【東方SS】Nowhere

2009/9/22に東方創想話に投稿したSSです。
 


『Nowhere』



 この郷にやって来てからもう二十年にもなるのだな、と思いながら、赤顔は幻想郷の空を見上げた。
 どこまでも澄み渡る青の中を、一人の鴉天狗がカラスの群れを引きつれて飛んでいく。
 今はもう、この郷でしか見ることが出来なくなった光景だ。
 赤顔が生まれたばかりの頃は、外の世界でもそれこそ毎日のように、飽きるほど見かけたものなのだが。

「親分」

 聞き慣れた声に振り返ると、厳めしい顔をした猿の妖怪が立っている。
 ずっと昔から変わらぬ着流しに身を包んだその妖怪は、思いつめた表情で赤顔を見つめ、苦しげに問いかけてきた。

「どうしても、行きなさるんで?」
「おうよ。この期に及んで止めるんじゃねえぜ、猿」

 子分に向かってにやりと笑いかけると、猿妖怪は眉間に皺を寄せて一歩距離を詰めてきた。

「親分、後生ですからあっしもお供させてくだせえ。ここであんたを黙って見送るだけなんて、あんまりにも」
「おう、猿」

 子分の懇願を、赤顔はぴしゃりと遮った。

「おめえには、後のことを頼んだはずだぜ。天下に鳴らした赤顔衆も今は昔、古株はもう俺とおめえぐれえしか残ってねえ。おめえはこれから若ぇ衆をまとめなきゃならねえんだ。情けねえ面見せねえで、ちったあビシッとしやがれ」

 低い声で淡々と語りかけながら、赤顔は再び幻想郷の空を見て、目を細めた。

「ここはいい場所だ。俺らみてえなどうしようもねえ負け犬のことも、暖かく迎え入れてくれた。その恩義に報いるためにも、血気盛んな若ぇ衆をキッチリまとめなきゃならねえ。軽はずみに馬鹿な真似やらかして、ここの平和を乱すわけにゃいかねえんだ。分かってくれるな、猿?」

 猿妖怪は深く俯いたまま少しの間黙っていたが、やがて小さく「へえ」と呟き、顔を伏せたまま鼻を啜りあげた。
 それを見て、赤顔は横に長い唇にほろ苦い笑みを浮かべる。

「なんてな。本当は、こんな偉そうな口叩けるような身分じゃねえんだ、俺は。次々消えていく子分どもに何もしてやれず、ただここに逃げてくるしかなかった。そして今も、全部おめぇに押しつけて、手前の我がまま通そうとしてやがる。全く、情けねえ野郎さ」
「そんな言い方はよしてくだせえよ、親分」

 猿妖怪がさっきよりも必死に言い募るので、赤顔は口を噤んで大きく頷いた。

「すまねえな。ともかく、俺の役目は今日限りだ。勝手な願いですまねえが、後のことは頼んだぜ」
「へい。お任せくだせえ、親分」
「いい返事だ。それでこそ俺の子分ってもんだぜ」

 赤顔が笑って肩を叩いてやると、猿妖怪は一瞬泣きそうに顔を歪めたあと、ぐっと堪えて表情を引き締めた。

「それで、親分。この後はどのように?」
「博麗神社に行って巫女様にご挨拶申し上げるさ。どっち道、外に行くにはあの方に話を通さなきゃならん」
「承諾してもらえますかね」
「さてな。いい加減に見えて案外仕事には真面目なお人だって話だが……まあ大丈夫だろうよ、こうして手土産も用意したし」

 赤顔は右手にぶら下げた細長い風呂敷包みを軽く持ち上げて見せたあと、左手で大きな顎を撫でた。

「それに、妖怪の賢者様にはもう話を通してあるからな。断られるってこたあねえだろうさ」
「そうですか。それはなによりで」

 猿妖怪は少しの間押し黙ったあと、着流しの懐に手を突っ込んで、「これを」と、何やら小さな物を差し出してきた。
 受け取ってみると、それは手の平に乗るぐらいの、小さな木彫りの人形であった。

「なんでえ、これは」
「外にいた頃、あっしらのねぐらに馬鹿でけえ木が一本あったでしょう。あれから一本枝を折って作ったんですよ」
「なるほどねえ。お守りってわけかい。いかにも不器用なおめえらしい、ぶっさいくな人形だぜ」
「そりゃ言いっこなしですぜ、親分」

 軽く笑ったあと、猿妖怪は真剣な顔で言った。

「多分、外はあっしらがここに来た時よりも酷い状況になってるでしょうからね。そんなもんがどれだけ役に立つかは分かりませんが、もしものときは握り締めてあっしらのことを思い出してくだせえ、親分」
「おう。有難く受け取っておくぜ」

 赤顔は懐に木彫りの人形を仕舞い込むと、猿妖怪の背後に立つ一本の巨木を見上げた。
 彼ら二十人ばかりの赤顔衆がこの郷にやって来たとき、今後の住処にとみんなで選んだ木だった。
 あれから二十年。少々窮屈ではあったものの、なかなか楽しい時間を過ごせてきたと思っている。郷に住んでいる他の妖怪たちも概ね陽気な連中で、ご近所さんとの関係も良好だ。
 赤顔衆の頭目としての役目は終わった。もう、思い残すことはない。
 あとは、自分なりのケジメというものをつけるだけだ。

「それじゃ、な」

 さらりと言って、赤顔は猿妖怪に背を向ける。
 おそらく子分は深々と頭を下げているだろうが、いちいち振り返ってそれを見る気にはならない。
 ただ前だけを見て胸を張り、堂々と歩きだした。



 その妖怪が博麗神社にやって来たのは、その日の昼を少し過ぎた頃であった。
 控え目な昼食を澄ませ、軽く掃除をしたあといつも通り昼寝に勤しむとするかな、などと考えていた折のこと。
 拝殿の前を掃き清めていたとき、何かが近づいてくる気配を感じたのである。
 それで霊夢が動きを止めて待っていると、まず見えたのは大きな頭であった。
 巨大な卵型の赤ら顔に、短い胴と短い手足。本当に頭だけが大きい。胴と足の長さを合わせてようやく頭の長さに届くか届かないか、と言ったところだ。
 そんな、明らかに均整の取れていない頭だけがやたらに大きな妖怪が、のっしのっしと石段を上り、鳥居をくぐって近づいてくるのである。
 無論、見覚えはない。
 飲み仲間と化している連中ならともかく、全く見知らぬ妖怪がこの神社にやって来ることなど本当に稀である。
 何せ、こちとら買い物に行く途中でも妖怪を見かけたら問答無用でぶっ飛ばしているようなご身分だ。そんな巫女にわざわざ近づこうとする妖怪など、この幻想郷にはほとんどいない。

(なに、こいつ……?)

