。

(どうも、決まらないなあ)

 心の中で苦笑する霊夢の頭に、紫は頬を摺り寄せてきた。まるで、己の体に少しでも多く、霊夢の温もりを残しておこうとするかのように。

「霊夢、霊夢……私の霊夢」

 その呼びかけがあんまりかなしそうだったものだから、

(あんたのじゃ、ないわよ)

 という台詞を、霊夢はついに言いそびれてしまった。



 そうして、どれだけ経っただろうか。
 紫はようやく泣き止んで、名残惜しそうに霊夢の体を離してくれた。

「これにて一件落着、だな」

 魔理沙が気楽に笑ってそう言う。「そうね」と、紫が照れたように頷いた。

「ごめんね、二人とも。迷惑かけちゃったみたい」
「いつものことじゃない」
「いつものことだよな」

 霊夢と魔理沙も、顔を見合せて笑い合う。そんな二人の姿を、紫は愛おしそうに微笑んで見つめている。
 背中にむず痒さを感じて、霊夢は身じろぎした。

「ちょ、あの、紫?」
「なに、霊夢?」

 その名前を口にするのが嬉しくてたまらないかのように、紫は微笑んで首を傾げる。それは霊夢のよく知る胡散臭い笑みとは全く別のもので、なんというか、非常に違和感があった。

「いや、あのさ。率直に言ってキモいんだけど」
「あら、それはごめんなさいね。私もう、どうしようもなく嬉しくて」

 うわぁ、皮肉が返ってこないよ。
 霊夢は自分の顔がどんどん熱くなってくるのを感じた。それを見た紫が、心配そうな顔をする。

「どうしたの、霊夢? 熱があるの?」
「いやいや、それはこっちのセリフだから! っていうか、なに、その変な優しさ!?」
「変かしら?」
「変だって! いつもの紫だったらさ、もっとこう、わたしをからかって遊ぶなり胡散臭く笑うなり」
「そうねえ、それはそれで楽しかったけど」

 全く毒のない顔で、紫は笑う。

「でも霊夢、わたしはずっとこうしたかったのよ? あなたは気づいていなかったみたいだけど」
「はあ、そうですか」

 やけに深みのある温かい笑みを向けられて、霊夢は部屋中を走り回りたくなるような、妙な体の疼きを感じた。

(変だ。この紫は、すごく変だ)

 それを言葉にすることもできない。今はどんな皮肉を言っても、やたらと優しい瞳で慈しむように見つめ返されるだけのような気がして、迂闊なことが言えないのだ。
 だが、実際こんなものなのかもしれない、とも思う。なにせ人間では理解できないぐらい頭がいいくせに、幻想郷を愛しちゃったり「幻想郷は全てを受け入れる」と自信満々に公言するような女だ。全ての仮面をはがしたら、その向こう側に見えてくるのは直視するのも恥ずかしくなるような無限の母性愛、なのかもしれない。

(なるほど。確かに、藍の言ってることは正しかったわね。っていうか、あいつが橙を猫かわいがりしてるのって、間違いなく遺伝だわ……いや血は繋がってないけど)

 ともかくも、落ち着かないのだった。泣き止んだあと豹変して、「霊夢ーっ!」とか言いながら抱きついてくる、とかだったら、突き飛ばすなり蹴り飛ばすなり、いろいろと対処法があった。だが、こうやって少しの距離を置いて温かく見守られるというのは、なんというか非常に慣れない。霊夢としては、ただもじもじと居心地悪く身じろぎするしかないのだ。
 そんな霊夢を見て、背を丸めた魔理沙がぷるぷると肩を震わせていた。

「笑うな!」
「いや悪い悪い。お前の反応が面白くってさ」

 ぴらぴらと手を振ったあとで、魔理沙は長く息を吐き出した。

「でもまあ、ホント良かったよ。これでまた明日から気楽に過ごせるぜ。な、紫」
「ええ、そうね。本当にありがとう、霊夢」
「お礼言われてもなあ」

 霊夢は頭を掻きながら、溜息をつく。

「あのさ、二人とも」
「あん?
「なに?」
「せっかく綺麗にまとまろうとしてるところに、こういうこと言うのもなんだけど」
「なんだよ、歯切れ悪いな。霊夢らしくないぜ」
「そうよ。なんでも、遠慮なく言いなさいな」

 気楽にそう言われても、まだ霊夢は少し迷っていた。だが、これは自分のためにも言っておかなくてはならないことだ、と気合いを入れ直し、思いきって語り出す。

「いろいろ話を聞いた上で言うんだけど、わたしはやっぱり、あんたたちにわたしのことを覚えていてほしくはなかった。できれば、すぐにでも忘れてほしかったわ」

 先ほど紫に言った言葉を、霊夢は頭の中で繰り返した。「あんたのこと、結構好きよ」と。だが、それはなにも、紫だけが特別好きだった、という意味ではない。宴会のとき、天子には「別に好きでもないけど」などと言ってしまったが、あれは嘘だった。本当は、紫ほど強い愛情ではないにせよ、霊夢は霊夢で自分なりに幻想郷や周囲の連中を好んではいたのだ。ただ、認めたくなかっただけで。
 認めてしまうと、お互い別れが辛くなるから。そういう重ったくて湿っぽいのが嫌だったのだ。

