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【ゼロ魔SS】風神

昔某所に投稿したゼロの使い魔のSSです。
原作1桁巻の頃に書いたため、設定が古いです。
 


『風神』



 風上。それは常に向かい風を避ける臆病者の名前である。



 木剣の切っ先が風を切ってこちらに向かってくる。マリコルヌは悲鳴を上げて尻餅を突き、そのままあたふたと後ろに下がった。
 そんな彼の姿を見下ろして、正面の友人が呆れた声で文句を言う。

「おいマリコルヌ、そんなんじゃ訓練にならないって何度も言ってるじゃないか」
「それはそうだけどさ。そもそもなんでメイジである僕らが殴り合いの訓練なんかしなくちゃならないんだ」
「それ今日だけで何度目だよ。文句ならサイトに言ってくれ」

 言いつつ、友人は広場の向こうを指差す。
 いま、ヴェストリの広場では新設された水精霊騎士隊の訓練が行われている。
 副隊長である平賀才人の提案による、木剣を用いた肉弾戦闘の訓練である。
 水精霊騎士隊は才人以外の全員がメイジで構成されているため、この訓練は無意味だという反対意見も多少上がったが、才人は強引にそれをねじ伏せた。

「お前らな、そんなこと言っといて、戦場で魔法使えなくなっちまったらどうするんだよ。敵はこっちが魔法力回復させるまで待っちゃくれねーんだぜ。魔法使えなかったから敵を逃がしました、じゃ話にならねーしな。という訳で、この訓練には十分に意味がある」

 というのが、この訓練を提案した才人の主張だった。
 そういう経緯で水精霊騎士隊の隊員たちがそれぞれ二人で向かい合って木剣を振り回している訳だが、効果の方は怪しいものだ。
 そもそも貴族というのは剣を手にすることなど考えもしない生き物である。
 そんな人種がほとんど生まれて初めて剣を手にするのだ。まともに扱えるはずもない。
 提案者である才人がへっぴり腰で剣を振る隊員たちの間を怒鳴りながら歩き回っているが、怒鳴られたところで急に剣の達人になれる訳もない。
 当然ながら、隊員たちの間に疲労と不満の色が広がり始めていた。

「そりゃ俺だってこんな訓練に意味があるのかどうかは疑問だけどな。お前はひどすぎるぜ、マリコルヌ」

 座り込んだままのマリコルヌに、友人が木剣の切っ先を突きつける。

「俺が剣振り下ろすたびにそんな風に尻餅突きやがって。ちょっとは向かってこなきゃ訓練にならないだろ」
「でもさ、殴り合いなんて。そもそも体型的に運動には向いてないんだよ、僕は」

 立ち上がりながら自己弁護する。友人の目が蔑むように細められた。

「みっともない奴。そんなだから『風上』なんてあだ名をつけられるんだよ」
「なんだと。訂正しろよ、風上っていうのは僕の要領のよさを褒めたあだ名だぞ」

 唾を飛ばして反論するマリコルヌに、友人は馬鹿にしたような表情で肩をすくめてみせる。

「何が要領のよさだよ。いつも安全なところに逃げてるだけじゃないか。そういうの、卑怯者っていうんだぜ」
「違う、僕は」

 マリコルヌの言葉は、遠くから聞こえてきた「ちょっと休憩にするぞ」という才人の叫び声にかき消された。

「休憩だってよ。ちょうどいいや、豚小屋に引っ込んだらどうだ、お前。豚に剣振らせようとする奴なんかいないだろうしな」

 露骨な侮蔑でマリコルヌをせせら笑いながら、友人が他の隊員たちに向かって歩いていく。
 マリコルヌは怒りと屈辱に体を震わせながら、しかし反論一つできずに俯いてその場に立ち尽くすしかない。

「何やってんの、お前」

 不意にかけられた声に顔を上げると、そこに不思議そうな顔をした才人が立っていた。

「ちょっと休めよ。別にこれで終わりって訳じゃないんだしよ」

 マリコルヌは気まずい思いで彼から顔をそらす。

「そんなに疲れてないから大丈夫だよ」
「逃げてばっかだったもんなあ、お前さん」

 才人の背中で声がする。インテリジェンスソードのデルフリンガーだ。
 水精霊騎士隊が創設されて以来すっかり隊のアドバイザーと化している、知能を持った喋る剣である。
 デルフリンガーの言葉を聞いて、才人は片眉を上げる。

「本当かマリコルヌ。駄目だぜそんなんじゃ。魔法使えない状況になったら生き残れないぞ」
「そうならないように上手く立ち回るさ」

 マリコルヌがぼそぼそと反論すると、才人は意外なほどに真剣な声で問いかけてきた。

「立ち向かわなきゃ、ダチや好きな女の子が死んじまうような状況でもか」
「君は強いからそんなことが言えるんだ」

 湧き上がる羞恥心を隠すように、マリコルヌは必死で怒鳴った。

「僕みたいに魔法もそんなにうまくないし太ってて運動も苦手な奴の気持ちなんか、君に分かるもんか」
「あのなマリコルヌ」

 と、呆れた声で反論しかけた才人が、ふとマリコルヌの後方を見て「げっ」と顔を引きつらせた。
 何かと思って振り向くと、校舎の方から黄色い歓声を上げて女生徒の一群が走ってくるところだった。
 手に手に様々な贈り物を持った女生徒の一群はもちろん一直線に才人を目指しており、マリコルヌはちょうど彼女らと才人の中間に立っていた。

「サイトさま、サイトさま」
「私クッキーを焼いたんですの」
「私はサイトさまのためにマントをご用意いたしました」
「サイトさまを讃えるための詩を」
「どうぞ受け取ってくださいませ」
「ちょっと、どきなさいよ豚」
「邪魔よデブ」

 一団となって走ってきた女生徒は、その勢いのままマリコルヌを突き飛ばして才人を取り囲む。
 しばらく無様に転がってようやく止まったマリコルヌは、無言で立ち上がって才人を見る。
 女生徒に囲まれた才人は、「参ったなあ」と困った顔をしながら彼女らの相手をしている。
 ふと周囲を見回すと、ギーシュやレイナールなど、他の隊員たちもそれぞれ違う女生徒と話をしているようであった。
 彼らの輪から外れて、マリコルヌはただ一人草まみれの薄汚れた格好でぽつんと立ち尽くしている。
 何故だかどうしようもなく胸が痛み、マリコルヌは重いため息を吐いた。
 そんなことをしている内に、どこからか走ってきたルイズが才人にドロップキックを決め、モンモランシーがギーシュを水で押し包んで窒息死させようとしている。
 才人らを取り囲んでいた女生徒たちは悲鳴を上げて散りつつあり、ようやく訓練が再開されようかという空気に変わりつつあった。
 マリコルヌは無言で踵を返し、逃げるようにヴェストリの広場から立ち去った。



 学院の周辺に広がる豊かな森の中を、マリコルヌは目的地も定めずにとぼとぼと歩いていた。
 自分を取り囲む現実を思い返すたびに、やるせないため息を抑えることができない。
 マリコルヌは立ち止まって空を見上げた。木々の枝の隙間に、よく晴れた空が広がっている。
 数ヶ月ほども前、マリコルヌは戦艦に乗ってあの空で戦っていた。
 臆病な自分を変えるために、そう思って自ら志願して参加した戦争。
 しかし、現実には思っていた以上に臆病で無能だった自分を思い知らされただけだった。
 戦争自体も散々な結果に終わり、帰ってきてみれば残っていたのは泥と硝煙に薄汚れた自分の体だけ。
 現実なんて所詮こんなもんさと自分を誤魔化すことは出来なかった。
 友人たちの中には、戦争で輝かしい戦果を上げて勲章までもらった者たちが数名いたのだから。
 友人に持て囃され、女の子たちに囲まれていた彼らの姿が頭に浮かぶ。
 だが、それは当然の結果なのだ。形は違えど、彼らはそれなりに勇敢に戦ったのだから。
 そんな彼らと自分を比べると、どうしようもなくみじめな気持ちになった。

(僕は、彼らとは違う)

 マリコルヌは拳を握り締めた。

(戦闘になったら腰が抜けて立てないような臆病者の豚野郎。それが僕だ)

 自己嫌悪に胸がつまり、勝手に涙が溢れてくる。
 マリコルヌは乱暴に目許を拭って早足に歩き出した。向かう先は深い茂みの向こう、森の奥である。
 目的などない。ただひたすら無心に体を動かして、嫌なことを全て忘れてしまいたかった。
 と、茂みに向かって一歩踏み出した足が、地面の草を踏み抜いた。