 霊夢は警戒しながら、いつでも札を放てる体勢を取る。落ち着いた足取りで近づいてくる相手を睨みつけて、威嚇もした。
 しかし赤ら顔の妖怪は、そんな霊夢の様子になどまるで無頓着に、相変わらずのっしのっしと近づいて来るのだった。その足運びは実に堂々としており、貫禄すら感じさせるものであった。

「御免」

 赤ら顔の妖怪は、霊夢から数歩ほど離れた場所でぴたりと立ち止まって言った。外見通りに野太く、よく響く声だった。

「博麗の巫女様というのは、あなた様で?」
「そうだけど」

 警戒を解かず、頷きもしないまま霊夢が答えると、赤ら顔の妖怪は馬鹿でかい顔に満面の笑みを浮かべて軽く頭を下げた。軽く、と言うのは人間の基準である。彼の頭の大きさからすると、おそらく最大限に頭を下げているつもりなのだろう、と言うのが容易に見てとれた。

「これはこれは、噂通りの別嬪さんでごぜえますね。お初にお目にかかりやす、あっしは赤顔と申すしがねえ妖怪でして。以後お見知り置きを」
「はあ」

 異様な外見に反して、意外なほど丁寧な物腰である。やや毒気を抜かれた霊夢が生返事をすると、赤顔と名乗ったその妖怪は、手にした細い風呂敷包みを恭しく差し出してきた。

「つまらねえものですが、お近づきの印にお納めくだせえ」
「なに、これ」
「いえ、怪しいもんじゃございやせん。巫女様がなかなかお好きだと聞いたもんでして、へえ」

 受け取ってみると、風呂敷の隙間から日本酒の瓶らしきものが見えた。思わず顔を上げると、赤顔はにこにこと愛想良く笑っている。
 長年巫女をやっているが、こんなものを初対面の妖怪からもらうのは初めてである。毒でも入っているのか、と疑ってもみたが、そういう危険な感じはしない。
 こういうときの自分の勘は全面的に信頼している霊夢だから、尚更訳が分からなくなった。

「よく分かんないけど」

 軽く顔をしかめながら、しげしげと赤顔を見つめる。

「くれるって言うんなら、もらっておくわ」
「ええ、ええ、どうぞお納めくだせえ。それでですね」

 赤顔は少し遠慮がちに言った。

「ちょいとばかし、相談したいことがありやして。あっしの話を聞いて頂けませんかね」
「話、ね」

 霊夢は小さく首を傾げた。
 普通、相談なんて言われるとまず思い浮かぶのは面倒臭いという単語であるが、何故だかこのときばかりは聞いてやってもいいかな、という気になった。
 相手が酒を持参してきたせいもあるかもしれないが、不思議と、大して面倒だという気分にならなかったのである。
 だから霊夢は「ま、いいでしょう」と呟き、箒を石灯籠に立てかけてから、拝殿正面の階段に座った。そうしてふと顔を上げると、赤顔が石畳に正座しようとしていたので、顔をしかめて止めた。

「そんなとこにいないで、わたしの隣に座ればいいでしょ」
「おや、いいんですかい?」

 赤顔が目を丸くするので、霊夢は顔をしかめながら答えた。

「相手を見下ろしながら会話するのって、なんか落ち着かないのよ。いいからさっさと隣来なさい、そっちの方がいつも通りって感じで落ち着くから」
「ははあ。さすが、噂通り気さくなお方ですな。では失礼いたしやす」

 破顔一笑してのっそりと歩いてくる赤顔を見ながら、どんな噂を聞いているんだろう、と霊夢はちょっとだけ首を傾げる。
 そして、隣に座った彼の顔が間近で見ると予想以上に大きかったので、誘ったことを少しだけ後悔したのだった。



 軽く話した上での赤顔の印象は、何とも陽気なおっさんだな、という感じだった。やたらと飲むし例の馬鹿でかい顔をくしゃくしゃにして笑うし、こちらの話を聞くたび膝を叩いてみたり顎を撫でてみたり、反応もいちいち大袈裟だ。
 霊夢の周囲にいるのは人間も妖怪も大概女だし、唯一近しい男と言ったら香霖堂の枯れ店主ぐらいのものなので、こういう相手と会話するのはなかなか新鮮である。
 さらに赤顔が持ってきた酒が口当たりのまろやかな上物で、それを飲みながらのためか、会話もそこそこに弾む。

「じゃ、あんた、外では盗賊みたいなことやってたわけね」
「へえ。赤顔衆って言いましてね。まあもう相当昔の話ですがね。まずあっしがこう、木の上からドスンと飛び降りて、バァッと人間を脅かすわけでして」
「そりゃビビるでしょうね、あんた顔でかいし」
「いやいや、全くその通りで、へえ」

 短い腕を伸ばして広い額をぴしゃりと叩きながら、赤顔が笑う。

「昔は、巫女様みてえな人間とも結構やりあったもんでさ」
「わたしみたいな?」
「へえ。あっしらがねぐらにしてた林の少し近くに、小さな神社がありやしてね。そこに住んでる土地の守り神やら、そいつに仕えてる神職の連中なんかとよく戦ったもんですよ。大概あっしらの負け戦でしたがね」
「そりゃま、人間が妖怪に負けてちゃ話にならないしね」
「いやいや。全くその通りで、へえ」

 ある種見下した感のある霊夢の言葉にも、赤顔は嬉しそうに頷いてみせる。

「やはり妖怪は人間と戦ってナンボですからなあ。いやいや、その点この郷は全く素晴らしい。おおそうだ」

 赤顔は何か思い出したように、ちょっと顔を近づけてきて、かなりの至近距離から霊夢の顔を見つめた。頭の大きさに比例して目も大きいので、霊夢は若干気圧されてわずかに身を引く。

「なによ」
「いやいや。実はですね、この郷にはあっしの子分の赤顔衆が二十人ほどおりやして。最近流行りの異変が起きるたびに、血気盛んな若ぇ衆が『俺たちも是非参加したい』と息巻いておるわけですよ」
「迷惑な連中ね」

 霊夢が顔をしかめると、赤顔は「いやいやまあまあ」とこちらの盃に酒を注ぎながら、やや神妙な口調で言った。

「それでですね、もしかしたら今後の異変でそいつらが巫女様に挑みかかるかもしれやせんが」
「なによ。手加減しろって言うんならお断りよ」

 相談というのはそのことか、と霊夢が少し警戒しながら言うと、赤顔は「いやいやまさか、とんでもねえ」と短い腕をブンブン振った。

「そんな無礼なことを申し上げるつもりはさらさらございやせんよ」
「じゃあ、なに?」
「むしろ逆でさ。もしもそれらしい連中を見かけたらですね、どうぞ思いっきり遠慮なくぶっ飛ばしてやっておくんなせえ」

 一瞬何を言われているのか分からず、分かってからも理解し難い言葉だった。しかし赤顔の顔が実に真剣なので、霊夢は相手の意図が読めないまま、とりあえず頷いた。

「はあ。まあ、いいけど」
「おお、そうでございやすか。いやあ有難ぇ、やはり妖怪は人間と戦ってナンボですからな。その上相手がこんな別嬪さんだとは、いやはや、あいつらが羨ましい。本当にいい場所だ、この郷は」

 赤顔はまた、大きな顔を皺だらけにして笑う。どうにも変な約束をしたな、と霊夢は眉をひそめたが、同時にまあいいか、とも思う。その赤顔衆とやらがどんな連中だか知らないが、妖怪を問答無用でぶっ飛ばすだけならいつもやっていることである。そんな約束なんぞには全く意味がないも同然だった。

「で?」

 酒の注がれた盃を傾けながら、霊夢は赤顔に視線を飛ばす。

「結局、相談ってのはなんなのよ。そろそろ言って欲しいんだけど。わたしも暇じゃないし」

 実際は暇で暇で仕方がないのだが、嘘を吐いた。こういうある種の腹の探り合い的なものはあまり好きでない霊夢である。会話も物事も、単純で分かりやすいに越したことはない。
 一方、言われた赤顔は、先ほどまでの笑顔を引っ込めて若干迷うような様子であった。一度霊夢から視線を外し、空を見上げて目を細める。