「1万2千年前のわたしが何を考えていたのか、分かった気がするの。多分、これ以上みんなとの思い出を増やしたくなかったんだって」

 言葉にしてみると、ますますそれ以外あり得ないように思えてくる。
 紫に抱きしめられている間、霊夢は考えてみた。もしもこのまま、この記憶を抱えたまま自分が元の時代に戻ったとしたら、一体どういう行動を取るだろうか、と。
 答えはすぐに出た。きっと、みんなに嫌われようとするだろう。嫌われることで、みんなから忘れられようとするだろう。そうすれば紫は泣かずに済むし、変に湿っぽいことにもならないだろうから、と。
 そうやって生きている間に、なんらかの嫌われる努力を積み重ねたに違いない。おそらく、死ぬときには確信を持っていたはずだ。自分はこれだけ嫌われることをしてきたのだから、きっと誰の心にも残らず逝ける。
 それでもほんの少しだけ不安だった。もしもここまでやってもなお自分を好いたり、覚えていたりする馬鹿がいたらどうしようか、と。だからあの遺言を残した。

「1万2千年後に若い頃のわたしが幻想郷を訪れるだろうから、それまで幻想郷を今の形に留めておいてくれ」

 もしもこの約束を覚えている大馬鹿野郎がいたら、そいつと一緒に昔のような一日を過ごしてやるのも、なかなか楽しそうではないか。
 とは言え、本人としては半分冗談のつもりだっただろう。まさか本当にそうする奴がいるとは、夢にも思わなかったはずだ。そうして死んだあとにすっかり未来を変えた気分で、「これでみんなも忘れてくれるだろう。湿っぽいことにならずに済んで、良かった良かった」と、魂ごと行方をくらました。
 誤算だったのは、幻想郷の知り合いほぼ全員が馬鹿で、残らず自分を好いていたということだ。

(いや、一番馬鹿なのはわたしか)

 霊夢は苦笑する。嫌われているつもりが好かれていました、とは、なんと笑えない冗談だろう。もともと他人の気持ちになんか無頓着な人間が、それをどうにかしようと空回った結果がこれだ。
 今、幻想郷を元の形に保つために努力してきたのであろう魔理沙や、1万2千年間苦しみながら自分を待ち続けていた紫を見ていると、生まれて初めて心の底から他人に謝りたい気分になってくる。

「ごめん、二人とも」

 霊夢が急に頭を下げたので、二人はかなり驚いた様子だった。

「なんで謝るんだ?」
「どうしたの、霊夢?」
「いや、さ。わたし、多分、こういうつもりじゃなかったと思うのよ。わたしなりに、あんたたちが楽しく暮らしてく方法を考えた結果、こういうことになってるんだと思う。だけどご覧の通りの大失敗。ホント、ごめんね」

 もう一度頭を下げる。だが二人は、顔を見合せて笑った。

「なんかな。真面目に頭を下げる霊夢なんて、初めて見た気がする」
「ホント。長生きっていうのも、なかなか悪くないわね」

 魔理沙が肩を竦めた。

「そんなこと気にするなよ、霊夢。さっきも言ったろ、わたしがこういうことしてるのは、どっちかって言うと自分のためって理由の方が大きいんだ。お前がああいう遺言残そうが残すまいが、きっと同じことしてたさ」
「私もよ、霊夢。ずっとあなたを見つめ続けてきたんですもの、あなたが何をしたって、きっとあなたを忘れなかった。何よりも、今とても幸せだから。あなたのことを想い続けて、本当に良かったって思ってる」
「でも」

 霊夢はなおも食い下がろうとしたが、言葉を続ける前に、魔理沙に遮られた。

「大体さあ、お前」
「なによ」
「今はそうやって謝ってるけど、どうせ元の時代に戻ったって、同じことやるつもりなんだろ?」
「う」

 図星だった。実際、今も頭の中で、「今度こそこういうことにならないように、ちゃんとみんなに嫌われよう。嫌われるにはどうしたらいいか」と必死に考えている最中なのである。
 霊夢が言葉に詰まるのを見て、魔理沙と紫が同時に溜息をついた。

「ホントにそのつもりかよ」
「こういうときは分かりやすいのにねえ」

 心底呆れた様子の二人を前に、霊夢は「ええい、うるさい!」と興奮して立ち上がった。

「ともかく、わたしは決めたわ。未来を変えてやる!」
「わたしたちにとっては過去だけどな」
「どうでもいいことをいちいち言わないの。とにかくね、元の時代に戻ったら、絶対にあんたたちに嫌われてみせる! 魔理沙がわたしの背中を見るのも嫌がって、紫がわたしの顔を思い出すのも嫌がるような、そういう悪い女になってみせるわ! そしたら魔理沙も空回りせずに平々凡々生涯を終えるし、紫も長い間苦しまずに済むし。どうよ、これで万事解決でしょうが!」
「オイオイ、そいつは聞き捨てならないなあ」
「本当、何馬鹿なことを言っているのかしら」