「へ」

 間抜けな声が漏れると同時に、彼の体は落下する。
 マリコルヌは悲鳴を上げる余裕すらなく斜面に叩きつけられ、またも無様に地面を転がることとなった。
 痛みに呻きながら立ち上がり上方を仰ぎ見ると、斜面から突き出した木の枝が不自然に揺れているのが見えた。
 どうやら、斜面から伸びていた葉の茂った大枝を、地面と間違えて踏み抜いてしまったらしい。

「怪我をしてないのは脂肪のおかげかな」

 マリコルヌは自嘲しながら杖を取り出した。
 理由はどうあれ「風上」とあだ名されるマリコルヌ、レビテーションやフライの呪文はそこそこ得意な方だった。
 空を飛ぶたびに「豚もおだてりゃ空を飛ぶ」などと笑われていたのを思い出して、また少し憂鬱な気分になりながらも、マリコルヌは詠唱を開始する。
 その途中で、ふと妙なことに気がついた。
 何やら地面に羽根が落ちているのだ。珍しい赤い羽根だ。そう思って顔を近づけて、ぎょっとした。
 それは、元は白い羽根だったらしい。赤く見えたのはその羽根にべっとりと血がついていたためだった。
 口から出かけた悲鳴を、寸でのところで飲み込む。

(何を怯えてるんだ、僕は。鳥が落ちて怪我しただけの話じゃないか)

 爆発するように早くなっている心臓を押さえ、マリコルヌは気を落ち着かせるように息を吐く。
 多少冷静になってからよく見てみると、羽根は一枚だけではなかった。
 数枚の羽根が、ある一定の方向へと向かって点々と落ちているのだ。いずれにも血がべっとりとついていて、やはり赤い羽根のように見える。
 マリコルヌはごくりと唾を飲みこんだ。少し迷ってから、羽根が続いている方向へと向かって歩き出した。
 ただ怪我をした鳥がずるずると地面を這っていっただけだろうが、何故か興味を惹かれたのだ。

(何か危ないことがあったら、飛んで逃げればいいさ)

 そんなことを考えながら、マリコルヌは赤い羽根を追って歩いていく。
 赤い羽根は森の奥へと続いており、下手をすれば草に隠れて見落としそうになるほどだった。
 そうして深い木立を抜けた先に切り立った岩壁があり、そこに深い穴が開いていた。
 天然の洞穴らしく、人の手が加わった形跡は見えない。羽根はその洞穴の中に続いていた。
 マリコルヌは杖を取り出して短く詠唱し、魔法の灯りを灯して洞穴の中へ足を踏み入れた。
 無論、足取りは慎重である。危険なことがあったらすぐに逃げ出すつもりだった。
 洞穴の中は曲がりくねっており、入り口から差し込む日光はすぐに壁に遮られてしまった。
 つまり、灯りがなければ完全な暗闇ということである。そんな洞穴の床に、やはりあの羽根が点々と落ちている。
 おっかなびっくり歩き続けていくつかの曲がり角を曲がったとき、マリコルヌの目の前に信じられない光景が広がった。
 そこは、今までの道に比べると少し広い空間で、ちょっとした部屋のような広さがあった。
 その奥、壁に背をつけて、見たことのない少女が座っていた。
 恐怖に目を見開き、身を守るようにして肩を抱くその少女の背には、白い大きな翼があった。
 マリコルヌは息をすることも忘れて少女を見つめていた。
 頼りない灯りに浮かび上がる少女の姿は、まるで一枚の絵画のように美しい。

(天使)

 思わずそんな単語が頭に浮かんでしまうぐらい、マリコルヌは彼女に見惚れていた。
 だが、そのとき生まれた不思議な静寂は数秒も持たなかった。
 天使の少女が体を折り曲げて凄まじい悲鳴を上げたからだ。
 閉ざされた洞窟の中ということもあってその悲鳴は耳をつんざくほどに響き渡り、マリコルヌは慌てて曲がり角に引っ込む。

「ごめんなさい」

 ほとんど反射的に謝ってしまってから、マリコルヌはふと気付く。

(怪我をしてるんじゃないか、あの子)

 森の中からここまで続いていた羽根のことを思い出す。
 羽根があの少女のものだったとしたら、べっとりと付着していたどす黒い血もあの少女のものだろう。
 血が乾ききっていなかったことから考えて、少女がこの洞穴に入り込んでから、まだそれ程時間は経っていない。
 となると、怪我も治っていない可能性が大きかった。

(どうしよう)

 マリコルヌは焦った。怪我をした少女を放っておくことなどできるはずもないが、先程の悲鳴を思い出すと治療することにも躊躇いが生まれる。
 そもそもにして、マリコルヌは女の子と話すのが苦手だった。
 その上、彼女はあんなにも美しいのだ。前に出てしまって、まともに口が利けるのかどうかすら疑問だ。
 だからと言ってこのまま帰るのも無理だ。となると、手は一つしかない。

(無言で治療して無言で帰ろう)

 そう心を決めるのにもかなりの勇気が必要だった。
 マリコルヌは一度深呼吸して、思い切って足を踏み出した。
 彼が再度姿を現すと、またもや少女は悲鳴を上げた。一瞬躊躇いながらも、マリコルヌは少女に向かって歩いていく。
 マリコルヌが近づくごとに、少女の悲鳴は一段ずつ高くなっていった。同時に、マリコルヌも様々なことに気付く。
 少女はボロボロだった。体に纏っているのはほとんどボロきれとしか言いようのない汚れきった布で、そこから突き出している長い手足も泥と血に塗れている。
 やはり羽を怪我しているらしく、白い翼はところどころが赤くなっていた。
 恐怖と警戒に見開かれた目は真っ赤に充血し、顔も頬がこけているように見える。
 だが、それでもやはり彼女は美しい。足を踏み出すたびに、マリコルヌの決意は固くなっていった。

(こんなに可愛い女の子を、ボロボロのままにしてはおけない)

 空回り気味の情熱を巻き込んで、彼女を癒したいという気持ちがどんどん膨れ上がる。
 マリコルヌは可愛い女の子というものを愛していた。世界の宝だと思っていると言っても過言ではない。
 その感情は、単なる少年的な欲望とは少しだけ違うものだった。
 遠くから見るだけで、近づくことすら叶わない神聖な存在。それが、マリコルヌにとっての美少女という存在だった。
 マリコルヌは、醜い自分とは正反対である美少女という生き物に、途方もない憧れと畏怖の念を感じているのだ。
 そんな存在が今目の前で汚れきっているという現状を、放っておけるはずもない。
 後ろが壁だということも忘れてマリコルヌから逃れようとしている少女の前に跪き、マリコルヌは静かに詠唱を始めた。
 それを見て、少女は短い悲鳴と共に両手で頭を抱えた。
 やはり自分は彼女に害を与える存在だと思われているらしい。マリコルヌはとても悲しい気分になった。
 だが、今重要なのはそんなことではない。
 マリコルヌは意識を集中して、慣れない水魔法の詠唱を続ける。
 苦労して唱えた水魔法は、ほんの少しだけ彼女の傷を癒した。
 未だに頭を抱えて震えている少女のそばで、マリコルヌは淡々と水魔法を唱え続ける。
 その途中で、ようやくマリコルヌが自分の傷を癒していることに気付いたらしい。視界の片隅で、少女がおそるおそる顔を上げたのが分かった。
 しかしマリコルヌはあえてそちらを見ずに治療を続けた。
 本当のことを言えば、自分が敵ではないことや彼女の傷を癒していることを話し、にっこりと笑いかけてあげたい。
 だが、少女を相手に上手く話せる自信はない。にっこり笑いかけた自分の顔を見て、少女が嫌な顔をするのにも耐えられない。
 だから、マリコルヌは魔法力の限界まで治療を施している間、一言も口を利かず少女の顔を見もしなかった。
 そうして、苦手な水魔法ながら、マリコルヌはなんとか少女の傷をほとんど癒すことに成功した。
 とは言えほとんど血を止める程度が精一杯で、痛々しい傷跡はまだ体や羽の各所に残っている。
 それでも、痛みは大分軽くなっているはずだった。
 これで自分の仕事は終わりだ。そう考えて、マリコルヌは無言で踵を返した。
 そのまま立ち去るつもりだった彼の服の裾を、誰かが引き留めるように引っ張る。