「やあ、天狗が飛んでおりますな」
「ん。ああ」

 霊夢が赤顔の視線を追うと、確かに鴉天狗が一人、空を横切っていくところだった。幻想郷ではさして珍しくもない光景である。

「外では」

 赤顔がぽつりと、呟くように言った。

「外では、こういう景色を見ることももうなくなりやした。随分前から、ですがね」
「ふうん。そうなんだ」

 伝聞の形式ではあるが、そういう話は聞いたことがある。
 外の世界では人間によって妖怪の存在が否定されているが故に、力の強い妖怪と言えども自由に出歩くことが出来ない、とか。
 しかし。

「それが、なに?」

 霊夢が問うと、赤顔は再びこちらに向き直った。短い足を窮屈そうに畳み、畏まって頭を下げる。禿げあがった額が霊夢の視界一杯に大写しになり、

「博麗の巫女様」

 神妙な声で、赤顔が言う。

「どうか、この赤顔を外の世界に送ってやっては頂けないでしょうか。この通りでごぜえます」
「……は」

 霊夢は間抜けに口を開く。また、一瞬何を言われたのか分からなくなる。
 しかし、今度は理解したからと言って頷くわけにはいかなかった。だが即座に否定することもできず、霊夢は「いや」と少し言葉を濁す。

「……言ってることが、よく分かんないんだけど」
「巫女様は、ここに迷い込んできた人間を外の世界に帰す役割も担っておられると聞きやしたが」
「そりゃ、人間はね」

 赤顔の言っていることは事実であった。博麗大結界の要である博麗の巫女は、意識して結界を緩める力も持っている。その力と、外の世界と幻想郷との境界に建っているこの神社の地勢とを利用して、一時的に外とこことの間に出入り口を開いて、迷い込んできた人間を送り返すのである。
 しかし。

「だからって、妖怪を外に出したことなんか一度もないわよ」
「ええ、そうでございやしょうが。どうぞ、お願いいたします」
「いや、頭下げられてもなあ」

 ぼやくように言って、霊夢は顔をしかめる。

「そもそも、なんだって外の世界に行きたがるのよ。人間はともかく、妖怪が外に行きたがるなんて聞いたこともないわよ」

 宴会などでそういった話題になることもたまにはあるが、特に外から流れてきた連中は口をそろえて「外には帰りたくない」と言うものである。郷がいいのか外が嫌なのか、細かいところまでは聞いたことがなかったが。

「それはですね。なんと言いますか、まあ」

 赤顔は少し言い淀みながら、眉間に皺をよせて大きな目を細める。

「里帰り、とでも言いやしょうか。ケジメをつけに行かなきゃならんのです」
「さっぱり分からない」

 眉をひそめて、「ともかく」と霊夢は首を振った。

「そういうわけの分からない話はお断りよ。何がどうなるのかも分からないのに」
「大丈夫よ、霊夢」

 不意に、第三者の声が割って入って来た。この声は、と霊夢が顔をしかめて周囲を見回すと、ちょうど境内の真ん中に空間の裂け目ができて、そこから金髪の美女が姿を現したところであった。
 八雲紫。妖怪の賢者にして、ありとあらゆる場所に神出鬼没に出現する隙間妖怪である。
 紫は音もなく石畳に降り立ち、静かにこちらに歩み寄って来たかと思うと、いつものからかうような調子など微塵も感じさせない真面目な口調で言った。

「これは、特に危険な話とかではないわ。彼の頼みを聞いてあげて頂戴」
「唐突に現れたかと思ったら、いきなりそれ?」

 霊夢は唇を尖らせた。

「わけが分かんないんだけど」
「分からなくてもいいわ。ともかく、彼の言う通りにしてあげて頂戴な」

 有無を言わせぬ口調である。隣の赤顔をチラリと見れば、紫に向かって恭しく頭を下げている。どうも、二人の間には既に何がしかに約束事があるような様子であった。
 赤顔を見て、紫は何やら複雑そうな微笑みを浮かべた。

「遅れてしまってごめんなさいね」
「いやいや、滅相もねえ。賢者様もお忙しいご身分でしょうからな。むしろあっしなんぞの我がままにお付き合い頂いて、巫女様にも賢者様にも大変申し訳ねえことで、へえ」
「ちょっと、二人だけで話してないで」

 説明しろ、と言外に言ったが、それでも紫は首を振り、

「いいから。あなたは知らなくてもいいことよ」
「んな言われ方されたら尚更気になるわよ。大体、妖怪を外に出したりしたら何かと大変なことに」
「ならないわ」

 ぴしゃりと断言したあと、紫は細いため息を吐いた。

「なるはずがないのよ。だから大丈夫」
「そんなこと言われても」
「お願いよ、霊夢」
「だから」

 尚も言い募ろうとする霊夢の前で、次の瞬間驚くべきことが起きた。なんと、紫が手を揃えて折り目正しく頭を下げたのである。ぎょっと目を見開く霊夢の前で、紫はゆっくりと頭を上げると、真剣な顔でこちらを見つめてきた。

「お願い、霊夢」

 さすがに、こうまでされては先ほどのように問い詰めることなど出来ない。いつも何かと蘊蓄垂れたりこちらをからかってくる紫に頭まで下げられたというのに、ちっとも面白くない。
 霊夢は拗ねたように唇を尖らせながら、そっぽを向いて言った。

「……もしわたしが断ったらどうするの」
「そのときはそのとき。わたしが一人で彼を送り届けるわ」
「はあ? だったら、最初からわたしに頼む必要なんかないじゃん」
「それでも、あなたにお願いしたいのよ」

 真剣な声、伏せられた瞳。

「博麗の巫女という人間の手で、彼を送り出してあげて欲しいの。だからお願い、霊夢」

 紫は再び頭を下げる。霊夢は眉間に皺を寄せて唇を尖らせ、その内「ああ、もう」とため息を吐いた。

「頭上げてよ、紫。あんたにそんなことされたんじゃ調子が狂っちゃうわ」
「それじゃ」

 顔を上げる紫の前で、霊夢はもう一度ため息をつく。

「ええ、分かったわ。正直何がなんだかさっぱり分からないけど、こいつを外に送ってあげる。それでいいんでしょ?」
「ええ、ありがとう。ごめんなさいね、霊夢」
「だから、お礼言われようが謝られようが、こっちはさっぱり分かんないんだってば」

 ぼやきつつ、霊夢は首を傾げる。

「それで、どうするの? こっちは今からでもいいけど。それとも、日を改めて」
「いやいや、その必要はございやせん」

 今まで黙っていた赤顔が、ゆっくりと首を振った。

「今すぐ、この場で送り出して頂ければ結構ですんで、へえ」
「あっそ。いつも通りにやればいいのよね?」
「ええ。出口はわたしの力で繋げるから、あなたはいつも通りにやってくれればいいわ」
「分かった」

 霊夢は頷くと、意識を集中して大結界に働きかけた。結界の一か所を一時的に緩め、境内の真ん中に小さな穴を開く。その作業中、どこかを誰かに触れられたような感触があった。おそらく紫が自分の言葉通り、穴の出口に干渉したのだろう。その先がどこに繋がっているのか、霊夢には分からないが。

「では、赤顔殿」
「へい」

 赤顔はのっそりと立ち上がると、拝殿の階段を下りて結界の出口のそばまでのっしのっしと歩いて行った。別段、何と言うこともない足取りだった。
 そして、暗く澱んだ紫色の光を放っている穴の前で一度だけ立ち止まり、こちらを振り返る。
 大きな赤ら顔をくしゃくしゃにして、赤顔は笑った。