 魔理沙と紫が立ち上がる。二人とも、何やらやけに気合いの入った目をしていた。

「おい、霊夢よ。ずいぶんと好き勝手言ってくれたな。お前、わたしを誰だと思ってるんだ? 誰よりも自由で誰よりも傍若無人な、魔法使い霧雨魔理沙さんだぜ? お前が泣いて嫌がろうが、鬱陶しい気持ち悪いと罵倒しようが、絶対にお前の背中を追いかけ続けてやる。1万2千年間もずっと空回りし続けてきたこのわたしの情熱を、舐めてもらっちゃあ困るんだよ」
「私も同じよ、霊夢。たかだか十数年しか生きていないような小娘が、人間の汚い部分を嫌というほど見つめてきた、この八雲紫に嫌われるですって? いいこと霊夢、隙間の向こうは無限の世界なの。つまりこの私の愛情も無限ということよ。そんな私の愛を、あなたの如きお馬鹿な小娘がどうこうしようなどと、片腹痛いというものですわ」

 三人はしばらくの間無言で睨み合い、そして同時に吹き出した。倒れるように座り込んで、しばらくの間笑い合う。

「なに無茶苦茶なこと言い合ってんのかしら、わたしたち」
「いいじゃないか、それがわたしらのノリだろ」
「そうね、こういうのも、やっぱり悪くないわねえ」

 ああ、やっと戻ってきた、と霊夢は思う。やはり、重ったいのも湿っぽいのも勘弁だ。こういう変なノリこそ、自分たちには相応しい。

「ま、とりあえずさ」

 魔理沙が苦笑しながら頭を掻く。

「お前はお前の思うとおりやってみなよ」
「それで、私たちを変えられるとは思えないけどね」

 自信ありげな二人を前に、霊夢は少し困惑する。

「いいの? そりゃ確かに、わたしはあんまり頭良くないけど、いくらなんでもここまで詳しく未来を知ったら、多少は上手いやり方ができると思うんだけど」
「いいや、そりゃないな」

 魔理沙は首を横に振った。

「どうしてよ?」
「霊夢。多分お前、元の時代に戻ったら、今日体験したことはほとんど忘れてると思うぜ」
「え? どうして?」
「そうね。そうでなければ、説明がつかないことが多すぎるもの」

 紫も魔理沙に同意する。

「霊夢、あなたって凄く素直な人間なのよ。自分でも気づいてると思うけど、隠し事とかは壊滅的に下手くそね」
「だから、なに?」
「簡単なことだよ。お前、こういう風になるのを知って、今までと全く同じようにわたしたちと付き合っていけると思うのか?」

 魔理沙にそう言われて、霊夢は返す言葉がなかった。実際、今ここまで嫌がっているのだ。元の時代に戻ったあと、魔理沙が自分に勝とうと努力している姿を見てしまったり、あるいはいつも胡散臭い紫の笑みの向こうに、自分に対する深い愛情を垣間見てしまったとしたら、果たして平静でいられるのか。

「うん、無理」

 ほとんど葛藤せずに、霊夢はあっさりそう認めた。「話が早くて助かるぜ」と魔理沙が笑う。

「多分、1万2千年後の未来に行って来た、とか、そこでみんなが自分を覚えてたせいで湿っぽいことになった、とか、そういう漠然としたことしか覚えてなかったんだろうな。わたしが記憶してる限り、お前はこの旅の前後で、それほど大きな変化は見せなかったはずだ。派手に泣いたあとも、1日経ったらケロリとしてたしな」
「あら、だけど魔理沙。霊夢って、確かあの辺りから妙なこと始めてなかったかしら?」

 紫が顎に手をやってそう言う。霊夢は首を傾げた。

「妙なことって、なに?」
「あなた、この旅が終わったあと、たまになにもないときでも幻想郷中を飛び回るようになったのよ。で、泣いてる妖怪とか喧嘩してる妖怪を見つけたら、問答無用で近づいて行ってね。最後はそういう連中を無理矢理引っ張り込んで、『いいから飲め』とこう、酔っ払うまでお酒を飲ますのね」
「なにそれ」
「そういややってたなあ、そういうこと。単なる暇つぶしだと思ってたけど」

 魔理沙も懐かしそうに言う。

「今思うと、あれって嫌われるための活動だったのかもしれないな。なんでああいう行動をすれば嫌われると考えたのかはさっぱり分からんが」
「……で、実際どうなってたの?」
「逆にますます人気を高める結果になってたな」
「そうよね。お酒飲ますだけで、別に深く事情を問い詰めたりはしなかったし。泣いてる子は酔った勢いで辛い心情を吐き出すし、喧嘩してた子たちは逆に妙に冷静に話し合いを始めたりするし。で、あなたはすぐそばでお酒を飲みながら、何も言わずにそれを見守って。ああ、そういえば」

 紫がおかしそうに笑う。

「我が家の橙も、そういう感じであなたのとこに厄介になったことがあったわねえ」
「そうなの?」
「ええ。珍しく藍と喧嘩して、さまよってるところをあなたに見つかったみたいね。しこたま酒を飲まされたんだけど、その結果愚痴も文句も全部吐き出しちゃって、翌朝起きたときには自分の非をちゃんと認める土壌ができてたみたい」
「ああ、それで、この時代ではあんなに懐かれてるわけか」