「待って」

 高く澄んだ声が、静かに響き渡る。
 驚いて振り向くと、少女がまだ少し不安げな瞳でこちらを見上げていた。

「ありがとう」

 少女は少し頬を染めてそう言った。彼女の背中で傷だらけの翼が小さく震える。
 マリコルヌは自分の顔が紅潮していくのを感じた。



 最近、マリコルヌの様子がおかしい。
 その噂は、水精霊騎士隊の中だけでなく、ほとんど学院全体にまで広がりつつあった。
 事の起こりは、マリコルヌが肉弾戦闘の訓練をサボってどこかに姿をくらましたことだった。
 彼はその後どこへ行ったやら、訓練が終わる頃になってふらりと森の中から現れた。
 当然ながらギーシュや才人は怒ったが、臆病なマリコルヌはそのときに限って怯むこともなく彼らの話を聞いていたという。
 その日から、彼の行動はおかしくなった。
 たびたび訓練をサボるのは上手くいかなくて嫌になったというので説明がつくとして、姿をくらましている間はどこに行っているのか。
 時間が空いているときはなんと図書館に閉じこもり、あの小太りな体を椅子からはみ出させながら一心不乱に魔法書のページを捲っているという。
 では真面目な優等生になったのかというとそうでもなく、町で女物の服を買っているのを目撃されたりもしている。
 極めつけは食事の後に厨房に現れることで、才人が知り合いのメイドに聞いたところでは「残り物をくれ」と食事を漁りに来ているのそうだ。
 「豚が冬のために溜め込んでるんじゃねーの」などと口の悪い隊員は言うが、そんな冗談で流すにしてはあまりにも変化が激しすぎる。
 今日も今日とて姿が見えないマリコルヌのことを考えて、レイナールはため息を吐いた。

「本当に、彼は一体どうしてしまったんだろうな。このままでは騎士隊の評判にも関わる」
「心配するようなことでもないと思うけどな」

 横に寝転んだ才人が言う。

「あいつは確かにどうしようもない変態ではあるけど、小心者だから問題起こせるようなタイプじゃねーよ」
「そうだな。何せ『風上』のマリコルヌだからな」

 才人の隣でギーシュも頷く。レイナールは首を傾げた。

「『風上』って、マリコルヌのあだ名だろう。風魔法が得意って以外に何か由来があるのかい」

 メイジの二つ名というのは、基本的には周囲から呼ばれて定着するあだ名のようなものである。
 青銅のゴーレムを好んで扱うギーシュは「青銅」のギーシュ、香水の調合が得意なモンモランシーは「香水」のモンモランシー、魔法が全く使えないルイズには「ゼロ」のルイズと、聞くだけでその人物の得意な系統や魔法が大体分かるようなものが多い。
 いつ始まったのか知らないこの風習は今でも廃れることなく続いており、レイナール自身にも似合いの二つ名がついている。
 他人がつけるものであるから、例え不名誉なものでも大抵は実情に合っているものが多い。
 「ゼロ」のルイズ辺りは本人にとっては最悪だが、他人にとっては頷けるものだろう。
 そういう話から言って、「風上」のマリコルヌというのは特に不名誉でも名誉あるものでもない、至って平凡な二つ名に思える。
 レイナールはそう考えたのだが、ギーシュはすまし顔で肩をすくめてみせた。

「『風上』っていうのは、常に風上にいるような彼の姿を揶揄してつけられたあだ名なのさ。彼は姿こそ小太りでノロマに見えるが、実際にはなかなか要領がいい男でね。危なそうな場所には絶対に近づかないし、自分には出来なさそうなことも絶対にやらない。つまり、絶対に向かい風を受けないようにと、風が吹く前から風上になる場所を探しているようなものなのさ。風下になる場所にいなければ、向かい風に逆らって歩く必要もないからね。その要領の良さがあって、今まで落第を免れていると言ってもいいほどだよ」
「でも、その姿を臆病者と笑う者もいるって訳か」
「そういうことだ。まあ僕自身はそんな風には思わないがね。蛮勇を誇るのは愚か者のすることだよ、君」

 いかにもギーシュらしい一言に苦笑したあと、レイナールは腕を組んで考え始めた。
 マリコルヌの性格は今の会話で大体つかめたが、今回のことは果たしてその臆病さだけに起因することなのだろうか。

(それにしては図書館で勉強していることに説明がつかないな)

 いくら考えても答えは出ない。そのとき、他の隊員の声が聞こえてきた。

「あいつさ、森の外れの小屋かなんかに平民の奴隷でも飼ってるんじゃないの」

 顔を上げると、そこに体格のいい少年が立っていた。
 数日前、肉弾戦闘の訓練でマリコルヌの相手をしていた少年である。

「町で女物の服買ってたんだろ、あいつ」
「そう聞いてはいるが、彼には女装癖という困った性癖もあるとも聞いているぞ」
「それだけじゃ残飯漁りの理由にはならないだろ。それとも、奴は女の格好で食事すると興奮するとでも言うのかよ」

 さすがに無理のある想像である。レイナールは反論できずに唸った。
 だが、かと言ってこの少年の言うように、平民の奴隷を飼っているなどというのはひどい侮辱のように思う。
 もちろんそれが事実ならば大問題ということもあるが、これをきっかけに変な噂が立って騎士隊の評判が落ちるようでも困るのだ。
 ここは隊長と副隊長に諫めてもらおうと振り返ると、何故か才人とギーシュは顔をつき合わせて真剣な表情で頷き合っているところだった。

「あいつなら」
「やりかねんな」
「そうだろそうだろ」

 先程の少年も加わって、三人は「マリコルヌの平民飼育日記」というネタで話に花を咲かせ始める。
 さすがに本気で言っている訳ではないだろう。だが、「あいつのことだからきっと幼女」「いやいや、案外グラマラスな美女という線も」「馬鹿、あいつの小遣いでそんな高い女が買えるかよ。俺たちは森の小屋で豚の交接を見る羽目になるだろうよ」
 などという下品極まりない会話を聞くにつけ、この場にいるのがたまらなく恥ずかしく思えてくるレイナールであった。



「マリコルヌ」

 と、澄んだ声で呼ばれるたびに、マリコルヌは意味もなく心臓が高鳴るのを抑えることが出来ずにいた。
 平静を装って「何だい」と答えると、壁を背に膝を抱えて座っている少女が、かすかに首を傾げて訊いてきた。

「あなた、最初わたしに『カザカミ』のマリコルヌって名乗ったよね。『カザカミ』ってなあに」
「あだ名みたいなもんだよ。大したことじゃないから気にしなくてもいい」

 どもならないように気をつけて答えながら、マリコルヌは最初「風上」のマリコルヌと名乗ったことを後悔していた。
 そのあだ名に込められた意味は、彼自身もよく知っていたからだ。
 マリコルヌは話題を変えるために、まだ不思議そうにしている少女に問いかけた。

「ところで、今日のご飯はおいしかったかい」
「うん、とっても」

 少女は笑顔で頷いた。マリコルヌはほっとすると同時に申し訳ない気持ちになる。
 マリコルヌは、少女と知り合って数日目となる今日に至るまで、一日も欠かすことなくこの洞穴を訪れていた。
 少女の傷を治すためであり、少女に食事を届けるためでもある。
 食事と言ってもマリコルヌに料理は作れないので、必然的に魔法学院の食堂から余り物をもらって来ることになる。
 町に行って買うという手もない訳ではないが、それでは時間がかかりすぎて毎日届けるのは無理なのだ。
 それで乞食の真似事をしている訳だが、恥じる気持ちはほとんどない。
 自分は今陰で豚呼ばわりされているだろうが、それは以前と変わりないし、何よりも目の前の美少女のために食事を用意しているというのは、マリコルヌにとって胸を張って誇れることであった。
 捕われの姫君に心を奪われた、愚かで醜い牢番のような気持ちである。
 姫君を助ける騎士でなく、やっていることも結局は残り物を届けているだけに過ぎないのは何とも情けない気分だったが、彼にはこれが精一杯だった。
 本当ならなけなしの財産をはたいて有名な料理店に連れて行きたいし、もっと水魔法が上手いメイジを連れて来たいところである。
 しかし、少女自身が「外に出たくないし、他の人を連れてきてほしくもない」とそれを拒んだので、結局毎日洞穴通いすることになったのだ。
 彼女は、怪我をしていた理由など、詳しい事情を話していない。実を言うと、マリコルヌは彼女の名前すら聞いていなかった。
 それでもマリコルヌは満足していた。
 マリコルヌの灯した魔法の明かりに、ぼんやりと浮かび上がる彼女の姿。
 零れ落ちそうなほどに大きな瞳は晴れ上がった空のように青く輝き、整った鼻筋の下には微笑を形作る可愛らしい唇がある。
 腰まで届く長い銀髪は触れ合うだけでかすかな音がしそうなほどに細やかで、折れそうなほど華奢な体つきは繊細な美しさを備えている。
 彼女に似合うようにとマリコルヌが苦心して選んできた白い洋服も、ぴったりと体に合って彼女の魅力を高めていた。
 そして何よりも、その背には大きな翼がある。
 今やすっかり血も拭われて元の真っ白な色を取り戻した翼は、少女の小さな体を包み込むほどに大きい。
 その純白の翼は、時折思い出したように小さく震え出す。マリコルヌは、それを見るのが大好きだった。
 こんなに美しい少女のために何かをすることができて、彼女もそれを喜んでくれている。
 それが、純粋に嬉しかったのだ。