「いやはや、こんな別嬪さんお二人に見送って頂けるたあ、男冥利に尽きるってもんでさ。あっしのようなしがねえ妖怪にゃ勿体ねえこって、へえ」
「はいはい。こっちはさっぱり話が分かんないんだけどね」

 霊夢は拗ねたように言って、癪だからちょっとした冗談を付け足した。

「ここまで迷惑かけたんだから、帰るときはなんかお土産でも持ってきなさいよ。外の世界のお酒とか」
「お土産、でございやすか」

 赤顔は少し申し訳なさそうな、ほろ苦い笑みを見せた。

「申し訳ございやせんが、そいつぁちょいと約束できませんな」
「なんでよ」
「では、これにて失礼」

 霊夢の問いかけには答えず、赤顔が一歩踏み出す。「赤顔殿」と、紫がその背に声をかけた。
 振り返る赤顔に向かって、紫は深々と頭を下げる。
 そして、深い労わりを滲ませた声で言った。

「永い間、おつとめ御苦労さまでございました」

 誠意に溢れたその言葉を聞いて、赤顔は黙ったまま少しだけ頭を下げる。それからまた前を向き、今度こそ振り返ることなく結界の穴の向こうへ消えていった。



 赤ら顔の妖怪が去り、結界の穴を閉じたあとも、紫はしばらくの間その場に立ちつくして彼が去った方向を見つめていた。霊夢は拝殿の階段に腰掛け、無言のまま赤顔が残していった酒を飲んでいたが、紫がいつまで経っても立ったままでいるために何かもどかしい気分になってきて、

「あのさ」

 立ち上がり、近づいて声をかけた。
 振り返った紫は無表情だった。いつもの胡散臭い微笑みが欠片も浮かんでいない。
 霊夢は若干気圧され、自分が何を言いたいのかもよく分からないまま口を開く。

「何がなんだか、未だによく分かんないんだけど。ええと」

 少し考え、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「あいつ、自分の意思で出ていったんでしょ? だったら、あんたのせいじゃないじゃん。別に、気にすることないと思うけど」

 霊夢は自分自身の言葉にも驚いたが、次の瞬間の紫の表情の変化にはもっと驚いた。
 目を丸くしたあと、泣きそうに顔を歪め、それから一瞬前の表情など微塵も感じさせないたおやかさで微笑んでみせる。

「ええ、そうね」

 微笑んだまま、何でもなさそうな口調で紫は言った。

「別に、これが初めてじゃないもの。気にしてなんかないわ」
「そう」

 霊夢はとりあえずそう言ったが、もちろん納得したわけではなかった。
 だが紫の顔を見ているとそれ以上何か聞くこともできず、何も言えないでいる内に、

「それじゃあ、帰るわ」

 紫は手にした扇を横に滑らせて、空間の裂け目を作った。

「あなたも飲み過ぎには気をつけなさいね。あまり遅くまで起きていないように」
「あんたはわたしの婆ちゃんか」
「せめて母さんって言って頂きたいんですけど」
「そんな歳じゃないでしょ」
「あらあら酷いわね」

 紫はいつも通り余裕の微笑みを浮かべながら空間の裂け目をくぐり、来たとき同様跡形もなく姿を消す。
 後に残されたのは、夕暮れの光に沈みかける境内と、その中に立ち尽くして唇を尖らせる霊夢のみ。

「だから、訳が分かんないんだっての。全く」

 ぶちぶちと言いながら踵を返し、拝殿の方に戻る直前。

「ありがとうね、霊夢」

 柔らかい声音が耳をくすぐり、霊夢は反射的に振り返った。
 しかし境内には誰もおらず、ただ差し迫る黄昏の光があるだけ。
 何となくもやもやした気持ちを抱えたまま、霊夢は再び拝殿の階段に腰掛け、一人黙々と酒を飲み始める。

「よう、まだこっちにいたか」

 不意に空から声が降って来て、箒に跨った黒白の人影が境内に降り立った。
 魔理沙はいつも通りの気楽な笑みを浮かべながら、箒を肩にかけて無遠慮に歩いてくる。

「お、なんだ。一人で飲んでるなんて、最近じゃ珍しいな」
「ん。そうかもね」
「ご丁寧に盃が二つ用意してある。どうしてもわたしと飲みたいって意思表示だと受け取ったね」
「違うけど、飲みたいなら飲めば?」
「酌しろよ」
「自分でどうぞ」
「ちぇっ、友達甲斐のない奴だぜ」

 魔理沙は別段気にした風もなく、霊夢の隣にどっかり腰を下ろして、盃に酒を注ぐ。
 一口含んで、目を丸くした。

「こりゃ、ずいぶん上等な品だな。お前にしちゃ贅沢じゃないか」
「贈り物よ」
「誰からの?」
「……誰からなのかしらね」

 ぼやくように言って、霊夢は小さくため息を吐く。
 魔理沙が怪訝そうに目を瞬いた。

「なんか、元気ないな」
「そう?」
「ああ。なんかあったのか?」
「どうだろ。あったような、なかったような」

 霊夢は曖昧に言葉を濁し、それから、

「わたし、やり方下手だったかな」
「何が?」
「慰めるとか励ますとかさ。よく分かんないわ」

 霊夢そう零すと、魔理沙は眉をひそめて頬を掻き、それから、

「まあ、わたしにもよく分からんが」

 と、霊夢の肩を軽く叩いた。

「とりあえず、元気出せよ。な」

 あまりにも適当なその言葉に、霊夢は軽く吹き出した。

「あんたも下手くそね」
「うるせえやい」
「ま、いいけどね」

 霊夢は再び盃を傾ける。
 魔理沙が眉間に皺を寄せた。

「で、何があったんだよ、結局」
「さあ。わたしにも分かんないわ。分かんないけど」

 霊夢は境内の中央に視線を注ぎ、目を細めた。

「多分、何かしらかなしいことがあったんだと思う。そういうことだったんだわ、あれ」

 緩やかに風が吹いて、魔理沙が小さく体を震わせた。それからどこか遠慮がちに境内を見回し、

「……さっぱり分からんが、どうも酒飲む雰囲気じゃなさそうだな」
「いや、飲みましょうよ」

 きっぱり言って、霊夢は魔理沙の盃に酒を注いだ。

「贈り物ですもの。飲み干すのが礼儀ってものだわ」
「そうかい。ま、それなら付き合うがね」

 そうして二人は並んで座ったまま、迫りくる夜の闇を迎えるように、しばらくその場で酒を飲み続けた。



 夕闇と共に帰って来た主は、予想通りどこか沈んだ顔をしていた。
 藍は八雲邸の上がり台に手をつき、平伏して紫を出迎える。

「お帰りなさいませ、紫様」
「ええ。ただいま、藍」

 どことなく疲れの滲んだ声で言いながら、紫は上がり台に腰を下ろして靴を脱ぎ始める。
 その背に、藍は遠慮がちに声をかけた。

「無事に送り出せましたか」
「ええ。霊夢がちょっと渋ったけどね。最後はちゃんと協力してくれたわ」
「それはようございましたね」
「良かったのかしらね。いえ、良かったのね、ええ。そうでなければいけないわ」