 霊夢は軽く自分の頭を叩く。話を聞いていると、橙だけでなく、他の妖怪も同じような理由で自分を慕うようになったのではないか、と思えてくる。

(馬鹿すぎるわね、わたし)

 元の時代に戻ったら絶対にそういうことはやらないぞ、と固く誓う。そんな霊夢の横で、魔理沙が気楽に言った。

「ま、これで分かっただろ。お前がなにしても未来は変わらんから、今までどおり気楽に生きろ」
「ぐぅ」

 霊夢は唸った。確かに、話を聞いている限りでは返す言葉がない。

「でもさ」

 だが、返す言葉がなくても、やはり黙ってはいられなかった。

「あんたたちは、本当にそれでいいの?」
「なにが?」
「だってさ。わたしが変わらなかったら、この1万2千年間だって変わらないのよ?」

 それはつまり、魔理沙が絶対に叶わない夢を追い続けて空回るということであり、紫が知りようもない霊夢の気持ちを想って苦しみ続けるということである。
 だが、二人はそっと視線を交わして、やはり気楽に笑ってみせた。

「いいんだって、気にしなくても」
「そうよ。さっきも言ったでしょう? こうなったことを、後悔してないって」
「でも」
「それにね、霊夢」

 紫が優しく語りかける。

「この1万2千年間が変わらないということは、つまり今この瞬間も絶対に揺るぎないものだということよ。仮にあなたが私を深く傷つけるとしても、時を経ればこうして笑い合うことができる。それなら、それでいいじゃない」
「そうそう。大体、わたしらだって、お前にそんな重ったいもの背負ってもらいたくないしな。霊夢には何も考えてないのん気な馬鹿面が一番よく似合うよ」
「そうよ。それでこそ、私の愛しい博麗霊夢だわ」

 にっこり笑う魔理沙と紫から、霊夢はそっと目をそらす。確かに、こいつらを変えるのは不可能かもしれない。

「それになあ、霊夢。心配することなんて何もないんだよ」
「どういう意味?」
「今日はちょいと湿っぽいところを見せちまったけど、わたしたちだって、他の連中と変わらず、毎日楽しく暮らしてるんだ」
「本当?」
「本当だよ。むしろ今日でいろいろ心のつかえが取れたから、明日からもっと楽しく生きていける気がするぐらいだよ」
「だけど」

 わたしはもう、絶対にあんたたちとは会えないのに。
 その言葉を、霊夢はどうしても言うことが出来なかった。胸が苦しくなって、ぎゅっと手で握り締める。

「会えるさ」

 霊夢は驚いて顔を上げた。魔理沙が、自信に満ちた笑みを浮かべている。

「いつだって会えるよ、霊夢。お前とはずっと一緒に、どこまでも歩いていくさ」
「なんでよ?」
「弾幕の隙間が、お前の場所だからだ」

 霊夢の頭の中で、手をつないだ吸血鬼姉妹が嬉しそうに笑った。

「そう、弾幕の隙間はお前の場所なんだよ。わたしたちは弾幕にわざと隙間を開けるとき、いつもそこにのん気な巫女様の姿を見るのさ。弾幕ごっこの相手と自分とを出会わせ、分かり合わせてくれたお前に感謝する。そうやって、出会いに笑い別れに泣きながら、いつまでもどこまでも歩いていくんだ。歩いていけるんだ」

 月光の下で、不死人の銀髪が翻る。

「そしてわたし自身、世界のどこかで誰かが弾幕を展開する限り、いつもお前に会える。大切な親友の思い出を広め続ける限り、宇宙の果てまでだって、お前の背中を追い続けることができる。だから、わたしの夢は永遠に終わらないんだ」

 森の闇の中で、人形遣いの涙が静かに光った。

「なによ」

 霊夢は悔しくなって、魔理沙を睨みつける。

「勝手にそんなこと決めちゃってさ。わたしは一度だって、そんなこと頼んだ覚えはないわよ」
「おう。わたしも頼まれた覚えはないね。お前だって勝手やってたんだ、わたしが勝手やったっていいだろ」
「そりゃ、そうだけど」
「どうでもいいから、その湿っぽい面止めろよ、霊夢」

 言われて初めて、霊夢は自分がそんな顔をしていたことに気がついた。

「お前が分かってくれない限り何度だって繰り返してやるがな、わたしたちは楽しく生きてるんだ。これからだって、この幻想郷とともにずっと楽しく暮らしていくんだ。だから何も心配しなくていいんだよ」
「そうよ、霊夢。幻想郷はいつまでも変わらず、素敵な楽園として存在し続けるわ。わたしたちがいる限りね」
「あんたたちが?」
「そうよ」

 紫が頷き、魔理沙がどこか遠くを見ながら語る。

「いいか、霊夢。幻想郷ってのは、いつまでも楽しくやろうっていうみんなの遊び心と、どこまでも揺るぎない博麗霊夢ののん気さと、宇宙よりも広くて深い八雲紫の愛情、そして永遠に空回りし続ける霧雨魔理沙の情熱で出来てるんだ。この四つが失われない限り、この素敵な楽園も失われることはないんだ。絶対にな」