「どうしたの、マリコルヌ」

 声をかけられてはっとする。いつの間にやら、すっかり少女に見入ってしまっていたらしい。

「いや、なんでもないよ」
「そう」

 それっきり、会話が途絶えた。少女は抱えた膝の間に顔を埋めて、じっと地面を見下ろしている。
 マリコルヌのほうも何を話していいか分からずに途方に暮れてしまう。
 この日まで、彼らのやり取りは大体このパターンに終始していた。
 短いやり取りはいくらかあるのだが、あまり深い会話まで入っていけない。

(だけど、これじゃいけないよな)

 マリコルヌはこっそりと息を吸い込んだ。
 今日こそは、聞かなくてはならない。少女が何故こんなところにいて、何故怪我をしていたのか。
 これからどうしたいのか、何か自分に手伝えることはないのか。
 どう話しかけたものか数十秒も迷ってから、マリコルヌは緊張に声を震わせながら問いかけた。

「君は、どこから来たんだい」

 少女が顔を上げる。無表情だった。マリコルヌは慌てて付け足す。

「いや、話したくないならいいんだけど」
「ううん。いいよ、別に」

 少女はマリコルヌを安心させるように微笑んだ後、思い出すように目を閉じて話し出した。

「わたしはね、空から来たの。うんと高いところから」
「アルビオンかい。ああ、あの空を飛んでる島のことだけど」
「ううん、あの島よりももっと遠くて、もっと高いところにある場所の、山の上。わたしたちの村はそこにあるの」
「君の村の人たちは皆背中に羽があるのかい」

 少女が小さく頷く。天使の村か、とマリコルヌは感動に胸を震わせた。
 頭の中に、美しい山々とその上空を飛び回る天使たちの姿が思い浮かぶ。

「綺麗なところなんだろうね」
「うん、凄くいいところよ」

 少女は嬉しそうに笑った。
 晴れ渡った空の色をした瞳を輝かせて、楽しげに話し続ける。

「春は山一面に花が咲いて凄く綺麗だし、夏は少し熱いけどよく晴れててお空の散歩が楽しいの。秋にはおいしい木の実や山菜が食べられるし、冬に雪を払いながら飛び回るのも好き。今こうやって遠くに来てみると、やっぱり村が一番いいって実感するわ」

 懐かしむような、あるいは恋焦がれるような口調に、ふと寂しさが入り混じった。

「帰りたいな」

 その声音に強く胸を打たれ、マリコルヌはほとんど反射的に問い返していた。

「帰れないのかい」

 少女は驚いたようにマリコルヌを見たあとで、悲しげに首を振った。

「駄目よ。羽が傷ついているもの。わたしたちの体は鳥よりもずっと飛びにくく出来ているの。このままじゃ飛ぶことなんか出来やしないわ」

 つまり、マリコルヌの水魔法が不完全で、少女の傷が治りきっていないから飛べないのだ。
 マリコルヌの胸は悔しさで一杯になった。だが、同時にもう一つ、違う感情も湧き上がってくる。

(このまま傷が治らなければ、彼女はずっと僕の傍にいてくれる)

 それは、醜い独占欲。
 マリコルヌは目を見開き、慌てて首を振ってその感情を振り払った。
 おそるおそる少女の方を窺うと、地面を見つめて物思いに耽っているところで、こちらの様子には気付いていない様子だった。
 汚らしい感情が彼女に伝わっていないことに、マリコルヌはほっとした。
 同時に、一瞬でもあんなことを考えてしまった自分がどうしようもなく嫌になる。

(やっぱり、僕は「風上」のマリコルヌで、臆病者の薄汚い豚なんだ。でも、彼女は違う)

 少女の寂しげな横顔を見つめながら、マリコルヌはある決意を固めていた。



 数人の男子生徒がぞろぞろと図書館に入ってきたのを見て、受付に座っていた女性がぎょっとした。
 軽く頭を下げてその横を通りながら、才人はため息を吐く。

「もう放っておけない」

 レイナールがそう言い出したのは、今日の訓練が始まろうかという時分だった。
 彼が放っておけないなどと言っていたのは当然ながらマリコルヌのことである。
 彼の奇行はここ数日でますます激しくなり、今や訓練している騎士隊の横を平然と素通りするまでになっていた。
 このままでは真面目に訓練している者達に示しがつかない、というのがレイナールの主張だった。

「それに僕らがマリコルヌを放っている現状を、周りの連中がどう言って笑ってるか知ってるか? 『水精霊騎士隊は豚を一匹飼っている』だぞ。このままじゃいい恥さらしだ」
「いいじゃねえか。王立魔法研究所からの依頼で初任務も来たことだし、名より実を取るって考えでいこうぜ」
「いいや、名だって大切だ。このことが女王陛下のお耳に入ってみろ、管理能力のない僕らはすぐに解散させられるに違いない」

 才人としてはそこまで大きな問題にはなるまいと考えているが、レイナールの言うことも一理あるとは思っている。
 確かに、ここ数日のマリコルヌの行動は目に余るものがある。
 変態仲間のデブとは言え一応友人と言う間柄、軽く忠告ぐらいはしてやろうという気持ちだった。
 だが、そんな考えは当のマリコルヌを見て一変した。
 マリコルヌは、図書館奥の机に座っていた。うず高く積まれた本に埋もれるようにして、こちらに背を向けて一心不乱にページを捲っている。
 話には聞いていたが、これほど真剣に本を読んでいるとは思いもしなかった。

「驚いたな」

 才人の気持ちを代弁するように、隣のギーシュが呟いた。

「僕は彼とは長い付き合いだが、あんなマリコルヌは初めて見る」

 そんな二人の驚きなど関係なしに、レイナールはマリコルヌに近づいて彼の肩に手をかけた。

「おい、マリコルヌ」

 強い口調で言われて初めて気付いたらしく、マリコルヌがこちらに振り向いた。
 その顔もまた少し痩せこけているように見え、彼があまり寝ていないことを窺わせる。
 マリコルヌは、そんな疲労の残る顔にかすかな微笑を浮かべてみせた。

「やあ、皆揃ってどうしたんだい」
「どうしたんだい、じゃない」

 レイナールが怒鳴り声を上げた。

「君は一体何を考えてるんだ、騎士隊の訓練どころか授業までさぼって」

 するとマリコルヌは少し申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「ごめん、他にやることがあったんだ」
「それはなんだ」
「言えない」
「ふざけるな」

 再びレイナールが怒鳴る。マリコルヌの襟首を掴み上げているその様子からして、かなり怒りを溜め込んでいたようである。

「君にとっては何の得にもならないことなのかもしれないが、これでも僕らは真面目にやってるんだぞ。戦いには向いてないような奴もいるが、彼らだって一生懸命訓練に参加してくれてる。だが、一人不真面目な者がいるだけでそういう努力も全部無駄になるかもしれないんだ。それとも、君は本当に自分の都合だけしか考えていないのか。訓練が辛いからって逃げ続けるつもりか。そこが君の『風上』という訳か」

 レイナールの激しい追及を、マリコルヌはただ黙って聞いていた。聞き終わったあと、やはり静かに首を振った。

「ごめん。でも、駄目なんだ。今は他にやることがある」
「それが何か、僕らには話せないと言うんだな」

 マリコルヌはゆっくりと頷いた。レイナールを真っ直ぐに見返す瞳には、不思議なほどの力強さがあった。
 レイナールもまた黙ってその視線を受け止め、「勝手にしろ」と小さく呟いて手を離した。
 沈黙と共に踵を返して歩いていくレイナールを追って、才人たちもまた図書館を出る。
 半ば外に身を出しかけたまま後ろを見ると、マリコルヌは相変わらず本を読み続けているようだった。

「で、結局どうするんだ」

 外では先程と同席していた数人の少年たちが話し合っているところだった。
 中心はもちろんレイナールで、彼は不機嫌そうな表情で首を振った。

「知るか。どちらにしろ任務が来たんだ、あんな奴に構っていられるか」
「任務ったって、見回りみたいなものだろう」
「分からないぞ、連中が森に潜んでいる可能性は高いんだ。上手くいけば大手柄かもしれない」
「そう上手くいくかね」
「どちらにしろマリコルヌの力は必要ない。奴は奴で勝手にやればいいさ」