 自分に言い聞かせるように呟きながら、紫は廊下を歩きはじめる。藍もわずかに顔を伏せて、その後についていく。

「霊夢は事情を聞きたがったのではありませんか」
「ええ。話さなかったけれどね」
「あの娘を気遣われたので?」
「そういうわけではないわ。事情を知ったところで、あの子は何とも思わないでしょう。むしろ彼の気持ちを尊重し、居住まいを正して送り出してくれたかもしれないわ」
「では、何故?」
「わたし自身の下らないこだわりよ。尻ぬぐいというか、後始末のようなものだもの。あの子に背負わせたくはないわ。たとえ彼女自身がなんとも思わなかったとしても」

 淡々と言いながら、紫は居間へと足を踏み入れる。既に夕餉は用意してあった。主の気持ちを気遣って、いつもよりもやや豪勢にしたつもりである。もっとも、今の紫に食べる元気があるかどうかは分からないが。
 案の定、紫は卓の前に座って頬杖を突いたまま、何も言わずにぼんやりし始める。藍はその向かい側に座って黙ったままでいたが、やがて意を決して、

「紫様」
「ん。ああ、ごめんね、今食べるわ」
「そうではなくて」
「なに?」

 無表情のまま問い返してくる紫に、藍は躊躇いながら言った。

「紫様に責はございませんよ。彼は自ら望んで行ったのですから」
「藍」
「ここがもっといい場所であったとしても変わらなかったでしょう。彼のような妖怪であれば、いつかは必ず」
「藍」

 やや強い口調で、紫が言う。藍は口を噤み、頭を下げた。

「申し訳ございません。差し出がましい真似をいたしました」
「別に、いいけどね」

 紫は素っ気なく言う。藍もそれで黙るつもりだったのだが、

「ですが」

 思いがけなく口から漏れた言葉に、自分で驚いた。

「なに」

 とわずかにうんざりしたように聞いてくる紫の前で、藍は膝の上に乗せた拳を握りながら、

「わたしは、そんなに頼りないですか」

 自分が拗ねたように唇を尖らせているのが恥ずかしく、顔を伏せながらぼそぼそと言う。

「まだ、愚痴を言う相手にもならないぐらいに弱くて頼りないですか、わたしは」
「そうね、それも少しはあるけど」

 紫はからかうように微笑みながら、「でもね」と静かに付け加える。

「それだけではないのよ。あなたがいかに立派に成長してくれようとも、関係ないわ。さっきも言ったでしょう。これはわたし自身の下らないこだわり。他の誰にも、譲るつもりはないわ」

 藍は押し黙り、紫もそれきり何も言わなくなった。
 ややあって、

「彼は、大した妖怪でしたか」

 藍が問うと、紫は微笑んで首を横に振った。

「いえ。大した妖怪ではなかったわ。人間や守り神の類と戦って、勝ったり負けたりする、どこにでもいるようなしがない妖怪よ」

 淡々と言ったあと、かすかに目を細める。

「だからこそ戻ったのでしょうね。だからこそ捨てきれなかったのだわ、きっと。今までに送り返してきた幾多の妖怪たちと同じように」
「そう、ですか。あの、紫様」

 半ば答えを予期しつつも、藍は苦しげに問いかけた。

「彼は、どのぐらい外の世界にいられるでしょうか」
「そう長くはないでしょうね。本人の希望通り故郷に送り返したけれど、思い出の場所を見て回る時間もあるかどうか。一日、いや半日……下手をしたら二、三時間も持てばいい方だわ」
「外の世界は、もうそれほどまでに?」
「ええ、そう。だって、考えてもごらんなさいよ」

 紫は皮肉げに笑いながら言う。

「風は単なる空気の流動で、雨はただ水の大きな循環に過ぎない。炎の色が変わるのにも日が沈んで夜が来るのにもちゃんとした理由があり、迷信や想像などに頼らずとも自分たちなりの理屈で解釈し、理解できる、と」

 小さなため息。

「外の世界の……特にこの国の人間は、老若男女余すことなく、多かれ少なかれそう認識しているのよ。彼らが視る世界に、神や妖怪が入り込む隙間はもう微塵も残されてはいない。彼らは闇の向こうに妖怪を見ず、自然の中に神々の姿を見出さない。幻想を思い描くのではなく、現象を解析することを選んだのが外の世界の人間。科学的に物事を観察しようとする思念に満たされた世界に、幻想の存在する余地は一片もないということよ。分かっているでしょう、藍? あなただって、博麗大結界構築の場に立ち会ったのだから」

 問いかけるような紫の視線に、藍はかすかに頷いた。
 確かに、分かり切っていたことだ。
 ずっと昔、思念を遮断する結界によってこの郷が切り離されたされたその瞬間から。
 幻想の存在を当たり前に信じ、自分たちの存在を絶対的に肯定してくれる人間たちと共に、この小さな郷で生きていくと誓ったあのときから。
 ここだけが、幻想の存在にとって最後に残された場所となったのだから。
 ここの他に行けるところなど、もうどこにも残されてはいないのだから。

「今はただ」

 紫が少し声を詰まらせる。

「ただ、彼が安らかに逝けることを願うばかりよ」
「……はい」

 藍が短く返事をすると、紫は少し微笑んで、目の前の食卓に向かって手を合わせた。

「いただきます」
「大丈夫ですか」
「なにが」
「いえ。お疲れでしたら、ご無理をなさらない方が」
「何を言ってるの、この子は」

 紫は微苦笑して、たしなめるように言った。

「ちゃんと食べて、少しでも力を取り戻しておかなくてはね。たとえ何があろうとも、いちいち感傷に浸っている暇はない。こんなことで立ち止まるわけにはいかないのよ。この世界を、永遠に立ち止まらせたままにしておくためにも」
「そう、ですね」

 少しの間唇を噛んで、藍は笑顔を作った。

「そうですね。申し訳ありません、要らぬことを申し上げました。それでは、遠慮なくお召し上がりください。お代わりもありますよ」
「あらあら、そんなに食べたら太っちゃいそうだわ」
「あははは、中年太りですね」

 調子を合わせて冗談を言ったつもりだったのに、頭上に開いた隙間から拳が降って来た。
 頭を押さえて呻き声をあげながら、世の中というのは全く理不尽なものだなあ、と藍はため息を吐いた。



 遠くに車の唸り声が響くうるさい夜の中へ、赤顔は帰って来た。
 アスファルトの上に足を踏み下ろした瞬間、ずっしりと体が重くなったのを感じて、ひどく驚いた。
 幻想郷へと逃れた二十年前も、若干体の重さを感じるような状況ではあったが、ここまでひどくはなかったはずだ。

「まさか、たったこのぐらいの間にこうまで変わってるたあな」

 嘆息しながら周囲を見回し、見覚えのある物をいくつか確認した後、おもむろに後ろを振り返る。
 そこには彼らが二十年前まで住処としていた小さな林があるはずだったが、今は小さなビルが建っていて、林など跡形もなくなっていた。

「やっぱり、な」

 赤顔はほろ苦く笑う。

「祠壊しても何の祟りもねえんじゃ、そりゃこうなるわな」

 予想してはいたものの、実際に見ると胸にぽっかりと穴が開いたような痛みがある。
 しかし、この場に立ち止まって嘆いている暇はなかった。こうして立っているだけでも、どんどん体が重くなってくるのを感じる。
 このままでは、すぐに動けなくなってしまうだろう。もはや一刻の猶予もない。

「いろいろ、見て回るつもりだったんだがな」

 嘆息し、重い足を無理矢理動かして歩きはじめる。

「こうなった以上は仕方がねえ。爺さんのところにだけ寄って、逝くとするかい」

 呟き、目的の場所へ向かって必死に歩き始める。
 百歩も歩かない内に、もう息が上がって来た。大きな頭のてっぺんからだらだらと汗が垂れてきて、身に纏った着流しがますます重くなる。
 コンクリートの塀に手を突いてぜいぜいと息を整えていたとき、歩道の向こうから人影がやって来た。
 咄嗟に隠れようとして、苦笑する。
 どうせ、あちらには見えないのだ。隠れたところでしょうがない。