 だから笑え、と魔理沙は言う。
 だから笑おう、と霊夢は思う。

「よし、いい顔だ」
「とても素敵だわ、霊夢」

 二人は温かく微笑み、同時に外の方を見た。

「さて、そろそろお別れだな、霊夢」
「え? あ、ああ、そうね」

 気づくと、障子の向こうの空が白み始めていた。もうすぐ夜明けだ。別れの時間も近いと、霊夢の勘が告げている。

「じゃ、行くか」
「そうね、行きましょうか」

 不意に、二人が立ち上がった。霊夢も慌ててそれに倣いながら、聞く。

「ちょっと、行くって、どこに……」
「おいおい、薄情な奴だな」
「みんなにもお別れを言ってあげなさいな。わたしたちだけが霊夢を独り占めするのも申し訳ないし」

 そう言われて、霊夢は困惑した。外からは何の音も聞こえてこない。だから、みんな酔いつぶれて寝ているか、もしくは帰ってしまったとしか思えないのだ。

「忘れたのかよ、霊夢」
「え?」
「ここには結界が張ってあるんだぜ? 音を遮断するやつが」
「あ、そういえば……」

 今の今まで、そのことをすっかり忘れていた。
 絶句する霊夢に、魔理沙は真っ直ぐ手を差し出す。

「さ、行こうぜ。みんなが待ってる」



 外に出てみても、やはり周囲はしんと静まり返っていた。朝露光る木立の中で、小鳥が小さく鳴き交わしている。藍と橙の姿は見えない。ひょっとしたら、境内の方にいるのかもしれない。
 ほんの少し寒気を感じて、霊夢は身を震わせた。

「ねえ、何も聞こえないけど」
「そりゃな。騒ぐ心情じゃないんだろ」

 魔理沙はあっさりそう言って、一人境内の方に向かって歩き出そうとする。霊夢は慌ててそれを引きとめた。

「ちょ、ちょっと待って」
「なんだ?」
「あの……こ、こんなに静かだしさ、やっぱり、みんな寝てるか帰ってるか、だと思うんだけど」
「そりゃないよ。こんなときに寝たり帰ったりする奴は、幻想郷の住人じゃないね」

 魔理沙が自信を持って断言し、霊夢の隣でも紫が静かに頷いている。

「行きましょう、霊夢。みんなにもちゃんとお別れを言ってあげてちょうだい」
「……ええと、心の中でお別れ、とかじゃダメ?」
「霊夢」

 紫がかなしそうに目を細めた。

「ごめんなさいね、あなたがこういう湿っぽいのを嫌がるのは分かっているけれど、ちゃんとお別れしないと、きっとお互い後悔することになるわ」
「そうそう。お前がそういうことしちまったら、かえって幻想郷は暗くなるぜ? 藍も言ってたろ、ときには泣くのも必要だってな」

 その言葉を聞いて、霊夢はびくりと身を震わせる。

「……やっぱり、泣くかしら?」
「まあ何人かはな。でも安心しろよ、お前と同じで湿っぽいのが嫌いな奴らが多いんだ。案外、笑って送り出してくれる奴の方が多いかもしれないぜ?」
「そうかしら。うん、きっと、そうよね」

 自分に言い聞かせるように呟く。霊夢自身、別れの言葉もなしというのは味気ないなあ、と思ってはいるのだ。ただ、その場が湿っぽくなるのがこの上なく嫌なだけで。

(大丈夫よ、あんな能天気な連中よ? チルノなんかわたしと別れること自体分かってなかったみたいだし、みんな馬鹿みたいに笑ってお別れしてくれるって。なんなら下らないダジャレでも言ってしんみりした空気壊してやってもいいし)

 迷いなく歩いていく魔理沙について行きながら、霊夢は自分に言い聞かせ続ける。大丈夫、重ったいことにはならない、湿っぽいことにはならない、かなしいことになんて、なりはしない。だが鼓動はどんどん早まり、不安は胸を押し潰さんばかりに膨らみ続ける。

(大丈夫、大丈夫だってば)

 胸を押さえながらふと前方を見ると、社の裏から境内に抜ける小道の途中に、一人の女性が佇んでいた。柔らかい朝日の中で、長い黒髪が艶やかに光っている。318代目博麗霊夢だった。

「おはようございます、皆様」

 彼女が浮かべた微笑みは、昨日見たような柔らかいものではなかった。もっとぎこちなく、切ない微笑みだった。明るく朗らかに笑おうとしているのにどうしてもそうできないような、苦しげな笑み。

「無理すんなよ、ミーヤ」

 魔理沙が318代目の肩を叩く。と同時に、彼女の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「ちょっと」
「す、すみません」

 霊夢が慌てて近寄ると、318代目は必死に目元を拭い始めた。だが涙は止め処なく流れ続ける。

「どうしたの、一体」
「本当に申し訳ありません、初代様。あなた様とまだ1日と過ごしていない私に、涙を流す資格などないと分かってはいるのですが」
「じゃあどうして」
「分かりません。初代様の偉業を、生まれた頃からずっと聞かされ続けてきたためでしょうか。まるで生まれたときからずっと一緒だったお方と離れ離れになるかのように、ひどく胸が痛むのです」