 口では厳しいことを言いながら、その口調は図書館に入る前よりも少し柔らかいものになっている。
 どうやら騎士隊の分裂、というような事態は避けられそうだな、と才人は胸を撫で下ろす。

「そうだ、何なら今日辺りマリコルヌを尾行してみようか」

 一人の少年がふざけ半分にそう言ったので、才人もまたおどけた口調で返した。

「止めとけよ。あいつも真剣だったみたいだしな。用が終わったら復帰するだろうし、今は放っておこうぜ」
「でもさ」
「どうしても行くっていうんなら、この俺を倒してから行ってもらおうか」

 もちろん冗談だったのだが、少年たちは何故か顔を青くして震え上がってしまった。
 俺ってそんなに凶暴だと思われてんのかな、と少し悩む才人の横で、ギーシュが小さく呟いた。

「しかし、妙だな」
「何が」
「マリコルヌが読んでいた本、あれは全部水魔法に関するものだった。何故彼がそんなものを読んでいたんだろう」
「さあ、よくは分かんねえけど」

 才人は軽く肩をすくめた。

「悪いことにはならんだろ。何となく、そんな気がするよ」


 
「よし、と。これで治療は終わりだ」

 少女の翼から手を離し、マリコルヌは深い満足感と共に頷いた。
 ここ数日、他の全てのものを放り投げて水魔法の勉強に没頭した成果が、今目の前にある。
 少女の背の翼には、今やかすり傷一つついていない。文字通り、純白の翼である。
 マリコルヌは、目を閉じて想像する。目の前にいる少女が、大きく翼を広げて蒼穹の空を飛んでいく光景を。
 それを頭に思い浮かべるだけで、沸き立つような高揚感と、どうしようもない喪失感が同時に胸に湧き上がってくる。
 それらを噛み締めながら、マリコルヌは無理に笑顔を作った。

「さあ、これでもう飛べるはずだよ。外に出よう。君の村へ帰るんだ」

 マリコルヌはそう促したが、少女は座り込んで俯いたまま動こうとしない。
 この場を動きたくない、という意思表示にも見える少女の様子に、マリコルヌは戸惑った。

「どうしたんだい」
「わたし、行きたくないな」

 少女はマリコルヌを上目遣いに見上げて、小さな声で言った。マリコルヌは目を見開いた。

「どうして。この間は帰りたいって言ってたじゃないか。それとも、まだどこかに傷があるのかい」
「そうじゃない、そうじゃないんだけど」

 少女は躊躇するようにマリコルヌから視線をそらす。彼女の背中で、白い翼が小さく震えていた。
 少女が帰ることを拒む理由が、マリコルヌには少しも想像できなかった。
 傷はもうないはずだし、少女は帰りたがっているはずだ。だとしたら、一体何故帰りたくないなどと言うのか。
 少女は悩むマリコルヌを黙って見つめていたが、やがて立ち上がり、ゆっくりと言った。

「分からない?」

 マリコルヌをじっと見つめて、短く問いかけてくる。何か、覚悟を決めたような表情である。
 その美しさに、マリコルヌは息を呑んだ。少女はそんなマリコルヌに、少しずつ顔を近づけてくる。

「あなたが、好きなのよ」

 少女の唇が囁いた言葉に、マリコルヌは全身を硬直させた。

「なんだって」
「恥ずかしいから何度も言わせないで。好きなの、あなたが」

 少女は頬を赤らめて恥らうように言う。

「好きだから、離れたくないの。分かるでしょう」
「それはつまり、村に帰らずに僕と一緒に暮らしたいと、そういうことかい」

 信じられない思いで問うと、少女ははにかむように頷いた。

「あなたがわたしの傷を治してくれたときから、ずっと好きだったの。これからもわたしのこと守ってほしいのよ」

 マリコルヌは呆然とした。夢なんじゃないかと疑ってみるが、間違いなく現実だった。
 どう反応していいか分からず、マリコルヌはとりあえず笑ってみた。

「冗談はよしなよ」
「冗談じゃないわ。本当に好きなの、あなたのことが」
「だって、僕はこんな風に太ってるし」
「少し丸いだけよ。むしろ愛嬌があって可愛いと思うわ」

 女の子に可愛いなどと言われたのは初めてである。頭がくらくらしてきた。

「マリコルヌ」

 少女が小さな声で囁き、マリコルヌの背中に手を回してきた。
 そのまま、そっと顔を近づけてくる。何をする気なんだ、と考えて、すぐに答えが出る。キスだ。

(ああ、使い魔以外とキスする機会が僕にもやってくるなんて)

 体が浮き上がるような幸福感に包まれながら、マリコルヌは呆然としたまま少女の顔が近づいてくるのを見守った。
 そして、不意に気付く。
 青空色の瞳に、翳りが見えた。いや、翳りどころか、濁りと言ってもいい。

(どうしてだろう)

 徐々に冷静な思考が戻ってきた。

(なんだこの状況。どう考えてもおかしいじゃないか。どうして彼女が僕なんかとキスしようとしてるんだ)

 そんなことを考えている間にも、彼女の顔はどんどん近づいてくる。
 マリコルヌを魅了して止まない美貌が、吐息を感じ取れるほど近くにある。
 頭の中で様々な思考が渦を巻く。欲望に素直に従おうとする心と、それではいけないと拒む心と。

(いいじゃないか。彼女が僕を好きだって言ったんだから)

 誰かが頭の中でそう囁いた。一瞬その声に従いかけたマリコルヌは、しかし次の瞬間強い衝撃に目を見開いた。
 少女の背中で、純白の翼が小さく震えていた。
 マリコルヌは一瞬だけ目を瞑ったあと、黙って少女の体を押し返した。

「マリコルヌ?」

 少女が困惑したようにこちらを見る。マリコルヌは睨むようにその瞳を見返した。

「いけないよ、これじゃ」
「どうしたの、急に」

 少女がぎこちない笑みを浮かべる。その瞳は、やはりどこか濁って見える。
 数日前、故郷のことを話していたときの眩しいほどの輝きが、すっかり失われてしまっているのだ。
 マリコルヌは無言で彼女の手をつかみ、洞穴の外へ向かって歩き出した。

「さあ、行こう。君の村へ帰るんだ」

 悲鳴を上げて、少女が手を振り解く。振り返ると、彼女は裏切られたように顔を歪めていた。

「どうして。マリコルヌ、わたしのことが嫌いなの」
「いや、好きだよ」

 自分でも意外なほどにあっさりと、マリコルヌは言った。少女がほっとしたように少しだけ表情を和らげる。

「わたしも好きよ。だから」
「でも、行こう」

 マリコルヌは手を差し出す。少女は怯えるようにその手を見つめて、じりじりと後ずさった。
 彼女を追うようにマリコルヌが一歩踏み出すと、少女はとうとう耐え切れなくなったように頭を抱えて蹲った。

「止めて! どうしてそんなこと言うの? わたしのことが好きなんでしょう。だったら守ってよ。ずっとそばにいさせてよ」
「駄目だよ。それじゃ、駄目なんだ」
「どうして」

 少女が顔を上げてマリコルヌを見上げた。マリコルヌは、彼女の濁った瞳を真っ直ぐに見つめ返して言った。

「君が本当は帰りたいと思ってるから」

 少女の背中で、白い翼が小さく震える。少女はマリコルヌの視線から逃れるように目をそらした。

「違うわ」
「違わないよ」
「わたしはあなたが好きなのよ」
「それは嘘だ。どうして君がそんな嘘をつくのかは分からないけど」

 マリコルヌは、再び少女に手を差し出した。

「さあ、行こう。空を飛んで、君の村に帰るんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、少女は大きく目を見開き、腹の底から絞り出したような声で絶叫した。
 訳の分からないことを絶え間なく叫び、周囲にあったものを手当たり次第にマリコルヌに投げつけてくる。
 マリコルヌは、避けることもなく黙ってそれらを体に受けた。彼女が食事に使った皿が額にぶつかり、フォークが頬をかすめて傷を残した。
 体力が尽きたのかそれとも気力が尽きたのか、少女はその内息を荒げたまま座り込んでしまった。
 抱え込んだ膝に顔を埋めて、低い声ですすり泣き始める。
 その背で、白い翼が小さく震えていた。