「ああ、そうそう。肝試しってやつ。大丈夫だって、幽霊なんかいるわけねーし」

 ゲラゲラと一人で笑いながら、髪を茶色く染めた若者が赤顔のそばを通り過ぎる。

「なんだ、一人で喋くりやがって。頭のおかしい奴か」

 首を傾げながら、赤顔はまたぜいぜい息をしつつ歩きはじめる。
 だがすぐに、あの若者が変な奴ではないということに気がついた。
 道行く者の何人かが、何か小さな箱のようなものを耳に押し当てて、一人で喋りながら歩いて行くのだ。
 最初は一体何事だと思った赤顔も、すぐにそれが電話らしいということに気がついた。物凄く小さくて、持ち運びできる電話だ。二十年前も電話自体はあったが、あんな物を見るのは初めてだった。

「やれやれ。遠くの人間と話が出来る道具が出来たってだけでも驚きだったのによ」

 疲れ果てて塀を背に座り込みながら、赤顔は呻いた。
 目を細めて、ぼんやりと周囲を見回す。どこもかしこもビルが建ったり家が建ったりで、故郷のはずなのに全く違う場所に迷いこんでしまったかのようだった。
 たったの百年ほど前までは、大した変化もない小さな町だったはずなのだが。

「速いなあ」

 夜の闇も恐れず平気な顔で行き交う人間たちを眺めて、赤顔は呆けたように呟いた。

「人間の歩みってのは、いつの間にこんな速くなりやがったんだ。とてもついていけやしねえ。なあお前ら、そんなに急いでどこに行くんだい……?」

 問いかけに、返事は返ってこない。
 妖怪の声は、もう人間には少しも届かない。
 どんなに叫ぼうとも、どんなに吠えようとも、どんなに嘆こうとも。
 赤顔は盛大に息を吐き出し、またコンクリートの塀に手を突いて立ち上がろうとした。
 しかし足に力が入らずに、どしんと尻もちを突く。
 視界が酷く歪んで、周囲のものが何も見えなくなった。

 ――あれ?

 ぐらぐらと揺れる世界の中で、赤顔は首を傾げる。

 ――おれって、なんだったっけ?

 ふと見下ろすと、短い手足の輪郭が溶け出すように曖昧になっていた。
 自分の形が保てない。自分の形が思い出せない。

 ――ええと。おれは。
 ――ああそうだ、よーかいだ、よーかい。
 ――でもおかしいな。
 ――よーかいなんか、このよにいるわけがないのに。

 そんな当たり前のことを考えて、じゃあ結局自分はなんなんだ、と赤顔は首を捻る。
 いないものがいるはずがない。だったらやっぱり自分もいないのだろうか、と。
 そう納得しかけたとき、不意に懐から何かが転がり落ちた。
 ぐにゃぐにゃに歪んで何も見えなくなった世界の中で、それだけが唯一しっかりとした形を保っている。
 それは、幻想郷を後にする前に子分から託された木彫りの人形だった。
 今はもうどこにもない、故郷の林の木の枝から作ったという人形だ。
 世界が急速に形を取り戻す。赤顔は慌てて木彫りの人形を拾い上げながら叫んだ。

「いや、俺は妖怪だよ。妖怪赤顔、天下に鳴らした赤顔衆の頭目じゃねえか。何を言ってんだ、俺は」

 自分に言い聞かせるように必死に呟きながら、恐る恐る手足を見下ろす。
 ちゃんと、あった。ひどく短くて均整の取れていない、けれどそれは間違いなく赤顔自身の体だった。

「やれやれ」

 木彫りの人形をしっかりと握りしめながら、赤顔は苦笑して立ち上がる。

「本気で時間がねえな、こりゃ。早く爺さんのところに行かにゃ」

 呟きながら、不安を覚える。
 はたして、懐かしいあの爺さんは今もまだこの世に留まっているのだろうか、と。
 腹の底に重いものが溜まるような感覚に苛まれながらも、赤顔はまた無理矢理足を動かして歩き始めた。



 深い闇の中、遠くの街灯が放つ光に古ぼけた鳥居がぼんやりと浮かび上がっている。
 曲がり角を曲がってその光景を見たとき、赤顔は何とも言い難い深い感慨に囚われた。
 もう少し、あと少しだ、と自分に言い聞かせながら、震える足で一歩一歩その神社へと近づいていく。
 鳥居をくぐって境内に足を踏み入れたときにはもうへとへとで、ここからは一歩も動けないな、と覚悟せざるを得なかった。
 そうして石畳の上を進んでいく中で、拭いがたい違和感を覚えた。
 静かすぎる。いや、夜の神社の境内など静かで当たり前だろうが、それにしても。
 昔ここに満ちていた、妖怪が嫌う神聖な気配というものが微塵も感じられない。
 遠目に見るだけでも顔をしかめるほどの重圧を感じた社ですら、今はただの箱のようにしか思えなかった。
 まさか、という恐怖に囚われ、赤顔は必死に声を張り上げる。

「爺さん。おい、守り神の爺さんやい。いねえのか」

 境内はしんと静まり返ったままだ。
 これはいよいよか、と赤顔が顔を伏せかけたとき、

「おお、お前、お前は」

 か細い声が小さく響き、赤顔ははっと顔を上げた。
 小さな社の前に、ぼんやりとした人影が見える。やせ細り、頭がつるりと禿げあがった老人。
 間違いなく、よく見知った守り神だった。

「おお、守り神の爺さん」

 ほんの一時体の重さすら忘れ、赤顔は守り神に駆け寄った。

「生きていやがったのか、爺さん」
「久々に顔を見せたと思ったら、失礼な奴だな」

 守り神は顔をしかめたあと、不思議そうに首を傾げた。

「しかし、赤顔よ。お前さんは、幻想郷とやらに行ったのではなかったのか。ほれ、生き残った子分たちと共に」
「そのはずだったんだがな」

 赤顔は笑って鼻の頭を擦った。

「どっかの爺さんがくたばりかけてると思ってよ。死に水を取ってやりにきたのさ」
「ほほ。お前にしては気が利いてるじゃあないか」

 微笑する守り神に、赤顔は眉根を寄せる。

「ってこたあ、爺さん。やっぱり……?」
「ああ。もうすぐ、だよ」

 守り神は小さく頷き、あらぬ方向を見つめて目を細めた。

「先日、毎日欠かさず参拝してくれとった婆さんが逝っちまってな。これで、ワシの存在を信じている者はこの町に一人もおらんようになった。今は昔の信仰で貯めとった力を使って、どうにか細々と命脈を保っとるような状態だよ」
「そうか」

 赤顔は重いため息を吐きだした。
 妖怪や神、いわゆる幻想の存在とは、肉体ではなく精神に存在基盤を置いている。特に神というのは信仰されることが存在の絶対条件であり、それ失くしてはこの世で形を保つことすらできないのだった。

「どうにかならねえのかい」

 赤顔は必死に言い募った。

「ここだって、掃除してくれる人間ぐれえはいるんだろ」
「いるがね。氏子の持ち回りでやっとるだけさ。お供え物も捧げてくれはするが、彼らは公共の場であるからそうしてくれとるだけで、心の底からワシの存在を信じてくれているわけではない。代々神主を務めてくれとった一族は、戦争のときにみな死に絶えてしまったしな。まあ、ここいらが潮時というわけさ」
「爺さんよう」