 霊夢は頭を横から殴られたかのような、強い衝撃を受けた。

(弾幕の隙間が、お前の場所だ)

 ついさっき魔理沙から聞いた言葉が、頭の中に蘇る。思わず彼女を見ると、泣き続ける318代目の横で、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。

「初代様」

 涙声になりながらも、318代目は背筋を伸ばして真っ直ぐに霊夢を見つめた。

「本当に、あなた様にお会いできてよかったです。あなた様は私の想像通りの、いえ、想像以上に素敵な巫女様でした。この平和な楽園を体現なさっているかのような、優しく温かいお方……私は、初代様にお会い出来たことを一生忘れません。子にも孫にも友にも、私が生きている限り、あなた様のことを語り継いでいこうと思っております」

 深く頭を下げる318代目に、霊夢は文句を言おうとした。

(止めて。わたしはそんな大層な人間じゃない。勝手にそんな重ったい愛着を持たないで。わたしのことなんか、すぐに忘れて。今日のことを思い出になんかしないで)

 だが、どうしてもそれを声に出すことが出来なかった。
 霊夢が何も言えずにいる内に、318代目は頭を上げ、静かに脇に退いた。優雅に腕を広げ、境内の方を指示してみせる。

「さあ、初代様。皆さんが、待っておりますわ」

 最高に嫌な予感を覚えつつも、霊夢はこの流れを止める術を知らなかった。



 静かに注ぐ朝日の中、博麗神社の境内はしんと静まり返っていた。人がいないのではない。むしろ全く隙間がないほど、人妖で埋め尽くされている。地面だけでなく、空もだ。地にいる者も空に浮いている者も、皆一様に黙りこくって、何かに耐えているかのような無表情で霊夢を見つめている。
 昨日の天子との乱闘のあとで急遽修理されたらしい、社の階段に立ちながら、霊夢は呆然としていた。やはり自分の勘は信用できる。嫌な予感は的中だ。この場に満ちたこの空気を見ろ、ちょっと均衡が崩れたら、一気になにかが溢れ出しそうな湿っぽさに満ちているではないか。

「さてと、霊夢」

 左隣に立っていた魔理沙が、何気ない足取りで階段を下り、群衆の先頭に立ってくるりと振り返った。

「残念ながら、わたしはこっち側だ。そこの婆さんもな」

 指差す先、右隣りには紫がいる。また泣きそうな表情に戻って、じっと霊夢を見つめている。

「霊夢」

 一声呼びかけて、紫はただ一度だけ霊夢をぎゅっと抱きしめた。それから、魔理沙よりもかなり重ったい足取りで、彼女の隣まで歩いていく。
 誰も、何も言わない。霊夢もまた、言うべき言葉を持たない。

(このまま、タイムリミットが来てくれれば)

 霊夢は強くそう願った。そうすれば、楽しくはないもののかなしくもないまま、みんなとお別れすることができる。

「いやだ――――ッ!」

 突然、境内の隅から声が上がった。聞き覚えのある、子供っぽい声。そちらに目を向けると、チルノがいた。大妖精や森の三妖精など、たくさんの妖精たちに押さえつけられながら、激しく身をよじっている。

「なんで、なんでまたいなくなっちゃうの!? ずっと一緒にいようよ、あたいたちと一緒に楽しく暮らそうよ、霊夢!」

 痛切な叫びに、霊夢は何も答えられなかった。何をどう答えればチルノを納得させられるのか、今の彼女を笑わせることができるのか、一つも言葉が浮かばない。

「駄目だよ、チルノちゃん!」

 大妖精が、必死にチルノに呼びかける。

「霊夢さんには、他に帰る場所があるんだよ。我がまま言って、霊夢さんを困らせちゃ駄目だよ!」
「分かんない、全然分かんない! 霊夢の帰る場所はここでしょ!? あたいたちの幻想郷でしょ!? なのに、みんなを残してどこに行くのさ! 行かないでよ、霊夢……」

 妖精たちの腕に捕まれたまま、チルノの体がずるずると滑り落ちる。彼女は大妖精に支えられながら、とうとう激しい声で泣き始めてしまった。

(……馬鹿妖精!)

 霊夢は胸中でチルノを罵った。

(何が『いつも元気』よ。全然元気ないじゃない。なんでこんなときだけ状況を理解するの。この中で一番能天気なあんたがそんなんじゃ、みんな……)

 悪い予感はまたも的中する。響き続けるチルノの泣き声に誘発されたように、まず紫が啜り泣き始めた。それに呼応するように、泣き声が少しずつ周囲に広がっていく。そして最終的には、境内にいる全員が泣き始めた。声を上げて泣きじゃくる者も、声を押し殺して静かに泣く者も、そういった者たちに肩や胸を貸す者も、誰もが一様に、涙を流している。本当に、どこの葬式だと思ってしまうような光景だ。
 そんな中で、泣いていない者が一人だけいる。魔理沙だった。周囲が泣き声に満ちる中、平然と薄笑いを浮かべている彼女を、霊夢はきつく睨みつける。

(騙したわね!?)
(騙したさ)