「また来るよ」

 少女の弱弱しい姿に胸を切り裂かれるような痛みを感じながら、マリコルヌは洞穴を後にした。



 鬱々とした気分で歩いて学院に帰り着いたとき、時刻は既に深夜を迎えていた。
 寮の門限はとっくの昔に過ぎている。だが、そんなことはどうでも良かった。
 どうしたら彼女を助けることが出来るのか、何が彼女に帰ることを躊躇わせているのか、いくら悩んでも答えが出てこない。

(ひょっとしたら、僕はもう彼女には関わらない方がいいんじゃないのか)

 不意に、そんな考えが頭の隅から湧いてくる。

(もう彼女は僕のことなんか嫌いになっただろうし。それに、僕なんかに女の子の気持ちが分かるとは思えないし)

 それは、弱気という名の甘美な誘惑だった。

(そうだよ、それがいい。どうせ僕じゃ何の役にも立てないんだ。それがいいに決まってる)

 それに、自分はずっとそうやって生きてきたのだし。
 そんなことを考えたとき、不意に暗闇から声が飛んできた。

「お悩みのようじゃのぉ」

 微妙に聞き覚えのある声だ。驚いてそちらを見ると、寮を囲む茂みの中に学院長のオールド・オスマンが隠れていた。

「何やってるんですか」

 そう問うと、オールド・オスマンは無言で寮の方を指差してみせる。その一角には、一年生女子の部屋が固まっていたはずである。
 目を細めると、何か小さなものがある部屋の窓の近くを飛んでいるのが見えた。

「小型のガーゴイルじゃよ。でな、あれが見た映像がこの水晶玉に届けられるという訳で」

 要するに高価な魔法具を使って覗きをやっているらしい。
 なんてしょうもない人だろう、とマリコルヌはあきれ返ってオールド・オスマンを見下ろした。
 当の学院長はそんなことなど知らぬげな「ああ、もっと下じゃもっと下」などと顔をしかめて呟いていている。
 こんな人相手にしても仕方がない、と踵を返しかけたマリコルヌを、後ろからの声が止めた。

「逃げるのかね」

 何故か耳が痛い。振り返ると、オールド・オスマンがこちらに背を向けたまま語りかけてきた。

「彼女がお主のことを好きだと言って、守って欲しいなどと言ってくれたんじゃ。それでいいのではないかね」

 何故そのことを知っているのか、と問いかける気にはならなかった。
 なんだかんだで魔法学院の学院長だ。何を知っていたって不思議ではない。
 今のマリコルヌにとっては、言葉の内容の方がはるかに重要だった。

「そうですね。僕も、彼女みたいな子が恋人になってくれて、ずっと僕のそばにいてくれたらどんなにいいかって思いますよ。あんな可愛い子に好かれるなんて、これを逃したらもう一生ないだろうし」
「では何故拒んだのだね」
「彼女が、本当は帰りたいと思っているからです」

 マリコルヌの脳裏に、故郷のことを語る彼女の瞳が思い浮かんだ。
 無限に広がる空を映すように、眩しいほどに輝いていた青空色の瞳。

「僕と一緒にいたいだなんて嘘だ。それが本当なら、あんな風に瞳が濁るはずがない。彼女は帰りたいんですよ、帰りたくてたまらないんだ、自分の村に。でも、怖いから嘘をついている。何が怖いのかは分からないけど、怖いから本当の気持ちをごまかして、安全なところへ逃げ込もうとしてる。そんなんじゃ僕と同じじゃないか。いつも向かい風を避けることばっかり考えて、『風上』に逃げてばかりいた臆病者の僕と。彼女は鳥なんだ。でも飛ばなかったら豚になってしまう。僕は彼女にそんな風になってほしくない」

 マリコルヌの心情の吐露を、オールド・オスマンはただ黙って聞いていた。
 そうしてから、ふと思いついたように問うてくる。

「君は『風上』のマリコルヌというのだったな」
「そうですけど」
「向かい風を避けるために、常に『風上』を探す臆病者、か。なるほど、なかなか似合いのあだ名じゃが、そんな君に一つ聞いてもいいかね」
「なんですか」
「『風上』というのは、常に人が向かっていく先に存在しているのかね」

 マリコルヌは答えられなかった。
 沈黙したままの彼を面白そうに見つめたあと、オールド・オスマンはおもむろに懐を探り出した。

「そうそう」

 言いつつ、何やら書類のようなものを取り出してみせる。

「これは君らの、えー、なんだったか。ああそうだ、水精霊騎士隊、じゃったか。あの騎士隊に下された命令書の写しなんじゃが」

 何故急にそんなものを取り出したのかと不思議がるマリコルヌに、オールド・オスマンは書類を放ってよこす。
 訝りながらそれを読み始めたマリコルヌは、その内容を把握して目を見開いた。

「王立魔法研究所の一部門が、魔獣やら何やらを集めて非道な実験をしとったらしいのお。で、それがバレてその部署は取り潰しになったが、連中は素早くそれを察して研究データなんぞを持って国外逃亡しようとした、と。そのほとんどは事前に捕まえることができたが、一番貴重な実験動物と一番過激な連中が見つからんままと。そんな話じゃ。要するに、騎士隊に実験動物の保護と研究員の捕縛命令が下った訳じゃな。そう言えば、最近学院の周辺を妙な連中がうろうろしとった気もするのお。学院に入ってくる気配はなかったから放っておいたんじゃが」

 そこまで説明されるまでもなく、マリコルヌの頭の中で様々な情報の断片が一つに繋がりつつあった。
 あの少女は、王立魔法研究所から逃げてきたのだ。
 アルビオンよりも遠いところに住んでいた彼女が、何故トリステインにいたのかは分からない。
 だが、とにかく王立魔法研究所に捕われていた彼女は、おそらくその部署が取り潰しになるゴタゴタに乗じて逃げ出した。
 しかしその途中で追っ手に撃たれたのか、それとも魔獣にやられでもしたのか、とにかく何らかの理由で翼に深い傷を負い、
 魔法学院周辺の森に落下したという訳だ。その後はマリコルヌと出会って、今に至る。

(じゃあ、彼女は追っ手に見つかるのを恐れていたんだろうか)

 それは、本人に会って確かめるしかないようだった。

「騎士隊の連中もまだ森の中で妙な連中と追いかけっこしているようじゃの。全く、お主と言い奴らと言い、揃いも揃って門限破りとはいい度胸じゃわい」

 冗談めかしてそう言うオールド・オスマンに微笑みかけたあと、マリコルヌは杖を取り出し短く詠唱した。
 風の流れに乗せて、寮の方まで声を飛ばす。

「女子の皆さん、ここでアルヴィーを使って覗きをしている人がいますよ」
「ちょっ、おま」

 オールド・オスマンが慌てて立ち上がる。しかし、時は既に遅い。
 寮の窓が一斉に開け放たれ、眩い光が周囲を照らし出す。オールド・オスマンが焦ったようにこちらを見た。

「マリコルヌ、貴様」
「さっさと逃げたほうがいいですよ学院長。学院長がやったってことは内緒にしときますから、僕と皆の門限破りも大目に見てくださいね。あと、いろいろありがとうございました」

 そう言い捨てて、マリコルヌは森を目指して駆け出した。



 いつもは静かな夜の森が、どこかざわついているように思える。
 マリコルヌは周囲に誰かがいないかと最大限に気を配りながら、小さな明かりを灯して森を駆けていた。
 まず真っ先に向かった先は少女が隠れていた洞穴だった。
 しかしそこに少女の姿はなかった。争った形跡はなかったから、捕まる前に逃げ出したのだろう。
 そう信じて、マリコルヌは当てもなく森の中を駆け回る。幸か不幸か、まだ森に入ってから誰とも遭遇していない。
 広い森だし、研究所の所員も騎士隊の隊員もそれ程数は多くないからだろう。
 彼女もまだ見つかってはいないと信じたかった。暗い森の中、下手をすれば騎士隊にも敵だと勘違いされて撃たれる可能性がある。
 数十分も走り回ったが、やはり彼女は見つからない。
 焦り始めたマリコルヌは、不意に眩暈を感じて蹲った。
 ここ数日の睡眠不足と疲労が重なったのだろう。だがここで休んでいる訳にはいかない。
 そう思って身を起こしかけたとき、マリコルヌはふとあるものに気付いた。
 生い茂る草の合間に、何か白い物がある。
 まさか、と思って明かりを近づけて、歓喜の声を上げそうになった。
 あの純白の羽根だった。彼女と出会ったあの日のように、それは点々と森の奥に続いている。
 マリコルヌは小走りに走り出した。草を踏みしめ枝を払いのけ、暗闇の中で見失いそうになる羽根を注意深く追っていく。
 そして、彼女を見つけた。正確には、茂みに隠れきれていない、彼女の白い翼を。