 赤顔が顔を歪めると、守り神はからかうように笑った。

「なんて顔をしとるんだ、馬鹿者が。そんな様では、天下に鳴らした赤顔衆の名が泣くぞ」

 そう言ったあと、社の中に入っていったかと思うと、徳利とお猪口を持って戻って来た。

「ほれ、折角来たんだから付き合っていかんかい。お主みたいな妖怪相手じゃなんとも色気がないが、一人で逝くよりゃマシだからな」
「ああ。ああ、そうだな。二人だけだが、盛大にやるとしようかい」

 赤顔は笑って、守り神と共に拝殿の階段に腰かけた。
 酒を飲み始めると多少気分も良くなった。全身を押すような重圧は相変わらずだが、それでも舌はよく回る。
 赤顔と守り神は、昔のことばかり話した。まだ科学などという言葉もなく、誰もが闇の中に妖怪を見ては神の助けに縋っていた、あの時代のことを。

「……それで、ほれ。お主のとこの若いのが、村の娘っ子をさらっていったことがあっただろうが」
「ああ、あったあった」

 赤顔はお猪口片手に膝を叩き、破顔一笑した。

「あれは確か爺さんの罠で、猿がねぐらに戻って来た瞬間、泣いてた娘っ子が藁人形に化けたんだよな。ありゃあさすがにたまげたぜ」
「ほっほっほ。ま、あまり派手にやってお主らをコテンパンにするのも可哀想だったからな」
「よく言うぜ。たまに俺らにぼろ負けして信仰失いかけてただろうが、あんたは」

 赤顔がからかうと、守り神はにやりと笑って、

「そんなことになるたび、お前らは派手に暴れた後わざと負けて、村の連中にワシの神徳を思い知らせてくれたっけな」
「なんだ、ばれてたのかい」
「当たり前だ馬鹿者が。『うわぁ、やられたー』なんて言いながら逃げる阿呆がどこにおるんだ」
「ひっひ、そりゃ猿の奴だな。昔っから不器用な奴だったぜ」
「猿ね。いつもお前にくっついとった猿妖怪か」

 守り神は眉をひそめて周囲を見回した。

「今回はくっついてきとらんようだな」
「ああ。くっついてきたがったんだがね。おめえには若ぇ衆を率いる責任があんだろっつって、無理やり置いてきたぜ」
「呆れたな。責任と言ったら、お主にもあるだろうに」
「あるよ。だからこうしているのさ」

 赤顔は小さく息を吐いた。

「俺らが忘れ去られて、あの郷に逃れなきゃいけなくなったのも、俺ら年寄りが不甲斐なかったせいだものな。俺らがもっとビシッとしてりゃ、人間どももきっと俺らのことを忘れはしなかっただろうよ」
「それは違うぞ、赤顔よ」

 守り神は真剣な顔で言った。

「人間が科学という物を生み出し、ワシらが忘れ去られたのはな、大きな時代の流れという奴で、当然の帰結だったんだ。誰が悪いわけでもないさ。お主もワシも、もちろん、人間たちもな」
「しかしよお、爺さん」
「しかしもかかしもあるかい。文句言ったり愚痴ったりしたって、始まらんさ」
「終わるばっかりだろ、俺たちは」
「まあそうだがね」

 守り神は微苦笑し、盃の中の酒をじっと見下ろした。

「なあ、赤顔よ」
「なんだい」
「ワシらは、よう生きたよな」
「ん」
「やれることは精一杯やったつもりさ。お主らは妖怪としてよう暴れたし、ワシは守り神としてよう人間を守った。お役御免になろうとも、その思い出は変わらんよなあ」
「まあ、そうだな。一生懸命生きたさ、みんな」
「うん」

 守り神は小さく鼻を啜ったあと、ごまかすように笑った。

「しかし、あのしょぼくれた猿妖怪が赤顔衆の跡目とはね。大丈夫かい」
「大丈夫だろ。まあ確かに猿は子分どもの中でもミソッカスだったがな。今じゃちょっとしたもんだ。それに、幻想郷は平和なところだからな。奴が多少ヘマやらかしたって、それでどうなるってもんでもねえさ」
「そうかい。いいところかい、その郷は」
「ああ。食い物はうめえし自然は豊かだし、仲間はたくさんいるし」

 赤顔は口を一杯に広げて笑った。

「それになにより、あそこの人間たちはちゃんと俺たちがいるってことを分かってくれるんだ。忘れねえんだよ。これ以上にいいことがあるかい、ええ、爺さんよ」
「うむ。それはいいなあ。素晴らしいことだ」
「だろ。それにな、博麗の巫女様って別嬪さんが、また妖怪と人間が戦えるようにってえ、素晴らしい遊びのルールを作ってくだすったんだ。これから先はもっともっといい郷になるだろうよ。あそこなら俺たちは忘れられず、昔みたいに、ずっと、ずっと」

 赤顔はそこで言葉を切った。俯き、盃に満たされた酒に映る自分の顔を見つめて、少しの間黙り込む。
 それからおもむろに、

「なあ、爺さんよ」
「なんだね」
「今からでも遅くはねえ。一緒に、幻想郷へ行く気はねえか」

 守り神は答えない。赤顔はなおも言った。

「あそこは神様にとってもいい場所さ。ある程度ちゃんとした形を獲得した神様なら、多少信仰が薄れたところで消えることはねえらしい。妖怪の山って場所には、そういう神様がゴマンといるぜ。みんな毎日のん気に過ごしててよ。だから、爺さんも」
「赤顔よ」

 守り神は、赤顔の声を穏やかに遮った。優しい微笑みを浮かべながら、首を振る。

「答えの分かっとることを言うものではないぞ」
「爺さん」
「ワシはここにいるさ。ここから一歩も動かないさ」

 境内を見回し、守り神は目を細める。

「ワシはここの守り神なんだ。この土地の人間の守り神なんだ。たとえ誰も覚えていなくてもそうさ。たとえ誰も信仰してくれなくてもそうさ。たとえ誰も思い描いてくれなくてもそうさ。ここを離れたら、たとえ消えなくたって、ワシはもうワシでなくなってしまう。それならずっとここにいて、こうして運命を受け入れた方がええ」

 そう言って、微笑んだまま赤顔を見る。

「お主の知り合いにも、そういう道を選んだ者は多いのではないかね」
「ああ。まあ、そうだがよ」

 赤顔は幻想郷のことを思い出す。
 自分以外にもこの近辺には多くの妖怪が住んでいたはずだが、郷で顔を合わせたものはわずかに二、三人ばかりだった。
 他の者は皆、郷への誘いを断って、ただ静かに消えていったのだろう。
 無機物などはそれこそ無差別に郷へ流れ着くが、意志ある幻想たちには、行くか残るかを選ぶ権利が与えられているようだった。
 ちょうど、赤顔の目の前にいる守り神が、あくまでもこの町に残ることを選んだように。

「お主だって、そうだろう。似たようなことを考えたから、未来ある若い衆だけを残して、一人でここに戻って来たんではないのかね」
「そうだがよ、爺さん」

 赤顔はやりきれずに肩を震わせた。

「こんな生き方に何の甲斐があるってんだ。あれだけ人間のために働いてきておいて、その結果がこれか。いくらなんでもあんまりだ、酷過ぎる」
「いいんだよ。昔から連綿と続いてきたこの土地の人間の血が今後も受け継がれていくのであれば、ワシはもうそれで満足さ。たとえ、彼らを守るのがこのワシでなくてもな。だが」