 魔理沙はあっさりと霊夢の視線を受け止めた。巫女は歯ぎしりしながら、他に泣いていない奴はいないものかと、境内の隅々にまで目を走らせる。しかし、そんな奴は一人もいなかった。誰もが、見たこともないほどみっともない顔で泣いている。
 ああ、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ、と思いながら、霊夢は声を張り上げる。

「レミリア、フラン! わざわざ日傘差してまで泣きに来るなんて、どういう神経してんのよ!? アリス! 人形遣いだったらもっと冷静に振舞ってみせなさい! 妹紅! わたしの前では泣かないんじゃなかったの!?幽々子、あんたの大好きな紫が泣いてるんだから、泣き面晒してないでわたしを罵って見せなさいよ!藍、橙! そんなに泣いてちゃ、あんたらのご主人さまを慰められないでしょうが! 文! 記者が泣いてちゃ記事が書けないでしょ! 萃香! 毎日が日曜日なんでしょ、日曜日に泣く馬鹿がどこにいるの!?」
「こんな状況で泣かないなんて、無理だよ!」

 目に涙を溜めて歯を食いしばっている勇儀に肩を抱かれながら、萃香が真っ赤な顔で叫ぶ。

「かなしいんだよ、かなしくってしょうがないんだよ。別れが避けられないのならせめて思い切り泣かせておくれよ、霊夢!」
「いやだ!」

 霊夢は絶叫した。

「なに馬鹿言ってんの! あんたらいくつよ、1万2千年以上も生きてきた大妖怪揃いなんでしょうが!? だったらそれらしく、冷徹に振舞いなさいよ! ああまたちっぽけな人間がどっか行きやがったって、せせら笑ってみせなさいよ! こんな大昔の人間と別れるぐらいで、いちいち泣くな!」
「そんなの関係ないよ!」

 萃香もまた、濁音が混じった声で絶叫する。

「友達と別れるのがかなしくない奴なんているもんか! 何年生きてようが、人間だろうが妖怪だろうが宇宙人だろうが、そんなのなんの関係もない! 大事な友達と別れるのは、いつだって死ぬほど辛いんだ。涙が千切れそうなぐらいにかなしいんだ! あんただってそうじゃないのかよ、霊夢!」

 霊夢は言葉に詰まり、強く強く奥歯を噛みしめる。
 萃香の言葉にさらにかなしみを煽られたらしく、さっきまで泣き声を堪えていた奴まで、激しく泣きじゃくり始めた。もう泣き声以外何も聞こえない。
 さっき「どこの葬式だ」と思ってしまったが、霊夢は心の中で訂正した。この茶番は、どんな葬式よりも酷い。
 それでも霊夢はまだ諦めなかった。なんとかして絶対にこの場を収めてやると心に誓いながら、全身の力を振り絞って絶叫を上げる。

「お前ら、泣くな―――――――ッ!」

 無論、そんな叫びには何の意味もなかった。それどころか、ますます泣き声が激しく、酷くなるばかり。
 ああちくしょう、と霊夢は心の中で地団駄を踏む。
 なにがみんなに好かれている、だ。誰もわたしの言うことなんて聞いてもくれないじゃないか。

「わたし、わたしはねぇっ!」

 誰も聞いてくれないと知りながら、それでも霊夢は叫ぶことを止めない。

「誰にも、泣いてくれなんて頼んでない! 覚えててくれとも言ってない! わたしは、あんたらにそんな湿っぽい顔をしてほしくて、いろいろやってきたわけじゃないのよっ!」
「じゃあなんのためにやってきたんだ?」

 泣き声の大合唱の中、魔理沙の静かな問いかけが、やけにはっきりと聞こえた。霊夢は最悪の親友をきっと睨
みつけ、怒りをぶちまけるように言葉を吐き出す。

「暇つぶし、退屈しのぎ、ストレス解消! どれでも好きなのを選びなさいよ! よくも散々重ったいことを吐き散らかしてくれたわね、魔理沙! でもね、あんたが言ってることは全部的外れよ! わたしはね、分かり合うだの愛だのなんだの、そんな風に考えたことは一度もないっ。弾幕ごっこ? あんなのただの下らない遊びよ、なんの価値もないわ! 何もかも自分のためにやってきたことよ、わたし自身が楽しけりゃ、他の連中がどうなろうが知ったこっちゃなかったのよ! そういう自己中心的で傲慢で性悪で、最低最悪の酷い女なのよ、わたしは!」
「だから泣かないでくれってか? お前こそずいぶん的外れなこと言ってるぜ、霊夢」

 魔理沙は霊夢をせせら笑った。

「言ったろ。お前が勝手にやってきたように、わたしらも勝手にやらせてもらってるのさ。勝手にお前の行動をいいように解釈して、勝手にお前を愛して、勝手にかなしんで勝手に泣き喚くんだ。お前がどう思ってるかなんて知ったこっちゃないね。好き勝手やってきた報いだ、ざまあみろってんだバカ巫女様め」

 魔理沙は小憎たらしい表情で舌を出した。周囲の連中と違って全くかなしんでいないかのようなその仕草に、しかし霊夢は深い安堵を覚える。

(ああ、そうよね魔理沙。あんたはそういう奴よね。わたしのこと分かってくれる。わたしを想って泣いたりしない。いつだって、そういう風に憎まれ口を叩いてくれる。そうよね、魔理沙)