「君はあんまりかくれんぼに向いてないみたいだね」

 冗談めかしてそう言うと、白い翼がびくりと震えた。彼女がおそるおそる顔を出す。マリコルヌは笑った。

「あの日みたいに悲鳴を上げるのはなしだよ」
「マリコルヌ」

 歓声を上げて、彼女が飛びついてきた。押し付けられた肢体の柔らかさに、マリコルヌは状況も忘れて顔を熱くする。

「良かった、もう来てくれないかと思った」

 少女は安堵の涙を流しながら、事情を説明し始めた。
 マリコルヌが去ってからしばらくして、ふと洞穴の外に人の気配を感じたのだという。
 何となく嫌な予感がして入り口の方に行ってみると、見覚えのある顔がいくつか見えた。
 彼らがこちらに気付かずに行ってしまったあと、彼女も同じように洞穴を抜け出し、森の中を必死で逃げ回っていたらしい。

「でももう安心ね。わたしを守ってくれるんでしょう、マリコルヌ」

 その言葉に、マリコルヌは曖昧な笑いを返した。
 ふと見ると、少女の背中の翼が小さく震えていた。
 マリコルヌは数刻前と同じように、黙って手を差し出した。

「さあ行こう。空を飛んで、君の村に帰るんだ」

 少女は驚いたように目を見開いたあと、何かを恐れるように顔を歪めた。

「わたしを守ってくれないの」
「僕じゃそれは無理なんだ。だから他にできることをするよ。さあ」

 マリコルヌは少女を促す。少女は躊躇うようにマリコルヌの顔と手を見比べ、恐る恐る手を差し出した。
 マリコルヌは黙ってその手を握り返す。手の平に、柔らかく温かい感触が伝わってきた。
 そのとき、不意に後方で「いたぞ」という叫び声が響き渡った。
 振り返ることもなく、マリコルヌは少女の手を引いて走り出した。



 白み始めた空の下、マリコルヌと少女は無我夢中で森の中を駆けた。
 幸いにも、追っ手はさほど多くないようだった。
 遠くから爆発音が聞こえてくることから察するに、他の研究員は騎士隊と鉢合わせになって戦闘しているようである。
 マリコルヌは少女の手を引いて駆け続けた。どこをどう走ったものか分からないが、
 その内木々の隙間が大きく開いて、朝日が帯になって差し込んでいる場所が見えてきた。森の出口だ。
 少女と顔を見合わせて、一気に走り出す。その先が学院ならば、それだけでもう安全が保証される。
 しかし、その期待は見事に裏切られた。抜け出した先には、人工物らしきものが一切見当たらなかったのだ。
 開けた場所である。少し行くと地面が途切れていて、下を覗き込むとそこが深い崖であることが分かった。降りられる深さではない。
 どうやら、魔法学院とは反対の側に出てきてしまったらしい。
 横を見ても道はなかった。後ろの森からは研究員、前には絶壁。進むことも逃げることも出来ない状況である。

「そんな、ここまで来て」

 少女が絶望的な声を発して地に膝を突く。
 しかし、マリコルヌは別のことを考えていた。

(これは、むしろチャンスかもしれない)

 朝日に輝く空を見上げる。鳥が一羽、高いところを飛んでいた。
 ここは魔法学院とさほど変わらない高さだから、それほど強い風は期待できないだろう。

(いや、期待する必要なんかないんだ)

 マリコルヌは決心を固めた。座り込んでいる少女の前に膝を突き、呆然としている彼女の顔を覗き込む。

「さあ、飛ぶんだ」

 少女が目を見開いた。マリコルヌは彼女の視線を導くように頭上を見上げる。晴れた空が広がっていた。

「時間がない。もうあと少しで連中はここに来てしまう。君は飛んで逃げるんだ」
「マリコルヌはどうするの」
「どうにかするよ。さ、早く」

 マリコルヌは少女の手を引っ張って無理矢理立たせると、崖の縁の一歩手前まで彼女を連れて行った。

「さあ、飛ぶんだ」

 空を指差す。少女は零れそうなほどに目を見開いて、しばらく呆然としたように空を見上げていた。
 背中の翼が小さく震え出す。徐々に少女は息を荒げ始めた。表情が歪み、瞳から涙が溢れ出す。
 少女はとうとう泣きながらその場に蹲ってしまった。

「どうしたんだ」
「怖いのよ」

 出し抜けに、少女が叫んだ。蹲ったまま肩を抱き、嗚咽混じりに話し出す。

「翼を撃たれて森に落ちたあの日から、飛ぶのが怖くなったの。ぐんぐん地面が近づいてきて、このまま死ぬんじゃないかって思った。
 あのときのことを思い出すと、体が震えて止まらなくなるの。こんなんじゃ、飛ぶのなんてもう無理だよ」

 泣き続ける少女を、マリコルヌは黙って見下ろした。

「そうか、それであんなに帰るのを嫌がってたんだね」

 少女が小さく頷く。マリコルヌはため息を吐いた。

「ごめんよ、気付いてあげられなくて。でもそうか、やっぱりそうか」

 妙に清々しい気分で、マリコルヌは笑い出した。少女が目に涙を溜めたまま、驚いたように見上げてくる。

「どうしたの」
「うん、いやね。やっぱり、僕のことが好きだっていうのは嘘だったんだなあって」

 少女は目を見開いた。一瞬反論しようと口を開きかけて、すぐに閉じる。そうしてから、顔を歪めて泣き出した。

「ごめんなさい」
「いいよ。でも、どうしてあんな嘘をついたんだい」
「だって」

 少女は一瞬口ごもった後、申し訳なさそうに言った。

「そうしないと、わたしから離れていくと思ったから。飛べないのに一人で放り出されたら、わたしはきっと死んでしまうと思って、だから」
「だから、あんなこと言って僕に守ってもらおうとしたんだ」

 少女は小さく頷いた。マリコルヌは苦笑する。

「君は一つ勘違いしてるよ。僕は豚なんだ」
「え」
「豚が鳥を守れる訳がないだろう。犬ならともかくさ」
「何を言ってるの」

 困惑する少女に「なんでもないよ」と笑いかけて、マリコルヌは手を差し出した。

「さあ、飛ぶんだ。飛んで、君の村へ帰るんだ」
「でも」
「大丈夫」

 マリコルヌは少女の後ろに回りこんだ。杖を取り出し、詠唱を始める。それが完成してから、マリコルヌは力強く叫んだ。

「僕の名前をお忘れかい? 僕は『風上』のマリコルヌ。僕の立つ場所は常に『風上』になる。君が翼を広げる限り、いつだって追い風を吹かせてみせる!」

 魔法を解き放つ。座り込んだ少女の周りで、優しい風が渦を巻いた。
 少女が小さく声を漏らした。そんな少女の周囲を風が駆け巡り、遥か空へと上っていく。つられるように、少女も空を見上げた。
 少女の背中の翼が小さく震え出す。マリコルヌは目を細めてそれを見つめた。それを見つめるのが大好きだった。
 この純白の翼は、恐怖ではなく、渇望によって震えていたのだ。

(そう、あの翼は、いつだって空を飛びたいと言って震えていた)

 マリコルヌは詠唱を再開した。それに合わせて、少女もゆっくりと立ち上がる。
 後ろから叫び声が聞こえる。
 少女が大きく翼を広げた。純白の翼と銀色の髪、マリコルヌが贈った白い服。
 遠い山々から顔を覗かせている朝日に照らされて、少女は一つの白い光のように見えた。

「飛べ」

 少女がおそるおそる一歩踏み出す。

「飛べ」

 二歩目は力強く。

「飛べ!」

 三歩目で地を蹴った。
 少女の体が追い風に舞い上がる。久しぶりの飛翔で数回バランスを崩しかけたが、その度に周囲の風が少女の体を立ち直らせる。
 後方で悲鳴が上がる。銃や杖を構える音も聞こえてきた。マリコルヌはにやりと笑った。

「僕のいる場所はいつだって『風上』だ。君たちには向かい風をプレゼントしよう」

 後方の研究員に向けて、突風が吹き付けた。発射された弾丸や炎の弾が、強い風に弾き飛ばされる。
 前方と後方、それぞれに違う風を、絶え間なく送り続ける。
 脳が焼ききれるのではないかと思うぐらいに頭が熱くなっている。
 飛びそうになる意識の中、マリコルヌは一心に少女の背中を見つめ続けた。
 そのとき、不意に腹の辺りが熱くなった。ちらりと見ると、血が出ている。
 どうやら、研究員たちは狙いをマリコルヌに切り替えたらしかった。突風を突き破って襲い来る攻撃に、マリコルヌはとうとう膝を突いた。
 そのとき、少女が空の上で一瞬振り向きかけた。マリコルヌは絶叫した。