 ふと、守り神は不安げに眉根を寄せた。

「なあ、赤顔よ。ワシらは本当にいたのだろうかね」
「なんだって?」
「ワシらが人間の想像から生み出されたものであるのならば、ワシらの思い出はどこまで本物と言えるのだろうな。一瞬前にそういう思い出を持たされて生み出されたのだとしても、ワシらには分からんじゃないか」

 守り神の言葉を、赤顔は盛大に笑い飛ばした。

「なにをボケたこと言ってんだ、爺さん」

 体を縛る重圧を無理矢理振り切って立ち上がり、懐からあの木彫りの人形を掘り出してみせる。

「ほら、これを見ろよ。猿の野郎が俺に作ってくれた、ぶっさいくな人形だぜ。俺らはちゃんといたさ。今だっているさ。忘れたんなら、思い出させてやるよ」

 赤顔は人形を懐にしまうと、境内に走り出て、短い手足をばたばたと振り回して無茶苦茶に踊り始めた。
 背後から、守り神の掠れた笑い声が聞こえてくる。

「おい、なんだそりゃ」
「なにって、神楽だよ。昔爺さんのところの巫女どもが躍っていやがっただろ。実は俺らも遠くから覗いててな。どうだい、上手いもんだろ」
「タコ踊りにしか見えんわい、阿呆が」

 くつくつと忍び笑いを漏らしながら、守り神が深々とため息を吐く。

「だが、ああ、思い出すわい。まだワシを祀る一族が生きとった頃。この境内に人間たちの声が溢れていた頃」
「俺たちが元気に暴れてた頃だな」
「そうだ。あの頃は良かったなあ。懐かしいわい」
「ああ、懐かしいな」

 赤顔も、その頃のことを思い出していた。
 自分と、守り神が思い出せる限り、ずっとこうして踊っていようと思った。

「本当に、懐かしい」

 守り神はまどろむように言う。

「ワシに仕えてくれた神主や巫女たち。中にはワシの声を一片たりとも聞き取れんほど力のない者もおったが、それでも一心に祈りを捧げ、心の底からワシの存在を信じてくれとった」

 震える吐息が、耳を掠める。

「ああ、懐かしい。本当に、なつか」

 ぶつりと声が途切れて、からんと乾いた音が響き渡った。
 赤顔は驚き、踊りを止めて振り返る。
 闇の中に佇む小さな社の前には、もう誰もいなかった。
 ただ、守り神がさっきまで握っていた小さな盃が、賽銭箱の前でからからと転がっているだけだ。

「爺さん?」

 呼びかけながら、赤顔は必死に走る。足がもつれて何度も転びながら、なんとか社にたどり着いた。

「爺さん、爺さん。おい、返事をしてくれよ、爺さん」

 周囲を見回して呼びかけてみても、返事はない。
 彼の友達はもういない。どこにもいなくなってしまった。
 今はただ、緩やかな風がつり下げられた鈴をかすかに鳴らすだけだ。
 膝をついたまま黙り込む赤顔の前で、転がっていた盃がぴたりと止まった。
 赤顔はしばらくの間、俯いたまま黙り込んでいた。
 やがて肩を震わせ、背を丸めてくつくつと笑いだした。

「なんだこりゃ。なんの冗談なんだ、これは。ええ、おい」

 笑い声を垂れ流したまま、赤顔は広い額を何度も叩く。

「さんざっぱら頼りにしてきておいて、要らなくなったらゴミ箱へポイか。使い捨てか、俺たちは」

 ぴしゃりぴしゃりと額を叩き、口元を歪め、腹の底を震わせる。
 赤顔は顔を上げ、夜空に向かって咆哮を上げた。

「ふざけるな!」

 叫び、全身に残った力の一片までも使い切ろうとするかのように、境内を走り抜けて道路へと飛び出す。

「ふざけるな、ちくしょう、ふざけんじゃねえ!」

 息を荒げながら周囲を見回すと、歩道を一人の男が歩いていた。街灯に浮かび上がる夜の道を、こちらに気づきもしないまま、あの小さな電話相手に喋りかけながら歩いて行く。
 はらわたが煮えくりかえるような怒りを感じながら、赤顔はその男に向かってがむしゃらに走りだした。

「この野郎が、人の家に土足で踏み入ってきやがって! てめえらいつからそんなに偉くなりやがった!」

 叫び、喚きながら走る。しかし男は振り返らない。こちらに気づきもしない。

「ちくしょう、ちくしょう!」

 歯を食いしばって走る先から、足の感覚が消え失せていく。
 怒りの声は聞こえない。嘆きの叫びは届かない。
 そうしてとうとう、足が完全に消え失せた。赤顔のずんぐりとした体が、無様に地面に打ちつけられる。懐から木彫りの人形が飛び出して、アスファルトの地面をコロコロと転がった。
 それをつかもうと伸ばした腕すらも、伸ばした先から消え失せて。

 ――ちくしょう。

 断末魔の叫びを残すことすらできないまま、赤顔という妖怪は完全に消え去った。



「……ええ、はい。分かりました。それじゃ、また明日。はい、お先に失礼します」

 まだ会社に残っている先輩との通話を切って、その若者は自分の携帯電話の液晶画面をぼんやりと見下ろした。
 もう時刻は十一時を回ろうとしている。明日も普通に平日で、通常勤務のはずなのだが。

「すげえな、先輩。今日も泊まり込みか」

 自分も相当無理をしているつもりだが、上の人間はそれ以上だ。倒れないのが不思議なぐらい。

「ま、仕方ねえよな、こんなご時世じゃ。休んでる暇なんかないか」

 まだマシな自分はさっさと帰って休むとしよう。
 そう考えたところで、こつんと足に何かがあたった。
 ちょっと驚いて見下ろすと、足下に何かが落ちている。
 拾い上げてみると、木の塊だった。いや、何か、木彫りの人形のように見えなくもない、か。

 ――なんだこりゃ。なんでこんなところに。

 困惑して周囲を見回すと、後方に鳥居が佇んでいるのが見えた。

 ――へえ。こんなところに神社なんてあったんだな。

 毎日通っている道のはずなのに、ちっとも知らなかった。前ばかり見ているせいかな、と少し苦笑する。
 折角だから参拝でもしていこうか、と思って、すぐに止めた。
 神頼みなんてのは、弱い人間のすることだ。いもしない神様なんぞに縋る奴は、この過酷な世の中を渡ってなんかいけない。
 そう考え、踵を返して歩き出しながら、さてこの妙な木の塊をどうするべきかな、と若者は考える。人形のようにも見えるが、ただの木片のようにも見えるしで、いちいち警察に届け出るようなものとも思えない。しかし一応マナーはよくしているつもりなので、拾った物をその辺に投げ出していくのも気が進まない。
 そうして思案しながら歩いていると、道端に夜でも明るいコンビニエンスストアが建っているのが見えた。
 ちょうどいいや、と思って近づいて、燃えるゴミ箱の中に木の塊を投げ込む。

「ゴミはゴミ箱に、ってね」

 パンパンと手を払ったあと、うんと腕を突き出して伸びをする。
 こんな小さなことでも、いいことをした後は気持ちがいいものだ。
 鼻歌でも歌いたいような爽やかな気分に浸りながら、若者は住み慣れた我が家に向かって歩き始めた。



 <了>
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