 しかし、霊夢は不安になった。本当に、魔理沙は言葉通りのことを考えているのだろうか? 心の中まで、顔を同じ表情を浮かべているのか? 無理をしているというのなら、そんなものは全く嬉しくない。

(ああどうか、全身全霊、いつもの憎たらしいあんたでいてちょうだいね、魔理沙)

 心の中でそう願いながら、霊夢は魔理沙に向かって叫ぶ。

「魔理沙!」

 声の調子が変ったことに気がついたのだろうか、魔理沙は少しだけ、目を見開いたように見えた。

「なんだよ。どうせ時間は残り少ないんだ、文句なら気が済むまで聞いてやるぜ?」

 魔理沙はそう言って、馬鹿にしたように笑う。その笑顔がいつまでも保たれることを願いながら、霊夢は声を振り絞った。

「わたしはもう少しで元の時代に帰る。そしたらもう二度とここには来られない。もう二度とあんたと一緒に遊べないし、あんたと一緒にお酒を飲めないし、あんたと一緒に笑えないし、あんたと顔を合わせることだって出来なくなる。あんたに超えられてやることも、未来永劫絶対に叶わない!」

 言葉の途中で、魔理沙の顔から表情が消えたことに気がついた。だが、霊夢は言葉を止めない。どうしても、止められない。

「それでも、あんたはわたしを忘れないのね!? 絶対に届かないと知りながら、わたしの背中を追い続けるのね!? あんたの杯に涙が落ちても、わたしはもう二度とそこに酒を注いでやることができないのに!」

 叫び疲れて、ようやく言葉が止まった。肩で息をする霊夢の前で、境内はしんと静まり返っていた。誰もが嗚咽を堪えて、じっと魔理沙の声を待っている。
 魔理沙は霊夢から表情を隠すように俯いていたが、やがて顔を上げて、無表情のまま言った。

「ああ、そうさ」

 声が震えている。

「わたしは絶対にお前のことを忘れない。いつまでもお前のことを追い続ける。幻想郷が幻想国になって、幻想国が幻想大陸になって、幻想大陸が幻想星になって、幻想星が幻想星系になって、幻想銀河になって、幻想宇宙になっても! どこまでも弾幕の輪を広げて、どこにいたってお前の背中を見つけてやる! たとえ宇宙の果てまでだって、ずっとずっと、お前の背中を追いかけてみせる! だけど、だけど……ッ!」

 ついに、魔理沙の顔がグシャグシャに崩れた。目と同じ幅の涙と鼻穴と同じ幅の鼻水が、堤防の決壊した川のように、濁流となって魔法使いの顔を汚す。見ていられないぐらい、酷く不細工な顔になった。

「だけど、さよなら! ずっとお前と一緒に歩いて行くけど、もう二度と会えないから! だからさよなら、霊夢!」

 その後はもう言葉にすらならなかった。言葉にならない言葉をみっともなく吐き出しながら、魔理沙は誰よりも激しく、無様に泣き続ける。
 霊夢は頬の筋肉に力を込めた。さあ、今こそ笑う時だ。腕を上げて指を指せ。この世の何よりも不細工なあの面を指差して、腹を抱えて大笑いしてやれ。そしてみんなにも、同じように笑ってもらうのだ。
 しかし、どうしても腕が上がらない。笑おうにも口が開けない。そうした途端に違う何かが溢れ出してしまいそうで、指先を動かすことすらできない。
 悔しさに歯軋りする霊夢の前で、紫がそっと、魔理沙の肩に手を置いた。涙に濡れた赤い顔に、どこまでも優しい微笑みを浮かべて、真っ直ぐにこちらを見上げてくる。

「私も忘れないわ、霊夢。あなたがもたらしてくれたものを抱きしめて、この楽しくのん気で素敵な楽園を、未来永劫守り続けてみせる。この宇宙が終わって、わたしの存在が欠片も残さず消えてなくなるそのときまで、ずっとずっと、幻想郷を笑顔で満たし続けていくわ」

 ぽろぽろと涙を零しながらも、紫は笑みを崩さなかった。泣き笑いを浮かべたまま、愛おしげに呼びかけてくる。

「だからさよなら、霊夢。あなたは何も背負わずに、私の愛しい博麗霊夢のままで、あなたの時代にお帰りなさい。あなたこそ、私たちのことは全て忘れてね。私たちのことを想って泣いたりせず、楽しくのん気に生きていきなさい。さよなら、霊夢」

 紫の言葉を皮切りに、誰もが別れの言葉を叫びだした。滂沱の涙を流しながら、何度も何度も、「さよなら、霊夢」と声を張り上げる。
 そのとき、魔理沙が唇を引き結んだ。紫に肩を抱かれ、涙と鼻水を垂れ流したまま、無理矢理唇をひん曲げる。
 1万2千年間笑い続けてきた女と、1万2千年間泣き続けてきた女の泣き笑いが、並んで霊夢を見つめている。
 自分の存在がこの時代から消えていくのを感じながら、霊夢は大きく口を開いて何かを叫んだ。
 だが、結局自分が何を言ったのかもわからないままで。
 霊夢の旅は、終わった。



 時には昔の話を その5
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