「振り返るなぁ! 大丈夫だ、風はいつだって君の味方だ! 前だ、前だけを見て飛び続けるんだ!」

 その願いが伝わったものか、少女は完全に迷いを振り切って飛び始めた。
 速い。鳥だってこんなに速くは飛べないだろうと思わせるような速度で、少女の体がどんどん遠ざかる。
 マリコルヌは目を細めた。蒼穹の空に、白い翼が吸い込まれていく。あの翼は、今は歓喜に震えているのだろうか。
 そして、限界が来た。手から力が抜け、杖が地面に落ちる。吹き荒れていた風が、嘘のように止んだ。
 後方から人が近づいてくる音がする。数人の人間が崖の縁に立って魔法を飛ばしているのが見えた。

(馬鹿め、ここから魔法が届くものか)

 研究員たちの悪あがきを、マリコルヌは地に倒れたままでせせら笑った。
 その内、研究員たちの興味はマリコルヌに移ったらしい。全員が彼を取り囲み、怒りに滾る目で見下ろしてくる。

(豚一匹料理するのにずいぶんと集まったもんじゃないか)

 マリコルヌは途切れそうになる意識の中、満足感に満ちた微笑を浮かべた。
 自分はこのまま死ぬのかもしれない。そう思ったとき、ふと気付く。
 自分を取り囲んでいる研究員のさらに向こう、森の中に見覚えのある顔がいくつも並んでいる。
 その中の一人、黒髪の少年が笑顔で呼びかけてきた。

「おっさんたちよ」

 研究員たちが驚いたように振り返る。黒髪の少年が背中の剣を抜いた。

「俺らのダチになにしてくれちゃってんの」

 そこから先は一方的な展開だった。
 才人を筆頭に水精霊騎士隊がなだれ込んできて、研究員たちを一方的にボコボコにし始めたのである。
 敵を殺してはいけないこの状況で、皮肉にもあの肉弾戦闘訓練が役に立った訳だった。

(ああ、サイト。やっぱり君は犬なんだなあ)

 噛み付くような勢いで暴れまわる黒髪の友人を見つめながら、マリコルヌはしみじみと思う。

(僕が君のようだったら、彼女を守るのも悪くはなかったんだけどね)

 誰かがマリコルヌを助け起こす。彼の意識はそこで途切れた。



 少女は、休むことなくただ前だけを目指して飛び続けていた。
 マリコルヌが吹かせてくれた追い風は、とうの昔に止んでいる。
 それでも、胸に不安はない。今なら、背中の翼を広げてどこへでも飛んでいけるような気がしていた。
 そして、ふと思い出す。彼の名前。最初は意味が分からなかった、だが彼にはとても似合う素晴らしいあだ名。

(嘘をついてごめんなさい。背中を押してくれてありがとう)

 少女は顔を上げた。強い向かい風が吹き付けてくる。だが、怖くはない。
 向かい風の先はいつだって風上なのだ。風上には彼がいる。だから、怖くない。
 少女は向かい風に負けないように、大声で叫んだ。

「本当にありがとう! 絶対に忘れないわ、『風神(カザカミ)』のマリコルヌ!」



 隣に座ったレイナールが重いため息を吐き出すのを、才人はうんざりした気分で聞いていた。

「おい、お前それ何度目だよ」
「放っておいてくれ。僕らがなんて呼ばれてるか知ってるか」
「泥精霊騎士隊だったっけか。いや俺らにはお似合いなんじゃねえの。泥まみれの殴り合いで手柄立てたんだし。いいじゃんか」
「ちっとも良くない。こういうのはイメージが大事なんだ。ああ、これじゃもう二度と華やかな活躍は出来ないに違いない」

 案外大げさな奴だよなあ、と思いながら、才人は一つ欠伸をする。
 あの森での追いかけっこから、既に三日ほどの時間が経過していた。
 一応お手柄だったということで、騎士隊の訓練は今日まで休みということになっている。
 学院の方も休みなので、今頃騎士隊の面々は思い思いに休暇を取っているに違いない。
 その証拠に、ここヴェストリの広場にもほとんど人影がない。

「っつーか休めよなお前も」
「いや、そうはいかない。今度こそ評判を上げる計画を練らなければ」

 何やらぶつぶつと呟きながら紙に書きつけているレイナールに、才人はふと訊いた。

「そういや、今回一番のお手柄はマリコルヌなんだって」
「ああ。貴重な実験動物、なんて言い方は失礼だろうが、翼人の生存に一役買った訳だからな」
「天使なんてのが、本当にいるとはねえ」
「いや、彼らは天使なんかじゃないよ。あくまで翼の生えた人間に過ぎない」
「でもそう思わなかった連中がいた訳で、今回の騒ぎになった訳だ」
「まあ、彼らは滅多に人前に出てこないから、もっと詳しく彼らのことを知りたいなんて思う者がいるのは事実だがね。エルフと同じような強大な力を持ってる可能性もある。敵対するのは得策じゃない。コルベール先生はそんな風に仰ってたよ」
「なるほどねえ。ま、何にしてもこれで少しはマリコルヌの人気も」

 才人が言いかけたとき、不意に寮の方から女生徒の悲鳴が聞こえてきた。
 驚いて後ろを見ると、何やらカラフルな色彩の丸いものが物凄い勢いでこちらに近づいてくるのが見えた。

「って、あれマリコルヌじゃねえか」
「何をやってるんだ」

 顔を見合わせる二人の横を、マリコルヌが走りぬける。彼が纏っているカラフルなものの正体を知って、才人はぎょっとした。
 それは、服だった。女生徒の服やら下着やらを体中にくくりつけたマリコルヌが、必死の形相で走っていくのである。

「なんだありゃ」
「あ、サイト」

 追いかけてきた女生徒の中から、ルイズが飛び出してきて才人に怒鳴りつけた。

「ちょうどいいわ、あんた、あれ捕まえなさい」
「あれって、マリコルヌか」
「そう、あの豚。何したと思う、あいつ」
「下着ドロ」
「正解。分かったらとっとと捕まえてくる」

 ルイズが才人の尻を蹴っ飛ばす。才人は「相変わらず人使いの荒いこって」とぼやきながら、ふとレイナールの方を見る。
 彼は白目を剥いて倒れていた。今度モンモランシーに胃薬を作ってもらおう、と決意しながら、才人は走り出した。



 マリコルヌはすぐに捕まって女生徒にタコ殴りにされた。
 それでも学院長の指示でやったと自白したことで一応その場は許されたものの、これでは人気向上など望めるはずもない。

「何やってんの、お前は」
「やっぱり僕にはこういうのがお似合いなんだよ。いやあいい匂いだったな。どうして女の子はあんなにいい匂いがするんだろう」
「アホ」

 才人は軽く笑ってマリコルヌの頭を小突く。マリコルヌも照れたように笑い返してきた。
 二人は今、あの事件の最後の舞台となった崖に来ていた。
 見上げる空はあの日のように晴れ渡っていて、やはり高いところを鳥が一羽飛んでいる。

「彼女はちゃんと帰れたのかな」
「大丈夫だろ。お前が風を吹かせてやったんだからさ」
「でも僕は途中で力尽きてしまったんだ。心配だな。いや、大丈夫か」

 マリコルヌは崖の縁に立って空を見上げていた。後ろに立つ才人から、彼の表情は見えない。

「だってさ、彼女は結局僕のことが好きじゃなかったんだ。ってことはつまり僕を必要としなかったってことだから、彼女は一人でも大丈夫だったってことになる」
「いや、その理屈はおかしい」

 才人が一応突っ込んでやると、マリコルヌは少し笑ったあとでしんみりと言った。

「サイト。僕はさ、振られたんだよね」
「そうだな」
「残念だなあ。本当に好きだったんだ。一応いいとこまではいったんだよ。嘘とは言え告白されたんだしね」
「そうだな」
「実を言うと後悔してるんだよ。あのとき素直に彼女とキスしてりゃ良かったなあってね」
「それは嘘だな」

 才人はマリコルヌの横に並んだ。彼の顔は見ない。ただ、青く晴れ上がった空だけを見上げていた。

「お前は確かに振られたよ。心底惚れてた女にさ。でも、後悔はしてねえよ」
「どうしてそう思うんだい」
「いい顔してるもんよ、お前」

 追い風が吹いて、涙をさらっていった。



 風上。それは友のために追い風を吹かす勇者の名前である。

 <了>
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